beens4.

2007-05-31 20:04:48 | Weblog
 今日は府立図書館へ行って、豆塚に関する資料をいくらか探してみることにした。先生も今日はお休みだったので、研究は夜にすることにして、昼下がりに大学を出る。

 百万遍の交差点で、婦人の警官が3人も一所に立って、「自転車」と書かれたプレートを持ち何やら道行く人に声を掛けている様子だっだけれど、僕は久しぶりにヘッドホンで音楽を聞いていたので何を言っているのか分からない。
 婦人警官を通り越して少し行くと、なんとも不運なことに道端へ財布が落ちているのを発見してしまったので、仕方なしに拾い上げる。人は馬鹿みたいに沢山通っているのに、どうして誰も拾わないのだろう。交番へ行くのは面倒だし、ちょうどいいやと、婦人警官に「あの、これそこに落ちてたんですけれど」と言って差し出すと、「ごめんなさい。それ、私達は交通の方だから受け取れないの、東一条に交番があるから、そこに持っていってくれる。ごめんね」と受け取りを拒否される。なんとなくそんな気はしていたけれど、本当に受け取ってくれないので僕は腹が立った。僕はただの市井の人間で、向こうは交通だろうがなんだろうが兎に角警察なのだ。それも3人も突っ立って自転車になにやらごにょごにょと言っているだけなのだ。一人くらい、「じゃあ、私ちょっとそれ交番に持っていくから」と受け取っても良さそうなものだ。
 だけど、彼女達は「ごめんね、本当に申し訳ないけれど」と本当に申し訳なさそうにするので仕方がなく僕が交番に届けることにした。

 とはいうものの、僕は交番がとても嫌いだ。さらに、東一条の交番には以前にも一度財布を届けたことがあるけれど、日本語が分からないのかと疑うくらいの対応だった。僕はそのとき本当に急いでいて、それを何度も口を酸っぱくして言うも牛のように緩慢な対応をされて財布を届けたことをとても後悔した。
 そこへまた財布を持っていくなど考えられない。
 僕は財布を開けて、電話番号を見つけ、電話を掛けて10分後に財布を持ち主に返した。

 それから気を取り直して図書館に行ったのですが、いくらか収穫がありました。

 まず、天明7年(1787年)に書かれた『都名所図会拾遺』にこのような記述を見つけた。

[ 大豆塚・・・御菩薩池(みぞろがいけ)の丑寅のほとりにあり。毎年節分の夜、年取の大豆諸方より打ち囃すところ。鬼神とつてこの所に収むるといひ伝う。ある社の本縁にあり。往古は塚のうえに小祠ありといひ伝う。

  枡塚・・・大豆塚の西、二町ばかり山の下にあり。伝詳らかならず。   ]

 丑寅の方角ということは北東だ。これまでにも深泥池の北東にあったという記述は2回ほど見ている。天明の時代、すでに祠がなかったということは、今発見しても単なる山でしかなくて何の痕跡もないかもしれない。
 豆塚の位置は、後にも書くように資料によって異なり、他2箇所の候補を持つが、枡塚の方はだいたい一箇所、深泥池の北西端に絞ることができそうで、豆塚=北東端、枡塚=北西端というのが最も説得力を持つように見える。
 ただ、上の記述では枡塚と豆塚の間の距離は二町=約200メートルになっているが、深泥池の東西長さは大体400メートルなので、枡塚の位置を池の北西端とした場合、豆塚の位置は池の真南となってしまう。

 さらに、寛保元年(1741年)に描かれた京都北部の地図を良く見ると、深泥池の北西端に小さく「マスツカ」と書かれているのは良いが、なんと南東端に「マメツカ」と書かれている。地図の縮尺も詳しいものではないし、精度が悪いだけかもしれない。

 地図としては、もう一つ「京都の歴史」という比較的新しい本の地図に豆塚、枡塚の文字が見られるが、2つを一緒にして池の北西に印がある。これは多分間違いで、位置としては枡塚のみを指定しているものをと考えられる。

 これ以上の地図資料を見つけることはできなかったが、これに関しては後日総合資料館を訪ねるものとする。

 他には文章の記録を2つ見つけた。

 「近畿歴覧記」(黒川道裕:1678(延宝6年)から1688年頃)
 池の南を歴、魔滅塚を東に見、地蔵堂の前へ出て、御牛飼仙納か宅を過き、二楽庵村井了設を尋ね訪ひ暫く留談す。

 「都の手ふり」(浅香山井:元禄11年10月(1698年))
 又池の東に魔滅塚というあり。これ洛陽より丑寅にあたりて鬼門なるにより、昔寛平年中に疫病はやりて洛中人おほく死したり。其時神託によりて、此所に貴船明神を勧請し、除夜に土人神輿を昇、此池をめぐりて後に炒豆を升に入、丑寅隅にこれを撒き、疫鬼を追はらう、其残りし豆(謎の漢字)に升を土中に埋む。されば悪魔滅するといふこころにて、其所を魔滅塚と名付とぞ。或は豆塚とも、又は升塚ともいふよし。檜木峠をのぼれは石碑有。幡枝村円通寺の住僧禿翁和尚の造立なり。円光院文英夫人の塔なり。

beens3.

2007-05-30 14:48:43 | Weblog
 豆塚を探しに、昨日はまたしても夕方に深泥池へ出掛けた。本来なら文献や人からの情報をもっと集めるべきだが、深泥池は比較的近所なので足を多用するというのも悪くはないし、何より「行けばもしかしたら今日見つかるかもしれない」というせっかちな思いがあって、大抵日が暮れ始めた頃に僕はそわそわしてしまう。

 I君を誘うと「眠いから嫌だ」と邪険に断られたので、一人で大学から深泥池へ向かった。この日確かめたかったのは深泥池の近くにあるという「祠」で、僕はその祠の情報をヨーロッパ企画の古いサイトで見つけた。その文章は基本的に面白ろおかしく読むために書かれた物で詳細は書かれていない。さらに既になくなったページをキャッシュで読んだので本来はあったのかもしれない写真が載っていない。だから具体的にはその祠がどういった祠なのかよく分からなかったので、とりあえず見て確かめようと思ったわけです。深泥池周辺のその手のポイントは全部チェックしようという作戦ですね。

 深泥池の南西端から時計周りに池を回り、坂道を登っていくと右手に階段がある。その上に犬小屋のような祠があるというので、僕はそこへ行って見たのですが、本当に犬小屋のようななんてことのない、しかも新しいものだった。それどころか何も祭られていない。「なんだ」とがっかりして、本当にヨーロッパ企画の人々はこれのことを言っているのだろうかという疑問も湧いたので、携帯でそれを撮影した。メールで尋ねてみればいい。

 その祠は階段を登る前から見えるところにあり、その奥にはハイキングコースのようなものが密やかに作られていて、しばらく僕はそこを散策してみた。特に何も見当たらない。山へ入る前から考えてはいたけれど、地形的にこの山の中にはありそうな気がしなかったし、日が落ちつつある心霊スポットと言われる山の中を一人でうろうろするのはあまり気分の良いものでもなかったので、当面の目的を達した僕は引き返すことにした。

 夜ご飯に北山通りのパン屋でベーグルやパンを買って、部屋でそれらを齧りながら『平安京を歩く』という本を読む。平安京には塀がなかったのに、どうして羅生門なんて門だけを作ったのだろう、と昔から疑問に思っていたけれど、「平安京の東には塀があり、淀川の方面から上がって来る海外の使節には羅生門と東の塀だけが見えて、まるで平安京が立派な街であるかのように見えたのかもしれない」という記述があってなるほどと思った。

 その後、貸すと約束していたラーメンズのDVDを持ってSちゃんのところへ遊びに行く。夜中の河原町通りでI君にばったり会う。

 昨日引用した貴船の物語では、塞がれた穴は”鞍馬の奥、僧正が谷の奥の岩屋”であり、ここへ豆も用いている。これは豆塚の伝説とは矛盾しているようにも見える。
 また、上加茂話によれば鬼退治のことを相談しにいった村人に貴船神社は「貴船神社の端の穴が深泥池まで続いていて、そこを鬼が通るのだから入り口と出口を塞げば良い」と言っているが、貴船側の穴はどうなったのか。

beens2.

2007-05-29 15:51:45 | Weblog
 昨日の日記に書いたように、僕は昨日『豆塚』という昭和初期に失われた塚のことを知り、ひいては鬼の通った穴を見つけようと思い立ちました。

 というわけで、昨日のブログをアップしてしばらくしてから、居ても立ってもいられなくて、夕方に深泥池貴船神社まで行って来ました。
 一説によれば、『豆塚』はこの神社の境内にあったということなので、とりあえず訪ねてみたわけです。

 この神社は住宅街の中、山を背後に控えた形で建っていて、僕はこれまで2,3回くらいはその前を通っているはずだけど、存在を知らなかった。とても小さな神社です。
 階段を見上げれば、神社は鳥居が倒されてまるで荒れ果てた様相を示しており、神聖を感じることはなかった。ただ、それは何者かによる破壊ではなくて改修工事か何かの一環らしいことがそこかしこに置かれた土木道具から見て取れる。

 少しい階段を登ると、境内は2手に別れており、そのまま真っ直ぐに登れば「すぐきの神さま」を祭っている秋葉神社、右へ折れると貴船神社の本体となっている。僕は最初に秋葉神社を見たけれど、小さい社が一つと、その隣に戦没者碑があるばかりで、地面はコンクリートで固められているし、特に見るものもなかった。ただ、社と石碑の間に、山肌からの水を引く塩ビニパイプが突き出ていて、そこから水が滴り落ちていたのが少し気にかかる。
 というのは、前回も書いたように、僕は本当に鬼の通った穴がないとしても貴船-深泥池の水脈くらいはあったのではないかと考えているからだ。水は無視できない。
 ちなみに、この後本屋で京都の本を立ち読みするという安直極まりない調査を行うと、「深泥池に至るきれいな水にオオサンショウウオがいて、それを昔の人は鬼と思ったのではないか」という説があった。どちらにしても水だ。
 とはいっても、僕はこの説には与しない。なんというか、果たしてそんなに昔の人って間抜けだったんだろうか、と思うからです。確かに、オオサンショウウオはへんてこな生き物だし、穴の中にいるところを見ると鬼だかなんだかのモンスターに見えなくもない、かもしれない。仮に僕がサンショウウオなんて生き物の存在を知らないで山に入り、沢にそれを見つければ驚くだろう。でもなんだかなあ。鬼って思うだろうか。僕は当時の人々が持っていた自然観も思考体系も持ち合わせないから、この手の空想というのは貧弱なものだけど。そんなに間抜けだったのだろうか。ジュゴンと人魚を間違えたとか、そういうことってあったのだろうか。

 まあいいや、この際サンショウウオだったかどうかはあまり問題ではない。
 問題なのは、そのサンショウウオはどこにいたのか、ということだ。そこには貴船に至る何かしらの通路なり水脈なりが存在していたのだろうか。

 可能性としては、貴船とは地質的に何の関連もない穴があって、そこにいたサンショウウオを「鬼」だと認識し、「鬼といえば貴船だ」、だから、「この穴は貴船に通じているに違いない」という至って単純な誤解が伝説の全てに過ぎないのかもしれない。サンショウウオくらいだったら豆を投げただけでもひるむだろうし。
 だとしたら、サンショウウオかどうかはとても重要な問題になりますね。

 次いで、僕は貴船神社の本体を見に行った。なんてことはない、小さな神社だ。ちょうど一人のご夫人が参拝にいらしていて、「こんにちは」と声を交わしたのをきっかけに僕は『豆塚』のことを尋ねてみた。年配の方だったので、昭和初期のことなら少しは存じていらっしゃるかもしれないと思ったからだ。
 彼女は『豆塚』のことを知っていたし、それがこの神社の境内に存在していたかもしれない、という説のことも知っていた。だけど、それ以上のことは知らないということだった。ただ、「毎日、お参りに来るから、色々聞いておいてあげるから、よければまた来なさい」ということで、いくらかの人に尋ねてくれるとの心強い言を頂いた。近所にずっと住んでいる老人ならば何か知っている可能性は大きい。昭和の初期ということはせいぜい70年程度以前の話で、まだダイレクトな記憶を持った人が生きていることは十分に考えられる。

 あと、ご婦人の話によれば、工事が始まったのは今日だという。もちろん、単なる偶然にすぎないだろうけど、僕はこの日『豆塚』の存在を偶然知って、そして調査を開始した。鳥居が倒され、地面が掘り返されたその日に、ちょうど僕は始めたのだ。偶然であろうがなんであろうが。

 それから、ついさっき色々調べていると、貴船神社宮司の高井和大さんが現代語訳されたお伽草子『貴船の物語』という実に興味深い話を見つけました。最後の部分を引用させていただきます。
____________________

 さて、鬼国の大王、このことを聞き知って、

「なんと不思議、一度餌食にしたというのにこりもせず、また生まれ逢ったぞよ。なんと憎いやつらよ。今度は二人とも餌食にしてやろうぞ」
と、八人の鬼の手下どもを先兵として日本へ送ろうとした。その時、鞍馬の毘沙門、これをお知りになり、「罪なき人々のためならば」と別当(現代の警察庁長官)に示現(霊言)を下された。大変驚いて法皇に報告申し上げると、法皇は大学寮の学者衆をお呼びになって「方策を占え」と下命された。いろいろと調べ、占って申し上げるには、
「この鬼は節分の夜に必ずやって来る。しかし、鬼を来させない方法があります。七人の博士が鞍馬の奥、僧正が谷の奥の岩屋を封じ塞いで、三石五斗の炒り豆で鬼の目を打つならば、鬼は十六の眼を打ちつぶされて、眼を抱えて返るでしょう。<かぎはな>という鬼、<てなが>という鬼あり。この鬼には鰯を焼いて串に刺し、家の門口に刺しておけば、人と間違えて鰯をとっていくでしょう」
と。

 それならばと、七人の博士を呼び寄せ、その通りにすると、はたして鬼、十六の眼を開いてやって来たが、炒り豆を三斗まくと、眼を打ちつぶされて返ってしまった。

 大王、腹をたて、

「穴は塞ぐことができても、天までは塞ぐことができまい。よし、今度は日本の人間どもをことごとく奪い取ってやる」
と声高にわめくのを、鞍馬の毘沙門お聞きになり、また別当に
「急いで法皇にお伝えし、五節句ということを祭るべし」
と示現を下された。別当、急いで参内し、法皇にこの由をお伝え申し上げた。

 法皇、大学寮の学者衆を召して、

「五節句ということを占え」
と、おおせられ、七人の博士がお応え申し上げた。

 それは、まず正月は、七日の日、七草をとって三方(さんぼう)に奉る。三月三日は桃の花、草餅で祝い、五月五日はちまき、七月七日はそうめん、九月九日は菊の花。これらは皆鬼の悪行を征服する方法。

 桃の花は、鬼の目に似ていることから鬼の眼を飲むということで、酒に桃の花を入れて飲む。草餅は鬼の肉の代わりとしてこれを食う。ちまきは、鬼の髻(もとどり)としてこれを食う。菖蒲は、鬼の角として酒に入れて飲む。そうめんを食うのも、鬼のはらわたとしてこれを食う。菊の花は鬼の眉毛として酒に入れてこれも飲む。正月に門松、歯朶(しだ)、譲葉(ゆずりは)を門口にかけるのは、門松は鬼の墓標、歯朶はあばら骨、譲葉は鬼の舌。

 このように五節句をはじめると、大王これを見て、

「いやはや、これでは事はならぬ。日本の人間にたぶらかされてはかなわない」
と、その後は鬼国より出て来ることはなくなった。

(引用終わり)
___________________________

 桃の節句だとか子供の日だとか、門松にこのような意味があったとは。そうめんが鬼の内臓だとか、そのような見立てのことを何にも知らなかった。

 このお話の全文は http://www.kibune.or.jp/jinja/monogatari/index.html にあります。とても面白いです。

beens.

2007-05-28 16:13:42 | Weblog
 植生や幽霊で有名な深泥池の近くに、深泥池貴船神社という神社があることは知っていた。貴船というのは、どう考えても貴船のことだし、それは深泥池からさらにずっと北へ行った場所にあるわけだから、僕にはどうしてここに「貴船」なんて名前を冠した神社があるのかわからなかった。
 だけど、今日少しだけその理由が分かった気がする。

 僕はここ10年近くの間に何度も引越しをしているけれど、基本的には京都市の北部に住んでいて、だいたいいつも自転車で行くことのできる距離に深泥池はあった。ただ、僕はその類希なる自然環境にも幽霊にもそんなに興味がなかったので、いつも池の隣を通り抜けるだけで、特に深泥池について調べたこともなかった。積極的にこの池に関わったのは、大学1年の夏、先輩達に夜中の肝試しで一度連れて行かれたときくらいだ。

 10年が経過して、僕は今日ようやく深泥池にまつわる伝説を知った。
 
 伝説によれば、その昔、深泥池には穴があり、その穴は貴船まで通じていた。貴船に住んでいた鬼達はその穴を通じて京都の町にやってきては悪さを繰り返す。ある人が鬼の穴を見つけて、そこに鬼の嫌いな炒った豆を投げ込み鬼を退治した。
 そう、節分の豆撒きのオリジンです。

 豆を投げ込んだあと、穴の上には『豆塚』という塚が立てられ、ついてに豆を入れていた枡を捨てたところにも『枡塚』が築かれましたが、昭和にそれらは失われ、今ではそれがどこに立っていたのか知る人はないらしい。

 深泥池は貴船に関連があった。
 本当に鬼の通った穴が、洞窟があるのかどうかは分からない。たぶんそんな穴は開いていないだろう。鬼という概念はもともと中国から入ってきたものだが、本場の中国では実体のある何かではなくて、むしろスピリチュアルな”気”に近い概念だった。ただ、風水を見ても分かるように気の流れと水の流れは密な関係を持っているので、貴船-深泥池という水脈ラインが考えられなくもない。

 もちろん、本当に洞窟があればいいのだけど。
 近所だし、ちょっと探してみようと思います。豆塚、あるいは鬼の通った穴。夏だし、近所だし、こういうことは子供の頃の少年探偵団以来だけど、かつて鬼が出入りしたという穴を探すことは僕にとってはとてもワクワクすることだ。

 なので、もしも深泥池と豆塚、鬼に関する情報をお持ちの方がいらしたら、教えていただけるととても嬉しいです。僕のアドレスは自己紹介欄にもありますが、 Ryota.Yokoiwa@gmail.com です。

鳥の飛べる形。

2007-05-28 12:13:17 | Weblog
 川岸に腰掛けて、夕方の月を見上げながら僕達はハンバーガーを食べて、フレンチフライを食べて、それからジンジャーエールを飲み干した。通り過ぎる犬の呼吸を背中に聞いて、飼い主の単調な歩調を地面に聞き、そして僕にはやっぱり月の存在が不可解でしかたない。
「あそこに直径3500キロメートルの星が本当に浮かんでいるということが信じられる?」
「さあ、どうかしら。私は信じてもいないし、疑ってもいないわ。見えるものは見えるものよ」
 彼女はハンバーガーの包み紙やナプキンを一まとめにして、コンパクトな、とても捨て易いゴミを作った。捨てるのに便利なゴミのことを本当に便利だと呼んでもいいのかどうかは分からない。でも、とにかく僕はそれをゴミ箱へうまく投げることができた。
「さて」
 僕がどう思ったところで、彼女がどうも思わないところで、月はこれからますます昇り、ますます強く光る。


 なんだ、アックスリバーボーイってタヒチのグザヴィエだったのか。アックスリバーボーイは今月のFMcocoroでかかりまくっているアーティストなのですが、どう控えめに聞いてもタヒチ80そのものだし、出身はフランスだというし、同じ国からここまで似通ったバンドが現れるなんて果たして許されるのか、と思っているとグザヴィエのソロだということが分かった。なら似てても当然だ。

 FMcocoroでよく流れているラジオショッピング番組は、もう胡散臭さ全開で、それはもう笑いや呆れを通り越して怒りを呼び起こすほどの胡散臭さです。このところは更に拍車が掛かって来て、「飲むだけで、飲んだその日に3キロ痩せるお茶」を販売しています。毒ですね。

 先日、北大路通りを自転車で走っていると、あるリサイクルショップのゴミ置き場に何か僕の気を引くものがあった。よく見てみるとそれはオモチャ箱だった。スヌーピーの絵が付いていて、子供が一人入れるくらいの大きさで、車輪がついていて、木でできていて、引っ張って動かすための紐がついている。僕は小さいときこれを持っていた。まさか僕が持っていたそのものではないだろうけれど、同じ物を持っていた。このときゴミ置き場で見つけるまで、僕はこのオモチャ箱のことを完全に忘れていた。それがとても気に入っていたにも関わらす。なんてことだろう。ときどき、自分が忘れてしまったもののことを考えて恐ろしくなることがある。もちろん、忘れているもの自体について考えることはできないけれど、莫大な量の物事を僕が忘れてしまっていることは確実だ。今まで生きてきた28年間について、僕が思い出せることといえば極々限られたものでしかない。

 もっと言ってしまえば、思い出せることとそれを実感として受け止めることは別のことで、僕は自分が小さいときにどういった秘密基地を作ったのか思い出すことはできても、今となってはそれが「この僕自身」であったというリアルな感覚がない。ダンプカーの上で遊んでいて、その鉄板にひどく頭をぶつけたことや、ちょっかいをかけて(僕は彼らに向かってパチンコでクラッカーボールを撃ったのだ)山の中で中学生の集団に追い回されたことを、覚えてはいるけれど、それはもはや遠い景色にすぎない。僕の記憶ではあるものの、厳密な意味合いではそれは今の僕に属するものではない。結局のところ、瞬間というものは瞬間ごとに失われる。僕に許されているのは、僕がいるのは、現在只今というこの瞬間だけだ。
 
 もっともっと言ってしまえば、認知科学的な意味合いでは僕達には「現在只今」というものすら許されてはいない。参ったな。


何が僕達をドライブするのか。

2007-05-25 22:14:16 | Weblog
2007年5月25日金曜日(ひどい雨)

 英語のTA。
 そのあと言語文化の授業でロスコー・アーバックルの話を聞く。

 ロスコー・アーバックルというのはその昔大人気だったアメリカの喜劇俳優だ。今では三大喜劇王は「チャーリー・チャップリン、バスター・キートン、ハロルド・ロイド」となっているが、本当はこれにアーバックルを加えて4大喜劇王と呼ばれるべきだった。事実、アーバックルは一時期チャップリンと人気を2分するほどの名声を得ていた。
 どうしてアーバックルの名が消えたのかというと、それはある事件のせいだ。彼はパーティーである女優をレイプして死なせたということになっている。当時の新聞はそれを面白おかしく煽り立て、ハリウッドは世間から強いバッシングを受けることになる。ただし、この事件の真相は未だ明らかにされていない。
 一旦映画界を追放されるものの、後に彼は名を変えて再び映画の世界に戻り、そして若くして心臓麻痺で亡くなった。

 暗い話だ。僕は歴史の暗い部分についていくらか考えた。アーバックルが本当に罪をおかしたのかどうかはもちろん分からないけれど、人気者や有名人と人格者という概念は明確に区別されなくてはならない。先にも名前の上がったチャップリンは堂々たる喜劇王であり、彼の批判精神はとても深いとされる。単なるコメディではなくて、それは知的な何かであり、ともすればチャップリンは聖人君子のように描写される。だが、もちろんチャップリンだって欲深き一人の人間だった。インターネットで彼の名を検索すれば、知りたくなくてもその手の情報は日本語で書かれたものの中にさえ沢山見つかる。

 そういえば先日買った「生物と無生物のあいだ」の中には野口英世博士のことも書かれていました。
 彼は『貧困と怪我を克服して医学に大貢献した偉い人』ということ日本ではなっていますが、実際にはそんなに簡単なものではありません。まず、医学上成果というものはほとんど間違いで、今となっては彼の論文には何の価値もないことが分かっている。当時は誰も検証しなかっただけだ。さらに結婚詐欺のようなことを繰り返してお金をひっぱってきたり、アグレッシブということ意外にはあまり偉人だと仰ぎたてる要素はないようにみえる。どうして僕達の国のお札には彼が描かれているのだろう。

 科学者ついでに、子供の頃の僕のヒーローの一人だったアインシュタイン博士のことを書いていかなくてはならない。
 あまり知られていないことですが、アインシュタインの最初の奥さんミレヴァはとても優秀な物理学者でした。彼が特殊相対性理論と光量子論とブラウン運動の論文を発表した奇跡の年1905年、ただの特許局員だったアインシュタインは彼女と一緒にいた。結婚したのは実に奇跡の年の2年前1903年だ。だからアインシュタインの業績にはミレヴァの力が関与しているというのは確かに短絡だ。でも、それはとても自然な推測に見える。
 ミレヴァとアインシュタインは学生時代からの付き合いで、結婚前に子供ができたと言われているが、その子供は歴史に登場しない。アインシュタインは外に愛人を作り、ミレヴァの悪口をそこらじゅうで吹聴していたと言われている。そして後にミレヴァと離婚して愛人の一人と結婚する。後にミレヴァは心を病んだと言われています。
 悲しい話だけど。

空色で空と見分けのつかない鳥。

2007-05-25 18:09:17 | Weblog
 ニュースをパラパラと眺めていたら、石峰寺の石像が30体倒されて、うち5体が壊れた、という記事があった。僕達はここを春に訪ねたばかりだ。家庭的な良い寺だった。ほとんど誰かの家の庭といった雰囲気の寺だった。その記事には「ショックだ」という住職の言葉も載っていて、見れば住職の年齢は27歳で僕とほとんど変わらない。きっと僕達が石像を見物していたときに子供と奥さんと一緒に竹の子を掘っていた人に違いない。言葉を交わしたわけではないけれど、その様がとても平和だったのでいくらか親近感があり、余計に残念だと思う。

 石峰寺へ至る道筋は、ところ狭しと家々が庇を並べる住宅街で、ある家の前と、なんとか地蔵という地蔵のところに「自由にお持ちください」と書いた箱が置かれていて、そこに鞄だとかマフラーだとかが入っていた。
 ある家の前を通りがかったとき、開け放った扉を通じて、その中にいらっしゃった2人の女性とすこし話をすると、もうすぐ立ち退きだから、いらないものはこうして持っていってもらうのだ、と言われた。僕はどうして立ち退きになるのか疑問に思ったけれど、なんとなく理由を聞くことは躊躇われたので聞かなかった。立ち退きというのはどうしようもない重さを持った言葉だと思う。

 相国寺で今開催されている若冲の展覧会に、たぶん僕は行くことになるだろう。若冲という人が江戸時代の人間だということが、未だに信じられない。たとえば彼の鳥獣花木図屏風をはじめて見たとき、僕はまるっきりキツネに抓まれた気分だった。それは江戸時代にあってはならないものだと思った。オカルトの用語で「その時代の技術では作れなかったはずなのにその時代の遺跡から発掘されたもの」のことをオーパーツと呼ぶけれど、鳥獣花木図屏風は僕にとってそれに近かった。もちろん、天才の仕事とはそういうものだ。

 それにしても相国寺が若冲縁の寺だとは。僕は何も知らずに、何年か前まで相国寺の近所に住んでいて、ときどき自転車で「なんだか怪しい雰囲気の寺だな」と思いながら境内を通り抜けていた。知らないというのは奇妙なものだと思う。



2007年5月24日木曜日

 研究室にずっといる。
 珍しく母親からメールが来たので何事かと思えば、「麻疹が心配だから予防接種を受けよ」という指令だった。僕の母親はいい加減な性格なので、僕が麻疹にかかったことがあるかどうかを覚えていない。予防接種には行きたくないし、そこまで流行はしていないので、丁重に断る。麻疹が流行しているのは確かだけど、麻疹は日本から撲滅された病ではないので、その患者は常にどこかにいる。集団発生でない限り、取り立てて騒ぐこともないのではないか。
 麻疹の話をOにしようと思ったが、麻疹に相当する英単語が分からないのでネットの辞書で「はしか」を引くと、”その犬はしかられた後、しっぽを後ろ脚の間に挟んでおとなしく歩き去った。 ”という例文もヒットした。その犬(はしか)られた後、という風に”はしか”が含まれています。なんだかいい例文ですね。僕は辞書の例文が実はとても好きです。世界最小の小説ではないかと思う。

code.

2007-05-24 15:04:05 | Weblog

2007年5月23日水曜日(晴れ)

 久しぶりに郵便受けを覗くとMから結婚式の招待状が来ていた。僕は彼の結婚式で人前式の神父みたいなかかりをすることになっているので、今更招待状というのも変な気持ちがしたけれど、それはそれなので出席に丸をつけて、それから簡単な暗号でメッセージをつけてポストに投函した。

 昼はTがランチに誘ってくれたので、というよりもマクドナルドに誘ってくれたので北白川のマクドナルドへ行ってマクドナルドを食べる。食べ物にうるさいTがマクドナルドに行きたいなんてびっくりだと思っていたら、Tも「マクドナルドなんかに誘ったら怒るかと思ってた」と言う。

 大学に戻る前に、欲しい本を手に入れようと恵文社へ立ち寄る。僕は恵文社という本屋さんがそんなに良いとは思えないけれど、左京区にはまともな大型書店がないので仕方ない。恵文社にはその本がなかったので、がっかりしながら研究室へ戻る。
 夜になると、どうしてもその本が欲しくなったので河原町のジュンク堂へ行く。その本は今月の17日に出たばかりなのだが、人気があるらしく売り切れたということ。しかたがないので、そこかしこの本を立ち読みしていると、先ほど「すみません売り切れました」と教えてくれた店員の方が「お客様」と声をかけてきたので何事かと思えば彼女は僕の欲しがっていた本を手にしていた。補充で一冊だけ回ってきたらしい。彼女はどうやらその本を探しまわって、さらに僕のことも探し回ってくれた様子だったので、感謝の意を伝えてその本を買う。
 そうだ、この本は「生物と無生物のあいだ」という本です。

 帰りにスーパーマーケットによって野菜だとか卵だとかを買って部屋に戻り、ご飯を食べながら本を読んでいると眠くなって眠る。

small.

2007-05-21 17:14:28 | Weblog
2007年5月19日土曜日

 風邪が抜けないのと、やっておきたいことがあったので引き篭もる。
 せっかく買ったポテトチップスを、口の中が切れていて痛む所為で食べることができない。
 先日書いた蛾のことが気になって、ネットで4000枚も蛾の写真をチェックしたのに一致するものがない。日本には蛾が今のところ6000種類登録されているということだから、あと2000枚当たれば見つかるかもしれないけれどまあいいや。ちなみに、蛾と蝶は生物学的な分類では区別されません。単に昼間主に飛んでいるものをなんとなく蝶と呼んで、それ以外はなんとなく蛾と呼ぶことにしているだけです。イルカとクジラみたいなものですね。だから、蝶の収集家と蛾の収集家は本質的には同じものです。


2007年5月20日日曜日

 寒いので久しぶりにジャケットを着る。

 昼から加茂川でK達とバーベキュー。Mちゃんがトルコ風のちゃんとした料理を用意してくれていて、普通の肉を焼くのとは異なる趣き。トルコ人もスーダン人もいてアラブ音楽もかけたのでいかにもそれらしい。

 片付けのあとMちゃんの部屋で水タバコと紅茶の会。僕は水タバコは初めて吸った。とても気にいったので、水タバコをそれとなく眺めていると、「これ買おうかなって思ってるでしょ」とKに本心を突かれる。
 そういえば僕は過去に数ヶ月間だけタバコを吸っていた。ある推理小説の登場人物に憧れてのことで、その本を読み終えてすぐにマルボロを買いに行ったのを覚えている。僕には吸ってもなんの効果もなかったうえに、だんだんと面倒になって数ヶ月で喫煙をやめた。

 水タバコの会のあと、ビレッジバンガードでそれとなくネタを探して、インスタレーションのアイデアを思いついた気がしたけれど帰って考え直すとなんてことないものだった。
 去年は苦い思いをしたので、今年はうまくやろうと思うけれど、僕もI君もお金を使うつもりは毛頭ないし、さらにこの夏は二人とも大きな学会があるので時間もない。お金も時間も使わない、というのは随分なバリアに違いないが、頭をひねればなんとかなるに違いない。

フリードリッヒ。

2007-05-19 21:21:40 | Weblog
 最近、昔自分が好きだったものや、取り組んでいたことがリバイバルしつつあります。
 少しだけ講義をしてもらったフランス人のB先生が「日本に来たのは阿部公房の作品に衝撃を受けたせいだ(2週間寝込んだそうです)」と言っていて、片付けの途中でごった返しになっている部屋に戻ると積み上げられた本の一番上に偶然「砂の女」があったので、僕はパラパラと阿部公房の最初の作品を読み返すことになった。以前読んだときは高校生だったから、もう十年以上経つ。大学に入ってから、もう一度読もうと実家から持ってきてすっかり忘れていた。

 それから、久しぶりに武道の稽古に通おうかと考えています。もうどこの道場にも行かなくなって何年も経ちますが、大阪に良さそうなところを見つけたので通いたいなと思うのです。ただ、ちょっと遠いのでお金と時間のことを考えなくてはなりません。

 あと、先日Tに借りたマクガイバーのビデオを連日見ています。これは僕の人格の30パーセントを形成するに至った作品です。実際に子供のときに見たのは2、3話くらいのものなのですが、それはもう莫大な影響を受けた。ほとんど記憶もないのに影響だけはしっかりと刻まれていて、「マクガイバーが好きなんだけどほとんど知らない」という宙ぶらりんな状態でこの20年間ほどを生きてきて、そしてようやくTからビデオを借りることでそれをクリアにしている。

 マクガイバーのことを簡単に説明すると、アメリカのテレビシリーズで、主人公はフェニックス財団という秘密組織に所属しています。それでスパイだとかの任務をこなすのですが、彼はあまり喧嘩に強くなくて、ピンチを科学的な知識で切り抜けます。たとえばカーチェイスで追われていて自分達には武器がないとしても、乗っている車のマフラーとかシートの中のスポンジだとかガソリンでバズーカ砲を作って敵の車を破壊したりするわけです。大人になってから見てみると無茶苦茶なところがかなり眼につくもののやっぱり面白い。

 今や古典といってもいい名作「マクガイバー」と、それからビバリーヒルズ高校白書の現代版という表現が実にしっくりくる「The O.C.」の両方を僕は最近みているのですが、どちらにも共通するものがある。

 それは、メインのキャラクターが「変人で孤独」ということだ。

 マクガイバーは大学院修士課程の途中で「世界1周旅船のコックの仕事を見つけたんだ、大学を辞めてこの船で世界一周しよう」と恋人に持ちかけて、「修士の学位はどうするの」と切り返す彼女に、「僕は単に科学が面白いから勉強しているんだ学位なんでどうでもいい」と食い下がって、「あなたがときどき分からないわ」と振られてしまう典型的な「科学が好きで好奇心旺盛な青年」で、フェニックス財団のパーティーにも絶対に出たがらない。盟友ピーターに頼まれてしぶしぶ出席するとみんながびっくりする。

 The O.C.はカリフォルニアのお金持ち社会の話なので、それはもう毎回のように豪華なパーティがあるのですが、主人公達はパーティーを楽しむことがあまりない。パーティーで楽しそうにおしゃべりをしている人々を避けて、どこか隅っこへ行って何かを憂う、というのがこのドラマに限らずこの手の場面の定番だ。マジョリティーの談笑を避けて、マイノリティーが小さな別の世界を作る。

 The O.C.の主人公はお金持ち一家に引き取られたけれど、出身はスラムみたいなところで、このコミュニティでは最初から浮いている。その主人公が引き取られた一家の息子はオタクで、これもコミュニティでは少し浮いている。その2人の周囲にだんだんとコミュニティ側の、つまりマジョリティー側の人間が、自殺未遂をしたり父親がゲイであるとコミュニティ中にばれたりしてコミットしてくる。

 こういった「マジョリティーから脱出してマイノリティーになる」という構図はありとあらゆるドラマに見られる。廃部寸前の弱小クラブにだんだんと学校の人気者まで入ってきてクラブが存続する。転校生といじめられっこが仲良くなり、何かの事件が起きてそこにクラスで一番人気のある女の子が巻き込まれて仲良くなる。
 かつて、マジョリティーにおける人気者が物語りの主人公であったことがあるだろうか(多少はあると思うけれど、その場合主人公にはマイノリティとの秘密の結びつきが事件的に発生する)。

 多くの物語がこのようなマイノリティー中心で語られることには大きな意味があると考えられる。なぜなら、その物語を享受するのはマジョリティーに他ならないからだ。物語のなかでマジョリティーというのは「聞く耳を持たない強大な敵」だけれど、その物語はマジョリティ自身が受け取るのだ。

 このことから、「マジョリティはマジョリティが嫌いだ」という構造が見て取れる。このことはすでに多くの人が言っているし、別になんでもないことだけど。今は「”みんな”が”みんなと同じは嫌だ”」というへんてこな時代だ。ちょうど休日にディズニーランドで「何故みんな、こんなに混むのに来るんだろう」と頭をひねるような時代だ。モードを降りようとしたアンチモードの服がグランジが、シャビィが結局はモードに飲まれるように、アンチマジョリティは今やマジョリティそのものなのだ。

 結果として、マジョリティは仮想的なマイノリティに物語の中で結合することにした。何故なら自分自身を攻撃することはできないからだ。

 というようなことを考えていたのですが、ことはそう単純でもないように思います。もしも人々が「マイノリティへの欲望」を抱えているとしたら、それは当然マジョリティの存在なしには成功しない。マジョリティが存在しないことにはマイノリティは有り得ないからだ。
 だから、「マイノリティへの欲望」はマジョリティを生産する。人は一見マジョリティの役割を進んで担い、裏ではマイノリティへの欲求を育てる。パーティーへ行くのは本当はみんなで仲良くするためではない。そこから逃げ出すためだ。だから「そろそろ帰るよ」といって先に会場を後にする人に対して、残された人間は置き場のない変な手触りを覚える。出て行くものはマイノリティへの遷移を成し遂げ、残るものは仮想的なマジョリティを、いわば仮想敵国の役割を続ける。
 故に、主人公はパーティーを後にしなくてはならない。 

2007年5月18日金曜日

 実は今まで使っていたプログラムには「果たして本当にこれでいいのだろうか?」と思う点があったのですが、「もう今更聞けない」という状況だったのでしばらく困っていて、それが解決したので今は調子よく研究をしています。解決といっても、もちろんそれは思い切って聞いた、というだけのことですが、僕は、知ったかぶりを決め込んで人に質問をしない、という傾向が非常に強いので、これからはもう少し改めようと思う。少なくとも今回はこれで大分と時間をロスした。