スマイル。

2006-06-28 11:58:45 | Weblog

 世界というのは結局のところ、大地と水と空気でできている。
 僕らはそれを耕し、食らい、飲み、呼吸するのだ。

 だから彼女に夢も目標もやりたいこともなく、単に「わたし、
別になんにもしたいことないし、別に普通に生きていけたらいい」
というだけであっても、それは至ってまっとうなことだ。

 僕らはこの地球に住む生物の一員として、御飯が食べれて、
眠るところがあって、良き伴侶があって、子孫が残せれば、
はっきりいってそれで十分なのだ。
 十分。完璧でパーフェクト。

 「それでは十分ではなくて、大きな夢や希望を抱かなくては
 ならないのです。特に子供たちよ。ボーイズビーアンビシャス。
 有名になってみんなに憧れられる人になりなさい。社長になって
 世界シェアを独占しなさい。あー、先生は悲しい、田島くん、
 もっと大きなことを書きなさい、もっと、サラリーマンって何。
 大きくなったら本当にサラリーマンになりたいの。もっと、夢は?
 本当にしたいことは? 宇宙飛行士とか野球選手とか」

 「それじゃ、僕は地球防衛軍になりたいです」

 「田島くん、ふざけちゃだめでしょ、これは真面目な話ですよ。
 ちゃんとした将来の夢を言いなさい。夢を」

 「だから僕は地球防衛軍になって世界中の人々が平和で愛に
 満ちた暮らしを送れるようにしたいです」

 「そんな地球防衛軍なんてないでしょ、高校生にもなって何を
 言うんですか」

 「だから僕が作るんですけれど」

 「作るも何も、大体地球防衛軍って何ですか? そんなの要るんで
 すか? 世界を平和にしたいなら政治家にでもなって良い意見を
 いっぱい言って平和にしたらいいじゃないの」

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 新しいクラスの仲間に自己紹介をしましょう!
 
 名前:     田島祐介
 性別:     男
 年齢:     16歳
 好きな食べ物: 烏賊
 嫌いな食べ物: 蛸
 尊敬する人:  弟
 宗教:     神道
 長所:     猫が好き
 短所:     ウナギの絵が下手
 得意科目:   美術(ウナギの絵は除く)
 苦手科目:   体育
 趣味:     ウナギの絵を描くこと
 特技:     洗濯とチョウチョの観察
 将来の夢:   うどん屋さん

サーファーガールと幻の犬。

2006-06-23 15:49:48 | Weblog
 たびたび昔の作文を載せるのは抵抗がありますが、僕は今から出掛ける必要があって、今日はもうパソコンを触れない可能性が高いので、その前に無理やりな更新をします。これも、もう2年くらい前の作文です。
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 中学校に上がった時、新しい国語辞典を買ってもらった。岩波の白い国語辞典。
今でも僕はその辞典を部屋に置いていて、時々はそれを引く。裏側には汚い字で
自分の名前が書いてあるし、一時期は鍋敷として利用していたので何かの食べ物
でできた染みが付いている。

 その国語辞典を見て、僕は少しだけ不安になった。

 「僕たちは毎日、ほとんどこの小さな(本としてはまあ大きいけれど)本に書か
 れた言葉だけを使って話をしているのだ」

 一体何語収録されているのか知らないけれど、一冊の国語辞典に書き切れる
言葉なんて高々知れている。それらの順列組み合わせなんて、この複雑な僕らの
人生と人間関係と感情を表現するにはあまりにも貧弱に見えた。
 英語を勉強しているともっと酷い不安に駆られる、こんな簡単な言語で一体何
が伝わるというのだろうか。

 当たり前だけど、言語というものは人間に内包されるものであって人間を内包
するものではない。だから言葉で僕らのコミュニケーションを完璧にするなんて
不可能な話だ。

 僕の大学にはインターフェイスの研究室があって、そこでは手話の翻訳システ
ムの研究が行われている。僕はそこの学生ではないし詳しくは分からないけれど
手話を翻訳する時は話者の手の動きに注目していても駄目らしい。大切なのは
話者の表情やなんかのノンバーバルな情報まできちんと読み取ることだという。

 それはまあ手話ではない会話でだって同じことで、すこし考えてみればよく
分かる。ウェブやメールの発達で、ノンバーバルな情報が削ぎ落とされた文字
列のみによるコミュニケーションが増えると、人は顔文字という特別な記号を
生み出してそこにノンバーバルな情報を少しでも乗せようとした。

 言葉というのは、この世界を表現するための試みではあるものの、実はこの
世界とどこかでしっかり繋がっているというわけではない。
 言葉は言葉だけで閉じた系を成していて、それに尚悪いことにその系は完全
ではない。完全でないどころかものすごく不完全で、言葉という系に含まれる
任意の要素を他の要素で表現することが不可能であるというどうしようもない
ぐちゃぐちゃさ。
 例えば「ニンジンは野菜です」というのはニンジンの完全な説明にはなって
いない。野菜はニンジン以外にもたくさんあるし、ニンジン=野菜ではないか
ら。「ニンジンは赤いです」も説明にならないし、組み合わせて「ニンジンは
赤い野菜です」でも足りない。「ニンジンは赤い根菜に属する野菜です」でも
足りない。
 ここで、岩波国語辞典題4版を引いてみると

 にんじん(人参)?せり科の越年生の野菜。根は普通は赤く、食用になる。
         ?「ちょうせんにんじん」の略。

 と書いてある。
 でもこれがイコールでニンジンではない。いくら言葉を尽くしたところで
ニンジンを他の言葉を用いて本質的に表すことは不可能なのだ。結局、我々
に言えるのは「ニンジンとはニンジンである」ということに限られる。
 もちろん、これでは話にならない。

 アリス  「お母さん、ニンジンって何?」

 母    「野菜ですよ」

 アリス  「ああ、大根とかキャベツとか」

 母    「違います。お馬さんが食べるやつですよ」

 アリス  「ああ、そこらに生えてる草」

 母    「違います。お馬さんが好きな野菜があるんです。
       赤いのよ」

 アリス  「そうなんだ。赤いお馬さんが好きな野菜がニンジ
       ンなのね。また一つ賢くなったかしら」

 ―アリス、舞台中央できらめきのポーズ。
 ―ステッキおじさん、右袖から出て来てアリスに話し掛ける。

 ステッキ 「もしもしお嬢さん、ニンジンとはセリ科の野菜
       ですよ。色はオレンジです」

 アリス  「ええっ! でも、お母さんが赤いと」

 ステッキ 「いえ、あれは断じてオレンジなのです。それに
       私はもう長年馬の世話をしていますが、3年前
       の秋にうまれたクッキーはニンジンを食べませ
       んでした」

 アリス  「そんな! お母さん、私を騙したのね。ひどい。
       クソババア!!!」

 ―アリス、母を睨み付ける(2分ためる)

 母    「いえいえ、何をいうのですか。そんな下品な言葉
       を使うものではありません。ニンジンが嫌いな馬
       だってときどきはいるかもしれないけれど、でも
       だいたいは好きなのよ。それに色は赤とオレンジ
       の間みたいな色だからどっちとも言えるのよ。も
       う、あなた余計なこと言わないでくださいます」

 ―ステッキおじさん、ステッキを30回回して帽子を脱ぐ。
  そして、また被る。

 ステッキ 「余計なことではありません。子供たちに、私はこ
       の世界の真実を教えたいのです。よその子供に
       だって、目をつむるわけにはいきません。
       お嬢ちゃん。ニンジンには緑の葉っぱも生えて
       いるんだよ」

 アリス  「そんなばかな。ニンジンは赤ではないの?」

 母    「それは葉っぱは緑ですわ」

 アリス  「ニンジンって、セリ科の野菜で赤でオレンジで緑の
       葉っぱが生えていて馬が好んで食べて好んで食べな
       い馬もいるものなのね」

 ステッキ 「いえいえ、それだけではありません。ニンジンには
       カロチノイドという栄養がたくさん入っています」

 アリス  「そんな。お母様は何も教えて下さらなかったわ。
       お母様。お母様はなんて酷い人なの、私を騙して。
       もう顔も見たくない」

 ―アリス、走って左袖にはける
 ―舞台暗転。
 ―アリスが一人で森の中を歩いていると座禅を組んだ老人がいる

 アリス 「ああ、お母様はなんて悪いのでしょう。私を騙して、
      本当のことを何も言って下さらない」

 賢者  「お嬢ちゃん、お母さんのことを悪くいってはならん」

 アリス 「でもお母さんは私にニンジンがなにか教えてくれなか
      ったの。騙したのよ」

 賢者  「お嬢ちゃん、この世界には大人にならないと分からない
      ことがたくさんある。ニンジンが何かを説明するのは
      とても難しいことなんじゃよ」

 アリス 「そう。私には簡単に思えますわ。賢者様にも難しい
      のですか? 賢者様が教えて下さい」

 賢者  「ニンジンとはニンジンである。これが真理じゃ。他は
      まやかしにすぎん」
 
 アリス 「賢者様からかってるんですか」

 賢者  「いや、言葉というのは空虚なもので、こうとしか言いよ
      うがないのじゃよ。ニンジンとはニンジンである」

 ―アリス、悟る。

 アリス 「ニンジンとはニンジンです」

 ―母、アリスに追いつく

 母   「もう、アリス、心配しましたよ。ほら、本物のニ
      ンジンをピーターさんに貰ってきました。ニンジ
      ンというのは」

 ―アリス、母がニンジンを取り出そうとするのを遮って言う

 アリス 「いえ、いいのお母様。私、もうニンジンがなにか
      分かりましたわ。ニンジンとはニンジンである」

 母   「それでは答えになっていないわ、アリス、これを
      見なさい」

 アリス 「ニンジンとはニンジンである。アリスとはアリス
      である。母とは母である。森とは森である。宇宙
      とは宇宙である。アハハ。私わかっちゃった!」

 ―アリス、おおはしゃぎ。

10000。

2006-06-22 15:00:25 | Weblog
 Nからの電話で飛び起きて、僕は大急ぎで服を着て部屋を飛び出した。まだ朝は早く、6時をいくらか回ったばかりだったけれど、それでも僕達にとっては遅刻ぎりぎりの時間だった。でも、もちろん遅刻はしなかった。カラスたちが大暴れするゴミ袋の横を、僕達は急いで駆け抜ける。

 そうして、僕の10000日目は始まった。
 僕は1979年の2月4日に生まれ、そして今日2006年6月22日はちょうど生まれてから10000日目に当たるらしい。らしい、というのは僕にその確信がないからで、T君が教えてくれた、今日が生まれてから何日目か算出してくれるサイト(http://www.110kz.com/001/count.htm)で結果を見ただけだからだ。でも、多分それは正しく組まれたプログラムだろう。それに数日違っていても、別に大したことではない。

 外では強い雨が降っていて、僕は研究室にいる。時間は午後の2時を10分ほど経過したところで、今日はまだたっぷりと残っている。しかしながら、天気予報によれば今日は西日本で大雨の恐れがあるということだ。それでも、僕は今夜ある場所へ向かうだろう。雨が奇跡的に止んでくれれば、それはそれで嬉しいけれど、考えてみれば雨に濡れるくらいなんでもないような気だってする。

 10000という数字には何も特別な意味はない。でも、だいたい30000日くらいで寿命を迎える僕達にとって、これは人生の3分の1が終わったということを意味する指標ではある。だからどうなのかは良く分からない。これまでの10000日が長かったのか短かったのかすら、僕には良く分からない。

 昔、父親に「人生というのがだいたい何秒間なのか計算してみなさい」と言われて計算したことがある。だいたい25億秒だった。72万時間。30000日。
 これも別に、だから何だ、という数字に過ぎない。だいたい30000日あることすら保障されていないし、もしも30000日あったとしても、僕達の人生というのは結局のところ時間によって測定できるものではない。それから、多分死んだらそれまでだというほど単純なものでもないんじゃないかと思う。

 僕は小学生のとき少年探偵団をやっていて、とても沢山の小道具を常に持ち歩いていた。ナイフ、ライト、防水マッチ、方位磁石、パチンコ、ビー球、手帳、ペン、針と糸、火薬、IDカード、鈎針付きのロープ、ファーストエイドキット、望遠鏡、ルーペ。他にも子供っぽい道具がいくらかあったと思うけれど、もう思い出すことができない。銃刀法は違反していたし、今だったら凶悪犯罪を起こしそうな子供だと思われたかもしれない。でも、もちろん僕はどこにでもいる普通の子供だった。ただ、探偵ごっこを本格的にしていただけだ。事件のない田舎の小さな町で、僕らは無理やり事件の断片を見つけては、そこらじゅうを探検していた。

 道具をたくさん持っている。という癖はなかなか抜けなくて、それは中学生のときにもよりシンプルではあるものの続いて、その頃僕はDIYショップで小さなツールセットを買った。よくあるペンチとナイフが一緒になったような折り畳み式のもので、たぶん800円くらいの安い物だ。
 実は、僕は今もそれをポケットに持っている。もう10年以上使い続けていることになる。

 物を長い間使い続けるということには、独特の何かがある。たぶんそれはいいことだとも思う。すでにあるものを使い続けたり、あるいは偶然手に入ったり、もらったりしたものを使い続けることは、気に入った物ばかりを手に入れて使うことよりもきれいだと思う。ブリコラージュとまではいかないでも、あるものをうまく使って生きていくことは悪いことじゃない。あらゆるインテリアを自分の好みにした部屋よりも、たとえばそこに掛けられたカレンダーは近所の酒屋でもらったやつだ、というような部屋のほうがなんとなく美しいような気がする。
 物の価値というのは、生活に思ったよりも強く密着している。たぶん、買い取った後の「ととやの茶碗」はもう美しくない。

散歩の途中で座り込む大きな犬。

2006-06-21 15:14:45 | Weblog
 少しばかり忙しくて、またしても昔出していたメールマガジンの文章です。
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 録音された自分の声が自分の思っていた声と異なっている、というのは
良く知られた事実だ。
 それは普段、自分の発話を聞いているとき、実際に口から空気中に
出ていった音の他に、声帯から骨、内耳へと伝わる骨導音も一緒に聞い
ているためだ、というのも良く知られた事実で、一般常識だといっても過
言ではないくらいにこの知識は世間に浸透している。

 つまり、他の人が聞いている自分の声はいつも自分自身で聞いている声
とは違うものなのだ、と僕らは当然のことと認識して生活しているわけだ。

 ここにもうひとつ、僕らが当然のことだと思い込んでいることがある。
 それは、自分の声が録音可能である、ひいては録音装置とその再生
装置がこの世に存在しているということである。

 トーマス・アルバ・エジソンが蓄音機を発明してメリーさんの羊を吹き込ん
だのは1877年のことで、磁気テープを用いた家庭用の録音システムが
オランダのフィリップス社から発表されたのはそれから大体100年後の
1970年代のことだ。
 歴史的にみて、自分の声を録音して聞いたことのある人間がこんなに
たくさんいる世界というのは極々最近の特異的なものである。
 それ以前に生きていた人々は、誰も自分の声を録音して聞いたことが
なかったし、それがどういうことかというと、誰も自分の本当の声が普段
自分で思い込んでいるものと違っているのだと知らなかったということだ。
 毎日、誰かと会話をしているくせに、本当に文字通り誰も気が付かなか
った。ダヴィンチもニュートンもパスカルも、イエスもゴータマも、シェーク
スピアも聖徳太子も吉田兼好も家康も、誰一人として他人が聞いている
筈の自分の声というものを知らないで、それどころか思い込みの声と現
実の声が違っているのだということにすら気が付かないまま死んでいった
のだ。

 ちょっとぞっとする。
 人の認識能力の限界や無知は恐いものだと思う。
 鏡が世界に存在していなくて、ほっぺたにふてぶてしいヒヨコの刺青が
入っていることに気が付かないまま人生を終えたということだ。
 いや、刺青ならば誰かが「キミの顔にはヒヨコが、しかも、ふてぶてしい」
と指摘するであろうが、声の場合はそうもいかない、誰もまさか本人は
違う声を聞いているのだとは思わなかったのだから。

 蓄音機以前以後で、世界は全く変わった。
 レコード、テープ、CD、MD、MP3、ICレコーダ、録音された音と、録音
されるべき音が現代には溢れ返っている。もちろん、録音されるべき音
は大昔にも存在していたけれど、それらはすべて消え去った。
 僕らはモーツアルトの演奏を聞くことはできないが、ジミヘンがウッドストッ
クでやった演奏は間接的にであろうが兎に角聞くことが出来る。
 だけど、変わったのはそういった表面的なことだけではない。
 僕らは自分自信の声に関する認識を、蓄音機以前以後で本当に大きく
変えたのだ。
 時々、科学技術の進歩はこうやって僕らの自己認識を書き換える。たぶん
僕らはまだ自己に関する無知の海に溺れているのだろう。あの子は左の耳
たぶの後ろに小さな黒子があるのを知らなかった。僕は昨日飲み過ぎてゲロ
を吐いたが、当然胃袋までは吐き出さなかったので胃袋が本当にピンクなの
どうか知らない。左右が反転しない鏡をはじめて見たとき、私の顔はこんなで
はない、と母親は言った。

 次の、蓄音機のような発明はなんだろうか。
 最近ではDNAの解析が進んで、自分自身の大まかな設計が分かるように
なってきてしまい、自分のDNAを「知らない権利」が提案されている。
 科学技術が拡張する自己認識の末、やがて僕は自分がどこにもいないこと
を知るのかもしれない。

ベーグル。

2006-06-19 15:19:35 | Weblog
 すっかり忘れていましたが、昨日から「100万人のキャンドルナイト」なんですね。18日から21日の間、夜8時から10時までは電気を消しましょう、というやつです。
 参加しようと思います。
 詳しくはこちらをどうぞ。
 1000000人のキャンドルナイト

 先日、下鴨本通りでIさんに偶然会って、少し話をしていると、どうやら今年の「山人水」にもゴア・ギルが来るということだった。最近あまりイベントへは行かないけれど、山人水にはまた行ってもいいかなと思う。

 そうだ、去年の山水人の日記がここにあります。

 http://blog.goo.ne.jp/sombrero-records/e/7cc1b67d5a203c9ea3871d14f683c1f0

 あと、写真と動画も一応あります。あまり雰囲気を伝えることに成功してはいませんが、

 http://www.goagil.com/photogallery/Yamauto-Kyoto-10-September-2005?page=1

 もうあれから一年近くが経過したのか、と思うと感慨深い。

 昨日はワールドカップの日本vsクロアチア戦で、でも、僕は見なかった。サッカーが好きだと思っていたのに、見なくても別段なんてことないので、実はそんなにサッカーが好きじゃないのかもしれません。
 4年前のワールドカップは、友達の部屋へ観戦しに行く途中、バイクで事故をして、なんだか落ち込みながら大学の食堂で後半だけ見たのを覚えている。バイクはバイク屋へ持っていくと、もう廃車ですね、と言われて何もしてくれなかったので、ヤフーオークションで部品を集めて自分で修理した。ケガはほとんどしなかったけれど、相手の車が大きく凹んでしまって、色々と面倒だった。

 もうあれから4年経つのか、と思うと吃驚するしかない。

 そういえば、土曜日はファッションカンタートに誘ってもらって行ったのですが、これも去年も行った。季節とか時代とか色々なものが回っている。

バスケットにサンドイッチ。

2006-06-18 18:55:01 | Weblog
 夏が始まったと言うのに、なんとも運悪く僕のシャワーは壊れてしまった。でも、幸いなことに、中を開けてあちこちテスターで調べたりしてみると、モーターを逆転させるリレーが壊れているだけだったので、今日電子パーツ屋に行って新しいリレーを買って取り替えました。もちろん、パーフェクトにシャワーは動作を再開し、僕は嬉しくなってシャワーを浴びた。これで夏はどうにかきれいに回転してくれるだろう。

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 オイラーは間違いなく数学史史上で最も偉大な数学者の一人だけれど、彼は亡くなる十何年か前に失明している。それでも晩年まで研究を続けたらしい。目が見えないのに数学の研究をするということは、紙も鉛筆も使わないですべて頭の中で計算を行うということだ。信じられない。5行前の式変形に間違いがないかどうか頭の中でチェックできたのだろうか。
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 バス停でバスを待っていると、こんな表示が目に入った、

「バスの中は禁煙となっております」

 なっておりますって、何も禁煙は既成事実ではなくて、バス会社が決めたことなんだから「しております」とかにしないとおかしいのじゃないだろうか。責任を自分のところからどこかへ誤魔化す表現だとしか思えないし、こういうのはよく見かけるけれど、はっきりいっていい気はしない。

 電車の中での携帯電話禁止が「ペースメーカーの誤作動を防ぐ」為だとか、嘘か本当かよく分からない理由で禁止を正当化しようとする傾向がここのところ強いと思う。それは先日も書きましたが、僕達の行動に何故か理由が要求され、人々は理由なしには動いてくれない、という一種の流行によるものではないかと思う。もちろんその理由の後ろ盾となるものが一体何なのかというと、それは良く理解されない、というか中には何も入っていない謎の箱なのだと思う。僕たちはその中に何か重要なものが入っていると思い込んでいる。

 2、3日前、大学の工房に無許可で木材を置いていると、

「防火上の理由から無許可で木材を置くことを禁じます」

 と張り紙をされた。
 無許可が駄目なら、別にそれだけ言ってくれば僕には十分だ。防火上の理由って、一体どういうことだろう。多分、放火されやすくなる、ということだと思うのですが、他にもたくさん木材は置いてあって、それらは許可を受けているのだろうけれど、べつに許可を受けた木は燃えない、というわけではない。
 本当のところは、単に駄目な物は駄目だ、というだけだと思うのです。

 物事を許可したり、禁止したりするのに、いつもいつも理由なんて存在しない。
 


線路の音を聞く方法。

2006-06-13 19:09:31 | Weblog
 昨日、とても遅い昼ご飯を食べながらテレビを点けてみると、「プロフェッショナル 仕事の流儀」というNHKの番組が流れていて、フューチャーされているのは建築家の中村好文さんだった。僕は漫然と見ていたのですが、彼が、

「どんな家が欲しいのか依頼者には分からない」

 と言ったときに、なんとなくどきっとしてしまいました。だから、中村さんはクライアントと、主に家の話ではなく世間話に近いものを交わす。そうして、クライアントが欲しいけれど、欲しいということにすら気が付いていないような家を提案する。
 デザイナーってそういうものですよね。

 この番組の司会は脳科学者の茂木健一郎さんだった。最近はよくメディアに登場してらっしゃいます。僕は10年近く前に茂木さんの著作から多大な影響を受けた経験があって、今もときどきブログをチェックしているのですが、茂木さんのブログに「やっぱり伊勢神宮はとても良い」ということが書かれていて、それを読んで単純に伊勢神宮へ行きたくなり、伊勢神宮のホームページを開いてみると恐ろしいことが書かれていました。

 
『神宮では年間千数百回ものお祭りが行われています。第10代崇神天皇の御代までは皇居内で天皇御自身が直接、天照大御神をお祭りされていましたので、神宮のお祭りの本義は天皇が親しく大御神をお祭りされるところにあります。ご神徳を称え奉り、ご神恩に奉謝されるとともに、国家の隆昌と国民の幸福をお祈りされるのです。』
 (伊勢神宮のサイトより引用)

 僕は最初誤植ではないかと思いました。最初の1文です(何もこんなに長く引用する必要はなかった)。

 『神宮では年間千数百回ものお祭りが行われています。』

 一年に千数百回?
 365日に1000回以上のお祭り。平均すれば1日3個以上のお祭り。

 少しだけ調べてみると、これは別に誤植ではないようです。
 1日に2回神様にご飯を差し上げるのですが、それもお祭りだということで、それだけでも年間730回のお祭りになります。もろもろの行事を入れればきっと1000回を超えるのだろう。

 どれだけ明確に意識しているかは別にして、僕達日本人はほとんど全員が神道の影響を受けた生活をしていて、そして伊勢神宮というのは神社の代表です。その代表が「一年に千数百回のお祭りしてる」とさらっと言ってのけるあたり、日本というのは結構ファンキーな国なのかもしれないなと思いました。

サマー・ナイト・スパイラス。

2006-06-12 18:50:49 | Weblog
 今日はすでに一つ記事を投稿したのですが、半分ただの文句みたいな感じになってしまったので、昔の記事も出してしまいます。

 これは「ロックンロールバンド」というタイトルで、僕が2004年の10月10日に書いたものです。
_______________________________

 あるアーティストのCDを聞いていたら彼はファーストアルバム
にもセカンドアルバムにもヒグラシの声をサンプルしたものを使っ
ていた。
 ヒグラシの声は僕も好きだし、それを使う気持ちは良く分かる。
ヒグラシの声を聞く時、僕は夕暮れの山並みをイメージし、半分は
そこに本当にいるような気分にすらなる。キャンプやなんかにいっ
たときみたいに。より厳密にいうと昔保津峡あたりの山の中を夕暮
れ時に歩いた光景と、もう一つ、本当に自分が見たのか只の空想に
過ぎないのかよく分からない海沿いの山並みを想う。

 でも、当たり前だけどあれは虫の声であって風景が鳴っているわ
けじゃない。勿論、風景が鳴っているというのもきれいなとらえ方
だけれど、小うるさいことを言えばヒグラシという虫が鳴いている
のだ。
 といいながらも僕はヒグラシの姿形を知らない。いつも勝手に
セミのような虫を想像して済ませてしまう(それで正解だけど、
実際に見たわけではない)。
 だから、もしかするとヒグラシというのはそんなに生易しい「セ
ミのような」姿ではなくてムカデとかエイリアンとかクモみたいな
恐ろしい形をしている可能性だってある。「なんてきれいな音なん
だろう」と思って音源を見付けるとそこには妖怪ザリガニ男のような
見るも恐ろしい異形の怪物が木にとまってカナカナカナと鳴いてい
る。ということだってあるわけです。
 そういう時僕らはどのようなリアクションをとればいいのだろう
か?

 お盆に訪ねると、従兄弟の家では巨大な虫篭にうじゃうじゃと
鈴虫を飼っていた。それはもう見るも恐ろしい虫篭ワールドだっ
た。僕は夕方早くに引き上げたのでその声を聞きはしなかったけ
れど、あの虫達だって日が十分に暮れれば夜通し美しい声で鳴き
続けるのだ。
 そして僕らはその声を「きれいな音だね」とスイカでも齧りな
がら聞くことになる。
 この場合をみると我々は「音」と「音源」を分離して捉えるこ
とに成功しているように見える。鈴虫の音を聞きながら談笑と
スイカの摂取に励むのはいいけれど、鈴虫の大群そのものを眺め
ながらスイカの摂取に励むというのはなかなか難しい。でも、
音が聞こえるということはそこに鈴虫の大群がいるということ
なのだ。但し、僕らはそのビジョンに蓋をすることができる。

 でもこのシチュエーションには条件がある。
 それは鈴虫の大群は虫篭から出ることができないという暗黙
の了解である。
 もしも部屋の一角にバーっと鈴虫の大群を放してしまったら
「きれいな音」も談笑もスイカも何もあったものではない。それ
はもう確実に地獄絵図を形成することになるし、スイカだって
鈴虫に齧られるに違いない。
 つまりビジョンに蓋が出来るのは虫篭の蓋もきちんとしまって
いる場合においてのみなのだ。

 ここで嫌われ者の虫代表ヤマトゴキブリが、みんな大好きな
バンド代表ビートルズの「Let It Be」各パートをそのままサン
プルしたような声で鳴くことを仮定しよう。
 彼らはコミュニケーションの為に鳴くので、自然とその鳴く
リズムは同調するものとする。ジョン・ゴキブリとポール・
ゴキブリとジョージ・ゴキブリとリンゴ・ゴキブリ(こんな
例え話思い付くんじゃなかった。まるでビートルズに対する
冒涜じゃないか。僕は彼らがとても好きです。)の4匹がそ
ろえばほとんど完璧な音でビートルズの演奏を聞くことがで
きる(もちろんボーカルも)。
 そうすると、良くないことがあって落ち込んで疲れ果てて
部屋に戻ったときに(運良く)このゴキブリ達4匹が部屋に
侵入していればチャラン、チャラ、チャランランラとCDを
セットしないでもレット・イット・ビーが流れてきたりする
ことだってあり得るのだ。
 
 ここで音楽の真価が問われる。
 もしも音楽が本当に世界を変える力を持っているなら、彼
はゴキブリ達の演奏に癒されて部屋の何処かに侵入して食べ物
を漁っているゴキブリ達を殺さないし、感謝すらするかもしれ
ない。ラブ&ピース! (多分ほんとうに落ち込んでるんだろ
う)
 でもロックが世界を救わないなら彼はすぐに殺虫スプレー
を世界で一番小さなロックンロールバンドに向けて発射する
だろう。それは核ミサイルの発射ボタンを押すようなものだ。

 そして残念ながらウッドストックは世界を救わなかった。
ロックンロールの95%はドルとかエンとかポンドに変わり
相変わらず世界は核兵器を持っている国が支配している。
 つまり殺虫スプレー大噴射ってことだ。

 そして虫篭に入ってきちんと蓋をされた音楽が鳴り響く。
 イメージには蓋がされている。

マグカップコレクション。

2006-06-12 13:45:11 | Weblog
 前々回の記事に、

 自動的にフィルターの掃除をするエアコンというのは、内部にゴミを溜め込むだけなのではないか?

 というようなことを書いて、本当に気になったのでネットで調べてみました。

 すると、製品はそんなに間抜けなことにはなっておらず、ゴミはお掃除の度に室外に排出される、ということです。排気と一緒に。微量なので問題はないということ。掃除というのはゴミをなくすことではなくて、どこかへ移動させることだ。
 それにしても、最近のエアコンというのはすごいですね。勝手にフィルターを掃除する。部屋の空気を24時間監視して、自動的に空気清浄をする。酸素を作って部屋の酸素濃度が低下すれば補充する。エアコン内部は高温にしてカビの繁殖を防ぐ。ナショナルのサイトを見たのですが、読んでいると欲しくなってしまいます。

 随分と前に、小説を書く、という話をしていて、僕は「何か訴えたいことがあるの? 何?」という質問をされて面食らいました。僕には特に人に訴えたいことなんて何もないからです。このブログだって別に、訴えたい、ことがあって書いているわけではありません。絵を描いている友達が、政府の奨学金を獲るために「自分の絵が何を表しているのか説明しなきゃならないんだけど、べつに何も表してないから困るのよね。適当に嘘を並べておくけれど」と言っていたけれど、製作というのはおうおうにしてそういうものではないかと思います。これこれと僕はこの作品を通じて訴えたい、というならば、別に作品なんて作らなくても拡声器を持って街を歩けばいい。

 もうすぐ鴨川でインスタレーションをしようと、今準備をしているのですが、別にそれについてもコンセプトみたいなものは何もありません。もしもコンセプトを僕がぺらぺらと喋ったならば、それは単なる出まかせだと思ってください。たとえば警察が来て怒られたりしたときに、僕はなるべく学術的な言葉を使ってコンセプトを述べたりするかもしれません。つまり相手を煙にまくための言い訳と大義名分です。

 それにしても、どうして、いつ頃から僕達の行動には「理由」が必要とされるようになったのでしょう。
 一昔前に、たぶん17歳だとか少年凶悪犯罪みたいなものがメディアでフューチャーされていた頃に「どうして人を殺してはいけないのか、あなたは子供に説明できますか?」みたいな質問がもてはやされて、ワイドショーやなんかで知識人が議論をしたりしていた時期がありますが、その前に「どうして人を殺してはいけないということに理由がなくてはならないのか」ということを僕たちは疑う。僕は別に理由があって人を殺さないわけではない。

 どこかの中学校の先生が書いた本を立ち読みしたことがあるのですが、それによれば彼の実感として「昔よりも今の子供の方が、納得しないと動かない」傾向にあるそうです。たとえばサッカーを教えるときに、どうしてこのようなバーの間を素早く通り抜ける反復練習が必要なのか、ということを理屈で説明して、それを「理解」した生徒はそれを積極的にこなすが、「理解」しない生徒は真剣に取り組まない。
 僕もそうだったので良く分かりますが、授業だって「あの先生の授業は意味がない。自分で勉強したほうがいい」とか「あの先生の授業は効率が悪い」だとか、生徒が教師を判定して、そして自分の裁量で国語の授業中に数学を勉強したりするわけです。
 もちろん、ときどきそれは有効に機能する。だけど、真に高級なことは「私にはその習得方法さえ理解することができない」という方法で伝授される可能性が極めて高い。自分で勉強方法や練習方法を考えて、それで上れる高みというものは勿論たくさん存在している。でも、自分一人で考えた方法では絶対に辿り付く事のできない高みというものもこの世界には存在していて、師というのはそこへ僕達を連れて行くべく存在している。
 だから、「意味のない授業」「意味のない練習」が本当に意味のないものなのかどうかは生徒には判断すらできない、ということが起こり得るし、基本的に生徒は師を信じる以外の立場を持たない。その意味で大人というものは子供よりも上にいる。

 それで、もしも「理解、納得しないと動かない」子供が増えているならば、それはこの世界が「子供の理解、納得できるレベル」で発展を止めてしまう可能性を示唆していて、それは示唆というよりも、僕には既にこの世界で実現されてしまった現実のような気がします。相手を論理的に納得させなくてはならない場合って結構多いですよね。論理って別に大事じゃない場合でさえも。しかも「子供でも分かるような」シンプルな理屈で。シンプルじゃないことだってたくさんあるというのに。

 
 

タイムマシンにのって。

2006-06-10 12:47:53 | Weblog
 またメルマガの再録です。
 月曜日に重要なディスカッションがあって、その準備に追われている上に、今日は夕方から出掛けるので、何か新しい日記を書くというわけにはいかず、でも、できる限り毎日ブログを更新しようと思っているので、無理やりですが、僕が2003年の8月1日に書いたものを載せてみます。実に3年の時間が経っていて、複雑な気分になる。昔の自分の労力を使うなんて。
 そういえば、ドラえもんで宿題に追われたのび太が、1時間後の自分、2時間後の自分、3時間後の自分などをタイムマシンで連れてきて、みんなで一気に宿題をやってしまう、というような話があった気がします。宿題はばーっとできるのですが、「できた」と喜んでしばらくすると1時間まえの自分がタイムマシンでやってきて、「宿題を手伝え」と言って来て、手伝いに1時間前にもどって宿題を済ませて、「ああ疲れた」といっていると、今度は2時間前の自分がまた「宿題を手伝え」と言ってきて、またタイムマシンで宿題をやりに過去に戻って、それを終えて「今」に戻ってくると今度は3時間前の自分が「宿題を」と呼びに来て、のび太は最終的にへろへろに疲れ果てるのですが、この話を考えただけでも藤子不二夫って天才だなと思った。

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 「数学は学ぶものではなく、もともと君達の頭の中に存在するものです」
 と言いながら、僕らが線形代数を習った先生は”∞”のマークを黒板にお書きにな
った。僕は大学の教員に関する、特に定年に関する規定を良くは知らないが、その先
生は当時60代なんてとっくに超えているように見えた。でも本当はもっと若かった
のかもしれない。そして実際、彼はとても元気だった。

 「ここにこんな”∞”を書いても、これは単なる記号です。実際ここに無限大が存
在しているでもなし、単なる記号。しかし、君達がこれを見ると君達の頭の中には無
限の概念ができる。数学自体は外ではなくて君達の頭に中に全部存在しているので
す」

 4年くらい前の話で、ほとんど思い出すことが出来ないけれど、違う例もたくさん
あがっていて、実際はもっと説得力があった。なんか無理矢理だなあ、とは思いなが
らも、僕は数学が頭の中に存在しているという考えに、密やかに感動して、やっぱり
講義には出るものだと思った。

 だけど、本当に無限大の概念は僕らの頭の中に存在しているのだろうか?
 もちろん、概念が存在していることと、それを実感として感じることは違うけれ
ど、でも無限というのは僕にはあまりピンとこないし、どうも頭では処理し切れてい
ないように思えて仕方ない。

 僕らが存在しているこの宇宙について、僕らはほとんど何も知らない。宇宙空間が
有限か無限なのかも、まだ分からない。

 そして、もしも宇宙空間が無限に広がっているとすると(今はまだその可能性が残
されている)、「宇宙ってすごくひろいんだなあ」などと単に感心するのでは済まな
いようなことが起こる。

 それは何かというと、もう一人の、というか人数無限大の別のあなたがこの宇宙に
存在していて、地球にそっくりな星で、あるいは全然違った雰囲気の星で、あなたと
同じだったり少し違っていたり全然違っていたりという様々な人生を送っているとい
うことだ。

 例えば、あなたは今これを読み続けていますが(ありがとうございます。本当
に)、どこかのあなたはハナからこんなもの読まないし、何処かのあなたは3文字手
前で止めたし、どこかのあなたはプリントアウトして上等の入浴剤を入れた甘いお風
呂に入りながら読んでいるし、どこかのあなたは読んでいる途中に隕石がパソコンに
落下するという衝撃的な事態に陥り読むのを中断する羽目になっています。

 どうしてそんな異常なことを僕がぬけぬけと言い得るのかというと、それは空間が
無限に広がっているという仮定を定めたからに他ならない。
 たぶん、宇宙に存在するものは全て何かしらの物理学的な法則に支配されているけ
れど、空間が無限に広がっているということは、その法則の許す範囲内ならばどんな
に起こりにくいことでも起こるということを示している。たとえ、起こる確率が
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 の普通では絶対に起こらないような事象でも、それが起こる可能性を持つ空間が無
限に広がっていれば必ず何処かで起こっている。
 そして大概のことは、起こる確率が非常に小さくともゼロではないので、どこかで
本当に起こっていると考えられる。イエスが生まれてから、西暦2003年までのあ
りとあらゆる歴史上の出来事が寸分の違いもなく地球と同じで、ただその星にはハー
ゲンダッツのアイスクリームにバニラが存在しないという星も、宇宙が無限に広がっ
ているのならばどこかに存在している。もちろん、チョコが存在しない星も、クッキ
ークリームが存在しない星も。
 無限というのはそういうことだ。

 これってすごいことだと思う。
 頭がくらくらするくらい。
 そしてこれはSFとしての空想ではなく、宇宙空間が無限に広がっているという仮
定のもとでは当然起こる(つまり現実に今起こっている可能性のある)ことなのだ。
 つまり、宇宙が無限に広がっているなら、僕はクラクラするし、やっぱり「無限」
は頭では処理し切れないのではないかと思う。だけど、クラクラするということは、
頭が無限を処理したので、その実感としてクラクラしているのかもしれない。いずれ
にしてもクラクラするということだけは間違いがない。