真鍋博さんのイラストと未来

2014-01-29 23:56:00 | ベーシック・インカム
悪魔のいる天国 (新潮文庫)
星新一
新潮社


 真鍋博という名前を聞いたことはなかったが、その絵は何度も目にしていた。彼は星新一の本の表紙を描いていたことで特に有名なイラストレーターということだ。そう、あのイラストだ。小学生の僕は、あのイラストがあまり好きではなかった。どことなく殺風景なような、なんだか怖いような。

 星新一のことを単に「SF作家」と呼んで良いのかどうか分からないけれど、有名SF作家の本にイラストを描いていた彼は、他にも、未来志向、テクノロジー志向のイラストや本を描いている。そのいくつかは科学少年だった僕も目にしていたと思う。

 ウィキペディアには、真鍋さんは、21世紀を見たいから長生きしたいと、健康に気を使っていたと書かれている。
 でも、1957年生まれの彼は、2000年に亡くなってしまった。それも2000年の10月31日に。21世紀がやって来る、わずか2ヶ月前のこと。

 テクノロジ-は別に世紀の境目で劇的に進歩するものではないし、世紀という区切りには本来意味などないだろう、それでも未来を描き続け、21世紀を見たいと言っていたイラストレーターの、21世紀目前の死はとても残念だ。

 それに、2000年と云えば、それなりにPCもネットも携帯も普及していたけれど、その他の点でどれ程の「思い描いていたあの未来」に類するものがあっただろうか。
 曲がりなりにもリニアモーターカー「リニモ」が走るのは2005年愛知万博でのことだし、iPhoneが発売されるには2007年を待たねばならない。

 かつて橋本治は「1960年代で時間は止まっても良かったんじゃないか、既にテレビも車も飛行機も新幹線あって、ビートルズもいた」というようなことを書いていたと思う。
 読んだ時、なんとなく僕はそれが腑に落ちてしまった。
 無論、細部では目覚ましい変化が起こっているものの、この50年で一体どれ程の"劇的"技術的進歩があって生活が変化したのだろう。
 1960年代に関してはもう1つ付け加えておかねばならない。1969年にアポロは月へアームストロングを送り込んでいる。その後45年、人類は誰も地球外の大地を踏んでいない。

 人類の歴史は、別に科学発展の歴史ではないので、目に見えるテクノロジーの進化だけを追っても仕方ない。でも、僕は科学がとても好きな子供だったというか、今だってそうなので、どうしても科学を中心に物事を見てしまう傾向がある。
 その様な傾向が小さくなってきて、段々と「社会的」なものの見方も大きくなってきたことに気付いたのは、真鍋さんの名前を昨日知り、検索してみてのことだ。

 子供の頃、僕が思い描いていた、見たいと強く願っていた未来は、ほとんど真鍋さんと同じものだった。そのアイデアの何割かは彼自身が描いたイラストに由来するものだから当然のことだ。
 でも、今の僕が思う、見たいと思う未来には、その中心に随分社会的なことが居座っている。
 僕が望む未来の中心には、なんと「人々が嫌々する仕事から開放されている」というものが来ていた。

 何度かこのブログにも書いている通り、僕は今ベーシック・インカムというものに強い関心を持っていて、京都で小さいながらもそれを世に広める活動をしています。
 ベーシック・インカムというのは「最低限生活できるだけのお金を、無条件に、全員に給付する制度」のことです。たとえば毎日家でゴロゴロしているだけ健康な大の大人でも、毎月8万円が国から振り込まれます。
「そんな無茶苦茶な!?」
 という話に聞こえるのですが、良く考えてみるとそうでもなく、むしろ無茶苦茶なのは生活の為に嫌々働いている今の社会の方なのです。この話は、またベーシック・インカムのことを書く時に譲る、あるいはブログに「ベーシック・インカム」というカテゴリを作ってあるので、そちらを読んで頂くとして、閑話休題です。

 僕がこのように「科学技術的な」未来像を描くことから、「社会的な」未来像を描くようにシフトしたのは、よほどベーシック・インカムのインパクトが大きかったからなのかと思ったのだけれど、これも良く考えてみると、元々科学技術というのは1つの象徴に過ぎなかったのかもしれない。

 たとえば、宇宙船で宇宙旅行をしているような未来像を想うとき、そのイメージに含まれる誰が「嫌々何かしている」だろうか?
 もちろん乗客は宇宙旅行を楽しんでいて、(いるのであれば)パイロットも最新鋭の宇宙船を楽しく意気揚々と操縦しているはずで、(いるのであれば)キャビンアテンダントの人だって、クールな制服を来て、楽しく、やや得意気にサービスをしているはずだ。

 描かれている誰もが、楽しくしていること。嫌々、無理矢理何かをさせられていないこと、僕が未来のイラストを眺めて素敵な気分になっていたのは、そういう要素のせいだったのかもしれない。
 僕は未来の人は働く時も楽しく働いているものだと思い込んでいた。科学というのは、そういう世界を実現する為の1つの手段であり、自分自身が最も興味ある手段ということだったのだろうか。
 子供の頃よく目にしていた真鍋さんのイラストを、ウェブで改めて見ながら、自分が暮らしたい世界について少し思い直しました。

 
妖精配給会社 (新潮文庫)
星新一
新潮社

ベーシック・インカム/社会的責任/伝統工芸

2013-03-27 17:50:06 | ベーシック・インカム
 ベーシック・インカムの批判に「社会的な責任からの逃避」ではないかというものがあります。
 労働というのは社会的な責任を果たすことでもあるので、労働をしないというのは社会的な責任を果たさないということだ、というわけです。

 これは耳触りの良い、もっともらしい意見に聞こえますが、「社会的な責任」ってなんだということをちょっと考えてみれば、あまり筋の通った意見でもないと解ります。

 「社会的な」活動だと言っていいと思うので、たとえば町内会の行事について考えてみた時、大抵の忙しいビジネスマンは参加できません。
 町内会の集まりなんかよりも会社の会議の方がずっと大事で優先されるものである、というのは現代人にとって常識です。
 そのビジネスマンがどんな仕事をしているのか、ということもここでは問題ではありません。「シゴト」というのは尊い何かだと一括りにされているので、内容は問われないわけです。
 だから、そのビジネスマンは効果不明瞭なサプリメントの広告のクリエイトを、子供たちが楽しみにしている夏祭りの町内会議に優先させます。
 これは現代社会の文脈では完全に正しいことです。

 しかし、社会的な責任という言葉を中心にして考え直してみれば、どちらが社会的な責任から遠いのかは意見が別れるのではないでしょうか。
 僕にはサプリメントの広告を作るよりも、町内の子供達がより喜ぶような祭りを考えるほうがなんとなく社会的な責任に近いような気がします。
 なんでも税金さえ払えばそれでいいのだという考え方は、もしかしたらそれだって十分に社会的に無責任なのかもしれません。

 「社会的な責任」と「賃金労働」というのは本来関係がありません。
 主婦達が、家事も労働だと賃金を求めて起こした運動が歴史上いくつかあります。
 こういうのを「リブとかフェミニストの連中がまた訳のわからないこと喚いてる」と片付ける無神経さが社会にはあるというか、なんとも不思議なことにドミナントなのですが、このような無視も、話が家庭の外に広がっていることを見つめれば続かなくなるかもしれません。

 アンペイドワークの問題は家事に留まらず社会を広く覆っています。
 たとえば地域の祭りを維持することに対して賃金は支払われません。
 「そんな、祭りなんてしたい人が遊んでるんだから、嫌ならやめればいいじゃん」という意見もあるかもしれませんが、この意見は経済的合理性のないものはこの世界から消えろ、という乱暴な意見です。「観光客からお金が取れて独立採算の成立する祭り」しか存在しない社会を僕達は本当に受け入れることができるのでしょうか。
 祭りに関わらず、惜しまれながら「経済的な事情で」消えているものは沢山ありますが、これは本当に仕方がないことでしょうか。

 僕は数年前まで仕方がないと思っていました。
 「伝統工芸の後継者がいないとか、商売が成立しなくて潰れたとか、まあ不要という証拠だから別にいいんじゃないの」と思っていたのです。
 僕は新自由主義者で市場を信じていました。
 なぜなら僕は合理的なことが好きだからです。当時は市場原理は合理的なものだと考えていました。残念ながら、現行の市場原理だけでは帰結として無味乾燥な世界を生み出すので、あまり合理的なものでもないようです。

 それに「不要」という言葉の意味することも深くは考えていませんでした。市場の判断というのは「欲しい人がいない」ということではなく、「欲しいかもしれないが、値段を鑑みて買うのはやめた」ということです。
 欲しい欲しくないとか、要る要らないとかいうことより、むしろ値段がポイントです。
 僕はこのことがあまり良く分かっていませんでした。

 物には値段があるという概念を一旦取っ払ってしまったら、どうでしょうか。それでもまだ100円ショップの包丁で料理をするのでしょうか。それとも一流の鍛冶職人が鍛えた包丁を使いたくなるでしょうか。
 僕達は物事の取捨選択を、ほとんど全部「値段」で行うようになっていて、しかもそれを「当たり前」だと思っています。
 これは多分非常に息の詰まった世界です。

 ベーシック・インカムが導入されると、この問題は解消されます。
 買ってくれる人が少なくて商売上がったりの伝統工芸竹細工屋さんが、「食うために」仕方なく廃業してタクシーの運転手をしたりということがほとんどなくなります。
 彼は売れても売れなくても、自分が素晴らしいと思う竹カゴを編み続け、それを素晴らしいと思う人が時々でも現れればそれを販売します。
 料理が好きでレストランをはじめたのに、採算を考えて野菜のレベルを落としていたレストランが、本当に使いたかった野菜を使えるようになります。
 ごゆっくり、と言いながら1日に5回転はしないとヤバイので、柔らかに客を追い出していたカフェが、本心からごゆっくりと言えるようになります。

 「食うために仕方ない」という大人の事情がなくなった世界はきっと素敵なはずです。

ベーシック・インカム入門 (光文社新書)
山森亮
光文社


ベーシックインカムは究極の社会保障か: 「競争」と「平等」のセーフティネット
萱野 稔人,東 浩紀,飯田 泰之,小沢 修司,竹信 三恵子,後藤 道夫,佐々木 隆治,斎藤幸平,坂倉昇平
株式会社堀之内出版

働かなくてもいい、というデータ。ベーシック・インカムについて再び

2013-03-21 10:41:34 | ベーシック・インカム
 小学生の時、学校に作業所で働く障害者の人達がやって来て、体育館で交流会みたいなものが開かれた。彼らが普段どのようなものを作っているのかとか、作業の様子などを僕達は見せてもらった。

 ある場面で、僕はものすごい衝撃を受けた。

 その女の子はほとんど体を動かすことができない。
 微かに動かすことができるのは指先だけだ。
 彼女の隣では、ボランティアか職員か分からないけれど、箱に蓋を載せて半分くらいまで閉める係の人がいる。中には多分なんらかの製品が入っていたのだろう。その半分蓋の閉まった箱が女の子の前に置かれると、彼女は微かに動く指先でゆっくりと蓋を最後まで押し下げて閉めた。
 それが彼女にとっての仕事だった。

 僕は混乱した。
 これのどこが仕事なんだろうと思った。
 半分まで蓋を閉めてあげる係の人が、そのまま最後まで蓋を閉めた方がよっぽど作業は捗る筈だ。彼女がしていることは何の助けにもなっていないし、はっきり言って作業の妨げにしか見えなかった。

 僕はまだ小学生で、大人たちがしていることだから"正しい"のだろうと思おうとするところもあった。彼女のしていることが仕事に見えないのは僕がまだ仕事のことを良く分かっていないからかもしれないとか、あるいは"福祉"のことを良く分かっていないからじゃないだろうかと。
 でも、やっぱりその光景はおかしいような気がした。

 ベルトコンベア方式で全ての作業を次から次に見せてもらうことになっていたのと、その女の子は会話もままならなかったので、実際に彼女が自分のしていることに対してどのような思いを抱いていたのかは分からないままになった。
 所謂「労働の喜び」みたいなものを、彼女は本当に感じていたのだろうか。

 この時に感じたことは僕の心に深く刻まれた。
 それからもう20年以上が経つけれど、この時のことをどういう風に解決していいのかずっと分からなかった。
 一生懸命にやっていたのに、彼女のしていることを仕事と認めない僕が意地悪なのだろうか。でも一生懸命にやっていたらなんでもいいってわけじゃない。だいたい彼女は本心ではどう思っていたのだろうか。周囲の人達も本当はどう思っていたのだろうか。本当にあれがベストだったのだろうか。あなたにできる精一杯はこれくらいなんだからこの作業で労働の喜びを感じなさいというのは傲慢なんじゃないだろうか。彼女は本当にあんなことがしたかったのだろうか。それとも義務だと思っていたのだろうか。

 今なら、あの時起きていたことが何であったのか、たぶん分かると思う。
 あれはやっぱり良いことではなかったと思う。
 労働至上主義とてもいうようなイデオロギーの犠牲だったのではないだろうか。
 役に立つ人間以外は無価値であるという残酷でかつ間の抜けたイデオロギーの。
 全ての人間は「オトナになれば」働かなくてはならないし、労働は尊いし、労働が生きる意味で、労働こそが喜びだというような価値観。
 そして同時に不動産なんかを持っている不労所得者への妬みを抱えるという闇さ。

 頭をカラにしてから、1から考えてみれば、労働を賛美する理由はどこにもない。もともと必要なものを作れる人のことはありがたいと勿論思っただろうけれど、全員にそうなれだなんていつから言い出したのだろうか。
 労働、というのでは言葉が曖昧かもしれない。金銭を媒介とした労力のやり取りが人間の尊厳の為には必要だなんて、そんな考え方がどうしてこんなに社会にドミナントに浸透したんだろうか。
 その人が、ただそこにその人としていることに単純な賛美を送ってはならないのだろうか。

 僕達の先祖はテクノロジーを発展させてくれたので、社会を維持するためにはこんなに沢山の人がこんなに長時間こんなに必死に働かなくていい。
 こんなにたくさんの人が働く必要はないのだというと、「そんなの信じられない」という人がいるのだけど、こんなにたくさんの人が働かなくてもいい証拠はとても身近なところにあります。
 あの間の抜けた就職活動とかいうのを見てみて下さい。
 あんなに必死で媚を売ってやっと一部の人が職を手に入れるというのは、みんなが働く必要なんてないということを端的に表しています。

 ここのところは本当に馬鹿みたいなことになっているので、くどくなりますが繰り返して書きます。
 日本だけではなく、世界各国で職を得ることのできない人々はたくさんいます。
 これを「解決すべき大問題」だと、みんなが思い込んでいるのですが、何度でも言いますけれど、言葉は悪いですけれど、これは本当に馬鹿なことです。
 この現象はどう考えても「もうみんなが働かなくても大丈夫な世界になった」ということを表していて、本来は喜ばしい結果です。解決すべき問題でも困ったことでもなんでもない。それを、雇用を生まねばならないとか大騒ぎして、もう本当にこれは馬鹿なんです。
 馬鹿馬鹿言って申し訳ないですが、これは本当に馬鹿なんです。僕もずっと気付いてなかったので半分自分に向かって言っています。
 問題は単に働いている人だけが富を独占していることです。それだけです。
 加えて、労働信仰は人々の頭に叩きこまれているので、働かないと気分も悪いし、働いていない人には文句を言いたくなるので、無理に下らない仕事や有害な仕事を設定して人々を働かせています。
 最たるものは自然破壊しかしないダムみたいな公共事業です。
 そんなものを労働提供の為に行うのなら、何もしないでお金だけ上げたほうがよっぽどいい。
 それでも、もしも労働が尊いと信じているのであれば、世の中の労働を良く観察してみればいいと思います。
 誰も読まない書類を書いて整理することが、本当に尊いのでしょうか。
 改悪でしかないようなマイナーチェンジが本当に、尊いのでしょうか。
 ラーメン屋の売上なんて別にどうでもいいじゃないですか。
 そんなことの為に目くじら立てたり胃潰瘍になっている人々がどうしてこんなにたくさんいるのだろうか。
 どうして要らないのに誰もしたくないのに無理矢理生み出された仕事の為に自然が破壊されるのだろうか。

 それらは社会の為の仕事ではない。
 あの女の子が、微かに動く指先で、それでもなにかせねばならないのだと箱の蓋を最後の半分だけ閉めていた、あの行為そのものだ。
 あの女の子にはただ、別に何もしなくてもいいのだと、ただそれだけ云えば良かったのではないだろうか。もしも何かをしたいのであれば、それが労働である必要もなく、ただしたいことをすればいい。それがあの時の箱を閉める行為であったのであれば、もちろん僕はそれを嬉しいと思う。
ベーシック・インカム入門 (光文社新書)
クリエーター情報なし
光文社

書評:『ベーシック・インカム入門』山森亮、その2

2013-03-19 10:13:31 | ベーシック・インカム
ベーシック・インカム入門 (光文社新書)
山森亮
光文社

 すっかりベーシック・インカムのブログになっていますが、前回の記事では書き足りないので、引き続き山森先生の『ベーシック・インカム入門』について書きます。
 ベーシック・インカムとは何か、あるいは関連書籍に関しましては以下の記事に書きました。

 書評:『働かざるもの、飢えるべからず。』小飼弾

 書評:『未来改造のススメ』岡田斗司夫・小飼弾

 やっぱりまだ夢物語にしか聞こえないという方も、あるいは「怠け者の戯言」と思われる方もいらっしゃると思います。
 実際に『ベーシック・インカム入門』の著者である山森先生も

《実は本書を執筆している私自身、1990年代の初頭にベーシック・インカムについて初めて耳にしたとき激しい嫌悪感をおぼえた。》(11ページ)

 と書かれています。
 どのような過程を辿り、山森さんが嫌悪感から本を出版するまでに至ったかということは詳しく書かれていないのですが、ベーシック・インカムというのが単なる社会保障や貧困問題解決の手段ではなくて、労働や生活を根本的に考えるきっかけになり得るという魅力も大きかったようです。

《例えば、私たちが生きている社会は、生きるためには長時間の賃金労働に従事せよと要求する一方で、子供が熱を出したときに保育園に迎えにいこうとする労働者は要らないということがしばしばある。この場合、社会が私たちに要求しているのは、単に生きるためには賃金労働に従事せよ、ということだけではなく、子供が欲しければ二人親過程を築き維持し、フルタイムで働くのはそのうち一人にせよ、ということである。(中略)
 つまり、私たちは家族のあり方、働き方について自由に選択できるのではなく、社会が要請する制約のなかに生きている。
 ベーシック・インカムという考え方は、そうした社会が私たちに要求する事柄に変化をもたらし得る。》(13ページ)

 僕は基本的にはこのような窮屈さがとてもイヤです。
 もっと云えば、実は家族の形態がこんなにカチッとしているのは、これは半分は歴代の為政者達が恣意的に作ってきたからです。
 僕達は「家族」と言われると、ついつい核家族か、せいぜい核家族プラスおじいちゃんおばあちゃんくらいを思い浮かべて終わってしまいます。でも、このような家族観は近代以降の偏見です。
 たとえば、秀吉は農民政策の一環でそれまで普通にあった「複合家族」を解体していきました。複合家族というのは夫婦とその子供がいくつも寄り集まっている家族です。それに血縁だって必ずしもあったわけではありません。家族というのはもっとファジーなものでした。
 僕達は家族という生活基盤の形からして既に社会的な支配/影響下にあります。そのことにはある程度自覚的であった方が良いのではないでしょうか。"普通の"核家族ではない家族形態を異常なものだと思ってしまうような精神性は社会を一層窮屈にします。当然のことですが、誰とどのように住むかというのは自由です。

 単なる社会保障にとどまらず、生活スタイル全体の見直しに繋がるベーシック・インカムですが、山森先生の本には社会保障面でも重要なことが書かれていました。
 それは「現行日本の生活保護制度は機能していない」という事です。

《100世帯中、10世帯が生活保護基準以下の生活をしているが、実際に保護を受けることができているのはたったの2世帯》(32ページ)

 これはザクっとの表現なので、厳密にはもっと悪いです。
 生活保護が必要な世帯のうち、実際に受給している世帯の割合を捕捉率というのですが、捕捉率は1995年で19.7%、2001年で16.3%です。他所の国ではたいてい50%は超えていて、日本は極端に低い。不正受給はメディアで大々的に報道されるがこの低い捕捉率、つまりもらえる筈の人の8割以上がもらえていないという事実はあまり報道されない。

 現行の生活保護には大問題があります。
 それは「この人に上げていいのかどうか」という判断をするのに膨大なコストが掛かっていることと、さらに「本当の本当はそんな判断誰にもできない」ということです。誰かの生活を隅々まで把握して数値化して単位を「円」に変換して査定するなんてことできるわけがないんです。

 日本中の1割の世帯が申請してきて、それを全部査定するのにどれだけ沢山のコストが掛かるのかは想像に難くありません。さらにこれは査定する方だけではなくされる側にも煩雑な手続きというコストを要求します。
 ならばもう全員に一律でお金を給付した方が良いのではないかというのがベーシック・インカムの考え方です。

 最後にキング牧師の言葉を引用して終わります。

《私はいま、最も単純な方法が、最も効果をあげるようになるだろうと確信している。貧困の解決は、いま広く議論されている方法、すなわち保証所得(ベーシック・インカム)という方法で、直接それを廃止することである、と。(中略)
 その保証所得が、たえず進歩的なものとして生かされてくるのを確実にしようと思ったら、次の二つの条件を欠くことはできない。
 第一に、その所得は最低の水準にではなくて、社会の中間の水準にあわせて定めなくてはならない。
 第二に、保証所得は社会の総収入が増大したら、自動的に増加するものでなければならない。
 この提案は、いま普通に使われている意味での「公民権」計画ではない。その「保証所得」計画によれば、全貧困者の三分の二を占めている白人にも、利益を及ぼすのだ。
 黒人と白人の両方が、この変化を遂行するために連合を結んで行動するように希望する。なぜならば、実査問題として、われわれが予期しなければならない猛烈な反対にうちかつためには、この両方の結合した力が必要になるからである。》
 (キング『黒人の進む道 世界は1つの屋根のもとに』、1967年)

ベーシック・インカム入門 (光文社新書)
山森亮
光文社

書評:『ベーシック・インカム入門』山森亮

2013-03-18 15:21:51 | ベーシック・インカム
ベーシック・インカム入門 (光文社新書)
山森亮
光文社

 ここのところしきりにベーシック・インカムと言っていますが、やっと山森亮さんの『ベーシック・インカム入門』を読みました。
 そして、ついに帰って来れなくなってしまいました。
 帰って来れないというのは、もうベーシック・インカムのない今の社会が断然おかしく思えて仕方ない状態になってしまったということです。

 はじめてベーシック・インカムという言葉を耳にされる方の為に簡単に説明しておきますと、
 ベーシック・インカムというのは、

「国民全員に文化的な生活のできる最低限のお金を無条件で支給する制度」

 のことです。

 そんなことできるわけないだろ、何の夢物語だ、と思われるかもしれませんが、もう概念自体が提出されてからは数百年が経過していて、”現代的な”議論も何十年も行われてきました。
 その結果、これは可能であろうという結論がもうあると言って良いと思います。
 可能である、という断言ができないのは、一応まだある程度大きな規模での実験が成されていないからです。
 議論は尽くされているので、もう実行してしまう段階だとは思います。
 最大の障壁は「働かざるもの食うべからず」という骨身に浸透した近代のイデオロギーです。たぶんそれだけです。もう僕達はみんなが働かなくても豊かな生活をするに十分すぎるテクノロジーを持っているのですが、働かないと駄目だと思っていたり、働いていない人にお金を上げてはいけないと思い込んでいるので、無理矢理どうでもいい仕事を作ってどうでもいい製品を作って、その為に自然破壊して、その為に過労死したり鬱になったりしているわけです。バカの極みです。この社会は確実に狂っています。

 山森先生の本は冒頭、キング牧師の話からはじまります。
 そうです"I have a dream"のスピーチのマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの話です。
 彼はノーベル賞ももらっているし、とても有名なので知らない人はいないと思います。
 でも、彼がどういう「政策」を考えていたのかはあまり知られていません。
 僕も実は良く知りませんでした。
 彼が求めていたのは言わばベーシック・インカムです。

《すべての個人が無条件で生活に必要な所得への権利を持つ》

 キング牧師が暗殺された1968年からもう40年以上が経過していて、その間にベーシック・インカムに関する議論は世界中で尽くされてきました。
 なにも、最近ぽっと現れたトンデモなアイデアではありません。
 実際に、1968年の5月、すでに全米1200名以上の経済学者が連盟でベーシック・インカムは可能だし望ましいという宣言を出しています(232ページ)。
 結論というのはもう40年以上前に出ていて、さらにそれから40年間研究が進み、そしてようやく僕達の耳にアイデアが届くようになったということです。

 国民が合意さえすれば、僕達は明日からでも、誰もが働かなくても十分に生活できて、働きたい人は楽しく好きな形で働くという、そんなイキイキとしたワクワクする社会を実現することができるのです。

 そんなの話が上手すぎて信じられないという人は、今このブログを読まれているパソコンなりスマートフォンなりをじっくり眺められてください。その小さな箱の中に詰め込まれたテクノロジーはもはや信じられないようなものではないでしょうか。僕達は信じられないほど高度に発展した世界を既に生きているのです。
 「強制労働」をやめて、ベーシック・インカムはじめませんか?  
ベーシック・インカム入門 (光文社新書)
山森亮
光文社

書評:『働かざるもの、飢えるべからず。』小飼弾

2013-03-12 18:16:05 | ベーシック・インカム
働かざるもの、飢えるべからず。 だれのものでもない社会で、だれもが自由に生きる――社会システム2.0 (サンガ新書)
小飼弾
サンガ

 前々回、岡田斗司夫さんと小飼弾さんとの対談『未来改造のススメ』を紹介しました。
 基本的にはベーシック・インカムの本として読める、と書きましたが、良く考えてみれば僕がはじめてベーシック・インカムという言葉を知ったのは小飼さんのどこかでの発言からではないかと思います。
 そこで今度は小飼さんの、もっとストレートにベーシック・インカムを扱った本『働かざるもの、飢えるべからず。』を読みました。

 副題は"ベーシック・インカムと社会相続で作り出す「痛くない社会」"です。
 この「社会相続」というのは、相続税100%のことを指しています。
 現在、日本の年間死亡者数は110万人で、その方々が残す遺産は80兆円。現状ではこれは遺族が相続するのですが、相続税を100%、つまり社会全体が相続するという形に変えると、ベーシック・インカムとして全国民に毎月5万円のお金を配ることができます。
 さらに高齢化が進んでいくので、2020年には年間に発生する遺産は109兆円になることが予測されています。

 ベーシック・インカムについて、いくつか大きな疑問があったのですが、その一つがやっぱり財源で、この相続税を100%にしてそれを充てるというのは、結構すっきりとした解だと思いました。
 ちなみに、僕がベーシック・インカムに対して持っている一番大きな疑問は「医療大丈夫かな」です。
 端的にいうと十分な医療従事者がキープ(今も足りていませんが)できるのだろうかという心配があります。それに関してはもう少し考えて行きたいと思います。

 さて、本書では冒頭でちょっとしたクイズが出されているのですが、これを読んだ時に僕は少し嬉しい気分がしました。多分小飼さんのベーシック・インカムに対する考え方の大本は僕のと同じだと思ったからです。
 一口にベーシック・インカムと言っても、その根拠は人によって違います。たとえば基本的人権などを持ち出す方もいますが、僕はそれは良く理解できません。僕のはもっと単に理屈で考えて社会を最適化しようと思ったらベーシック・インカムが最適解であるというものです。最適解なのに社会を覆っている「労働信仰」がベーシック・インカムの実現を邪魔しているなと思っています。
 本書の冒頭で小飼さんはこの「労働信仰」をいきなりブチ壊します。

《 はじめにクイズです。

  コメを作っているのは誰でしょうか? 農家でしょうか?

  ちがいます。答えは、イネです。

  農家の方には申し訳ないのですが、これは事実です。農家はなにも作っていないのです。作っているのはあくまでイネ、トウモロコシ、コムギ、ダイズといった植物であって、人はそのお膳立てをしているにすぎません。漁業にいたっては、そのお膳立てさえせず、「生産」のいっさいを海にゆだねています。

  人というのは生きていくのに必要なものをいっさい作っていません。作るのはあくまで植物であり、環境であり、自然であって、人はその上前をかすめているだけです。 》

 弾さんはこのあと、僕達は地球に寄生しているのだと書かれています。
 僕もそう思っています。

 これはベーシック・インカムの考えを知るずっと以前のことですが、あるとき僕はハッとしました。
 ほとんどの仕事と呼ばれるものは、はっきり言ってどうでもいいようなことではないかと、少なくとも死にそうな顔でするものではないだろうと。楽しくてしてるならわかるけれど、苦しんで義務感にかられてするようなことではないだろうと。
 だって、農業以外なんか必要ですか?
 マイナーチェンジしたシャンプーの匂いを決める為のプレゼン作成で胃潰瘍になってどうすんだって思います。それで「ボロボロになってまで働く私は偉い」とか、アホじゃないのと思います。そんなことどうでもいいじゃないですか?
 これが、楽しいことなら、楽しくてしていることなら別にいいです。でも死にそうな顔でやってどうするんだと思います。クビになったら生活できないからと、したくもないことを悲壮な状態でやり続けるしかない社会がとても嫌いです。
 だって、食べ物も家も余ってるじゃないですか。そして仕事は足りていない。
 これが意味しているのがどういうことかは、明確です。
 もう僕達は全員が労働する必要ないんです、というか、全員が無理矢理働くことがどうでもいい仕事の為の仕事を生み出して、社会を住みにくいものにしています。
 夢見られていた未来では労働はロボットが全部やって人間は遊んでいるだけですね。SF的には。
 僕達のこの世界は既にその手前まで来ているんです。
 だから全員が働くのはかなり無理がある。
 そして働かないなら飢えて死ねというのはもっと無理がある。

 これは僕が貧乏だから言っているわけではありません。
 ビル・ゲイツみたいな大富豪でもベーシック・インカムに賛成しています。
 僕はただ単に合理的でないことが嫌いなんです。
 十分に資源があるのに、それが大いに偏ることで、まるで何かが不足しているように見えて人々が苦しむ世界が嫌なんです。
 せっかく人類の叡智がここまでやって来ているのに、先人たちの努力が、遺産が、宝物が目の前にポンと置かれているのに、それが見えないで日々の苦しみに追われている人々を見るのが嫌なんです。
 イヤなことをするのが良いことだ、みたいに人々が思い込んでいることが嫌なんです。

 僕みたいな怠け者が「ベーシック・インカム」と言うと、バカな怠け者がなんか言ってるとなって終わるのかもしれません。
 でも、もしも本当に僕達人類のテクノロジーが人類を労働から開放可能だとして、それでみんなが働きたくないのであれば、それでみんなが働かなくて良い世界を作ってしまって何か問題があるのでしょうか。
 なんか堕落している感じがするから駄目なんでしょうか?
 みんなが楽しくハッピーになることを、実は僕達は恐れているような感じがするのですか、それは何故なのでしょうか?

 この本の後半は、スリランカ出身の僧侶アルボムッレ・スマナサーラさんとの対談になっています。
 最初は「あれ?」と思いました。
 別にベーシック・インカムとは関係がないように見えたからです。
 でも、スマナサーラさんの語る実用的な仏教は、その帰結してベーシック・インカムに近いものを導出しているようでした。
 実用的な仏教と書きましたが、本来仏教は実用的な理屈で構成されたもので、現代日本にはびこっている大乗仏教はあまり本来の仏教とは関係ないようです。

 昨日の記事に僕は「京都って本当にザ・ジャパンだろうか?中国の真似でしょ。仏教だってインドから中国経由で入ってきたものに過ぎない」というようなことを書きましたが、この対談で面白い話が出て来ました。
 土着の宗教というものは本来輸出できるものではありません。たとえば日本の神道は輸出できないし、日本でしか文化的にも生き延びることができない。インドのヒンズー教だって同じです。ところが、仏教というのは人類のことを普遍的に考えて考えて出来たものなので、あらゆる時代のあらゆる地域で通用する。だから仏教のパッケージを使えばローカルな宗教をグローバルに輸出可能になる。そうしてヒンズー教が仏教パッケージに入って輸出されて日本に入ってきた。だからあれは仏教というかヒンズー教です。みたいな話です。
 これはとても面白い話ですね。
 実際に日本に入ってきた仏教にはナントカ明王とナントカ菩薩とか、色々なカミサマがいます。それらは別に本来の仏教には一切関係ありません。日本のお寺の大体はヒンズー教のお寺ということで落ち着きます。
 僕は基本的には合理的なことが好きなので、つまりは本来的な意味で仏教徒に近いと思うので、日本のお寺で祈ったりはしません。
 諺に「情けは人の為ならず」というのがありますが、あれは「人にいいことをしてあげたら周り回って自分に帰ってくる」みたいな意味の言葉です。僕はもともと諺にが嫌いですし、この諺も好きではありませんが、でも、仏教というのは本当はこういう話です。社会全体がもっと幸福になるために合理的に物事を考えたらこういう教えができた、というのが仏教です。祈祷とか坐禅とかとはあんまり関係ないですね。

 2500年前の天才思想家が生み出した叡智と、現代の天才プログラマが「社会の最適化」を考えたときにだいたいベーシック・インカム(ベーシック・ニーズ)で合意しているのは、とても説得力のあることではないでしょうか。
働かざるもの、飢えるべからず。 だれのものでもない社会で、だれもが自由に生きる――社会システム2.0 (サンガ新書)
小飼弾
サンガ

書評:『未来改造のススメ』岡田斗司夫・小飼弾

2013-03-07 18:10:35 | ベーシック・インカム
未来改造のススメ 脱「お金」時代の幸福論
岡田斗司夫・小飼弾
アスペクト

 時代の変化みたいなものをここ数年ヒシヒシと感じていて、特にKickstarterの存在をはじめて知った時には「ヤラれた!」というような感覚と共に自分の視界が変化しました。
 なんか爽快だった。

 その「変化した視界」の一部は、岡田斗司夫さんの『評価経済社会』という本のお陰で頭の中にスカッと整理されました。岡田さんの名前は「と学会」の頃からずっと知っていて、でも本を読んだのはこの本が最初でした。面白かったので、それから何冊か岡田さんの本を読んでいます。
 今日は小飼弾さんとの対談『未来改造のススメ』を読みました。本当は「ラップがこれからどのように社会を変える可能性を持つか」ということを、前回の続きとしてブログに書くつもりで机に向かったのですが、机に置いてあった『未来改造のススメ』をパラパラと捲ったらとても面白かったので全部読んでしまいました。
 その感想を、ラップのことよりも先に書いてしまおうと思います。

 本の最後の方に、岡田さんのこのような発言があります。

《 僕らは、すでに豊かなんだよ。そこから始めないと、何も変わらない。すでに十分豊かなのに、僕たちは何かに脅えて、お互い奪い合って生きている。 》(p183)

 これは僕がここ数年心の底から思っていてイライラしていることそのものです。
 実はこの『未来改造のススメ』という本は、ほとんどベーシックインカムの本になっています。

 ベーシックインカムというのは「国が、生活できる最低限のお金を国民全員に配る」制度のことです。
 ええ、もう働きたくない人は働きません。
 これは、はじめて聞く人にはびっくりのトンデモなアイデアかもしれません。
 僕がはじめてベーシックインカムのことを聞いたのは3年くらい前だと思います。ベーシックインカムのアイデア自体は古いもので、既に18世紀末には提唱されていました。1970年頃から議論が再燃し、2000年代になってからはベーシックインカムに言及される機会が急激に増加しているようです。

 僕は3年くらい前にベーシックインカムの話を聞いてから、その可能性に対するワクワク感をずっと持っていました。
 ワクワク感を持っていても特に勉強したり活動したりはしていなかったのですが、先日、夕飯を食べていると同居人が「あのさあ、ベーシックインカムってどう思う?明日勉強会あるんだけど」と言ってくれ、それで僕はその友人と一緒に勉強会を覗いてみました。もっともこの時は、遅刻して行った上、あまり話に興味が持てなくてすぐ帰って来まい「やっぱり僕は社会システムにはそんなに興味が無いし、そういうことはそういうことを好きな人達に任せておけばいいな」と思っていました。

 ところが、数日後に読んだ『うつにまつわる24の誤解』( http://diamond.jp/category/s-izumiya )という記事を読んで、やっぱり僕はベーシックインカムのことを考えていたのです。
 しばらくベーシックインカムのことを勉強してみようと今は思っています。
 ただ、この『未来改造のススメ』がベーシックインカムの本として読めるとは思っていませんでした。単に岡田さんと小飼さんの対談本だったから手に取っただけなので、嬉しいサプライズです。

 さて、本書の内容ですが、もちろんベーシックインカムだけではありません。副題が『脱「お金」時代の幸福論』と付いていることからも推測されるように、岡田さんの『評価経済社会』(お金の時代から評価の時代へという内容)と被っている部分もあります。
 『評価経済社会』は岡田さんが1995年に書いた『ぼくたちの洗脳社会』という本の焼き直しです。ほとんど同じ内容で、当時はまだなかったTwitterなどの言葉が入っている程度なのですが、20年近く前に書かれたのにどう読んでも「今」の本です。これには驚くしかありません。こういうことを踏まえてか、『未来改造のススメ』の前書きに小飼さんは「岡田斗司夫は先の見えるオトナ」であるというようなことを書いています。

 そして今「先の見えるオトナ」である岡田さんがベーシックインカムを語っています。
 ベーシックインカムへの伏線は結構前の方にありました。
 41ページに岡田さんのこのような発言があります。
 ちなみに岡田斗司夫さんはエヴァンゲリオンを作ったアニメ会社ガイナックスの設立者です。
 
《今のアニメは完成度が高すぎて、とても自分でやりたいとは思えない》

 これは、昔はプロの作ってるものでも「こんなものなら自分の方がいいのができる」という風に思えたけれど、最近のはもうそんなことない、ということです。それを受けて小飼さんも「自分がウェブの仕事をはじめた頃は簡単なことを知っていれば引っ張りだこだったが、今は1人のエンジニアに要求されることがとても多い」と言っています。
 これだけを聞くと、まるで年寄りの話みたいに聞こえてしまいます。なぜなら、新しい未成熟の分野は日々新しく生まれているからです。

 ただ、話はここからで、その新しい分野を切り開いているのはもはや超絶な趣味人であってビジネスの人達ではありません。
 大袈裟に極端に書いてしまいましたが、そういうことです。

 68ページから引用します。

《 岡田:僕はそろそろ「本当は仕事なんて必要ない」と言い始めてもいいと思っているんですよ。働く必要がないのに働こうとしているから不幸なのかもしれない。

  小飼:人にカネを出して買ってもらえるレベルが格段に上がっていますね。コンテンツが無料になっているという話にもつながってくるんだけど、昔ならしょぼいものでもカネを払ってもらえたのに、今はすごい出来のものが無料で提供されています。働く人全員がそのレベルに達するのは無理でしょう   》

 そして「人にカネを出して買ってもらえる」ものを作るのに大勢の人間が必要だった時代も終わりに近づいています。デジタルファブリケーションが普及すれば、1人家電メーカーみたいな人はどんどん増えるはずです。

 昔、現代美術家の椿昇さんがレクチャーであるビデオを見せていらっしゃいました。
 そのビデオはドキュメンタリーで、名前を忘れてしまったけれど、どこだかの島の人々の生活を写したものです。その島には産業が1つしかありません。それは「ロープ作り」です。そして、ロープを作っているのはたった1人、「ロープ作りの天才青年」です。他の島民はどうしているかというと、何もしていません。彼が一生懸命にロープを作っているのを周りでぼーっと眺めたりしています。島民は彼が1人で養っているわけです。「こういうのも、まあアリなんですね」
 僕も「まあ、アリだな」と思ったのだけど、あとで友達に話すと「それはお前ら甘っちょろい怠け者の考えだ、一生懸命働いてみろバカ」と怒られました。
 でも、もしも僕がロープ作りの天才で、それでロープ作りが楽しかったとしたら、そしたら僕が1人でロープを作って、あとのみんながロープの売上で楽しく暮らしてくれて構わないなと、やっぱり思います。

 この本にも弁護してもらうと、96ページにこのような話が出ています。

《岡田:個人レベルで見たら、生活が苦しいということはあると思う。ただ、もう「個人」という考え方は無理。あれは二十世紀の幻想と言っていいでしょう。一族郎党と考えたら、日本人は豊かです。けれど、二十世紀後半から二十一世紀初頭にかけて、僕らはすごく「しんどく」なってきた。一族全体でなら豊かだったはずなのに、それを核家族にして分け、さらに1人1人に部屋を割り当てるなんて無茶をしてしまったから。個人で考えるのではなく、一族20人のうち、3人が働いていれば上等でいいんじゃない?

  小飼:すでに日本は10人に1人が働くくらいで、モノの生産やサービスの提供を含めて、社会を回せるようになっている。何もしなくていいと言われても、10人に1人くらいはじっとしていられなくて、バタバタと手足を動かしたくなってしまうものなんですよ。そういう人が、自分に向いたことを見つけると、1000人を食わせられるモノをポンと作ったりするのが今の時代です。

  岡田:アジアでは、1人の働き手に、20人くらいの家族がくっついていたりするでしょう。あれって、当たり前ですよ。一時期日本は進むべき方向を見失って西洋から学んだけど、もう一度あそこに戻るのがいい。ただし昔を違って、一族は血縁とは限らない。縁もゆかりもない他人同士、「拡張型家族」として20人くらいがお互いに支えあって生きていくのがいいんじゃないかな。  》

 流行してきたシェアハウスなどに見られるように、共に暮らす若者は増加しています。実際に僕も今5人で暮らしていて、貧乏な僕がもしも一文無しになったら少しくらい食べ物を別けてもらったりはできると思います。
 いやいや、それは人に頼ってたかってるだけじゃないか、と言われるかもしれません。でも、基本的に人は頼り合いうもので、

《岡田:この「たかる相手を見つける旅」のことを、就職や結婚と言ってきたんだ。就職というのは能力のない奴が大企業に「安定した生活をさせてください。そのうちお役に立ちますから」と頼んで、月々のお小遣いをもらっているのと同じことだからね。 》(P、174)

 ベーシックインカムについては書きたいことがたくさんあって、段々と長くなってきたのでそろそろ終わりにします。
 もう政治のような富の再分配とか、立法みたいなシステム最適化問題は全部「コンピュータ」に任せて、最適化された世界で、貧困のない世界で、嫌々働かなくていい世界で、好きなことならいくらでも働ける世界で、そういう世界で生きたいと、僕だけではなくて多くの人達が思っているのではないかと思います。
 その為のテクノロジーと知恵は既に僕達の手の中にあります。

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目次

はじめに  小飼弾

1. カネ持ち、モノ持ちは、もはやダサイ!

今本当に必要なのは、モノのダイエット
廃校とブックオフを買ってみる?
もはや、カネ持ちは格好悪い!
実は、アメリカは発展途上国だった

2. 知恵やコンテンツはそもそもフリーである

未成熟な業界には隙間がたくさんある
コンテンツにカネを払う奴は負け犬なのか?
日本人は世界一フィギュアが嫌いな民族
コンテンツはタダだということがばれてしまった!

3. 仕事の報酬は、カネから体験に変わる

命と引き換えにしても欲しいモノはあるか?
自分が自分の客になるかを考えてみよう
うまくやる奴とうまくいかない奴の格差は大きい
普通のモノは誰にも買ってもらえない
まず、自分の補助線を世界に書き込んでみる
教育とはそもそも何か

4. 会社、学校、家族のいいとこ取りした新しい組織

岡田斗司夫は、ビジネスが不得意である
暗黙知を伝えるための弟子方式
自分ではなく弟子たちにやらせないとダメ
学んだ弟子が卒業する瞬間
社員が社長に給料を払う

5. 個人という幻想が終わり、他人同士が家族になる

「個人」という幻想はすでに終わっている
働くことはパカのための免罪符になりつつある
「ばあや」のススメ
非モテはこれで解決できる!
非モテのためのマーケティング論
青年よ、もっと無意味に悩め

6. 世界支配は、機械政府に任せてしまえ!

機械政府の可能性を探る

7. 働かなくても飢え死にしない時代ヘ

日本人全員を年金生活者にしてしまえ!
真の成金は、子どもにカネを残したりしない
人生は辛さの好みがそれぞれ異なるカレー

8. 沖縄と北海道は独立国に、日本は「合県国」に

沖縄と北海道を独立国にしよう
地方分権ではなく、いっそ連邦制へ
僕たちは何に脅えてきたのか?

9. 「僕らはすでに豊かだ」からスタートしよう

カネ持ちに上手にたかろう
みんなで力を合わせて無意味なモノを作る
たかる相手を見つける旅に出よう
生きる力とは、たかる相手を見つける能カ
ベーシック・インカムは苦痛を減らす
僕らはすでに豊かだ
仕事は「数寄者」の権利になる
もう大学なんていらない!
自分ができることを明日からやればいい

おわりに  岡田斗司夫
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未来改造のススメ 脱「お金」時代の幸福論
岡田斗司夫・小飼弾
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