書評『暇と退屈の倫理学』國分功一郎:環世界を誤解していたこと

2012-01-21 02:02:17 | 書評
 「暇と退屈の倫理学」という國分功一郎さんの本を、去年の暮れに友達が貸してくれて、面白く読みました。
 その本の途中に「環世界」の話が出てきます。
 文脈としては、ハイデッカーの退屈論は「人間は環世界を持たない(閉じ込められていない)」ことに依存しているが、それは間違っている、人は環世界を持っている、ただ、ある環世界から他の環世界への移動能力が高いのだ、故にハイデッカーの退屈論はこう批判される、という感じだったと思います。

 ここで、僕は「環世界」という言葉の取り扱いに悩まされました。

 「環世界」という言葉は元々知っていて、馴染みのあるものだったのですが、どうやら僕はこの言葉を誤解していたようなのです。
 この言葉は、それぞれの生き物が世界(周囲の環境)を認識するときの、それぞれ固有の認識の仕方(世界観の組み立て方)を表しています。最初に環世界という言葉を使い出したのはユクスキュルというドイツ人の生物学者で、彼は例としてある種のダニを取り上げます。

 そのダニは、じっと木の枝なんかにぶら下がっていて、それで人やイヌなんかの動物が下を通りかかると落ちて取り付いて、そして吸血するわけです。枝で待って、落ちて、吸血。至ってシンプルに。
 ところが、これを「ダニが枝から人に落ちて血を吸った」と表現するのは、あくまで人間のすることであって、ダニ本人にとってはそういうことは起こっていない。
 なぜなら、そのダニには目も耳もないからだ。
 ただ、ダニは嗅覚と温度感覚、触覚だけを持っている。
 したがって、僕達が「視覚」を頼りに創り上げた「空間」も「木」も「人」も「イヌ」も、そういうものは何にもダニの世界にはない。ダニは枝にしがみついているとか、人の上に落ちたとか、そういうことを一切「思わない」し「思えない」。
 彼らはただ「臭がしたので手を離し」「皮膚の温度を感じたので血を吸う」だけだ。
 彼らはそういう世界を生きている。僕達には想像すらできないような世界を。

 それをダニの「環世界」というのだ、と長らく思っていたのだけど、どうやら僕の勘違いかもしれません。

 僕がはじめて環世界という言葉を聞いたのは、たぶん日高敏隆さんの本の中でだと思います。
 日高さんは日本の動物行動学の草分け的な方で、ユクスキュルが環世界を紹介した『生物から見た世界』の翻訳もされていますし、本もたくさん書かれました。
 僕が一番良く覚えているのは、「モンシロチョウはどうやってオスメスを見分けているのか」という話です。
 当時、モンシロチョウも昆虫だし、まあ雌雄はフェロモンで見分けてるんでしょ、みたいな感じで理解されていたらしいのですが、日高さんの観察によれば「それにしてはかなり遠くからでも見分けてるけどなあ?」ということでした。
 そこで、日高さんはモンシロチョウの雌雄を「紫外線にも感度のある写真」で撮ってみます。
 結果は「メスはそのまま白いけれど、オスは真っ黒」でした。
 真っ黒というのは、つまり紫外線が感光したということで謂わば「紫外線色」です。
 僕たち人間には紫外線は見えませんが、モンシロチョウには紫外線は見えます。
 だから、モンシロチョウが雌雄を見分けるのは、モンシロチョウにとっては明々白々に簡単なことで、オスとメスは色が全然違うわけです。フェロモンも何にも持ち出すまでもなく。
 モンシロチョウは紫外線が構成要素に含まれる「環世界」を生きていて、人間はそうではない。
 チョウと人は全く別の環世界を生きている。

 僕の「環世界」という概念の理解は、チョウの例のように、あくまで「その種固有の知覚器官に依存したもの」でした。  
 紫外線を見るチョウの環世界、超音波で”見る”コウモリの環世界、光のない洞窟の中にだけいる昆虫の世界。
 環世界は種別にあるもので、同種であれば、同等の知覚器官を持つ者同士であれば、環世界は同じだと思っていたのです。

 ところが、『暇と退屈の倫理学』における環世界の取り扱いを読んで見るに、そこでは「宇宙物理学を学ぶ前後」「タバコを吸う前後」などで「環世界は異なる」とされていたのです。
 つまり、持っている知識や置かれている状況によって「環世界は異なる」と。
 
 僕はここで「えっ?そんな勝手な解釈許されるのか?」となってしまい、そのあとは國分さんの主張を恐る恐る読む感じになったのですが、先日読んだある記事に日高さんが「木こりが木を見るのと、女の子が木を見るのでは、同じ木を見ても見え方が違う」みたいな話を書いていらしたので、どうやら環世界をいう言葉はそういうものらしいのです。

 持てる知識、経験、状況なんかで「世界の見え方、感じ方」が変わることは良く解ります。
 どうやら、それも「環世界」だということです。
 僕が勝手に狭義の解釈をしていただけなのですが、なんとなく「知覚依存」と「知識経験依存」を両方一括りで環世界と呼んでいいのかどうか府に落ちません。
 包含関係が、「知覚依存」⊂「知識経験依存」なので、一括りにするのは全く問題ないわけですが、両方を一緒にするのであれば話は「各自が各自で刻一刻と変化するそれぞれの世界を生きている」という、なんともざっくりした当然で扱いに困る帰結だけが導かれるように思います。

 そうか、だからここで國分さんは「環世界移動自由度」というパラメータを導入するのか。

 もしかしたら、本の批判が成立するのではないかという予感と共にこれを書きだしたのですが、逆に納得する形になりました。

暇と退屈の倫理学
國分功一郎
朝日出版社


生物から見た世界 (岩波文庫)
クリエーター情報なし
岩波書店

書評『毎月新聞』佐藤雅彦:ことわざが嫌いなんです

2012-01-15 13:53:52 | 書評
 漢字の成り立ちを説明し、そして何か人生訓のようなことを唱える人がいますが、僕にはまったく意味が分かりません。「人」という字は二本の棒が支え合うことでできている、人というのは支え合って生きていくのだ、みたいなやつです。
 そもそも、人という漢字の源は左向に立っている人間を表したものだといわれていて、この例ではハナッから話になっていないのですが、もしも本当にそうだとしても、漢字の成り立ちがそうだからって、だから何?という風にしか僕には思えません。

 という話を友達にしていて、ついでに「ことわざも嫌い」ということを説明すると、やけに納得してもらえたので、ことわざの悪口を書こうと思います。
 実は同じ事を昔書いたことがあるのですが、改めて。

 ことわざ嫌い、の発端は佐藤雅彦さんの「毎月新聞」という本です。
 毎月新聞という本は、月に一度の連載エッセイを集めたような本だったと思いますが、その中に「じゃないですか禁止令」というタイトルの文章がありました。
 じゃないですか、というのは「イチゴっておいしいじゃないですか~」とか「今日って寒いじゃないですか~」とか「これって重たいじゃないですか~」の「じゃないですか~」です。
 イチゴが好きなんだったらイチゴが好きだと言えばいいのに、イチゴが好きであることが相手にとっても人々一般にとっても当然であるかのように「じゃないですか~」と言うのが気に食わない、というわけです。
 寒いから外に出たくないなら、「寒いので私は外に出たくない」ということを表現するべきなのに、「寒いから誰だって外に出たくないですよね、あなただってそうですよね、だから私外に出ないですけれど、当然のことですよね」という風に誤魔化した表現として「寒いじゃないですか~」になっているわけです。

 当時、僕はこれを読んで、なるほどなと思いました。
 嫌なら嫌だと言えばいいのに、「それって結構嫌じゃないですか~」みたいに言われたら、確かに少しカチンと来るかもしれない。「自分を出発点として」自分がそう思う。ではなく、「世間を出発点として」それが当然なのだから自分は当然そう思うのが当然、みたいに責任の所在をぼやかして「世間」に拡散させてしまう巧妙な表現手段。

 なるほどな、と思いながら、良く似たものが他にもあることに思い至った。
 それが「ことわざ」です。
 ことわざというのは別に真理でも経験則でも先人の知恵でもなんでもなく、ただの「責任曖昧化装置」です。

 たとえば、早川君という友人がいたとして、早川君が転職の相談を持ちかけてきたとします。
 話を聞く限り、さっさと転職すればいいように思えたとします。
 僕は言います「そっか、じゃあ早く転職しちゃえばいいと思うよ」。
 これだけならば良いのですが、なんだか心がモヤモヤするので、次の言葉を付け加えてしまうかもしれません。
 「ほら、善は急げって言うじゃん」

 最後の「ことわざ」が何の為に付け加えられたのかというと、それは一つには自分の発言を「ことわざ」という権威で強化する為ですが、残念ながら事はそれに留まりません。ここでは、巧妙に「急げ」という自分の意見を、それが自分一人の意見ではなく、さも「誰に聞いたってそう答えるに決まっている、これは間違っていたとしても自分の間違いではなく世間の誰でも間違うこと、そういう当然の意見」という体を装っているのです。責任の所在を拡散させているわけです。

 もともと、ことわざというのは沢山用意されていて、僕達は「善は急げ」の代わりに「急いては事を仕損じる」とか「石の上にも3年」とか「石橋は叩いて渡れ」などの「転職、ちょっと考えなおしたら」に属するであろうことわざを選ぶことだってできたのです。
 つまり、「転職、それ考えなおしたら、石の上にも3年っていうじゃん」と言うことだってできたのです。その場合、どうしてそういうことを言ったのかというと、「自分がちょっとそれは早急に思うと感じた」からです。意見の起こりには「ことわざの介入なんてありません」。つまり、ことわざは「ことわざ故になんとか」ではなく、常に事後的に「後付として」使われているだけなのです。それも、責任曖昧化装置として。
 だから、僕はことわざを真剣な会話に混ぜてくる人が信用できません。

毎月新聞 (中公文庫)
佐藤雅彦
中央公論新社


三島由紀夫レター教室 (ちくま文庫)
三島由紀夫
筑摩書房

 

書評『フレデリック―ちょっとかわったねずみのはなし』:あるいは芸術について

2012-01-13 14:00:37 | 書評
 (あるいは芸術に絶望した芸術家のために)

 僕はもう32歳だし、それに男だし、世の多くの成人男性がそうであるように「ぬいぐるみ」には特に興味がありません。小さい時にはいつも持ち歩いていたぬいぐるみもありました。今でも見掛けて「かわいいな」とか「よくできてるな」とかチラリと思うことはありますが、まあそれだけのことです。
 ところが、先日街角で次のようなぬいぐるみを見掛けて、なんだか若干グッと来てしまいました。「プレゼント」か「何かの材料にする」でもない限り、ぬいぐるみを買うという選択肢はもうないので、流石に買うことはありませんでしたが、ぬいぐるみを見て「欲しい」と思ったのはとてもとても久しぶりのことです。

フレデリック ぬいぐるみ(M)
クリエーター情報なし
ラムフロム


 このぬいぐるみのキャラクターを、僕は全く知らないわけではなく、頭の片隅に「どこかで見たことがある」という程度の認識は持っていました。どこかで見たことはあるけれど一体なんだか分からない、というのは一番気になることの一つなので、後で検索してみたところ「フレデリック―ちょっとかわったのねずみのはなし」という絵本のキャラクターでした。
 作者は「スイミー」も書いたレオ・レオニ。
 日本語への翻訳は、日本唯一のプロ詩人と言っても過言ではない谷川俊太郎さんです。

 フレデリックはぬいぐるみを見てもわかるように、見た目はどちらかというと「ゆるキャラ」なので、絵本もそういった呑気な話なのだろうと思っていたのですが、全然違いました。

 話は、フレデリックと仲間のネズミたちの話です。
 みんなが冬に備えて一生懸命働くのに、フレデリックは働きません。
 なんか、ずっと寝てるみたいにボーっとしてるわけです。
 そして、「どうして君は働かないのだい?」とか「寝てるの?」とか言ってくる仲間に向かって、

 「違うよ。おひさまを集めてるんだ」とか、
 「色を集めてるんだ」とか、
 「言葉を集めてるんだ」

 などの、良く分からない言葉を返すのです。

 そして、冬がやってきます。
 最初のうち、蓄えた食べ物があったので、ねずみ達は楽しく過ごすのですが、そのうちに蓄えが尽きてきます。もちろん、なんにも働いてないフレデリックもむしゃむしゃと蓄えを食べます。
 有りがちな感じに、このまま食料がなくなった頃に、フレディックが大活躍してみんなの危機を救うのだろうと思っていたら、なんというか、そうも単純ではありませんでした。
 食べ物もなくなりくさったみんなは「そういやなんか訳わからないこと言ってたけど、あれってどうなってるの?」とフレディックに聞きます。

 フレディック応えて曰く、

 「目をつむってごらん」

 えっ。。。

 いや、わかるんだけど。
 フレディックはもうなんかオーラも違うんです。
 仲間のねずみ達はみんないいやつですっかり騙されるというか。
 もしも宜しければ次の動画を見てみてください。とても面白いです。




 物語というのは、別に意見や教訓を引き出すものではありません。
 作者はこの物語でどういうことを言いたいのか、なんて本当にどうでもいいことです。
 ただ僕はこの話がとても好きで、なぜたったの500円なのか、なぜこんなに安いのか全く謎な英語版の本を買いました。

フレデリック―ちょっとかわったのねずみのはなし
クリエーター情報なし
好学社


Frederick
クリエーター情報なし
Dragonfly Books

 
  

円と長方形(円面積の直感的証明)

2012-01-06 19:31:41 | Weblog
 昨日、ツイッターで「円の面積を求める公式を忘れた」という感じの記述を見かけました。そして、なんともお恥ずかしいことに、はじめて「どうして円の面積はπr^2(円周率×半径rの二乗。「^」という記号で何乗を表しています。)で求まるのだろう?」と疑問に思いました。
 円の面積公式は小学生の時に暗記して、いかにも自明なことになっていたので、導出を考えたことがなかったわけです。僕は塾講師もしているし、子供に数学を教える機会はたくさんあったのに、なんと昨日まで全く思いもよらなかった。自分でそのことに愕然としました。
 公式の導出自体は高校で積分を習うときにやっています。xy平面で原点を中心とした円の式を、第一象限だけ積分して、あとで4倍するようなやり方で計算したと思います。
 しかし、その方法は”積分を信じるなら”ということで、あまり直感的とは言えません。

 さて、πr^2を改めて見てみると、その実にシンプルな形につい納得してしまいます。
 特に、r^2というのは、面積が長さの二乗の次元なので、対称図形の面積を表すのにぴったりしすぎていて、そのせいで余計に疑問を持ち難くなっています。
 しかし、直感的理解の為にはここはばらさなくてはならないでしょう。なぜなら、面積を直感的に理解したいのであれば、我々が寄って立つものは長方形の面積しかないからです。つまり「縦x横」です。「長さx長さ」です。
 だから、

 πr^2 = π x r x r = (π x r) x r

 のような感じに、「辺の長さが(π x r)とrである長方形の面積」と円の面積公式を読み換えます。

 ここでは、それらしい説明を書いていますが、実はこんなことを本当に考えたのではなくて、実際には「円の公式って、そういや?」の直後にいきなり下の写真の落書きをしています。
 でも、この「式の区切りを勝手に変えて、式の読み方を、意味の汲み出し方を変える」というのは、僕が物理学をやっていて学んだとても大事なことなので、無理矢理このようにここで紹介しました。

 それで、「じゃあ、本当にそんな長方形と円の面積が一緒なのか?」というと、下の写真で一目瞭然なように、一緒なわけです。
 (数学屋的にいいのか分からないけれど物理屋的にはOKだと…)

 これは、以前紹介した『トーラスと円柱』にまったく同じ論法ですね。




直観でわかる微分積分
岩波書店

やる気という企業化社会の信仰

2012-01-03 14:07:58 | Weblog
 前回のブログが、酔っ払って随分と違うものになってしまったので、今回はもともと書くつもりだったことを書きます。
 随分穿ったことなので、こちらもどうせ変かもしれません。

 もともと書こうと思っていたのは、「やる気」というものが、僕達のネイチャーから離れた信仰のようなものになっているのではないか、ということです。”我々の”社会は産業革命に端を発する「工業化」を成し遂げて、その後「企業化」しました。「全部、官僚が悪いんだ!」みたいな雰囲気の中で、政治家が「だから今こそ政治主導を!」と叫んでいましたが、日本は「企業化」した国家であって産業界が強い。それは今回の東電の件でも思い知らされました。
 企業化した社会では、全てが企業を中心にして廻るわけだけど、教育というものも当然そこには含まれます。ごちゃごちゃ言わなくても、ずっと「大企業に入る」ために「偏差値高い大学に行く」ために「偏差値高い高校に行く」ために「偏差値高い中学校に行く」ために「偏差値高い小学校に行く」ために「幼稚園お受験」する、的な構図があったことは誰もが知っています。そういうものを美化する「トレンディ」ドラマもインターネット普及前のTVではバンバン流れていました。

 この大企業就職へと収斂して行く人生の過程で、人は何度も「面接」という選別に掛けられることになります。受験にも就職にも面接は付き物です(多くの大学受験が学力試験だけでサバサバしているのは救い)。
 その面接の場で、我々は「やる気」というものを問われます。
 「やる気」のある人は、当然のように「やる気」のない人よりも採用されやすいことになっています。企業が「やる気」のある人を求め、学校が「やる気」のある生徒を求め、ということをしているうちに、「やる気」という実は得たいの知れないものにプレミアがついてしまいました。

 そこで、人は「やる気」というものを装うようになった。
 装いは自覚的に「面接だし、やる気あるって言っとけばいいや」と行われることもあれば、ほぼ無自覚に、「やる気」のある人間こそ幸いなりとばかり、無理矢理なにかの対象に「やる気」を見出す場合もあります。
 後者には「実は好きでもないものを好きだと思い込む」パターンと、「好きなものを延々と探し続ける自分探し」というパターンがあると思います。

 さらに、この傾向に拍車を掛けるように、文科省は学校における生徒評価に「意欲関心態度」というものを導入しました。試験ができない生徒も「やる気」を示しておけば「成績が上がる」わけです。こんなにおいしい話はありません。親も「やる気を出せ、先生にやる気を見せろ」となるのは当然で、こんな風に周囲の皆が「やる気やる気、やる気が大事」という環境下に育てば、やる気汚染された子供が育つのも当然のことです。

 言うまでもなく、僕達人類は「原始的なやる気」というものも内包しています。
 そうでなければ、サルからここまで来れなかったでしょう。
 しかし、その「原始的なやる気」というものは、子供の間は大方「ひたすらキャッチボールしている」とか「ひたすら落書きしている」というような形で現れるもので、これらは現代的な「やる気」には査定されません。むしろ「やる気なし」の症状です。

 つまり、「やる気」というものが、「何に対しての」かというと、まずは「勉強」が何段階か続き、ひいて「仕事」というのが最終的に現れるわけです。実は、子供が「やる気あんの?」と問われているとき、それは究極的には、遠い未来に働くであろう企業から「我社でしっかり身を粉にして働いてくれるのかね、君は」と問われているわけです。もっとヒネタ書き方をすれば「うちの役員とか株主の為にしっかり利益出してくれるよね、君?」です。
 そんなもの答えは「ノー」に決まっています。
 ちょっと穿ちすぎかもしれませんが、受験合格をインセンティブにした教育は、そういうことだと思います。

ぼくらの七日間戦争 (角川文庫)
角川書店


希望の国のエクソダス
文藝春秋

書評『暇と退屈の倫理学』國分功一郎:単独で完結する歓喜としての進化

2012-01-03 01:49:48 | 書評
 1811年から17年に掛けて、イギリスでラッダイト運動というものがあったらしい。
 機械に職を奪われることを恐れた労働者達が、機械を破壊するというものだ。テクノロジーの普及が職を奪うというのは現代でも良く聞かれる話だが、こんな運動が200年も前に起こっていたなんて驚くばかりだ。とは言え、イギリスでの産業革命は1760年代から進行(1770年代後半からワットの蒸気機関は実用化)しているので、労働に機械が投入されるようになってから、ラッダイト運動までは半世紀あったことになる。もしも、人が機械にある種の敵意を覚えるのだとしたら、50年というのは十分な時間だったのかもしれない。そして、現代はさらにそのまま200年経過した未来ということになる。
 既に工業化された世界で育った僕達にとって、200年も昔の人達が、当時の「素朴な」機械に労働を奪われると考えたのは、あまりピンと来ることではない。今のテクノロジーを持ってしても、まだまだ機械が人間の代わりをできない労働は山のようにあるからだ。
 でも、そう思うのは何かの「基準」のようなものが、既に僕の中で破壊されているせいなのかもしれない。僕は、基本的には科学少年として育ち、博士課程まで工学部にいたので、当然の如く科学技術が大好きだ。科学が世界を救うとも思っていた。社会には多種多様な問題が存在しているけれど、その大半は、ほとんどはテクノロジーの進歩が解決すると思っていた。労働という側面に限定して言うと、全ての労働は高度なテクノロジーが人間の代わりにするようになり、人はただ毎日楽しんでいればいいようになるだろうと思っていた。
 だけど、現実には人の喜びと労働というものは切り離すことのできない関係になっている。自分で釣った魚はおいしいし、自分で作ったご飯はおいしいし、掃除をしたら気持ちいいし、息を切らして山に登ったら気持ちいいし。
 僕達は、面倒くさいことをしなければ喜びを得られない、という面倒さを持っている。

 これは、科学が世界を救うと信じていた人間の、それが誤解に過ぎなかったという懺悔ではなくて、科学の発展というのが本当に「発展の先にあるもの」を目指しているのだろうか、という話です。
 以前、http://blog.goo.ne.jp/sombrero-records/e/efcdf60ca49d9898208f055654a9abad という記事にも書いたのですが、僕は目の前にある道具を改良してしまいます。これは人のかなり本能的な欲求だと思います。そして、もちろん改良した物の便利さを味わうことは喜びです。
 しかし、僕達の感じる「喜び」は、実は改良した物の「便利さ」の中にあるのではなく、「前より一歩使い安さがアップした」という差分の中にあるのではないかと思う。一歩前進すること自体の中に。
 科学とか改良とかテクノロジーとかをごちゃ混ぜにしてしまっているけれど、僕達はなんだって大抵最終目標なんて持たずにやっていて、持っていても実は最終目標は一応設定しているだけなのは、人生が最終目標を持ち得ない謎の何かである以上明らかだとも言えます。

 パスカルが何かの本に「ウサギ狩りに行く人にウサギを上げてみなさい、喜ばれるより嫌がられるよ、だってその人は”ウサギ”が欲しいんじゃなくて”暇潰しにウサギ狩りがしたい”んだから、ウサギあげちゃったらウサギ狩りに行けなくなっちゃうじゃん。くっくっく」みたいなことを書いているらしい(國分功一郎「暇と退屈の倫理学」より)。
 くっくっく、とかそういうのは僕の超訳ですが、このパスカルの話にもう少し説明を加えると、パスカルの議論の立脚点は、

 「人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋でじっとしていられないから起こる。じっとしてれば良いのにできない、それでわざわざ不幸を招いている」

 という考え方にあります。
 なんともヤな人ですね。
 それでも、人がじっと退屈していられないのは事実です。パスカルによれば、「我々は退屈したくない」→「暇潰ししたい」→「ウサギ狩り」ということであり、「ウサギが必要」→「ウサギ狩り」ということではありません。人は暇潰しにウサギ狩りに行く。目的は暇潰しであってウサギではない。でも暇潰しが目的だなんて自分でも思いたくないので目的はウサギだと自分で自分を騙している。もちろん、現実に食べ物がなくてウサギを取ってくる必要がある場合もあるでしょうが、それは言い訳が一層厚くなるということです。
 科学技術の進歩も、必要だとか実用化だとかにではなく、結局は進歩それ自体に喜びがあるのだろうなと思います。

 もともと「やる気、というのは結構な部分が企業化社会の幻想ではないか、やる気がある人が採用されるから、いつの間にかやる気という謎の信仰ができあがったのではないか」という話を書くつもりでラッダイト運動の話から工業化→企業化と繋ぐつもりだったのが、完全に違う話になりました。

暇と退屈の倫理学
朝日出版社


退屈の小さな哲学 (集英社新書)
ラース・スヴェンセン
集英社

限りなく装われた無知

2012-01-01 21:20:35 | Weblog
 年が明けた。2011年が終わり、2012年が始まった。それでも全く新年を迎えた気持ちにならないのは、僕のごくごく個人的な理由故なのか、30日に餅つきをして雑煮を食べてしまったせいなのか。あるいは、2011年が特別に破壊的な1年だった所為だろうか。
 日本のこと、世界のことは語れないとしても、少なくとも僕にとって2011年は圧倒的に破壊的な1年だった。未熟でも偏向していても、それなりに作り上げてきた自分なりの世界観や人生の指針というものが木っ端微塵になった。それらは砕かれて然るべきものだったのだろうとは思う。それらは単なる誤解であり色眼鏡であり、自ら築き上げてしまった牢獄でもあるからだ。しかし、自分がその上に立っているのだと思い込んでいた地面が崩れ去ってしまうというのは、到底穏やかな体験ではない。僕は混乱して居着いてしまい、支える物の何もなくなった下方向に向かって落下した。と、落下しているつもりだったが、実は地面を構成している星というものがないのであれば重力も存在せず、落下という現象すら起こらないのだ。僕は、たぶん僕だけではなく僕達は、そうしてただ何の勾配もない、悲しみや怒り、欺瞞に溢れた場所に放り出された。

 限りなく装われた無知。

 先月16日に野田政権は福島第一原発の事故収束宣言を出し、疑問というか罵倒の声がほうぼうで上がった。事故収束宣言はあまりにも馬鹿げていたので、それらは当然の反応だし、最初はどうしてここまで見え透いた嘘を付くのだろうかと不思議だった。政府というのは一体どこまで人々をバカにしているのだろうと思った。でも、なんだかんだ言って、我々はその収束宣言を本当の意味合いでは受け入れたのだ。文句を言おうがどうあろうが、福島周辺に住まない日本国民の心の奥では肩の荷が下りたのではないだろうか。3月11日から9ヶ月間背負い続けた重荷から、軛から解かれたいという潜在的な欲求を、収束宣言はドライブした。もういいんだって、政府が言ってるんだから、嘘でもなんでもいいんだって、嘘だったとしても悪いのは政府じゃなくて私じゃないんだから、いいんだって、もう忘れていいんだって、年明けから何辛気くさいこと言ってんの初詣行ってバーゲン行こうよ、忘れても誰も責める人いないし、だって政府が嘘言ってるんだったら悪いの政府だし私じゃないし、私は日本国民として日本政府を信用したまでなんだから、うん、これも自覚して言ってるわけじゃないの、だって政府が嘘言ってるって私分からないもん。
 この世界に、困っている人がただの一人でもいるなんて、全然、知りませんでした。
 トカトントン。

ヴィヨンの妻 (新潮文庫)
新潮社


半島を出よ〈上〉 (幻冬舎文庫)
幻冬舎