one.

2009-03-29 13:18:24 | Weblog
 中学1年のとき、同じクラスの女の子が一人死んだ。とびきりかわいい女の子だった。実際僕はその子に対していくらかの恋心を持っていたと思う。彼女の死は突然やって来た。風邪で彼女が休んで一週間経った頃、急に担任が彼女の死をアナウンスした。死因のことを詳しくは覚えていない。詳しい説明があったのかどうかも覚えていない。熱があったのに無理をして家事をしていたら脳炎か何かになって急死した、というような説明があったような気もする。死因が分かろうが分からまいが兎に角彼女は死んだ。まだ13歳で。13歳のとき僕は13歳もそれなりに一人前だと思っていたけれど、30歳になって思うに13歳というのは子供以外の何者でもない。女の子達は泣き、僕は泣かなかった。
 どのようにして彼女の死がクラスに受け入れられていったのか、その過程を僕は全く覚えていない。気が付くと彼女の存在は消えていた。微かに記憶という存在の仕方で各自の心の中に仕舞われた。僕達は当然のようにそれまでと変わらぬ中学生を続けた。泣いたり笑ったりして残りの2年半を過ごすと、それぞれがそれぞれの高校や仕事に行き、多くの関係性は解体されたか、あるいはいつものように心の中に仕舞われた。僕は若くして死んでしまったその子のことをほとんど思い出さなかった。ときどき思い出すと、彼女はやはり13歳で、僕達は大学に行き職に付き家庭を築いている者もいた。もう20年近い年月が流れたのだ。その間に身の回りでは何人かの人が死んだり生まれたりした。生まれるのはいつも赤ん坊だったが、死ぬのがいつも老人とは限らなかった。

 人は年を取らなくても死ぬ。

 死について話をしようと思う。いくつかの国では死について話すのはタブーだが、死というのは謎であってタブーではない。別離は悲しみであるが、死が本当に別離なのかどうかも実は僕達は知らない。知っていることはただ一つ、人が死ぬと肉体は活動を停止して朽ち果てる。

 その他のことを僕達は何も知らない。いくつかの宗教は死について言及しているが、結局のところそれらを信用に値する情報だと査定している人間はほとんどいない。問題なのは僕達にそれらを査定する術がないことだ。だから「これらは信用ならないという査定」自体が信用ならない、という可能性を忘れるのは怖い。何事に関しても他の可能性を忘れることは恐ろしい。面倒ではあるが、僕達の世界には常に無限個の可能性が存在していて、それらの全てに知力を注ごうとする姿勢を我々は知的と呼ぶ。

 当然のことだが、死の後に関しても無限個の可能性は存在している。死を「終わり」だと結論付ける立場は、「なんかすっきりして楽」だけど本当は全然知的でも科学的でもない。
 この世界で何かが真に「終わったり」「はじまったり」することが本当にあるんだろうか。これは何度も何度も言うけれど、僕達は毎日経験している自分の意識も感覚も、それらに関する知識を何も持ち合わせていない。どうやって意識が成立しているのか誰も何も知らない。そして論理的に考えてみればそれらがブヨブヨしたたんぱく質の塊だけで作られるのではないことが簡単に分かる。肉体と意識には関連があるけれど肉体が意識を作っているわけではない。

 僕には死が終わりだとは到底思えない。
 事態はきっともっと複雑だ。

 死について考えるとき、あるいは本当は全て一つだって意見について考えるとき、どうしてかいつも電子に関するある仮説が思い浮かぶ。

 僕達は素粒子を区別することができない。たとえば電子が2個あるとして、その2個を区別することはできない(テクニカルにはある系においてスピンがアップとダウンで区別できるみたいなことはいえるけれど、両方がアップにもダウンにもなれる性質を持っているということまで考慮して)。
 誰の意見か忘れたけれど、電子が全部区別できないのは「本当はこの世界にある電子はたった一つだからだ」とボーアかハイゼンベルグか誰かが言っていた。この宇宙に存在する電子はたった一つ。我々はそれを色々な角度から眺めているにすぎない。その角度の違いが「こっちの電子とかあっちの電子」とかいうことだ。立方体の箱の中にピンポン玉を一つ入れて、箱の各壁面に一つずつ色々な形の穴を開ける。この面には三角の穴を、こっちには丸い穴を、こっちにはミッキーマウスのシルエットを。そうすると、この穴を覗いたときピンポン玉は三角の中にあるように見え、こっちから見ると丸の中に、こっちから見るとミッキーの中にあるように見える。僕達が電子を観測するときも似たようなことをしている可能性は否めない。たった1molの物質中にアボガドロ数個(10の23乗のオーダー)の原子分子が含まれていて、それぞれが複数個の電子を有していることを思うと、この宇宙に存在する電子の数は気の遠くなるようなものだ。立方体ではなく、その電子の数だけ面を持った箱の中に実は電子が一つあるだけで、僕達はその箱の曲がりくねった面を3次元空間と捉えるような宇宙に生きているのかもしれない。
 

camera. camera. camera.

2009-03-26 14:59:51 | Weblog
 去年の夏、桂川の河原で七面鳥の丸焼きをしたときの写真を、Oがやっとくれた。昼下がりから初めて、ビール片手に花火をする夜の風景に到るまで、移ろい行く太陽の光と色彩を、彼のニコンは実に的確かつドラマティックに捕らえていて、フルオートでこんな写真が取れるなんて一眼デジカメはすごいなと改めて思う。
 写っているのは奥が僕で手前がOで、この写真を撮ったのが誰だか覚えていないけれど、2人とも普通に動いていたし、夜のこの暗さだし、後ろで上がっている花火とは強いコントラストがあるし、結構な悪条件で誰かがさっと撮ったのにこの仕上がりとは(ぶれてるけれど)。

 僕は昔ペンタックスSPを持ち歩いていました。TTLの針とにらっめこしながら絞りを開けたり締めたりして、PLとか黄色とかフィルター選んで、ピント合わせて、フィルム選んで。それはそれで勿論面白かったし、好き好んでやっていたわけですが、こうしてテクノロジーの進化を間の辺りにすると、すべてが実に昔じみて見えてくる。

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 映画「マイ・アーキテクト」を見ました。
 劇場公開のときに見に行くつもりで忘れていた作品です。20世紀最高の建築家ルイス・カーン(もちろんコルビジュエもミースもライトも)の足跡を、その息子が辿るドキュメンタリー。作品としては退屈ですが、カーンの建築をときどききれいに撮っていて、実物を見に行きたくなります。とはいうものの、建築を写したカットもあまり多くはなく、大半はカーンの持っていた3つの家族にまつわる少しややこしい話であまり面白くはなかった。
 ただ、やっぱりカーンは何かを超越した建築家だということを再認識させてくれました。僕はもう建築熱は冷めているけれど、ソーク生物学研究所とバングラディッシュの議事堂は是非見たいなと思う。
 終わり近くに挿入されたカーンの言葉。

「最後に一つだけ言っておきたい。
 過去にあったものは常にあり、
 今あるものも常にあり、
 未来にあるものも常にある。」



spring.

2009-03-24 18:06:40 | Weblog
 しばらく前にパソコンの中を整理していたら、去年の花見の時に友達が僕のカメラでさっと撮った動画が出て来ました。それを先日、春だなと思いながら歩いているときに何故か思い出した。どこからどこまでが知り合いなのか良く分からない花見で、僕はあまり調子のいい春ではなかったけれど(黒いジャケット着てチラシ寿司を食べてるのが僕です)、動画後半のDJとグルグルメガネとKちゃんの笑い声がピタリと嵌って春の狂喜を思わせるのでアップしてみました(不都合のある人は写ってないはず?)。もう1年も経つなんて。



Hanatoro.

2009-03-24 11:06:07 | Weblog
The last saterday I want to HANATORO in Higashiyama region, Kyoto. HANATORO is a kind of event that putting many electric lamps on the side of passages in this region. They make this every spring(autumn also? don't know well) and this is my third time to go. I like this. That's somthing called very Kyoto-ish. Kyoto-ish passeges, temples and so on. In addition, this is telling me spring's comeing. A warm, comfy spring saterday-night with glinty chatting people.

Before gonna HANATORO, we went to shopping a bit to get some clothes for the comeing spring(but we didn't buy anything. I feel we are losing nice shops in Kyoto). So we started our Higashiyama-journey around 7:30. The first place we stopped by is Syourenin-monzeki(kinda temple of course). In front of this place you can see a big tree's lighted up, nice. I knew this place and I've passed the front many times, however I've never been inside because it didn't look so interesting. Then I can call this is my first time gonna inside of Syourenin-monzeki. It's very nice. I also got in the tea room and took Machya. Well I know this time's my getting tea was very because of the my first Sado experience on last week. And the tea, very nice also. I have to say one thing. Basically, yes this is nice place to see. My question is that "What the hell is these fuckin' lighting-up in the garden!!!" It's ruining this temple and killing us.

We spent long time in here. Feeling almost this is our way to go home. But actually we have just started our journey. Keep on. We passed Chionin-temple. Yap here I got an information "The next midnight-nenbutu at Chionin-temple will be on 18th, Apr" OK. Passing through Maruyama-park. Then passing Kodaiji-temple (It's very similer with Syourenin) and finally we arrived at Kiyomizudera-temple. That's lighted up pritty beautiful. We took Tainiai-meguri that's a kinda rite you go walk inside of narrow pass. it's dark totally you can just follow a leading beadroll with your left hand.

Now Kiyomizudera-temple is showing their main Buddha statue. So we went to see that with additional 100 yen (everytime it's cost in Buddhism temple, already we've paid entrance fee and tainai-meguri fee). They played up like "come on people this is a very special chance to see our main Buddha-statue. You know the next time we will show this in 24 years. In 24 years. Now for 100yen" Gotta, I'm in.

Inside of the room for the main Buddha, they wanna get some money again "You can buy this candle and make a pray, come on people. one candle, one hope" fuck off. Where is the real Buddhizm?

And something terrible happened. The air. Air inside the room. Well the room has some (special) Buddha-statues on centre. We were walking on the narrow pass around these Buddha-statues. Many crowded people were walking on their feet only with socks or bare. No wind. I don't know from which (might be both ), I mean directly from feet or from the carpet on the floor, I'm so sorry people but it's stink! We really wanted to go out from here immediately, as soooooon as possible. So we tried to get out, yes, but you know this stinky narrow passege was filled with crowd people and we couldn't move. People, don't they care about this smell?, not only saw the statues, also they were praying. What are you praying in here such a stinky room? I wanna just pray to take me out from here.

After seeing Kiyomizudera, we took a way to go home. Very same way we came. When we walked aiming to Kiyomizudera, there were so many people walking also, but now on the way to home there is few people and we can see just lamps on the pass still keeps their light.

tea.

2009-03-18 16:50:07 | Weblog
 洗練された手順を一つ一つ、丁寧に踏んでいく行為には強い力が伴う。その力について語る言葉を僕たちは持っていない。それは決して語られることなく、ただそれら行為の中にだけ立ち上がる独自の何かだ。その力は、周りでそれを眺める者だけにではなく、行為を行う者自身にも影響を及ぼし、つまり周囲一帯の空間を支配する。

 僕は高校生くらいまで「茶道」を必ず「ちゃどう」と読むようにしていました。それは僕が捻くれた子供だったからです。「ちゃどう」と言うと必ず周囲の誰かが「それは”ちゃどう”ではなくて”さどう”と読むのだ、そんなことも知らないのか」というようなことをしたり顔で言うので、そこを「”さどう”とも読むけれど”ちゃどう”とも読みます。両方正しいのです。そんなことも知らないのですか」と切り返すのが面白かったというわけです。まったく性質の悪いことに。

 そういった、あまり真っ直ぐではない性格の僕は、茶道そのものに対する見解にも少しく変わった論を採用していました。それは「茶道というのは金持ちが大枚で手に入れた貧乏に過ぎない」という説です。これは確か橋本治さんが何かに書いていらっしゃったのですが、人というのは自分が持っていない物を欲しがる生き物だ。だからお金持ちは自分が持っていない「貧乏」を切望することがあって、秀吉達はどうしても欲しくなった貧乏をお金持ちのやり方の常として大金で買った。だから茶室というのはあんなに狭いし、茶器は質素でなんてことないのがあんなに高い。貧乏を大金で買うという行為が茶なのだ。という意見は、極々一般的なワビサビを中心として展開する高潔なロジックに比して、なんとも身も蓋もなく僕に訴えました。ときどき僕は物事を正しいかどうかではなく、人が驚きそうかどうか、で判断する傾向があるのですが、この茶道の始まりの話はすぐに採用されたわけです。

 そうして、僕は茶道のことを神妙に語る人がいるとすぐにこの話を持ち出して尾鰭足鰭も追加して意地悪をするようになった。そんなに奥深そうに語るけれど、あれって本当は金持ちの貧乏ごっこに過ぎないんですよ、みたいに。
 もちろん、いつもいつもではないけれど、大体において僕の茶道への思いというのはこういった詰まらない心持の悪い物でしかなかった。

 ところが、昨日留学生がお茶を立ててくれるお茶会に出てみると、ただの貧乏ごっこだなんてとんでもありませんでした。茶道というのは確立された何か確固たるものを持っていました。少し崩した形の茶会だったと思うし、お茶を立ててくれるのも長年の修行を積んだ人というわけではなかったけれど、僕はそう感じた。きっとこの奥には遥かな世界が存在しているなということが明らかにに見て取れた。

 茶道の何が良いのか、(本当は全てのことがそうであるように)僕は説明することができない。本当は「神」なんて単語では『神』は表現され得ないと知っているのに、仕方無しに「神」という言葉を使って神を思考するように、ここでは単に「茶道の良さ」という超関数的な言葉を用いるしかない。それは美しさでも洗練でもなんでもなく、冒頭に書いたように語りえぬ何かなのだ。
 そして「茶道の良さ」というものを少しなりとも感知した僕は、茶を中心にこういったことを立ち上げた利休の天才を思わないではいられない。そういえば柄杓を扱う手つきが時折合気道を連想させるのですが、かつて合気道を始めたときも、訳のわからないことも多々あるものの、なんて天才的な武術だろうと思った。考えてみれば天才的な何かに訳の分からないことが多々含まれているというのは当然のことですね。

 僕はこのお茶会に全く何の予備知識もないまま参加して、隣に座っていたメキシコ人のMに「お菓子は大抵お茶が来る前に食べてしまうんだけど」とか「飲み終わったらお茶碗を鑑賞して」などと教わりつつ(さらに川端康成の千羽鶴に茶碗の描写がすごいチャプターがあるから読んでみると良いよと言われた)お茶を飲んだわけですが、とても楽しい経験でした。今まで茶道をやっている人も回りに何人かいたけれど、なんとなく「ああいう堅苦しいのは理解できない」と思いながら避けていて、でも心のどこかではずっと気になっていたので、つっかえがすっかりと取れた気分です。

 それにしても「形式」というのは実に興味深いものです。様々なものに「形式」は付き纏い、そして「形式」を嫌う人も入れば好む人もいる。僕は子供の頃「形式」を嫌い、敵視すらしていたけれど、今は形式の持つ豊かさを理解することもできる。なにより、形式を好む好まないというのは問いの立て方が既におかしいのだと分かるようになった。

here.

2009-03-16 18:15:30 | Weblog
 眼鏡を掛けてゴールデンリトリバーを連れた小うるさそうなおばさんが「ここで火を使ってはいけませんよ。禁止されているんですよ。今から警察に通報しますからね」と結構な大声で言い放ちながら僕達の横を通って行った。おばさんは一切立ち止まることがなかったので、何かを言い返そうにも今度はこちらが大声を出さなくてはならないし、それは日曜の昼下がりにあまり相応しくないような気がしたので僕は黙って彼女が遠ざかっていくのを眺めていた。
 日曜日、Yちゃんに誘われたので何がなんだか良く分からないまま加茂川でバーベキューをしたときのことです。
 鴨川条例という、所有とか体制とか人工とかその辺りの言葉を連想させるゴミみたいな条例は、結局のところその目的を上手い具合に達成しつつある。彼女がその後ちゃんと警察に電話をしたのかどうかしらないけれど、警察は遂に来なかった。大体この場所は鴨川条例の定める禁止区域を外れているので、僕達には法的にやましいことはなんにもあったものではない。
 ただ、僕がそのまま炭を起こし続けていると、Aさんが「違法行為は外国人にとってはやっかいなことだから、ここで本当にバーベキューをしてもいいのかどうかちゃんと分かってからにしたい」と言いに来た。僕達はその3分の2くらいが外国人で構成された集団で、彼の言うことももっともだった。僕はYに電話を掛けてネットで確認してもらい、それから改めて火を起こそうとコンロに戻ると、鴨川を散歩していた50歳くらいの夫婦が「火はこうやって作るものだ」と色々レクチャーしながら火を起こす手伝いに加わってくれていた。青筋を立てながら喚いて去っていくおばさんもいればこういう夫婦もいる。

 条例のことはここにごちゃごちゃ書いてもしかたがないですが、条例ができたせいで、本当は誰も困ったりしないのに、でも条例の影響でするのを控える、あるいは悪いことをしているような気になる、という現象が起こっているような気がします。条例はもともと市民の意識を変化させるために作られたものだと思うので、その点を指して僕は条例が実に計画通りの効果を発揮していることだろうなと感じざるを得ません。

 後片付けをして、荷物をMちゃんの部屋に運び込んで、残った6人でDOJIに行ってお茶を飲む。国やなんかの話になって、僕が「国という単位、区切りは幻想にすぎないし、どこの国がどこの国に何をした、という話には本質的な意味はないと思う、ジョン・レノンが言ったように国なんてないんだよ」というと、イギリス国籍の友達が「本当に?ジョン・レノンそんなこと言ってた?」と少し嬉しそうにしてくれたのでなんだか僕も嬉しかった。これはあくまで僕の憶測に過ぎないけれど、彼は彼なりにナショナリティーの問題を抱えていて、それをクリアする一つの手掛かりとして imagine there is no country というフレーズはヒットしたんじゃないかと思う。僕自身がこれまで沢山の何気ない一言に影響されてきたように。




回転。

2009-03-11 21:26:25 | Weblog
 僕は修士1年のとき大手の学習塾でアルバイトをしていました。数学と理科を基本的には教えて、代講で国語と英語もそれぞれ一度づつ教えたことがある。塾の講師をはじめるに当たっては、何度か研修があり、その中で何度か先輩講師を生徒に見立てた模擬授業も行う。もちろん模擬授業の後には、ここが良かったとか悪かったとか、たくさんのアドバイスを受けるわけですが、その中に「左手をポケットに突っ込んでいる」というのがありました。

 生徒を前にしてならいいかどうかは別として、これから講師をはじめるというトレーニング期間の分際で、塾長をはじめとする諸先輩を前にした授業を左手をポケットに突っ込んだまま行うというのは失礼なことに違いなかったし、自分でもそんな失礼なことをまさかするとは思っていなかったので驚いた。僕は無意識に左手はポケットに入れたままで授業をしていた。

 指摘を受けて頭に浮かんだのはN先生が電子回路の講義をする姿だった。
 僕は学部のときにN先生の講義を受けていて、この先生からは随分な影響を受けたと思う。もっとも電子回路という課目に関しては実に不出来な学生だったので、内容を良く理解したとかそういうことでは残念ながらないのですが、飄々としてユニークでかつ知性を感じる話の仕方に確実に何かの影響を受けた。そして、思い出せばN先生はいつもポケットに左手を入れたままで、右手一本で黒板に次々と式や回路を書いていらっしゃった。

 紛れも無く、僕がこのときポケットに手を入れたままだったのはN先生の真似を無意識に行っていたものだと思う。これらの研修を終え、講師として授業を始めると、不思議なことに全く忘れていた過去の自分の先生達が次々と頭の中に現れ、そして僕は半分そのリミックスで授業をしたようなものだった。それはなんとも不思議な体験でした。武術の世界では、一度見ておけば必要なものは体に残る、というようなことを言う人がいますが、これはそれに近いことかもしれない。
 結局、この左手をポケットに入れる癖はなかなか直らなかった。

 この間の土曜日、そのN先生の最終講義がありました。昔自分が電子回路の講義を受けた教室で語られる先生の今までの歴史みたいなのを聞くのは不思議な気分だった。その昔モデリングで困ったとき、ディラックの「量子力学」をなんとなく読んでいたら「式なんてえいやと作ってしまえば良い」みたいなことが書いてあって、それが突破口になった、ディラックが本当には何を言いたかったのか知らないけれど僕はそう解釈した、という話があって、この話はこの先僕の研究生活に大きな影響を及ぼすだろうなという予感を抱いて教室を後にした。


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 そういえば先日初めて堂本印象美術館へ行きました。その日僕は全然美術館へ行く予定ではなかったのですが、Yが行くというので一度見ておいても良いだろうと思って訪ねた次第です。何度も前を通って知っている建物の外装が一番良かったです。

 美術館へ入る前からお腹が空いていたので、どこか良さそうなところを見つけたら入ろうと言うや否や、目の前に回転寿司があったので「ここでもいいけれど、たまには」と恐る恐るそこに入りました。回転寿司なんかに入るのは小学生の頃以来で、ほとんど20年ぶりということになる。どこの回転寿司屋もそうだというわけではないと思いますが、ここの回転寿司は20年ぶりの僕にとって未来の回転寿司でした。まず店舗が大きいし、入ったら番号とテーブル地図の付いたボードを貰い、それを頼りに自分達のテーブルへ向かいます。そして自分でお茶やお皿を用意して座り、注文はテーブルのタッチパネルで、食べたお皿はテーブルの横にある穴に入れると数がカウントされて、しかもお皿5枚につき一回ミニゲームがタッチパネルの画面ではじまる。ネタは普通の寿司ネタからハンバーグ、照り焼きチキンなどの載った異常寿司まで用意されているし、もちろんうどんもデザートもなんでも寿司屋に入って食べたくなりそうな最大限のレンジはカバーされている。食事が済むとまたタッチパネルで「お勘定」ボタンを押せば即座に係りの店員がやってきて伝票を記入していき、あとは普通にお金を払うという次第。尚、寿司の注文は携帯からネットでもできるということ。回転寿司に入ったのはこの日一番印象深い出来事でした。一瞬ブロイラーのニワトリになったような気持ちもしましたが、食べ物の溢れかえったそれはそれで楽園のような場所だと、思えば思えなくもありません。あらゆる意味で日本的な場所だった。

body.

2009-03-10 16:09:21 | Weblog
 もう何年前のことだろう、まだNさんが京大に居た頃「高橋源一郎の集中講義があるから、私それとってるから一緒に出ない?」という誘いがあった。誘いがあったというのは正確ではなくて、本当はもともと誘ったのは僕のほうだった。僕がイベントかご飯か何かに誘うと、その頃急激に猛勉強をはじめた当時の彼女は「ごめんなさい、遊んでる時間がないの、本当に勉強だけで手一杯」ということで、代わりに一緒に集中講義に出るのはどうかと提案してきたのだった。
 そういうわけで、僕は真夏の炎天下を見慣れない京大文学部の建物まで自転車で走る羽目になった。無論、高橋源一郎さんが来るならNさんがいなくても講義に出て(潜りなので、勝手にという形容が要りますが)いたかもしれない。

 樋口一葉とJJとアダルトビデオから日本文学を読み解く作業は圧巻だった。僕は所用で講義には途中から出なくなったのだけれど、明治文学と現代の女性ファッション誌を見事に繋いでしまう流れは実にきれいだった。
 それら講義の内容を今も少しは覚えていて、でも今日はそちらではなく高橋さんが講義の合間に挟んだ雑談のことを焦点としたい。

「僕も歳を取ってきて、でも、中身が若い頃と全然変わらないから、これが見事に、みんなまだ若くて信じられないだろうけれど、体は老いていくけれど、中身は知識増えたりしても、基本的に若いときから全然変わらない。それで、いつになったら老人らしい心持になれるのかと思って、大先輩のもう80を越えている作家に、いつになったら老人の心になりますか、って質問したら、そんなのいくつになっても変わらないし老人の心境になんてならないよ、って言われてショックだった」

 というようなことを高橋さんはおっしゃっていて、その話がずっと心に残っていた。

 そして昨日、入院中の祖母を見舞った際、高橋さんの言っていたことを思い出して、88になった祖母に聞いてみた。

「僕は30になっても、やっぱり、もちろんそれなりに分別もつくようになったし、見えないものも見えるようになったけれど、でも基本的には20の頃と変わらないんだけど、もしかしてこれって88歳になってもこのまま続くの? 心持は変わらず、単に知識と経験は増え体は老いていく、みたいな感じで」

 祖母は、その通りだと言った。何も変わらない、若いときからそのままだと言った。僕はその時一瞬、祖母の目の奥に若い女の子達が持つのと同じ光を見た。祖母は確実に88歳の老人であるが、それは本当は肉体的なことに過ぎないのかもしれない。88歳の人間の肉体を纏ってはいても、彼女は本質的には若いときから変わらぬ彼女であり、僕が知らない70年くらいの昔に青春を過ごした女の子そのものなのかもしれない。年齢というのは単にその程度のものなのだろう。

 お見舞いに行く前日、僕はバイオハザード3というB級映画を見ました。そのラストシーンは主人公とそのクローンが、まだ眠っている無数のクローンと共に「これから私達みんなでそっちへ行ってお前達とはケリをつける」と宣言するものなのですが、それまでの映画の流れも手伝って、自分のクローンで構成された集団というのは実に親密感の高いものに違いないなと思った。僕はきっと自分のクローンとかなり仲良くやっていくことができるだろう。自分が食べようと思っていたパイナップルをクローンの一人が食べても、まあ、あいつも僕なわけだからいいかって許すのではないかと思う。
 ならば、このときふと思ったのは、姿形が似ていない、ただの他人だって本当は同じことではないだろうかということです。クローンというのは僕自身のことではなく、単に姿形が極めて似通っているというだけの存在に過ぎない。他人というのを姿の似ていない遺伝情報のことなったクローンだと読み替えれば(だって形がそこまで本質的だとは思えませんから)、誰にだってそれなりの親近感を持つのが本当のところではないのかと思った。


 


2 to 3.

2009-03-03 13:27:06 | Weblog
 小林紀晴、さんの名前をふと思い出した。僕は過去のある時期、アジアを中心とした、世界のいたるところへふらっと旅に出てきたような人々の書く作品が好きだった。

 ざわざわとした日々を送るうちに、2週間もこのブログを書いていませんでした。実際に多少は時間に追われていて、なんとなくパソコンに向かってキーボードを叩くのが億劫になっていました。この2週間の間に、冬の終わりの象徴である2月が過ぎて、春の始まりの象徴である3月がやって来た。今窓の外では雪が風に舞っていて、天気予報では寒の戻りだと言っていたけれど、それでも暦は3月であり、僕達は強引にそれを春だと呼ぼう。季節が変わるのに同調して僕の引越しも済んだ。自転車で10分も掛らないような距離を引っ越しただけだけれど、やっぱり生活は随分と変化した。それから自転車のタイヤを交換し、サドルも交換し、金沢旅行を申し込んでキャンセルした。祖母が入院した。展覧会へ行った。久しぶりに動物園に入った。なんというか、色々なことが新しくなったというよりも更新された。

 2009年2月25日水曜日
 引越しの日。午前中雨降るも10時に車を借りに行き手伝ってくれるI君を迎えに行くと雨上がる。今回の引越しは簡単に終わると思っていたが、はじめると二人では大変だという絶望感がすぐに起こり、冷蔵庫を上げたついでにKにも手伝いに来てもらう。百万遍の新居に荷物を運び込むと4時になる。近所で軽食をとろうと歩いていると車に乗ったMさんにばったり会う、さらに入ったお店の人がMちゃんの友達だった。引越し初日にして左京区の狭さを思い知る。
 荷物を実家にも運び込む。
 夜に京都に戻ってラティーノでご飯。くたくた。

 2009年2月28日土曜日
 ハイエースワゴンとM君の車に分乗して生野銀山と大河内発電所を見に行く。茨木でYちゃんとKさんを拾うまでは僕の計算通りだったけれど(誤差2分以内だったので、Oが完璧だと目を丸くしてくれた)、中国自動車道で渋滞に巻き込まれて随分な遅れをとる。お陰でもともとタイトだったスケジュールがますます厳しくなる。ノミという超ローテクで掘り進んだ坑道に度肝を抜かれる。やや駆け足で坑道を抜けた後、播但道を走り、大河内発電所へ向かい、締め切り5分前で申し込みをする(またOが時間ぎりぎりだと目を丸くする)。発電所には僕達以外の客がなくて見学ツアーのバスも貸しきり状態。山の中に深く穿たれたトンネルをバスで進み、発電機のある大空間に驚く。発電シャフトをはじめとした巨大な機械がなんとなく嬉しい。ガイドの女の子も感じが良かったので自然と沢山質問が出る(全く興味がもてなかったというYに言われて考えてみれば、たしかに僕達11人のうち8人が理系で修士以上を出ているのでそういうことになったのかもしれない)。発電所のあとダム湖をさっと見て(鹿の死骸が落ちていた)、M君お勧めのうどん屋へ入ってあれこれ食べて、急須のお茶を10回くらいおかわりして、なぜか飼われているヤギと遊んで帰路に着く。

坑道爆破体験装置



まるでグーニーズ!