僕たちの戦争ごっこ。

2010-01-31 12:28:05 | Weblog
 国籍が様々な僕たち12人がテーブルを占領して、これも国籍がバラバラな男達5人がカウンターに座ると、その小さくて暗いバーの中はもう満員だった。最後に入って来てカウンターに座った男はロシアからやって来た背の高いどこかもの悲しげな男だった。

 ほんの小さな声で歌を歌っているのはその男だ。

 ソファーの上にギターが置かれていたので、自然な成り行きで僕とGとSはギターを鳴らし、その小さすぎるギターではコードが上手く押さえられないので、手持ち無沙汰になった僕は沖縄音階を出鱈目に弾いた。それから沖縄の話、戦争の話、と自然な流れで政治のことを話している時、そのロシア人はカウンターから僕たちの席へ険しい顔でやって来た。

「今日、俺はここへ悲しいことがあったから飲みに来ている。まだロシアから来たばかりだ。ギターを鳴らして騒いだりするのはいいけれど、政治的な議論は聞きたくない。みんなこうして同じ店で飲んでいるんじゃないか」

 彼は僕たちがそれぞれどこの出身なのか聞き、僕たちはロシア1、フランス1、ペルー1、インドネシア1、ドイツ2、フィンランド2、韓国3、それから日本1だと答えた。
 すると彼はどうしたことか「是非歌を一曲歌いたいのだけど?」と言い、若干呆気に取られたものの僕たちは拍手でそれを迎えた。

 そして、短い悲しい歌だ、大体こんな意味合いだ、と前置きした後に彼は歌い出した。予期せずとても小さな声で、バーの中は全員がしんと聞き耳を立てた。僕の隣でSは失礼な笑い声を必死に噛み殺していた(後に、わざわざみんなの前で歌いたいと宣言したからには朗々と上手に歌えるのかと思っていた、とのこと)。それは確かに上手な歌ではなかったかもしれない、だけど、本当に悲しい響きの歌で、メロディは中東のものを彷彿とさせた。

 実際にその歌はトルコ語の歌だった。
 歌の後に、Sが「あなたはロシア人だと言ったけれど、今の歌はトルコ語よね?」と言うと、彼はロシアというか実はアゼルバイジャンから来てるんだけど、アゼルバイジャンって言っても誰も知らないと思って、と答え、

 「それより君はトルコ語を話すのか? 良く今のがトルコ語って分かったね」

 とSに聞き返した。

 「私はドイツ人だけど、私の街の50%はトルコ人だから、すこしだけ分かる」

 Sの返事に付け加えて、僕は「メルハバ」と知っている僅かなトルコ語で彼に改めて挨拶をした。

 ドイツにはトルコからやって来る移民がとても多い。僕はトルコにもドイツにも友達がいるけれど、この二つの国には切っても切れない関係と蟠りがある。Sの街では半数がドイツ人、半数がトルコ人だが、両者は全く混じり合う事がない。トルコ人はトルコ人のグループで行動し、ドイツ人はドイツ人のグループで行動する。Sはオープンな性格なので、トルコ人のグループに話し掛けたりするたしいけれど、そうするととたんに彼らはトルコ語のみで会話を始め言語の壁を張り巡らせるらしい(実際にはこの街のトルコ人達はドイツ語を話す)。
 行くバーもドイツ人の店はドイツ人だけ、トルコ人の店はトルコ人だけで、もしも一緒になれば必ず喧嘩になるという。

 どういった歴史的背景があるのか良くは知らないけれど、それでも僕にはそういった啀み合いが深刻ぶった遊びにしか見えない。こういう言い方は誤解を招くだろうけれど、たとえそれで人が死んだとしてもだ。戦争になったとしても。事態が深刻化して、それで人が重症を負ったり死んだり戦争になったり大事な人が殺されたり自分の攻撃で本当に人が死んでしまったりしたとき、それは悲惨なことで大きく重たいことになる。それを遊びだとはもう言えないかもしれない。でも、その出発地点において、僕にはありとあらゆる啀み合いが単に啀み合いたいから起こっているようにしか思えない。始まりはいつも「外部に敵を作って自分達はより強い連帯感を持ちたい」という欲求に思えて仕方ない。

 小学生のとき、僕は秘密基地を作って遊ぶことがとても多かった。基地を作るときはいつも敵の存在を仮定して作っていた。無論、僕たちは悪の組織と戦っていたわけでもなく、逆に警察から逃走している窃盗団でもなかったから、実際のところ基地を攻めて来るような者は一切存在しない。
 でも僕たちはせっせと「敵がここを通った場合には」とか「敵が見ても分からないように」とか、そういう文脈で罠を作ったり隠し通路を作ったりしていた。敵と戦う為の武器も、槍や木刀や投石機、胡椒爆弾、火炎放射器、オーストラリア人がダチョウを捕まえるときに使うような石の付いた紐、など色々作った。

 心の底では誰も攻めて来ないと分かっていたと思う。せいぜい野良犬くらいだろうと。
 ところが、僕たちは実際に人間に対してそれらを使うことになる。

 敵は思いもよらないところからやって来た。
 そう、僕たちは分裂して争いを始めたのだ。

 細かいことはもう覚えていない。ただ、ある時から半分くらいのメンバーが「この基地は俺たちの物だから、もうお前たちは使うな」というようなことを言い始めたと思う。僕はまだ3、4年生くらいで、そういった「政治的な」判断は上級生に委ねるばかりだった。気が付くと僕は基地を守るチームに入っていた。

 こうして突然僕たちの戦争ごっこは始まる。
 ここからが面白いところだけど、みんなが素手も武器も使って、口では汚く罵るのに、実際には殺傷能力のなるべく低い武器をなるべく”非”効果的に使って争った。
 この辺りを自分の中でどう整理していたのか分からない。投石機で石を投げるなら、大きい石は絶対に相手に当たらないように、小さな石なら足に当たるくらいの気持ちでやっていたと思う。木刀で対決するときは相手の体を狙うより、むしろ木刀同士が切り結ぶことだけを考える。釘の矢尻が付いた槍が出てきたら無条件に逃げるし、攻撃する者もけして本当に刺すことはない。
 僕たちはみんな真剣に争っていたけれど、絶対に相手を傷つけない、これは遊びなのだ、という暗黙のルールを守っていた。一見矛盾するような二つの条件の中で最大限の楽しみを見出そうとしていたのだと思う。

 数日、そういった放課後に始まり夕飯前に終わるパートタイムの戦争が続いたある日、ついに僕は一線を越えた。
 この時のことだけは今でもはっきりと覚えている。
 僕はその時一つ学年が下のAと1体1だった。僕たちは毎日のように一緒に遊んでいたけれど、今は敵同士だ。そのとき僕は丸腰で、彼は捨ててあったベビーベットから作った白い木刀を持っていた。そして振り回された木刀が、たぶん彼の予想に反して半ば事故的に強く僕の肩に命中した。痛いと思うより先に、そんな強さで木の棒が肩に当たったという事実に僕は驚いた。そして微かな恐怖と共に全身が熱くなり、次の瞬間中段の回し蹴りを彼の脇腹に入れていた。後にも先にも、これほど危機感を込めて人を蹴ったことはない。
 彼は痛みからというより、たぶんこれも驚きから泣き崩れた。それから僕も泣いたと思うけれど、この辺りから記憶がない。思い出すのは翌日お互いに謝って仲直りしたことだ。そして誰ともなしに戦争ごっこは終わっていった。

 幸いなことに、僕たちの戦争ごっこでは誰も大きな怪我をしなかった。それは幸運故もあるし、僕たちがまだ子供で大した破壊力を持っていなかったからだとも言える。大人になってから同じようなことをすると、特に僕が肩を打たれたような時のことが起こると、誰かが重症を負ったり死んだりするのだろう。
 大抵の場合、大人は戦争ごっこに飽きているし、心も強くなって多少のことでは逆上したりしない。でもそうでない大人もいて、やっぱり戦争が今もまだ世界の色々なところで起きている。
 

 

 
 


武術の話の続き。

2010-01-26 21:58:29 | Weblog
 昨日、いくつか紹介したい動画があると言って終りましたが、今日はそれを紹介していこうと思います。

 最初に塩田館長の動画からです。
 塩田館長の動画はyoutubeにもいくつかあるし、検索すれば大体のところはみることができます。
 ここには有名なのを一つ貼りつけておきます。
 ほとんど息切れしていないところに鍛錬のすごさが見える。
 あと始まってすぐ、横面を返したときの立ち姿がすごく綺麗だ。




 これはあくまで演武だから、多少の演出はあるに違いないけれど、色々な証言を聞くに塩田館長は本当に強かったんだと思う。
 とは言うものの、実際に自分が稽古をつけてもらったことはないので、本当のところは良く分からないという他ない、と思っていたら、バラエティ番組の中で撮影された興味深い映像が2つありました。

 1つ目の映像では、1分30秒を過ぎたあたりでお笑いタレントが塩田館長に不意打ちを図り見事にカウンターを入れられています。
 2つ目の映像では、演武を見た後に「でもこれってお弟子さんが上手いからなだけじゃ。。。」というようなことを板東英二が言い、試しに塩田館長の胸ぐらを掴みかかるのですが、あっさり捌かれています。







 共にテレビだからヤラセだ、と疑えばどこまででも疑えますけれど、僕はこの人は本物だったのだと思っています。
 そう、本物だったのだろうと、2つの意味合いで思っています。
 一つは、単純にこんなすごい人がいたのだ。すごい!というスタンスで、もう一つは、こういうことを人間は実際に行うことができるのだ、と信じた方が様々な点で都合が良い、というややプラクティカルで打算的なものです。
 基本的には信じているけれど、でも凄すぎるし自分で確認したわけでもないので、完全には信じきれない。でもやっぱり信じている。それに事の真偽よりもこういう人がいたことにした方が何かと良い、というような所です。

 すこし合気道から話は逸れるのですが、僕は小学生の時に映画back to the futureを見てスケートボードを買って貰ました。とは言っても当時のスケボーは固い一枚板で、板のしなりもないので、大したトリックがありませんでした。古いスケボーの本に載っているトリックは、板の上で逆立ちしてみるとか、前輪だけで走ってみるとか、手をついて後輪をスライドさせてターンするとか、その程度のものばかりでした。何が言いたいかというと、基本的にスケボーというのは地面の上を滑るもので、トリックも地面の上を移動する範疇を超えるものではなかったということです。もしも地面を離れるつもりならジャンプ台かハーフパイプが必要だった。
 ところが、高校に入ってから買ったスケボーは現在のスケボーと同じ形(板の上面が黒いやつです)で、板もしなるし、上面全体に滑り止めが施されていて、なんとすこし練習するとオーリーというジャンプができるようになります(駅前なんかでバタンっと大きな音を立てて練習しているのを見た人もあると思う)。
 タイヤの付いた板の上に乗って、上手に飛び上がると、なんと自分が乗っている板まで一緒にジャンプするのです。もちろんスノーボードのようにバインディングもなにも付いていません。靴は単に板の上に乗っているだけで固定器具なんてない。
 不思議ですよね。
 僕は練習してオーリーが飛べるように(高くはないけれど)なったわけだけど、それは実際にオーリーを飛んでいる人たちのビデオを友達が持っていたからだった。実際にそれをしている人がこの世界にいたからだった。もしも先人が一人もいなかったら、目の前にスケボーがあっても、僕はオーリーなんて考えつかなかったと思う。もしも考えついたとしても、練習の途中で、こんなのどうせ無理なのだ、と思ってやめてしまったと思う。
 できたのは一重に先人がいたからだ。できる人がいるのだから自分もできるかもしれない、少なくとも原理的にはできるはずだ、と思ったからだ。

 同じように、武術においても「できない」という枠を外すためにも、より遠くを目指すためにも、神業を持った人が本当に存在する、ということにした方がいい(念を押すと僕は普通に信じているけれど)。

 塩田館長は若い時に柔道剣道をやっていた血気盛んな人で、植芝先生に一瞬で投げ飛ばされて、それから合気道を始められたということだ。それから8年間、塩田館長は植芝先生に合気道を習われたわけだけど、植芝先生の教え方や、あと有名な金魚による反射神経の養成などを合わせて考えると、塩田館長はほとんど自前で合気道を体得したのではないだろうかという気がする。目の前に植芝先生という超人的な人がいて、その人が実際にできていることだから自分にも実際に出来るはずだと試行錯誤を重ねたのだと思う。

 植芝先生はもうエピソードに事欠かない人で、「赤い光が飛んでくるから、それを避ければ、その後に銃弾が飛んでくる」と言って鉄砲にも当たらない等、超人的な伝説がいくつも残っている。
 他にも、昔の武芸者の伝説は日本に沢山残っていて(葉っぱが地面に付く前にそれを十何回切ったみたいな話です)、それらを「ただの昔話」ではなく、「本当にあったこと」と考えるところから武術の研究をはじめて、実際にかなりの成果を挙げていらっしゃる方に甲野善紀先生がいます。
 甲野先生には実際に技を掛けて頂いたこともあるので、僕も今では人間には想像以上の身体能力が備わっているのだと思っています。

 今日も長くなったので、また次回に続きます。
 
 

武術の真偽。

2010-01-25 18:36:43 | Weblog
 昨日簡単に合気道のことに触れたので、今日も引き続き武術に関することを書いておこうと思う。これは、合気道とかってなんか胡散臭い、という人たちに対する答えの一角にはなるのではないかと思う。

 僕はベースに子供の頃少しやっていた少林寺拳法とボクシングがあるのですが、少林寺拳法を作った宗道臣の本も父親が持っていて、その中には合気道家が道場破りに来たのをあっさりやっつけた、という話が書かれています。今から思うと宗道臣はあまり心の広い感じのことを書いていなくて、空手の試割りについても「瓦を割るならハンマーを使えば良い」みたいなことを書いていました。子供心にもなんとなくロマンのない人だなと思ったけれど、少林寺拳法はとても合理的で良くできた武術に見えたので、とりあえず僕も瓦を割るならハンマーでいい、とつぶやいておくことにした。

 ちなみに、空手やテコンドーの演舞では瓦を割ったり板を割ったりしますが、実は試割り用のすぐに割れる板などか存在します。みんながそれを使っているわけではないと思うけれど、演舞を注意深く見ていると蹴りが当たる前に持っている人のインパクトに備えた緊張だけで板が割れていることが稀に見られる。

 閑話休題。
 それで、当時これこそが最強とは言わなくても、最もクレバーな武術だと思っていた少林寺の本に合気道は駄目だみたいなことが書かれていたので、僕もじゃあそうなのだろうと割合素直に思い込んでいた。

 話が変わるのは高校生の頃で、テレビに養神館の塩田館長が写っていたのを見た時だ。塩田館長は既に亡くなっていたので、流れたのは記録映像だったけれど、演舞が凄かったので僕は吃驚した。だけど、既に合気道は駄目だという偏見を持っていたので、こんなのはやらせなんだよバカらしい、と思い直してテレビを見ていた。
 もしかしたら本当かもしれない、と思ったのは、J・F・ケネディの弟ロバート・ケネディが来日したときのエピソードを見てからだった。ケネディは演舞があまりにも胡散臭いので自分のボディガードを塩田館長に立ち合わせた。すると塩田館長はあっさりとそれを取り押さえたという。これはケネディ自身が書いた文章で残されている。

 これは世界中の大抵の武術にある技だと思うけれど、敵の手首を極めて投げる小手返し(投げ)という技が少林寺にもある。それを初めて習ったとき僕はすっかり感動した。その時に格闘技って面白いと思った。柔道みたいに相手の襟だとか帯だとかを掴んで、それで足を掛けて、というような大きな動作をしなくても人を投げる(厳密には手首が折れないように倒れる)ことができるのだというのは衝撃的なことだった。
 それまで、僕の中には人を投げるには柔道みたいにしなくてはならない、という固定観念があったので、そうやって手首を極めて投げるということは想像もできなかったのです。それが小手返しを習うことで覆った。だから、もしかしたら、さらに小さな接点とモーションで人を投げることが本当は可能で、それを僕が単にまだ知らないだけなのかもしれないとも思った。

 それを確かめるべく、大学へ入ると同時に合気道を初めた。大学のサークルだったので、なんとなく体を動かしたいとか、護身術を習いたいとか、ダイエットしたい、とかそういう目的で特に「強さ」ということは気にせず練習している人もたくさんいたけれど、それと同じくらいの数のメンバーが「合気道で本当に強くなれるのか?」ということを追求していて、現役の自衛官もいたし他の武術出身の人もいた。先輩などは隣で練習している剛柔流空手の人と対戦して怪我をさせ救急車が来たこともあった(そのとき僕はいなくて、聞くところによれば膝を顔面に入れて鼻を折ってそのまま投げて失神させてしまったとのこと。合気道は当て身7割投げ3割を地で行くような人だった)。

 そこで僕は随分熱心に合気道を稽古した。半年だけ。半年でやめるのは早すぎるだろうと言われるかもしれないけれど、僕はその半年間本当に熱心に稽古をしたし、トップの先生方に稽古をつけて頂いたときにここじゃないと思ってしまったのだ。今から思うと、やっぱり辞めるには早すぎたと思う。でもその時はそう思ってしまって、もう練習をするモチベーションが失くなっていた。

 辞めない方が良かったと思う理由も、辞めても仕方なかったと思う理由も、もちろん両方がある。

 先に辞めなかった方が良かったのではないかと思う理由を書いておくと、自分の未熟さ故にわからなかったことが沢山あったのではないか、ということだけではなくて、もっと具体的に気に掛かったままのことがあった。
 それは、一番上の先生に稽古をつけて頂いた時のことだ。先生は植芝先生に直接師事された方で、僕が道場へ行っていた頃既に随分な高齢だった。普段歩いているところなどを見ると不安になるくらい、一見どこにでもいそうな老人だった。だけどもちろん合気道は上手い。今でもはっきり覚えているけれど、右手で先生の左手を取ったとき、瞬時に手を引かれて体を前に崩され、そのまま後ろに回り込まれて「重心が前に寄ってる」とお尻を叩かれた。

 あっけに取られるような出来事だった。
 すごいとかそういう感じではなくて、単に「えっ」という感じ。
 後で甲野善紀先生のことも書きますが、甲野先生の技に掛かった時もそうだった。「いや、今のは違うんです、崩れちゃいましたけど、これは先生の技のせいじゃなくて、僕が気を抜いていたせいです、もう一度お願いします、真剣になればこんなことにはならないはずです」と言い訳したくなるような。だけど、次にやっても同じことが起こる。本気が出せない。本気を出せないままあっさりと崩される。

 でも、本当になんだこれはと思ったのは、この一回切りだった。後は単に弟子たちが馴れ合いでやられているだけに見えた。
 合気道の演武を見ていて、あんなに激しく人が投げられるわけがない、自分から飛んでいるに決まっている、という人は沢山いる。それは真実だ。試しに手のひらを上に向けて左手を前に伸ばしてみて欲しい。その左手を誰かに両手でしっかり握って貰って、伸ばした左腕を軸と見立て、相手から見て時計回りに180度捻って貰って欲しい。捻られた方へ体を傾けなければとても立っていられないはずだ。じゃあ次にこれを高速でやられたらどうなるだろうか。自分から体を飛ばして捻られるに合わせて自分で回転するしかない。そうしないと手首が折れる。
 だから、演舞で受けを取る人は自分から激しく飛んでいる。受けの人が素人だったら技が掛からないのではなくて、その人の手が折れるということだ。

 が、しかし。物事というのは色々な方向へ発展するもので、この「ちょっと捻られると自分で飛んでしまう」というのが習慣化した人々も確実に存在する。まだ掛かっていないのに、技の前兆を察知した瞬間に自分から飛んで受身を取ってしまう人たちを僕は沢山見た。
 相対する相手との感応を高める、ということだけが目的ならそれでも構わないかもしれない。でも戦うということを考慮したときにこれは好ましいことではない。
 高弟達が師の微妙な動作でバッタバッタと倒されるのを見ていると、自分の番が回ってきたときに自分だけ師の動作に応じないというのは雰囲気として難しい。僕は多少ひねくれた所があるので、簡単には倒れたりしないけれど、それでもサークルの他のみんなのことも考えると永久に頑張り続けるということはできなかった。
 それに、練習の目的というのが師に技を掛けられることなのか、師の動作を感知することなのかどちらなのかはっきりともしなかった。

 結果的には、あるとき、僕が先生に楯突いた為に練習時間が延長され(部長はヒヤヒヤしながら見ていたと後で言っていた)、そのとき先生との会話は「これは格闘技じゃない、健康体操みたいなものだ」というセンテンスで締めくくられた。道場主である10段の口から健康体操という言葉が出てきて僕は腰が砕けた。今ではこの健康体操という言葉の含みが分かるけれど、当時の僕は額面通りにしか受け取れなかった。

 稽古が終わったあと、みんなが道場の掃除や内弟子へのお茶出しをしているとき、僕はある内弟子に「君は面白いね、掃除とかいいからちょっと話そう」と呼ばれた。結局これも偉そうに話す彼のことが気に食わなくて、僕は「じゃあ、ちょっと勝負して貰えますか」みたいなことを言ってなだめられて終わった。
 なんだかトゲトゲしていたものだと思う。これを書いていて、今、若いというのがどういうことか実感した気がする。まだ僕は二十歳にもなっていなかった。

 辞めた理由までまとめて書いてしまったようなものだけど、僕はこの背後をさっと取られたときのことが忘れられなくて、あれが単なるまぐれだったのか、それとも本当の実力だったのか、今でも心に引っかかっている。
 それから、呼吸法という二人で向かい合って座って、一方がもう一方の手を押さえ、抑えられた方はどうにかして手を上げる、という練習があるのですが、これも基本的にはそんなに上手でない人同士だと力の強い方が勝つことになる。でも、ある小柄なおばさんとこれをしたとき、僕は完全にいなされた。手を抑えられたら動けず、手を押さえてもこっちが崩される。何度やっても。だから、上手な力の使い方というのは本当にあって、それはこの道場でちゃんと養われているのだと思った。
 これが辞めない方が良かったと思う理由。

 辞めた理由はもう書いてしまったようなものなので、文章も随分長くなったしこの辺りで一旦終わることにします。
 この後、僕は合気道的なものは辞めて、元通り、合理的な総合格闘技みたいなものだけをするのですが、甲野先生の技を体験する機会があって、やっぱり合気道的なものも確実に存在するのだと知ることになります。
 それから、これは有名な事件ですが柳龍拳のことと、いくつかの塩田館長の動画を紹介したいのですが、それも次回に。


伊勢神宮

2010-01-24 20:53:41 | Weblog
 ちょうど1週間前の日曜日、伊勢神宮を参拝してきました。小学校で行った修学旅行以来なので、伊勢に足を踏み入れたのは実に18年ぶりということになります。

 ちなみに僕が通っていた小学校は京都にあって、修学旅行は奈良で大仏などを見た後、そのまま伊勢まで行って宿泊、翌日夫婦岩だとか水族館だとか伊勢神宮を見て帰ってくる、というたった一泊二日の短いもので、小学校の修学旅行なんてそんなものだろうと思っていたら、少し下の世代ではそうでもないようですね。京都から奈良って近すぎでしょ、と言われました。

 記憶の中に、伊勢神宮はほとんど残っていなくて、単に砂利の上をみんなでぞろぞろと歩いたこと、川と橋があったことしか覚えていない。神社そのものに関してはほとんど何も覚えていないと言って過言ではない。
 先週、伊勢神宮を訪れて、小学生のときの自分の感受性の低さに愕然としました。こんなものすごいところへ来たのに何に記憶もないなんて。

 伊勢神宮は僕にとって「日本」でした。雰囲気が神聖であるだけでなく、その造形の美しさは衝撃的です。シンプルだし質素だし、なんてことないのにもうものすごい。大きな木々に囲まれて、シンと立つ社は何かとても静かな長い呼吸のように見えた。どうしても古代の日本に思い馳せないわけにはいかない。かつてこの国にはもっと沢山の、巨大な樹樹が生い茂り、人はその中で暮らしていた。勝手な想像に過ぎないけれど、その時代が見えるようだった。日本とか倭という言葉をとても強く意識した。ここは日本だ。まるで日本の伝統代表みたいな京都は、ここに比べれば日本より中国にまだ近いような気がした。僕の中での日本という言葉における基準点は、伊勢を一目見た瞬間に書き替わった。

 外宮、内宮の順に回ったのですが、外宮ですでに大きなインパクトを受けていたせいか、内宮ではそれほどの衝撃は感じなかった。でも共にとても力のある神社だということは確かだった。毎年参拝してもいいくらいだ。
 僕は今まで神社で二拝二拍一拝をしたことがなかったけれど、ここでは自然にそうしていて、鳥居をくぐるときにもお辞儀をした。とても沢山の人がそうしていて、僕はそういった神社を見たことがなかったので、改めて日本人の信仰というものを考えた。

 僕と神道の一番大きな接点は、今まで何度も簡単に済ませてきた神社の参拝でも、日々の無自覚なアミニズムでもなく、たぶん合気道だろう。
 合気道は開祖植芝盛平先生が神道に熱心だったので、ものすごく強く神道の影響を受けている。他のいくつかの武道でもするように、道場に出入りするときは道場に礼をするし、道場には神棚があって、稽古前には祝詞を上げるし、合宿では冷水で禊もするし、鍛錬の名前もフリダマとかアマノトリフネとか意味ありげな名前が付いている。
 告白すると、僕は当時これらのことをバカらしいと思ってしなかった。誰もいない道場に一礼したり、神棚だって別にただの飾りだし、禊も仕方なくしたけれど無意味だと思っていた。それは合気道という武術にテクニック以上のものを求めていなかったからだ。
 今では自分がとても未熟で浅はかだったと思う。
 合気道と神道のこと、あるいはその思想的なことはまた後日書きたいと思う。

世界を開きクマを助ける。

2010-01-13 12:28:58 | Weblog
 今日昼食の時にTEDを見ていたら、インドで小熊を残酷な方法で訓練してダンスさせるという伝統をやめさせた男の人の話が出てきました。昨日書いたことに関連しているのでリンクしておきます。

 Kartick Satyanarayan: How we rescued the "dancing" bears

 そのコミュニティではクマのダンスを観光客に見せるなどして生計を立てていたのですが、彼は他の仕事だってあることを教え、あと教育を受けていなかった子供達に教育の機会を与えます。
 そして村人たちはクマに依存した生活から抜け出した。

 母クマを殺して、捕まえた子グマに口輪をハメて残酷に訓練し、それで覚えさせたダンスを客に見せるという代々続く文化と、そういうことをやめて普通に働くのと、どちらが正しいということは誰にも言えない。
 だけど、単に僕はクマをイジメない方が好きだし、立場を問われるならそっちへ付くだろう。

 Kartick Satyanarayanがしたことのポイントはこの閉じられたコミュニティを開いたということだと思う。彼はクマのダンス以外の仕事、つまり社会の他の部分にコミットした仕事を彼らに教えた。子供には教育を。それらは今まで閉じていたコミュニティを開き、広い世界と繋げようという動きだ。

 グローバリゼーションに伴なうネガティブな面を挙げて、別にみんな一緒くたの世界になんてなる必要ない、地域地域に根ざしたモノを守ることが大事だ、という声もたくさん聞かれるけれど、僕はやっぱり世界中がつながっている方が好ましいと思う。
 国や文化圏を違えて、そして差異を楽しむというのはいつか消えてしまうだろう。世界中がフラットに画一化されて、あらゆる人種があらゆる地域で混ざり合って、言語は統一され、残る差異は気候と歴史に関するものだけとなり、交通網も発達して、いま「海外旅行だ」と張り切っているものが日常になり、外国語を学ぶ楽しみもなくなり、それをつまらないと思う人もたくさん現れるだろう。僕たちは一つになりたいけれど違いも楽しみたいと思っている。世界が一つになる過程を楽しみたいと思っている。だから世界が一つになったなら、それはある意味クリアでゲームオーバーなのだ。
 けれど、心配はいらない。それはファーストステージのクリアであって、その時僕たちは異文化を他の星に求めるようになるだろう。この広い宇宙に知的生命体が僕たちだけだなんて本気で思えない。

殺して食べること。

2010-01-12 17:19:36 | Weblog
 先日、殺されるイルカたちに関しての動画だけをアップしましたが、今日は少しだけそれに関連したことを書いておきたいと思う。

 まず、イルカの動画はmixiニュースで「シー・シェパード」の記事から飛んだ日記で見つけました。mixiアカウントをお持ちの方は http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1385000932&owner_id=1655849 からその日記を読むことができます。シー・シェパードは結構流行っている言葉だし、この日記にもたくさんのコメントが付いています。なんというか、インターネットでこの手の話をしたとき、話題に上げたときに言われそうなことが大体は言われていました。

 こういうことは議論して答えが出る問題ではありません。だから、すべての理屈は何かを守るために無理やりくっつけられたデコレーションでしかない。こういう問題について話すとき、相手の些細な間違いや無知につけ込んだりして強い口調で何かを断言する人は、単に誰かを攻撃したいという欲求を発散しているに過ぎないのだろうなと思います。昔ローリングストーンズが歌っていたみたいに。

 僕たちがこういう話をするとき、その礎にすることができるのはデータでも論理でもなく、自分の感覚と感情だけです。そこから導き出される理想的なゴールがあって、そのバリアをどういう風にクリアするのか、あるいはどこで妥協して折り合いを付けるのかという時にだけデータと論理は機能する。出発地点が高々自分の感情に過ぎないということは忘れない方がいいと思います。
 そして、僕たちは自分の感じ方や感情以外のものを拠り所にして生きることはできません。生きることはできるかもしれないけれど、それでハッピーに生きることはできない。

 先に僕がこういった「動物を殺して食べる」という事象についてどのような思いを持っているか書いて置きます。
 僕は自分では魚介類までの生き物なら殺して食べたことがある。でもそれより大きく高等(生物学的な意味合いで。念の為)な生き物を殺して食べたことはないし、たぶん僕にはそれはできないと思う。間接的には食べて来たけれど、実際にお腹が空きました、目の前に豚がいます、どうぞ自由に殺して召し上がって下さい、という状況になっても、僕は殺さないと思う。代わりに食べ物を探しに他の所へ行くだろう。無論、余程の極限状態になったときはどうするか分からない。生き延びるために目の前の豚を殺す以外の道がないのなら殺すように思うけれど、もしかしたら自分の生の方を諦めるかもしれないとも微かに思う。こればかりは本当に分からない。

 僕はできることなら動物を殺したくない。殺される動物が少ない方がいいと思う。

 弱肉強食は自然の摂理だというけれど、じゃあその自然がダメなんだと思う。僕はとてもじゃないけれど生き物が殺し合わなければ維持できない自然を素敵だとは思えない。自然の摂理だ、の一言で何もかも片付ける人は、自分がどうして「自然」を基準に採用したのか言えるだろうか。

 文化だという人も同じだ。はっきり言って文化なんて言葉はどうだっていい。残したいものは残せばいいし、残したくないものは止めればいい。僕たちが今ここで決めればいい。代々受け継がれてきたからって何でも残すのが良いわけじゃない。昔アフリカの女性器切除文化のことを書いたけれど、それで死んだり苦しんだりする女の子がたくさんいるなら文化だって名前つけて守るのは愚の骨頂だ。祖先がやってきたからって僕らは何でも同じようにして良いわけじゃない。文化というのは惰性のことではないし、もしも本当に文化という言葉が価値を持つとすれば、それは長い年月の取捨選択を経てきた故のことで、全部とりあえず捨てません、ということなら文化という言葉は価値を持ち得ない。つまり文化を文化というレッテル故に守るというのは既に論理破綻しているわけです。

 国際法もどうでもいい。国際法で禁止だろうがOKだろうか、そんなの殺される命には関係がない。僕たちは法律でこれこれの生き物は殺してもいいです、みたいなことを決めることは本来できない。

 だから、自然とか文化とか法律を根拠にして話を始める人の言う事はそれこそ空論だ。

 人は何をしてもいい。行動を制限する論拠はこの世界に存在しない。殺人も戦争もなんだってありだ。ただ、僕はそれらを嫌だと思う。どうしてかは知らないけれどそう思う。動物を殺すのも、動物が殺されるのも嫌だ。ここからしかスタートできないし、だから相手を説得することもできない。僕にできるのは頼むことと、嫌々やっている人に他の選択肢を差し出すことと、強制力を持つこと、マジョリティを形成することだけだ。

 僕は動物を殺して食べることに関して、それが嫌だと思っても、それほど大きなコストは割けない。イヌイットに会いに言って、もっと暖かい色々な食べ物のあるところに移住してアザラシを殺すのはやめて下さい、なんて頼むことはできない。それどころか肉だって口にする。ただこうして思うところを書き出すばかりだ。

僕の本棚。

2010-01-07 22:34:44 | Weblog
 友達のブログを見ると、ブクログという自分の本棚をウェブ上で再現したような物が付いていたので、僕もやってみました。残念ながらgooブログツールには対応していないので下の方でリンクを張って置きます。
 宜しければ覗いてみて下さい。

 手元にあった本をざーっと入力して、それから実家の本棚を頑張って思い出してみました。とても思い出せるものではないので、当然網羅できているわけでもないし、中には図書館で借りただけの本も混じっているかもしれません。教科書に至ってはろくに読んでいないものも随分混じっています。

 今は色々と考えることがある時期なので、自分がこれまで読んできた本を思い出すのはタイムリーな作業だったかもしれません。僕は随分本の好きな子供だったので、本棚というのはパーソナリティーの結構大きな部分を表しているような気もします。色々なことを思い出しました。


  http://booklog.jp/users/sombrero-records

vision.

2010-01-06 12:10:51 | Weblog
 僕達の網膜上には視細胞が錐体と杆体を合わせて、せいぜい100万個とか200万個とかのオーダーしか存在しない。軽く1000万画素を越えるデジカメの売られている昨今、100万画素というのがどれほど”荒い”画質なのかは簡単にイメージできると思う。さらに暗闇と高い時間周波数のチラツキに強い杆体は量子効率ほぼ100%、つまり光子一つの入力でちゃんと興奮するけれど、僕達が日常メインでお世話になっているカラーに強い錐体は光子が100個くらい入ってこないと興奮しない。カメラとしての性能に置き換えたとき、僕達の目というのはそんなに優れたものではないように見える。

 だけど、どうだろう。この視界の滑らかさ。
 たった100万個くらいの視細胞から入力された情報でどうしてこんなにクリアで滑らかな世界を見ることができるのだろう。

 それは過剰な程の情報処理を僕達の視覚が行っているからだ。
 言うなれば、形而上的、哲学的な意味合いを持ち出す間でもなく、僕達の見ているものはほとんど嘘なわけです。たった100万個くらいの点々から入って来た情報(サンプリング周波数も失念したけれどそんなに高くはなかったと思う)を、視神経コラムでハード的にすぐさま処理して脳に送るので、脳が得る情報は既にリアルからかけ離れたものになっています。そこへ脳内で様々なエフェクトを付加することで僕達はこのビジョンを得ている。

 どんなエフェクトが掛かっていて、どれだけの虚を脳が生み出すのかという話は数ある錯視図形に譲るとして、ここでは僕達が滑らかな画面だという時のその「滑らかさの基準」は一体何なのかということを考えたい。

 考えるまでもなく、その滑らかさの基準は「僕達自身が生まれてこの方体験し続けている視覚の見え方」だ。言い方がちょっと回りくどいけれど、「この画面は粗い」というとき、それは「実際に実物を自分の目で見ているのに比べて荒い」ということを言っている訳です。

 このとき、僕達は「自分の生の視覚以上に滑らかな画像」というものをイメージすることができない。論理的には画素をこれ以上増やしても人間の目には認識不可能だ、というような人の視覚の限界の話は簡単にできる。でもリアルに自分達の生の視覚以上にスムーズな画像をイメージできない。ビジョンという点において、自動的に自分の生来の見え方を頂点と設定しているわけです。

 ところがこの滑らかさというのは、単に我々がこのスケールで生存するのに十分便利だった、くらいの理由で採用されたものにすぎない。つるつるに見える金属の表面が原子レベルでデコボコしていることなんて見えなくても別に日常生活に差し障りがない。だからそういったデコボコは見えないことになっていて、滑らかな一つの面であるということに落ち着けている。
 だから、この滑らかさの起源というのは多分とても曖昧なものなのです。これくらいは判別できて、これ以下はもうまっすぐな感じでベクトル画像みたいにしちゃえ、とっつけられて作られたものなのです。
 別に僕達の視界はもっとデコボコでも滑らかでも良かったはずです。

 前段落の話はちょっと本題から外れていて、ここで2つの話題をごちゃ混ぜにしてしまいそうなので整理すると、1つは「我々は我々の視界以上の滑らかさを想像することができない」ということ。もう1つは「その滑らかさにはあまり根拠がない」ということです。1つ目のトピックにある滑らかさと、2つ目のそれは異なっています。1つ目のは意味としての、イデアとしての滑らかさ。2つ目のは物理的な滑らかさです

 僕がこの文章で主張したいことは、要するに「僕達の視界は物理的になんとなく選ばれた滑らかさを持っているが、僕達はそれを無自覚に究極的な滑らかさとして採用し、滑らかさにそれ以上の意味を付加することができなくなっている」ということです。もっと精度の高い視覚も顕微鏡からのアナロジーでイメージすることはできるし、もっと精度の低い、たとえばPCの100画素を一つを見なしてしまうような視覚だってピンボケからのアナロジーで考えることができる。
 だけど、物理的実体を離れた(僕達の脳が掛ける虚のエフェクトだろうがなんだろうが構わない)滑らかという意味そのもの自体において、僕達の普段体験する視覚以上に滑らかな何かを想像することが叶わない(スーパークリアな感じとはちょっと違うはず)。そういうのがなんだかもどかしいなと思う。

inside, outside.

2010-01-03 12:49:17 | Weblog
 その昔「真理はどこにあるのか?」と山伏に聞かれた一休禅師は「ここ、胸の中」とあっさり答えた。そんなことは分かってるというか、そんなのは答えになってないというか、兎に角その答えに納得のいかない山伏は短刀を取り出して、「そうか、じゃあその胸切り開いて真理を見せてもらおう」と詰め寄った。これは僕の全く勝手な想像に過ぎないけれど、きっと真面目に真理を探し求めていた山伏は、相当にリベラルで変人だったらしい一休に対して、一種嫉妬の混じった憤りを覚えたのだろう。

 一休はここで空かさず、

『年毎に 咲くや吉野の 桜花
 樹を割りて見よ 花の在りかを』

 と歌を詠んだ。流石だ。
 山伏はこれで一発ノックアウトされて、そのあと一休の弟子になったという。
 真理が胸の中にあること、そんなことは分かってる。そう、分かってるのだ。いつでも既に。

 僕達は現代の科学を駆使して、ナイフで開くような大雑把な開き方じゃなくて、電子顕微鏡もゲノムの解読もなんでもやって、樹を開いて花の在りかを知ることができる。今は。もちろん、それは今の科学が昔の科学よりは科学という意味合いにおいて進んでいるということに過ぎないから、一休が言わんとしたことはそのまま今も同じだ。分子も原子も電子も、別に真理ではなく何かの影に過ぎない。

 分かっているのに、それを説明する言葉すら持たず、それどころか言葉は永久にそれを説明しないし、説明は永久に説明にならず、説明と理解という概念においてそれらが既にベクトルを外しているということを知っているとき、僕達はただ行動するしかない。