ジンジャー。

2006-04-27 01:11:23 | Weblog
 最初に展覧会のお知らせです。

 中京区夷川通寺町西入南側の『id gallery』で、京都精華大学陶芸科4回生の女の子3人による

 "fancy" 陶3人展

 が行われています。友達がいるので僕は今日行ってきました。
 会期は30日(日)までで、時間は11:00~19:00(最終日は18:00まで)です。
 よろしければどうぞ。

 前回、サイボーグの話を書いていて、それからコメントも頂いて思ったのですが、僕はどちらかというと、これ以上科学技術は進歩しなくてもいいなと思っています。たとえば、別にコンピュータの演算速度がこれ以上速くなって、ネットの通信速度が速くなって。そんなこと別にどうだっていいことです。

 子供の頃によく「科学技術が高度に発達した文明が核戦争で滅びた」というようなストーリーを目にして、僕は人類は別にそんなに愚かじゃない、これってやけに説教くさい話だな、と思っていたのですが、核戦争ではなくても、もっと日常レベルで不愉快なことはたくさん起こり得ます。

 例えば、カメラの小型化が目覚しいですが、この先どんどんとカメラが小型化高性能化していき、挙句の果てにそれはもう昆虫の目玉ほどのサイズになり、ロボット技術も進化して、小さな昆虫型ロボットカメラができた日には、僕たちのプライベートというものはどうなってしまうのでしょうか。夏の夜に網戸にやってくる、細々とした名前もわからないような虫がカメラを積んだロボットで、それから送られる映像を誰かが見ているとしたら、そんな世界はとても住めたものではない。

 どこでもドアだって同じことだ。夜中に寝室で眠っていて、急に赤いドアが部屋の中に現れて、そこから誰かが出てくるなんて、僕はそんな世界には住みたくない。もちろん、どこでもドアでは入れない部屋というものが開発されるのだろうけれど(そうなると”どこでも”ドアではなくなりますね)。

 科学というのは別に崇高な何かではなくて、単なる人類の欲望がとる一つの形態に過ぎない。作ってはならないものがたくさんある。

 材料をただで手に入れようとして挫折したのですが、この間までI君とフラードームを作ろうという話をしていました。フラードームというのは発明家バックミンスター・フラー(宇宙船地球号、ということを言い出した人です)の考案したドームで、最小の材料で最大の容積を得る、デザインになっています。
 フラードームとフラーのことを調べているうちに、だんだんと多面体に興味が湧いてきて、先日図書館で多面体と建築の本を借りてきました。

 その本は最初が「多面体の歴史」といった感じではじまるのですが、プラトンが「世界は多面体でできている」と大胆な発言をしていて吃驚しました。
 正多面体というのはこの世界に5種類しかありません。正4面体、正6面体、正8面体、正12面体、正20面体です。詳しい内容は忘れてしまいましたが、プラトンは曰く、「動きの激しい炎は4面体で、安定な地面は6面体で、水はなんとか、空気はなんとか」と世界を作る要素と正多角形を対応させていて、随分と滅茶苦茶に見えるのですが、実は地面を構成する鉱物の多くが6面体の結晶だったり、なかなか的外れとも言えないらしく、単なる結果オーライですが、プラトンの恐ろしい洞察力に感心しないわけにはいきません。2400年くらい前の人がこんなことを言っているなんて。

 サイボーグの番組を見てから、とても面倒なことですが、僕はアイデンティティについて考えざるを得ません。こういった問題を僕は一時期好みましたが、考えるのが本当に面倒なので、今ではもう面倒だとしか思えない。
 でも、考えないわけにはいかない。
 
 筒井康孝さんの小説で、体の悪くなった部分をどんどんと取り替えて長く長く生きた人が、最終的には「一本の歯」以外、全部人工のサイボーグになってしまう、という話があります。
 これを昔読んだときは、皮肉な警告的な話だと思った。筒井さんは「こんなのもう元の人間とは関係ないじゃないか」と言いたいのだと思っていました。

 今も筒井さんの本心は知りませんが、でも僕の読み方は変わりました。
 僕は、たとえ最後に残ったのが「一本の歯」でしかなくとも、それはもともとの人格を有する人間なのだと思います。こういったメタモルフォーゼを扱うとき、僕たちは各段階における微分要素に注意しなくてはならない。

 僕達の「人格の連続性」というのは勿論単なる幻想です。それは前状態(S)が、現状態(S+1)に遷移するとき、その変化量が十分に小さいときにのみ起こる誤解の連続なのです。
 考えるまでもなく、同一人物についてであっても、赤ん坊である彼と、老人である彼は全くの別人です。物質的にも性質的にも。ところが、その間を幼児、少年、青年、中年、初老、と小さな小さなパスで繋いでいくと、彼は彼のアイデンティティを保ちます。
 だから、初状態と終状態はどんなものであっても、それは大した問題ではありません。大切なのはその「小さなパス」、つまり各段階の微小な変化が「十分に微小であるか」ということだけです。

 筒井さんの小説でいうならば、最後に歯が一本すら残っていなくて、全てがロボットに置き換わっていても、その改造なり治療なりの各段階が「十分に微小」であれば、彼は彼のアイデンティティを保つはずです。
 つまり、このような「人工の部品で体を置き換える」という手段を使えば「人は永久に生きること」ができます。もちろん、誤解された自我を保ったままですが、僕達がライブで今生きているこの自我だって誤解された自我でしかないので、どっちだって同じことです。

 納得がいかない、という人は「自分の体が脳内の記憶も全て、つい0.1秒前に構成されたのではないことを証明できるか」を考えてみるといいと思います。
 もしかすると、世界というのはついさっき始まったばかりなのかもしれません。

サイケデリック。

2006-04-25 19:22:13 | Weblog
 ラジオを点けると、雑誌「関西1週間」がフューチャーされていた。このへんてこな名前の雑誌が創刊されたとき、僕はなかなか名前に馴染めないのと、それから発売日が隔週ならば「関西1週間」ではなくて「関西2週間」じゃないか、と半ば腹を立てて、でも自分の人生にはほとんど関係がない雑誌なのですぐに忘れてしまった。

「小説とは、人生のお手本を示した物である」

 という風に小説の定義を行った場合、

「現代最強の小説は雑誌である」

 と、いつだか高橋源一郎さんは論理を進めていらっしゃいました。
 雑誌って小説なんです。どこで何を買って、何を食べて、何を着てどこへ遊びに行けとか、ひいてはどのように考えろだとか。そういった提案に脚色を施した物。

 ときどき、僕は歌を作ろうとするのですが、歌詞というものをどうにも上手に書くことができません。音楽と言葉の関係というのはとても悩ましいものです。ましてやそれを自分が口にするのなら。
 以前、音楽を作っているAちゃんが「歌詞はどうにも重いから入れることができない」と言っていたのを時々思い出す。

「いっそのことボーカルはラララとかだけでいいと思うの。意味は要らない」

「そうだけど、でも僕は少しだけ意味も欲しいんだ。だから、英語で歌詞を書こうと思う。日本語よりもちょっと間接的になるし」

「でも英語の分かる人が聞けばダイレクトに意味を持つことに変わりないじゃない」

「じゃあ、スペイン語で」

「それもスペイン語の分かる人にとっちゃ一緒でしょ」

「じゃあ、新しい僕だけの言語を作るよ。そうして、歌詞カードに日本語訳を載せておくのさ。聞く分には誰にも意味が分からなくて、歌詞カードを読んではじめて意味が分かる。誰にとっても間接的な意味の分かり方と、架空のネイティブが想定された言語」

「つまり、出鱈目ということね」

「いいや、きちんと単語と文法を作るさ。そのうち、歌詞を書くときの標準語にでもなれるくらいに精密なやつをね」

「ふーん」

 そうして僕は少しく新しい言語について考える。「私」は何にしようかな、なんて。そしてその作業は恐ろしく大変なものだとすぐに気が付いた。新しい言語体系を作ると言うのは、新しい思考体系を作ると言うことだ。そんなのすぐにできっこない。

 昨日、NHKで立花隆がサイボーグの特番をやっていて、その過程で彼は実際に自分の神経に電極を取り付けてロボットアームにコネクトする実験に参加していた。ロボットアームのセンサーが「触れている」を拾うと、立花さんの腕に「触れている」感覚が発生するというものだ。
 そのときの感覚を彼は「言葉に表すことができなかった」と正直に告白した。彼は随分と語彙の豊富なジャーナリストだけど、言葉に表すことができない、と言ったのだ。真に新しいことが起こったとき、その現象は我々の世界が有する言葉からは独立で、それゆえに僕たちはそれを表現する言葉を持たない。

 少し話しは逸れるのですが、このサイボーグ番組にはアメリカのロボットマウスだかなんだかというものが紹介されていました。
 なんとも痛ましいことに、そのネズミの頭には電極とコントローラーが埋め込まれていて、彼はパソコンからの命令通りに右や左へ曲がるのです。背中にはカメラを搭載している。
 吐き気がした。
 ヒヒだかチンパンジーだかでも実験は成功しているらしい。その映像が流れていれば僕は確実に吐いただろう。

 先日Mさんとご飯を食べているときに「それは何味か?」という話をした。
 僕はそのとき鳥の肝を食べていて、彼女は「生のそんなもの食べれるわけがない」と言って食べることを拒絶して、そして「何味?」と聞いた。僕は「鳥の肝味」と答えた。

「それじゃ、分からないわよ」

「言葉で味なんてわかりっこないさ」

 もちろん、これは只の意地悪だ。僕はなんとか塩の味がして血の味もして、という風にだいたいのところを伝えることはできる。でも、あくまでそれは無理やりの話であって、現実にはある味とある言葉は一対一にしか対応できないのではないかというような気分もする。

 唯言論のことを高校とき、国語の先生が話し出して、そのとき彼は「ある民族では、黒い馬を示す言葉、茶色い馬を示す言葉、はあるけれど、でも、馬を表す言葉はない。だからこの民族とっては馬は存在しない。いるのは黒い馬か茶色い馬だけだ」と言った。
 これは若干怪しい話だけど、この民族が本当に「馬」という種を認識しないのだとすれば、そのなかで「馬」という言葉を発明するのは天才的な行為かもしれない。



 
 

ポテト好きのピンククィーン。

2006-04-19 14:23:05 | Weblog
 昨日、フンデルトバッサーの建築は何かに似ているな、と思っていたのですが、荒川修作とマドリン・ギンズの「三鷹天命反転住宅」に似ているのだ、ということにさっき気付きました。

 荒川さんの建築を、実際には僕は「養老天命反転地」しか見たことがありませんが、僕は彼の作る物をあまりいいとは思いません。
 なぜならば、質感がどうにも好きになれないからです。
 僕は建築において最も重要なファクターは質感だと思っています。形でも色でも構造でも斬新さでも利便性でもなく。だから、一昔前の言葉でいう所謂「新建材」で作った家なんて、どんなに優れた図面を引いたとしても、結局のところはぺらぺらな何かに成り下がってしまう。逆に、優れた材料で組み立てられた建築はノーマルな形であっても、それなりの存在感を示すものだ。

 それで、話を前回の続きに戻しますが、この冗長なストーリーのなかで僕が一体何を言いたいのかというと(本当は僕にだって良くわからないのですが)、僕達はこの世界に絶対に理解不可能な存在があることを知っています。さらに、それに関する考察を進めることも世界中で行われています。量子力学の創成期、ニールス・ボーアは「我々の言葉を越えた世界であっても、我々の今持っている言葉で説明できなければいけない」と言いました。僕の知っているある思想家は「絵画に現れている言葉では説明できないもの、を言葉で説明」しようとなさっています。
 
 これらの行為を笑う人は、物事が本質的には矛盾した存在であることを理解していない。本質はいつだって僕達のちっぽけな論理の外側に存在している。何かを分かったと思った人は、別に何かを分かったのではなくて単に目を瞑っただけのことだ。そういった意味合いで、ソクラテスが無知の知という言葉を口にしたことは卓見で、でも無知の知という言葉を口にするとき、僕たちは無知の知を知らない。無知の知という言葉をオブジェクトにしたとき、その思想は既に破壊されている。

 人類の思考というのはとてもぎりぎりのラインを走っている。それは矛盾を取り込んで無理やり前へ進もうとする吐き気を伴った蠕動に似ている。まともな食事なんてできやしない。あるのは吐き気を堪えた永遠に続く晩餐会だけで、その意味では古代ローマの金持ち達は先進的だった。

 昨日は、「単細胞の生き物が記憶能力を持つのならば、記憶が脳内の神経のネットワークの変化によるものだ、という説はどうなるのか、というような話を振って終わりましたが、この従来の説は勿論修正を迫られることになります。
 ただ、神経細胞のネットワークをモデルにしたコンピューティングの手法は随分と長い間研究されていて、それはそれで大きな成果を上げているので、神経のネットワークというのは重要な概念であることに変わりありません。

 無論、この脳の神経ネットワーク以外の仮説だって、昔から沢山存在しています。僕がもっとも驚いたのはロジャー・ペンローズらの提唱した「細胞の中の微小な管の中で量子力学的な操作が行われている」という意見です。

 量子力学は微小な世界を扱う理論で、その世界では我々は物事を確率的にのみ表すことができます。普通ではこんな変なこと考えられませんよね。今ここにパソコンは存在しています。なんてことが小さな世界では言えないのです。3分の1の確率でここにパソコンがある、みたいにしか。
 そして、それは何も僕達に小さな世界を見る有効な手段がないから、と言うわけではなくて、どうやら原理的に宇宙というものはそのようにできているようなのです。

 へんな話ですが。
 本当のところは誰にも分かりません。



 

黄色いキノコを食べてから座るコアラ。

2006-04-18 23:05:54 | Weblog
 今日は昼からWとフンデルトヴァッサー展に行ってきました。

 天気はもう尽く春めいていて、浮かれ顔の陽気な人々が街を歩く。交番の前で立っている二人のお巡りさんの前を、僕らは二人乗りの自転車で浮かれ話をしながらスローペースで通りがかったけれど、彼らはほとんど僕達が通り過ぎるまでこちらに注意を払わなかった。春には誰だって頭がぼんやりとするのだ。

 僕は今までフンデルトヴァッサーをそんなに好きだというわけでもなかったし、彼の絵を注意して見た事がなかった。でも、今日の展覧会で一つ発見したことがある。それは絵そのものにはあまり関係がないのですが、彼の絵のタイトルがときどきとても素敵だということです。
 僕は美術館を訪ねてもあまりキャプションを読むことはありません。特に気になったいくつかに関してだけ、もしくは目に入ったものだけ読みます。今日最初に目に留まったのは「インドの森に入るダライ・ラマ」というへんてこなタイトルでした。これは特になんてことのないタイトルです。でも、僕はなんとなく「この人は一体どんなタイトルを着けるのだろう」と気になって、他のキャプションも眺めてみたわけです。

 感動した、と言っておきながら、覚えていない、というのは実に無責任なことですが、でも、タイトルはあまり覚えていません。「他の男に心変わりした恋人を待つのは辛い」と生々しいものから、「てっぺんに木を植えた箱に入っている男」のようにすこしシュールなものまで、タイトルは実にチャーミングで、僕はこの人の感性はタイトルにも強烈に表れていると思い、もう一度タイトルだけ読んで会場を回りました。

 彼のドキュメンタリーも上映されていて、僕はそこに映し出されたフンデルトヴァッサーという人物をとても凡庸な人だと思った。もちろん、これは貶しでも誉めでもなんでもありません。絵を描く過程や、物事の進め方、考え方、そういったものは天才と呼ばれる人々だって結構普通なものです。
 そのドキュメンタリーには格好をつけたナレーションが入っていて、「絵を描く時のイマジネーションは思考よりももっと遠くからやってくるのだ。考えて描くのではない」と言っているのですが、作業風景を映したシーンでは「えーっと、この車を、うーん、そうか、渦と車をつなげればいいんだ。試してみよう、今までこんなことは考え付かなかった。そうすると、渦に車が捉えられるようにもできる」といかにもノーマルな試行錯誤が成されている。

 僕は今、吉本隆明さんの「カール・マルクス」というそのままマルクスのことを論じた本を読んでいるのですが、マルクス云々よりも、その中でたった一文、

「真に新しいことが閃くなんてことは起こらないものだ。全ては試行錯誤の積み重ね」

 というような意味の場所があって、なんとなく救われた気分になった。

 閑話休題。
 近代美術館を出て、図書館に本を返して、それから僕たちはWが友達に教わったという、格安の変な物件ばかりを扱う不動産、へ行ってみたけれど、別段変わった不動産でもなかった。僕はビルが欲しいし、Wはアトリエが欲しい。

 そのあと、「エアー」「さらさ鴨川」とカフェを梯子したり、寝袋を買いに行ったりして、Wはアルバイトに行き、僕は研究室に戻った。

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 しつこいようですが、意識の話の続きも書きます。

 前回はクオリアの話をしましたが、意識と言うのはクオリアの集合だと考えることができます。

 それでは、人工知能はクオリアを、ひいては意識を持ち得るのか?
 また、人はどのようにしてそのチェックを行うのか?

 つまり、ロボットに意識があるのかないのかを、僕たちはどうやってテストすれば良いのだろうか、ということです。これは何も「ロボット」に限った話ではありません。

 僕たちは自分以外の人間に意識があるのだということをどうすればチェックできるのか?

 というのでも同じです。
 そんなのチェックできるわけないですよね。その人に(あるいはそのロボットに)、意識が宿っているのかどうかなんて「本人」にしか絶対に分かりません。なぜならその意識の存在を「感じる」ことができるのは「本人」以外には有り得ないからです。
 科学技術が進歩すれば、僕たちは「他人」の「感覚」を「感じる」ことができるようになるかもしれません(たとえば八谷和彦さんの視覚交換マシンなど)。しかし、「他人」の「意識」を「感じる」ことはできません。もしもそれが可能だというのならば、そのとき「他人」はすでに「他人」ではなくて「本人」であるということにすぎません。

 それにも関わらず、僕達が普段、他人に宿る意識を仮定して生活しているのは、他人に「意識があるように見える」からです。
 ならば、「意識があるように見える」人工知能には意識があることにしよう、というのがずっと前に名前だけだしたチューリング・テストというテストです。
 チューリング・テストでは人と人工知能がチャットをして、その結果普通の人間と話しているのと同じに感じられる、つまり「意識があるように見える」ならば意識があるかもしれないと言える、とひどく曖昧な物言いをしていますが、本当のところは確かめようがなくて、意識の存在は「ありそう」「なさそう」としかいうことができません。

 さて、話はやっと佳境に差し掛かってきました。
 でも、時間的な問題で、今日はもう少ししか書くことができません。
 次の回の枕を振って終わろうと思います。

 科学者は脳の働きを「神経細胞の繋がり」という考え方で説明しようとしてきました。反復練習や経験によって、「脳細胞の結びつきが変わる」だとか、「シナプスが云々」って良く言いますよね。
 ところが何年か前に「単細胞の」アメーバが記憶能力を持つことが実験的に示されました。単細胞ならば繋がりも結びつきも何もあったものではない。
 このことは、脳細胞おのおのに更に高次の機能があることを示唆しています。


フランスパン。

2006-04-17 21:39:40 | Weblog
 もはや間が空きすぎて、一体何の続きなのか分からなくなりましたが、人工知能の話の続きです。

 『ラジオフロック・スイミング。』
        ↓
 『クロック・クロック・クロック。』
        ↓

 と、切れ切れに続いています。
 僕はちょうど人口知能と意識の話をしようとしていました。人工知能は意識を持ちうるというスタンスを僕はとります。もしもドラえもんが意識を持っていないとしたら、部屋で一人で話をしていることになるノビ太って悲しくて怖いですね、というようなところで前回は終わったと思います。

 今回は、僕がどうして人口知能が意識を持ち得ると思うのか、その辺りからはじめます。

 僕が「強い人口知能」論者であることは、とてもシンプルな理由によるものです。デカルトではありませんが、推論の零度は「我思う故に我在り」というものに極めて近いもので、僕はこの自分が意識を持っていることを知っているし、それはこの宇宙に意識が存在可能である、ということを例として示す物です。そして、僕はメカニズムこそ分からないものの、この宇宙に所属する「何か」で構成されています。つまり、宇宙に存在するものを組成として意識は構成され得るわけです。ならば、いずれ人類がそのメカニズムを作り出すことも可能だと思われます。今のコンピュータの技術では無理でしょうが、いずれはできると考える。

 意識や人口知能の問題を扱うときに、僕たちは「クオリア」という概念を避けて通ることができません。最近はテレビでも大活躍の茂木健一郎さんがその昔お書きになった「脳とクオリア」という本に詳しいですが、クオリアというのは平たく言うと「質感」のことです。
 クオリア問題の焦点は「なぜクオリアを作ることが可能なのか」という一言に尽くされます。たとえば、赤いリンゴを見たときに僕たちは頭の中に「赤」という質感を伴った「感覚」を「リアル」に得ます。このときの「リアル」というのは、現実存在かどうかという意味ではなく、「私にとってのリアル」という意味合いです。

 それでは、この「赤」は一体どこでどのように生成されたのでしょうか?
 ここで、我々は一度人間の視覚における情報処理のルートを辿ることにします。僕達がリンゴを眺めたとき、目には光が飛び込んできます。光は電磁波の一種で、つまり電波で、赤というのは波長700ナノメートル付近の電磁波のことです。
 その電磁波が目に飛び込んで網膜上にある神経細胞にぶつかり、そうすると神経細胞は微弱な電気のパルスを発生させます。次にこのパルスが脳の視覚野に入り、そしてなんらかの謎の処理を受けて「赤」が発生します。実際には脳に入る前に視神経系で情報はいくらか処理されていますが、そこで行われていることは「電気信号」を「違う電気信号」に変換するというだけのことなので、今は本質的な問題ではありません。本質はもっと高次の変換にあります。

 もう一度、簡単に視覚系の信号媒体を書き下すと、

 「電磁波」→「電気信号(視神経)」→「電気信号(脳)」→「赤(意識)」

 これを眺めると、僕たちはとんでもないギャップが一箇所存在していることに気付きます。最後の。

 「電気信号(脳)」→「赤(意識)」

 ここって無茶だと思いませんか。
 その手前までは特に問題を感じません。電磁波を電気信号に変えることは例えば我々の携帯電話を含むあらゆる無線通信で日常的に行われていることです。電気信号を電気信号にという変換も言うまでもありません。
 でも、最後の、「電気信号(脳)」→「赤(意識)」、というやつだけはどう見たって異常だとしか言いようがない。

 与えられた材料は「電気」だけです。
 さて、これで「赤」を作りなさい。
 どんなに複雑なことをしてもいいですよ。

 そんなことを言われても、「難しすぎてできない」のではなくて、「原理的にできない」と感じてしまいませんか。

 ちょっとたとえ話をすると、

 与えられた材料は「数字」だけです。
 さて、これで「味」を作りなさい(もちろん、本物の感じられる味ですよ)。

 といわれたようなものです。
 材料と求められている物の「次元」が違います。

 だから、科学的に考えて、我々の脳(もしくは存在)は「赤」なんてものを作り出すことができないはずなのです。にも関わらず、僕たちは毎日「赤」を眺めていきています。あらゆる瞬間に不可能が現実化しているわけです。これはもう参ったと言わざるを得ない。

1315.

2006-04-16 14:02:10 | Weblog
4月13日(木);
 Mちゃんと遅いランチをとって、それから疎水沿いの桜を眺めながら歩いていると、もうほとんど皮だけになった桜の木があって、それは今にも倒れそうな木だったけれど花をたくさん咲かせていた。僕とMちゃんはその桜に吃驚して少しの間眺めていたのだけど、研究室に行ってOに話すと、彼もやっぱりその木を見つけていたようで、しばらく植物の維管束の話をした。
 夕方からMと平野神社へ花見に出掛ける。平野神社へ足を踏み入れたのはこれが初めてで、桜とその下に広がった赤い色の店々と明るい電灯で照らされた空間をとても好きだと思いました。


4月14日(金);
 夕方にWと、なんだか気取ったばかりのカフェでお茶をする。隣りの席に派手目なおばさんの集団がやってきて、なにやら会議を始めてうるさいし、連れている犬もギラギラした服を着ていて、それは世のアートの80パーセントくらいを占めている「派手にばーっとやっときゃいいだろう」というような感じの軽薄さと肥大した自我の見本のようだった。
 そのまま夜は円山公園で花見をした。物凄い人出で、僕は寒いのにも関わらずワクワクし始める。桜ではなくて、桜の下に集う人々を美しいと思う。ただの宴会ですが。日々の、テーブルの上に食べ物を載せて、それなりに食事をする、という日常を打破して、野外でいい加減な楽しい食事会を開くというのはとても煌いたことだ。

4月15日(土);
 Hのところへ寄って、随分と前に借りた服を返して、それから心斎橋へ行ってMさんと夜御飯を食べた。雨降りの寒い土曜日で、ならば暖かい心地良い店から窓の外の雨を眺めればいい、と思っていたのですが、何も考えないで地下の店に入ってしまいました。でも、おいしくてとても良い店だった。
 まれに、前のアルバイト先の生徒とばったり会ったりすることがあるのですが、今日は昼にこの春から高校生になった男子生徒とばったり会いました。高校の制服を着ているだけで、初々しいけれど急に大人びたように見えた。春というのは如何にもやって来るものです。

ポリー、小さな花屋で働く。

2006-04-12 19:40:24 | Weblog
 京都国立近代美術館にフンデルトヴァッサー展が来ていますね。来週辺り行こうと思います。

 それから、今月は25日のメトロ「ストーンズ&ビートルズ」に行こうと思います。ストビへはもう長らく足を運んでいませんが、実は僕がはじめてメトロに行ったときはストビでした。お客さんが20人もいなくて、フロアでは誰も踊らなくて、店長が「楽しませてもらおうと思ってるだけじゃ駄目なんだよ。楽しもう」と言って簡単な説教をしたのを良く覚えています。そのあと、お酒がどんどんと振舞われて、僕たちは輪っかになって踊ったりしました。もうずっとずっと昔の、僕のはじめてのメトロ体験というのはそういったへんてこなものでした。

 先月のストビには友達のI君とHちゃんが行って来て、やっぱり閑散としていたらしく、それで、今月のストビは僕達で盛り上げよう、というようなえらくお節介な話をしました。
 もしもよければ、みんなでアットホームに踊りましょう。


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4月4日(火);
 福岡から京都に来ていたEちゃんと会う。雨降り。


4月7日(金);
 鴨川の中洲パーティー。
 たくさんの人達が来てくれて、良い夜になりました。
 参加してくださったり、手伝ってくださった方々にはとても感謝しています。

 もちろん、楽しかったです。
 ただ、今回は反省材料が山積みです。
 僕はある程度礼儀正しいものを目指そうとしていたのに、「大丈夫だろう」と去年よりも音量を上げて、結局は近隣の住人に迷惑をかけてしまいました。警察がやってきてあれこれ言われたわけですが、つまりそれは僕がばらまいた迷惑の象徴というわけです。警察に屈するな、というような声もありましたが、警察ではなくその背後にある住民のことを考えると音量を下げないわけにはいきません。もちろん、僕としても音を出してくれたMちゃんやIさんに、ベースは落として、ごめん、もっと落として、だとか言いたくはありませんでしたが、仕方がありませんでした。
 ならば、最初から中州でするな、という話で、これは全部僕が一人矛盾しているわけです。本当に踊れるレイブにするならば、もっと堂々と音を出せる場所に行くべきだし、そうでないのならダンスという要素は省くべきだったのかもしれません。ちょっと中途半端になってしまいました。
 ただ、僕はあの出町柳の三角州というロケーションがとても好きで、去年は無事に開催できたので、今年もその流れで、でもスピーカーはちょっとだけ大きくして臨んだ次第です。僕は平和ということをコンセプトに挙げていたので、まるでおかしなことをしてしまったと思う。

 それから、パーティーは至って普通なものだったので、次はなんらかの新しいことができないかと思います。
 音楽と映像とお酒というのは毎晩毎晩繰り返されていることで、いい加減にもっと新しくてスマートでクールで文化的な、それでいて敷居の低いことができないかと思います。
 僕は別にみんなで大騒ぎがしたいのではなくて、何かもっと別のものが欲しいのですが、それが何かはまだ良く分かりません。次はワークショップやインスタレーションに近いことをするかもしれません。

 そのときはまたよろしくお願いします。
 近いうちに簡単な催しは必ず開きたいです。


4月8日(土);
 昼間に一度実家に帰って、昼下がりからHとSちゃんと桜を見ながら高瀬川をふらふらと歩いて、その後京都タワーの展望レストランでご飯を食べた。
 空にはひどく黄砂がまっていて、世界はまるでくすんだ大正時代のロマンス映画みたいにぼんやりとしていた。見上げた太陽はくっきりと空に空いた白い円盤になっていた。すれ違ったおばさんたちは「あれ、月?」と立ち止まって相談していた。高瀬川に植わった桜並木は無限に続くピンク色した回廊みたいで、それもやっぱりぼんやりとしていた。
 京都タワーは僕の大好きな場所ですが、実は展望レストランに入ったのは初めてです。とてもよいところで、これから僕は京都駅周辺で休むときは必ず展望レストランに行くと思います。


4月9日(日);

 祖父の法要があり山科を訪ねる。
 おばあちゃんにも久しぶりにあったけれど、もう十年はあっていない従姉妹にも会って、以前はまだ物心があるかないかという時期だったのに、もう大学生や高校生になっていて、久しぶりだというよりは、はじめまして、という感じだった。
 法要のあと、みんなでご飯を食べに行って解散した。

クロック・クロック・クロック。

2006-04-06 13:04:04 | Weblog
 前回の続きを書く前に、普通の日記を書いておきます。
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 3月26日(日)
 東京からAがやってきて、御飯を食べたりした。彼女はそのあとAちゃんに会う約束をしていて、AもAちゃんもとても懐かしい、ある意味では僕がもっともクラブに親しんでいた頃の友達で、寝不足の不健康な生活のことを思い出す。

 3月31日(金)
 アルバイトから帰って、修理が済んで外に置いたままの発電機をI君とアパートの廊下にいれて、その後、服を着替えて一乗寺のワヤというお店で、M君、Kさん、Y、Cちゃん、Mさん、S君、I君と少しだけ食べたり飲んだりして、1時30分頃から僕はみんなと別れて、Oと約束していたのでメトロへ行った。この夜は沖縄のイベントで、マイルドな感じだった。

 4月2日(日)
 T君のお見舞いにHと行く。
 T君は、食べれないし、音楽も聴きたくないし、本も読みたくない、という状態だ。ただ面白い話が聞きたいらしい、ということだったので、ここのところ気にしていてそのくせ手を出さなかった落語のCDを何枚か借りてきて、ipodに吹き込んで持って行った。それからサクラの枝と。
 この日初めてT君のお母さんにあったけれど、とても感じの良い話の上手な人だった。T君もそうなので、なんとなく納得が行く。T君は大分と回復していて、良くしゃべってくれたので、しゃべりすぎではないかとハラハラしたけれど表情を見て一安心した。

 4月3日(月)
 アルバイト最後の日。
 流石にすこし感慨深い。
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 テレビを見ていると、どこかの引っ越し会社のコマーシャルが流れた。
 曰く、研修で鍛えた技術力だとかなんとか。

「研修で鍛えた」

 なんて貧弱な主張だろうか。つまり実務経験はないっていうことですよね。

「君、この仕事自信あるかね?」

「はい、研修で鍛えましたから」

 僕ならこんな人に仕事を任せることはできない。研修は飽くまで研修に過ぎない。それは想定された事態に対応する訓練であり、想定されなかった出来事が起こったときにどうするのか、という訓練ではない。想定されなかった場合にどうするのか、というのは実地において暫くの経験を積むことではじめて獲得される。僕たちがプロフェッショナルに仕事を依頼するのは、彼の持っている「想定されなかった場合に対応する能力」を買ってのことだ。
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 前回は医者の話をしている途中で終わりました。
 「超越された者」が如何にして「超越している者」を査定するのか、その不可能はどのようにして可能となるのか、というような話です。その一例として、僕は「評判を聞く」ということを挙げました。

 評判を聞くというのは、その医者のアウトプットを眺めるということです。
 僕たちは「超越されている者」なので、医者の「作業」を理解することはできません。しかし、その結果に関して判断することは可能です。治れば「良し」であり、治らないのならば「悪し」だというだけのことです。医者の「作業」自体は理解できないブラックボックスであり、しかし、それは言いかえれば「理解する必要の無い」ブラックボックスです。医学を志す人間以外には、そのブラックボックスの中味は無用であり、それが黒魔術であろうと西洋医学であろうと気功であろうと、なんだって「治るのならそれで構わない」わけです。

 これって何かに似ていますよね。

「中味は分からない。仕組みは分からない。けれど、べつに動くならそれで良い」

 電化製品やなんかに似ていませんか。僕たちは、理解できない物を使いこなす、ということを日常で普通に行っている訳です。つまり、「超越者」というのは「超越された物」によって簡単に使いこなせるポジションにあり、また、そうでなければ超越者としては認識されないということです。本当の「超越者」というのは、僕たちには見ることも思うこともできない場所にある存在であり、それは思考不可能である故に「超越者」と言葉を用いて表現することはできません。どのような方法でも表現は不可能であり、そういったものを語ろうとする場合、僕たちは黙り込むしかできないのです。無理矢理、あえて外れを承知で書けば

『     』

 ということですよね。

 前回、入力-ブラックボックス-出力 の例に「意識があるのかないのか分からないコンピュータ」という言葉を出しましたが、厳密にいうとこれは人工知能のことです。入力-ブラックボックス-出力、というのは人工知能のチェックにおいてはチューリングテストと呼ばれるものに相当します。
 人工知能の研究者は大きく2種類に分類することができます。それは「強い人工知能論者」と「弱い人工知能論者」の2つで、「強い」というのは「人工知能は意識を持ち得る」という主張のこと、「弱い」というのは「人工知能は意識を持ち得ない」という主張のことです。僕は「強い人工知能」という考え方を支持します。コンピュータは意識を持ち得るのだと。

 ドラえもんを見ていて、僕は時々恐くなることがありました。

「もしも、ドラえもんというロボットが意識を持っていないのだとすると、のび太は本当は部屋で一人ぼっちで話をしているに過ぎないのだ」

 と思うと、恐くて恐くてどうにも仕方なかったのです。ちょうど、一人で留守番をしているのがなんとなく恐いのでテレビを点けて見ている子供のようなものです。本当は一人なのに機械を使って気分を誤魔化しているだけです。

 というところで次回に持ち越したいと思います。
 すっきりしなくて申し訳ありません。
 でも、実は今までだっていつも結論がついて、オチがついて終わっていた訳はなくて、本当は終りが無いものを無理矢理切って終りのように見せかけていただけなのです。しばらく、この冗長なスタイルを続けてみたいと思っています。

ラジオフロック・スイミング。

2006-04-02 13:42:21 | Weblog
 Mは「オーラの泉」というテレビ番組に出ている、江原なんとかさんという人に傾倒しているらしい。

「江原さんって、その人のオーラとか前世が見えるんだよ。守護霊の声も聞こえるの。すごいんだよ」

「えっ。そう、それはすごいね」

 僕は話がいきなり「前世とオーラと守護霊の存在は前提条件」として始まったので、すこし驚いてしまった。

「それでね。今世で会う人にはすでに前世でもどこかで一度会ってるんだって。だから、私達も前世で昔会ったことがあるんだよ」

「ふーん、それは驚きだ。今の人生で会う人には前世でも既に会ってるのかあ」

「そうらしいよ」

「じゃあ、前世で会ったということは、その前の前世でも会ってることになるよね」

「うん」

「じゃあ、その前の前の前世でも会ってることになるよね」

「うん」

「じゃあ、その前の前の前の前世でも会ってることになるし、その前の前の前の前の前世でも、前の前の前の前の前の前世でも会ってることになるし、無限に時間を溯れることにならない? いつ初めて出会ったのさ。おかしくない? それ」

「また、すぐにそういうこと言うんだから。一番最初はみんな一塊で一つだったのよ」

「そうなんだ。じゃあ、もう誰と会うも何も、最初から全員会ってるんだから、今目の前にいる人は前世でも会った人です、とか、いちいち言うことないじゃん。そんなの当たり前でしょ」

「えー。もういい」

 「オーラの泉」というテレビ番組を見てみると、江原さんという人はどうみても詐欺師の口調と表情で話す人にしか見えないし、国文太一や三輪明宏、それにゲストを加えた4人の人間が普通に「オーラ。前世。守護霊」という言葉を使って話している光景は異常だった。

 ただ、僕はこの江原氏の”セラピー”は一部の人間には効果的だと思う。彼は”スピリチュアル・カウンセラー”というヘンテコな肩書きで、ゲストにセラピーを施すのですが、「その人の抱えている問題」を「オーラ。前世。守護霊」の次元に持って行って、そこで何らかの操作を施して「その人の抱える問題」を解く、というのはセラピーを受ける人間にとっては「私の知らないより高いレベルで江原さんが問題を解いてくれた。だからもう大丈夫」という安心感を得ることである。
 この「私の知らない」というのがポイントで、セラピーを受ける人間にはセラピーの方法自体は「今のところ理解不可能だ」、つまり、「分からなくても一向に構わない」、ひいては「江原さんに丸投げしておけばそれで良い」という非常に楽な展開になっている。これは医者に全幅の信頼を寄せて情報の開示を要求しない、あるいはシャーマンの祈祷で病を治すという立場と同じである。全部「自分よりも沢山の何かを知っている人に任せる」ということに過ぎない。このとき、医者、シャーマン、そして江原氏は別に何にもしなくても「治しました」と宣言さえすればそれで「治癒」は行われたことになる。

 僕はこのテレビ番組を見ていて、先日本屋で立ち読みした「UFOとポストモダン」という奇妙なタイトルの本のことを思い出した。
 「UFOとポストモダン」という書籍は、何もUFOについてその存在の真偽を追求したり、各UFO現象の分析を行ったものではなく、主にアメリカ合衆国という場所で発生した「UFOという社会現象」は一体何だったのか、ということをポストモダンという時代に合わせて読み解くものです。
 たとえば、宇宙人の姿は最初「美しい白人の成人」として描かれていました。それが時代とともに、のっぺりとした頭でっかちの「人間の赤ん坊」形体→映画「エイリアン」に代表される「甲殻類」→「細菌」とモデルがどんどんと退化して行くのですが、それは一体何故なのか、ということをこの本は冷戦やなんかを使って解説しようとしていました。詳しくは読んでいないので分かりませんが。

 UFOというのは「超高度な科学」のシンボルであり、それは神に代わる「超越者」のシンボルです。人間はときどき「超越者」に自分達の人生を委ねて楽をしようとします。自分の頭で判断するにはそれなりの労力が必要ですが「宇宙人がこうしなさいと言った」「神がこうしなさいと言った」という理由で右か左かを決めるのはとても楽なことです。
 さらに、「超越者の思考を私は絶対に理解することができない。なぜならば超越者は私の思考を遥かに超越しているから」という理由で、「私」は思考停止を許されます。「神様のいうことなんだから、なんか変な気がしても、そんなの気にしないで言われた通りにすれば良い」、ということで簡単に人だって殺せるわけです。

 もちろん、こういう風に「自分を思考停止にして超越者の神託を覗う」ことによってのみ達成される事も、この世界には存在しています。たとえば武道などで、「意味の分からない稽古を延々とやらされる」ということがありますが、その意味は「稽古を意味も分からずにやり終える」ということによってのみ理解されるものです。「こんな練習が何になるんだ。納得の行かない練習はしない」といってそこで訓練を放棄してしまうと、その人は次の段階に進むことができないし、練習の意味を永久に理解することもありません。

 ただし、ここで「意味の分からない稽古を延々と続ける」為には師に対する絶大な信頼が必要です。実は僕は「こんな練習が一体何になるんだ」といっていくつかの道場を辞めた口ですが、僕が理解、信頼できなかったのは「練習方法」ではなくて「師」だった、という訳です。
 僕たちは、一度「超越者(師)」を信頼してしまえば、ある程度「思考停止」状態になることができます。そのとき、無論「超越者」は「私」を超越したものです。しかし、その前段階で「私」は、”果してこの「超越者」を信頼しても良いのか”という査定を行います。これは言うまでもなく無謀な査定です。なぜなら、「超越されている者」が「超越している者」の査定を行うなんて不可能な話だからです。でも、その無茶苦茶な査定を行わないことには僕たちは前へ進むことができない。そこで、なんとか「超越者」を査定する方法を考える。

 この「超越者」を査定する方法で、もっともポピュラーなものは「評判を聞く」です。
 たとえば、新しい地域に引っ越して来た人間が医者に掛るとき、「この辺りで評判の良い医者はどこか?」という問いを近隣の人々に投げかけます。医者という医学的知見における「超越者」の査定が「評判」をベースにして成される訳です。
 ここで、僕たちは今査定の拠り所とした「評判」というものが、本当に信頼できるものなのか、という疑問にぶつかります。「評判」とうものは言ってみれば所詮「近所の普通の人」の評価を練り合わせたものでしかありません。「超越されている者」の意見を集めたに過ぎないのです。
 しかし、ここには確固たる信頼感があります。それは集められた意見が「あの医者は沢山の患者を診察して、その結果高い治癒率を誇っている。あるいは誤診が少ない」ということを意味するからです。つまり、医者というブラックボックスの出力に関する情報だけはここにふんだんとあるわけです。

 これは、

 入力=患者  ブラックボックス=医者  出力=治癒状態

 という多数回の試行を集めたものですが、得体の知れないブラックボックスの中身を知ろうとするとき、僕たちは往々にして「何かを入力して、その出力を観測する」というスタンスを取ります。
 どう組まれているのかいまいち良く分からない電気回路にインパルスを入力して、その出力を測ったり、意識を持っているのかいないのか分からないコンピュータに「語り掛け」を入力して、「反応」を聞く、というようにです。

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 とても中途半端ですが、長くなり過ぎるのと、そろそろ出掛ける仕度をしなくてはならないので、続きは次回に回させて頂きます。どうもすみません。