宇宙人にさらわれた記憶を消された私はさらわれることを恐れる必要があったのか?

2012-02-15 12:52:43 | Weblog
 僕が最初に「記憶」を「結構なんだか謎なものだ」と思うようになったのがいつからかは、結構はっきりしています。
 小学生の時に、テレビでUFOの特番を見た時からです。
 ええ「矢追純一スペシャル」とか「緊急特番!エリア55で宇宙人の解剖が行われていた!」とか、そういう牧歌的な時代の話です。

 すこし話はそれますが、先日、偶然YouTubeで昔の特番を見ました。
 これも良くあった「NG大賞」とかそういうやつです。何年頃の番組かは覚えていないのですが、たぶん20年くらい前のもので、服装などは兎も角、驚いたのはレポーターの話し方と、NG映像のあまりに露骨なヤラセっぷりです。
 レポーターの話し方は聞いて頂く他ないのですが、なんというか実に昔のアニメ的な喋り方で、例えるなら「美味しんぼ」の栗田さんが「今日は東西新聞社の社員旅行で軽井沢に来ています」的なナレーションを入れているのに似ていました。
 これには、話し方や発声にもトレンドがあるのだな、と感心するだけでしたが、NGのヤラセっぷりは本当にひどくて、僕はこんな程度の低いものを見て育ったのかと愕然とする他なかった。今の子供には通用しないでしょうね。

 閑話休題。
 UFOと宇宙人、もとい「記憶」に話を戻すと、子供だった僕は「寝ているときにUFOが庭に現れて、宇宙人にさらわれて謎の手術をされる」という話にすっかりビビってしまいました。もう、寝るのか怖くて怖くて仕方ない。ベッドに入って布団を頭まで被って「宇宙人が来たらどうしよう」と怯えに怯えていたのです。
 ところが、そうして恐怖に耐えているうちに、ある事に思い至りました。
 宇宙人は地球人をさらって手術したあと、どうやら「その記憶を消す」らしいのです。秘密隠匿の為だかなんだか、宇宙人は記憶を消して、さらわれた人達は後から催眠術なんかを使って宇宙人のことを思い出すようでした。
 であるならば、たとえ今夜宇宙人が来ても、明日の朝、僕は何事もなかったかのうように普通に起きるわけで、じゃあ、これから宇宙人が来ることを恐れる必要なんて、もしかしたらないんじゃないか?というのが話の起点です。

 どうせその体験をきれいさっぱりと忘れてしまうのであれば、それは「体験しない」というのに等しいのではないか、と僕はその時から考え始めました。
 とはいえ、「明日の朝」にはそれを忘れているとしても、夜ベッドに入ったばかりの僕にとっては、それは「これから起こること」であり「これから体験することになること」なわけです。寝る前の僕はそれを「体験する」と言い、明日の朝の僕は「体験していない」と言う。さらに、体験している最中の僕はそれを「体験して」いる。これは一体どういうことでしょうか。

 思考を進めるに当たり、時間軸を縮めて考えることにしました。
 今、これから食べようとしているチョコレートを、食べると、食べ終えた瞬間に食べた記憶がなくなる、とします。
 その場合、僕はチョコレートを食べるのでしょうか。
 食べる前の僕が、チョコレートを食べたいと思い、食べるという行為をこれから行うであろうことは予測されますが、食べたからといって食べ終えたときには食べたことにはならないのです。
 これは一体何なのでしょうか。別にどこにも不思議なことはないじゃないか、と言われればそうなのですが、なんだか僕には腑に落ちないのです。

 そして、今度は逆に時間軸をうんと伸ばしてやれば、僕達はどのような人生を生きたとしても、死んだ瞬間にその記憶はすべて失われてしまいます(死で記憶がなくなるのと生きて忘れるのは別の話かもしれませんね)。
 どうせ全ての記憶が消えるのであれば生きても仕方ないなんて、陳腐なことをいうつもりは毛頭ありませんが、ただ、そこにもなんとも不思議な気持ちを持たざるを得ないのです。
 今の「私」が予期し、未来の「私」が体験し、さらに未来の「私」が忘却するという世界を、僕はあまり手馴れた感じで扱うことができません。




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書評『転校生とブラックジャック』:私があの人ではなく私であるという不可思議

2012-02-14 01:45:21 | 書評
 今まで2冊しか本を読んだことがないのですが、それでも一番好きな哲学者だと断言している永井均さんの本を久々に読んでいます。「転校生とブラック・ジャック」という本で、副題が「独在性をめぐるセミナー」と書かれている通り、先生と生徒たちが語り合うという平易な形式で書かれた本ですが、非常に考えることが多くてなかなか読み進めることができません。でも、まあ少しづつ進めていこうと思う。
 先に、永井さんが好きだと書きましたが、好きだというよりは、こういう人がいてくれて本当に良かったなと思っています。なぜなら、たった2冊しか読んでいないのにこういうことを書いて良いのか分かりませんが、僕の印象では永井さんが子供の時から取り組んでいらっしゃる問題というのは、僕が子供ときから考えている事と、かなり似ているからです。それが、副題にも書かれている「独在性」というものです。あと、これも独在性に含めてよいのかもしれませんが、「記憶」。

 独在性というのは「自分が、あの人ではなく、自分であること」なのですが、僕はこれが昔から不思議で、考えてもなんだか良く分からなくて、ただ途中から「うーん」と唸って終わる、ということを何度も繰り返してきました。
 それは哲学的な素養や、徹底した思考の足りない僕の限界で、そこから先へ進むには永井さんのような先人が必要でした。だから本当に永井さんの存在をありがたく思います。

 自分が自分であることは、当たり前のようでいて当たり前ではないように思います。
 僕は「僕」であり、「今」「ここ」から「僕」を中心に開いた世界を見ていますが、僕が「あの人」であり、「あの時」「あの場所」から「あの人」を中心に開いた世界を見ていた可能性だってあったはずです。
 僕の代わりに、僕として、全く同じ両親から、全く同じタイミングで生まれて、全く同じ遺伝子を持っていて、全く同じ出来事を生きて来て、全く同じ記憶を持ち、全く同じ性格を持っている、「しかし僕ではない」僕という存在だって在り得たはずです。

 ただ、端的にそういうことは起こらず、僕は今ここに僕として存在し、僕から開けた世界を見ています。それが、「以前」からそうであり、「以後」もそうであるのかは分かりませんが「今」はそういうことになっています。
 もしかしたら、さっきまで僕はあの人だったかもしれません。

 なんというか、ときどき映画やなんかで「体が入れ替わる」話ってありますよね。
 あれで、入れ替わるのが体だけでなく「記憶(あるいは性格なども含めて)」も入れ替わるとしたらどうでしょうか。
 体が入れ替わっただけなら、本人達は入れ替わったことに気付きますが、「記憶」まで一緒に入れ替わったら、本人達は入れ替わったことに気付くのでしょうか。たぶん気付かないですよね。それどころか、他の人達から見ても、彼らが入れ替わったなんて思う人は一人もいないに違いありません。
 「うん、それはだって、外側も内側も全部入れ替わるのなら、それは入れ替わりじゃないじゃん」という人もいると思います。
 だけど、断じてここでは入れ替わりは発生しているわけです。
 なぜなら、先ほどまで、それぞれの世界はそれぞれから開かれていて、その視座は移動していないからです。この視座は記憶のことではありません。もしも記憶が変更されたり消されてしまっても、その人がそこから世界を見ているという視座は変化しません。この視座というものの本質が何なのかというのが独在性のポイントでもあると思います。

 話がややこしいので、もう一度同じようなことを書きますが、僕達は多分他の人と「体」「記憶」を共に交換しても気付かないでしょう。だから、僕には僕がずっと本当に僕であって、さっきまであの人であったわけではない、という確信があまりないのです。
 あまりない、とは言っても、普段は確信して日常生活を送っていますが、もちろん。

 「記憶」については次回書きたいと思います。

転校生とブラックジャック――独在性をめぐるセミナー (岩波現代文庫)
永井均
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