Banksyのこと

2016-03-06 01:17:54 | 東京日記
Banksy does new yorkの冒頭22分をIID世田谷ものづくり学校で3月6日15時から上映します→ http://setagaya-school.net/Event/15521/

 トレーラーの中で「running up to public property and defacing it is not my definition of art (直訳:公共の施設に現れて、その外観を損なうようなことをすることは私のアートの定義ではない)」とアホらしいセリフをブルームバーグ前NY市長が口にしている。ブルームバーグが政治家としての立場でこのセリフを渋々読んだのか、本心でそう思っているのか分からないが、どちらにしても「アート」という言葉の取り扱いは面倒だ。アートというものは実は存在しないがそれでもアートという単語を使用しないと立ち上がらない思考の領域は確かに存在する。
 トレーラーの中で、何度もアートという単語が出てくるが、彼らのアートという言葉の使い方にはあまり興味がない。
 バンクシーがアーティストなのかも、ひいてはこれがアート系の映画なのかどうかもどうでも良くて、ただ僕は彼がやっているようなことをやりたくても逮捕されるのが怖くてできなかったので、ほとんどはその実行力に軽い敬意を覚える。
 それから日常の隙間に「ある光」を差し込もうというビジョンに。
 
 これから引用するのは、僕が2005年に書いたイベントの告知文です。
 当時はこういうことを考えていました。
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 9月2日金曜日、鴨川の出町柳の中州(鴨川公園)でパーティーをしようと思います。

 パーティーといっても、そんなにたいそうなものではなくて、単に音楽をかけて、それから映像を流すというだけのものですが、普段は暗い公園を、その日だけでもキラキラした空間にできればいいなと思います。

 時間はだいたい夜の7時か8時くらいに始める予定です。
 終わる時間ははっきりしませんが、遅くてだいたい午前3時というところです。

 場所は、京阪の出町柳駅を出てすぐの鴨川と高野川が合流するところです。
 川端通りから、灯りがきっと見えると思います。
 亀の飛び石を渡って、その中洲に行くこともできます。
 できれば僕たちはその亀の飛び石にキャンドルを置いて、それも目印の一つにしたいと考えています。

 コンセプトは、鴨川公園に彩りを添えることです。
 僕たちは決して、中州を占領して自分達の為のパーティーを開きたいというものではありません。
 僕たちは、開かれた場としての公園、その機能をいくらか強化したいと望むものです。

 子供だって、家族だって。おじいさんだっておばあさんだって。誰もが気楽に立ち寄れれば良いなと思います。
 決して、ばか騒ぎにはしたくありません。
 京阪を降りて家路を歩く人々が、自転車に乗って通りがかる人々が、なんとなく立ち寄って、それでいくらかのくつろぎや楽しみを得てくれれば良いなと思います。
 心地良いこと。

 当たり前のことですが、フリーパーティーです。
 お金も何も要りません。
 なぜなら、そこは公園ですから。
 ただ、この日は、公園に灯りが点り、音楽が流れています。
 そういう夜なのです。

 僕たちは、特別な何かを来て頂いた人々に供給することはできないでしょう。
 それには力不足です。
 でも、人々が夜のいくぶんキラキラとした公園に集まるということは、それ自体が特別の力を持つと信じます。
 だから、なるべくたくさんの人に来て頂けると嬉しいです。

 もしも都合が宜しければ、気の合う友達も、すこし疎遠な友達も、どうぞ誘い合わせて来て下さい。
 楽しい、平和な夜になればいいと思います。
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 京阪出町柳駅というのは、落ち着いた京都市内北東部にありながら大阪中心部へ直通する重要な駅で、故に夜は大阪へ通勤している人達がたくさん帰ってくる。駅を出て、東の百万遍方面へ歩く人もいれば、高野川を渡り西へ歩く人達もたくさんいて、橋を渡る彼ら達には中洲部分の公園が見えるはずだ。高野川と鴨川が合流する、ちょうどアルファベットのY谷間部分みたいなこの公園はロケーションが良くて、だけどいつも真っ暗で、もちろん暗さ故の素敵さもあるわけだけど、なんだかいつも残念で、だからこの場所を少しだけキラキラさせたかった。
 できれば毎日そうしたかった。
 僕はハレとケというのが大嫌いで、毎日ハレでいいじゃないかと思っていて、だからハロウィンとか学祭とかそういう囲われたハレが大嫌いだった。コミケだからコスプレするんじゃなくてコスプレでオフィスに出勤すればいいし、それは本当は普通のことで変でもなんでもない。
 ただ、毎日をハレにするには膨大なエネルギーが必要だからとても難しい。気を抜くと今日はケになってしまう。
 自分の毎日を自分でハレにすることは不可能なのかもしれない。
 だからせっかく人間が集まって生きている都市では、誰かが交代でハレの欠片を街角に置けばいいと思う。

京都から東京、2月、バイク、引っ越し and all: day 3

2015-09-10 11:11:42 | 東京日記
 三軒茶屋の不動産屋から、下北沢のアパートへ向かう。今度も道は良くわからないが、時間の制限がないので気が楽だ。なんといっても鍵は僕の手の中にある。茶沢通りを北上して途中で一度道を間違えたが、すぐに下北沢。行き止まり路地の多い入り組んだ住宅街に僕がこれから住むアパートはあった。まだ8時半だけど、住宅街の中は静かで冬のクリアな空気が音を吸い込んでいるかのようだった。車もほとんど通らない。実際に物件を見るのははじめてだった。バイクが置けると聞いていたけれど、どこだろう。とりあえず入り口の前にバイクを止めてさっき受け取ったばかりの鍵で扉を開けた。静かな夜に知らない土地で知らない部屋の鍵を開けるのは変な気分だ。懐中電灯を点けてブレーカーを探して上げると、白い蛍光灯の明かりが部屋を満たした。前の住人が付けたままにして行ったいかにも普通の丸いペンダントライトはすぐに外すことになるだろうけれど、今はないよりましだ。ダイニングと寝室には蛍光灯、バスルームにはやや暗い白熱灯、和室には電器がなくて真っ暗。バイクから荷物を下ろしてとりあえず部屋の中へ放り込んだ。駐輪場らしきものはやっぱり見当たらないので、バイクは路駐する。ただ道路が車一台ギリギリ通れる幅しかないから、止めても問題なさそうな場所へ移動させた。
 ガスも通っていないし、布団もないので今日はホテルに泊まるつもりだった。部屋に入ってラップトップをデザリングでネットに繋いで周辺のホテルを探す。東京にはどこにでもホテルがあるだろうと思っていたら、下北沢にはホテルがほとんどなかった。一度アパートの”自分の部屋”に入ってしまうと、気が抜けて疲れがどっと押し寄せてくる。バイクの止められる比較的近いホテルを探していて、土地勘もないので段々と面倒になってくる。もういいや、今日はここで寝よう。

 問題は寒さだ。布団がないだけではなく、暖房器具もない。エアコンは付いているのだが、聞いた話ではもう古くてダメだから入居したらすぐに取り替えるということだった。実物を見てみると場末の安い旅館とか民宿とかにありそうな、リモコンが有線のかなり古いもので使わないほうがいいような雰囲気があった。もう一歩も動きたくなかったけれど、そうも行かないので一番近いコンビニを探して僕はまた外へ出た。
 ローソンでラーメン、けんちん汁、焼きそばパン、飲むヨーグルト、水、カロリーメイト、カイロ、70リットルのゴミ袋などを買って部屋に戻る。電子レンジもお湯もないので温めるべきものは全部コンビニで温めてもらった。熱が冷めないうちに全部食べて、それからゴミ袋とガムテープと新聞で寝袋を作ってから歯を磨いて、バイクに乗っているときと同様に着込んだウェアの下に新しいカイロを押し込んだ。
 床の上では硬いので、明かりのない和室に急ごしらえのゴミ袋寝袋を敷いて、そこに着膨れのままで入る。部屋が1階だからか地面の冷気が畳から伝わって来る。いや逆か、僕の体温が畳を抜けて地面へどんどんと吸い取られていく。和室の前はちょっとした庭になっていて、その向こう側の家についているセンサーライトがときおり点いたり消えたりしてカーテンのない窓から光が差し込んできた。ダンボールか何か、下に敷くものをもらってくれば良かった。畳を上げて重ねるという手もあったけれど、暗い部屋の中でそんなことをする気力はもうなかった。押し入れの中で眠ることも考えたけれど、カビとかを考えるとはじめて入った部屋の中の押し入れにはあまり入りたくない。

 疲れ果てていて寒くてもなんでも眠ってしまいたかったが、このまま寝てしまうと死ぬかもしれないと思ったので対策を考えた。ゴミ袋寝袋の中はすでにもう結露してベタベタだった。地面との接点を減らすために座って壁にもたれる。僕は一体なぜこんなことをしているのだろうと惨めな笑いがこみ上げてくる。
 選択肢は大きく分けて2つ。1つ目は、ホテルとか友達の家とかネットカフェとかどこでもいいけれど温かい場所へ移動すること。2つ目は、もうダメだというカビだらけ埃だらけかもしれないエアコンを点けること。
 体力的に移動は本当にごめんこうむりたかったので、僕はエアコンを点けることにした。実は、翌日になってわかったことだが、エアコンがダメになっていて交換するというのは間違いだった。エアコンは古いけれど別に動いていて、これだけでは足りないかもしれないから新しいエアコンも別に付けてもらえるというのが本当のところだった。だからエアコンはスイッチを入れると普通に動いて特にカビ臭くも埃臭くもなかった。なんだ。
 部屋が暖まると僕は一瞬で眠りに落ちた。

 翌朝9時前に引っ越し屋から電話が掛かってきて、そして荷物の搬入。
 元気な引っ越し屋と朝の光で、凍えて惨めな昨夜が嘘みたいな気分になる。でも、この倦怠感は本物だ。搬入の後、畳の上にベッドのマットレスを投げ出してその上でまた眠った。3時にガス会社が開栓に来るが、それまでは何もないしもうずっと寝ていたい。

 ガチャガチャと誰かが玄関のドアを開ける音で目が覚めた。
 えっ?鍵は掛けた筈だ。
 飛び起きて和室から出て行くと、吃驚した表情の女性と作業着を着た男の人が入ってくるところだった。
「あなた、どうやって入ったの?!」
 その女性は大家さんで、作業着の人はエアコンを付けに来てくれた電気屋だった。
「どうやってって、鍵でです」
「鍵は誰にもらったの?」
「不動産屋でもらいましたけれど」
「まあ、じゃああの人達勝手に鍵作ってるのね。ほんっとに困ったわ。あのね、鍵は全部私が持ってて、私が直接渡してるの、だいたい5本しかない筈でここに5本全部あるでしょ。あなた何本持ってるの?」
 大家さんは5本の鍵を差し出して見せた。
「2本です」
「じゃあ勝手に2本も作って、どういうつもりなのかしら。あとで電話して文句言います。そしてあの道に駐めてるバイクは多分あなたのよね。この物件にはバイク置き場はないの」
「えっ!」
「話は聞いています。バイク置ける物件探してたのよね。それで不動産屋が勝手に置けるって言ったの、私が聞いたのは全部事後的によ。仕方ないからうちの駐車場に駐めてね。うちの家は隣だから。隣の部屋に入ってくれてる人もバイク通勤なんだけど、バイクの駐輪場は別に借りてもらってるのよ。これじゃ不公平だけど仕方ないから。本当になんて不動産屋かしらね。色々話が早いから何かあったら不動産屋ではなくて私に直接言って。ピンポーンって来てくれればいいから。これで不動産屋に管理費払ってるんだから馬鹿みたいよ」
 とにかくバイクが置けるということでほっとして、大家さんの駐車場までバイクを移動させる。

 エアコンの工事はブレーカーの新設を伴うもので、2時間くらい掛かった。
 そのあと、しばらくしてガス屋さんがガスの開栓をしにやってきて、結局のところ一段落したのは4時前のことだ。開栓したてのガスで、僕は早速シャワーを浴びた。温かいお湯が体を流れ落ち、体の表面を覆っていた気だるさの膜みたいなものが流れていく。空腹や疲労や微かな緊張感の塊が体の奥底に残っていたが、血液の中には高揚感が巡っていた。これまで何かの記号に過ぎなかった東京という言葉が、生活の場という実在としてこのバスルームの外側に広がっている。ずっと昔何かのテレビ番組で飛行機のパイロットが選ぶ世界の夜景というのを特集していて、嘘だか本当だか第1位は東京の夜景で、その理由はどこまでも光る街が広がっているからというものだった。国際線のパイロットを何十年も務めているというその男は言った。「確かにきれいな夜景はいっぱいありますよ、単純にきれいさということならもっときれいなところもあると思います。でも東京はとにかくどこまでも広がっていてそれに圧倒されるんですよ、いつも」
 冬の夜は早い。そのどこまでも続くという光の街は、まもなく現れる。

京都から東京、2月、バイク、引っ越し and all: day 2

2015-09-07 18:23:09 | 東京日記
 ホテルのベッドで目を覚まし、テレビを点けて馴染みのない地域のニュースを見るのが好きだ。内容は特に気にならない。知らない土地で知らない人達が新しい1日をはじめようとしていて、その雰囲気が伝わって来るとどうしてか少し嬉しくなる。僕の知らない地域にも確固たる住人がいて、その土地の確固たるどこかで確固たるイベントを例年のように今日も執り行っているのだということが嬉しいのかもしれない。風土は違えど、言葉は違えど、ありとあらゆる地域で人々は生活している。
 そうだ、思い出した。内容はどうでもいいと書いたけれど、この朝のニュースでは中部地方のどこかの川の畔にある日本軍の研究施設のことが流れていた。軍部が科学者を集めて電波兵器だかなんだかを開発しようとしていたらしい。仁科芳雄、朝永振一郎といった錚々たる名前が挙がっていたはずだ。
 昨日の疲れと睡眠間際の暴食で予想通り体は重く、テレビから流れてくる天気予報を背景にしてバスルームでシャワーを浴びたが眠気はしっかりと残ったままだった。時間のことをはっきり覚えていなくて、出発したのが9時だったのか10時だったのかわからないのだけど、予定していた出発時刻から1時間近く遅れてのチェックアウトだったと思う。かなりゆっくりと歯を磨いたり荷物を整理したりした。今日は1日、また寒い中を移動するのかと思うと億劫になる。幸いにも天気は回復していて、天気予報が言うには今日は快晴みたいだ。しかしながら、快晴であろうが曇天であろうが、寒いことには変わりない。なんといっても2月なのだ。

 無料の朝食という触れ込みの抱き合わせ販売されている安物のパンや目玉焼きを無視して外へ出ると、朝は随分明るく、国道を走る車もそれなりの数になっていた。バイクに荷物を載せてネットを調節してから、自分も跨り、フェイスマスクを着けて、メットを被って、それから手袋を嵌める。窮屈な1日のはじまり。日光が眩しいのでサングラスも追加してさらに窮屈になる。
 この後はほとんどずっと走りっぱなしだった。国道1号線を主に辿ったのだが、どのように走っていたのかは詳しく書かない。とにかく走った。豊橋、浜名湖を渡り浜松。掛川をずっと超えて、たぶん焼津の手前でマクドナルドに入ってはじめて休憩した。シールドの隙間から入る風で顔が痛くて、そして全身は当然のように凍えていてずっしりとした倦怠感がある。時間はお昼時だった気がするけれど、店内は空いていて、マクドナルドは最近評判も業績も悪くてガタガタだということを思い出す。アルバイトをしているのは大半が初老の人達で、僕の注文したビッグマックセットを持ってきてくれたのはおばあさんと呼んで差し支えない女性だった。ポテトがベタッとしていて、容器にも濡れたあとがあったので交換してもらいたかったけれど悲しくなってやめた。カロリーとホットコーヒーを摂取して少し休んで行くつもりが、厚着のウェアと湿ったままのブーツで湿気たポテトのビッグマックセットを食べるのは全然心地良いことでもなく、最低限の体力回復を待った後、僕はお店を出た。

 静岡と富士の間だったと思う。
 僕はただ淡々とバイクに乗っていて、顔の痛みと寒さに耐えていた。もともと一人でどこかへ行くのは好きではなかった。寒空の中を一人で移動し続けることに小さな孤独を感じ始めた頃、右手に相模湾が近くなり冬でもなんでもとりえず海の景色はきれいだなと思ったり、カリフォルニアの海岸を思い出してやっぱり寂しくなったりしていたら、左手の景色が急に開けた。
 そして富士が聳えていた。
 麓へ緩やかに下りていく稜線が長く広く、文字通り場違いだが関東平野という単語が脳裏を過ぎった。駿河湾と富士の組み合わせは浮世絵みたいで一瞬時代が分からなくなる。どの観点からしてかとかそういうことは全部曖昧なまま、景色の雄大さにぼんやりとこれは関東には勝てないと思う。これまでに富士を何度も見ているけれど、海と一緒に見るのははじめてだった。

 体が冷え切ってきてセブンイレブンでコーンスープを買う。大型のバイクから下りてきたおじさんが「君、蒲郡の方から走ってきたよね。一回見たよ」と話しかけてきた。ちらっとナンバープレートを見て、「えっ京都から来たの?」と言うので、僕は京都から東京まで行くのだと言った。
「これから箱根の峠越えるの? 寒いよー。僕より先にここに着いているということは色々あれだと思うけれど気を付けてね。50分走ったら10分は休まないとダメだよ」
 箱根が山だということをすっかり忘れていた。
 関東が近くなってきて、そろそろ終盤だと思っていたらまだ一山あったわけだ。熱海の方へ迂回しようかと地図を見るとどっちにしても山地を越える必要があった。時間のことも考えると遠回りは避けたい。ここまでの路程でグーグルマップの経路検索は自動車のためのものであってバイクには全然適していないことも分かっていた。よく分からない道を使いたくはない。それにもう全く観光気分ではなかったけれど、箱根を通りたいという気持ちもまだあったので、セブンイレブンを出てそのまま箱根を目指した。
 結果的に箱根を通って良かったと思う。残雪が路肩に残る長い登り道の途中、開けた視界には怖いくらいの強度で存在している富士があったからだ。京都を離れた寂しさと東京に住む高揚感と一人で只管寒さに耐えているバカらしさがバランス悪く配合され血液の中を流れていてオーバードーズ気味の大脳新皮質が高いクロックで美しさという記号を組み立てる。中沢新一が東京の中心は皇居でも江戸城でもなくてずっと富士山なのだと言っていた気がするが、その意見に今こそ賛同しよう。そしてつまりハロー東京。

 やや危ない橋を渡り僕は箱根を越え、茅ヶ崎、藤沢、鎌倉といった地名が目に入るようになってきた。
 思えば2年前の夏に横浜や鎌倉へ行ったことが、東京移住の最大のモチベーションになっている。横浜の嘘みたいにきれいな夜と江ノ島や七里ガ浜の海岸線に僕は感動した。日本国内を観光してはじめて感動したと思う。こんな素敵な場所が日本にあったなんてと思った。134号線で渋滞に捕まっても海や人々を眺めながらゆっくりと車を動かして車内でラジオを聴きながらおしゃべりするのは気分が良かった。
 この横浜旅行の翌夏、僕はアメリカ西海岸をシアトルからサンディエゴまで旅行したのだが、カリフォルニアの海沿いをずっと走ってもこんな気分にはならなかった。なんというか湘南周辺の文化は西海岸のイミテーションという側面もあると思うのだけどLAの乾いて硬く明るいビーチに比べて、この湿って柔らかい神奈川県の沿岸部の心地良さは圧倒的だ。大仏も神社も歴史もある観光地に理想としてのサーフ文化という美しい上澄みがミックスされてできた大都市近郊の奇跡的な場所。

 横浜に差し掛かり少しすると既視感に襲われた。よく考えてみれば2年前に車で走ったのと同じ道で、ただそれだけのことで多少ほっとする。川崎。五反田。五反田ということはそうか東京か。時間は7時半を過ぎていて、タイムリミットまであと30分でちょっとやばいかな。この時まで実は高速道路なんじゃないかと思っていた環七を通ってやっと三軒茶屋についたのは7時50分。
 今でも三軒茶屋へ行くと、このはじめて三茶へ辿り着いた時のことを思い出す。不動産屋の場所がわからなくて時間ギリギリで、荷物満載のバイクと大袈裟な防寒着に身を包んだクタクタの表情の僕、暗い国道一転キラキラした街と仕事終わりの待ち合わせや帰宅といった日常を送るたくさんの人々。バイクを押して場違いな歩道を歩いて不動産屋を探して路駐してビルに入ったのは7時55分で、いつも通りほんとにギリギリだなと笑いが込み上げてくる。

 鍵や書類なんかを受け取り再びバイクに跨りながら、これで一段落だと安心していたのだが寒い夜はまだ長く続くことになった。
 (その3へ)

京都から東京、2月、バイク、引っ越し and all: day 1

2015-09-05 00:23:12 | 東京日記
 2015年2月8日、天気予報は今季最強の寒波がやってくると言い、僕はバイクで京都を後にした。
 半年前のこの小さなバイクの旅、あるいは引っ越しのことを忘れてしまわないうちに書いておきたいと思う。とは言っても大体は既に忘れていて、さらにTシャツと短パンの季節から振り返れば凍えて死にそうだった行程全てが嘘だったような気分にすらなる。あの日は本当に寒くて、Tシャツと短パンの季節がこの国にあるなんてやっぱり嘘にしか思えなかった。

 京都から東京へ引っ越すことが決まったとき、同時にバイクで移動することも決めていた。普通自動車免許しか持っていない僕のバイクは、何年か倉庫で埋もれていたという96年のYB-1で、友達のお父さんにたったの1万円で譲ってもらったものだ。実家に乗って行った時、バイクを見た僕の母親は「これ動くの?大丈夫?」と怪訝な顔をしていたが、わずかなオーバーホールで既に1年以上極めて安定的に動いている。一通り全体を触ったのと、片道1時間近くかけて山の中まで通っていたこともあり、僕とバイクの間にはそれなりの一体感もあった。それに以前は78年の6Vモンキーに騙し騙し乗っていたので(いつもどこかを修理していた)、それに比べればYB-1の信頼感は圧倒的だった。

 ただ、バイクで移動しようと思ったのは引っ越しが春になると思っていたからで、色々なことがバタバタと繰り上がり引っ越しが2月になったときは少し考え直した。2月というのは日本で一番寒い時期で、そんな中50ccのバイクで京都から東京まで移動するのはどう考えても苦痛だ。大体雪が積もったり地面が凍ったらアウトじゃないか。しかし此の期に及んで引っ越しのトラックでバイクを送るというのはあまりにも味気なく、何かあったらその場からバイクを送るでもなんでもできると、結局はバイクで移動することにした。

 春のうららかなツーリングから厳寒の2月へ変更になったのは予定外ではあったがこれはまだマシなことだった。
 もう一つの予定変更は結構シリアスで、不動産会社や引っ越し屋の都合で僕は東京までたった1泊で行くことになったのだ。出発直前までは2泊を予定していた。道のりとして京都から東京まではざっと500キロある。平均時速50キロで移動できれば10時間で済むが、あいにく僕のは50ccのバイクで、法定速度のことはいいとしても、信号やなんだかんだ考えると平均時速50キロで移動することは難しい。平均して50キロで移動するためにはもっと早いマシンが必要だ。たぶん15時間は絶対に掛かるだろうと思った。
 さらに一泊というと丸2日間というイメージがあるけれど、今回の一泊というのはそういうことではなく、1日目の出発は京都で引っ越し業者に荷物を渡したりした後の昼下がり(結局友達と喋ってて夕方5時半に。。。)で、2日目は不動産屋の営業時間内夜8時までの実質26時間半しかなかった。6時間半眠って残り20時間。そこにシャワーや寝る支度、起きてからの身支度を2時間とって残り18時間。15時間が本当にバイクに乗っている時間だとしたら休憩に使えるのは3時間で、まあトラブルが起きて途中で修理などしなくてはならないようなことになったらお終いなプランだった。

 引っ越しが終わって、シェアメイト達にお別れを言い、タンクとリアにネットで無理矢理荷物を括り付けたバイクで家を後にしたのはすでに夕方に差し掛かる4時だった。その後、まっすぐ滋賀県へ向かわず岡崎にある友人の家へお別れを言いに行った。彼とはいつもついつい長話になるのだが、この日も一言の予定がパンとコーヒーで1時間以上話し込む。朝から慌ただしくて、僕はまだこの日朝から何も食べていなかったのでこれはとても助かったし、このあと厳寒の中5時間以上バイクで走ることを思えばカロリーの摂取は必要なことだった。
 さらに彼はどうみても高価で高性能な手袋を「北極で水に手を突っ込んでも大丈夫なやつ」と言いながらくれた。この手袋は肘まであって、まあここまで大袈裟なのは要らないだろうと思っていたのだけど、数時間後にこの手袋の有り難みが寒さと共に骨身に染みることとなった。これがなければ今回の小旅行は無理だった。

 さて、本当に京都とお別れだ。
 5時を過ぎて夕方はいよいよ夕方らしくなっている。今日の目的地は愛知県の蒲郡。予約してあるホテルに遅くても11時には着く予定だった。もう何年も何度も通っている白川通からインクラインを抜けて山科、滋賀へとバイクを走らせた。この道をもう戻って来ないのだと思うと少し寂しい。
 僕は京都市内に19歳から36歳まで17年間も住んでいて、いわゆる「若者」時代の全てが京都市近郊にあった。大津にも琵琶湖にも楽しい思い出や悲しい思い出がたくさんあって、それらを思い出すと感傷的にはなるが離れることは清々しくもあった。少しだけ降ってきたこの雨を遣らずの雨だと呼んでもいいだろうか。そのような感傷に浸る余裕があったのも、知らない角を曲がって知らない道に入り、それが山の奥へと進むまでのことだった。地図を見るとよく分かるのだけど、滋賀県の大津辺りから三重県の四日市に抜けるには山岳地帯を越えなくてはならない。普通は高速道路でスイスイと文字通りバイパスするわけだが、50ccのバイクでは高速道路には乗れないので山の中をひた走るしかない。冬の日没は早くすっかり完璧に日は落ちていた。暗く寒い峠道を走る車はほとんどない。雨の暗闇を走っているのは僕だけであまりいい持ちはしない。
 そういえば、さっき友達の家で「関東から自転車で京都まで来た人が、三重から滋賀に抜ける峠が本当に寂しいって言ってた」というようなことを聞いた。峠には家も店もそしてガソリンスタンドもなかった。ガソリン満タンにしてくれば良かったな。このバイクは古いバイクなのでガソリンメーターが付いていない。メーターの付いていないバイクは大抵予備タンクが付いていて、普通に走っていてガス欠になったら予備に切り替える。たとえば僕のバイクは全部で7リットルのガソリンが入るのだけど、そのうち5リットルが通常走行用で、残り2リットルが予備だ。ガソリンタンクからキャブレターへの途中にあるコックを「ノーマル」にしておくと、残りが2リットルになった時点でガス欠になる。そこですかさずコックを「予備」に切り替えて残りの2リットルでガソリンスタンドへ向かうという段取りになっていて、2リットルあれば7、80キロは走れるから普通なら困ることはない。
 ところが、あいにくコックが壊れていて僕のはずっと「予備」になったままだ。つまり、5リットル使った時点での警告的なガス欠はなく、7リットル全部使ってしまって本当にタンクがスッカラカンになるまでガス欠にはならない。もちろんそれは正真正銘のガス欠であり、そうなればバイクはもう1メートルも動かない。こんな寂しい峠でそれは絶対に御免こうむりたい。たしか蒲郡まで走れるくらいガソリンはあったと思うのだけど、こんなに登りばかりだと少し不安になる。

 と思っていたら、なんとエンジンが止まった。路肩に寄せて、バイクを揺らしてタンクの音を聞いてみる。まだジャブジャブいっているのでガソリンはある。
 キック。
 掛からない。
 キック。キック。キック。
 掛からない。ガソリンがあって掛からないということは故障してしまったのだろうか。
 もちろん一通りの工具は持っているし、部品もタイヤチューブの他にスパークプラグ位は持っている。が、時間も体力も奪われるし面倒だし寒いし暗いし雨だし、こんなところで故障というのは絶対に嫌だった。
 悪い予感で一杯になりながらの押し掛け。
 掛からない。。。
 悲惨な気分になりながら、坂のきつい場所に移動しての押し掛け。
 掛からない。
 祈るような気持ちで、もっと加速付けて押し掛け。
 ブー、、、ボン、ボンっ、ボボボボ。
 掛かった。助かった。。

 エンジンが掛かると、バイクは何事もなかったかのように走り出した。ちなみに、この後は一度もバイクに不調はなく。半年経った今日に至るまで全く快調に動いている。どうしてあの時止まってしまったのかは分からない。
 峠を抜けてもしばらくはガソリンスタンドがなく、最初に目に付いたスタンドまで平坦な道を何分走っただろうか。スタンドの明かりが見えてほっとする。バイクの調子が悪いかもしれないし、そうであればエンジンを止めるのは怖いがそうも言っていられないので給油することにした。冬の雨の日に荷物満載のバイクへ給油するのは本当に面倒だ。バイクを止めて、手袋を外し、カッパの下の防寒のツナギの下から財布を引っ張り出し、ネットを外してタンクの上の荷物を一旦下ろして、それからようやく通常の給油手順をはじめることができる。何もかもが濡れて冷たくて不快だ。
 ガソリンは3リットルも入らなかった。「こんなちょっとの給油ですみませんね。峠でなんとなくガス欠が不安になって思わず寄っちゃいました」僕は多少ほっとしたのもあってアルバイトの店員にそう言った。「そうでしょ、あの辺全然なんにもないですし」

 給油後、エンジンはキック一発で掛かり、一旦冷えてしまうと掛からなくなるかもしれないというのは杞憂になってくれた。オッケー、エンジンは快調みたいだし、ガソリンは正真正銘の満タンで、そして峠は終わった。あとは都市とはいかなくても田舎町とか市街地とか、いわゆる国道沿いを走るだけだ。
 山の向こうとこちらで気候が違うのか、それとも夜が深まりつつあるせいか、スタンドを出て20分ほど走ると急激に寒さが浸透してきた。それまでは「寒いなー、まったく」という感じだったのだが、ここへ来ては「これは真剣に考えないと良くない気がする」というシリアスな寒さに変化していた。相変わらず雨も降っていたので、僕は国道から左折して田圃の先に見えるアパートのピロティへ一旦避難することにした。荷物の中から予備の服を取り出して着れそうなものは全部無理矢理着込む。それからカバンの中を引っ掻き回すとホッカイロが3つ入っていたので、3つとも全部お腹の辺りに貼り付けた。峠を越えてから全然お店の類を見ていないが、次にコンビニとかドラッグストアとか何かがあったら絶対にカイロを買おう。引っ掻き回した荷物を再び整理して、それからカッパを着て、防寒用のフェイスマスクを付けて、僕はまた雨の国道へ向かった。

 ドラッグストアが見つかるまで、そんなに距離はなかったのだが、ドラッグストアに辿り着くと同時に雨が雪へと変わった。なんというか、「そうか、そうなるんだ」というような意味のない感想しか持てず、バイクを止めてカッパを脱ぎ、庇の下から僕はしばらく雪を眺めていた。積もったり地面が凍結したらお終いだ。店内に入ると、当たり前だけどそこは普通のどこにでもあるドラッグストアだった。ちょっと広くて、薬の他にお菓子とか食べ物とか、洗剤とかゴミ袋とか化粧品とかシャンプーが売られていて、蛍光灯が明るく隅々まで照らし、お得だという何かの情報やチェーン店独自のヘンテコな歌が流れていて、何人かの買い物客が日常的な買い物をしていて、パートナー社員という良くわからない肩書きと苗字を書いたバッジを白衣に付けた店員がその相手をしている。そして暖かい。
 体の芯が冷たくて、店内の暖かい空気がはっきりとしたエネルギーの流れとして入ってくる。カロリーが必要だ。僕は貼るカイロを10個、それから靴の中に入れるカイロを10個の他にチョコバー2本とホットココアを買って食べた。カイロをウェアの下に貼り、ブーツの中にカイロを入れる。ブーツの中はすでに濡れていて不快だ。快適さという観点からして、今はどこにもポイントを稼げるところがなかった。寒さも雨も雪も暗さも重苦しい服もブーツもメットも全てが不快だった。

 とりあえず体が温まり、ある程度のカロリーも摂取したので、ついでにトイレを済ませてからドラッグストアを後にする。すでに濡れているカッパを着ると不快さは一層強まり、シールドに張り付く雪もさらに不快だった。道路に落ちた雪はすぐに溶けていき、今ならまだ走れる。とりあえず先を急ごう。腹部に貼り付けたカイロは低温火傷でもしそうなくらいに暑かったが、ブーツの中のカイロは湿気ですぐにダメになったのかほとんど何の役にも立っていなかった。しばらくして雪が止んでくれたのは幸いだった。いつ上がったのか忘れてしまったけれど、四日市に入るまでには上がっていたはずだ。四日市に差し掛かって、夜の工業地帯に見とれそうになっていたときは雪はすでに上がっていた。
 この後は蒲郡まで一度コンビニで休憩を挟んで国道を走るだけだった。ホテルに着いたのは11時半くらいで、僕は部屋に入ってすぐにシャワーを浴びた。この日一番幸せだった瞬間は暖かいお湯を浴びたこの瞬間かもしれない。そのあと、近所のコンビニで買った唐揚げとか焼きそばパンとかとにかく脂っこいものを大量に食べ、そして普段は絶対に見ないどうでもいいバラエティ番組でタレントがベビー用品店に行ったりするのを眺めて、どうにかカッパやブーツの手入れをしてから眠った。多分1時くらいに眠りに落ちたのではないかと思う。そうして寒い夜は終わった。

 (その2へ続く)

color me pop

2015-06-19 23:52:17 | 東京日記
 飛行機が離陸するとき、いつも鳥肌が立つ。地面から足が離れてしまう恐怖からでも、閉所に閉じ込められた恐怖からでもなく、この巨大なテクノロジーの塊が纏っている人類の知力と労力に圧倒されるからだ。航空力学、ジェットエンジン、構造設計、素材、塗料、制御系。翼の付け根に掛かる応力をイメージする。軽量化と剛性を実現した機体に走る微かな歪みをイメージする。エンジン内部の高温に晒された金属部品たち。さっきまで巨体を支えていたタイヤが機体へ格納される音がする。管制塔のレーダー。交信。奇跡だ。僕たちは、歴史のはじまりにおいて木と草と石と水と土くらいしか持ってなかったのだから。どうしてこんな遠くまで来ることができたのだろう。フラップの角度が変わる。制御系を完璧に動かしている電子回路。超高密度で集積されたチップ。論理ゲート。半導体。ドープ。電子の動きを計算する第一原理計算。窓の外は何度で何気圧だろう。コーヒーを飲みながら映画を見つつ思う。僕は今テクノロジーに守られていて、それなしには生存することができない空間にいると。

 でも、まだこのまま月へすら行けない。
 飛行機は、別の空港へ、地上へ戻るのだ。

 振り返ってみれば、子供のときからずっと世界の外側へ行きたかった。
 自分の遥か遠い子孫に当てて、「タイムマシンで迎えに来るように」という手紙も書いて引き出しに保存していた。指定した場所はその手紙を書いていた場所で、指定した時間は手紙を書き終えた1分後だった。つまり僕はその手紙を書いた1分後にタイムマシンに乗って未来へ行くはずだった。なぜだか分からないのだけど、タイムマシンは来なかったから、僕はまだこの世界にいる。その所為で引き出しにしまっていた手紙はなくしてしまった。
 スターウォーズという映画をはじめて見たとき涙が出そうになった。
 ジョージ・ルーカスは「(もちろんフィクションだが)これは大昔に起きたことだ」と言った。そして僕は、宇宙はとんでもなく広いのだから、大昔ではなく今この瞬間にこういうことをしている宇宙人たちが本当にどこかにいるに違いないと思った。
 けれど、僕は彼らに会うことはない。

 なにせ、まだ月へすら行けないのだから。

 僕は地球に閉じ込めらていて、さらに現代に閉じ込められていた。長ずるにつれ、それどころか自分の知覚や肉体にも閉じ込められていることが分かってきた。せめて考えることは自由だと思っていたら、その考えというものも檻の中だとポストモダンは痛いほど教えてくれた。

 見えないものが見たかった。
 思考し得ないものを思考したかった。
 そして、語り得ないものを語りたかった。

 同時に、地球も現代も知覚も肉体も、全部が素敵な体験をもたらしてくれる大事なものだった。あっちの世界が見たいのと同じくらい、この世界のカラフルにも心打たれていて、単に人を驚かしたりもしたかったし溢れる色彩を見たり見せたりもしたかった。遠くの天体の写真を眺めることと、拾った木片を削ることは同列ではないが全く性質の異なるものでもなく、うまい具合に僕の中で共存していたのだと思う。だからパーティーも開いたし、インスタレーションもしたし、便利グッズを買ったり、美術館へ行ったり、ハイキングも開催して、夏には花火も見上げた。

 2011年3月、僕は溢れる色彩のことを大事だと思えなくなった。いちいちミルでコーヒーを轢かなくなってインスタントコーヒーを飲むようになった。黒い服ばっかり着るようになった。日常の小さな喜びなんてどうでもいいと思うようになった。
 大事なのは力だ。世界は底が抜けている。圧倒的なものは圧倒的でないものを一瞬で駆逐する。ミサイルはオートクチュールを一瞬で飛び散る灰に変える。
 どっちみち潮時だったのだろうけれど、僕は研究室を辞めた。

 それからの4年間は、まさに糸の切れた凧だった。とは言っても結局は京都にずっと留まっていて、概ねは楽しくハッピーに過ごして貴重な体験も積み重ねた。江戸の後期かもしれないというスーパー古い家にもみんなで住んだし、線路沿いで新幹線もSLも見える家にもみんなで住んだし、中国にも韓国にも香港にもアメリカにも行ったし、観光名所になっている神社の階段も作らせてもらった。なんだかんだたくさんの人に会った。
 けれど、やっぱり僕はどこか虚ろで、現実を支配している力というものばかりが気になっていた。

 4ヶ月前に東京へやってきて、どうしてか感じる懐かしさのことを不思議に思っていた。少しして懐かしいのは不思議でもなんでもないことが分かった。僕がかつて長い間見聞きし、あるいは憧れていた音楽や物語の舞台は東京だったからだ。インターネット前夜のテレビと雑誌が支配する世界では、東京の中心性というものは今より強かったのかもしれない。僕は良くも悪くもそういう時代を生きて来た。
 渋谷という無数の他人たちが歩く都市を歩くとき、不思議と感じる街への親近感はそういった何十年か積もった「文化」のせいだろうか。もう夜は8時を過ぎているが、それでも東京は夜の7時で、すでに誰も舌を噛まなくなったくらいに変な名前が日常に浸透した女の子が切りすぎた前髪のことを歌っているのを聞いて、バスルームで髪を切る100の方法が頭を過る。
 そうして、過去のあるフルカラーに直接リンクした現代の止まらない都市は、一歩歩くたびにポスターカラーのしぶきを跳ね上げ、真っ黒だった僕のTシャツにはいつの間にか色が付いていた。この夏は花火を見上げるだろう。インスタントコーヒーは飲むけれど。

オン・プレジャー・ベント ~続・カラー・ミー・ポップ
フリッパーズ・ギター
ポリスター

東京ハイパーリアル:彼女はシミュラークル

2015-03-26 00:05:54 | 東京日記
 東京の空気の匂いは独特かもしれないが、それは自動車の排気ガスの所為ではなく地下から微かに立ち昇って来る下水の臭いだ。大都市1300万人が地面の下に押し込む糞尿と汚水が、無機素材で覆われた街へ漏れ出している。人口密度が高いなら、当然それに伴う有機的排泄物の密度も高い。高層ビルの全ての階にトイレがあるというのがどういうことか分かるだろうか。壁の中を誰かのウンコが流れているということだ。大地は言う。壁の中の汚水をイメージせよ。アスファルトの下の糞便をイメージせよ。無機都市の皮の下張り巡らされたまるで有機的な血管とその中身。
 大地は常に何かを語り掛け、僕達はコンビニで耳栓を買う。ドラッグストアでマスクを買って電気屋で空気清浄機を買って百貨店でパフュームを買う。
 地面の下なんて気にすんな。ハチきれんばかりのSHITなら気にしなくてもどこもかしこもコンクリートで固めたから心配ない。バッチリ決めたメイク取って欲しいって冗談かい。えっ、このハンバーガー何からできてるか聞きたいって? 言ったじゃないか、ここは記号都市、ハンバーガーは「ハンバーガー」。「みんな大好きハンバーガー!」何からできてても同じことさ。値段は違っても味は同じ。名前が違っても味は同じ。
 記号的都市関数。入力するのは変数it's YOU。複雑怪奇な非線形は誰も予測できない複雑系で手掛かりになるのは青い月明かりとパルス応答。叩いてみなきゃ、何が出るか分からない。強すぎるパルス入力は糞尿の噴出を招くだろうか。でも中身は空っぽだという表面的なアメリカ人は銀色のカツラを着けてかつてこう言った。

「15分だけなら誰でも有名人になれる」

 >パルス面積を指定して下さい:
 >パルス幅を指定して下さい:

 何年か前に、「くう・ねる・のぐそ」という35年間ずっと野糞をしている人の本を読んだ。著者の伊沢正名さんは変わっているかもしれないが、別に変態ではなくて1つのポリシーの下、努力して野糞をし続けている。数十年間ずっと意識的に外で排便し続けるのが現代社会においてどれだけ大変なことか、ちょっと想像すると分かるはずだ。渋谷の本屋でトイレに行きたくなったらどうしたらいいのだろう。山手線に乗っていてトイレに行きたくなったらどうすればいいのだろう。どこでなら僕たちは堂々と屋外で排泄できるのだろう。
 彼がどうしてこのような努力を続けているのか、もしかしたら簡単に予想がつくかもしれない。人間が排出した有機物は自然のサイクルに返すべきだというのがその理由で、もっともだと思う。口に入れる食べ物にだけ、オーガニックだの添加物なしだの、あれが健康的でこれはダメだとか神経を使うくせに、出す方は全く無頓着でトイレをフラッシュした後はもう頼むから消えてくれその先は考えたくもない、というのはかなり傲慢でアンバランスだ。オーガニックでエコとか言いつつ、実は独善的なだけだ。都市に住む人間は外で排便することを許されていない。それはとりもなおさず都市生活者の生活が自然界から隔離されているということで、どれだけ有機野菜食べようが、ヨガでもやってみようが、僕たちは大地から遠いところで生きていて、そしてそれは僕達が望んだものだった。
 だから否定しようなんて思わない。メガロポリスの虚構で支えた装飾とその危うさを美しいとも逞しいとも思う。肌荒れを隠す為に塗りたくったファンデーションが効かなくなって遂に真夜中のクラブとバーしか行かなくなって明るい昼間どこで何してるのかちっとも分からない昔土曜日の夜にときどき話した女の子のことを思い出す。いつあの子は帰ったのだろう。
 5時になって名残惜しいんだか、もうここまで来たら最後までいるけど実際のところは疲れてて早く終わって欲しいんだか分からない最後の曲が掛かって終わって、照明が明るくなってせっせとカップと吸い殻が集められて床がスイープされてついでに吐き出されるように出てきた通りには次の日の微かな明かりが東の空から侵食している。自動車はまだ少なくて、僕達は帰りたくなくて、早朝勤務の寝癖頭の店員がすっぴんのメガネで打ってくれるコンビニのレジで缶コーヒーを買って川辺りへ腰を下ろした。地面はまだ夜中のように冷たくてお尻がパンツまで湿っぽくなってくるのは時間の問題だろう。うすら白い僕達の顔。目の下にはクマ。伸びた無精髭。崩れ落ちたメイク。肌にベタつく汗はタバコの煙が溶けこんできっとひどいニオイだろう。帰ったらシャワーを浴びよう。タバコのニオイの汗は下水に流れ込み。またこの都市のどこかで誰かの脳裏を過るに違いない。朝が来た。

ヤマケイ文庫 くう・ねる・のぐそ 自然に「愛」のお返しを
山と渓谷社


消費社会の神話と構造 普及版
紀伊國屋書店