僕たちの消費電力。

2010-02-24 12:04:03 | Weblog
 昼御飯にパンとチーズを齧りながらTEDを見ていたら、テクノロジーというのは生命の延長で、生命はエントロピーを増大させないように(あるいは緩やかに行う)自己を保つ(とうとする)システムの一つだ。という話が出てきた。例えば銀河系も一つの形と運動を保っているように見えるし、花も、人も。そしてエントロピーを増やさない為にはエネルギーを系に注入し続ける必要があるのだけど、単位体積当たりのエネルギー密度は銀河系よりも人間の方が大きいのではないか、というような話が上がった。

 特に目新しい考えでもないし、ふーんと思いながら聞いていた。でも考えてみたら、僕は人の消費するエネルギーについてあまり具体的なイメージを持っていないということに気が付いたので概算を計算してみました。

 具体的なイメージというのは、僕にとっては一番身近な電力です。多分多くの人にとってそうではないかと思う。人間が1日生きるのに何キロカロリー必要なのかというのは常識的な知識だけど、正直なところカロリーのままではあまりピンと来ない。だから、今回カロリーから電力に換算し直してみました。

 まず、1日に必要なカロリーをざっと2000kcalだとします。

 1calは4.18Jなので、僕たちは1日に
 2000000x4.18=8360000J
 消費するということです。

 1Jはそのまま1ワット秒なので、1日に8360000ワット秒の電力を消費しているということです。これを1日の長さで割って平均してやると、1日は24時間x3600秒=86400秒だから、

 8360000ワット秒÷86400秒

 面倒なので、えいやと

 ≒8000000ワット秒÷80000秒

 =100ワット

 なるほど、僕たちは大体100ワットで動いているようです。家庭用の100Vコンセントに差し込んだら1Aの電流が流れる。今僕が使っているノートパソコンは100ワットくらい。冷蔵庫もサイズや年式によるけれど大体はこれくらいだから、エネルギーの観点からだけ言えば、冷蔵庫を一つこの世に作って動作させておくと、人一人が生きる分のエネルギーを消費しているということになる。今僕たちは化石燃料と原子力をメインに発電しているけれど、これがバイオ系の発電に代わって食べ物で発電ということになると、ダイレクトに誰かが生きる分のエネルギーでアイスクリームを冷したりしているような複雑な気分になるかもしれない。
 



携帯電話/電車。

2010-02-21 22:47:26 | Weblog
 昨日今日と連続で話題に上がったので、携帯電話のマナーについて少し書いておこうと思います。

 日本では携帯電話を電車の中で使うことは「いけないこと」になっています。これが意味不明だという意見を、昨日は海外の日本人から、今日は日本にいる外国人からたまたま2日連続で聞きました。
 僕が知る限り公共交通機関の中で携帯電話の使用を禁止しているのは日本だけです。海外ではこうだから日本もこうすべきだ、なんて間の抜けたことをいうつもりは全くありませんが、その特異性には着目すべきだと思います。

 僕の立場を表明しておくと、僕は電車の中で携帯電話を使うことはOKだと思っているし、実際に使うこともあります。

 今のところ、日本で電車での携帯使用がNGな理由は「なんかうるさい」というのと「ペースメーカーの誤作動」の2点ですが、後者のペースメーカーの誤作動というのはかなりグレーな理由です。真っ白ではないから、誤作動があっても困るのでここは無難に禁止ということにしておこうということで、それも旧式のペースメーカーが22センチ以内に近づいたときに誤作動の可能性がある、というだけのことです。だから自分の携帯電話から22センチ以内のところに人がいない場合は気にする必要はありません。それどころか最近の3Gだと”2センチ以内”に近づかなければ大丈夫ということです。

 問題は「なんかうるさい」という方です。
 こればかりはもう理屈の世界ではないので、なんの反論もできません。「だって普通に友達と会話をしているのはOKじゃないか、なぜ電話だけダメなのだ?」というような理屈は通用しない。単に事実として多くの人が不愉快に感じるということです。どうしてそんなに不愉快に思うのか、心理学的に説明しようという試みも散見されます。電車の中という仮想的一時的なコミュニティを無視して外部に繋がりを求めるのは自分がないがしろにされているような感覚を生む、とか色々理屈が並べられています。この辺りのことはなんとでも言えそうな気がするので、今は無視することにします。
 でも、理屈を無視したとしても、日本人が電車内における携帯の通話を不愉快に思う、というのは事実として残ります。
 他の国ではそんなに気にしていないのだから、日本人は特異的に電話の声を気にする、あるいは日本人は特異的に心が狭い、ということが演繹されそうにも思えます。実際にその可能性は否定しきれません。

 ただ、僕が思っているのは別のことです。
 僕は「本当はみんなそれほど気にしていないのに、なんとなく気にするという社会的な雰囲気ができあがってしまったから、自分も気にすることにしたのではないか」と思っています。自分は別に気にならないけれど、社会的なマナーとして決められていることを守っていない、から気になる。ということです。声がうるさいのではなく、ルール違反が目に付いたので不愉快になってしまう。
 とりあえず意味もなく謎の空気を作り上げて、あとは全員がそれに追従するというのは太平洋戦争開始やサービス残業といった労働環境の例を引くまでもなく日本人のお家芸です。

 この辺りのことに関しては言っても仕方のない言いたいことが沢山あるので、選別してまたの機会に書ければと思います。

スケール。

2010-02-19 08:28:25 | Weblog
 理由があるのかないのか、僕たちは今僕たちが持っている時間空間の感覚で生きている。あの人の声が僕の耳に届くのは気にとめるまでもない一瞬の出来事で、この星の歴史は永遠かのように長い。原子分子の動作は見えないくらいに小さくて、太陽系は見えないくらい大きい。
 僕たちの使い慣れたスケール。

 だけど、可能性としては僕たちが全く異なったスケールを採用したことだって考えられるわけだ。80年がまるで永遠で、「意識の寿命」が途中で何度も尽きてしまい他人の意識と何十万回も入れ替わるようなスケールだって考えられただろうし。逆に80年が短すぎて認識されないようなスケールだってあり得た。1メートル数十センチの体が大きすぎて全容が把握しきれず自分が単なる細胞の一つに過ぎないと思い込んでしまうようなスケールも、逆にそれが小さすぎて見えないスケールだってあり得た。

 今話しているのは形而上の可能性についてだ。僕たちの体が原子分子で構成されていて細胞がこうできていて、その集合である身体はシステムとしてこれこれの分解能しか持てない、というような議論ではない。もしもそういった物理的な論理を持ち込むのであれば、ここで話したいことは「ではどうしてその物理的な論理は論理たり得るのか」ということだ。どうして物理で説明するのがOKなのかということだ。ある論理が論理たり得ることは論理では証明できない。なぜなら、そのとき我々は「論理が論理たり得ることの論理」が論理であることを証明する必要に迫られこれは無限に収束しないから。同時にこのとき証明が証明であることも問われる。

 一つ一つ丁寧に積み上げられた鉄壁のように一見見える論理ではなく、ただ可能性として僕たちの意識スケールを変化させたとき、僕たちの存在というのはとても曖昧なものになる。ミクロな視点で細胞の界面を見たとき、激しく動き回る分子は自分という身体の境界が実際には曖昧であることを教えてくれるだろうし、マクロでは自分の身体が単にあちこち飛び回る元素達の通り道に過ぎないことを思い知るかもしれない。
 僕たちの今持っている「自分像」というのは、たまたま僕たちが今持ち合わせているスケールから発生したものに過ぎない。

 どうして僕たちはこのようなスケールを採用して生きているのだろう。

 昔「ゾウの時間ネズミの時間」を読んだ時、僕は衝撃を受けた。そこには、短い寿命しか持たない生き物を人は憐れむけれど、もしかしたら1週間で死ぬ生き物は1週間を人の80年と同じくらいに長く感じているかもしれないじゃないか、ということが書かれていた。実際に昆虫などの小さな動物が持つ時間分解能は人よりも遥かに高い。彼らにはテレビなんてスムーズな動画に見えなくて、コマ送りか下手をすれば紙芝居みたいに見えることだろう。
 僕たちは僕たちの基準をここへは持ち込めない。無論、空間や時間、見えるといったこと自体の概念についても。

 いつか僕たちはこの世界について、僕たちの基準なりの理解をするかもしれない。だけど、それはこのスケールが生み出した一つの見方と、そのスケールで思考することをベースに組み立てられた概念の統合にすぎないかもしれない。僕らはこの世界を理解したいと思うが、なんといっても理解という概念自体僕たちの勝手に作り出した概念なのだ。

プリウスとipad(その3)。

2010-02-10 13:41:52 | Weblog
 10年くらい前に、僕は大学でC言語を習った。それまで全くプログラミングなんてしたことがなかったので、プログラミングというのはこういう面倒な作業なのだ、と思っていたら、同じくインタフェースの授業でVisual Cを使うことになり、なんだこんなに簡単に開発ってできるんだ、と驚いたのを覚えている。

 Cでのプログラミングは、ガリガリと1文字たりとも間違わないようにソースを書いてコンパイルしてデバックして、という作業だけど、これが面倒だとはいっても生のマシン語を扱うことに比べれば遥かに楽に違いない。
 コンピュータは2進数で動いていて、最終的には0と1の羅列で構成されるマシン語しか認識できない。あらゆるプログラミング言語は最終的にマシン語に翻訳されてコンピュータに渡される。昔はプログラムを書くと言えばダイレクトにこのマシン語を書くしかなかったわけですが、2進数(あるいは16進数)などで命令を書くのは至難の技なわけです。全くの出鱈目に例えを書くと、「aとbを足す」という命令を書くために「011010100010010011111100101001010000101010010010
00000001111111010110100101011010101000101011100101
00010100100000100100000010000001001001010001001111」
みたいなことを書かなくてはならなくて、これでは書くのも読むのも大変すぎます。

 そこで各プログラミング言語が開発されました。もうプログラマは「aとbを足す」というのを単に「a+b」と書けば済むようになり、この簡単化のお陰でプログラムはどんどんと複雑なものも可能になっていきます。

 文字通りどんどんと。
 携帯電話に入っているソースコードが10万行だか100万行だか。もう全容を把握している人はいません(スパゲティ状態)。その巨大なソースをさらに改良したり、新しい機能を追加したりしているうちに、半分謎の物体をいじるわけですから、当然の帰結としてバグが発生します。ヤキニクとカタカナで入力したら携帯がフリーズした、みたいな予期せぬことが起こることを開発者は予期するようになった。だけど、このバグを修正するために開発者が100万行のプログラムを完璧に読み返したり、携帯電話のありとあらゆる使い方を実験してみることは現実的にできません(メールで”あ”を送信、メールで”ああ”を送信、”あああ”を送信、”ああああ”を送信、、、、、)。

 そこで、大体OKだったらもう市場に出してしまって、あとはユーザが不具合を見つけたらフィードバックを受けて修正する、という手法がとられています。

 これは携帯や家庭用PCくらいだったら良いかもしれないけれど、車でやるには危険すぎる。だけど、どうあってもこれから自動車のソフトウェア依存度が上がることは避けられない。プリウスのリコールがソフトの修正だけというのは象徴的なことだ。

 PCはソフトを載せることで様々なことができる万能機械だった。ipadはそれをさらに進めた形だ。僕はiphoneしか持っていないけれど、iphoneでも十分沢山の「物」の代理になっている。電話であるだけでなく、辞書が入っていて、シーケンサーが入っていて、シンセサイザーも入っている。
 今まではそれぞれに数万円だしてハードごと物として買っていたのが、今はiphoneというプラットフォームだけ買うことで、あとはアプリとしてソフトで数百円で買うことができる。この傾向はCDからネット配信、本から電子書籍の流れと同じように「物」から「アプリ」としてプラットフォームの高機能化と共にどんどん加速するだろう。今までカバンから写真やノートや雑誌を取り出して友達に見せていたのが、物としてはipadみたいな物だけを机の上に出して、あとは全部その画面で見せるということになるだろう(半分なっている)。

 ソフトはどんどんと重要になってくる。
 そして僕たちは長大なプログラムを読み書きできない。脳の情報処理の問題以前に、100万行を目で追うこと、100万行をキーボードで入力することが実質できない。だから早い段階でプログラミングをサポートするプログラムをレベルアップさせる必要がある。
 

プリウスとipad(その2)。

2010-02-10 13:14:36 | Weblog
 プリウスのブレーキ問題では、どこまで人間が制御してどこからをコンピュータが制御するのか、ということを考えざるを得ない。ひいては、自動車の運転に限らず、僕たちが何かをするときに、どこまで身体を使うのか、どこまで自分の感覚を使うのか、という問題だ。 

 iPadが発売されたのは当然の成り行きだったと思う。僕がiphoneを買って最初に思ったことは、こんなに性能が良いのならもう少し大きくても持ち運ぶし、画面をもっと大きくして欲しい、ということだった。ipadはそれがそのまま叶った形になっている。
 iphoneの小さな画面でも、ブラウザでネットを見るくらいは快適にできる。事実、目の前にラップトップがあるのにiphoneでサイトを見ることが結構多い。だからipadのようなダブレットは確実に普及すると思う。
 ただ、タブレットは入力インタフェースが貧弱だし、情報を消費する端末ではあっても、ツイッター以上の何かを発信したり作業をしたりする環境ではない。タブレットしか使わない人は知らない間に受身になっている可能性が高い。タブレットPCの普及は文字通り消費者を増やすということだ。

 タブレットPCの入力装置が貧弱だというのは、例のバーチャルキーボードのせいだけど(外付けのキーボードを使っているときは普通のPCと同じだからここでは考えていません)、入力デバイスは将来的に格段に進化して、やはり頭の中で思うだけで文章が打てたりするようになるはずです。そのとき、タブレットの持つビハインドは完全になくなるかもしれない。

 PCをメインに使うデスクワークは今でさえ「体を動かさない」作業の代名詞だけど、思うだけで入力できるインタフェースが実現したら、僕たちは指一本すら動かさないようになる。今はまだピアノの鍵盤を叩くような、感覚を使う作業だけど、それすら未来にはなくなると思う。オフィスではみんな黙って身動ぎせずにディスプレイを眺めている。通勤は自動運転の車に座っているだだ。面倒なことは全部機械がしてくれる。料理も洗濯も掃除も。代わりに料理洗濯掃除に伴っていた喜びも失う。

 僕たちは、どこまでの便利さに耐えられるのでしょうか?
 ドラえもんの世界になったら、僕は正気を保っていられる自信がありません。人生における面倒なことを全部機械がやってくれるとしたら、ワールドカップで活躍したいと思った子供はもしもボックスでそういうだけで何の努力もしなくていいとしたら。
 まったく面倒なことに、僕たちは面倒なことをするために生きているのかもしれません。

(その3へ続きます)

プリウスとipad(その1)。

2010-02-10 12:06:22 | Weblog
 プリウスのブレーキ問題は結局リコールという形で結論を出した。僕自身はプリウスを運転したことがないし、本当のところどういうことが起こるのか体験したわけではない。でも、色々な情報を当たってみて思ったのは、それが自動車の癖の範疇だろうが不具合の範囲だろうが、少なくともドライバーの感覚とズレが生じていることに間違いない、ということだ。

 ある意味では、ドライバーの感覚と自動車の挙動にズレが生じるのは当然のことかもしれない。何故なら、究極的に自動車というのは(運転の楽しみを一先除けておくと)、完全な自律運転を目的にして開発されているからだ。将来的には人間は乗っているだけで、あとは車が勝手に目的地へ連れていってくれる、というのを頭に置いていない自動車開発者はいないと思う。
 そのとき、車の挙動は搭乗者の感覚とは完全に別の何かになる。そこへ向かう途中の現在、段々とドライバーの支配する部分とコンピュータの制御する部分の比率が変化する中で、こういった問題が起こるのは必然だと言える。

 ABSが必要な時に、回生ブレーキから油圧にスイッチする間タイムラグができるのは完全なプログラムミスだと思う。だからこれは修正されて当然だろう。だけど、まともに運転できる人ならここでブレーキをさらに強く踏んで対応できる、これは癖の範疇だ、というのも間違ってはいないと思う。
 どこまでの性能の無さを欠陥だと呼ぶかはもう趣味の問題だ。ノーマルタイヤしかない時代にノーマルタイヤを売りさばき、即座にスタッドレスが現れたとき、ノーマルは欠陥だからリコールしろ、というか、スタッドレスという更に制動性の高いものができました、というかは文脈の選び方に過ぎない。
 GMが破綻したアメリカの策略だという人も、スターのスキャンダルを煽り立てるマスコミの問題だという人も色々な人が言いたいことを言っていて、結局プリウスに乗ってみないと僕は実際的なことを言えない。

 そういう実際の詳細を省いて、ここで書こうとしているのは、さっきも挙げた「人間がコントロールする部分とコンピュータがコントロールする部分の住み分け」のことだ。
 完全な自動運転の車が出来る前に、自動ブレーキはできてもおかしくない。ABSはタイヤがロックしないように車の方でブレーキの制御をしてくれるシステムだ。ドライバーはロックを気にしないで単にブレーキを踏み込めば良い。あとは車が制御を掛けてくれる。
 次段階として、自動車が周囲の状況(各種センサー及び画像処理で得る)とタイヤからのフィードバックを使って、ドライバーが停止のサイン(ブレーキペダルか押しボタンか何か)を出したら、あとは車間距離から何から何まで完全に自動で最適な制動を掛けて止まる、というものができると思う。
 このとき、ドライバーの感覚と車体の動きにはズレがあるなんてものじゃない。それは全く別の物だ。ここからは車に全部預けるということだ。

 今はまだコンピュータの信頼性も、というかプログラムの信頼性もそれほどは高くなくて、どちらかというと自動制御の車なんて作っても怖くて乗れない、と思ってしまう。でも、やがては人が運転するよりずっと安全に走行する自動車ができる。ナイトライダーのKITTみたいに。
 そして。多分自分で運転することが禁止される時代が来ると思う。丁度今車検で一定以上の規定を満たさない車が公道を走れないみたいに、自動制御じゃない車は公道を走れなくなって、自分で運転したい人はサーキットへ行くしかない、みたいな時代が来るかもしれない(個人的には絶対にそんなの嫌だけど、SF的に十分ありそう)。

 僕は今回のプリウスの問題に関して、まだドライバーは結構な身体感覚を運転に使っているのだと再認識して、それがなんとなく嬉しかった。ブレーキを掛けるとき、僕たちはペダルを通じて、サーボを通じて、油圧を通じて、サスペンションを通じて、タイヤ弾性を通じて、それどころか多分微かなボディ剛性とシートの動き、体に掛かる加速度も感じて、地面と車の関係を察知している(実際のところペダルとタイヤの間は自動制御で一つのブラックボックス化しているけれど)。
 そして、間違いなく体や感覚を使うのは僕たちにとって喜びだ。
 今回のプリウス問題は単に安全性のことだけではなく、ドライバーが車の制御範囲を失いつつあることへの反抗にも見える。多くのリコール必要なし派の人々は「これを車の癖として自分の感覚に取り込めばそれでいいことでしょ」というものだ。

(その2へ続きます)


血液。

2010-02-08 18:37:39 | Weblog
 誰かの頭から血が吹き出すのを見て、そして何らかの嬉しさを感じるというのは、けして誉められたものではないかもしれない。だけど、どうか許して頂きたい、僕はその時一つのひらめきを得て、それを喜ばしいと思った。一つ弁解の余地があるとすれば、それはテレビドラマの中で起こったことで、つまりは作り話であり、吹き出した血液も偽物のインクみたいなものだということだ。

 grey's anatomy season6 episode24 はものすごい展開だった。今までseason1からずっと見ていたファンにとっては衝撃的といっても良いだろう。役者が降板するとか休むとか、そういう現実世界の大人の事情を反映するのは構わないが、あまり悲しい話にしすぎないで欲しいと思う。

 バスに曳かれてERへ搬送されて来た患者は脳に出血があって、脳圧が上がり危機的な状況だった。そこで頭蓋骨にドリルで穴を開け血液を放出して患者は一命を取り留める。
 僕はこのシーンを見てある事を思った。思ったというよりも、感じたと言う方が正確かもしれない。

 僕たちの体には血が流れている、という当たり前のことだ。
 そして、体に血が流れているのではなく、血は体なのだ、ということだ。

 有り体に言えば、人体の精巧さと奇跡みたいな成り立ちに感激したということになる。60兆個の細胞がそれぞれ果たしている役割、各細胞の仕組みと機能、それらを可能にしている分子原子の性質。体内で生成される酵素や神経伝達物質、とりこまれた酸素と生成した二酸化炭素。驚きべき数の皮膚常在菌と腸内常在菌。複雑な神経ネットワーク。遺伝子の持つ情報とそのデコード。
 皮膚によって外界と別枠になった体という場の中に、大量の水分を抱え、血液を循環させ、システムは無数の細部の集合として構成されていた。乾燥した冬の空気にほんのちょっとだけ切れてしまった唇の傷は、見えない精巧さとスピードで今この瞬間も修復されつつある。
 僕という場の中でとんでもない働きが常にいつも起こっていて、そして僕は生きて呼吸する。

 この時、僕が感じたことは、骨格があり、筋肉がその周囲に付いていて、さらに各臓器が配置され、一番外側は皮膚で守られている。そして脳には意識が発生する。というのとはほぼ反対のことだった。
 最初に自分という場があり、その場に液体で生存装置を作り、動けないので筋肉を作ったが強度が足りなくて骨格を生み出した、というような感覚。骨格に色々なものが付いているのではなく、ぼんやりとした自分という場の中に液体があり、その液体の中に骨格が浮かんでいるという感覚。

 それはとても楽しい感覚だった。
 人の血を見てこんなことを思うのは不遜かもしれない、けれど僕はこの謎の凄すぎる体というものをはっきりと意識して、そんなものを持って当然のように生きている僕たち人類というのは本当にすごいなと思いました。

節分祭、誕生日。

2010-02-06 14:36:10 | Weblog
 午後11時から始まる火炉祭を見た後、境内の出店でいくつかの物を食べたり飲んだりして、それから僕たちは参道を東大路通り目指して歩いていた。その時、僕は先頭を歩いていて、Sが呼び止めるので振り返ると、みんなが一斉にハッピー・バースディーを歌い始めた。時刻は深夜を回って、2月4日僕の誕生日がやって来たのだ。
 こうして僕の31才は始まった。

 そういえば誕生日の歌の話をしたばかりだった。日本の誕生日の歌は何か、と聞かれて、僕は普通のハッピーバスディーだよと、例のメロディーを口ずさんだ。そうか、じゃあ日本語でハッピーバースディーの歌詞を教えて、と言われて、日本語でもハッピーバースディーはそのまま英語のハッピーバースディーで特に日本語訳はない、と答えるとみんなは驚いて、それから少し詰まらなさそうにしていた。(たんじょーびー、おめでとー、たんじょーび、おめでとー、って歌いませんよね? 僕は一度も聞いたことがない)

 日本語訳がなくて、そのままhappy birthdayをカタカナ読みして日本語に取り込んだというのが、日本語訳を作ることよりも遥かに強く”日本らしさ”を醸し出しているのかもしれない。
 僕はこの日まで、誕生日の歌に日本語訳がないことを全く当然だと思っていたし、そこに何の疑問を持ったこともなかった。僕たちはそういう文化の中に生きている。

 僕は2009年の2月4日に30才になり、そして間もなく今住んでいる外国人寮に引っ越して来た。先日2010年の2月4日には31才になり、後一月半ほどでここを出て行く。だから、僕の30才とここで過ごした1年間というのはほとんどきれいに重なっていると言える。この1年間、30才は文字通りにこれまでの人生の総括だった。自分が30年間してきたことを取り出して観察するまでもなく、積み上がったものが自ずから形を現して僕に答えを求めてきた。幸か不幸か、それとも幸でも不幸でもなく、その殆どが僕の欠点に関するものだった。30才は僕にとって自分の欠点を無意識下から意識の上に持ってくる、そしてそれらを直視せざるを得ないという多少過酷な年齢だったと言ってもいいだろう。得たものはそれほど多くないけれど、なんとかこの有り物でこれからとてつもないものを組み上げるしかない、ということを意識する1年間。

 そういった作業をこの寮の中で、この国の外からの視点を取り入れて行えたのは幸運だった。ほんの偶然が重なって僕は今ここに住んでいるけれど、考えてみればこれは僕が数年前に口にしたことの結実そのものでもある。当時、僕は友達と家か何かをシェアする計画を立てていた。だけどそれほどアグレッシブに計画を勧めず頓挫したのは、シェアというのが僕には少しばかりヘビーだったからだ。いくら仲の良い友達とでも、一つ屋根の下に住むというのはちょっと近すぎた。もっと堅牢なプライベートさというものも僕には必要だった。だから、その時僕はシェアという形態で一つの玄関を共有するのでなく、同じアパートに友達がたくさん住んでいる、くらいの感じが理想的だと言った。気がつけば今その通りの環境にいる。

 僕は世間的に見てかなり良くない追い詰められた状況にある。口にはしないけれど両親なんてもう心配で気が気でないだろう。僕だって不安になろうと思えばいくらでも不安になれる。31にもなって仕事をしていないどころか、12年間も気まぐれな学生生活を送り博士号まで尚遠く。奨学金という名の借金は普通の感覚でいうと驚くべき金額に達している。さらに学位をとったところで物理学者なんてこの世界には有り余っている。

 それでも僕が希望に満ちて楽しく暮らしているのは、僕が単なる危機感を欠いた間抜けだからという為だけではない。どうしてか僕にはある確信があるからだ。その確信がどういった種類の確信なのかはここでは説明できない。それはきちんと向い合ってその人と対話しながらでないと人に伝えることのできない種類のものだ。これを幻だと笑い飛ばす人もたくさんいるだろう。だけどこの世界では本当のところ幻も現実もあったものではない。

自由の象徴。

2010-02-02 22:54:25 | Weblog
 「武術の話の続き」という、エントリーを書いたとき、マラドーナのあるプレーが俺にとっては自由の象徴だ、というコメントを貰ました。それから僕はマラドーナのプレーをいくつか探して見て、その後、自由の象徴という言葉について考えた。
 僕は自由という言葉が好きだけど、それ以上に実は自由の象徴という言葉の方が好きなのかもしれない。自由という言葉も自由の象徴だ。

 マラドーナは父の好きなサッカープレイヤーだったので、実は子供の頃にビデオを見たことがある。コメントを貰うまですっかり忘れていた。僕の住んでいた田舎町の中では一番大きくて、ここにはありとあらゆる種類の映画が揃っていると子供の頃信じていたレンタルビデオ店に、週末の夜、父や妹と出掛けるのは大好きなイベントだった。そこで僕が妹とディズニーのアニメか何かを選んでいる時に、父はマラドーナのビデオを持ってきた。
 僕はそのビデオの内容に関して全く記憶がない。ただ、ビデオを見たときにサッカーというのは単なるスポーツじゃないのだと思った。それがどういう感覚なのかは説明できない。今でもサッカーを見るとき、その感覚は時々やって来る。人々がファンタジスタという言葉を聞いたときに心のどこかでイメージする何かとても輝かしいもの。

 自由の象徴というキーワードを使うと、僕は自分の好きなものが比較的上手に整理されるように思う。
 たとえば、サッカーの他に所謂エクストリームスポーツが好きで、それは僕にとってはまさに自由の象徴だと思う。下手だし、そんなに練習もしないけれど、それでもスケートボードやBMXに乗るのは、それらが自由の象徴だからかもしれない。

 と思って、昨日久しぶりにパルクールの動画を見ていたら、ヤマカシの最初の方のシーンに009 sound systemの音楽を被せたものを見つけました。自由の象徴の一つ。




 その後、所要で実家に帰ったのですが、夕飯の後、父がBANFF Mountain Film Festivalって知ってるか、いいぞ、というので調べてみると本当に面白そうだった。久しぶりにパルクールの動画を見た後だったので繋がりを感じる。自然の中と街の中。

 


 そのとき、テレビで北極海を旅する豪華客船ツアーみたいな番組が流れていてサーメ人が映った。前日にフィンランド人の友達とサーメやアイヌの話をしていたので、これもなんだか偶然だなと思った。
 「アイヌの人が自分のオリジンを捨てて日本人の生活をすることはあっても、その逆はないでしょ。世界は一つになるかもしれないけれど、それは融合ではなくて、強い文化が弱い文化を食べるということにしかならないかもしれない」と言った。