インフルエンザ予防接種のこと;『予防接種は「効く」のか?』の紹介

2014-12-06 13:19:45 | 書評

(追記、2014年12月8日)
 この本は都合悪いことは書いてない、と指摘を受けました。
 書きなおすか削除を検討します。




 インフルエンザの流行が、また例年通りにやってきて、予防接種の話もそこここで聞かれるようになりました。僕は子供のときからずっと「科学」が好きで、それなりに科学に触れながら生きてきて、ある程度は科学的な知識を持っていると思います。でも「インフルエンザの予防接種を受けるべきかどうか?」とか「効果あるの?」とか、そういう話題には何も答えることができませんでした。インフルエンザだけではなく医療に関わることは複雑で統計的な処理をしないと効果が見えにくく、さらに人間というのはそれぞれの体も違えば生活環境も一人一人異なっているので、俺はこうだった、私はこうだった、という体験談も様々。マスメディアは”噛み砕いてわかりやすく”、さらにセンセーショナルに話題を流そうと躍起になっていて、聞きかじった噂はインターネットを飛び回り、それこそ感染症のように情報空間を広がります。
 医学会からの情報にすら、「医者の金儲けの為だ」「インパクトある論文にする為だ」とかケチがツケられて、もう人々は彷徨い誰かの耳障りよい言説を信じて終わりにしたい気分になります。もしも個人にスーパーマンのような力があれば、医学の歴史上行われてきた全ての先行研究を追試して、なんてこともできるだろうけれど、現実的にはありえない。それどころか、ある1人の市民にとってみれば「一次資料を当たって分析」なんてこともしてられない。本音としては「信用できる専門家に信用できる話をしてもらいたい」。安直な方法だし、危険な方法です。「信じる」というのは危険です。けれど、僕達は「あらゆることに関して何も信じないで俯瞰的に全ての情報源を分析していく」なんてことはできません。現実的には僕達はどこかで妥協しなくてはならない。ホテルに勤務している人が上司から「インフルエンザの予防接種をして来るように」と言われて、今日医者へ行って打つかどうか判断しなくてはならないかもしれない。そんなときに世界中の歴史上の全論文を取り寄せて分析するなんてできない。「疑念」というものを片隅に保管したまま、一旦は誰かの信用できそうな意見を採用してみなくてはならない。それは答えではないかもしれないけれど、当面は使える足掛かりになります。

 僕が「とりあえずここを足掛かりにしよう」と思ったのは、岩田健太郎『予防接種は「効く」のか? ワクチン嫌いを考える』という本です。
 著者の岩田先生は感染症の専門家で、僕は2011年に神戸で開催された『災害時のリスクとコミュニケーションを考えるチャリティシンポジウム』でお話をきかせて頂いたことがあります。その時のお話の様子から、僕はこの人は信用できるなと思いました。もしかしたらこのときに実際に見ているので親近感が湧いているだけかもしれませんが、誰に対してでも会えば親近感が湧いたり信用したくなったりするわけではありません。

 
 この本の「あとがき」から引用させて頂きます。

<ある種の人たちはどうして、あんなにワクチンを憎悪するのでしょうか。そのことを考えてきました。
 ワクチンを否定したい、という気持ちそのものを、僕は否定するつもりはありません。誰にだって好き嫌いはあります。僕にもあります。
 (中略)
 ただ、大人であれば、「好き嫌い」の問題は顕在化させてはいけません。絶対に慎み深く隠蔽し、なかったかのように振る舞わなければいけません。「ぼくにんじん、きらーい」とか「私、けんじくんなんて大嫌い」といったステートメントは、子どもにだけ許された特権なのです。おとなは「好き嫌い」を口に出すことは許されないのです。
 そのような抑圧が、ゆがんだ形で表出されることがあります。「わたし、けんじくんなんて大嫌い」なんて子どもっぽい振る舞いを大の大人がやってはいけないから、「けんじくんの見解はいかがなものか?」と話法を変えてみるのです。「好悪の問題」を「正邪の問題」にすり替えるのです。前者は個人的な主観ですが、後者は客観的な事実関係を扱っている(ように見える)。
 (中略)
 「ワクチン嫌い」の言説は、好き嫌いから生じていると僕は思います。最初は好き嫌いから始まり、そして「後付けで」そのことに都合の良いデータをくっつけ、科学的言説であるかのように粉飾します。都合の悪いデータは罵倒するか、黙殺します。
 (中略)
 本書ではワクチン問題の「好悪」の部分と「正邪」の部分を切り離すことに、エネルギーを費やしました。ある程度は成功したと思います。
 僕はみなさんに、「さあ、みなさんもワクチン打ちましょうね」とプロパガンダをぶち上げているわけではありません。
 手持ちのカードは開陳されました。あとは、読者のみなさんが、自分の頭で考え、自分の意思で決断するだけです。>

 プロパガンダをぶち上げてはいないですが、副題の「ワクチン嫌いを考える」からも読めるように、「打てとは言わないが、毛嫌いもどうかと思う」と、毛嫌いしていた人にとっては「打つ」寄りに感じられる本かもしれません。
 ここでの「好悪」というのは、「面倒」で置換可能ではないかと思いました。好き嫌い以前に、予防接種を受けるのは面倒です。病気でもないのにわざわざ病院へ言って、時間もお金も掛かります。しかもちょっと痛いし、体に「異物」を放り込まれる。予防というのは何事においても面倒でアホらしくて、時にかっこわるい気もするし、できれば御免被りたい。何かが起こってからそれを「治療」とか「修理」とかしてもらうことには感謝できるけれど、何も起こらないうちから「虫歯にならないように歯磨きしなさい」とか「乗る前にタイヤの空気を点検しなさい」とか言われると、「うるせーな、そんな面倒なことやってられっかよ」となってしまう。

 だから、僕達は最初から「ワクチンなんて意味ない」と思いたいバイアスを持っていると思います。
 意味があるんだったらわざわざ病院に行かなくてはならないので、誰かに意味ないから打ちに行かなくていいと言って欲しいのです。それでインフルエンザにかかったら、どうせ予防接種をしていても掛かっているはずだから、とあきらめが付くので問題ありません。「インフルエンザの予防接種には意味が無い」と信じた方がイージーで快適なのです。妊娠の可能性とか超絶に楽しみな旅行前とか「絶対にインフルエンザに掛かりたくない」と思っている人以外にとって、予防接種というのはそういう心乱される選択肢だと思います。僕の場合はそうでした。
 この本は、まずそこを解く一助となってくれます。
 インフルエンザの予防接種を受けようかどうか迷っている人や、職場の上司に受けろと言われた人とか、この季節、予防接種が若干の悩みのタネになっている方も結構多いのではないかと思ってこの記事を書きました。
 この「心悩ませる余計な選択肢」みたいに見えているものが、ものすごい数の人命を救ってきた医学者たちの真摯な努力と叡智と覚悟の結晶であることを、「めんどくさい」の前に、もう一度振り返っても良いのではないかと思います。

予防接種は「効く」のか? ワクチン嫌いを考える (光文社新書)
岩田健太郎
光文社

Nanto Mohaya Portlandというポートランドを紹介したジンの紹介

2013-12-17 20:34:51 | 書評
 "Nanto Mohaya Portland" ( https://omoshirocool.stores.jp/ )というジンの存在をTwitterで知り、注文して読んでみました。
 念の為に書いておくと、日本語のジンです。
 とても良いジンだったので紹介したいと思います。
 現在手に入る「ポートランド」をテーマにした日本語書籍の中で、”1番ちょうどいい!”ものではないかと思います。

 最近、僕はポートランドに強い興味を持ち、移住を射程に入れて情報収集していて、その一環でこのジンも注文しました。
 6月には実際に訪ねてみる予定です。

 ポートランドは、LAやNYみたいに、誰もが知っているアメリカの都市ではないので、先にどのような都市なのかイメージを持って頂く目的も兼ね、"Nanto Mohaya Portland"の1ページ目を引用させて頂きたいと思います。

 ________________
   ポートランドのうわさ。
  
  ・クリエイティブな若者が住みたい街ナンバーワンらしい
  ・アメリカで最も環境にやさしい街らしい
  ・アメリカで最も自転車にやさしい街らしい
  ・アメリカで最も美味しいクラフトビールが飲める街らしい
  ・アメリカで最も外食目的で出かける価値のある街らしい
  ・チェーン店よりも地元のビジネスを大切にする街らしい    ・音楽や美術をはじめ芸術全般がとても盛んらしい
  ・活気あるコミュニティがたくさんあるらしい
  ・近くにアウトドアを楽しめる大自然がたくさんあるらしい
  ・近くにレベルの高いワイナリーがたくさんあるらしい
   などなどなどなど…

  これらのうわさを聞いて
  「なんだその面白そうな街は!」と思い
  自分で大変しにいってみることを決意

  ちなみに、うわさは全て真実だったのでした  
 ________________
 
 これらの噂に惹かれた著者、荻原貴男さんが、実際にポートランドを訪ね、見聞きされたことを30ページ程度のジンにまとめられたものが、この"Nanto Mohaya Portland"です。
 紙面のデザインも、文章もとても上手で、丁寧にデザインされていることが伺い知れます。
 フルカラーで、写真がふんだんに使われています。
 
 目次も紹介させて頂きますと、
 _____________
  1,なぜポートランドに心惹かれたのか
  2,ポートランドの魅力概論
  4,ポートランドってどこ?
  5,5つのエリア
  6,優れた公共交通
  7,自転車の街ポートランド
  8,ポートランドファーマーズマーケット
 12,フードカート
 14,ビール好きの楽園ここにあり
 16,本好きの聖地パウエルズブックストア
 18,zine - 個人が作る小冊子
 20,IPRC
 22,オモシロリスト ポートランド
 27,ポートランドブックガイド
 28,ポートランド看板デザインコレクション
 _______________
 という構成。

 27ページの”ポートランドブックガイド”でも紹介されている「グリーンネイバーフッド」は、日本で出版されている、ポートランドに関する一番有名な本ではないかと思います。
 まだ精読はしていませんが、この本の前書きには「(日本で)長い間通っていた飲み屋で常連客と仲良くなって話をするようになり、足が店から遠のくようになった」というようなこと書かれています。

 僕は、この感覚がとても良く分かる気がします。
 馴染みの、常連のお客さんと仲良くなって、お店に行って人々と話すのは、どちらかというと「良いこと」だとは思うのですが、少なくとも僕はそういうのを面倒に感じます。そうでない場合も極稀にあることはありますが、大抵の場合「なんか面倒」になって来ます。

 今、「地域」とか「コミュニティ」とかで「人と人が出会う」ということがアチラコチラで叫ばれていますが、ひねくれているのか僕はそういうのがあまり好きではありません。
 建築の動線設計で、「人と人が出会う空間」とか書いてあると、イラッとします。

 だから、程度の差はあっても、僕は「グリーンネイバーフッド」の著者の方と似たような傾向を持っているのではないかと思い、その方が続けて「ポートランドにはそういう嫌な感じもなく上手くいってる、この街に一歩足を踏み入れて興奮した」というようなことを書かれているので、それだけでもよりいっそうポートランドのことが気になるようになりました。

 ただ、この本では都市設計のことに重点が置かれているので、訪ねたり住んだりしたときの空想に役立てるにはちょっと話が違う感じがします。
 その点、"Nanto Mohaya Portland"は、「ちょうどいい!」です。ざっと目を通すと、「ああ、素敵な街があるんだなあ」というすっきりした気持ちになります。全体を流れる透き通った空や水のような雰囲気が、ポートランドという街の心地良さをこちらへ伝えてくれます。行ってみたい、と素直に思いました。
 これから、誰かにポートランドのことを知りたいと言われたら、まずこのジンを読んでみるといいと答えることになりそうです。

 最後にポートランドに関する書籍の紹介をしておきます。

From Oregon With DIY
エディトリアル・デパートメント

 雑誌"Spectator"のポートランドがフィーチャーされた号。
 情報が「ヒッピーの残り香」に偏っている感じで、自然も大事にしてるハイテク都市みたいな部分があまりなく、ちょっと期待はずれでした。まあDIYと書いてあるので当然といえば当然ですが。



The Mighty Gastropolis: Portland: A Journey Through the Center of America’s New Food Revolution
Chronicle Books

 英語で書かれた本で、これはポートランドの食に、その豊かさと自由さに焦点を当てたものとなっています。アメリカっぽいというか、ほぼ全員タトゥー入ってます。



グリーンネイバーフッド―米国ポートランドにみる環境先進都市のつくりかたとつかいかた
繊研新聞社

 本文中でも紹介した本です。

 

 

書評:『死刑』 森達也

2013-06-13 18:48:50 | 書評
死刑 (角川文庫)
森達也
角川書店


 知らないことがたくさんある。
 もちろん、そんなことは常識だ。僕達はこの世界のことをほとんど何も知らない。知らなくても(たぶん)問題なく生きていけることも知っている。日々の糧を得るために会社にでも行き、決められた仕事をして帰り、給料で食べ物を買い家賃を払う。結婚して子供が生まれると、自立と家族を手に入れた一人前の人間だと社会的な認知を受けて、あとは特に疑問を抱かなくとも死ぬまで惰性で暮らせるだろう。僕達の社会ではそれを幸福と呼んでいる。

 もしも、知らずとも幸福に暮らし生涯を終えることが可能であるのなら、世界を知りたいという欲求は一体どこからやって来るのだろうか。

 多くを知れば知るほど、きっと日常生活は崩壊する。約束されていた幸福は彼方へ飛び去る。目の前に置かれた快楽を提供するはずの装置が、途端にガラクタに変化する。
 たしかにこれらは精巧にできていた。一部は本当に僕達の為に作られたものも混じっている。しかし、大半がただの作り物で、彼らの為に作られたものだった。まったく良くできた動物園だ。旭山動物園とでも名付けておこう。違う、人間園か。
 あそこで飼われているシロクマは「その習性に従ってガラス越しの人間をアザラシと勘違いして勢い良く跳びかかる」というショーを披露するらしい。食べ物を取るという動物としての本能を下らないショーに利用されている。窓越しに見えているのはアザラシではなく保護された人間達の頭部で、人間とクマを隔てる分厚いアクリルガラスは絶対に破れないことが計算済みだ。彼の爪は永遠に獲物に触れることなく、ただピエロを演じた見返りに人間からエサをもらって生き延びる。丁度、僕達がそうしているように。

 エサはエサだ。
 いつまでもそんなものばかり食べていられない。
 だから僕達は世界を知りたいと思う。
 分厚いアクリルに穴を穿つための道具を手にしたいと思う。

 前書きが長くなった。
 僕は自分がどうして『死刑』だなんて重々しいタイトルの本を読みたいと思ったのか、自分では良く分からない。どうして死刑なんて、如何にも重苦しいことを知りたいと思ったのだろうか。
 
「人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う」

 という副題がなければ手に取らなかったかもしれないし、森達也が書いたのでなければ読まなかったかもしれない。はっきりしていたのは、死刑というタイトルを見た時、自分が「そういえば死刑について何も知らない」と思ったことだ。

 「何も知らない」は自分が想像していた以上の「知らない」だった。

 まず、僕は死刑制度は比較的「常識的」なものとして世界に広く存在しているのだと思っていた。
 ところが現実に死刑のある国、死刑存置国は世界に58カ国で、国名を列挙すると

 アフガニスタン、アンティグアバーブーダ、バハマ、バーレーン、バングラデシュ、バルバドス、ベラルーシ、ベリーズ、ボツワナ、チャド、中国、コモロ、コンゴ民主共和国、キューバ、ドミニカ、エジプト、赤道ギニア、エチオピア、グアテマラ、ギニア、ガイアナ、インド、インドネシア、イラン、イラク、ジャマイカ、日本、ヨルダン、クウェート、レバノン、レソト、リビア、マレーシア、モンゴル、ナイジェリア、朝鮮民主主義人民共和国、オマーン、パキスタン、パレスチナ自治政府、カタール、セントキッツネビス、セントルシア、セントビンセント・グレナディーン、サウジアラビア、シエラレオネ、シンガポール、ソマリア、スーダン、シリア、台湾、タイ、トリニダード・トバゴ、ウガンダ、アラブ首長国連邦、米国、ベトナム、イエメン、ジンバブエ

 となっている。
 (本の中でも存置国は列挙されているが、ここではhttp://homepage2.nifty.com/shihai/shiryou/abolitions&retentions.html から引用)

 
 正直なところ、僕はこのリストアップされた国名を見て強く驚いた。
 森さんも書いているように、別に他所の国は他所の国だし、日本に死刑を行う正当な理由があるのであればこのリストには何の意味もない。先進国がほとんどないことも気にしなくていいだろう。
 でも、もしも日本に強い正当な理由がないのであれば、僕達の住んでいるこの国は結構変わったポジションに立っていると言わざるを得ない。
 僕はこんなことすら知らなかったわけだ。
 僕にはヨーロッパ出身の友達も、ヨーロッパに住んでいる友達もいるけれど、死刑の話なんてそういえばしたことがなかった。目にする映画、ドラマ、物語はほとんど、先進国では珍しい死刑国、日本とアメリカのものだったので、死刑は普通に出てくる。だから僕はうっかりと死刑を極々一般的なものだと勘違いしていた。極々一般的だけど、自分とは何の関係もないシステムの一部だと。死刑があるとEUに加盟できないことも知らなかった。

 本書の中で森達也は様々な人間にインタビューを行なっている。途中からロジックが放棄され、「情緒」が柱に据えられる。「なんだそれ!?そんなことでいいのか」
と思われるかもしれない。
 本書に出てくる登場人物の全員と、森達也の「論理的な結論」は「死刑は存在する正当性がない」だ。でも僕達は「死刑よあれ」と思っている。
 死刑廃止論者達はずっとこの論理的な帰結を主張して来たが、人間というのはそれではどうやら動かないのだ。ならば、視点はやはり論理を超えて感情や情緒の世界へと移されるべきだろう。

 僕達がどの程度「死刑とあれ」と思っているのかというと、2004年の世論調査で「場合によっては死刑もやむを得ない」にイエスと答えた人は81.4%。設問が変わってしまうが1989年の「どんな場合でも死刑を廃止しようという意見にあなたは賛成ですか」に対するノーが66.5%。
 1989年からの15年で死刑支持者の割合は増加している。
 そして、それに呼応するかのように死刑執行が増えた。

 変な言い方だか、アメリカでですら死刑は減少傾向にあるという時期に、日本では死刑が増加していて、さらに言うのであれば、アメリカでは死刑の情報がオープンにされているのに対して日本では死刑の情報が隠されている。
 実は、国会議員で編まれた「死刑廃止を推進する議員連盟」というものが1994年に設立されているのだが、少なくとも本の出版された2008年においてこの議員連盟はサイトすら持っていない。もちろん、死刑賛成の国民が多い中でおおっぴらに活動しては票に関わるからだ。

 ここで立場を表明しておくと、僕はたぶん死刑存置なんじゃないかと思う。たぶん。本を一冊読んだところで答えの出せる問題ではない。

 本書における森達也の結論は、

「冤罪死刑囚はもちろん、絶対的な故殺犯であろうが、殺すことは嫌だ。
 多くを殺した人でも、やっぱり殺すことは嫌だ。
 反省した人でも反省していない人でも、殺すことは嫌だ。
 再犯を重ねる可能性がある人がいたとしても、それでも殺すことは嫌だ。

 結局それが結論かよと思う人はいるかもしれない。何とまあ幼稚で青臭いやつだとあきれる人もいるだろう。」

 正直なところ、結局それが結論かよ、と僕は思った。
 本文中での森さんの心の揺れを汲めばこれを本当に結論だと言っていいのかも良くわかない。

 自身の結論も明確には示さず、紹介した本の著者の出した結論にも「これは結論ではないのではないか」と言う、非常に曖昧な文章になったが、これ以上意見らしいものは僕には持てない。

 ただ、最後にこれまで知らなかったがこの本で知ったことを箇条書きにしておこうと思う。

 ・日本のメディアでは殺人事件の報道割合が他国のメディアに比べて突出して多い
  →日本人は殺人事件が好きなのかもしれない。

 ・明治大学博物館の色々な拷問器具が見れるコーナーは人気がある。
  →人間というのは残酷なことが好きなのかもしれない。

 ・今の死刑囚は他の死刑囚とコミュニケーションを取ることもなく、週2,3回30分の運動の時間すら1人で過ごす。運動場は10平方メートルから15平方メートルで、半分以上がなんと屋内。4畳半程の独房には窓があっても磨りガラスなので外が見えない。面会人がいない人も多い。つまり誰とも話をしない。死刑執行が言い渡されるのは朝食後で、言い渡されて大体1時間後に殺される。そんな状態で平均約8年間を過ごす。

 ・死刑の方法は絞首刑だが、確実に死ぬまで30分間吊るしておくのが慣例になっている。

 普通に暮らしているとまったく見えないこのような場所が、この日本にある。

死刑 (角川文庫)
森達也
角川書店

書評:『文化系のためのヒップホップ入門』

2013-04-04 20:09:27 | 書評
文化系のためのヒップホップ入門 (いりぐちアルテス002)
クリエーター情報なし
アルテスパブリッシング

 ここのところベーシック・インカムの話ばかり書いていましたが、今回は少し話を戻してヒップホップのことを書きます。
 しばらく前の記事で、都築響一さんのインタビューのこと、それに触発されてちょうど同居人の女の子が見ていた映画『サイタマノラッパー』を見たことを書きました。いつのまにか音楽にクールだけを求めて意味なんて求めなくなっていたこと、むしろ意味は邪魔だと思っていたということも書きました。
 今回はその続きです。

 都築さんのインタビューは重要だと思うので、引用した部分を再録しておきます。

《都築:それは、その時代その時代で、特に若い子たちの想いっていうものを、一番確実に表現する音楽のジャンルがあるんです。それはたぶん、40年くらい前だったら、自分が「あぁ?!」と思ってることを一番ダイレクトに表現できたのはフォーク・ミュージックだったかもしれない。そしてそれがパンクだった時は、「とにかく3コードさえおさえればいけるぞ」みたいなことでいけたと。そもそもの最初に、僕の地方巡りの仕事っていうのがあるんですけど、地方に行くと若い子たちがつまらなそうに夜中にたまったりしているわけじゃないですか。でもそこで昔みたいに、ギターで「とりあえずFを練習するぞ」とかではない。それがここ10年ぐらいはヒップホップで、「とりあえず有りもののビートで、とにかく自分のラップをやる」と。そして、それを中学校の体育館の裏で練習するみたいな、僕は特に日本ではそうだと思ったんです。それからやっぱり、ヒップホップは他の音楽に比べて垣根が滅茶苦茶低い。だって楽器がいらなくて、マイク一本でしょう。スタジオすらもいらないくらいで、夜中の公園とかで練習できる。一番お金がなくても練習できる音楽で、だから世界中に広まったと思うんです。僕は世界の田舎にも行くんですが、昔見ていた、ロックが世界中に広がっていく速度よりもヒップホップの方が早い。だって今、イランだってラップがあるわけだし、たぶん北朝鮮にだってあるかもしれなくて、これだけ包容力のある音楽形態ってなかなかないわけですよ。中国にロック・バンドもありますが、それはやっぱり資産階級じゃないとできない。だけどヒップホップの場合は、本当にラジカセ一個あればいいということがあるので、そういうヒップホップの形態の持つ力というのがありますよね。》

 あれから僕はヒップホップの本をいくつか読んでみたのですが、『文化系のためのヒップホップ入門』という本が素晴らしかったです。

 文化系のためのヒップホップ入門、とは随分ヘンテコなタイトルですが、タイトル通り文化系の為に文化的に書かれたこういう本は待望されていたはずです。
 ヒップホップはなんともヤンキーっぽい音楽で、そのままでは文化系にはなかなか飲み込めない。
 本文にもこのような記述があります。

《大和田:あと日本の場合、ニューウェーブを聞いてきた層は文化的エリートかサブカル・エリートが中心で、恐らく彼らは地元のヤンキー的価値観を憎悪しているんですよ(笑)。だいたい地方の中学や高校だと、ヤンキーや運動部が幅を利かせていて、オタクやサブカルはおとなしくしてるじゃないですか。「自分はこんなやつらと違ってエッジーなカルチャーに接しているんだ!」というギリギリのプライドだけで日々の生活をサバイブしているのに、その「新しいサウンド」の中身が地元主義だったり不良グループの抗争だったりすると心底勘弁してほしい、ということになるのかも。こういうのが嫌だから早く東京に出たいのにって(笑)。》
 
 そういうものをナマのまま口にするのがしんどいとしても、この地元主義や不良グループの抗争を音楽の歴史の文脈に嵌めこむことで、すなわち「文化の香り」を振りかけることで、口当たりを良くして食わず嫌いを治す効能がこの本にはあります。

 とはいうものの、「音楽の歴史」と先程書きましたが、本書の最初ではいきなり「ヒップホップは音楽ではない」と断言されてしまいます。
 では何かというと、「ゲーム」であって、どれだけ上手く言い返せるかという「プロレスやお笑いみたいなもの」だということです。
 だからゴシップとか抗争争いはヒップホップではとても重要です。
 大和田さんのゼミにアメリカ帰りのヒップホップ大好きな学生がいて、その学生は「誰が誰のレーベルに移った」とか「誰と誰が仲悪い」とか、そういうラッパー達の事情にとても詳しいのだそうですが、「彼がヒップホップを聞いているのを見たことはない」というようなことが書かれていました。そして、大和田さんは「そういうヒップホップの”聞き方”が意外に正しいんじゃないか」みたいなことも書かれています。

 プロレスとかゴシップとか、なんだか低俗なことばかり書いているようで、「前にヒップホップは日本を変えるとか救うとか言って広げた大風呂敷はどうなっているのだ」と言われてしまうかもしれませんが、この「プロレス」に実は鍵があります。
 肉体と肉体のぶつかり合いに。

 ええ、僕は、言葉が身体性を取り戻した、ということについて書こうと思っています。

 都築響一さんのインタビューを読み、そのあと『サイタマノラッパー』を見て僕が思ったのは「ヒップホップによって僕達は言葉に身体性を取り戻した」ということでした。
 当初、それをリズムとライムで説明しようと考えていたのですが、『文化系のためのヒップホップ入門』を読むと、いきなり体の話が出てきてしまい、しかもそれは僕が考えていたことよりも随分ダイレクトなものだったので、まずはそれを紹介したいと思います。

 冒頭、色々な音楽を長い間聞いてきたし、結構なんでもいける口だったのにどうしてもヒップホップは聞けなかったという話の後に、こんなことが書かれています。

《大和田:じつは5年前に足を骨折しまして(笑)。フジロック・フェスティバルでビールを飲みながらはしゃぎすぎて穴に落ちて、膝の陥没骨折で全治4ヶ月ですよ。その翌日からヒップホップしか聞けない体になってしまいました。

 長谷川:足を折ったんじゃなくて頭を打ったんじゃないですか?(笑)》

 なんだそれ?というような話ですけれど、どうやらそういうことのようです。
 この話は、本の後半にもう一度出てきます。

《大和田:当時暇があったので「骨折してヒップホップにハマる」ことについて一生懸命考えたんですよ。それで思ったのは、ロックという音楽ジャンルはやはり基本的な表現の回路が「内省」にあるということです。「子供のころのトラウマ」や「心の傷」などのステレオタイプがあって、個人的な内面の葛藤を表現するというイメージがロックにはある。それに対して、ップホップはどこまでも「身体の損傷」が問題になるというか、「お前は5発撃たれたかもしれないけど俺は9発撃たれたぜ」というように、決して内面に向かわない。徹底的に身体的であると。つまり何が言いたいかというと骨折はまったく「内省」に結びつかないんですよ。「心」に向かわない。これが「結核」や「潰瘍」であればどこか文学的なイメージと結びついてロックばかり聴き続けたかもしれないんですが(笑)》

 やはり、ヒップホップと身体性は切っても切れないもののようです。
 長くなって来たので続きは次回に書きます。

 (追記)この本を読むと、なんといっても長谷川町蔵さんと大和田俊之さんの知識量に圧倒されます。
 誰かが自分の好きなことについてバーっと立板に水の如く話しているのを聞くとき、内容が分からないとしても僕は嬉しくなってテンションが上がってしまうのですが、二人の対談形式になっているこの本でも同様の感覚を味わいました。
 曲名もバンド名も、もう全然分からないのですが、それでも楽しくてどんどんと読んでしまいました。
文化系のためのヒップホップ入門 (いりぐちアルテス002)
クリエーター情報なし
アルテスパブリッシング

書評:『あなたを天才にするスマートノート』岡田斗司夫、その2

2013-03-25 18:59:11 | 書評
 最近、同じような悩みをいくつか立て続けに聞きました。
 「自分が一体何をしていいのか、何をしたいのか分からない」というような感じのことですが、より具体的には「休みの日に特にしたいこともなくて、出かけたりはしてるけど、実は暇潰ししてるだけで虚しい」という形で表面に浮かんできます。

 最初に話を聞いているときは、特に具体的な「こうしてみればいいんじゃないか」という方法論は浮かびませんでした。何かしなきゃならないと思うのは近代以降の病だから気にしなくていい、というような返事しかできませんでした。

 でも昨日寝ていたら具体的な方法が1つ浮かびました。

 僕はこれまでの人生で一度も暇だと思ったことがないのですが、それは自分の中に弄ぶべき何かの塊がずっとあるからです。僕は客観的に見てみると今のところ全く”成功”した人生ではなく、初対面の人に状況を説明すると「そんなのでどうしてこんな平気な顔で生きてられるのか」と驚かれることもあります。客観的に考えてそういう反応があることは理解できます。
 それでも自分としては、それなりの手応えと幸福感を持って毎日を暮らしていて、それは他の人には理解されないとしても、自分にとっては大切なコアのようなものがあるからではないかと思いました。
 有り体にいうと「自分の世界」ということになると思います。

 「自分の世界」という言葉から、以前紹介した岡田斗司夫さんのスマートノートを思い出しました。前回の書評は完全に的を外していました。
 あの本のメインメッセージは「自分の世界を作ろう」で、書かれていることはその為の具体的な方法でした。

 岡田さんがおっしゃるには、現代の世界は「現実世界」と「電脳世界」が重なってできています。「リアル」と「ネット」ということです。ネットで個人の固有性よりも匿名性が強くなっていることは肌身で分かると思いますが、実は「リアル」でもこれは同じことです。大量消費社会の成れの果てで、多くの個人はもはやスペシャルな存在ではなくなってしまいました。宮台真司さんの言葉を借りれば「交換可能」になってしまいました。たとえば近所のコンビニがローソンからセブンに変わっても別に気にならないように、もはや個人も交換可能な存在になりつつあります。

 そういう社会に生きていると「自分の世界」を守るのは大変です。
 子供が大人になるにつれて自分らしさや輝きを失うのは良く見られることです。子供はまず小中高と訳の分からないレギュレーションに叩きこまれて、そのあと大学を経て企業社会に嵌めこまれます。大学は「自分の世界」構築機能を一時期持っていましたが、今は企業社会の傘下に入りつつあって、そういう機能は失われています。
 あんなに嬉しそうに絵を描いていた、絵の大好きな子供が、気付くと保険会社の営業になっていて下らない接待で夜中に吐き気を堪え、休日に自殺を考えたりしているわけです。
 たくさんの人達が、平日は会社という誰かの価値観が実体化した組織の中で、誰かの価値観の為に働き、その対価として得た幾ばくかのお金で休日に誰かの価値観を買いに行きます。金銭という記号を媒体にして人の価値観を交換しているだけなのですが、それが「活発な経済活動!」で良いことだと勘違いされています。なんか変かもしれないと思っても「自分流にカスタム自在」とかいう商品でも買って誤魔化してみたり。

 岡田さんの提唱されていることは、細かなテクニックを取り去れば「毎日ノートの上で考え事をしましょう」というもので、その結果バラバラだったものがリンクされていって、頭の中に「自分の世界」が構築されるとおっしゃっています。
 毎日書いていたわけではないですが、僕は中学生のときからノートはずっと持ち歩いていたので、この感覚はなんとなく分かるような気がします。
 「自分の世界」が構築されるのはけして「ノート上」ではなくて、「頭の中」です。ノートはぐちゃぐちゃで整理もしないし、古いのは捨てています。あとで読んだりすることはほとんどありません。

 「お前ごときが何様のつもりだ」という話で、ちょっと気がひけてはいるのですが、僕に何の実績がなくても「紙にペンで書きつける」ということの有用性はわかるので、それだけはここに書いてもいいと思っています。
 また「自分の世界」を構築することは、偉いことでもすごいことでも賢くなるということでもありません。ただ「自分の世界」ができるだけです。もしかしたら頑固になるということかもしれません。
 
 でも、この紙とペンが脳内に作り上げた「自分の世界」が、「現実世界」と「電脳世界」へ「自分」が溶け出してしまうことを防いでくれるのは確からしいように思います。
 少なくとも、「とりあえずカルチャーセンターでも行って習い事でもはじめてみればいいんじゃないか」みたいなアドバイスよりは、ずっと有効な気がしています。iPadなんかよりも、ただの真っ白なノートを!

あなたを天才にするスマートノート
岡田斗司夫
ロケット



書評:『ソーシャル・デザイン』グリーンズ編

2013-03-14 17:54:12 | 書評
ソーシャルデザイン (アイデアインク)
グリーンズ編
朝日出版社

 ソーシャルデザインというのは、なんとなく胡散臭い言葉ですね。
 僕にはデザイン業界の友達もいるし、そもそも父がデザイン業界の人間なので、デザインというものを否定するのは心苦しいのですが、デザインというものに対してかなり複雑な気持ちを持っていることは否めません。

 今回は本のことよりも、ソーシャル・デザインということに対する批判になるかと思います。

 僕はプロダクトデザイナーになりたいと思っていた時期があって、その頃は結構「デザイン万歳!」でしたし、たとえばアフォーダンスの高い製品は優れていると単純に思っていました。
 アフォーダンスが高いというのは、その製品を見ただけで使い方が自然に分かるというような意味です。大抵の椅子は見ただけで「これは座るものだ」と分かり、さらに座り方まで分かるのでアフォーダンスが高いと言えます。逆にギターは何の知識も持たない人には全然使い方が分かりません。そういうのはアフォーダンスが低いということになります。

 一見、アフォーダンスが高い製品の方が優れているように見えるのですが、今はそうはあまり思っていません。
 なんというか、デザイナーがユーザーを誘導するということに対して少し抵抗があります。「ユーザーが自然にこういう風に使うように」という意図がなんだか嫌です。そういう意図が見えないように丁寧にデザインされていたり。
 じゃあ使い難いものを作ればいいのかというと、そういうことでもないので、なんだか複雑な気分で向き合わざるを得ないということになっています。
 それはグラフィックでもプロダクトでも建築でも、もちろんソーシャルでも、どのデザイン分野でも同じです。

 さて本書『ソーシャル・デザイン』はタイトル通り、ソーシャル・デザインの本です。基本的には色々な事例を紹介するカタログのような感じになっています。
 先ほども書きましたように、僕は「複雑な」気分で読む事になるのですが、紹介されている事例はまあ良くできてるような気もしなくはないアイデアばかりです。
 だいたいは各章のタイトルで想像が付くと思うので、目次を先に紹介します。
__________________________
 はじめに

 第1章 「自分ごと」から始める

 おばあちゃんを指名してカスタムメイドするニットブランド 「ゴールデン・フック」
 「うわさ」の力で街を賑やかにするアートイベント 「八戸のうわさ」
 公共空間は最高の結婚式場 「ハッピー・アウトドア・ウエディング」
 バルセロナに住む人々に風船で 「ありがとう」を届けた男
 タバコの代わりにシャボン玉を一服する 「東京シャボン玉倶楽部」
 [ソーシャルデザインTIPS1]社会的課題を「自分ごと化」する
 [ソーシャルデザインTIPS2]ホリスティックに状況を捉える
 [ソーシャルデザインな人1]井上英之:
 自分のやりたいことにすぐ火をつける「マイプロジェクト」

 第2章 「これからの○○」をつくる

 スピードを「守った」人に宝くじが当たる 「スピード・カメラ・ロッタリー」 
 究極の環境PR。1枚のチラシで28万人にプロモーションした2匹のパンダ
 街ぐるみでオープンな子育てを実践する 「まちの保育園」
 秋田のイケメン若手農家が挑戦するソーシャルな農業 「トラ男」
 まちのお母さんがシェフになって地域を温かくする 「タウンキッチン」
 [ソーシャルデザインTIPS3]「これからの◯◯」を想像する
 [ソーシャルデザインTIPS4]一石二鳥以上のグッドアイデアを考える
 [ソーシャルデザインな人2]山口絵理子:
 作る人と買う人の両方を幸せにする「これからのビジネス」

 第3章 行動をデザインする

 マイカップ持参でポイントをシェアする 「カルマ・カップ」
 街が一変するデザインで投票率を上げた 「KOTOBUKI選挙へ行こうキャンペーン」
 街行く人々が素敵なメッセージを発信する 「セイ・サムシング・ナイス」
 途上国の電力不足を解決する自家発電型サッカーボール 「ソケット」
 みんなのちょっとしたアイデアで街を作る 「ギブ・ア・ミニット」
 [ソーシャルデザインTIPS5]思いつきをカタチにする
 [ソーシャルデザインTIPS6]雨ニモ負ケズ、プロトタイプを繰り返す
 [ソーシャルデザインな人3]山崎亮:
 自分たちの意志で踊る 「これからのコミュニティ」

 第4章 「新しいあたりまえ」になる

 「生まれ変わる」ための復興プロジェクト「石巻2.0」
 共同購入でソーラーパネルを割安で導入できる「1BOG」
 住民が読みたい記事に出資するローカル・ジャーナリズム「スポット・アス」
 一夜のうちに荒れ地が楽園になる「ゲリラ・ガーデニング」
 「オリガミ×モッタイナイ」文化から生まれた「四万十川新聞バッグ」
 一枚のワンピースを着回してインドの貧困を救う「ユニフォーム・プロジェクト」
 [ソーシャルデザインTIPS7]座右の「問い」で自分を振り返る

 おわりに
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 うーん。
 どういう風に説明すればこのムズムズする感じが伝わるでしょうか。
 なんか、とってつけたような感じがしてしまうのです。
 たぶん、この目次を読まれて既に僕と同じようなムズムズを感じておられる方もいらっしゃると思います。

 ちょっと具体的に見てみますと、トップバッター、

《 おばあちゃんを指名してカスタムメイドするニットブランド 「ゴールデン・フック」 》

 ですが、
 これは、することがなくて暇な、しかし編み物のスキルを持ったおばあちゃん達を集めて、その誰かを好きに指名して編み物を作ってもらうというのはどうだろう、というサービスです。商品を買った後、そのおばあさんにメッセージを送ることもできます。孫くらいの年齢の人に自分の編んだものを買ってもらえると、おばあさんも嬉しい、ということらしいです。

 ウェブサイトにはおばあさんたちのプロフィールが並べられていて、

「彼女たちは、ひとときあなたのおばあちゃんになります。おばあちゃんへの感謝のメッセージを忘れないでね」

 と書かれているそうです。
 23ページには、このようなことも書かれています。

《商品が売れれば売れるほど、おばあちゃんのもとには「ありがとう」のメッセージが世界中から届き、「私は誰かに必要とされているんだ」という、生きがいを感じることができる。》

 素晴らしい!
 のですかね。。。

 「なめてんのか」と思うのは僕の心がひねくれているせいでしょうか。
 なんだか良くわからないんです。こういうのが。
 きっと、実際にこのサービスで助かっている人もたくさんいるのだと思います。
 でも、ここで使われている「生きがい」という言葉も、「ありがとう」も全部が空々しいような気が、僕にはどうしてもそのような感覚が無視出来ません。

 ソーシャル・デザインというものは、残念ながら本質を外しているのではないでしょうか。本当にダイレクトに生で人との関わりを持てばいいのに、それはできないと思い込んで、例えば間に商品と貨幣を置いて媒介にしているわけです。あるいは生身で人と関わるのがイヤなので、そのかわりにこういうサービスでお茶をにごしているように、なんか言い訳みたいに見えます。

 ちょっと話がずれますが、「みんなが集まれる店を作りたい」とか、あれってなんですかね。ソーシャルなんとかって。もともと店って普通にみんなが集まる所じゃないんですか。どうしてわざわざ「ここは開かれていてみんなが集まる場所です」という看板が必要なんですか?
 これに関しては友人がとても上手な表現をしています。彼曰く、

「ソーシャル(なんとか)はラブ(ホテル)と一緒だよ。」

 別にラブホテルでなくても、カップルで泊まればセックスくらいするので、どこだって言い様によっては全部ラブホテルなわけです。僕は子供の頃に家族でラブホテルに泊まったことがあるのですが、そのときはラブホテルだって普通のホテルなわけです。
 つまり、ラブホテルであるか只のホテルであるかというのは、施設の問題であるよりも利用者の問題です。 
 
 ソーシャルなんとかだって、これと同じ事です。
 ソーシャルなカフェに「ソーシャルさ」があるわけではなく、その利用者の方に「ソーシャルさ」が(ある/ない)わけです。
 そんなの当たり前のことです。
 「商店街の八百屋さん」じゃないと会話できないんですか?
 ローソンの店員とは世間話できないですか?

 僕達は社会に暮らしているので、当然のようにその隅々までがソーシャルです。
 散歩してもソーシャル散歩です。
 散歩の途中におばあさんに出会ったら挨拶して世間話して構いません。
 ネットでどこかの国の知らないおばあさんをカタログから選んで編み物買ったりしなくても、それで十分です。

 ラーメンズの小林賢太郎が「折りたたみ傘? 折りたためない傘って、あるか?」と言っていますが、これに習えば「ソーシャル・デザイン? ソーシャルじゃないデザインって、あるか?」です。
 ちょっと意図的に「ソーシャルなデザイン」と「ソーシャルをデザイン」を一緒くたにしていますが、このままもっと云えば「社会にソーシャルじゃないものってあるか?」です。「社会に社会じゃないものってあるか?」

 「あるか?」と書きましたが、実はあります。
 あることになっています。
 エレベーターに単に乗り合わせたからとか、カフェで隣の席に座ったからといって、そんな理由で気軽に人に話しかけてはいけないという暗黙のルールのようなものが社会には満ちています。気軽に人に話しかけると変人だと思われます。さっき、散歩の途中でおばあさんに話しかけてもいい、と書きましたが、これは僕がそう思うだけで、もしかしたら「社会的」にはOKではないのかもしれません。

 僕達の社会には「本質から目を逸らして、この中だけで考えてればいいんだよ、キミらは」という横暴な、しかし頭脳負荷を軽減してくれるという意味で魅惑のラインが至る所に引かれています。
 原発問題を「廃炉かどうか」だけフィーチャーして、システム全体のことは考えないことになっていたりします。
 だから僕は声高な、わざわざな「ソーシャル」という言葉を聞くと、その外のことが気になって仕方ありません。僕達はわざわざこんなこと言わなきゃならない時代を生きているのでしょうか。
ソーシャルデザイン (アイデアインク)
グリーンズ編
朝日出版社

書評:『独立国家のつくりかた』坂口恭平

2013-03-11 22:39:08 | 書評
独立国家のつくりかた (講談社現代新書)
坂口恭平
講談社

 坂口恭平さんの新政府に”納税”が行われているのを見ていて、僕もなけなしのお金の中から僅かな納税をすることにしました。
 「えっ!」という感じです。自分でそう思います。

 何が「えっ!」なのかというと、恥ずかしい話で、実は僕は坂口さんには嫉妬していたからです。
 できれば、ああいうことは自分でしたかった。
 311の後、原発が爆発して、なんだかんだある程度持っていた「最低限のところでは政府もちゃんとしてるだろう」という幻想が完膚なきまでに破壊されました。
 すっかりイヤになった僕は、どこかに移住して新しい国家を作るのは難しいけれど、物理的には今住んでいるこの日本の中で、システムとしては新しい別の国家を作ることができないかという話を友達とよくしていました。
 でも、結局は自分で自分の言っていることを信じていなかったのだと思います。
 それに、そういう社会的なことをするよりも、自分はやっぱり物理学に集中して生きて行きたいと思っていて、結局は何もしませんでした。

 しかし、結局は大学院も辞めてしまい、イライラしながら日々が過ぎるうちに、実家かどこかで目にした新聞記事で坂口恭平さんのことを読みます。
 坂口さんは「現政府がダメなら自分の新政府で」と、熊本に作った新政府で実際に被災者の人達を無料で受け入れていました。
 動いている人は本当に動いているのだという嬉しさと、自分にはできなかった悔しさみたいなものが同時に湧いて来ました。そして僕はやっぱり悔しくて坂口恭平という名前に蓋をしてしまったのです。
 バカみたい、というか本当にバカな話ですが、僕にはそういう幼稚なところがあるのを認めざるを得ません。

 蓋をしたその名前に、僕は今度は本屋で遭遇することになります。
 『独立国家のつくりかた』です。
 パラっと捲ったら「あーそうそうそう!」です。
 もう悔しいとかなんとか言ってる場合ではないなと、すぐに買いました。

 冒頭にまず坂口さんが疑問に思っていることが書かれています。

 1)なぜ人間だけがお金がないと生きのびることができないのか。そして、それは本当なのか。
 2)毎月家賃を払っているが、なぜ大地にではなく、大家さんに払うのか。
 3)車のバッテリーでほとんどの電化製品が動くのに、なぜ原発をつくるまで大量な電気が必要なのか。
 4)土地基本法には投機目的で土地を取引するなと書いてあるのに、なぜ不動産屋は摘発されないのか。
 5)僕たちがお金と呼んでいるものは日本銀行が発行している債権なのに、なぜ人間は日本銀行券をもらうと涙を流してまで喜んでしまうのか。
 6)庭にビワやミカンの木があるのに、なぜ人間はお金がないと死ぬと勝手に思い込んでいるのか。
 7)日本国が生存権を守っているとしたら路上生活者がゼロのはずだが、なぜこんなにも野宿者が多く、さらに小さな小屋を建てる権利さえ剥奪されているのか。
 8)2008年時点で日本の空家率は13.1%、野村総合研究所の予測では2040年にはそれが43%に達するというのに、なぜ今も家が次々と建てられているのか。

 これは結構たくさんの人が「そうそうそう!」ではないでしょうか。
 実際にこの『独立国家のつくりかた』はとても良く売れています。

 これを読んだのは去年の春の終わりか初夏の頃で、僕は当時「土間の家」というところに住んでいたので、その本はここで一緒に暮らしていた友達に上げてきました。
 だから、今、本は手元にありません。
「えっ、一年前の話なの? 最近読んだ本の感想じゃないの?」と思われるかもしれないのですが、そうです一年近く前のことを書いています。
 また悔しくてずっと書けなかったんです。
 本当に恥ずかしい話ですが。

 「もう、こういうことは坂口総理に任せよう」と素直に思うようになったのは最近のことです。
 しばらく前にyoutubeではじめて動いている坂口さんを見ました。
 宮台真司さんとの対談だったのですが、あの宮台さんが圧倒されて黙っていて、最後に「人と話してこういう感覚になったのははじめてだ」と言っています。
 僕も圧倒されました。ああいう器の大きさやパフォーマンスの高さは僕にはありません。

 そして更に今回の”納税”です。
 納税したいと思った自分にとても吃驚しています。
 僕は坂口さんのことを認めて応援しようと思っているのだなと、思いがけない形で、お金という非常に明確な形で知ることになりました。

 ちなみに『独立国家のつくりかた』について高橋源一郎さんが以下のコメントを書いています。

《坂口さんはオカシいのだろうか。でも、いまから150年ほど前、たくさんの若者が新しい国を勝手に作ろうとしたじゃないか。坂本龍馬とか。そして彼らが出ているテレビを見て、みんな喝采を送っているじゃないか。龍馬ってオカシいの?》

 今回、坂口恭平さんのことを書いているのは、僕のツイッターが新政府”納税”だらけになったからだけではなく、昨日高知市で坂口さんのことを思い出したからです。

 この土日、僕は一緒に住んでいるみんなで京都から高知まで出掛けて海沿いでキャンプをして来ました。車にキャンプ道具を詰め込んでの無計画な旅で、結果的には室戸のジオパークを回ったり、空海が修行した洞窟へ参ったり(ちなみに空海は僕の子供の頃のヒーローの一人です)、廃墟として残されている戦闘機格納庫を見物したり、たまたまやっていた大おきゃくというお祭りを見たり、ひろめ市場でご飯を食べたり、沢田マンションを訪ねたりすることになりました。

 高知市の大おきゃくでは、ステージでよさこいのようなものが踊られていました。
 よさこい祭りではないので、規模はずっと小さなものですが、僕は感動してしまったのです。
 都市の中心地の公園で大音量が出されていること、例のはりまや橋でなんとかという音楽、ステージ衣装で街をウロウロしている人々、その南国の空気感。

 もしかしたら、本当は日本は「こっち」なんじゃないかと思いました。
 この時僕は、九州の坂口さんと、あとツイッターに彼が載せていた古い祭りの曳山の写真を思い出していました。
 本当の日本なんて言い方は良くないの分かっているつもりですし、たとえば北海道は南国ではありません。
 ただ、僕達はなんというかエコノミックアニマル的な「こういうつまんない感じ」ではなかったのではないかと思うのです。やっぱり明治以降の日本はヘンテコ過ぎて、色々忘れすぎているんじゃないかなと思うのです。

 もっと言いますけれど。
 「京都って日本ですか?」
 僕はもうずっと京都に住んでいます。
 京都というのは、ザ・ジャパンみたいな捉えられ方をしていますが、本当にそうでしょうか?

 たかだか1200年前に中国の真似事して作った都市と文化のことですよね。
 お寺が有名ですが、仏教ってインドのものが中国経由で入ってきただけですね。
 キモノのこと呉服って言いますけれど、呉服って、呉の服ですよね。中国の服。

 1200年というのは、もちろん長いです。
 歴史だといえば歴史です。
 厳密な意味でオリジンなんてどこにもないかもしれませんし、オリジンがどうしたって話です。
 ただ、やっぱり僕達は変な自分達の出自に縛られてアイデンティティを構成して生きているような感じがしてしまいます。ちょっと息苦しい感じが。

 明治維新以降の「富国強兵、国民は勤勉なマシン」みたいなのは論外として、それを越えてもまだ平安時代というなんか怪しいものがあるんです。そのイミテーションを日本人的な心の拠り所にすると、やっぱりまずいんじゃないかなという気がします。
独立国家のつくりかた (講談社現代新書)
坂口恭平
講談社

書評:『心の専門家はいらない』小沢牧子

2013-02-24 16:36:32 | 書評
「心の専門家」はいらない (新書y)
小沢牧子
洋泉社

 前回再録して紹介した小沢健二さんの『企業的な社会、セラピー的な社会』を読んだ後に、小沢牧子さんの『こころの専門家はいらない』も読んでいて、その感想文も書いていたと思ったのですが、それはツイッターで紹介しただけだったので、ここにまとめておきたいと思います。

 著者、小沢牧子さんはご自身が<心の専門家>というか「心の専門家の専門家」です。臨床心理学を研究しているうちに「どうもこれは嘘っぱちではないか」と気づいて今のようなスタンスに変えられたようです。
 カウンセリングとか精神医療とか抗鬱剤とかに対して、実は結構たくさんの人たちが「どうもこれは嘘っぱちではないか」という思いを抱いているのではないでしょうか。でも、そういうことを言うと「あなたは何か自分の心に向き合うのが苦痛であると感じてしまうような心の傷を持っているのではないですか、カウンセリングの回数を増やしましょう」というような、斥力を吸引力に変える巧妙な装置までカウンセリングには組み込まれています。
 この装置は、実に強力に構造化されたもので、本文中にもこのような記述があります。

 ”たとえばクライアントがカウンセラーにこう訊ねたとする「先生はお子さんがいらっしゃるのですか」。その場合様々な返答がありうるだろうが、もっともカウンセリング臭の強い返答は、次のものである。「それが気になりますか?」”

 このまま、どうして子供がいるのかどうかということが気になるのか、心にあるその原因を探って行きましょう、という形でカウンセリングは開始可能です。元々の質問は答えられることがありません。はぐらかされています。患者はカウンセラーと「患者:カウンセラー」という関係を結んだ時点で相手のコントロール下に入ります。
 いかに柔らかに、友好的に親身に振舞っていてもカウンセラーは立場的に「”正しい”心の専門家」で患者よりも”上”です。患者はカウンセラーに「ああしろこうしろ」とは言われないけれど「自然に」カウンセラーが喜ぶような返答、考え方をするようになっていきます。
 このように「自然に」どういう風にするのか相手に喜ばれるのかを汲み取って、それに沿って行動するようになる、という現象は教育現場にも持ち込まれていて、著者はこのように書いています。
 
 ”個々人の自己開発を求める生涯学習路線も、意欲関心態度を最重視する学校教育も、「みずから(自由に)決めよ、ただし望まれるように」という新たな管理の流れのなかにある”

 小沢さんの、この「自ら自由に決めよ、ただし望まれるように」というフレーズは強烈です。
 この作法は、企業にも、例の「社会人」とかいう人達の間にも蔓延しています。
 ドラッカーなんかが研究してきたのは「自発的に喜んでやっていると思い込ませたまま相手を支配する方法」というなんとも気味の悪いものですが、嬉々として読む人が続出して、それが会社経営のバイブルになり、社会全体が「操作されていることに気づかないまま操作されている人々の集団」になってしまいました。
 ドラッカーの「マネージメント」などを読んでる人はどことなく気味が悪い、と直感的に思ってしまうのは当然のことです。こちらから言わなくても自分の望んでいることを向こうが自然に察して勝手に喜んでやってくれるような方法が知りたいと、その人が思っていることの表明ですから。
 そういう本を「あやしい」ではなく、「有名企業の社長も読んでる」由緒正しい本だと思い込んで「俺も人をコントロールしてやろう」と読む人がたくさんいます。それがステップアップの為に勉強熱心で偉いとか言われます。また会社や何かに従って生きている人も「コントロールされている」と思いながらコントロールされ続けるよりも「コントロールされてなんかない、自由だ、これは俺の意志だ」と思いながら生きる方が気が楽なので、一見だれも困っていなくて、「こっそり人をコントロールする本」は、まるで社会の役に立つ本のように思われているのかもしれません。

 カウンセリングの持つ問題点は、他にもありますが、「外部の問題」を患者の「内面の問題」に摩り替えるというのが最重要ではないでしょうか。たとえば学校がカウンセラーを雇うのは生徒のためではなく学校の為です。登校拒否の子供がいたとしたら学校に問題があると考えるのは面倒なので「その子の心の問題のせい」にして済ませるわけです。
 これは非常に便利な手段です。
 ちょうど「会社に行くのが嫌で嫌で仕方ない」人が、その理由は今の仕事に全く興味がないからだと薄々気づいていても、転職するのが面倒なので、「問題は仕事にあるのではなくて私にあるのだ、仕事を好きになる努力をすればいいのだ」と考えるのに似ています。そもそも、このような思考形態はカウンセリングの普及と共に広まったのではないでしょうか。

 もう何十年と暴走肥大してきた消費社会は、ありとあらゆるものに値段を付けて貨幣と交換可能にしてきました。カウンセリングはその過程に発生した、武力の代わりに言葉で人々をコントロールする技術の一つかもしれません。遂にそれは人々の日常へ、心の中は入り込むことに成功してしまいました。

 ”最後の最後まで商品にされていなかった、人間の関係性さえもが消費財にされてしまった”

 という著者の言葉に、僕はまったく賛同するものです。

 ここからは余談になりますが、

 ”人を日常的に支えている力は何であろうか。ふだんはあまり自覚していないまでもそれは、自分の身になじんでいるものの人や場所であると、わたしは体験的に考えている”

 というセンテンスが本書にはあります。
 僕はこれを読んで、著者の夫であり、小沢健二の父である小澤俊夫さんのことを思い出しました。小澤俊夫さんは、グリム童話を専門とするメルヘンの研究者ですが、『小澤俊夫 昔話へのご招待』というラジオ番組をお持ちです(ポッドキャストで聞けます)。
 その中でリスナーからの「子供が同じ絵本ばかり何度も何度も読んで新しいのを読まないのだけど、どうしましょう?」という質問がありました。
 小澤さんの答えは「それでいい、無理して新しいものを読ませないで下さい」でした。
 子供というのは自分の心の安らぎを身近な、自分の慣れたものから覚えます、だからずっと同じぬいぐるみを手放さなかったりします。そういうのは子供の心にとってとても大事なことで、同じ物語を何度も何度も繰り返して読むのは悪いことどころか、むしろ大事なことだ、という返答です。
 なんとなく「やっぱりご夫婦だな」と思いました。
__________________
『「心の専門家」はいらない』小沢牧子

 目次

序章 臨床心理学をなぜ問うか

 1 疑問の始まり

 2 カウンセリングへの違和感

第Ⅰ章 現代社会とカウンセリング願望

 1 若者世代のカウンセリング観
  「心主義」への傾倒
  友だちを求め、おそれる
  専門家側からの働きかけ

 2 あらたな人間管理技法
  自由に決めよ、ただし望まれる形で
  臆病の蔓延と排除の合理化
  自助努力への圧力

 3 「心」という市場
  アメリカの社会・文化背景
  「関係」の商品化

 4 カウンセリング依存の帰結
  生き方の委託
  「子どもの虐待」増加の示すもの
  親の適性判定のごとく
  「生かされる消費財」への道

第Ⅱ章 「心の専門家」の仕事とその問題群

 1 「心の時代」とは何のことか
  「モノから心へ」なのか?
  「心のビジネス」の始まり

 2 「心の専門家」はどのように登場したか
  歴史的経緯と学会論議
  「心の専門家」という名づけ

 3 カウンセリング技法とは何か
  問題をずらす技法
  「心の変容」のしくみ――言語戦略

 4 「治す・治る」を問いなおす
  登校拒否の治療とは
  差別の問題と「治療」
  「狂気を治す」ということの問題

 5 「心」についての専門性は成立するか
  専門性とは何か
  人間管理の技術学

第Ⅲ章 スクールカウンセリングのゆくえ

 1 あるカウンセリング場面から
  傾聴し、そして?
  原因の免罪と現状維持

 2 導入の経緯と現状
  学校と子どものズレのなかで
  導入が見送られた八〇年代の事情
  教職員の無力感の増大
  「心の専門家」の二重構図

 3 大学生のスクールカウンセリング観から
  日常的かかわりの意義
  問われるおとなのかかわり

 4 実践例とその問題
  短期療法への傾斜
  暗示の即効性とその問題
  悩むことからの回避
  考えることからの退却

 5 学校の未来をどうひらくか
  「する」ことから「在る」ことへ向けて

第Ⅳ章 「心のケア」を問う

 1 災害と「心の支援」
  カウンセラー派遣をめぐって
  日本は遅れているのか

 2 死の臨床と「心のケア」
  生物的生命から人の生活へ
  混迷する医療

 3 阪神・淡路大震災から学ぶもの
  「心」という名のベール
  生活への配慮をこそ

 4 PTSDと「心のケア」
  二次的被害の重大性
  当事者の思いと揺れ
  「心的外傷」ではなく「できごと」

 5 高齢社会と「心のケア」
  「介護」は家事のうち
  「関係」は制度になじまない

 6 犯罪被害者と「心のケア」
  心理主義の介入
  高じる親の不安

終章 日常の復権に向けて

 1 あきらめの広がり
  「心」へのサービスの進行
  「心のケア」の脱政治作用

 2 つながりをめざす
  なじむことの力
  平準化の関係原理
  縁の思想に賭ける

あとがき
__________________

「心の専門家」はいらない (新書y)
小沢牧子
洋泉社

書評:『企業的な社会、セラピー的な社会』小沢健二

2013-02-24 11:00:58 | 書評
 2009年に掲載していたものの再録です
_____________________

 昨日書いたように、小沢健二の「企業的な社会、セラピー的な社会」を買ったので、眠る前に読んでみました。面白かったです。

 冒頭の文章をネットで見つけたので貼り付けると

『「社会と何の関係もない言葉」きららという少女が、考えています。
このお話の頃の世界には、そんな言葉がたくさんありました。社会と、現実と、何の関係もない言葉。

例えば「対外援助」という言葉がありました。
いわゆる「豊かな」国が、税金で、いわゆる「貧しい」国に「援助」する、「対外援助」のお金。
本当は援助するのなら、貰ったお金を「貧しい」国がどう使おうと勝手なはずですが、そうではなくて、お金には「このお金を、こういう風に使いなさい」と、ただし書きがついていて、どうやらお金は、「豊かな」国の大きな企業が受けとることになっているのでした。
つまり「豊かな」国のA国の人びとが払った税金が、A国を出ることもなく、同じA国に本社を持つ大きな企業の銀行口座に流れて行きます。
お金を受けとった企業は、「貧しい」B国に、倉庫にゴミのように積んであった売れ残りの製品や買い手のつかない車を送りつけたり、B国の人たちが「建てないでくれ!」と涙を流して頼んでいる、大きなダムを建てて、村々をダムの底に沈めたりします。
そんなことがなぜか、もう五十年以上、「対外援助」と呼ばれているのでした。』



 登場人物は「うさぎ!」と同じで、焦点を

『社会の問題について人々が考え始めたら、こっそりとある枠組みを与えて、その中でだけ自由に活発に議論させて、本質には目が行かないように操作する』

 ということに当てている。

 たとえば、エコカーを作るのだって世界に1台車を増やすことに変わりないし、車を作るには資源が必要だし、タイヤから撒き散らされる微小なゴムのカスのことや、ひき殺される莫大な数の動物や、アスファルトで埋められてしまう地面のことは何も言わない。
 人々が本当に自由に考えると、車ってもしかしたらそんなにいらないんじゃないかとか考え出すので、そういうことじゃなくて燃費のいい車に乗り換えることだけに考えを集中させるように誘導して、そして燃費のいい車をどんどん売る。人々は燃費のいい車を買うことでなんとなく問題の解決に貢献しているような気分になる。

 ある社会問題を解決したいと思っても、好き勝手に行動されては困るのでNPOを作らせ「報告」を義務付ける。税金やキャッシュフローのことがあるので本当には自由に活動できないけれど、NPOのできる範囲で貢献することに満足を覚えて終わる。

 タイトルにもある「セラピー的な社会」というのは的確な言葉だ。
 ある人が社会生活に疲れてセラピーに行くと、セラピストはその人の内面的な問題をどうにかしようとする。本当は環境の方を変えなくちゃ本質的な解決にはならない。「周囲を変えることはできないから自分の考え方を変えましょう」ということを仄めかして丸め込む。嫌な暗い気分になったというのは「何かがおかしい」というシグナルなのに、それを無かったことにする。

 人々が本質を考えないように、本質には関係がないのに関係があるように見せかけた出口の無い問題を与えて、その中でエネルギーを使わせる。本当はとても具体的な目の前にある問題なのに「大昔からの難しい宗教問題」とか「脳科学」とか「遺伝子に組み込まれた人間の性質」とか、なんかぼんやりとして解決のできないように見える問題に摩り替えて、現実の世界を変えようなんて気にさせないようにする。
 革命が起きないように。
 人々が本質を考えないように。

 オザケンはそういうことを沢山の資料を引いて書いていた。

 ネットにはオザケンを批判する文章がたくさんあるけれど、とんでもなく見当ハズレなのは小沢健二が資本主義を否定していると思っている人々の意見で、別に彼はそんなことを全然言っていない。それどころが正しい競争が働いていない歪な状況を指摘している。それからハイテクを否定して原始に帰れと主張していると思い込んでいる人もいるんだけど、これも彼は全然そんなこと言ってなくて、むしろものすごいテクノロジーに期待すらしている。

『企業的な社会、セラピー的な社会』は普通には売られていないのですが、小沢健二さんの母親である、小沢牧子さんの著書『心の専門家はいらない』は、本書の内容に多大な影響を及ぼしています↓
「心の専門家」はいらない (新書y)
洋泉社


書評:『逃げる中高年、欲望のない若者たち』村上龍

2013-02-24 10:56:26 | 書評
逃げる中高年、欲望のない若者たち
ベストセラーズ

 以下は2010年に載せていたものですが再録します
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 村上龍さんの新しいエッセイが出たと @tatsu9393 さんのツイートで知りました。研究室からの帰りに本屋に寄ってチェックしてみると、文字が大きい上に印字スペースが狭く、さらに表紙の厚みが普通のハードカバーの倍あった。だから少ない原稿で無理矢理作った本にしか見えなかったし、それで1300円というのは読者というか書籍というもの全部を馬鹿にしているみたいにも思えた。でも、結局、僕はその本を買った。

 本のタイトルは「逃げる中高年、欲望のない若者たち」というものです。帯には「村上龍の挑発エッセイ」と書いてある。僕は今この本を半分ほど読んだところで、まだ全部は読んでいない。それでも今、その挑発だか何だかに乗って書くことがあります。

 村上龍という作家はたぶん僕の一番好きな作家です。たぶんと言葉を濁したのは、僕が村上龍の作品に対して感じる「好き」は単純な好きではないからです。性格の悪い、変態でグロい身も蓋もないことが書かれているので、僕はこれを手放しに「好き」だとは言えない。ただ、この作家の書くものには何かとんでもないものが含まれているということは分かるし、読みたい、と思う。「半島を出よ」という作品を読んだとき、僕はその凄まじさに圧倒されて、こんなに凄い小説を書いたら命が燃え尽きてしまうのではないかとすら思いました。ものすごいエネルギーがつぎ込まれているのをビリビリと感じた。

 それから、村上春樹という作家も好きだか嫌いだか良く分からないけれど、なんだか読んでしまう作家です。つまり好きなんだと思います。
 昔「あー、良太君のメール、なんかに似てるなと思ったら、村上春樹みたいだね」と言われてひどくショックを受けたことがあります。たぶん今も変わらず「読書の好きな男が文章を書くと村上春樹みたいになってしまう病」は蔓延していると思うけれど、僕は当時それを自覚していてどうやって抜け出そうかと画策していました。そういえば最近もまた言われてしまったので抜け出すにはまだ訓練が必要みたいです。

 柔らかめに書こうとすると村上春樹みたいになってしまい、硬めに書こうとすると村上龍みたいになってしまう。それは僕を捕らえる一つの檻です。しかし、同時に表現の道具でもありました。
 とにかく、僕が中身も確かめずに買う小説は2人の村上という名を持つ作家のものだけです。
 それでも今日は、老人達の肩を叩いて、世代交代を伝えたいと思うのです。

 村上春樹の「1Q84」を読んだとき、最初に僕が感じたのはなんと”老い”でした。どこがどう老いなのか具体的に分からないのですが、最初の数ページを読んで「あっ、僕は今、老人の書いた小説を読んでいる」とはっきり自覚したのです。
 言うまでもないことですが、別に老いた人の書いた小説だから悪いとかそういうことではありません。ただ、それはもうフレッシュな何かから随分遠くに来たのだということです。村上春樹は「グレート・ギャッツビー」の翻訳者後書きみたいなところで、確か「翻訳の賞味期限」について書いていました。今さら僕が翻訳なんてしなくても既に良い訳がいくつも出ている、ただ時代は変わるしそれらの翻訳はもう賞味期限が切れている、だから僕は新しい翻訳を出してみた、というようなことです。
 文章に賞味期限があるのならそれを紡ぐ作家にも賞味期限はあるのではないだろうか、そしてこの作家の賞味期限はそろそろかもしれない、と僕は1Q84を読んでいて思ったのです。新刊なのになんだかもう古いような気がしたのです。繰り返すようだけど、古いから悪いとかそういうことではなく、古いというのはただ遠いということです。源氏物語は紛れもなく素晴らしいけれど、でも21世紀の僕たちからは遠い、そういうことです。

 やっと村上龍のことですが、最近の小説「歌うクジラ」では老いを感じなかったものの、この「逃げる中高年、欲望のない若者たち」からは老いのようなものを感じました。老いというよりも、村上龍もある世代という枠の中で生きていて、それはもう引退しつつある人々の世代なのだと感じました。もう本当に僕達がしっかりしないといけないのだと思いました。

 たとえば「サイゼリヤの誘惑」という章があって、その中に、自分の番組にサイゼリヤの社長が出るから行ったことのないサイゼリヤに行ってみた、ということが書かれています。村上龍はまず「その安さとおいしさ」にびっくりして、それから生ハムにびっくりします。

(以下引用)
「もっと驚いたのは、パルマ産の生ハムが紛れもない本物だったことだ。中田英寿が現役でパルマに所属していたころ、わたしは何度も彼の地を訪れ、ミラノやピアチェンツァやボローニャなどを含めて、かなりの量の生ハムを食べたが、サイゼリヤは、本場にまったく劣らない味だったのだ。(・・・中略・・・)モッツァレラチーズもまさしくバッファローの新鮮な本物で、本場イタリアの、たとえば高速道路のドライブインのものよりは品質がはるかに上だった。何でこんなにハイレベルの食材がファミレスにあるんだ、とつぶやきながら、わたしは満足してハムとチーズを味わった。
 ワインも本物で、フィレンツェで飲むキャンティのテイストが維持されていた。(・・・中略・・・)本場イタリアでも通用するような「本物」の味と茹で具合で、本当にびっくりした」
(引用終わり)

 サイゼリヤべた褒めです。
 その後、客はこんなにハイクオリティの食べ物がこんなに安く提供されているなんてどんなすごいことか分かっているのか、幼稚園児が普通にこんな本場のイタリアンを食べているのは不自然じゃないか、今は安くて高品質なものが手に入る、ユニクロの服を来てニトリの家具とヤマダ電機で買ったテレビのある部屋でマクドナルドを食べている生活は自分が学生の頃より数百倍快適だろうということを書き、その後、こう結んでいる。

(以下引用)
「だが、何かが失われるような気もする。それが、失われてもいいものなのか、それとも失われるとやばいものなのか、それはまだわからない」
(引用終わり)

 わからない?
 いや、分かると思うんだけどなあ。
 世代、という括り方は僕も嫌いだが、でもこういう文章を読んでいると世代という言葉を意識しないわけにはいかない。
 僕は今31歳だけど、その何かは”失われるとやばいものだ”ということは普通に分かっている。たぶん同世代のほとんどが分かっている。でも村上龍には分からない。僕たちはサイゼイリヤへは安いから行くことがあっても絶賛はしない。僕は2回サイゼリヤへ行ったことがあるけれど、別にそんなにおいしいわけでもないしレストランに必要な決定的なものが欠落していることは明白だ。
 僕たちは彼らには見えない大事なもののことも分かっているから、その大事な何かを失いはしないし、快適な生活も失いはしない。それらを踏み越えて更なる未来へと歩みを進めている。
 もう「本場」とか「本物」とかいちいち言わなくてもいい時代を僕たちは生きている。村上龍は「本場イタリア」とかそういうことをいちいち言わなくてはならない世代の人なのだ。

 海外旅行へ行きたがらない若者のことに言及しているけれど、けして「友達いっぱい」ではない僕の友達のうち10人以上は海外で暮らしている。旅行とかホームステイではなく、海外で研究したり働いたり専門的な勉強をしたりしている。今は日本に戻っている人たちを含めれば倍はいる。もういちいち「海外」とか大声で言わなくていいのだとみんな知っている。

「若者は外部に欲しいものを探さない、まるで死人」だと村上龍は言っているけれど、それは単に僕たち若者の欲しいものが老いた人間には理解できなくて見えないというだけのことだ。僕たちが「欲望のない若者たち」なのではなく、彼らが「欲望の見えない老人たち」なのだ。

 芸術の世界にも科学の世界にも職人の世界にも経営の世界にも、ありとあらゆる世界に尊敬すべき先輩達がたくさんいらっしゃる。けれど、僕たちはその人たちを越えて行く。彼らの作ってくれた豊かな世界に育まれたお陰で、当然のようにその上を行く。ピカソは天才的な芸術家だったけれど、今見たら「ふーん」で終わりだ。だって僕たちはピカソ自身がそうして作ってくれた新しい世界で呼吸して育ってきた新世代なのだから。大好きな奈良美智さんたちの世代も、悪いけど今越えて行く。天才科学者が一生掛けた発見も発明もググったらすぐに勉強できる。そして新しいものを作る。大好きな尊敬すべき先人たちが作ってくれたこの世界で、僕たちは巨人の肩に乗って、もっとずっと遠くの未来まで歩いて行く。僕たちが次の世代に乗り越えられるいつかまで、ずっと歩いてく、今。

逃げる中高年、欲望のない若者たち
ベストセラーズ


村上春樹にご用心
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