選挙。

2009-08-31 13:09:56 | Weblog
 30歳になって生まれて初めて選挙に行った。18年振り、通っていた小学校に足を踏み入れて変な気分だった。投票場が設けられていた体育館は僕達が使っていた物ではなく、いつの間にか新しく建てられた物だった。それは僕が給食に出た枇杷の種を植えた校庭の端と、それから茶畑を潰して作られていた。周囲に新しい道ができたり、細い道がなくなったり、夜の7時半に見る小学校はまるでどこかの知らない小学校みたいだった。くっきりとした田舎の月明かりに見る運動場は思ったよりも広く見える。閉場時間間際、人気のない体育館を後にして、昼間に来たら誰か同級生にでも会ったのだろうかとぼんやり思う。

 昨日の日記にも書いたけれど、投票よりもむしろ裁判官の国民審査に行ったというほうが気持ちとしては強い。那須、涌井両裁判官に不信任を付けてきました。

 「えらぼーと」で試したところ、最も意見の一致がある政党でも54パーセントしか僕とは意見が一致しないし、さらに分散がとても小さいのでどこの党に入れたいというのははっきり言ってなかった。どこの党も半分くらいはいいなと思うことを書いているし、半分くらいは「えっ」と思うようなことが書いてある。結局のところ、自分で出馬でもしない限り、既製の政党の中からどれかを選ぶというのは妥協の塊になってしまう。
 それでどこに入れたのかというと、多くの人と同じように民主党に入れました。無効票になるようなことを最初は書くつもりだったけれど、一人で無効票を作ったって意味はないし(組織的に、みんなで堀江貴文とか小泉純一郎とかって名前を20%くらいの人が書けばそれはそれで何かが変わると思う)、今回政権交代は起こった方が絶対に面白いとは思うから、小選挙区、比例共に民主に入れた。ぎりぎり自民が逃げ切りました、みたいなことになっても煮え切らないですから。

 ただ、選挙でかなり妥協してどこかの党に入れるというのはあまり気分のいいものではないし、選挙に行ったことを少しだけ後悔しています。回りには「なんとな自民を避けて民主」の人と「大政党に偏るのもどうかと思うから小さいところにもバランス良く入れた」という人しかいなくて、これが果たして本当に「意見」なんだろうかと思った。
 僕は、もしもみんながどこの政党の意見もあまり気に食わないなら、選挙に行くのをやめて投票率をうんと下げる方がいいのではないかと思うのです。あるいは無効票が続出するようなことを。投票率が一桁ならば、そのとき国会のことをもう国会と呼ばなくていい。そして新しい議会を立ち上げたりしたら面白いと思う。今の国会の中での政権交代ではなく、全く新しい国会への政権交代。

 初めての選挙で吃驚したのは、本人確認が行われないことです。僕はてっきり免許証なんかのIDと照合するのかと思っていたら、実家に届いていた紙を渡すだけであっさり投票用紙が貰えてとても驚いた。ネットでの投票を行わない一つの理由に本人確認があったと思うけれど、現行の投票システムの方がかなり怪しいのではないかと思う。これなら僕は同年代の男に自分の選挙権を売ることだってできるし、各年代の男女を数人ずつ雇って投票代行ビジネスだってできそうなものだ。

 あと、今時紙に書いて後で人が集計するって、どれだけ無駄なことをと思いました。電子投票にしないのは明らかに異常だと思う。

 なんだかんだいっても、政権交代が起こって少しワクワクします。

国民審査に行こう!

2009-08-30 12:50:15 | Weblog
 もう選挙の日のお昼なので、取り急ぎ。

 僕達の一票は住んでいる場所によって価値が違います。

 一人一票実現国民会議

 このサイトでは自分の一票がどれくらいの重みを持っているのかが、選挙区を入力すれば分かります。
 僕は衆議院選で0.54票でした(多分最高で1になるように規格化してあると思う)。

 あと、ここには、

『衆議院選挙と同時に行われる「国民審査」で、有権者は、
最高裁判所の裁判官に不信任の票(×印)を投ずる「国民審査権」という
「国民固有の権利」を持っています。

次の国民審査で審査の対象となる9名の裁判官のうち、 2007年最高裁判決の中で、
「一票の不平等を定める公職選挙法は、憲法に違反せず有効である」
との意見を示している裁判官は、下記2名です。

那須弘平裁判官、涌井紀夫裁判官

もしあなたが、上記2名の裁判官の意見に反対の場合は、
あなたは、国民審査で、那須裁判官、涌井裁判官に不信任の「×印」を投票できます。』

 とあからさまに、もしかしたら多くの人が気になっているけれど調べようと思わなかった情報が書かれています。
 僕には実は入れたい党が一つもないのですが、この両裁判官には不信任を付けたいなと思う。

日本の農業。

2009-08-28 15:44:08 | Weblog
 僕の祖父は元々兼業農家で、仕事をやめてからもお米を少し作っている。見ていて思うのは、少しだけ田んぼを持ってお米を作ることにどれだけメリットがあるのだろうということだった。もちろんお米がたくさんあって、いくらでも食べられるのは嬉しいけれど、1年中田んぼの管理をして得るにしては少なすぎる利益だし、出荷もそんなに沢山はしていないと思う。実感として、これだけの土地からこれだけのお米ができるということは、僕も手伝いにいったことがあるので知っている。お米の大体の値段も勿論知っている。つまり一年掛けて、さらにトラクターなんかを購入してまで得られる利益の大きさというのが、大体肌で感じられるのだけど、それはとても小さい利益に思える。だから、僕はどうして祖父が米作りを続けているのか全く理解できなかった。ときどき、農地と宅地での税金は異なるだとかそういう話を聞いたけれど、決定的なのはそういうことじゃなくて、詰まるところ只の年寄りの頑固で続けているのだと思っていた。なんだか良く分からないけれど、自分の祖父だけではなく、田畑のたくさんある田舎で育った者として、周囲の兼業農家の人々がどうして米作りを続けているのか子供の頃からずっと不思議だった。

 農業というものに、僕はずっとほとんど何の興味も持っていなかった。農業というのは自分とはあまり関係の無い世界で、自分がそこに手伝い以上の形で関わることはないだろうと思っていた。
 少しくらい農業に興味を持つようになったのは、随分と大人になってからのことだった。流れとしてはありがちだけど、ヒッピーのコミューンなんかに憧れているうちに自給自足だとか有機農法だとかに少しだけ興味を持つようになった。僕達は食べ物を食べて生きているのだから、明らかに農業が世界で一番大事な業種だと思うようになったりもした。自分達の食べるものを自分達で作る、というのがなんかいいなと思うのは今もそんなに変わらない。でも、その「自分達」という枠をもっともっと大きく広げるのも悪くはないなと最近では思っている。自分の畑で、自分の村で取れたものでなくても、遠く南米で取れた野菜を自分達の野菜だと形容したっていいかなと少し思う。

 食料自給率を上げたいという人々の気持ちはとても自然なものかもしれない、でも、実は僕はそれには素直に賛成できない。日本での農業利権の話はときどき出てきますが、先日のちきりんさんの記事がとても面白かったのでリンクしておきます。
 農政にみる民主主義の罠

 ついでに食料自給率の記事も、
 食料自給率100%の世界

we like hammocks!!!

2009-08-27 20:02:25 | Weblog
 ヘネシーハンモックが欲しくて仕方ない。
 http://www12.ocn.ne.jp/~nature1/hen.htm

 これはサイトに書いてあるコピーです。

 『Hennessy Hammock ヘネシーハンモック
  それはハンモック、それはイス、それはソファ、それはテント
  、、、、それは スーパーシェルター!』

 このテントのようなハンモックがあれば、もう平らな地面を探したり、雨対策の溝を掘ったりしなくても大丈夫だし、何より空中に浮かんでいるのがいかにも楽しそうです。

 夏の終わりになって、今頃アウトドア志向が戻って来ました。
 もうすぐOがトルコに帰るので、そのお別れ会としてバーベキューを琵琶湖でしようという話が出ていて、最初は僕もすんなりと「琵琶湖でバーベキュー」と思っていたのですが、「琵琶湖のどこでするか考えよう」と言われて考えているうちに、別に琵琶湖じゃなくてもいいんじゃないかと思い始め、ウェブを色々と見ていたら奈良県天川村にあるコテージを発見し、それに魅せられ、急遽「コテージで一泊」ということに予定を変更した。

 日も迫っているし、そのコテージは人気みたいだし、電話しても当然のように「一杯です」と言われたので、京都近郊にあるコテージを調べ上げて電話して滋賀県にある良さそうなところを予約しました。そこも昨日電話したら満室だと言われたのですが、今朝もしやと思って電話してみるとキャンセルが出ていたので、電話口で思わず「やった」と短く快哉を上げてから予約をお願いした。

 僕は子供の頃キャンプがとても好きで、裏庭にも公園にも、もちろん川や山や海にもテントを張ったりした。テントを始めて買ったときは嬉しくて部屋の中でもテントを張っていた。小学生の頃使っていたドームテントがどうなったのかは覚えていないけれど、でも中学生のときに近所のDYIショップで買ったテントがあって、実は僕は未だにそのテントを使っている。本当に安いテントだと思うけれど以外に壊れないものです。寝袋も小学生か中学生のときに父親が買ってきてくれたものを今でも使っている。
 会社から帰って来た父が寝袋を取り出して見せてくれたときの嬉しさは今も忘れません。そういえば今まで全くどこの寝袋を自分が使っているのか注意していなかったけれど、子供ながらにとてもちゃんとした製品だということが分かるものだった。

 父はときどき、誕生日やクリスマスに関係なく何かを買ってきてくれたけれど、寝袋が一番嬉しかったかもしれない。振り返ってみると彼がくれたものは僕の人生に多大な影響を及ぼしている。玉石混合で大量の本が入った紙袋。その紙袋を堺に僕は大量の本を読むようになった。中に一冊だけ科学の本が入っていて、僕は曲がりなりにも科学を志すことになった。ボクシンググローブは武道を始めるきっかけになっているし、サッカーボールは嫌というほど蹴って今でも一番好きなスポーツはサッカーだし。化学実験セットや電子工作セットやジャイロ制御の飛ぶラジコンだとかは言うまでもない。なるほどそういうことか。

 コテージに話を戻すと、僕は小さな頃「テントではなくバンガローやコテージに泊まるなんてアウトドアでもなんでもないし、軟弱者のすることだ」と思っていて、いつの間にか意識からバンガローの存在を完全に消していた。だから、今回バンガローに泊まってもいいのではないか、と思ったとき本当に驚きました。今はバンガローを借りるとトイレもお風呂も台所もエアコンもあって快適だし、ホテルよりも自由だし、みんなでまとめて泊まれるし別荘みたいで楽しそうだ、と思う。だからつい先日まで長い間どうしてバンガローに泊まろうというアイデアを持つことがなかったのかとても驚いたわけです。自然と意識から外しているものが他にもきっと沢山あるのだろうなと思う。

space in the pot.

2009-08-24 14:25:26 | Weblog
I found an interesting story on the web.
I agree with this story only on some parts, not all.
But this is a very good example of "How strongly a metaphor can have a persuasion".
This story was written in Japanese. Kinda Japanese I don't like. Then at first I was gonna rewrite with another taste Japanese. But somehow it looks not good and I translated the story to English.

Basically a metaphor is just a metaphor.
Of course, there is an analogy, quite fine similarity between FACT and METAPHOR.
But still a metaphor is a metaphor, not real fact. So sometimes metaphors don't explain anything, logically at all. Though we could lost the point of story, logic of story, when we listen metaphors, and metaphors gain over us. Terrible, indeed. I sometimes point out "now do you really need such a metaphor? I think your metaphor is nothing for now and you don't need to use a metaphor. Fact is enough to explain or understand. Could you talk about just facts without any metaphors"
Metaphors could help us understanding. At the same time, could be tools to con. Con not only people, but also himself. Because he might assume metaphors are logic without thinking.

HERE THE STORY STARTING________________________________

One day, the professor put a pot on the desk and say "time to a quiz".
He put several big stones inside of the pot, till he filled it.
Then he asked a question to his students.

"Do you think now this pot is full?"

No student answered it and immediately the professor answered it by himself.

"Of course NO"

He pulled out a box that had many small stones. He started put these small stones in the pot, till he filled the pot with small stones.

"Well, now I'm asking the very same question again. Is this pot full?"

This time, a student answer the question.

"No"

"You right, we have still space inside of this pot"

The professor pulled out another box. This box was filled with sand. Yes he put sand in the pot. Next he got out water.

" Now you know what I'm doing"

He put water in the pot.

" And do you know what I mean with this cheap show? What I wanna say?"

One student raised her hand.

"I guess, you mean we can find enough time to do something even if our schedules look full"

"No. Forget about your schedule or something like that. Just I wanna say that you should get it first, you should get big and important things for you first. Only first time you have enough space to keep them. After filling with tiny craps, you can never get something you really need. Remember this order. Don't fill up yourself with small things when you are young"

____END_________________

曖昧な未来の天気。

2009-08-21 14:57:55 | Weblog
 先日、あるシンポジウムで統計学の専門家が

「電話調査にしても、インターネットの調査にしても、世論調査にはそれぞれ調査対象となる母集団に偏りがあって、でも各機関、その偏りを出来る限りなくす努力はしていて、もうできる限りのことはしているわけですからもう仕方ないわけです」

 というようなことをおっしゃっていた。例えば電話なら固定電話にしかかけないことになっているので、若者は既に弾かれている、みたいな偏りのことです。
 これは、もっと端的に書き換えると、

「偏っていて間違っているけれど仕方ないから使いましょう」

 ということで、そんなバカな話はないだろうと僕は思います。

 各機関でできないのなら、いくつかの機関で協力してデータを集計してということだって本当ならできるはずだ。電話調査とネットの調査を混ぜたり色々できるのではないだろうか。

 うちではこれで限界だから、間違ってるのは分かっているんだけど、まあ仕方ないからさ、みたいなのは意味が無いだけじゃなくて有害だと思う。それならはっきり我々だけでは意味のある世論調査はできません、と言うべきだと思う。意味ありげに新聞に載せてコメンテーターみたいな人に分析させて人々に聞かせるというのは出鱈目にもほどがある。

 これと似ている物に天気の週間予報があります。
 1週間先の天気なんて現代科学では全く予測できないのに、正々堂々と今週の土曜日は雨です、みたいなことを発表しているわけです。土曜日になるまでに、この予報は何度も変化する。昨日雨だと言っていたのに、次の日にはすっかり忘れて、晴れです、とかなんとか。結局まともな予報ができるのは金曜くらいになってからで、それまでの予報には全く何の意味もなかったわけです。

 なのに、どうして週間天気予報はなくならないのだろう。
 明日と、せいぜい頑張っても明後日の天気がなんとなく分かるくらいが関の山なので、申し訳ないけれど1週間後の天気は分かりません。だから今日からもう週間天気予報はしません。とでもアナウンスしてやめればいいのになと思う。

  

one.

2009-08-17 12:39:01 | Weblog
 こんなに奇妙なお盆は初めてのことだった。
 激しいノックの音で目を覚まし、ドアを開けると2人の友人が廊下に立っていた。女の子は泣くじゃくり、男は真剣な表情で僕の助けが必要だと言った。そして2人とも裸足だった。
 朝6時15分。僕の8月16日はこうして始まった。

 残念ながら事件の詳細はここには書けない。僕はそれから1日を全力で過ごした。午前中はほとんど警察や警備との間に入って通訳をしたり、できる捜査はした。警官は予想通り全く非協力的で何の役にも立たなかった。僕自身、現場の保存について感情的になって失敗した点があるけれど、それに関しても警官は一緒にいたわけだから助言してくれれば良かったと思う。彼らはただやってきてうろうろして、僕達が必死になっているのを見ているだけだった。何かを頼むと令状がないと我々はなんにもできないから、それに変に国際問題とかになっても困るし、というようなことを言うだけだった。それどころかどちらかというと被疑者の肩を持って、もう証拠もないし終わりにしようと僕を説得しようとした。警官はただそこにいて、被害者の泣きじゃくっている女の子とその友人である男、僕が捜査めいたことをするというわけの分からないことになっていた。

 男は前から決まっていたように今日が帰国の日で、1段落したあと、シャトルに乗る彼を見送った。奔放で気丈な男がシャトルの中で顔を覆うのを見て僕達は強い悲しみに包まれた。昨日は別の仲間を送り出したところだった。まだコートを着ていた寒い春先、偶発的に集まり出かけた8人はチームだった。ワインを飲みながらカニ座が多いからカニチームという名前にしようと下らないことを決めて、そしてこれから素敵なことがたくさん起こるに違いないと思った。春と夏は一瞬のように通りすぎ、僕達は未来に再会することを誓いながら日に日に少ない人数で友人を見送る。
 
 夜は久々に会う人々や初めて会う人々と2時間ばかりあって大文字を見た。
 これまで大しかみたことがなかったけれど、はじめて鳥居を除く全部を見た。
 送り火が燃え尽きると季節は夏ではなく夏の終わりに変わる。生きる者も死んだ者もどこかへ帰っていき、僕達はまたみんなで会うことができるのだろうかと思う。

セラピー的な動物園。

2009-08-13 12:32:28 | Weblog
 先月から大学の美術工芸資料館で、造形工学科の先生達がデザインした製品、模型などが展示されていて、それを見に行ったときにどうしてか旭山動物園の話が出た。僕は、このブログにも何度か旭山動物園の悪口を書いているように、あまりこの動物園にはいい思いを持っていない。というか元々が動物園自体にいい思いを抱いていない。あんな風に遠いジャングルや草原から捕まえてきた動物達を狭い檻の中で見世物にする施設が、どうして普通に受け入れられているのか全く理解できない。

 旭山動物園は、動物の習性をうまく利用した動物園として有名になったわけだけど、僕はもうその「習性をうまく利用した」というのがとても嫌だった。見に来た人々の頭が水面から顔を覗かせたアザラシの頭に見えるように設計されたシロクマの水槽。シロクマは人の頭目掛けて水の中に飛び込んで、そしてあの力強い前足でいくら叩いてもけして壊せないような分厚いアクリルにぶつかる。人間の子供達はその様子に大喜びする。すごい迫力だとかなんとか。
 オランウータンは地上高くに張られたロープを、遠くに置かれたエサに釣られて長い距離渡り、それを見上げる人々はここでも流石サルだと大喜びする。

 こういうのって、良いとか悪いとかいう以前にいびつだなと思う。オランウータンの新しい住処を作るときの様子がテレビで流れていて、動物園の人が「オランウータンは手の力がものすごいので、触れるところにボルトやナットがあると指で回して開けてしまうかもしれないので心配です」というようなことを話していた。彼らだって外に出たいんだよ。高い木の上で生活する動物だから、高い所で移動できるようにして環境を再現しました、みたいなことを言うけれど、だからなんだという話だ。

 小沢健二の「セラピー的」という言葉を借りるなら、旭山動物園はセラピー的な動物園だ。動物園って動物を閉じ込めて見世物にしてなんか嫌だなあ、と思う人に「なるべく動物が暮らしている自然な状態を再現しました。だからほら、動物達の本来の習性行動が現れています。それを見るほうが人間だって、寝ているだけの動物を見るよりも嬉しいわけですから、動物の生活環境もよくなって人間もより楽しめる素敵な動物園なわけです」と囁いて丸め込もうという魂胆にみえる。動物園を作る人がそういう意地悪なことを考えているわけではないと思うけれど、背景にそういう思想があることは否めないんじゃないだろうか。

 動物達の生活環境が改善されても根本的な問題は解決されていない。ジャングルや草原から捕まえて運んできたり、狭い檻の中で繁殖させたり、そういうことをやめない限り問題は解決しない。
 でも、こういう新しい動物園ではこれくらいマシに動物は暮らしています。ということをアナウンスされると、新しい素敵な動物園の誕生ですとテレビで楽しそうに放送されると、人々の感じる痛みはいくぶん和らぐ。そしてまあいいかと問題の本質を忘れた気分になる。

 とても残念なことだけど、僕がこうしてこういうことを書いているのもセラピー的だ。ここでごちゃごちゃ書いても何にも解決しないのに、誰か読んでくれた人が何かを考えたりしてくれて、そういう考えが伝播して何か起こらないとも限らないとか、そういう慰めを自分でしていることを告白しないわけには行かない。

 セラピー的な行動とセラピー的な生き方。
 心の底では現実は変えられないと信じ込んで、一応は変える為の行動を中途半端に行って、それで心の痛みを紛らわして「仕方がないんだよ」と騙し騙し生きていく生き方。心の一番底にあきらめのある生き方。
 そういうのをアメリカではプログラムで大衆の心に植え付けた。日本がどうかは知らないけれど、そのアメリカの属国とまで言われているくらいなわけだから影響を受けていないとは考え難い、僕達は自分の心の中にある、人生に対する不安やあきらめの出所を、極々自然なものだと思うのではなく、もしかしたら人為的に植え付けられたものかもしれないと疑った方がいいかもしれない(歴史を辿らなくても保険会社がスポンサーについたテレビ番組に煽られた不安かもしれない)。少なくとも、それは不必要な不安やあきらめかもしれないと疑うことはとても重要だと思う。怖くて当たり前だとか、つらくて当たり前だとか、そんなのどこに根拠があるというのだろう。

『僕はこの世を楽園だと思っている。そして、人間がこの楽園に生まれてきた理由はただ一つ、ここで子供のように、思いきり遊ぶためだ』
 ヘンリー・ミラー
 

ブッダならこう言うね!

2009-08-10 16:15:47 | Weblog
 自分がとった行動について人が理解してくれないとき、それで説明するとなるととても話が長くなってしまう場合、何かパッと説明できる、少なくとも相手をなんとなく納得させることができる言葉がないかな、と思って考えてみると「仏教」という言葉が浮かんだ。

「なんでそんなことされたのに怒らないの?普通怒るでしょ。なんで?バカなの?怒らないなんて情けない」

「仏教徒だから」

「どうして肉食べないの?」(別にベジタリアンじゃないけれど、あまり好んでは食べない)

「仏教徒だから」

 そうか、僕は仏教徒だったのか。
 うん、これは便利だ。本当は全然説明になってないけれど、でも世界中でこの返答は理解されるだろう。ましてや日本人相手なら仏教に対する漠然としたイメージはあるからきっと理解される。

 そして、仏教というのは懐が無限に広いので、実際にはどんな場合でもこの答えが使える。

「どうしてクラブに行くの?」
「仏教徒だから」

「どうしてキリスト教徒なの?」
「仏教徒だから」

 どの問いに対する答えにも成り得るというのは、それが何の意味も持たないということだけど、意味を持ち同時に意味を持たないというのはとても仏教的だ。そして僕達は仏教的でないものこそ仏教的だとも言える。

カラフルな外套を着た二人。

2009-08-09 20:46:01 | Weblog
 少し強めの雨が台風に変わったという話だ。僕の窓のすぐ外では、4階の高さに張っている細くてしなやかな木々の枝がザワリザワリと、いかにも嵐に似た音を立てて、それで木々という生き物がまるで動物のように見える。キリンを庭に飼ったらこんな気分なのだろうな。風に揺れること、意思を持って動くことはどれくらい違うことなのだろう。昼間に音の壁ができるくらいに鳴く沢山の蝉達はそれでも枝にくっついているのだろうか。


 夕方、雨が止んでいたので、とても久しぶりに図書館へ行った。平安神宮の前を通るとやっぱり沢山の観光客がいて、女の子のグループは飛び跳ねた瞬間をシャッターに収めようとタイミングを合わせて高く飛んだ。

 借りたかった本を借りて、本をいくつか物色しているとすぐに閉館時間が来て、最後までいた多くの人々に紛れて外へ出ると雨が降っていた。傘を持つ人々は立ち去り、持たない人々は屋根の下で空を見上げていて、僕は空を見上げる人々の方に加わった。少しすると司書の人が傘をいくつか持って現れて、よければどうぞ、次回いらしたときに返してくださればいいですから、と親切を言って下さるので喜んで借りる。半分くらいの人は薦められても、いいです、と言って断っていた。返すのが面倒なのだろうな。それに空は比較的明るくて雨はすぐに止むだろうし。

 傘を差して自転車に乗り、丸太町を通るとき、なんとなくカイラスレストランへ行ってみようと思う。小沢健二が「うさぎ」を連載している「子どもと昔話」を前から読みに来ようと思っていたからだ。いつも誰かと一緒だったので、本があることは知っていたけれど読む機会がなかった。

 隣の席では女の子2人が、ときどきだけ喋って、後はお互いに自分の読書に没頭していた。僕は他ではまず食べることがないのに、どうしてかここでは注文してしまう御萩を食べながら、お茶を飲んで「うさぎ」を読んだ。

 7話の途中まで読んでお店を出て、それからガケ書房へ初めて行ってみる。ガケ書房の前はもう何度も何度も通っているけれど、僕はあまりこだわり系文化系の本屋が好きではないので一度も入った事がなかった。ケイブンシャにだって単に近いから行くだけで、本当はジュンク堂みたいな大型書店が在ったほうがずっと嬉しい。本屋さんなんて大きければ大きいほどいいし、出版社や作者や分野ごとにさえ並べておいてくれれば、気の利いたポップなんてなくても、セレクトコーナーなんてなくても自分で自分の本くらい選ぶ。

 雨の中、店の前に自転車を止めて、お店に入ってざっと店内を見ると、一番目立つところにある平台に「今のおすすめ」的な感じで小沢健二の「企業的な社会、セラピー的な社会」が置かれていてびっくりする。

 僕はこんな本が売られているなんて全然知らなかったので、表紙に小沢健二と書いてあっても一瞬ピンと来なかった。そして、中を見てみるとこれはさっきまで読んでいた「うさぎ」の本編では語られていない部分ということだった。
 全く驚いたことに。
 こういう驚きは他の人とは共有されにくい。
 主観的にはなんとなくふらっと「うさぎ」を読みに行って、その帰りに今まで見向きもしなかった本屋になんとなく行ってみようという気になって、実際に行ってみたらそのお店が今まで読んでいた「うさぎ」の番外編みたいなのをプッシュしていた、というのは結構な驚きなんだけれど、人に言っても「へー、そうなんだ」で済まされるのは想像に難くない。

 もちろん僕はその本を買った。その本はあまりきれいに製本された本ではなくて、ISBNもなかった。何冊かの本を立ち読みして、そこから多くを学んで、やっぱりお店でもなんでも毛嫌いするのは良くないなあと思う。