鳥を眺める2人の女の子。

2008-10-31 00:05:39 | Weblog
 2008年10月29日水曜日;

 夜中を12時も過ぎて、部屋に向かい自転車に乗っていると、御所の隣、寺町通りで2人の女の子が立ち尽くして道路を眺めていた。通り過ぎるときに彼女達が何を眺めているのか視線を追えば、道路には小さな生き物が落ちていた。一人の女の子が「死んだの?」と言う声が聞こえる。
 お腹もペコペコだったし寒いし、死んだかもしれないほどに重症の小さな動物に僕ができることなんて何もない、と心の中で呟いて、そして20メートル進んで僕は引き返した。

 戻ると女の子達は迷いながらも立ち去ろうとしているところで、道端に落ちていたのは小さな鳥だった。鳥は地面にしゃがんで頭も地面に付けたような低い姿勢をしてピクリとも動かない。死んでるのか、と僕が聞くと、女の子は「分からないけれど、どこからか落ちてきて車の風で飛ばされて転がってきた」と言った。
 僕は自転車を降りて地面にへばりついているような鳥に触れてみた。すこし力を込めて触ると羽の奥に生き物らしい暖かさを感じる。単に温度が高いというのではなくて、生きているということがはっきり分かる種類の暖かさだった。「生きてるよ」と僕は言って鳥を地面から掬い上げた。怖かったのか鳥はアスファルトにがっしりと爪を立てていて、引き剥がすのにすこし力がいる。こんなに強く地面を掴むならきっと元気に違いない。

 ライトで簡単にチェックしたところ、頭にちょっとした傷があるくらいで大きな外傷は見られなかった。目を開けてこっちをキョロキョロ見る。スズメにとてもよく似た鳥で、でもスズメよりも一回り小さかった。
 しばらく手の中で暖めていると、だんだんと元気になって来たので、頃合を見て手を開くと人差し指にちょこんと止まる。もう飛べるかもしれないと思い軽く指を振ってみるけれど、まだ飛べないみたいで必至にしがみ付いている。鳥の細い足から人差し指に微かな、でも力強い振動が伝わってきて、鳥が体温を上げようとしていることが分かる。こんなに小さな鳥でもうまくできていて強いなと、ウィンドブレーカーに包まった僕は思う。
 そのあと、5,6分くらい、2人の女の子と話をしながら鳥を眺めていると、鳥は急に大慌てで指から飛び立ち、マンションの明かりを横切って暗い夜空のどこかへ行ってしまった。
 それで僕達も挨拶をして家路に着く。


 2008年10月30日木曜日;

 Donnie Darko という映画を以前Oが薦めてくれたのを思い出して見てみると、なんと10月30日は作中でキーとなる日だった。ちょっと不思議な映画なので変な気分になる。こういう暗いのは僕には向いていない。

dies faustus.

2008-10-30 18:59:06 | Weblog
2008年10月25日土曜日

 T夫妻の結婚式。結婚式に行くといつも胸の中が変な風に一杯になってうまく話したりできないのだけど、この日はさらに変な感じがして、どうしてか考えてみるとそれは特にTが僕の日常に近いからだった。今まで僕が出席した結婚式というのは友人親戚を含めてほとんど全て「親しいけれど日常からは離れている人」のものだった。旧友だけど今は遠くに住んでいて1,2年に一度しか会わないとか。だから「久しぶり」という挨拶と結婚式が僕の中ではワンセットになっていた。
 でも、Tは自転車で10分くらいの距離に住んでいて月に1,2回は遊ぶわけで、先日まで独身で冗談を飛ばしていた友人が今日は目の前で比較的かしこまって式を挙げている。そういうのは僕にとってはじめてのことだった。変化がゆっくりとしていて、ともすれば永遠に続くのではないかと思えるような日常が、遅くてもなんでも確実に変化を伴っているのだということを感じる。

 日常という言葉を使い続けるなら、式自体は特別な仕切りがなく始まって、Tも飄々としているし、祝福される者と参列者との距離、あるいは日常と非日常との距離が近いものだった。2,3日どっしりと降り続いた雨もすっかり消え失せて、なんていうかチャーミングな結婚式。

 披露宴は通知されていた通り僕だけベジタリアンコース。何故か豆腐ステーキみたいなのがハートの形だったりなにかとファンシー。ほとんどの人が初対面だったけれど、さすがTの友達というか、とりあえず全員何かに矢鱈詳しい。
 マグロの解体ショーがあって、巨大なマグロが巨大な包丁でさばかれる。僕はベジタリアンなんて言い出して、動物は友達とか、つまるところやっぱりファンシーなことを公言しているくせに興味深々で見に行く。もちろん、このマグロは刺身になって各テーブルへ運ばれた。僕はベジタリアンということで醤油のお皿がなかった。給仕の女の子に「僕もマグロ食べたいです」と言ってお皿を貰い半分似非ベジタリアンであることを知られてしまう。きっと僕のベジタリアンメニューを作ってくれたコックさんは動物性のものから出汁すらも取らないようにしてくれたと思うのにマグロの刺身をパクパク食べるなんて。

 さらに2次会では肉の入ったパスタもムシャムシャ食べておいしかった。
 場所をアメリカ村に移して行われた2次会は、もう少ししたらあの人とも話してみようかと思っているうちにあれよあれよという間に終わってしまい、せっかく70人だか80人だかの人が集まっていたのにもうすこしテキパキ社交をすれば良かったかなとも思う(気がついたら後10分で終わりだった)。でも、僕は披露宴もいいけれどやっぱり二次会っていいなと変な感慨に浸っていて、司会者そっちのけに本領発揮の感でマイクを握るTを嬉しい気分で眺めていた。

 3次会の途中で最終電車を狙って帰る。本当は最後までいても良かったし、ちょうど話もこなれて来たところだったので帰りたくはなかったけれど、ここには書かない複雑かつ軟弱な理由で帰った。
 ぎりぎりまで長くいたかったので、携帯で調べてあった終電時刻よりも、自分の記憶を頼りにしてより遅くまでいれるプランを取ったところ、記憶違いというか、さらに京阪も新しく伸びていて良く分からなかったので京都までは帰れず京阪八幡で電車が終わる。そういう人を狙ったタクシーが駅前には列をなしていて、出町柳まで帰るという知らない人と割り勘をしてタクシーに乗る。

 アパートからは少し離れているけれど三条京阪でタクシーを降り、鴨川沿いを少し歩いて御池を通り部屋に戻る。京都というのは間違いなく僕にとって特別な場所になっているなと思う。それからこの辺りは間違いなくスペシャルだ。
 この日は目まぐるしく沢山のことを考えた。身近な友達が結婚したということと、噂に聞いていた人々が集まって祝宴を開くこと、それから自分がそこに居合わせることや、自分が置かれている環境とか。
 未来というのはいつも明るい。

崖の上のポニョ。

2008-10-24 16:16:47 | Weblog
2008年10月22日水曜日;

 やっと「崖の上のポニョ」を見てきました。僕の周りではこの映画の評判はあまり良くなくて、ポニョはかわいいけれどストーリーがちょっと、みたいな感じの意見ばかりだった。でも実際に見てみるとすごくいい映画でした。ここのところ見た映画の中で一番良かった。表現もストーリーも渾然一体として突き抜けていました。もしもこの映画があまりにも子供じみて見えたという人がいれば、それは宮崎監督の年齢を鑑みていないからだと思います。この映画の背後には老いと死が色濃く読める(老人ホームと幼稚園が並んで建っているのがその一つの象徴だ)。それから希望とか次の世代への愛情みたいなものも。なんといっても恥ずかしいくらいにキラキラした映画だったので、素直に良かったって言うのは確かに照れくさいけれど、でもいい映画でした。なんかすごかったです。とても良く分かった気がする。

僕がベジタリアンになったわけ;その4。

2008-10-23 21:27:55 | Weblog
 動物は友達だ、なんて書くとこういう反論が来るかもしれない。
「食物連鎖のこと知らないの? 僕達は食べたり食べられたりすることで成り立っているわけだから、肉を食べないのは不自然だ」と。

 ときどき、ベジタリアンになりましょう、みたいな本やサイトには「肉食は食肉産業の陰謀だ」みたいなことが書かれていて、それは言い過ぎだと僕も思う。確かに市場を拡大するために沢山のイメージ戦略を図ってきたことは図ってきただろうけれど、それにしたって僕達の祖先は大昔から獣を殺して肉を食べてきたのだから、肉を食べるというのが人類にとって実に自然なのは間違いない。人類の祖先が本当にサルだとしたら、サルまで遡ったっていいだろう。サルは木の実やなんかの植物も食べるし、昆虫などの動物も食べる。知らない人もいると思うけれど、イノシシだとか比較的大きな獣だって集団で襲って食べる。それどころか強い種類のサルは弱い種類のサルを殺して食べる。

 だから肉を食べることは人類にとって極めて自然なことです。なんといってもサルのときから食べているわけだから、それこそ長い歴史があり、肉を食べることに関連した文化だって発達した。

 「自然」「文化」。この二つはマジックワードだと言ってけして過言ではないと思います。その昔下らない教会は免罪符を発売して大儲けした。現代において自分の利益を守りたければこの呪文を唱えればいい。「自然、文化」って。それはもう効果覿面。でも、どうしてこの呪文がこんなに良く効くのだろうか? それは二つとも宗教だからだ。

 僕は宗教の定義を良く知らない。宗教の定義どころか宗教自身のことも良く知らない。だからこんなことを書くと宗教学者なんかに怒られるのかもしれないけれど、僕は宗教というのは「ある前提を決めてしまって、そこから下は疑わない」というスタンスのことだと思っている。ドグマを決めて、そこはもう疑わない。疑うと冒涜ということになる。そしてドグマの上でだけ色々なことを考える。

 自然が素晴らしいという人は「自然は素晴らしい」という前提を疑わない限り、単なる自然の盲信者にすぎない。ときどき同じことを書いているけれど、僕は自然がそんなに素晴らしいとはとても思えない。こんなにたくさんの生き物が殺し合わなくては生きていけないなんて、こんなクソッタレなシステムのどこが素晴らしいのか理解できない。たしかに海も空も大地も森もきれいだ。自然界はすごいものをたくさん作り出した。でも、全てを肯定する気には到底なれない。その素敵な景色は食物連鎖に支えられている。それっていくつの痛みと悲しみと死が支えているのだろう。

 本当に自然ってそんなに素敵だろうか。
 こんなに悲しみに満ちたシステムじゃなくて、もっと他の方法だってあったんじゃないだろうか。

 文化だって同じことだ。
 文化って言ったって何もかもが素晴らしいわけじゃない。文化だからイルカや羊を殺すのも素敵なのだろうか。血の一滴まで大事に使うからってあわれな生き物を殺すことに素晴らしい文化なんて形容が相応しいのだろうか。他に生活していく手立てが見つかれば、そのときなくなるべき文化だってたくさんあるはずだ。それにどんな「文化的」価値があろうが、死と悲しみがそれを支えるなら、そんなものは全然素敵じゃない。文化だからってなんでも許されるわけじゃない。アフリカの28カ国では女の子が生まれるとクリトリスが切除される。爪や髪の毛じゃないから当然痛いし血も出るし、病気になったり死んだりもする。後遺症で気持ちいいはずのセックスがただの拷問になったりもする。でも、これが「文化」だという理由でなかなかなくならない。そんな「文化」なんて消えてなくなればいい。

 どんな言葉だって、僕達はその言葉を使うときにそれが何を意味しているのか吟味しなくてはならない。何かの言葉やラベルを盲信することは悲劇的だ。
 だから、自然も文化も肉食の理由にはならない。

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僕がベジタリアンになったわけ;その3。

2008-10-23 20:29:19 | Weblog
 今週末、友達の結婚式があるのですが、僕がベジタリアンになったと書いたので食事をベジタリアン食に変えてくれた。とてもありがたいし、加えてどんなものが出てくるのか楽しみです。

 さて、前回僕がベジタリアンをはじめた理由の一つは不買運動だということを書きました。ならば、当然ですが、僕は他の人たちにもあまり肉を買わないようにしてほしいと頼まなくてはなりません。たとえば僕一人がケンタッキーフライドチキンを買わなくなったからといって酷いニワトリの飼育がなくなるわけじゃない。でも、これはかなりの難問です。「食べ物のことまでとやかく言われたくない」とか「ベジタリアン教徒がついに布教活動を始めた」とか「男のくせに食べ物で細かいことを言ってみっともない」とか、そういう風に思われることは必至だからです。だから多くのベジタリアンは「私は私、あなたはあなただから、私はお肉を食べないけれど別に気にしないで」と言うことになる。

 さらに、これも当然ながら、ベジタリアンも一個の主義主張に過ぎないので、人を巻き込むことには節度が要求される。「肉はおいしいし、牛や豚がどんな目にあおうが、貧困の国でどれだけ餓死する人がいようがそんなのどうでもいい。これは俺の人生だ」という人だってたくさんいるし、そういう人たちと全面戦争というのは多大なコストがかかってできたものではない。

 だから、本当を言うと僕は自分がどうするつもりなのか、まだ良く分からない。でも、少なくとも進んで肉を食べないということで「動物は友達だ」と言うためのステップを一つくらい上れたのではないかと思う。
 僕は動物がとても好きな子供だった。そして肉を食べるときに何にも考えたりしなかった。クリスマスはいつもケンタッキーフライドチキンだった。皿に載っている肉が生き物の肉であることは当然知っていたはずなのに実感はなかった。最近の都会っ子はなんにも生き物のことを知らない、魚の絵を描いてというとスーパーで売っている魚の切り身を描く始末だよ、まったく、という感じのステレオタイプな「今の子供は自然を知らない」の話を笑い飛ばしていたけれど、結局は僕だって同じことだったのだ。肉がどうやって食卓まで到達したのか、実際には何一つ知らなかった。

 ある日、父親が箱に入った毛蟹を買って来た。木箱の中にはおが屑か何かが入っていて、そこに大きなカニが生きたまま埋もれていた。それが食べるために売られていて、そして父親は食べるためにこれを買って来たのだということは分かっていたけれど、でも僕は「これは食べないで飼う」と主張した。10分後カニは鍋に放り込まれて茹で上がり皿に載って出てきて、僕はそれを食べた。もう抵抗はなかった。お皿に載ってしまえば同じことだ。そして、僕は食べるということはこういうことなのだと納得した。僕達は殺して食べる、そうやってずっと生き延びてきたのだから、かわいそうだけど仕方が無いのだと。自然界だってそうじゃないか。
 だけど、動物は友達だと素直に言っていいのかどうか分からなくなった。

 でも、肉を食べなくても全く健康に生きていけるなら、それなら肉を食べなければいいし、そのとき僕は比較的素直に動物は友達だということができる。ベジタリアンになった理由の一つはそういうことだと思う。堂々と動物は友達だって言えたら随分素敵だと思うのです。

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僕がベジタリアンになったわけ;その2。

2008-10-20 15:02:59 | Weblog
 前回のベジタリアンの話が途中で終わってしまったので、続きを書きたいと思います。その前に、さっそく一つ変えたことがあって、魚介類はときどき食べることにしました。それは栄養面を考えてのことです。

 ベジタリアンでない人にはあまり関係のない話なので、興味のない方はしばらく読みとばして下さい。

 僕がざっと本を読んだりネットで調べたりしてみたところ、ベジタリアンの食事には2つの弱点があるようです。動物由来のものは、牛乳も卵も一切口にしない、という人のことをビーガンを呼ぶのですが、ビーガン食ではビタミンB12とオメガ3系脂肪酸が不足します。どちらも人体では作り出すことのできない栄養素で、かつ細胞を作ったり神経を作ったりするのに必要なので欠かすことはできない。

 ビタミンB12は残念なことに植物由来の食べ物には「人体が使用可能な形では」ほとんど含まれていない。海草だとか大豆には含まれているという記述がときおり見られますが、それらに含まれるビタミンB12はいわば活性を持たないもので僕達はこれを利用できない。ビタミンB12はほんの少ししか必要なくて、しかも僕達の体はそれを貯蔵しているので、急にビーガンになっても10年くらいは大丈夫だけど、10年後くらいに臨床症状が出る可能性があるようです。だからビーガンの人はビタミンB12のサプリを摂ることが強く推奨されている(乳製品、卵にも含まれているのでそういうものも食べるベジタリアンは全く心配ない)。

 そういう推奨というかガイドラインをどこが作っているのかというとアメリカの厚生省みたいなところです。
 医学的にはベジタリアン食の十分性に関するコンセンサスが既に取れているようです。一昔前は「ベジタリアンでも大丈夫か?」ということに医学的関心がおかれていましたが、それはもうクリアされて、今は「ベジタリアン食はどのように持ちいるのが医療としてもっとも適切か」という方にシフトしているそうです。

 ビタミンB12の他にもう一つある弱点、オメガ3系の脂肪酸については、一部の植物油に豊富に含まれます。だから基本的にはこれらの油を食事に用いれば問題ないのですが、よく知らない油だったので当面はオメガ3系脂肪酸をたくさん含む魚はたまに食べようと思いました。そのうち油に替えるかもしれないけれど。
 上述のビーガンの他に、ベジタリアンにはいろいろな種類があって、乳製品は食べるベジタリアンのことをラクト・ベジタリアン、卵は食べるというベジタリアンのことをオボ・ベジタリアン、魚は食べるというベジタリアンのことをペスコ・ベジタリアンというのですが、この呼称を用いるのであれば僕はラクト・オボ・ペスコ・ベジタリアンというようなことになってしまい、果たしてこんなことで自分をベジタリアンだと呼んでいいのか疑問になる次第です。

 ただ、ベジタリアンの「ベジ」というのは「ベジタブル」のベジではありません。忘れてしまいましたが、ラテン語の「活き活き」という意味の言葉が「ベジ」っぽい感じの単語で、それが語源です。だからベジタリアンの訳「菜食主義者」は完全に誤訳で、本来「元気主義者」みたいな感じになるべきだったわけです。「元気主義」のためにはどうやら菜食がいいみたいだ、ということで菜食は取り入れられているにすぎません。もちろん今日では菜食主義というのが定着しているので、これは単なる言いがかりですが。 

 「理由」を書く前にまた長々と書いてしまって、せめて今日は理由の一つくらい書きたいと思う。

 地球上で飼育されている牛の頭数を知っている人はどのくらいいるのでしょうか? 僕は全然知りませんでした。そんなこと気にしたこともなかった。あるベジタリアン関連の本を読んでいると世界で飼育されている牛の数が書かれていて、吃驚するくらいの数だったので胡散臭いと思って調べると、その数は正しかった。

 『世界で飼育されている牛の頭数は、なんと14億頭弱です』

 あんな大きな生き物が14億も。
 僕達人類は60億人なので、4、5人で一頭を飼っている計算になります。実際には牛を食べない人もたくさんいるので、下手をしたら牛を食べる人2,3人で1頭を飼っている。考えてみればこれは妥当な数字かもしれない。2,3人で年間に1頭くらい食べるだろう。でも、これがどれだけ異常で、どれだけの経済的環境的負担になっているかイメージするのは簡単なことです。
 たとえば、アメリカの広大な農地で作られている作物の85%は家畜のエサ用です。清潔な水が手に入らない人が世界にはたくさんいますが、人類が利用しているきれいな水の50%は家畜用です。環境問題とか飢餓の問題とか、いろいろな経済支援を考えたりしているけれど、そんなことよりこの超巨大産業をどうにかする方が先決なのは明らかです。前にも書いたけれど、1キロの牛肉を得るのに16キロの穀物が要る。1キロの肉なんてすぐになくなる。16キロの米がどれだけ持つか僕達日本人は良く知っている。エネルギーの観点から見れば、与えたエサに含まれるエネルギーの大半は牛が動いたり体温を保ったりするために使われてしまうということだ。与えたエサと同等のエネルギーが肉に蓄積されるわけじゃない。それでも肉が必要なら仕方ない。でも、肉の食べすぎで癌や心筋梗塞、脳卒中、生活習慣病をはじめとした様々な病気のリスクが増え続けているこの社会でこれだけの食肉産業を維持することは悪でしかない。

 だから僕が肉を食べない理由の一つは不買運動です。

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僕がベジタリアンになったわけ。

2008-10-18 19:06:05 | Weblog
 20世紀物理学おけるスーパースターの一人、リチャード・ファインマンはその著書「ご冗談でしょファインマンさん」の中で、デザートにはチョコレートアイスを頼むことに決めている、と述べている。そうするとデザートを選ぶときに迷わなくて済むからだ。もちろん、これは彼にとってデザートの優先順位が低かったということにすぎない。もしもデザートが大好きなら、その度にメニューをしっかりと睨むのは楽しいことだし、その人にとってそれはとても重要なことに違いない。ファインマンの主張は、全ての物事に神経を使うなんてできっこないから、だから自分のなかで優先順位の低いものについては、もうこれと決めてしまって労力をさかないようにするという方法もある、という簡単な示唆にある。ファインマンはそれまでデザート選びに苦労していて、チョコレートアイスに決めてしまうことでそこから開放されたというわけだ。

 さて、先日書いた通り、僕はベジタリアンになって、ぐんと食べ物の選択肢が減りました。10分の1くらいになったのではないかと思います。ところが、意外に苦労はなくて、以前よりかえって気楽に食べ物を買うようになった。肉は買わないと決めてしまえば、それはそれで楽なものです。

 ベジタリアンになったと人に言うと「慣れるまで大変だろうけど」ということを結構言われるのですが、なぜかそれも全くありません。僕がもともとそんなに肉を食べなかった、フルーツが大好きだった、ということも関連しているのかもしれないけれど、僕はこの日記にベジタリアンになろうと思う、と書いた日にまるでカチッと音を立ててスイッチが切り替わったみたいにベジタリアンになったようです。どうせ僕のことだから、2、3週間もすれば元に戻るだろう、と思われてもいるようですが、別に我慢して肉を食べないという風ではないので、元に戻る可能性もあまりないと思います。我慢とかではなくて、なんだ食べなくて良かったんだ、と開放された感じです。

 実家に連絡をとる必要があったのでメールを書いて、そのついでに「ベジタリアンになった」と書くと、予想はしていたけれど母親は驚愕して「何かにだまされてるんじゃないの」と返事を送ってきた。まるで宗教か何かだと思っているのだと思うし、そう思うことも良く理解できる。僕もずっとベジタリアンって気難しそうだしややこしそうだし、考えも偏ってそうだし、聞く耳持たずな感じだなと思っていた。でも、そうじゃないんです。マジョリティーをもって正常とみなし、マイノリティーは変人に分類するのが常識なので、その観点からするとベジタリアンはマイノリティーで変人です。だから変人だって言われても仕方ない。でも頭がおかしいわけではありません。

 食事というのは人が生きる上でとても重要なことだから、僕はここで自分の立場を表明しておこうと思う。
 僕はベジタリアンになったし、自分から好んで肉や魚を食べることはしません。でも、もともとそんなにストリクトな性格ではないし、場合によっては肉も魚も食べます。大事なデートがベジタリアンであるが為に台無しになったり、せっかくのパーティーが台無しになったりするのは嫌です。人間はかなりの程度食事を共にするという行為で結ばれていて、僕はそこを捨て去ることはできない。たとえば僕の恋人が「ベジタリアンなんてやめてほしい」というなら、それなら僕はベジタリアンなんてあっさり辞める。特に何かの覚悟を決めて臨んだわけではないです。僕の友達で「じゃあこれから冬なのに鍋とかどうするんだよ」とか「パーティーどうするんだよ」とか思っている人はそんなに心配しないでください。基本的に僕は僕だし、べつに3日前までの普通に肉を食べていた記憶が消し飛んだわけではありません。

 僕のブログを断続的に読んでくれている人は、つい3,4日前の日記を読んで「この人はドイツのベジタリアンのパンフレットを読んで急にベジタリアンなんて言い出して単純な人」だと思っているかもしれない。でも僕がベジタリアンという存在を意識するようになってから自分がベジタリアンになるまで、実は1年くらいの時間が経過しています。加えて、何事もそうであるように、ずっとずっと子供の頃から今までの生活の中にその種はあったのだと思う。

 とりあえず、その1年近くということは今すぐに示すことができて、以下は僕がこのブログ上で去年の11月13日に書いたものです。


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she never eat meat.

 ドイツにいるYちゃんに勧められて、「いのちの食べかた」という本を読んだ。そうだ、Yちゃんのブログにはこのブログからリンクが張ってあるので、もしも宜しければ「読後感あるいはエッセイ」というのを見てみてください。

 「いのちの食べかた」の著者は森達也さんという方で、基本的には映像、ドキュメンタリーを作っている人です。たぶんオウム真理教の信者を撮ったドキュメンタリー『A』が一番有名なのではないかと思う。

 本の内容は、屠場とか差別に関するもので、大まかなところは知っていました。だけど、僕はこの本を読んで随分大きな衝撃を受けた。
 僕達が毎日のように口にしている肉類は、牛や豚や鶏を殺して解体したものだ。日本人が年間に食べる肉の量は膨大だろうし、毎日毎日屠場ではたくさんの動物が殺されている。毎日、誰かが僕の代わりに動物を殺している。それは分かっている。と思っていた。

 でも、「分かっている」ということに関して、僕はあまりにも注意が足りなかった。「分かっている」はときどき、ときどきどころか多くの場合「思考停止」のサインだ。本当はこの世界は複雑だし、何かが「分かる」ということは有り得ない。有り得ないのに僕達が「分かった」といとも簡単に口にするのは、「もうこれ以上このことは考えたくない」からに過ぎない。

 僕はについて考えることを放棄していた。そんなことを考えても仕方がないじゃないか、別に具体的な行動を起こすわけでもないだろうし、と言われるかもしれない。たしかに僕が屠場のことを考えたところで、牛や豚が救われるわけではないだろう。だから、僕が何かを考えたところでそれが世の中にとってプラスに働く可能性は極めて低い。

 しかし、逆のことは十分に起こり得る。逆というのは、「考えを停止することが世界にとってマイナスになる」ということだ。基本的に、人類が引き起こしてきた悲劇というものは「全員が思考停止状態に陥った」ときに起こっている。だから、少なくとも一部の人々は思考が停止しないようにしなくてはならない。ある程度の数の人々がしっかりと考えていれば、物事は最悪の事態を回避できるはずだ。僕は別にその”考える人役”にしゃしゃり出るつもりはないけれど、これも歴史が教えるように「他の誰かがやるだろう」とみんなが思っているときに悲劇は起こる。まるでつまらない説教みたいだけれど、一人一人がちゃんと考えることは人類の滅亡を防ぐ重要な手立てなのだ。日々の思考というのは小さなことで、まったくの無駄にしか見えないけれど、本当はとても重要なものだ。村上春樹が雪かき的と呼んだように。別に雪かきをしても家は建たない。でも雪かきを毎日しないとある日急に屋根は潰れる。

 森さんのメッセージはとても強かった。この本は屠場に関する本だけれど、僕は「考えよう」というストレートなメッセージと、ひいては「考えれば世界は良くなる」という希望が強く読めた。児童書という性格もあって、記述がとても丁寧でダイレクトだ。一部引用してみると、

(以下引用)
”すべてが終わってから、誰かが言う。「どうしてこんなことになっちゃたんだ?」そこで皆で顔を見合わせる。責任者を探すけれど見つからない。それはそうだ。責任者は全員なのだ。でも誰もが、いつのまにかそれを忘れている。
 だから、しつこいと思う人がいるかもしれないけれど、何度でも書くよ。知ることは大切だ。知ったなら忘れないように、思うことを停めないように、何度でも深く心に刻もう。”
(引用終わり)

 考えることは尊いとか、偉いとか、そういう話ではなくて、考えることが人類にとって必要なのだという切実な書かれ方をこの本はしている。社会のどこかに問題があるとか、誰かの所為でこんなになった、とかではなくて、全員が責任を共有しているというスタンスで説明が成されている。僕はあまり社会について書かれた本を読まないけれど、こんなに説得力があってかつ力強く平和を志向した本ははじめて読みました。

 ついでなので、僕達日本人が2004年一年間に食べた牛と豚の頭数を書いておこうと思う。

 牛: 1,267,602頭
 豚: 16,183,495頭

 126万頭とか1600万頭とか、ものすごい数だ。そりゃあ日本人は1億3000万人もいるわけだけど。
 ニワトリは何頭か分かりませんが、消費している肉の重さは豚とほぼ同じです。だから豚の頭数よりも確実に一桁、下手をすれば二桁多いはずですね。

 さらについでに以下はYちゃんのブログから引用です。

(引用はじめ)
”少しだけ具体的に説明してみると、約1kgの牛肉を生産するのに、16kgの穀物が必要です。
私たちが1㎏の牛肉を食べたところで、何日生きられるでしょうか。それを穀物にかえると、ずいぶん効率がいいことが分かります。たくさんの人を養えるからです。
豚肉を生産するのに必要なエサのエネルギー(カロリー)は、それを食べて人間が得るエネルギーの5倍以上、牛肉に至っては30倍以上必要です。

いま、地球上で7人に一人が餓死寸前です。
それなのに、家畜におなかいっぱい穀物を食べさせ、殺して肉にして、その肉で養える人間の数はごくわずかです。
しかも、肉を多く食べることで肥満や、心臓病、ガンなどのリスクが高まり、そのために薬品を使わなければならなくなるとすると、もう無駄の数珠繋ぎですね。

(引用終わり)

 部分を抜き出すと誤解を招き易いので、念の為に言っておくと、彼女は別に肉食をやめろと言っているわけではありません。

 だけど、肉を食べるというのは本当はとても悩ましいものだなと思います。

>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>


 ここに出てくるYちゃんというのは、もちろん3,4日ほど前の日記に書いたドイツのパンフレットを翻訳してくれたYちゃん(ゆいちゃん)のことで、彼女は間違いなく僕に多大な影響を与えた。そのパンフレットが最後の一撃になったことはたしかなので、ドイツの知らない誰かが作ったちいさな紙切れは日本で僕に作用をもたらしたことにもなる。
 ゆいちゃんの他に、もっと長いあいだベジタリアンをしている友達が京都にいて、この二人がいなければ僕はベジタリアンなんて考えもしなかったに違いない。そして考えたとしても「本当に栄養が足りなくなったりしないのか、大丈夫なのか?」という疑問が解消されなかったと思う。そしたら怖くてとてもベジタリアンなんてできたものではなかった。ポール・マッカートニーがベジタリアンだとかカール・ルイスがベジタリアンだとか、ハリウッドスターとか、そんな有名かもしれないけれど遠くの人がベジタリアンであるなんてことより、身近な友達が実際にベジタリアンであることの方がずっと説得力がある。

 それにしても、ついこの間、夏休みで京都に来ていたゆいちゃんの隣で僕はチキンをほうばっていたのに、物事というのはときどきあっさり変わる。ただ、それは見かけ上のことであって、水面下では着々と準備が進んでいたのだろう。1年間ときどき色々考えて、そして3日前に臨界が来たということだと思う。

 本題である「理由」をまだ書いていないし、それに付随して自分がベジタリアンになるだけで収めるつもりはないということを書きたいのですが、すでに随分な長さになっているので次回に回します。

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kfc.

2008-10-16 17:02:24 | Weblog
 ケンタッキーフライドチキンでどのようにニワトリが扱われているかというドキュメントです。動物が虐待される映像が含まれているので、そのようなものを見たくない人は見ないでください。でも、できれば見てください。




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vegetarian.

2008-10-15 19:12:16 | Weblog
 ベジタリアンをはじめようと思う。
 もブロイラーも、惨いけれど仕方が無いのだと思っていました。誰かが殺さなくては僕達は肉を食べることができなくて生きていけないのだと。でも僕達は肉を食べなくてもむしろその方が健康に生きていけるようです。
「菜食のススメ(http://saisyoku.com/)」というサイトには牛や豚を殺すときの映像が紹介されています。中でもケンタッキーフライドチキンがどうやって鶏を育てているかという映像は強烈でした。僕はつつきあい防止のためにヒヨコのクチバシがどんどんと切り落とされていく映像を見たときに鶏肉も卵も食べるのをやめようと思いました。かわいそうだとかそういう次元の話ではありません。狂ってる。僕は自分が肉を食べなくてはならなくて、そして目の前に鶏が居たらそれを殺して食べることができると思います。だけど今日の肉大量生産システムは狂気です。ピヨピヨ鳴くヒヨコのクチバシを切り落として狭いところに押し込んで薬付けにして育て、時には牛を生きたままミンチにするような惨いことが、その会社の利益のために行われています。ずっと僕はそれでもというのは人間に課された宿命なのだと思っていました。ところが今、肉は本当は必要なくてお金の為に異常な世界が形成されているようです。
 僕達は肉を食べなくても生きることができます。それもたぶん肉を食べていたときよりも健康に。でも肉はおいしいし、あの喜びをなくすなんて、そんな硬いこというなよ、って思うかもしれない。もしもヒヨコのクチバシをちょんぎってまでフライドチキンが食べたいならそうすればいいと思う。

 以下のサイトからは、もちろん強く影響を受けたわけですが、別にこれらを見ただけで急に感化されたというわけではありません。
 僕だって普通の教育を受けてきたので、はっきり言って肉を食べない生活には栄養面での不安を持ちそうになります。でもたくさんの先人達が健康に暮らしているのを見て、それから実は肉は必要ないとか今の肉工場の実体を見ると、色々なことが腑に落ち、肉をなるべく食べないようにしようと思いました。

 ミートリックス
 http://www.themeatrix.com/intl/japanese/

 菜食のススメ
 http://saisyoku.com