どうやら命令の意味が理解できない様子です。

2005-10-30 15:07:04 | Weblog
 昨日、パソコンを起ち上げたらヤフーのニュースに「水でうがいをするのは4割り風邪の発生を抑える効果があるけれど、ヨード液には有意な効果はみられない」という記事があって吃驚した。つまり、水でうがいをするのは効果的だけど、イソジンなんかでうがいすると効果なし、なわけです。くどいようですが、イソジンを入れても意味が無いのではなく、イソジンを入れるとうがいの効果がなくなってしまうから尚悪いということです。

 常識って、まだまだ嘘だらけだなと思う。

 昔、このブログにもバンドエイドの話を書いたけれど、傷口の液をガーゼで吸い取ったりするのは本当はやってはいけないことなのに、僕たちは長年傷口を乾かすことに力を入れてきた。キズドライなんて商品まで売っていたくらいのものだ。
 今はやっとバンドエイドパワーパッドが発売されて、傷を乾かさないことの効果が認知されてきている。

 今度はうがい。
 それから、ついこの間「活性酸素が老化を促進する」というのは多分大嘘だということがマウスの実験で分かった。そうすると大流行りを通過して日常に定着しているポリフェノールの健康効果なんて随分怪しいものだと言わざるを得ない。

 かつて凄まじい栄華を誇ったローマ帝国が潰れてしまった一因に「彼らが鉛の器を用いていたこと。ひいては鉛中毒」を挙げる学者がいる。鉛の器をずっと使っていれば鉛の害を被るのは必然的だ。でも、みんなが普通に使っている器が体に悪いなんて、僕たちはなかなか疑うことをしない。もちろん、当時の科学水準というものだってあるけれど。
 環境ホルモンも、携帯電話の電波も、アスベストも、なんだってそうだ。

 部屋にフライヤーを4枚も張っていて、昔Kさんが日記で絶賛していたような気がする映画「ライフアクアティック」を期待満々でAちゃんと見たけれど、なんだか良く分からない映画だった。主人公はおかしくてカッコイイけれど。あと出てくるものがいちいちポップで間抜けで感じはとても良かった。

銀河の果てで大笑い。

2005-10-29 21:59:21 | Weblog
 火祭の次の日、Cちゃんと近代美術館の堂本尚朗展に行ったのですが、僕たちが入り口の前を通ってチケットを買いに行こうとすると、ちょうど美術館から出ていらした御婦人があって、「今から見に入るのだったら、私、招待券が余ってるから良かったら使って」とチケットを一枚貰った。それをCちゃん用にして、あとは僕の分だけ買ったのですが、学生450円の筈が250円に値下がりしていた。人気がないのか何なのか良く分からないけれど、とにかく僕たちは想像以上に安上がりで美術館へ入場することができた。

 高校生のころ、僕はときどき小林秀雄を読んだ。彼は何かの本の中で、誰かの著作をたくさん読み込めば、自ずからその著者の人間というものが見えてくる、ということを書いていて、当時の僕にはそれは良く理解できなかった。物語を読むときはあくまで「物語」を読んでいて、僕にはその作者なんて全然見えやしなかった。

 建築史の講義で岸先生は、「建築家になると何が嬉しいって、それは大昔の建築家と対話できることですよ、たとえば古代ギリシアの建築を見に行けば、僕は当時の建築家が、それを作った連中が何を考えていたのか良く分かる。何百年、何千年前の人間の思考がそのまま分かる。これってとっても面白いことだよ」と昔おっしゃっていた。そういうものかな、と僕はぼんやり思っていた。

 だけど、最近は作品の裏にいる人間を見ることが少しづつ可能になっているように思う。
 堂本尚朗という人は、日本画から西洋画へ移行するのとパラレルに、具象から抽象へも移行された方なのですが、今回の堂本展は彼の初期から今年の作品まで、時代順に丁寧に配置されていて、僕は絵画ではなく彼の生き方とその変遷を眺めているようだった。長い人生だった。会場を一周すると、また最初の部屋に戻るようになっているので、最新作を見ていると嫌でも隣の部屋に置かれている初期の作品が目に入る。それはもう全く別の人間が描いた作品だ。
 僕は作品そのものよりも、それを作る作家の思考を思考するという方法で作品を見るようになった。コミュニケーション。

 先日、本屋に立ち寄ると、声の大きな御婦人が店員を2人も引き連れて天体の本を探していた。彼女は、こういった感じの本が欲しいとはいうのだが、特定の書籍を指定して探しているわけではないので、店員の方もすこし当惑気味だった。本屋で働いているからといって売っている本の全てに目を通しているわけじゃない。
 やがて、店員の「それではこの本ではいかがでしょう?」と差し出した本に満足したらしく、彼女はその本を買うと言った。それから「一人で寂しいから、夜にぱらぱらきれいな星の写真でも見て気を紛らわそうと思って」と言った。僕はてっきり、彼女が天体の本を買うのはきっと親類の子供や孫にプレゼントする為だろうと思い込んでいたので、ひどく吃驚して、それから悲しくなった。彼女はとても元気であつかましい様子だったけれど、寂しさを紛らわす為に、自分の為にその本を買うのだ。なぜ寂しさを紛らわせる手段に天体の写真がついた本を選んだのか、僕には計ることができない。でも勿論彼女には彼女なりの理由があるのだ。人というのは色々なものを抱え込んで生きている。

山の中で松明を眺めながら雨に濡れること。

2005-10-24 15:38:06 | Weblog
 22日は鞍馬の火祭に行った。

 この日の日記を書く前に、僕は来年から火祭に行く人の為にいくらか有用だと思える情報を載せて置こうと思う。というのも、僕たちは今回ほとんど有用な情報を持たないまま火祭に行って、それなりに苦労をしたのですが、体験した今となっては全容がぼんやりとは分かりますし、こういうことを先に知っていればこうしたのにな、と思うこともいくらかあるからです。
 火祭にいく予定でない人は飛ばして読んで下さい。
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 まず、電車で行く場合は叡山電鉄に出町柳から乗ることになりますが、僕たちが駅に集合した夕方5時にはすでに物凄い行列ができていて、電車に乗るのは3時間その列に並んでからという有様でした。それから、僕たちは遅れて来る人を待ったり、結局6時過ぎまで出町柳にいたのですが、その頃になると「今から並んでも鞍馬まで行けるかどうかは分かりません。というか無理なんじゃないかと思う」というアナウンスが出ていて、つまり、夕方から電車に乗って火祭に行くというのは絶対に止めた方がいいと思います。
 ただ、午前中やお昼に出ることのできる人ならば、電車で早い時間に鞍馬入りを済ませる、というのも一つの手ではないかと思います。帰りの電車のことを当初僕たちも気にしていたのですが、祭の最後の方になると電車は結構すいていました。だから、終りまで祭りを見るのであれば、帰りのことはそんなに心配しなくても良いのではないかと思います。
 つまり、電車は早く行って遅く帰るのであれば、とても有効な手段だと思われます。

 次に自転車、バイクですが、バイクがあるならばバイクがベストの交通手段だと思います。駐輪場もあります。満車になっても、その辺に停めることができます。
 僕たちは結局、自転車で行きましたが、恐れることはありません、出町柳から鞍馬までだいたい1時間半もあれば十分に行けます。行きは登りが多いので多少堪えますが、そんなに過酷なことはありません。女の子でもまあ大丈夫です。残念ながら先日はひどい雨でしたが、帰りは下りなので天気がよければ快適この上ないと思います。
 だから、天候が良ければ自転車もバイクもとても有効な手段です。人込みに揉まれて電車を待っている間にささっと鞍馬に到着することが可能です。

 あと、タクシーという手ももちろん考えたのですが、MKに電話すると渋滞が激しいからタクシーは止めた方がいい、と言われました。それを信じて僕たちは自転車を採ったわけですが、実際に行って見ると渋滞なんてどこにもなかったですし、交通規制の引かれている手前までタクシーで行ってあとは歩くという手も十分に賢いと思います。

 車で行くのは、停めるところがないのでやっぱりマナー違反ですよね。
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 と、長い前置きになったけれど、とにかく僕は22日にみんなと鞍馬の火祭に行ってきた。
 当初、僕たちは頑張って電車で行くつもりだったので、5時に出町柳に集合ということにしていて、そして五時に駅へ行ってみると信じられないくらい沢山の人々で出町柳はごった返していた。先にYちゃんとCちゃんが待っていてくれて、Cちゃん情報によると「電車に乗るの3時間待ちだって」ということだったので、即座に電車で鞍馬に行くのはやめにした。

 それからしばらく、みんなを待っていると僕のところに変な外国人のカップル(?)がやってきて、カメラを見せるので写真を撮って欲しいのかと思ったら、そうではなくて僕の写真を撮りたいということだったのでオーケーして撮らせてあげた。何度かモデルをしたり、街角スナップを撮られたことがあるけれど、いつだって写真を撮られるのは緊張する。昔、某誌の撮影で一緒にスタジオに入った女の子は緊張で撮影後に吐いていた。

 結局、僕たちは電車をやめにして自転車で鞍馬を目指すことにしたのだけど、yちゃんは「自転車でいくなんてとんでもない」というおばちゃんからのストップが掛って断念。それで、僕らは8人になってしまった。はるばる京阪で出て来てくれたyちゃんに申し訳なく思う。やっぱり下調べはきちんとやらなくてはいけない。
 出町柳から、深泥ヶ池、精華大学を抜けて、鞍馬までは結構あっさりと辿り着いたと思う。MKの人が言うような渋滞なんてどこにもなかった。比較的快適なサイクリング。

 駐輪場が一杯だったので、橋のところに自転車を止めて、それからは徒歩で鞍馬まで20分弱。
 道路を挟む家々の前にかがり火が出ていて、だんだんと幻想空間ムードが現れる。

 お酒を買ったり、とん汁を買ったりしてからバイク組のM君、Sちゃん、Mさんと合流したけれど、Kさんは論文を書かなくてはならないので先に帰ってしまった。
 だんだん人工密度が増してきて、次第にみんなとはぐれるようになる。別にバイクで来ていたAちゃん達にも結局会えなかった。

 祭自体は、ほとんど火を掲げて歩くだけというものだけど、鞍馬の山奥で「サイレイ、サイリョウ」という掛け声と共に燃える炎には民俗学的な力が大きく潜んでいた。僕たちが日常の中で守っているのとは次元の異なるルールに従うこと。たくさんの人間が山奥で炎と共にあり、心もオープンになっているということ。ハレとケについて、僕は再び考える。人間というのは科学的合理性の枠を超えたものを信じることを決して嫌わない。僕たちは科学ではなく物語りの中で生きている。

 Cちゃんと二人になって、神輿を待っていると後ろから誰かに肩を叩かれて、振り返るとTくんで、みんなすぐ後ろの店のなかで何かを食べていた。はぐれても意外とすぐに会えるものだなと思う。
 鞍馬寺にお参りすると、木の上に何かがいた。ムササビのように僕には見えた。

 祭の終盤から降り出した雨は、火祭の残り火を鎮火させる為に降っているようだった。鞍馬の天狗の仕業だろう、僕たちはこの雨にひどくやられたけれど、この雨が無くては何処かで火事が出たのではないかと、密かに僕は思っている。火祭の後に水があるというのは、それはそれで美しいことでもある。
 
 とはいうものの、雨で僕たちは身動きが取れなくなった。雨具は決定的に足りないし、雨は一向に止む気配を見せない。タクシーで帰って、後日また自転車は取りにくれば良いのではないか、という意見もあったけれど、僕はその辺の家から傘を貰って来てしまい、結局そのままひどい雨風の中を強行的に帰ることにしてしまった。結果としては、全員ずぶ濡れになり、挙げ句の果てにはYちゃんに風邪をもたらしてしまって、随分反省しています。危険な選択だった。この日は山だったし、雨も降った。バイクのAちゃんは帰りに転倒してミラーを折っていた。そういえばMくんもこの日はミラーを折っていた。

 家に帰ってから、シャワーを浴びて、パスタを茹でて食べた。

マシュマロの匂いには太刀打ちできない。

2005-10-21 12:20:05 | Weblog
 新古今の時代の天才歌人、藤原定家、彼にはこんな歌がある。

 「花の香の かすめる月にあくがれて 夢もさだかに見えぬ頃かな」

 梅の花の香りが月も霞むくらいに強くて、だから夜空に見えるはずの夢も今夜は見えない。つまり、梅の匂いがとても強くて、今夜は夢を見ないだろう、という歌です。
 ここでは「香」をまるで目に見えるもののように喩えて、それで月が霞む、と言っています。僕たちは、文学的な感覚からも勿論このメタファーを理解することができます。だけど、もしかしたら、今よりも五感を活発に働かせたであろう時代の人間にとって、このメタファーというのはもっとリアルなものだったのかもしれないと僕は思う。

 たとえば右脳の視覚野が壊れてしまった人は視界の左半分が見えなくなります。
 そこで、見えている右半分の視界に何かのマーカーを出して、そこを指して下さい、というと、見えているのでもちろんマーカーを指します。次に見えていない左半分にマーカーを出して「指して下さい」というと、被験者は「見えないので指せません」と答えます。

 ここまでは特に不思議でも何でもない、見えるなら指せる、見えないなら指せない、当たり前のことだ。でも、こういう指示を被験者に与えると不思議なことが起こります。「じゃあ、見えなくても、わからなくてもいいので、適当に勘で指してみて下さい」。
 そうして”勘”で指された筈のものがマーカーの位置に見事に一致するのだという。こういうのを盲視と呼ぶそうです。つまり、僕たちの意識には上らないところでなんらかの情報のやり取りがあって、見えていないのに見えているというおかしなことが人間には起こり得るわけです。

 人間には五感があって、僕たちはその五つの感覚を全く次元のことなるものとして捉えています。目で見ている世界と、音の世界って全く別物ですよね。でも、脳の中で起きている現象に注目すると、視覚を形成するものも、聴覚を形成するものも、結局は同じで電気信号の伝達や化学物質のやり取りであって、その現象発生要因においては”視覚”も”聴覚”も同列に扱うことのできるものです。むしろ、同じ電気信号のやりとりという方法で生み出したのに”視覚”と”聴覚”でこれだけのハッキリとした差異が生れているということのほうが驚異です。

 なぜ、視覚と聴覚は同じような方法で作っているのにこんなにも違うものとして認識されるのか、というのは脳科学の抱える大きな問題でもあるのですが、僕は定家のこの歌を読んだ時に、もちろん僕らは視覚と聴覚をまったく違うものとして感じているけれど、それは事実だけど、でも深層では視覚も聴覚も一緒くたにした、もっと根源的な「センス」というものが存在しているのではないか、と思った。だから、定家は嗅覚と視覚をダブらせた表現をしたし、それは彼にとっては比較的リアルなことだったんじゃないか、と思った。

まるで遠い麦の畑。

2005-10-19 00:56:27 | Weblog
 日曜日、僕は買い物に出掛けた。服を買って、CDを聞いて、それから雑貨屋でシリアルを入れる大きなボトルを見付けて、それを買おうかどうか迷っていた。ばかでかいコーヒーメーカーみたいなシリアルやゼリービーンズを入れるボトル。お皿をあてがって、摘みを捻ればザザーっとシリアルが出てくる。これさえあれば朝御飯もばっちりさ、というような素敵な品物。

 そのシリアル入れを子細に点検していると、M君から電話が掛かってきて、僕は急遽、西部講堂に出掛けることになった。インターナショナルでトライバルなイベントが行われているらしく、友達のKさんもカポエラでステージに上がるということだ。

 僕はKを誘って、それから西部講堂に向かった。
 西部講堂には色々な国の屋台が出ていて、民族音楽のステージがあって、火が焚かれ、まるで一個の村みたいになっていた。この夏に山水人のゴア・ギルのレイブに出掛けてから「村を作りたい。みんなで山に住もう」というのが口癖のようになっている僕はここに来て再び感化される。

 屋台の中には、山水人でもお世話になったカイラスカフェもあって、僕はそこでKとお茶を飲んだ。
ステージからはサンバが聞こえていた。僕はまた、夏の山水人に戻ったような錯覚を覚えた。でも、もちろん、ここは朽木の山奥ではなくて京都の真ん中で、そして僕はタンクトップではなくて長袖を着ている。夏は確実に終わったのだ。

 お祭りが終わり、みんなと少し話をして解散した。
 鞍馬の火祭の話と、それからハロウィンの仮装の話をいくらか。

 そうだ、時間を少し戻そう。

 この日の夕方、僕は宣戦布告した。なぜなら、それはとても汚い街だったから。ゴーディは言った「どうして人は死ぬんだ、どうしてだ」。彼は兄を自動車事故で失ったのだ。クリスは黙って彼を抱きかかえる他なかった。70年なら一瞬の夢さ。自然の摂理なんて認めやしない。人類は不老不死を目指す。1000年咲き続けた花を、まだ枯らせはしない。けして儚くはないのに美しい花を僕は美しいというだろう。たった一人きりの君だから好きなんじゃないんだ、僕は君がこの世界に1万人いたって君のことが好きだと思う。犬が追いかけてきたら、止まってミルクをあげようと思う。

 遠くで花火の音がする。

ゾウ。

2005-10-17 16:14:45 | Weblog
 先日、Uと話をしていると、フランスのなんとかという人が日本を視察して「日本って終わってますね」と言った、という話からニートとインドの僧侶の話になった。
 インドという国に一体どれだけの数の修行僧がいるのか知らないけれど、昔10万人というような数字を聞いたことがある(Uもそう言っていた)。それで、僕が思うに彼らっていわゆるニートなわけです。よその国から亡命してきて僧になって生き延びるとか、それってやり方としては、僧という立場になって保護を受けるという生き延び方ですよね。親からの保護を受ける代わりに。

 僧侶というのは非生産階級で、経済的な価値というものを全く生み出さないで、他人からのお布施を受けて、毎日毎日深刻な顔して「僕は人生を考えてるんだ」って言いながら生きているのだと思いますが、これを「僧侶→ニート」「他人→親」と置き換えると、話はそのまま成立します。
 つまり、ニートというのは非生産階級で、経済的な価値というものを全く生み出さないで親から援助で生活して、部屋に篭って毎日何かを鬱々と考えているわけです。

 これはほぼ同質のものではないかと言うのは、確かに乱暴な議論ですが、でもやっぱり随分と似ていると思うのです。
 インドではニートに「僧」というポジションを与えて、社会として彼らの存在を容認してきました。インドは人口が10億を超える国ですが、このような大集団にあってニートの発生は当然だといえば当然です。日本はようやく戦後の傷跡が癒えて、バブルも終わって、人口も1億3000万を数えて、集団には当然発生しうるニートに恐れをなしていますが、僕はニートという枠組みができたことは「僧」という枠組みが古代のインドにおいてできたのとおなじような意味を持つと思います。

 以前のブログにも書きましたが、ある村では一人の天才的なロープ職人が周りのぼーっとしている村人を養うというスタイルが出来上がっていて、僕はそういうのもありなんじゃないかと思うわけです。
 たしかに、ぼーっとしてるだけで働かないで生きているのはズルイですけれど、でも集団というのは結構そんなものなんじゃないかとも思う。

 有名なアリの研究があって、アリの集団でも優秀なのは20%で、あとはふらふらしてるだけなんだけど、ときどきそのふらふらしてるやつが思わぬところからエサをとって来る。それで優秀な20%をとり除くと、残りの駄目なやつのなかから20%がやっぱり優秀な働き者にかわる。その「優秀」と「駄目」のバランスがとても大事なのだ、という話です。

 人間とアリは違うけれど、でも集団の振る舞いというのは似ているんじゃないかと思う。

彼女はその日真っ白な服を着ていた。

2005-10-16 10:41:40 | Weblog
 死体を運ぶという夢の話を聞いた。
 彼女は夢の中で大都会の真ん中の火葬場まで死体を運び、人々はみんな彼女を避けて道ができる。
 そして、僕はある知り合いのおじさんが昔話していたことを思い出す。

 「焼いてると、多かれ少なかれ動くんだよ、死体って、ときどき生きてるんじゃないかと思うくらい動くときがあって、そのときはすぐに出さなきゃいけないんじゃないかって迷うけれど、でも死んでるはずだし、出したら話がややこしくなるから出さない」

 彼は火葬を見届ける仕事をしていた。仕事というか、それは田舎の小さな街に置かれた火葬場で、持ち回りで村人が火葬の管理をしていた。
 たしかに、魚だって焼いたら形が変るし、焼けば死んでいる人だって少しは動くに違いない。

 そして、ときどきはまるで生きているかのように動く死体もある。

 僕は生き物を飼うのが好きな子供だったので、常に何かのペットを飼っていた。一度、デパートのペットショップで見付けたネズミを衝動買いした。
 寒い冬で、僕はそのネズミの箱に十分なボロ布を詰めて、暖かく眠れるようにしたつもりだった。本当はヒーターがいるのかもしれないと思ったけれど、たぶん大丈夫に違いないとそのまま僕は毛布に包まって眠った。

 次の朝、ネズミは小さく丸くなって、そして冷たくなって死んでいた。
 僕は自分が寒さ対策を怠ったことを悔やんで、それから神様か誰かに怠慢を恥じた、ネズミにも謝ったけれど、彼の耳はもう聞こえてはいない。
 裏庭に、小さな穴を掘って、そこにネズミを埋めた。僕は買った生き物を一晩で死なせてしまった。

 そして大学生になって、ハムスターや一部のネズミは冬眠するということを知った。
 冬の朝、ハムスターが冷たく硬くなっているのを見付けて、飼い主が死んだと思って埋めてしまうことがよくあるけれど、でもハムスターはそうやって冬眠するので死んだかどうかはよくよく見極める必要があるのです、とその本には書かれていた。

 僕のネズミは本当に死んでいたのだろうか。
 僕はそれを埋めた。

楽園から100マイル。

2005-10-15 20:30:39 | Weblog
 古本屋で見付けて、とても久し振りにムツゴロウさんの本を読んだ。その中に、ある漁師が嵐をどうにか切り抜けて帰還するという話が出て来て、そして僕は思う、「どうして沈まない船を誰も作らないのか?」。

 たとえば、ビーチボールは嵐ごときでは沈まない。どうしてかというとビニルである空間を作り、その中に空気を保持しているからで、どんなに波で揉まれてひっくり返っても浮力を失うことはないからだ。
 対して、船というのは単に水面にお皿を浮かべただけで、高波が来てひっくり返れば沈むのは当たり前だと思う。復元力や船倉を区切る以前の問題として、空気を閉じ込めて、海水の浸入を一切防ぐ構造にすればいいと思う。潜水艦は作れるのだから、やれない筈はない。

 嵐といえば、台風の度に壊れている街を見て、やっぱり僕は思う。

 「どうして台風ごときでは壊れないような家を作らないのだろう」

 ドームみたいな形状にして、構造と外壁をもっと丈夫なものにすればいいのに、どうして日本の代表的な家屋は垂直なもろい壁を立て、吹けば飛ぶに決まっている瓦を屋根に載せているのだろうか? そして毎年台風が来て大騒ぎして、挙げ句の果てには死者まで出る。毎年だ。僕たちは何も学習しないのだろうか。自然の脅威だというけれど、本当だろうか、僕らが手を抜いてるに過ぎないんじゃないかといつも思う。寺田寅彦は「天災は忘れた頃にやってくる」と言ったけれど、人間って本当に忘れ易いものだ。

 床上浸水とか、床下浸水とか津波とか、いつもいつも大騒ぎしているけれど、本当にそれは恐れるべきものなのか? 水が入らない家くらい作れる。

 誰も本気で防災に重きをおいた家を作って来なかった。本棚に転倒防止器具を取り付けて喜んでいる場合じゃない。家自身が壊れるのだから。本当にしなきゃいけないことは壊れない家を作ることだ。
 例えば、僕たち人類が火星に移住して、そしてそこに家を建てるなら、きっとすごく頑丈な家を建てるに違いない。でもここは地球だから、ちょっと舐めきった家ばかり建てて、それでいざというときに困っている。それも何千年も。

 問題なのはいつもコストで、たとえば気密性がとても高くて丈夫で、津波を被ってもへっちゃらな家を作ると、普通の家を建てるよりもずっとお金がかかるだろう。
 だけど、それはその手の家が大量生産されていないからで、量産体制を作れば必然的にコストは下がる。その昔イームズがやろうとしたことは、大量生産できて機能的で美しい家具や家を沢山作って、安くて良いものを民衆に届るということだった。今は大量生産できて安くて機能的で美しい、そして安全な家を沢山供給する必要がある。

 僕らは台風や地震なんかじゃ誰も死なない世界を、本当は作れるのだ。
 なるべく人は死なない方がいい。

ドイツ。

2005-10-15 00:26:59 | Weblog
 昨日はまたUと日仏学館で映画を見た。先週に引き続きアニエス・バルダ。楽しいのか悲しいのか分からない映画。結局のところ、物語というのは楽しくて悲しいものなのだと思うけれど。破壊と再生の繰り返し。お茶でも飲むしかない。子供は成長して恋に落ちる。

 できることはしなきゃならないこと
 しなきゃならないことをするだけさ
 だから上手く行くんだよ

 僕は60年代や70年代前半の文化を超えるものをなかなか見付けることができない。見付けるどころか、僕たちは新しいものを作り出さなければならないのだと思う。でも、簡単なことじゃない。

 連絡事項になるけれど、22日の火祭は経験者の情報によると「混雑を極めていてうんざりする。人口密度が狂う」ということで、単に”楽しい”ということは期待できないと思う。でも気にしてる人も多いと思うし、頑張って行こう。タフな格好で。

 それで、今日はUと梅田までヤンセン展を見に行った。北斎もすこしだけ展示してあって、僕はやっぱり北斎はすごいと思った。ヤンセンからはどちらかというと技巧的なものを学んだ。
 ヤンセンを見終わっても、時間はまだ2時で、僕らは行く当てもなく「どうしようか」と本屋に立ち寄って一通りの情報をチェックしようとして、でもなんとなくそれも挫折して、僕は昨日友達からのメールでちらっと知ったHEPの清川あさみ展に行ってみようと提案した。

 そうして、僕らはヤンセン展と清川あさみ展を見た訳だけど、僕は途中からなんとも言えないイライラした気分に襲われる。基本的に人の作品を見るのは悔しいし、僕は何かを作って人に見せたいと思う。

 何日か前の日記に物質の波動性と粒子性のことで”群盲ゾウを撫ぜる”の例えを書いたけれど、今日の北斎の中にその絵があった。それから古本屋に数学者イアン・スチュアートの本があって、同じような議論が書かれていた。

空。

2005-10-10 23:49:16 | Weblog
 空を飛びたい。
 何のパレードかは知らないけれど、地下道から出ると御堂筋では大掛かりなパレードがやっていた。そのせいで、地下から地上に出る階段では人が詰まっていて、僕らは階段を昇るのにいくらか手間取った。僕はパレードよりもパレードの頭上に開けた空間が気になる。

 昨日はKとなんばのキリンプラザ大阪で行われている「スカイ・ハイ」展に行ってきた。八谷和彦さんと篠田太郎さんと石川直樹さんの、空をテーマにした3人展。一番見たかったものは八谷さんの作っていらっしゃる一人乗りの飛行機で、これは風の谷のナウシカのメーベを実際に作ってしまうというプロジェクト。僕は天才的な作品の他に、誰もが欲しいと思っているのに無理だと思って作らないものを実際に作ってしまう八谷さんの姿勢から多くを学んだ。しかも、彼はアーティストであってエンジニアではないけれど、たとえば今回のメーベなら飛行機の専門家に力を借りるというように、うまい具合にチームを組んで新しいものを作り出してしまう。これはとても大切なことだと思う。人は一人でなんでもかんでもできるわけじゃない。

 冒険家であり写真家でもある(というか植村直己さんにしてもそうですが、冒険家というのは大抵同時に優れた写真家でもある)石川直樹さんのことを僕はとても昔に本で読んで知った。その本は世界9カ国くらいの国から選ばれた若者が一つのチームを組んで北極から南極まで冒険の旅をするというもので、企画だけでも既に素晴らしすぎて、僕はなんとなく悔しくてその本を買うことはなかった。それから、後に彼はカヌーイストの野田知祐さんに師事していたことを知ったのですが、僕は野田さんの本がとても好きで、高校生のときに愛読していたので、なんとなく親しみを感じた。
 会場には、冒険の旅に出ている石川さんからダイレクトに電話が掛かってくるので、ベルがなったら電話をとって下さい、というコーナーがあったけれど、でも彼はこのあいだ事故を起こしてしまって今はその電話は鳴らないみたいだった。話せたら良かったな、と思う。それから石川さんのことがすこしだけ心配になる。

 キリンプラザで派手なおじさんと、そのお付きの人みたいな人がいるな、しかもなんか手振ってる、と思っていたらKが「あれはデューク更家だ」と教えてくれた。

 大阪へ出る前にココン烏丸に寄ったのだけど、そのときにKの持ってきたフライヤーを見ると、それは建築の展覧会のフライヤーで、その建築家はキリンプラザ大阪を作った人だった。それから、御堂筋商店街で人の多さに辟易として、安部公房の箱男の話をしていると、その後入ったビレッジバンガードで箱男が平積みになっていた。ちょっとした偶然。

 この日はほんの少しだけ買い物をして、でも僕は何も欲しいものがなかった。服なんてあればあるほどいいと思うけれど。 

この地球を受け継ぐ者へ―人力地球縦断プロジェクト「P2P」の全記録

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