plastic tape.

2006-07-27 16:49:41 | Weblog
 大学の掲示板に、「彼氏の元カノの元カレを知っていますか?」というコピーのポスターがもう結構長い間貼られている。一体何のポスターかというと、エイズの検査を受けましょうというポスターです。なんというかシビアなポスターですね。

 7月22日土曜日 

 夕方にmちゃんのブログで下鴨神社の御手洗祭が23日までだと知る。それを読むまですっかり忘れていた。Mちゃんに、明日までだから、今日じゃなくて明日でもいいけれど、しかも今日僕は8時から予定がある、というと、明日は雨みたいだから今日行こう、という返事が返ってきて、慌ただしく御手洗祭へ行った。いつもの静かな糺の森に屋台が出ていて、夏だなと思う。僕たちは足付けはしなかった。ちょっといんちきくさいところから入って中の様子をみると、それはなかなか神性を感じさせる行事だった。人間というのは水も火も好きなのだなと思う。mちゃんにばったり会った。
 8時から妹カップルと御飯。

 7月23日日曜日

 レオナルド藤田展へ出向く。最終日の所為か人が多くて絵なんて見れたものではない。人ごみの絵は見ないで、空いているところだけすたすたと見て、それから隣りの図書館へ行く。日曜日は図書館が5時に閉まる、ということを忘れていて、僕が本を選ぼうとしたときには閉館のアナウンスが流れたので、目の前にあった「クマのにあったらどうするか」という本と「道具としてのからだ」という本を借りた(民俗学の棚にいたのです)。クマの本はアイヌ最後の狩人が書いたという本で、なかなか面白かった。クマにあったら、逃げないで棒立ちしたまま、クマの目を見て、ウォーっと叫ぶと良いそうです。逃げると殺されるそうです。クマは時速60キロで走るとのことなので、逃げられないですよね。
 アイヌの狩人は、クマを捕った後に、それを解体し、使わない部分である肺などを小さく切って、そして木の枝なんかに刺しておくそうです。するとそれをカラスが食べて、カラスと狩人の間に一種の助け合い関係ができます。カラスは鉄砲を持った人間を普通は怖がるけれど、アイヌの狩人にはついてきて、そして空からクマやシカを見つけるとカーカー鳴いて教えてくれる。それを狩人が撃ち、肺やなんかをカラスに与える。
 僕は近所のカラスを飼い慣らしたら面白いかもしれないな、とここ1年ほどずっと考えていたので、そろそろ実行してみたくなった。ただ、ムツゴロウさんによると、カラスは頭がいいから面白いけれど、独特の匂いがあるから困るとのことなので、注意が必要だ。
 近代美術館には9月の終りから伊藤若冲を中心としたプライスコレクションがやってくる。僕は別に絵が好きだとかいうことはないですが、若冲は見たいなと思う。江戸時代にすごい天才がいたものだと思う。

巨大なタマネギを君はきれいに刻んで炒めてくれるのだろうと思う。

2006-07-24 16:01:02 | Weblog
 夜のプールサイドに寝転がって、遠い過去からやって来た星の瞬きと、空を飛び行き、刻一刻姿を変化させる雲を眺めていた。水面に目を遣ると小さな無数の波があちらこちらへ進行し減衰し、もう少しその姿を良く見ようと上体を起こせば、それに応じて僕の服にできた無数の皺が形を変化させた。僕はその膨大な計算量に圧倒されて頭がクラクラとした。

 いまさらですが、「マトリックス」という映画は特異的に優れた娯楽映画でした。僕は「マトリックス」という映画を公開時に映画館で見たのですが、ちょっとびっくりしてしまった。一緒に見に行った女の子は「ドラゴンボールか何かみたいで幼稚くさい」と憤慨していたけれど、とんでもない。大昔から哲学者をはじめとする人々が悩みに悩んでいる題材を使って、こんな娯楽作品を作るなんて偉業だとしか表現できない。しかも大ヒットした。世界中で大勢の人間がこの映画を見たのなら、それは人々の深い部分へある影響を及ぼし、膨大な数の次世代文化シードを蒔いたに違いない。

 もう何度も書いていてくどい話になりますが、僕たちは僕達の頭脳が作り出す仮想現実を現実として生きている。本当の世界には色も形も温度も音も味も何も存在していないはずだ。本当の世界は「何か」でできていて、それを僕たちは想像することすらできない。その「何か」は僕達の五感というちっぽけなフィルターを通じて音や色や形という虚構になる。

 たしかロジャー・ペンローズか誰かの本で読んだのですが、とても有名な被験者の脳に微弱な電流を流す実験があって、その実験ではある部位に電圧を印加すると被験者が過去のことをありありと思い出す。
 それは、思い出す、というような生半可なものではなくて、実際にそのときに戻ってその状況を追体験している、という状態になるらしい。そのとき被験者は台所で母親が夕飯の支度をする音も匂いも感じ取っていて、それどころか庭の向こう側から聞こえてくる自動車の音も聞き取ることができる。
 この実験をひいて、ペンローズは「実は人間の脳はそれまで経験したありとあらゆることを記憶しているのだ」という仮説を出しているけれど、これは脳にある電気信号を送ることでほとんど完璧なバーチャルリアルティを作り出すことができる可能性を示唆しているとも言える。

 マトリックスというのはまさしくそうして作られた仮想現実だ。
 人間はコンピュータからの信号で仮想現実を現実と思い込んで眠ったまま生涯を過ごす。コンピュータは膨大な数の計算をしてその仮想世界を維持する。だけど、ときどきバグが起きて、それは人間に「デジャ・ビュ」として認識される。

 高校生のとき、部屋の窓から山並みを眺めていて恐ろしいことに気が付いた。
 その日は風が強く吹いていて、山肌を覆いつくす木々は風に揺れてモンゴルかどこかの草原みたいなうねりを見せていた。僕は最初何にも考えずにそれを眺めていた。ちんけな表現だと思いながらも、小学生の時に読んだズッコケ三人組シリーズの中の何かの話で、「風が見えるみたい」という台詞が風渡る草原の描写に使われていたことを思い出して、それからそれが一体何の話だったのかを思い出そうとしていた。たぶん、ズッコケ山岳救助隊か何かそんなのだったな、ハカセの妹がこんな台詞を言ったんだよな、と思っていて、そして突然はっとした。

 当然のことだけど、僕の見ている山並みは現実の、本物の山だった。つまりどこにも誤魔化しはないはずだった。もしもこの世界を本当に物理学的な法則が支配しているのなら、それはこの山に生えている木々の全てを支配し、さらにはその葉の全ても支配しているはずで、だとすれば果てしなくごちゃごちゃと揺れ動く天文学的な数の木々や葉っぱの全ては出鱈目に動いているのではなく一定の規則に則って動いているのだ。膨大な数の計算量。

 別に誰かが計算しているわけではないし、木や葉っぱはそう動くようにできているのだから、いちいち驚くことはない、という見方ももちろん可能だ。でも、計算というのは本来そういうことなのだ、そうなるようにできているものを人間の都合が良いように組み合わせたのが計算機で、当たり前だけど、計算機もこの世界に存在している以上は物理的なものでしかない。
 今は山の木々を問題にしている。各枝、幹、葉がそれの各部分で弾性や何かを持っていて、そこに色々な角度で色々な強さの風が吹き、また風の方向も強さも葉や枝の動きに影響され、影響された風の動きは、また新たな影響を葉や枝に与える。この果てしなく複雑な相互作用の全てをシミュレートすることは不可能だ。
 だけど、僕たちは無理矢理この現実の山全体を巨大な「コンピュータ」だと呼ぶことはできる。山に風が吹いた状況をシミュレートするための巨大な計算機なのだと。別にコンピュータというのは電子回路で組まれた箱のことをいうわけではなくて、ある物理的な性質を都合よく利用したもののことをいう。だから、僕たちはDNAの反応を利用したコンピュータもマッチ箱を利用したコンピュータもアイスクリームのスティックと紐を利用したコンピュータもつくることができる。

 だから、この山の動きを「計算」だと表現することはあながち間違いではない。そして、この複雑極まりない計算は山でだけでなく、この世界のありとあらゆる場所で、ありとあらゆる瞬間に、僕達が見ようが見まいがお構いなしに続けられている。今この瞬間の世界中の人の服にできた皺の形。話す時の口の中の唾液の動き。下水に流れ込む水の動き。砂漠を舞う砂の動き。海の水の流れ。世界を回る大気の動き。
 どこにも誤魔化しはないのだろう。あらゆる瞬間に完璧な計算が行われている。マトリックスとは違って。それを思うと僕はくらくらする他ない。

 マトリックスを僕は3作とも見た。2作目と3作目はどうでもいいような話だと思っていた。でも3作目を見て少し考えを改めた。
 3作目ではたしか主人公がその超人的な力をマトリックスの中ではなくて、現実世界でも使えるようになる。悪者のロボットみたいなやつに主人公のグループが追い詰められて、もうどうにもならないというときに主人公が超能力みたいなものを使ってロボットをやっつける。
 このシーンを見た瞬間、僕はなんて酷い映画だろうかと思った。もう何でもありでご都合主義で。マトリックスの中で超能力が使える、というのはまだ納得が行く。そこはバーチャルな世界であり、その嘘っぱちに気が付いてしまえば、それらをコントロールしてなんだってできるかもしれない。でも、この場面は現実世界のことで、そんな漫画みたいなパワーで敵をやっつけるなんて冗談にもならない。

 なんだかなあ。僕は浮かない気分で映画館を出た。
 でも、しばらくすると違った可能性が思われた。
 冗談にもならないなら、あれは冗談ではなくて、つまり本気なのではないだろうか。そして、もしも本気だとしたら、そこにはどういう意図があるのだろうか。

 一応、マトリックスという映画の世界観は、僕達の生きているこの現実に則っている。現実では超能力はなしだ。主人公は仮想世界でのみ超能力を使うことができる。なのに、彼は現実世界で超能力を使えることになってしまい。しかもそれは冗談ではない。

 ならば、ここから導出される最もシンプルな答えはこれしかない。

「映画の中でマトリックスの外の”現実”とされていたものは実は現実ではない」

 マトリックスは一重ではなかった、ということだ。彼らはマトリックスの外に出た気分になっているけれど、実はまだ「一枚外側のマトリックスの中」にいるに過ぎない。もしかすると、そのもう一枚外は本当の現実かもしれないし、まだそうではなくてあと3重くらいはマトリックスがあるのかもしれない。

 僕達が住むこの世界というのは、本当はどの辺りにあるのだろうか。

生意気ヘッドホン・ドック。

2006-07-22 15:40:43 | Weblog
 Cで書いていた数値計算のプログラムがどうしてもうまく走らなくて、もしかしたらプログラミング以前の問題があるんじゃないかと、先生にFORTRANでプログラムを書いていただいて、そのソースをメールで送っていただいたのだけど、使っているgooのメールを開こうとすると「エラーが発生しています」というアナウンスが載っていて、僕はメールボックスを開くことができなかった。僕はgooのサービスにお金を払っているし、しかもあまりに間が悪いので愕然として、なんだかなあ、これがもっと重大なことだったら、それがメールサーバーのエラーで駄目になってしまったらgooってちゃんと責任をとることができるのだろうか、と思って、いつもは見向きもしない「免責事項」のページを読んでみると、

『 また、当社は、gooで提供するサービスの品質については如何なる保証も行っておらず、gooのサービスの停止、欠陥及びそれらが原因となり発生した損失や損害については一切責任を負いません。』

 と書かれていて腰が砕けそうになった。
 無論、僕はこれを契約前に読んでいるはずだけど、なんというかへんてこな商売だなと思う。


 7月16日日曜日

 実家へ車を返しにいって、ついでに晩御飯を食べる。蕎麦湯しゃぶしゃぶ、という変な父親の作ったメニュー。犬が外で花火をしている子供に吠えようとしたので僕が叱ると、彼女はしょんぼりして動かなくなった。普段両親にひたすら甘やかされているのでびっくりしたのかもしれない。頭を撫ぜてみてもやっぱりしょんぼりしていて、一人で台所へ行ったり、また戻ってきたりトボトボ歩く。すこし心配になったけれど、僕が帰るときはやっぱり足元に纏わり着いてきたので一安心。

 7月18日火曜日

 Sちゃんとミーハーにもサントリーミュージアムのスヌーピー展へ行く。もちろん雨。僕が天保山へ行くときは雨が降っていることが多い。久しぶりにファーストキッチンでいろんな種類のソースを散らかしてジャンクなご飯の食べ方をして、帰ろうとするとSちゃんの鞄の取っ手が壊れて取れてしまった。僕はなんとか修理できないかと自分の鞄を漁って、そしてずっと前から何故か入ったままになっているU字金具を発見して、それで応急的に鞄を直した。このU字金具は昔自転車の修理をしようと思って買ったらサイズが違っていた物で、面倒なので返品せずにずっと鞄に入れっぱなしになっていたものだけど、まるでこの時の為に買ったような錯覚に陥る。

 7月19日水曜日

 夕方からMちゃんと散歩に出掛けて、ついでに夜ご飯を食べて、また歩いていると小学校を通りかかり、なんとなく中へ入って遊具に上って星を見たり話をしたりしていて、そのままプールに入って泳いでしまった。この日は気温も低くて、僕は服のまま入ったので帰り道びしょびしょのままで震えるくらいだった。

 7月20日木曜日

 夜8時前からアンデパンダンで松倉さんのコンサート。Hと行ったのだけど、Aちゃんだとかも来ていてびっくりする。京都造形芸術大学を2年前に卒業した人達の同窓会みたいな雰囲気になっていて、顔だけ知っている人達もいくらかみかけて変な気分になる。
 そのあとお好み焼きを食べに行って早めに帰る。

 7月21日金曜日

 夜8時からものすごく久々にHさんに会う。Nちゃんという女の子も合流して、沖縄料理屋で食べたり飲んだりした。とても感じの良いお店だった。最近僕はもうどんなお店でも良くて、まったくこだわりを失っていたけれど、やっぱりお店の人の感じがいいといいな、と当たり前のことを思った。

上がらない雨の中で僕達にできること。

2006-07-19 16:38:39 | Weblog
 対岸から打ち上げ花火が飛んできて僕の足元で華麗な火花を散らした。「アホかボケー」と僕はお腹一杯に空気を吸い込んで、見えない暗闇の誰かに向かって叫んだ。Tが「まあまあ」と横からなだめてくれて、それから周りにいて驚いた友達が「関西弁喋るんだ」とか「横岩くんでも怒ることあるんだ」と言った。

 7月15日の夜のことを思うと、何故かこのシーンが最初に浮かぶ。僕が大声で対岸の誰かに向かって汚い言葉で怒鳴り付けたことは、ある意味ではこの夜の僕の失態を象徴しているのだろう。
 宵々山の賑わいもお囃子も、何も聞こえては来ない出町柳で、僕はこの日大失敗をして、そして少なからぬ友達に迷惑を掛けてしまったと思う。みんな、それを迷惑だなんて言わないでいてくれた、立場が逆ならば僕も特に迷惑だとは思わなかっただろうし、それはそれで別にいい、と思っただろうから本当に迷惑には思っていない人もいるだろうと思う。でも、やっぱりがっかりさせたのは事実で、それに雨でびしょ濡れにさせてしまった。

 基本的には全部僕のミスだった。法的なチェックを怠ったこと。それから天候に関する予測が楽観的過ぎたこと。部材に入れるチェックが甘かったこと。

 野外で行う企画なので、天候の予測はなるべく慎重に行う必要があった。にもかかわらず、僕はほとんど雨天決行に近いことをしてしまった。前日まで夕立はあっても、僕達が予定していた夜8時には空は晴れていたし、降水確率は20パーセントで、大きな雲を一つ越えれば、そのあとは薄い雨雲しかやってこないと思っていた。前日までこの日の準備に追われて、3日間連続で朝の4時まで作業をしていて、その努力を無駄にしたくないという思いが、今日は夜には晴れるのだ、という思い込みにバイアスを掛けていた。

 雨のせいで準備も大幅に遅れて、人が集まったときにも作品は組み上がっていなかった。みんなが組み立てに手を貸してくれたにも関わらず、部材に入れるチェックが甘かったのと、方角ごとに分けておいた部材が入れ替わったりして、作業は実に困難だった。組み立ては手早くやれば二人で50分くらいでできるはずだった。何度でもリユースできるように、僕とI君は作品を組み立て式にすることにこだわって、その為に随分な労を割いた。現場でビス留めするならば設計はずっと簡単になるし、大した準備も必要はない。でも、ビスで木材を傷めることなく、何度も繰り返し使うために組み立て式にしたのだ。それはとてもシンプルで、ローコストで、それなりに考えて作った物だった。分解も組み立てもとても簡単なはずだったし、実際僕たちは2人で何度か組んだりばらしたりを比較的簡単に行っていた。
 でも、現場ではうまく行かなかった。肝心なときに。こんなはずじゃないと僕はとてもイライラしていた。みんなを右往左往させることなくスムースに組み上がって、これうまくできてるね、と言ってもらえるはずだった。そんなとき、僕の足元に花火は飛んできて、僕は叫んだのだ。

 作業がなんとか進行して、しばらくすると消防局の人がやって来た。

「責任者の人はいますか?」 

「はい」

 僕はこのとき、まだゆとりを持っていた。警官やそれに類する人がやってきて小言を言われることは十分に予想できたし、僕にはそれをなんとかやり過ごす自信があった。たとえば警官はイレギュラーなことにはいちいち反応しなくてはならないし、鴨川の中に底面積25平方メートル高さ4メートルの照明が出現するというのは十分にイレギュラーなことだ。彼らはやってくるだろう。だけど、僕は自分達に法的な落ち度はないと思っていた。彼らが僕達の行動をやめさせる法的な根拠はないだろうと思っていた。
 でも、全部僕の読みが甘かっただけだった。

「ここは公園だし、この建造物は仮設だし、営利目的でもありません。火も使ってない」

「でもねえ、ここは公園ですけれど、でもヘリの緊急発着場なんですよ。これは違法です」

 これだけで全ての決着は着いた。全然論理が通っていないと思いながら、僕は無理矢理食い下がったけれど、本当は既に決着がついていることはよく分かっていた。ここは緊急用に開けておかねばならないと法律で決まっているのだ。あと1時間だけとか、3分で撤去できるとか、そんなことは全然関係がない。緊急用で1秒だって駄目なのだ。おまけのその2人の消防士はとても親切だった。彼らは怒るのではなくて、単に僕達を諭した。

「私らはこう注意するだけですけれど、警察だったら逮捕されかねないよ。その前に私らがたまたま見つけたからこうして注意しているんですよ」

 僕らが彼らにたてつくことは全く意味もなく不毛なことだった。分かりました。ご苦労様です。といって、彼らに帰ってもらって、後ろを振り返ると十何人かの友達が組み立てを続けていた。今更、また分解してほしいなんて言えたものではなかった。でも言わないわけにもいかない。
 僕は言った。

 分解中に僕はどうやってお詫びをすればいいのか考えた。全員でどこかのお店に行って、払いは全部僕が持とうかと最初は思っていた。でも、正直なところこんなに大勢の飲食代をペイできるほどの財力は僕にはないし、それに却って気を使わせることになると思った。そんなとき、Yがコンロの準備を始めてくれて、Mさんたちがスクリーンを作ったり、「いつもみたいなのを小規模でやろうよ。音楽と映像だけで」と言ってくれて、なんとか救われた気分になった。そうだmちゃんやHちゃんが素敵な音楽を用意してくれている。

 だけど、僕はここでもまたしてミスをする。
 雷光が北西の空を時々染めていて、雨が心配される状況だったから、本当はどこかに待避するべきだった。あるいはもう解散してしまうべきだった。でも、なんとか楽しく終わりたくて、こんな破れかぶれのまま解散したくはなくて、天に祈る気持ちで続行した。結果的にはものすごい大雨が降る。僕とKがファミリーマートで大量の飲み物や食べ物を買い込んで戻った瞬間に大粒の雨が降り出した。雨に備えてファミリーマートでゴミ袋を買っていたので、それを取り出して機材や鞄を入れた。僕はもう自分の機材なんて半分はどうでも良くなって、ただみんなの携帯だとかipodだとかが濡れて壊れてしまうことが心配だった。なるべく友達の物に被害がないようにしたかった。でも橋の下に避難を終えたとき、僕の機材はしっかりと運び込まれていて、その分余計にみんなは雨に打たれたわけで、感謝してもしきれなかった。

 何か残したものがないか、中洲の先端へ確認しに行って、橋の下に戻ろうとしていると、階段の上から「良太君」と呼ぶ声がして、階段を上るとMちゃん達3人の女の子がいた。メイクも服もばっちりきめた女の子3人が傘も持たずに木陰に非難して雨を凌いでいて、さらにMちゃんが「残念だったね。でも差し入れ持ってきたからもらって」と紙袋を差し出してくれたとき、僕はとどめの一撃を刺されてほとんど泣きそうだった。なんて沢山の人を巻き込んでこんな目に合わせていることだろう。

 T君、Kさん、mちゃんに傘を借りて、Mちゃん達3人を駅まで送って戻ってくると、橋の下でMさんの持って来てくれたヒレ肉が焼かれていた。そのあとYの持って来てくれたホッケも焼かれた。僕たちは狭くて暗い場所で、話をしたりして段々と解散した。散々だったにも関わらず、みんな楽しかったと言ってくれて、更に公園の入り口に機材を運ぶのも手伝ってくれた。

 最終的に、I君と大学やアパートに物を片付けて、部屋に戻ったのは6時半ごろだった。僕は申し訳ないのや悔しいのや情けないのや、それから何よりありがたいのや、たくさんの気持ちが混じって眠ることができなかった。
 僕は今までこのブログにこんな風なことを書いたことはないと思う。こんな風というのは、こんなに感情を露わに、ということで、こんな風な感情の動作が起こる出来事は書かないようにしてきた。これを書いていてとても恥ずかしいと思う。だけど、今回は書きました。みんな本当にどうもありがとう。しばらく休んだら、今度はよく考えます。15日はとても見てもらいたいものがあったのです。

installation.(告知です)

2006-07-09 17:48:52 | Weblog
 今週の土曜日、7月15日の夜に、出町柳の三角州で簡単なインスタレーションをします。
 祇園祭の最中ですが、もしも良ければふらりと立ち寄って下さい。ちょっとした照明と、静かな音楽とスクリーンを用意するだけですが、みんなで飲み物だとか花火だとかを持ちよって、夕涼みでもできればそれはそれで素敵だなと思うのです。
 照明の性質上、雨天、及び強風の場合は延期となります。時間はだいたい8時くらいからになると思います。

 単純明快に書き直せば、

 「インスタレーションあるいは夕涼み」

 2006年7月15日土曜日 20:00~midnight 雨天強風時順延

 ということになります。

 今回はいつもの中州パーティーとは違っていて、特に「踊れる」ということは考慮していません。
 スイカ割でもカクテルパーティーでもバーベキューでも花火でも、あるいはただ話すだとか絵を描くだとか、何でも良いのですが、老若男女を問わずに平和に過ごせれば良いなと思います。むしろ、僕たちはあまり積極的に公園に介入するつもりはなくて、すこしだけ日常から乖離した、いつもとは異なる公園の備品を提供できればと考えます。
 それから、一応は「景観に手を入れる」ということも考慮しているので、特に中州まで降りて来なくても、京阪出町柳駅辺りから眺めれば、いつもとは少しだけ様子の異なった中州を見ることができるのではないかと思います。

 実は15日という日程はもうずっと前に決めていたのですが、色々なことがあって15日に間に合うように用意が可能なのか分からず、告知は結局一週間前の今日になってしまいました。まだ、用意は半分くらいしかできていなくて、実は当日にどの程度のものを展示することができるのかは未だに未知数です。でも、たぶん今まであの場所には誰も置くことのなかったものを置くことはできると思うので、もしも近くを通る所用などがあれば、覗いて頂けるととても嬉しいです。

波の見える遠い道路から。

2006-07-05 16:06:46 | Weblog
 テレビを見ていると、何かのソフトウェアのCMでいきなり「あなたの脳年齢は何歳ですか」と聞いてきてびっくりした。脳年齢ってなんだろう。たぶん誰もその実態を知らない。でも、テレビで毎日日本国民の多くは「あなたの脳年齢は?」と質問されている。

 僕はこの脳年齢について何も知らないのですが、これって若い方が「良い」なのでしょうか? 普通人間って年をとるにしたがって頭がよくなると思うのだけど、ここで問題にされているのは単に記憶力とか計算が速いとか、そんなどうでもいいようなことばかりなんだと思う。脳年齢が80歳の優れた料理人と、脳年齢が20歳の何の取り柄もない人と、どっちが頭が「良い」なのかは一目瞭然だと思う。頭なんて使い方の問題で、そのもののクオリティを高めることばかり考えていても仕方ない。脳の訓練というのは、英単語を覚えなくては英語の試験をパスできないのに、英単語を覚えることをしないで英単語の覚え方の研究に精を出すような後退の仕方に似ている。脳を鍛えるのがブームらしいけれど、一昨日の晩御飯を思い出してそれでどうだというのだろう。そんなことよりも何に頭を使うのかが問題で、そういった本当に重大な問題から目をそらすためにとりあえず一昨日の晩御飯を思い出せるようになって喜んでみる、ということにしかなっていないように見える。

 北朝鮮がまたミサイルを撃った。
 夏になると戦争のことを考える。小学校にも中学校にも夏休み中に登校日というのがあって、それは半分は戦争学習の為だった。夏休みに蝉時雨の中、汗を流して学校に行き、そこで戦争の話を聞くというのは、暑さと苦しさが相俟って独特のムードを生み出した。
 小学生の時は演劇部の戦争に関する演劇を見た。演劇部の顧問は年を召した先生で、「ぬちどうたから」という言葉を生徒に吹き込んで回っていた。「ぬちどうたから」というのは沖縄の方言で「命は宝」という意味らしい。

 中学では変なスライドを作った。たしか中学2年のときに、僕の学年は6クラスあったのですが、各クラスに大体6、7個の班があって、一つの班に一枚のシーンを割り当てて、合計で40枚くらいのスライドを作った。それから各クラスから3,4人を声優として選んで、音や声を各シーンに入れていく。僕はその声優に入っていて。誰かの弟みたいな役とアメリカ人兵士の役をやったと思う。僕たちは放送室に篭って効果音や台詞を入れて、その作業自体はほとんど戦争には何の関係もないものになっていった。完成したスライドと音声は、登校日かいつかに全校生徒の前で披露されたのだけど、タッチのばらばらな40枚の素人が描いた絵と、滅茶苦茶な音声の入れ方で相当酷い物だったのではないかと思う。

 僕はこの作業をしていて、自分が今取り組んでいるのが一体どういった種類のことなのかを時々自問した。僕達が題材としていたのは”戦争”という大きな惨劇の一部だったけれど、放送室のどこにも惨劇の欠片すらなかった。僕達はただ、ここにこの音を入れたら面白いのではないかとか話合ったり、アメリカ兵の口真似をして笑い転げるだとか、好きな子が来るだとかこないだとか思い悩んだり、そういった至ってノーマルな中学生が楽しみのために行うようなことをしていただけだった。どんな種類のデモであってもいいけれど、ニュースを見ているとデモ隊の持っている看板や旗の凝ったデザインに目が行って仕方ない。ときどきは笑いながら歩いている人もいる。看板に色を塗るとき、きっと楽しかったんだろうなと思う。

 僕は何も批判を書いているわけではなくて、人間というのはそういった種類の生き物なのだということを再認識した、ということを書いています。苦しい状況下に置かれた人間が、看板を作るときにある程度の楽しみを持ってその作業を行う、というのはとても希望という言葉に近い。

 戦争になんとなく意識が行っていて、図書館で吉本隆明さんの「私の戦争論」という本を借りた。たまたま目に付いたから借りたのだけど、そもそも僕は吉本隆明という人をあまり知らなくて、でも僕の好きな先生が「吉本隆明は良い」と言っていたのできっと信頼できる批評家なのだろう、と思っている。だけど、この本を読んでいると「実感として、」という言い回しが良く出てきて、まだ最初の方を読んだだけでも少しうんざりしています。

 戦争のことは、考えないわけにはいかない。でも、何が本当で何が嘘なのかを知ることができなくて、僕たちは考える根拠を持つことに苦労する。情報は誰かが発信した以上、何らかのバイアスが掛かっている。たとえば「きけわだつみのこえ」という有名な遺書集はもともとインテリのものだけを集めて、さらに編集段階で本当に勇ましく出撃した兵士のものが省かれている。これはきれいな感傷を引く遺書で読む者の心に悲しみを呼ぶ為の編集方針だとしか思えない。
 僕たちは戦争のことを考えないわけにはいかないけれど、かといって人生を真実の追究にささげることはできない。だから、研究者にはどうしても期待をしてしまう。

 この日は図書館で村上龍さんの「69」英語版も借りた。
 「69」はとても好きな作品で、小説も映画も2回以上読んだり見たりしている。ついこの間から、映画の「69」をまた見たいと思っていて、それから何か英語の小説も読みたいと思っていて、そんなときに英語版の「69」を見つけたなら借りる他ない。

 

パリ祭。

2006-07-05 15:20:41 | Weblog
 もうそんな時期なんですね。
 7月9日(日)は京都の関西日仏学館でパリ祭が開催されます。
 以下は日仏学館のサイトからの引用です。

パリ祭 2006!

今年のパリ祭には、映画『男と女』で一世を風靡した、フランスを代表する
ミュージシャンの一人、ピエール・バルーや、DJ LALA-toru yamanakaも登場!
大人から子供まで楽しめる、年に一度の夏のお祭りです。

日時 7月9日(日)15:00―21:30 雨天決行
場所 関西日仏学館
料金 800円(一般)、500円(学館受講生・会員)、6才以下は無料
チケットは学館で発売中/当日券あり/飲み物・食べ物は別途有料




プログラム  (予定)

音楽

ピエール・バルー 16:30-17:15、19:00-19:45 
   サイン入り著書・CDの販売あり (時間未定)

DJ LALA-toru yamanaka 15:30-16:30、17:15-18:00、19:30-21:30 
ミュゼット・ジャズ・バンド 
展示

ヴィラ九条山アーティスト フランス人漫画家・造形作家 ピエール・ラ・ポリス 
ヴィラ・メディシス海外派遣プログラム ヨルグ・ゲスネール 
フランス語講座受講生による展示 : 絵画、レース、ステンドグラス、書道、扇、他
屋台  

バーベキュー、ランチボックス、サンドイッチ、フライドポテト
カフェ ル・フジタ (フランス菓子)、 カフェ・ル・バオバブ (クスクス)
NORD by NIKI CLUB (グリルチキン、ブダンソーセージ、フィナンシェ)
レストラン・パリビス (タルト、アイスクリーム)
販売

古書市 : フランス語・フランス関係の古書・CD販売
会員証・メディアテーク会員証 特別プロモーション:有効期間を07年12月末まで延長
トンボラ 抽選会 18:00-19:00 
賞品一覧

エールフランス航空 :往復航空券(大阪―お好きなフランスの就航都市間) × 1名様
アシェット婦人画報社:ELLE、ELLE A TABLE、ELLE DECO、マリ・クレール 各誌   年間購読 × 10名様 (計40名様)
SG信託銀行 : ボルドーワイン 
NHKきんきメディアプラン 藤田嗣治展 カタログ × 5名様
クラランス株式会社 : コスメティック・セット × 30名様
ゲラン株式会社 : 香水 (バカラボトル) × 1名様
シャネル株式会社:カメリアポーチ×1名様、オードトワレ+シャワージェルのセット× 3名様
ビゴの店 : クッキー詰め合わせ × 3名様
株式会社プチバトージャパン : Tシャツ × 10名様
フランス食品振興会 : ワイン
フランス料理 NORD by NIKI CLUB : ペア昼食券 × 1組様、ペア夕食券 × 1組様
フランス料理 ボルドー : ペア昼食券 × 1組様
ルヴェ ソン ヴェール 
レストラン・パリビス : ペア夕食券 × 2組様
レストラン ベルクール : ペアお食事券 × 2組様
(協賛企業名 五十音順)

* 上記プログラムは変更することがあります

フクロウ海岸で焚火を囲む。

2006-07-02 11:41:16 | Weblog
 村上龍さんの「半島を出よ」をやっと読んだ。僕は暫くの間、小説を読まない、と何故か決めていて、そして久し振りに読んだ小説がこの小説だった。それこそ貪るように一気に上下とも読んでしまった。ちょうど読み始めた次の日、僕は朝から関西国際空港までハンガリー留学から帰国する友人を迎えに行く予定があったけれど、睡眠を削って読んで、3時間だけ眠って、空港までの電車の中でもずっと本を読んでいた。今更、僕は小説を読むのが好きなのだ、ということが分かった。良く書かれた小説は本当にこの世のものではなく、僕はあの世界へ行くことができる。そして、その世界へ行った僕の一部は永久に戻って来ることはない。代わりに、僕はその世界から何かを受け取る。そうした交換関係から生れた、この世界に対する小さな違和感を抱いて、再び現実を生きるのだ。「半島を出よ」では福岡が北朝鮮の軍隊に占領されて、日本政府はそれに太刀打ちすることができず、ある少年達のグループが北朝鮮の軍を壊滅させるのだが、僕はまだ半分その物語の中にいて、福岡が北朝鮮に占領されたというのがほとんど事実だったかのような気がしている。僕は福岡にいて、爆発で人が死ぬのを見たし、北朝鮮の兵士がどんな気持ちなのかとか、福岡市民のストックホルム症候群とか、作戦を実行する少年達がどれだけの恐怖を感じたのかとか、全部をリアルに体験した。人というのは良く書かれた物語によって経験していないことを経験することができる。

「半島を出よ」の最後のシーンが、この2,3年僕がずっと思っていたことだったので、現実と物語りの間が最終的にとてもきれいに繋がった。それは、ある意味では簡単にこの世界に戻って来ることができた、ということだし、裏を返せば、現実と物語りの境目が分かり難くなった、ということだけれど、どちらにしても今僕がここにいてこれを書いていることにはかわりない。
 その最後のシーンを引いてみようと思う。

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 イワガキは、これ何ですか、と聞こうとしたが、サトウという人が恐い顔になったのでやめた。どうして字の大きさが違うんですかとか、コリョってあの北朝鮮の軍隊のことですかとか、聞きたかったがやめた。タテノという人に、シーホークホテルのことを聞いたとき、バカ、と言われたあと、その人が自分から話そうとしないことを聞くな、と教えてもらったからだ。四人は、イシハラという人以外は、酒ではなくウーロン茶やポカリスエットを飲みながら、何も話さずにソファにただ座っている。煙草を吸うわけでもないし、音楽を聴くわけでもないし、テレビや雑誌を見ている訳でもない。世間の常識からすると、決して楽しそうに見えない。だがこれもタテノという人に教えてもらったのだが、楽しいというのは仲間と大騒ぎしたり冗談を言い合ったりすることではないらしい。大切だと思える人と、ただ時間をともに過ごすことなのだそうだ。

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 このあとに小さな段落が一つ入って、原稿用紙1650枚の長い物語は終わる。しかも、読んでいる途中で気がついたのですが、会話文のカギカッコによる改行がほとんどない。つまり、実質は2000枚クラスの長編だと言えるし、登場人物、参考文献の数も膨大で、さらに取材というバックグラウンドに裏打ちされて作品が出来上がっている。プロフェッショナルの作家というのはすごいと思った。

 上に引用した部分で、僕がずっと思っていたことというのは、楽しいというのは大騒ぎすることでも冗談を言うことでもない、ということです。たとえば僕は、お酒を飲んで大騒ぎすることが楽しいと思ったことはないし、誰かと静かに話をすることが楽しくないと思ったことはない。みんなで集まって食べたり飲んだりしているときに、大声を出して無理に盛り上げようとする人間がいると、僕は基本的にその人間を排除したがる傾向がある。僕は楽しくなくても楽しいのだと、ずっとそういう言い方をしてきた。楽しいのが楽しいとは全然思えないと。馬鹿な学生の宴会みたいなバカ騒ぎのあと、「私は本当はこういうの疲れるんです」みたいな告白をし合う人々を何度も見た。当たり前だと思う。基本的に、現代の日本では「楽しい」という概念が間違って普及している。騒ぐことが楽しいのではない。平常状態の上に盛り上がるという特別な状態があって、それが「楽しい」だと勘違いしている人々が多すぎる。馬鹿騒ぎをしている集団が楽しくて、騒いでいない集団が楽しくないわけではない。大きすぎる笑い声だとか叫び声というのは、本当に楽しくて出すこともあるが、他の人々に「私達はこんなに楽しいのだ。どうだ聞け」という意味合いで出されることも多い。人間は本当に自分が楽しいかどうかということに無頓着で、それよりも人が自分の状態を「楽しい」と見るかどうかを気にすることがある。楽しいよりも、楽しそうだと思われたいという人が結構な割合で存在する。はっきり言って、そういう努力は時間の無駄使いだ。酒の席で笑い転げていない人間に「どうしたの?詰まらないの?」とか「なにか嫌なことでもあったの?」とか聞く人はとてもおかしいし見ていてイライラする。楽しいというのは笑い転げることでもない。ときどき一気飲みで死人の出る大学生の新入生歓迎コンパと、ある大変なプロジェクトを終えた仲間が静かにただ飲んでいる、というのではどちらが本当に楽しいか考えなくても分かる。ただ、そういうことはすべて笑い声と叫び声で誤魔化される。あまりこんなことは言いたくないけれど、半分はテレビのバラ撒いた価値観だ。

 昔、花見をしたときに、僕の周囲の人々は比較的静かな人が多いので、僕らの集団は騒がなくて、でも周りにたくさんある集団はそれなりに大騒ぎで、僕はこの状況を「負けている」と捉える友達がいて、なんとなく気を揉んでいたらどうしようかな、と少しく心配をしていたのですが、あとである人に、バカ騒ぎじゃなくてとても気持ち良く過ごせた、と言ってもらえてとても嬉しかった。冗談がポンポンと噛み合うだとかそういうことではなく、単にお互いが優しくできて信頼できて、そういったものを僕は楽しいと思う。

ウサギとニンジンと風。

2006-07-02 01:01:03 | Weblog
 もう少し古い話になるのかもしれないけれど、日銀の福井総裁について、その進退はどうであるべきか、とジャーナリストに聞かれた政治家達、それから評論家達が、「日銀の独立性があるので、それは福井総裁、日銀の判断に委ねるしかない」という風に言葉を濁しているのを聞いてとても歯痒い思いをした。福井総裁がもしも本当に日銀に相応しくない行為をとったのなら、それが誰の目にも明らかならば、べつに余所の組織の人間が介入したって良いのではないかと思う。その「独立性」というものを絶対視する理由が分からない。それは単に便宜的に引かれた一本の線に過ぎない筈だ。

 その討論番組では「司法制度の不可思議な点」に関しても議論していて、ある政治家が「そうなんですよ、司法にもどう見てもおかしな所があるけれど、それを我々が指摘してああだこうだ言うと、すぐにそれは行政が司法に介入したって言われてしまうんですよ。三権分立になってますから」というようなことを言って、どうして司法の欠陥を国会は放っておくのかという問いから逃げていたけれど、こんなに変な答え方はない。三権分立が、お互いに文句を言わないでそれぞれやりたい放題にしましょう、というのではなくて、暴走しないようにお互いが監視し合う為にあることは小学校で習う。
 どちらにしても、この「線」は一体なんなのだろう? 政府と日銀、あるいは行政と司法の間に存在するライン。それはときどき乗り越えられても構わないのではないだろうか。
 この下らないラインを重視することで、僕たちは様々なものを犠牲にする。ひどい政治家が独裁を行って国民が多数餓死する、というような国にも「他国の内政に関与することはその国の主権を侵害することになる」という理由で干渉することは禁止される。そのような理由で人がバタバタと死んでいくのを黙って眺めているなんてどこかが狂っている。

 ラインを守ることは、通常時機能を発揮する有効なメソッドだ。しかし、ラインを超える必要がある場合は必ず存在する。例えば通学路を決めて、そこを必ず子供が通る、というのは児童の安全確保に有効かもしれないが、その通学路にサリンが撒かれたならば他の道を通るのが当然だ。隣りの家の夫婦喧嘩や子供を叱る音が異常に激しい場合は、余所の家に口出しはしない、なんて言っていてはならないし、警察を呼ぶだとか何らかの手を打たなくてはいけない。未然に防がれた事件事故は、それが起こらなかったことから防止の為に取った行動の意味が分かり難い。僕がこんなことをしなくても、どうせ何も起こらなかったのではないか、と考えてしまう。でも、起こってからでは遅いのだ。どうせ何も起こらなかったかもしれない、と思いながら成される行動が本当はとても大切で、僕は笑われてもそれを心がけたいと思う。
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 今、話題を変える為にラインを一本引いてしまいましたが、そのラインを引いていて、僕は先日立ち読みした松尾スズキさんの日記を思い出した。それはウェブに書かれていた日記を本にして売り出したもので、松尾さんは「ウェブの文章というのは一行スペースを入れて簡単にポンポンと話題を変えることができるから便利だ。もちろんそれってとても安い文章だってことだけど。お金貰う原稿でこんなこと絶対にしない」ということを書いていた。まったくその通りで、普通文章というのは頭から尻尾までずーっと繋がっているものだ。DJが曲と曲を繋げるとき、最も簡単なのはカットインという手法で、それは単に前の曲を終わらせると同時に次の曲を始める、というもので、でもこんな子供みたいな技術を使うDJは少ない、普通のDJはロングミックスといって前の曲に被せるように次の曲を始める。ロングミックスでは前の曲と次の曲のBPMを合わせたり、フィルターを通してベースをカットしたりと曲に応じた様々なことを行う必要があるのでそれなりの技術が要求される。でも、そうやって上手に繋がれた音楽は、継ぎ目の見えない滑らかなもので、音楽を聴く人々は気持ちよく音楽を聴き続けることができる。文章だって同じ事だ、話題を変えたいなら本当は徐々に話をそっちの方向へ持って行かなくてはならない。滑らかに次の話題にシフトしなくてはならない。でも、日々の日記でそのようなことを行うのは随分と難しい。