ハイパボリック。

2006-09-21 11:58:18 | Weblog
 連日、柔道のことばかり書いていますが、そういえばどうして柔道って体重別がメインなのだろう。確かに無差別級っていうのもあるようですが、無差別級には大きな人ばかり出てくるみたいです。水泳の自由形がクロールばかりになるみたいなものでしょうか。

 柔よく剛を制す、というフレーズはどこに行ったのだろう。

 むろん、

 剛よく柔を断つ、という双対のフレーズもありますが、あれでは柔道ではなくて剛道ではないかと思う。

 先日の記事に「社会人」という言葉を用いて、そこに「社会人」という言葉は本当はなんの意味もない言葉だ、と書くのを忘れていました。友達がくれたコメントに返事を書いていて思い出した。
 それで、その記事に書き足しをしようかと思ったのですが、ちょっと思うことができたので書き足しをよして新しいこの記事を書いています。

 社会人という言葉は実に空虚で実態のないものに見える。
 この社会で生きている以上は全員が社会人だとも言える。

 極々一般的には「社会人」という言葉は「自分でお金を稼いで生きている人」に当てはめられるのかもしれない。
 だけど、もっともよく「社会人」という単語が用いられるのは、

「もう社会人なんだから、そんな馬鹿なことをしてはいけない」

「社会人の自覚を持って」

 とかいうような文脈だと思う。
 このような文章から人が何を感じるとか言えば、それはきっと「束縛」ではないでしょうか。
 構造的には、

「もうおにいちゃんなんだから我慢しなさい」

 という台詞とまったく同じだ。
 つまり、あやされているわけです。

 こういうことは昔から思っていた。「社会人」というのはひどい言葉だな、と思っていた。だけど、最近明治の悪口を書いているせいか、僕はこの「社会人」という言葉とその使用法の源を、またしても明治に見出してしまったのです。

 これは昔、高橋源一郎さんが明治文学の講義のときにおっしゃっていたことですが、明治文学というのはあるフォーマットを持っている。
 そのフォーマットというのは、

「青年が生き方や女性関係に悩み無茶をして、でも最終的には青年期の終わりとともにまっとうな国の役に立つ人間になる」

 というものです。
 基本的に明治文学の主人公は男(青年)で、しかも大学へ行くようなエリートが多い。それが学生時代に反社会的になり、卒業するとちゃんと働くようになる。

 青年期は無茶が許されるが、それが終わるとまっとうになる。
 たとえば、鴎外の舞姫では留学先で恋人ができて妊娠までするのに、結局それを捨てて日本に戻って官僚になる(なんてひどい話だ)。

 このフォーマットで、青年期を学生時代、青年期の終わりを社会人とすれば、現代日本がそのまま出来上がる。

「学生時代は無茶が許されるけれど、社会人になったらまっとうになる」

 現代人って、明治人だったんですね。

 昔は悪かったけれど、今はまじめ、というのは日本人が好む形式です。元暴走族だけど一念発起して東大に入って今は教師、とか、そういう感じの物語。
 ちょっと考えてみれば本当は「昔から悪くなかった」ほうが全然いいわけです。昔悪かったということは被害者が存在する、ということだ。

 でも、「昔は悪かった」の方が物語としては面白い。
 それは僕たち日本人の物語の好みが、明治文学に影響を受けているせいだとも考えられなくはない。

 社会人だからどうのこうの、という言い方は、明治文学の名残で、明治文学はそもそもロシア文学の真似だから、僕たちは近代の初めくらいのロシアの文学を引きずって生きていることになる。
 それで、ロシア文学を僕は全然分からないのですが、大きな偏見を持っていて、ロシア文学は重苦しくて暗いように感じられて仕方がない。できれば、そんなものを引きずって生きていきたくはないなと思う。

 少なくとも、「社会人だから」というのは国家が人の生き方を決めようとしていた時代の名残であり、決して僕たちの味方となる言葉ではないと思う。

海賊船を探せ!

2006-09-19 19:23:11 | Weblog
 銀杏並木を抜けて門の角を右へ折れると地下鉄の駅へ出る。長月も後半を迎えたというに、昼を下がった炎天の強さにはまだ差ほどの衰えも見出すことができない。そういえば昨日も蚊に足首を酷く食われた。夏というのはこのように終わらぬものなのか。ということをOに言うと、「しかしもう蝉は鳴かぬし、夜には秋の虫が鳴いているではないか、君」とやんわり片付けられた。それもそうである。

 最前まで漱石を読んでいたので作文が変かもしれない。私は長らく夏目漱石の読者ではなかった。高等学校のとき夏季休暇の課題に「こころ」を読書してその感想なり考察なりを示すように、というものがあったので、私は文庫で「こころ」を手に入れて、布団に転げて読んでみたのであるが一向に面白くなく、途中で放り出して寝てしまった。課題にはほとんど空想のいい加減なものを提出して凌いだ。

 以来、私は漱石の小説を避けて生活していた。時々思い立って、我輩は猫である、だのなんだのを広げてみては、すぐに閉じて歩き去った。

 但し、夏目漱石が押しも押されぬ日本文学の最高峰であることは疑いがない。私の尊敬する全ての人が漱石は良い、面白い、と言う。

 疲れました。
 これって僕の言葉じゃないですね。

 漱石は単に日本文学として優れているのではなくて、はっきりいってその外に飛び出している、日本文学、とくに明治文学の枠で語れるような代物ではない、ということを結構多くの批評家が言っていて、でも、僕は漱石が全然分からないので困っていました。僕には文学をいうものは分からないんだな、と。

 ちょっと話はそれますが、漱石は明治の人で、覚えやすいことに明治の年号と年齢が一致しています。明治27年には漱石は27歳だというように。

 閑話休題。

 僕が最初に好きになった、文学者らしい文学者というのは太宰治です。それはものすごい影響を受けていると思う。だから、僕は文学というものを考えるときにどうしても太宰治を一つの指標にしてしまう。たとえば、作家や批評家を「太宰を好む人々」と「太宰を好まない人々」に分けてしまう。

 先日、吉本隆明さんと高橋源一郎さんの対談を読んだのですが、主題は「太宰治」で、吉本さんも高橋さんも太宰が好きだということが分かった。
 対して、村上春樹さんなんかは、僕は太宰は駄目なんです、というようなことを柴田元幸さんとの対談で言っている。

 僕は高橋源一郎さんも、村上春樹さんも両方とも好きなのですが、その両人は「太宰治」というラインを用いるのなら2つのサイドに割れてしまうわけです。
 この太宰治ラインというのは僕にとっては結構大きい。そういった意味では高橋さんと村上さんは、僕の中では結構な遠距離にいらっしゃることになる。

 ところが、高橋さんも村上さんも、やっぱり漱石は褒める。
 僕にとって重要な太宰治というインジケーターがはじき出すyesとnoの両方が夏目漱石はいい、という答えを出す。これはもう読まないわけにはいかないな、と思い、最近少しずつ漱石を読んでます。

 昔よりも少しは理解できるように思うけれど、まだ、引き込まれるポイントは発見できません。

 漱石は日本文学の王道とも言えるものですが、同じく映画の王道としてはスピルバーグを挙げることができます。

 僕は英語が得意ではないので、いい加減に「英語はしゃべれない」という状況を打破しようと思い、このところ毎日映画を見ています。
 なんとも都合のいい、いかにも怠け者らしい、本当に勉強になるのかどうかも怪しい方法(映画を見る口実ではないか、という意見もなくはない)ですが、とにかく見ています。

 何度も同じ映画を見たって仕方ないけれど、本来なら一つの映画をほとんど全台詞覚えてしまうまで見るほうが良いので、我慢して4回くらいは見ています。4日間毎日同じ映画を、しかも字幕なしで見るというのははっきりいってつまらない物です。僕は「グーニーズ」という映画が一番好きなのですが(これは僕の人格の30%を形成していると言っていい)、流石の「グーニーズ」も4回連続して見るともう見る気分が起こらない。

 今回、改めてグーニーズを見て思ったのですが、スピルバーグってやっぱり天才だと思う。特にオープニングの撮り方は、それはもうわくわくするしかない。

 僕だって本当は「好きな監督はトリュフォーです」とかゴダールだとか小津安二郎だとか言いたいけれど、でもやっぱりスピルバーグが好きです。それはもう断言するしかない。

 製作指揮をとった作品「back to the future」の一作目、ブラウン博士の研究室にマーティーがやってくるシーンはスケボーの使い方から何から、もう絶品だ。
 しかもスピルバーグは撮るのが早いし安い。
 制作費が安いというのは一つの能力指標にしてかまわないと僕は思う。

 しばらくスピルバーグばっかり見てやろうと思うのです。

トロピカル。

2006-09-19 18:38:49 | Weblog
 先日行われた柔道の世界大会で、女子が3位、男子が5位に終わったことから、実は僕は少なからぬショックを受けました。
 柔道はなんだかんだいっても日本が強いだろうと思っていたのです。ところが日本は全然勝てない。解説の、日本柔道なんとかの女の人は「私はそんなに実力の差があったとは思いません。団体戦なので、勢いのあるチームが勝つ。団体戦の怖いところですね」と言っていたけれど、そんなわけない。実力に差があるように僕には見えたし、結果も僅差ではなかった。

 時代は変わったのだ。

 日本人は手先が器用だとか、工業立国だとか、ITが進んでいるとか、アニメがすごいとか、そういうのはすでになくなりつつある。
 考えてみれば、一昔前まで日本の工業製品は高品質だと歌われたけれど、それ以前は惨憺たる有様だったわけです。映画「Back to the future」に、古い時代へ言って、タイムマシンの部品が壊れて「日本製、そんなの壊れるに決まってる」というシーンがあるけれど、当時日本は工業国でもなんでもなかったので当然の台詞だ。

 昔は工業国ではなかった。それから、工業大国になった。でももうそんなにすごくない。
 当たり前のことだ、栄枯盛衰の理。

 経済大国というのもそうだ。

 ただ、僕は日本がなんとか大国である必要はもうないと思う。
 ワークシェアリングじゃないけれど、ある国が何かに関して突出している、という時代じゃないように思えて仕方がありません。人は世界的に流動していて、当たり前だけどどこの国にも柔道の得意な人がいて、コンピュータの得意な人がいるわけです。そういうことは国家ではなく個人の問題だ。

 それに、やっぱり資本主義的な世の中というのはいくらかスローダウンする必要があると思う。競争って、別にみんながみんな好きなわけじゃないですよね。

 僕は竹中大臣が結構好きなのですが、彼が以前にテレビで、「世界をみてください、世界でやっていくのは厳しいことなんです」というようなことを言っているのをみて変な気分になった。
 竹中さんは、世界経済の中でやっていくのは大変だ、なぜなら世界経済は厳しいから、だからこういった厳しい政策もしかたがない」ということをおっしゃっていたのですが、言うまでもなく日本経済も世界経済の一員だ。
 だから、世界が厳しいから日本も厳しくするのは当然だ、と言われると、世界経済の厳しさというものに対する日本の責任というのはないのか、と問わざるを得ない。確かにこの弱肉強食みたいな世界で、日本の経済力を維持していくことは並大抵のことではないのだろう。だけど、その世界経済に加担している以上、それがネガティブな意味合いで厳しいのなら、われわれはその厳しさを和らげる努力もするべきだと思う。

 これは「社会は厳しいんだよ」と堂々と説教をする社会人に似ている。自分がその社会の厳しさに加担していることを自覚していない。世界が100人の村だったらという本があったけれど、世界が3人の人間でできていると仮定してみれば問題はよりはっきりする。

 その3人とは、社会人A、社会人B、非社会人だ。
 ある日、社会人Bは非社会人を呼んで酒を飲み始める。そして言う。

「社会は厳しいんだよ、君」

 そうすればきっと非社会人はこう思うはずだ。

「半分はお前の責任だろ」

 もちろん、世界人口を2人にして、社会人を1人、非社会人1人としてもいい。そうすれば、「全部お前の責任だろ」ということになる。
 現実には世界人口は60億もあるので、僕たち一人一人はその責任を認識しにくい。まるで他のどこかに全部の責任があるのだと錯覚してしまう。本当は各自に責任があるのだ。そして、言い換えればこれば社会を変える力が個々人にあるということでもある。

super-frog.

2006-09-18 00:05:14 | Weblog
 前回、翻訳の話をしていて、僕は翻訳というのは最終的には「この言語でも、あの言語でもない場所」に立つことだと、だいたいはそういうことを書いたつもりです。
 それで、間の抜けたことに続きを書くのを忘れていました。
 僕は別に、翻訳とは「この言語でも、あの言語でもない場所」に立つことだ、と言いたかった訳ではありません。

 昔、高橋源一郎さんの本を読んでいると、「ある小説の本物の批評を書こうと思うなら、元の本の倍以上のページ数が必要だ。なぜなら、まずは元の小説の全文を引用しなくてはならない、その後、自分の意見を書いて、最後に返事となる小説を書かなくてはならないからだ」というようなことが書かれていた。

 なるほど。僕は思った。それはそうだ。

 そんなものを書いても誰も読んでくれないし、あまりにも大層なものができてしまうので、今のところ批評というのはこういう形体を取らない。でも、本当の本当のところはこうあるべきなのだ。
 と、高橋さんは書いていらっしゃる。

 翻訳の話を書いていて、僕はこのことを思い出した。
 そして、翻訳というのは高橋さんのいう批評に極めて近いことを発見した。

 優れた翻訳家は「この言語でも、あの言語でもない場所」に立っているので、俯瞰的な考察が可能である。そうして、自己の思考を差し挟んで他言語による小説を差し出す。ここには「全文の引用」はないし、書かれた「自分の意見」もないけれど、「返事となる小説」はちゃんと存在している。そして明文化されていなくても、そこには「自分の意見」は含まれているし、「全文の引用」は元来がナンセンスだからなくてもいい(原文を当たれば足りることだ)。
 だから、変則的ではあるけれど、半分以上の条件を満たしている。

 というのはやっぱり強引だろうか。

 今日テレビで柔道の世界大会みたいなものが放映されていて、僕はそれを途中まで見ていたのですが、日本がフランスにこてんぱにやられてしまって吃驚した。フランスの柔道人口は日本のそれの3倍だそうです。フランス人ってそんなに柔道が好きだったんですね。やっぱりかわった国だ。

 もちろん柔道は日本ではじまった。でも、別に日本の伝統でもなんでもない。
 ついでにいうと、剣道も空手も。
 それから、これは先日Kに教わったところですが、能とか狂言とかほとんどの伝統芸能も。

 それらのベースとなるものは日本に確かにあった。
 だけど、すべて、明治政府がぶち壊しました。壊して、再編纂した。

 壊した理由はとても簡単なもので、西欧の「進んだ」文明を取り入れて、早く近代化を成し遂げたかったからです。その為には日本古来のものはほとんど全部邪魔だった。だから、明治政府は全部捨ててしまいました。
 ところが、海外に視察団を派遣したところ、万国博覧会というものがあって、そこには各民族の伝統文化がきらびやかに展示されていました。そうか、こういうものも必要なのか、と、そのとき政府は捨て去った伝統の価値をやっと見出して、ごみ箱を漁った。そうしてぐちゃぐちゃになったゴミを、今度は外国の人に対して見栄えが良いようにちぐはぐに繋ぎあわせて、日本の伝統というものを作った。

 ついでに、富国強兵のため、みんなが良く働くようにと、「日本人は質素で勤勉だ」という日本人観を作って垂れ流した。

 結果的に、日本は静かで質素でまじめな国だというイメージが日本国民に浸透した。

 たとえば、これは岡本太郎さんが言っていることだけど、もともと日本には奈良の大仏(今は古ぼけているけれどもともとは金ぴかで伽藍のなかも極彩色だったし、前庭ではきらびやかな踊りがあった)だとか、縄文土器だとか、カラフルで力強い文化があったのに、それを明治政府が消してしまった。動的でカラフルなものは西洋、日本は静的で地味、という観念を明治は作り上げてしまった。

 江戸って、当時世界最大規模の100万都市で、町人文化が栄えて、吉原に代表されるように夜遊びも多くて、働き方も雨が降ったら休むみたいな怠け具合で、何かと活気溢れる街だったらしいですが、それって明治以降の日本のカラーにあまり合わない。明治維新でどれだけのことが劇的に変化したのかが分かる。
 でも、冷静に今の日本をみれば、東京なんて相変わらず世界で一番クレイジーな街だし、そういうのは日本の流れ的にはしっくりくるように思う。

SAKURA cray-pas.

2006-09-17 13:31:59 | Weblog
 Oが夏のバカンスから日本に帰ってきたとき、僕は「今度飲みに行こう」と言おうとしたのだけど、「今度」というのを英語でなんて言えば良いのか分からなくて、違うのは分かっていたけれどとっさに"some day"と言ってしまった。言った後で、違うんだsomedayじゃなくて、と弁解しようとすると、Oは「大丈夫、何が言いたいのかは分かっている。僕もネイティブじゃないから、そういうことは予測しやすい」と言った。

 そうか、確かにOも母国語は英語じゃないし、彼も過去のある時点で英語を勉強して習得したのだ。その過程で、たとえばsome day という言葉は一体どのようなことを表しているのか、というようなことも一度は考えている筈だ。外国語を学ぶというのは、外国語を理解しようとするに留まらず、対象とする言語を分析する試みでもある。

 ハーフの子供が、自然に日本語も英語もぺらぺら喋ったりするのをみて、僕はずっとそれを羨ましいなと思っていた。
 でも、最近ではそうことは単純でもないなと思う。

 生まれついて、自然にある言語を習得する場合、その人はその言語の外に出ることが難しい。たとえば、僕はネイティブな日本語話者なので、日本語の構造について深く考えることは難しい。少なくとも、思考に用いる基本的な言語に日本語が設定されているので、僕は物事を日本語の枠組みで考える。だから、日本語自体について深く考えようとしても、「日本語で日本語のことを考える」という自己言及的なループに陥る。ゲーテルの定理を引く間でもなく、これでは意味のある議論はできない。「白か黒かでしか物事を判断できない人」が「白か黒かでしか判断しないという方法はもしかしたら変かもしれない」ということを「白か黒か」だけの推論を用いて考えるということだ。「白か黒か」がおかしいかもしれないのに、「白か黒か」でそれについて考える、というのは最初から出口のない思考だ。

 すこし極端な言い方をすれば、これは僕が日本語の中で生きているということを意味している。

 対して、英語は意図的に習得すべき言語なので、僕はそれを外部から眺めて構造を把握するという作業を強いられる。つまり、その気になれば、僕は英語の全図を外部から俯瞰することができるということだ。これは生来の英語話者にはできない。
 だから、最も本質的な意味合いでは、僕の方がネイティブの英語話者よりも「より自由な」英語の使い方を習得できる、という可能性がある。

 それで、最近は翻訳の本を読んでいるのでやっぱり翻訳のことを考えてしまうのですが、翻訳というのが一体どういう作業なのか、ということが、この言語空間を意識したときによりクリアに分かった気がした。

 「日本語を母国語とする人間が、英語で書かれた文章を日本語に翻訳する」という場面を例にとると、まず僕たちは「日本語の中」にいて、「英語を外から眺めて」います。しかし、「英語を外から眺めて」いるのは翻訳に入る以前の段階であって、翻訳作業に入った瞬間、我々はその文章を書いた英語話者に同化する必要に迫られます。これは「英語の中に入った振りをする」ということです。ネイティブではないので本当に中に入るのは難しい。ただ、入った振り(つもり)はできる。これは同時に「日本語の中から出た振り」でもある。
 そうして、日本語から出て英語に入った振りをして、英文の感じを掴み、次にそれを日本語に変換する訳ですが、このときはさっきの逆で「英語を出て日本語に入った振り」をしなくてはならない。
 なぜ「振り」なのかというと、完全に日本語の中に戻って来ると、「英語の中」で掴んだ「感じ」が失われてしまう上に、日本語を俯瞰する努力なしにはその「感じ」を日本語の中に探し出すことはできないからだ。
 こうして、日本語と英語の間を行ったり来たりしているうちに、翻訳者は「日本語でも英語でもあり日本語でも英語でもない場所」に立つことに成功する。それはたぶん言語コミュニケーションの本質と呼ばれるべき場所だ。

 話がややこしくなったので例え話をすると、言葉は納豆と、とろけるチーズだと言える。
 日本語を普通の納豆、英語をチーズだとすると、納豆とチーズは異文化異言語なので、違う器に入れてテーブルの上に置かれている。僕たちは納豆に住む虫のようなものだ。最初は納豆を食べていたのだけど、向こうにチーズがあるのでそれを食べたくなって、チーズの器に移動する。これが「英語に入る振り」に相当する。これが「振り」であって、「入る」ではないというのは、納豆が糸を引くということだ。虫は一本の糸を引いたままチーズに入り、納豆に帰ってくるときはチーズの糸を引いている。
 そうやって何度も往復していると、納豆とチーズの糸で編まれた道がテーブルの上に出現して、虫はその道が一体何に支えられているのかを考えるようになる。納豆の中にいるときは、器が納豆を支えていると思っていたし、チーズにいたときは皿がチーズを支えていると思っていた。だけど、この糸はどちらの容器にも入っていない。そうか、じつはテーブルというものがあって、そこにこの道は引かれているのだ、容器も実はこのテーブルというものに載っているのだ、というわけです。

 あまりいいたとえ話じゃないですね。余計にややこしくなりました。
 実は、さっきまで、翻訳というのは日本語に入ったり英語に入ったりを繰り返すことによって、日本語に入っているときは英語を、英語に入っているときは日本語を客観的に眺めるという往復運動だと思っていたのですが、書き始めると考えが変ってしまって、こんな風になりました。だから、書いている本人も、何を書いているのかあまりよく分かっていません。

 さっき、テレビに中曽根さんが出ていて、憲法改正に関して、今の憲法は英語で書かれた物であって、日本語で書かれた物ではない。私達はいい加減に日本語で書いた憲法を作ってもいいはずだ、というようなことを言っていて、それが印象に残っています。感覚としてはよく分かる。


park.

2006-09-16 01:13:15 | Weblog
 パソコンのハードディスクが壊れてしまいました。
 こういうことって本当に起こるんですね。僕は、自分は大丈夫だろうと高を括っていて、バックアップなんてものを一切取っていなかったので、研究用のプログラムや少しのデータ、それから写真や音楽、書き溜めていた小説が消えてしまいました。参りました。プログラムはすぐに書き直せるけれど、写真はちょっと大事なものもあったし、音楽に至ってはパソコンに頼りっきりだったので大打撃で、小説が消えてしまったのはかなりの惨事だとも言えます。

 別に大した小説を書いていた訳ではないのですが、5本くらいを結構長い時間かけて同時進行で書いていたので、その5つの世界を同時に失うというのはなんとも佩かないものです。中には何年も前に書き出して、ほとんど進まない内に停滞していたものもあるのですが、先日ちょうど、村上春樹さんが「最初の何行かを書いて、それを寝かしておく、何年か経つと、そこから物語が立ち上がってくる」というようなことをいってらっしゃったのを読んだので、僕の”停滞しているものを溜め込む”というやり方もまんざらではないのではないか、と思っていたところなので、タイムリーにショックなわけです。
 まあ、基本的にはどうってことないですが。

 先日、Kと話をしているときに、ミラン・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」の話が上がって、僕はちょうど今、Oがそれを読んでいて、彼が読み終えたら僕がそれを借りる手筈になっている、というようなことを言っていた。
 それで、今日のお昼、大学の食堂でOと御飯を食べていて、「そういえば一昨日、Kがミラン・クンデラのこと言ってたけど、もう読み終えた?」と聞くと、まだ途中、だということで、すこしばかりその本の話を僕たちはしていた。夏休みだというのにお昼の食堂は大盛況で、僕たちの周りにも随分と人がいて、Oの隣りには、知らない、たぶん他の学科の先生(あとで尋ねると応用生物の先生だった)が座っていた。そうして、しばらくするとその先生は僕たちの話に入っていらした。ミラン・クンデラはチェコの生まれで、その先生は70年代にチェコに行ったことがあるということだった。「存在の耐えられない軽さ」は70年が舞台らしいので、これは全くタイムリーなことだった。Oとその先生は上手に英語で話をすることができるけれど、僕は英語が不得意なので話に付いていくことができなかった。でも、大体は小説の中ではそんなことないけれど、70年代のチェコは実際には結構アメリカナイズされていた、というような話だった。

 それにしても、「存在の耐えられない軽さ」という邦題は天才的なセンスだ。もしかすると、僕の知る限りでは最も優れた本のタイトルかもしれない。誰が考えたんだろう。
 
 最近、ぱらぱらと柴田元幸さんの「翻訳教室」を読んでいます。
 この本は、前書きに「翻訳とか言葉の綾とかいった事柄に関心をお持ちでない方々からすれば、大半はどうでもいいことにちがいない」とある通り、実に細かい言葉の使用方法について生徒と柴田さんが議論した講義録です。
 例えば、課題文に対して、誰かが”she”を”彼女”と訳して来て、それに対して別の生徒が「でも、この文章では”she”で表される人は結構若い感じがするので、私は”彼女”ではなくて”その子”と訳した方がいいと思います」というように反論する、といったような具合です。本当にどうでもいいようなことですが、僕はこういうものが結構好きなのでぱらぱらと読んでいます。

 課題文の中に、

 At twilight you could see the seams fo the moon more clealy than the seams of the ball.

 という一文があり、この文章の訳で教室は一揉めします。文章が出てくるのは、日が暮れていく中で野球をしていたことを思い出したシーンで、文中のボールというのは野球のボールのことを指しています。

 どういう風に議論が起こるのかというと、文中の”seam=縫い目、皺、境目”というのをどう訳せば良いのか、ということが焦点となっていて、ボールの縫い目は自然だけど、月の縫い目というのは変だ、という訳です。だから、月の方は”縫い目”ではなくて、”月面の境目”とかそういう地形を表現する言葉にを使うべきなのではないか、でも、原文がseamsを二度繰り返しているのだから、その繰り返し感は出したい。
 みんながアイデアを出す中で、1人の生徒が「英語でも the seams of the moon という表現はちょっと変った表現だから、日本語に訳すときもちょっと変だけど”月の縫い目”としておけば良いのではないか」という提案をし、それが柴田先生に受け入れられる。

 結局、この部分の訳は、

 「夕暮れには、ボールの縫い目よりも月の縫い目の方がはっきりと見えた。」

 というものになる。
 変な英語には変な日本語を、普通の英語には普通の日本語を対応させるのはとても自然なことだ。

 これを読んでいて、僕は予備校に通っていたときに、英語の先生とどうしても意見が合わなかったことを思い出した。原文では比喩が使われていて、僕は「まるで十字軍みたいに」と訳したのだけど、先生は「十字軍というのは、ここでは行進のことを比喩的に表しているだけなので、十字軍なんて訳したら駄目だよ。行進って訳すように」と僕たちに教えて、授業の後、僕は文句を言いに行った。でも交渉は決裂した。

 翻訳というのは、元の文章を書いた人の思考に入り込もうとする、より近づこうとする、とてもコミュニケーションの本質に近い作業だと思う。

and.

2006-09-11 20:25:45 | Weblog
 大人になると「ご飯を食べに行く(以下、ご飯食べ)」という遊びが多くなる。「ご飯食べ」というのは、大人になって遊び方が細分化したなかで、もっとも多くの人間が参加できる遊びで、ちょうど子供たちの「おにごっこ」がこれに当たるのだと思う。別にその人の趣味だとか年齢だとかの属性を考慮することなく、単に「日本の子供」であれば「おにごっこしよう」で間違いないわけです(少なくとも僕が子供のときはそうだった)。
 これと同じで、大人も、キャンプへ行くとか、映画を見に行くとか、美術館へ行くとか、セッションをするだとか、サッカーをするとか、様々な選択肢と様々な趣味趣向があるなかで、とりあえず「ご飯食べしよう」と言えばもうそれで間違いないわけです。

 僕は大人社会における「ご飯食べ」という遊びはそういったものだと位置づけていました。つまり「おにごっこ」だと。

 だけど、ここへ来て、僕は「ご飯食べは共同体の核だ」というような感じの記述を内田樹さんの本で見ました。

 それは、家族関係の崩壊の兆しというものは多くの劇中において食卓を放棄するというシーンによって表現される、という指摘から始まる文章で、「ご飯を誰と食べるかという選択」の重要性が語られている。思春期になると家族でご飯を食べるよりも恋人や友達とご飯を食べることにポイントを置きますよね。そういったことです。普通の会議は会議室で行われるけれど、根回しだとか重要な会議は料亭で行われるし、各国の首脳も会食という形の対談を行う。

 内田先生の指摘によれば「その人とご飯を食べて、それがおいしいかどうかは、その人との相性を図るとても重要なバロメーターだ」ということで、だから僕たちはデートに誘った相手と必ず食事へ行くのだ、という結びになっていた。

 僕は妙に納得してしまった。
 そうか、ご飯というのは単なる最大公約数の遊びではなくて、汎用性の高いリトマス試験紙でもあったのか。

 今日の夕方、Oが研究室に散歩から戻ってきて、「川の中州にシカがいた」とニコニコしながら言うので、僕は驚いて、「いつ?今?まだいると思う?」と聞いた。するとOは「草を食べてたから、まだいると思う」と答え、僕は慌てて大学の隣を流れる高野川へ行った。

 すると、本当に川の中州にシカがいた。
 大きなシカと、小鹿の親子で、二匹はときどき周囲の状況を気にしながら草を食んでいた。小鹿は何を思ったのか急にジャンプして走ることがあって、その身のこなしは実にしなやかだった。

 僕はシカの親子を見ていて、果たして彼らは無事に山へ戻ることが可能なのか、と少し心配になった。川の中には結構大きな段があるし、そこをシカがジャンプして上れるようには見えなかったのだ。
 そこで僕はシカの親子の様子をしばらく眺めていた。シカを見ているのは最初僕だけだったけれど、近所を散歩していたおばさんがシカに気付いて眺めだしたので、僕はこのシカがここにいることはどれくらいイレギュラーなことなのか尋ねてみた。おばさんもシカを見たのははじめてて、でも結構前に新聞で報じられていたと教えてくれた。
 I君もやってきて、日がどんどんと落ちていく中見ていると、シカは心配していた段を軽々と上って上流のほうへ消えていった。

 僕はコンビニエンスストアによってポテトチップスを買って研究室へ戻った。
 途中、自転車に乗ったおばあさんが、ほうきを持ったおじいさんに道を尋ねていた。「そうですか、わかりました。どうもありがとうございます、助かりました」
「いえいえ、その橋を渡って左ですよ」「はい、左へ」「左へ行けばすぐです」「はいどうも」「橋を渡って左へ行けば見えますから」「はいすぐ見えるんですね、ありがとうございます」「もう、ほんとうにすぐですので」「はい、どうも」「左へ曲がってね、もう、ほんのすぐ」「はい」「そっちへいけばすぐ」...

 会話と言うのは情報交換の道具ではない。

あの魚は水を飲みたい。

2006-09-06 13:46:18 | Weblog
 言葉は呪いだ。
 呪いという言葉が悪ければ、言葉は力を持つ、と言い換えても良いかもしれない。でも、やっぱりこれでは不正確だ。京極夏彦さんが、呪いを表現して「脳に仕掛ける時限爆弾」だとどこかで言っていたけれど、確かに呪いというものには時間軸が付加されている。力、だけではこれは表現できない。

 もちろん、僕はここで呪いという言葉を、悪意を持った黒魔術のような意味合いで用いているわけではない。言葉は人に影響を与え、その影響は未来永劫にわたる、ということが言いたいだけだ。

 この春まで、僕は塾でアルバイトをしていた。そのとき僕は、中学1年生の男子生徒と珍しく真剣な話をしていて、話の流れで「お前はなんか高校入ったと同時にギター買ってバンド組むだろうな。なんかそんな感じするよ」とうっかり言ってしまった。
 言った後で、しまった、と思った。僕は彼に呪いをかけてしまったのだ。彼は「なんで、そうかな。オレ別に音楽が好きとかじゃないよ」と言っていたけれど、これは僕が彼に「自分がバンドを組む可能性を想像してみる」という行為を仕向けたということだ。

 僕は別に生徒に特別な影響力のある先生だったわけではないし、極々控えめに仕事をしていたわけだけど、それでも「先生」という肩書きは無条件に力を持っているものなのだ。彼が本当にギターを買わなくても、高校生になるとギターが気になる、という可能性は、僕が何も言わなかった場合よりもきっと高くなったと思う。

 もちろん、それで彼が楽しくバンドをするならそれはそれでいいことだけど。

 僕は小学校のとき塾に通っていたのだけど、理科の先生が3者面談で「この子は理系で大成功するでしょうね」と言ったのを忘れることができない。それがただのノリで発言されたものであっても、リップサービスであっても。言葉の背景に関わらず、僕は単にそのフレーズを忘れることができない。

 蓋を開けてみれば、僕はそんなに理科系に向いた頭脳の持ち主ではないことが段々と明らかになっていった。高校に入ると数学は苦手な教科にカウントされたし、物理は辛うじて、化学は赤点という酷いありさまで、まともにできるのは国語だけだというどうしようもないことになった。
 さらに、僕はそれまで自分がみんなと同じ程度の怠け者だと思っていたけれど、普通の人よりも遥かに怠け者だということも明らかになった。怠け者は科学者には向いていない。

 僕は小学生のとき、単に子供が読んでも分かるように書かれた科学の本を読んで、子供でも作れる物を作って喜んでいただけなのだ。理解する努力が必要なものは読まなかったし、作るのに努力が必要なものも作らなかった。
 それが単にある程度は評価されたというだけのことだ。

 だから、大学受験では一時期、文学部の受験に切り替えようかと真剣に悩んだ。僕は数学の先生にはたじたじだったけれど、国語の先生とはある程度議論ができたし、それからそういった議論が好きだった(単に国語の議論ではバックグラウンドとなる知識があまり要求されないということだけど)。国語の試験問題で答えが気にいらないと職員室へ文句を言いに言った。僕は職員室なんてところは精一杯に避けて生活していたので、自分から職員室へ行くなんてとても珍しいことだ。

 結局、工学部を受験したのは「科学がかっこいい」という子供のときに刷り込まれた価値観が消えなかったのと、あと「この子は理系で」という先生の言葉が消せなかったからだ。
 それから、当時見たSF映画で、地球を侵略しようとする宇宙人と地球人が戦って、追い詰められた地球人は遂に核ミサイルを宇宙人の宇宙船(へんな言い回しですね)に向かって発射するのだけど、僕はこのとき「宇宙人よ、地球人を舐めるな。地球の科学力を見よ」と思ってしまったのです。僕は核ミサイルには反対ですが、このときはそう思いました。結局核ミサイルなんて全然きかなかったわけですが。僕はやっぱり科学というものに対して一種の崇拝に近い念を持っているのだなと自覚的に思った。

 そういえば、僕はドラえもんがとても好きだったけれど、ドラえもんの映画に対する僕の見方というのは、「地球の科学vs宇宙人」だとか「地球の科学vs魔法使い」「地球の科学vs地底人」「地球の科学vs海底人」というようなもので、敵がドラえもんの道具をみて吃驚すると「どうだ地球の科学力は」という気分になっていました。ちょっと変といえば変な子供ですね。

 「科学が好きみたいだけど、でも科学が苦手」というのは大学へ入って数年の後、「別にそんなに科学が好きという訳でもないし、しかも苦手」というものへ変化して行った。気が付くと友達の中に占める「デザイン・アート系」の割合が高くなっていて、よく考えてみると父親もデザインを生業にしていることを思い出した。それからもっと良く考えてみると、僕は子供の頃から「科学者になる」といっていたけれど、あれは科学者と発明家を単に混同していて、本当は発明家になりたかったのではないか、ということに思い当たった。さらに、そういった状況でいくつかデザインの講義を受けていると「デザインは発明に極めて近い」ということが分かり、僕は短絡的に「じゃあ電子情報工学科やめて造形工学科に移る」と言い出して、電磁気学や情報理論、数学なんかの勉強を一切放棄してしまった。もう数学なんて勉強しなくていいのだ、と思うと心が晴れ晴れした。

 そうして、僕は編入に向けて着々と準備を進めた。
 この書類を出せば、もう後戻りはできません。point of no returnです。という書類を出しに行く日、僕は大学の入り口で同じ学科の友人に会った。彼とは特に親しいわけではなくて、この日も久しぶりにあった。僕は、編入するよ、というようなことを言い、たしか彼はそれに賛成してくれて、がんばって、と言ってくれた。その日は午前中まで雨が降っていて、僕達が立ち話をしていたすぐ隣には雨に濡れてぐちゃぐちゃになった何かの論文が落ちていた。僕はその紙面に辛うじて読み取れる数式とグラフを見て複雑な気分になった。

 彼と別れて、書類を出しに行くため歩いている間、脳裏には何度もその論文が浮かんで消えなかった。僕はこういった世界を体験することはもうないのだ、と思うと寂しい気分がした。その感情が「寂しい」とか「名残惜しい」ではうまく処理しきれない、ということに僕は気が付いて、では一体これは何なのだ、と考えていると、これは「間違い」だということが分かった。僕が感じていたのは寂しさだとか名残惜しさだとか、そんなパセティックなものではなくて、「自分は間違ったことをしている」という確信に似た物だった。

 僕はその書類を提出するのをやめた。

 本当は呪いの話を書こうと思っていたのですが、変な方向へ流れたのでそれはまたにします。

アーニーは精一杯遠くへ、アーモンドチョコレートを投げた。

2006-09-03 13:19:28 | Weblog
 夜の大文字山にはじめて登った。
 昼間なら登ったことはあったけれど、夜というのははじめてで、噂に聞いていた通り、そこから見る京都の街は、黒い山に囲まれたキラキラ光る大都会だった。間違いなく京都の夜景スポットナンバー1だ。

 ”ダンスパーティーを抜け出して
  湖の畔でひと休み
  ごらんよ この星空を
  背中で皆の笑い声を聞きながら
  僕たちは星の数だけキスをしよう
  今日はとても空が広いから
 ”( technical chorus boys 'counting star-lights')

 いつか見た映画のシーンを思い出す。
 でも、それが一体何の映画だったのかは思い出すことができない。それどころか、僕にはその映画が本当に存在していたのかどうかすら分からない。

 一昨日、Iさんから電話があって、Iさんはゴア・ギルのイベントのことを教えてくれた。そうかもう9月なんだ、ということにそのとき気が付いた。今年は僕はすることがあって行けない。残念なことに。参ったな。もうあれから一年経つのか。

 時間の流れを、子供の頃に比べるとずっと早く感じるようになって、僕はずっとそれが嫌だった。でも、最近ではそう悪いことでもないなと思う。子供の頃は、例えば夏休みに旅行へ連れて行ってもらうなら、その日が来るのが待ち遠しくて待ち遠しくて、1週間をまるで1月のようにも感じた。でも今ではそんなことはない。1週間というのは、だいたいこんな風に暮らせば、意外とすぐに終わってしまう物なのだ、ということを僕はもう知っている。1日は短いし、1週間もそんなに長くはないし、1ヶ月だってそうは長くない。

 僕はとても怠け者で、宿題というものをほとんどやったことがなかった。
 もちろん、夏休みの宿題だってまともにやったことはないし、中学校のときは真っ白な宿題のワークブックを始業式の朝に学校へ持って行き、それを何ページかごとにビリビリと破って友達に配り、各自のワークを写してもらって、それをセロハンテープで貼り付けて提出した。
 それでも、工作やなんかは好きだったから、夏休み最後の日にあたふたと作ることになるのだけど、あたふたといっても当時の僕にとって1日というのは永遠に近い長さを持つ物で、1日もあればなんでもできると思っていた。

 この「1日あればなんでもできる」という思考形態は長らく僕に付きまとい、大学生になってもあまり変わらなかった。僕にはみんなが提出期限の2,3日前に「まだやってない、やばい」と慌てるのが理解できなかったし、前日の夜中にならないと危機感が発生しない、という決定的な欠点があった。

 でも、さすがに近年は「1日じゃなにもできない」ということが分かってきた。何もできない、というのは大げさだけど、まともなことは何もできない。昔はなんでも一日でやろうとして失敗していたけれど、最近は「あと3年でこの小説を書き上げようとか」「来年には映画を」とか、中長期的な展望を持てるようになった。ローマは1日にして成らずって本当なんですね。

 僕はこの点に関して、たぶん大きなビハインドを持っているわけですが、長期的な展望を持つこと、遠い未来に想像力を働かせることは、きっとそれなりに大事なことなんだろうなと思う。

 冥王星のことで、ちょっとだけ世間の関心が天文学に向いて、でも「べつにそんな星のことなんて生活に関係ないし」という意見もたくさんあって、天文学なんてまるで役に立たない、みたいなことをたくさんきいたけれど、もしかしたら天文学者の中には遠い未来、僕達人類が宇宙を旅するようになったときのことを考えている人もいるんじゃないかと思う。宇宙旅行をするなら、宇宙の地図って必要ですよね。どこにブラックホールがあるとか、知らないと吸い込まれるかもしれない。それがいつやってくるのか、500年後か1000年後かしらないけれど、きっとそのとき天文学者たちの積み重ねてきた知識というものは「実用化」されるのだろうと思う。
 もちろん、もっと身近にも天文学は役に立っているし、未来のことよりも今が大事だとか、いろいろな考え方はあるけれど、僕は天文学者ってけっこう好きです。