あの影を追え。

2006-08-31 22:21:44 | Weblog
 友人のI君が、朝、鴨川でパンを食べていると、トビにそれを奪われたそうです。
 ふた口食べただけのコロッケパンを、斜め後ろから飛んできたトビにばっと奪い取られた。と、僕はそれを聞いて笑いが収まりませんでした。

 最近は鴨川に行けば「トビに気をつけてください」という立て看板も目にするし、実際に「おばあさんがお菓子を奪われた」とか、目撃談も聞くけれど、まさか自分の友達がトビにやられるとは。
 被害の程度や加害者のことを思うと、なんかおもしろいですね。

 ちょうど僕も昨日Pと鴨川でお菓子を食べていて、そのとき少しだけトビのことを考えて警戒した。
 僕らのクッキーとポッキーを獲りに降りてきたなら、逆に捕まえて羽をちょんぎってやるところだ。
 でも、トビってパン食べるのかな。

 そういえば2年くらい前に、鴨川に『ワニが目撃されたので気を付けてください』という看板がいくつかあったけれど、ワニはどうなったんだろう。

 このワニは、目撃情報が寄せられた、というだけだからこれは誤認だった可能性もある。だけど、誰かがペットを捨てたというような可能性だって十分に考えられる。

 本当にありそうな、でも如何にも胡散臭い話、つまり都市伝説の一つに、

 『ニューヨークの地下にはワニがたくさんいる』

 というものがあった。
 子供たちの間でワニを飼う事が流行って、でも飽きてたくさんのワニがトイレに流されて捨てられたから、というのがその根拠とされることで、まさか下水の中でワニが繁殖するなんてことはないだろうけれど、可能性としてゼロだ、とは言い切れない。

 生き物はときどき驚異的な変化を起こすものだし、それは人知を超えていると思ったほうがいいに決まっている。下水に適応したワニ、というものが現れないとは限らない。

 『生命は道を見つけ出す』

 というようなことを確か映画「ジュラシック・パーク」のなかで誰かが言っていた。ジュラシック・パークには恐竜の勝手な繁殖を防ぐためにメスの恐竜しかいないはずなのに、何頭かの恐竜が性転換を起こしてオスになり繁殖を遂げた。
 こういった性転換は自然界では結構あることだ。
 僕たちはそこに不思議な力の存在を感じる。

 僕らの科学がまだまだ知らないこと。
 一般的にどれくらいの人々がダーウィンの進化論を信じているのか分からないけれど、進化というのはまだほとんど分かっていないジャンルです。僕は進化論というものを信じていません。
 たとえば、自然界には擬態を持つたくさんの生き物がいる。花にそっくりのカマキリだとか、葉っぱにそっくりのガだとか、ナナフシとか。僕にはそういった生き物が「突然変異で葉っぱにそっくりなガがたまたま生まれて、そのガは敵の目を逃れたので生き残りました」なんていう風な仕方で現在存在しているとは全然信じられない。こんなに葉っぱに似てるのが”たまたま”できた、なんて。何十億年あっても起こることじゃない。しかも擬態する生き物は一種類ではなくて何種類もいるのだ。

 『リング』という鈴木光司さんのホラーが流行ったとき、実は僕は『リング』『らせん』『ループ』の3部作を全部読みました。とても面白い小説だった。
 今から書くことは所謂ネタバレというものになりますが、『ループ』というのは最も衝撃的な作品です。なぜなら、『ループ』によって、『リング』『らせん』の起こった世界というのは”バーチャルな世界でした”チャンチャン、という夢オチが成されるからです。

 でも、「なんだ夢オチか。真剣に読んでたのに。損したなあ」ということにはならない。『ループ』のいう”バーチャルな世界”というのがどういう風に作られたものだったのか僕は忘れてしまったけれど、この”バーチャルな世界”というのは、僕達の言う”バーチャルな世界”のことではなくて、まさしく僕達の世界そのものなのだ。

 『リング』『らせん』は超自然的なものが登場するものの、極めて厳密にリアリズムの手法に則って書かれた小説だ。当然、読者は『リング』『らせん』を、僕らの住むこの世界と同じ次元で起きているリアルなものとして読む。

 つまり、

 (『リング』『らせん』の世界) = (私達の生きる現実世界)

 なる構造を持っていて、その上に立って『ループ』により、

 (『リング』『らせん』の世界) = (作られた虚構世界)

 だと作者は言ったのだ。
 2つの等号を見れば作者の本当に言いたいことはすぐに分かる。

 (私達の生きる現実世界)=(『リング』『らせん』の世界)=(作られた虚構世界)

 もはや真ん中の(『リング』『らせん』の世界)なんて要らない。

 (私達の生きる現実世界)=(作られた虚構世界)

 夢オチだけど、「なんだ夢だったのか」ではなくて、「あなたは夢の中にいるのだ」という夢オチです。

 作品中に、

「もしもサイコロを100000回振って、全部”1”の目が出たらどう思う?」

 という問いかけが出てくる。
 主人公の青年は、「サイコロに仕掛けがあるんじゃないかと思う」と答える。

 この宇宙で人類が発生する確率は、いうまでもなく100000回サイコロを振って全部1、という確率よりもずっと低い。ならば、この人類の発生ということに関しても何かの仕掛けがあるんじゃないかと疑うのが自然ではないのか。この世界は何者かによって意図的に仕組まれ作られたのだ。と主人公は諭される。

 それはそれで筋の通った話ではある。
 

糺の森と鎮守のトチ。

2006-08-28 14:07:16 | Weblog
 ここしばらく、蚊に刺されるような場所にいることが多かったので、足首の辺りが刺された痕だらけになってしまった。まったく、この世界に蚊なんて奇妙な生き物がいなければ、日本の夏というものはもっと素敵になるに違いない。

 でも、「この世界に無駄な生き物はいない」というアイヌの言葉を信じるなら、蚊だって何かの役割を担っているに違いないし、蚊なんて滅びてしまえばいい、というのは僕の自分勝手な意見にすぎないのだろう。

 それにしても、蚊というのは一体どんな役割を果たしているのでしょうね。
 もっとも単純な自然界のモデルは食物連鎖で描かれて、その中には、植物などのように無機物から有機物を作る『生産者』と、その有機物を食べる草食、肉食の動物からなる『消費者』、そして有機物を分解する『分解者』の3つがあります。
 蚊はもちろん『消費者』に属するのだと思いますが、でもなんかしっくり来ません。
 どうしてしっくりこないのかというと、たとえばオオカミのような『消費者』はウサギやなんかを食べることによって、ウサギが増えすぎることを防ぐというような役割にもなっているわけです。ウサギだって、草を食べて、その量をコントロールしている。でも、蚊は、花の蜜や草の汁を、それから時には人間の血液を吸っているけれど、だからといって草木にも人間にもたいしたダメージは与えないし、とても自然界に対する影響が小さいような気がしてしまう。

 蚊、どうにかならないのかな。
 吸血動物がそこらじゅうを飛び回る世界なんて、冷静に考えてみればまるっきり漫画みたいだ。

フラワーチルドレンと華麗な笛吹き。

2006-08-26 17:47:59 | Weblog
 キャッチアンドリリースで、スポーツだと言って魚釣りをする人達がいます。僕にはあまり理解のできない世界だけど、でもまあキャッチアンドリリースということで、釣った魚をまた逃がす。
 魚を逃がすときに、小さな魚を、「まだ子供だから」と言って逃がし、大きな魚を、「もう大人だし、十分生きただろう」と言って逃がさない、そうして自然にダメージを与えないようにしているつもりの人がいて、そんな人達を見てムツゴロウさんが、「それは逆だ」というようなことを言っていた。

 魚というのは卵で沢山の数が生まれて、ほとんどが他の生き物に食べられる。大人になるのはほんの数パーセントだけだ。そして、その生き延びた数パーセントの大人が、また卵を産んで子孫を残す。
 だから、その厳しい生存競争を生き抜いた大人の魚のほうが自然にとっては子供の魚よりも遥かに重要なのだ。もしも、ある魚がいて、彼らが100個の卵を産み、その中で無事に大人になるのは一匹だけだとすれば、その生き延びた一匹の大人を獲るということは背後に隠れた卵99個分の命も一緒に消したことになる。

 大人というのはとても大事な存在なのだ。

 中学校で働くYちゃんとCちゃん、そして僕の3人で話をしていたとき、彼女たちが「教育者」というのはどうあるべきなのか、というようなことを真剣に話していて、僕は「そうか、先生というのはこういうことを考えていたのか」と今更に思った。

 僕は、大学の先生は別として、小学校、中学校、高校と自分の先生に何らかの感情を持ったことがほとんどない。なんらかの感情というのは、人としてコミュニケーションをとりたい、という欲求のことで、僕はなるべく彼らから距離をとって生活するように心がけていたし、先生というのは僕らにプリントを配ったり勉強を教えたりする「係り」みたいなもので、それ以上でもそれ以下でもない、という感じだった。
 僕は「冷めてるね」と親にも友達にもよく言われるような子供だったので、自分の先生に対してどれくらい無関心だったかは容易に想像できると思う。
 それに僕は人気のある先生が嫌いだった。なにか騙されているような気がして、面白いことをいう先生よりも面白くない人気のない先生の方がしっくりときた。

 僕は亀岡市という、京都市の隣にあって、まったく面白味のない町で小学校の大半と中学校時代を過ごしました。自分の育った町のことを悪くいうのもなんだけど、でも本当に何の魅力もないところでした。色に例えるなら灰色以外の色は思い浮かびません。

 恐ろしいことに、僕の通っていた小学校では「休み時間の遊びが決まっている」という異常事態が日常になっていて、遊び係という役職を担った班が中間休みや昼休みの「遊び」を管理していた。
 教室の壁には普通の時間割と「遊び」の時間割が貼ってあって、その「遊び」の時間割には月曜日から土曜日までの中間休み、昼休みに一体何をして遊ばなくてはならないのか、ということが書かれていました。たとえば、『水曜日、昼休み→ドッヂボール』というようにです。そして水曜日の昼休みには遊び係の指揮下、クラス全員でドッヂボールをしなくてはならないわけです。もしも僕がそれをサボって図書室へ行って本でも読んでいようものなら、終わりの会という一日の終わりに設けられた会で、「今日、横岩くんは昼休みの遊びに来ていませんでした。反省してほしいです」みたいなことを言われて、僕は、反省しています、今度からちゃんと行きます、みたいなことを立ち上がって言わなくてはならなかった。
 異常ですね。
 週に2、3回だけ「自由」の休み時間があったのですが、普通は休み時間は自由なものだし、強制的にドッヂボールや縄跳びをさせるなら、それは休み時間ではなくて体育だ。

 それから中学校ではクラブ活動が強制だった。どうやら強制ではないのが普通みたいなので、僕は勘違いなのかと旧友にも尋ねたのですが、やっぱり強制でした。
 僕は仕方なしにサッカー部に入っていたのですが、そうするとせっかく6時間目が終わって学校から開放されるはずなのに、放課後になぜかまたサッカーという体育の時間があるわけです。しかも異常に長い。
 どうして放課後なのに学校にいなくてはならないのか、全く理解ができなかったし、楽しいとも思えなかったので、僕はクラブ活動をほとんど毎日サボり倒して、家へ帰ってどこかへ遊びに行っていた。でも、そうするときちんとクラブ活動に出ている人達から、それに先生からもやいやいと非難されるわけです。当時はなるべく平気な顔ですごしていたけれど、実際のところはものすごいストレスだった。

 今でこそ、僕は自分の通っていた学校が異常だったと分かるけれど、でも当時はそれが異常なことだとははっきり分からなかった。恐ろしいことに。
 まったくひどい教育を受けたものだと思う。

 僕が大学生になってから、この中学校では生徒が自殺する、という事態が起きて、原因は明らかにいじめなのに、学校は「いじめはなかった」と職員会議で全会一致の採択をしてそれをマスコミに発表した。
 やっぱりひどい学校に通っていたんだな、とそのときに改めて思った。 

巻き毛犬の幸福な一日。

2006-08-23 16:18:27 | Weblog
 コーンフレークだとか、ああいった朝食のシリアルが「栄養満点」を謳うことが長らく理解できませんでした。コーンフレークって、別にただのトウモロコシじゃん、トウモロコシってそんなに栄養あるかあ? 牛乳はまあ分かるけれど。というのが正直なところで、コーンフレークって、大好きだけど、でもすごい胡散臭いなあ、とずっと思っていました。

 それで、疑問を解消するのはとても簡単なことで、原材料を見れば良いわけです。
 シスコーンの原材料を見てみると、

【原材料】コーングリッツ(遺伝子組換えでない)、砂糖(三温糖)、
蜂蜜、食塩、乳糖、麦芽エキス、モルトシラップ、
香料、乳化剤、酸化防止剤(ビタミンE)、ビタミンC、炭酸カルシウム、
ピロリン酸鉄、ナイアシン、ビタミンB6、パントテン酸カルシウム、
ビタミンB1、ビタミンA、葉酸、ビタミンB2、ビタミンB12、(原材料の一部に大豆を含む)

 ビタミン入れまくってますね。
 そりゃ栄養バランスもいいだろうな。
 でも、これはもう食べ物というかサプリメントじゃないか。と僕は思います。

 僕ははっきりいって現代の栄養学を信頼していなくて、サプリメントみたいなものは摂らないようにしています。食べ物に入っている「命の源」って、ビタミンとかアミノ酸とか、そんな物だけじゃないだろうしもっと現代科学の知らない要素が絶対に含まれているに違いない。

 本当はよく分からないのに、誰かが儲けるために自信満々な情報が流れる。
 
 これは僕がとてもよく引く話だけれど、昔読んだ筒井康隆の小説に地球ではないどこかの星がでてきて、その星には地球人がたくさん移住している。そこでは栄養バランスの完全な食べ物を合成することができて、それを人々は食べているのですが、段々と、痙攣して死んでしまう、という病気が流行るようになり、その原因はどうやら地球のように大地から採れた野菜や肉を食べていないからだ、ということが判明する。つまり、なんというか「生命エネルギー」みたいなものが合成された食べ物には入っていないわけです。

 この話のオチは、地球からやってきた宇宙船がものすごい大歓迎を受けて、宇宙船の乗組員たちは大喜びするけれど、でも星の人々がどうして騒いでいるのかというと、乗組員というフレッシュな肉が来たためだ、というものなのですが、僕は高校生のときに読んだこの話を忘れることができない。

 これは単なる小説に過ぎない。でも、食べ物には今の科学ではみつかっていないエネルギーが入っているかもしれない、と考えるのは実にまっとうなスタンスだ。

 それに、こういったものは所詮企業の戦略でもある。
 今はアミノ酸が流行っていて、『アミノサプリ』というドリンクがありますが、振り返れば何年か前まで『サプリ』という商品名のドリンクはビタミンが入っているのがウリだった。

 人間というのは健康なんて大事なものまで、所詮は企業の食い物にされてしまうものなのだな、と思う。

 この数年、もっとも大きく人々が搾取されている可能性のあるものが、言うまでもなく携帯電話だ。携帯はマーケットが大きくて、パワーがあるのでいろいろなものが飲み込まれていく。

 最近僕は携帯電話のことなんてすっかり忘れていたのですが、今日図書館でパリティという科学雑誌のバックナンバーをぱらぱらとめくっていて、ひさしぶりに携帯電話に関する記事を目にしました。

 その記事で取り上げていたのは2004年の終わりにEUの研究機関が発表した結果で、低周波だろうが高周波だろうが、電磁波は細胞に悪影響を与えDNAを切断する、という恐ろしいものでした。
 僕達の日常では、もっとも端的になにがいえるのかというと、つまり携帯電話の使用は体に悪いということです。携帯と同じ帯域の電磁波で実験して、実際に細胞のDNAが切れているのだから、これはもう確実に体に悪い。これから探っていくことは、じゃあどれくらい体に悪いのか? ということであって、体に悪くないかもしれない、なんて可能性はもう消えた。
 携帯電話は体に悪い。

 日本というのは自由に見えて結構言論の制限があって、実は2004年にEUがこのデータを発表したとき、日本のマスメディアはこれを報道しませんでした。BBCもニューヨークタイムズも報道しているけれど、日本ではニュース23でも読売でも朝日でも流さなかったらしいです。

 ちょっと話はそれますが、日本が全然自由ではなくて情報が統制されているということは、未だにこの国にある公安がシンボリックに物語っています。
 公安ですよ。公安警察。戦中に「天皇なんて」とか「戦争負けるかもな」とかどこかでうっかり口にしたならしょっぴいていくような、あんな感じの組織が今の日本にはまだ存在しているんです。
 たぶん、あまりみんな知らないんじゃないかと思う。まだまだ民衆は政府の監視下に置かれていて、日本に言論の自由があるなんて妄想にすぎない。

 どこの国でもそうなんだろうけれど、政府と企業が癒着していて、国が発表する「科学的な」調査の結果というのも信用できない。BSEの調査組織を政府が作ったけれど、それはもう科学の名前を政府が借りたい、というだけのことで、『プリオン説はほんとうか?』を書かれた福岡伸一教授の発言なんかをみていても、その組織がいかにいい加減なものか良く分かる。福岡教授はその委員会のあり方が科学的ではなくて政府に科学のお墨付きを与えるためのものでしかない、ということで委員会をお辞めになった方です。

 BSEのことは分からない、というのが今の最先端科学の立場なのに、牛肉を売るために大丈夫だと無理矢理言っている。これはほとんど全ての日本人が理解している。
 携帯電話も、何もかも本当は同じことだ、携帯の使用が人体に影響しない、なんてことは絶対に言えない。それどころか明らかに悪影響はある。でも、もう後退できないというだけのことだ。体に悪いけれど使う。リスクは未知数だけど。

 携帯に限らず、たくさんの電子機器、電気製品が電磁波を放出している。たいがいは多かれ少なかれ有害で、でも僕たちはそれを使わないわけにはいかない。タバコを吸うと肺癌になる確率が有意にあがるけれど、でも好きな人は喫煙をやめない、というのと同じことだ。
 でも、できるところはカットしていこうかなと思う。

 なんだか、前回の投稿と似た流れになった。


pilot fish.

2006-08-22 04:57:54 | Weblog
 先日、なぜかEがオレンジとトマトをくれたので、それをなんとなく冷蔵庫から取り出して食べると、僕は別にオレンジがそんなに好きではなかったはずなのにオレンジが異常においしく感じられて、以来毎日オレンジを食べています。冬にミカンを食べ始めると止まらなくなるように、オレンジを食べるという行為も止めるのが難しくて、5個くらい食べて、もう一つ、と思うのをお茶なんかで誤魔化してやめています。僕は気に入った食べ物を飽きるまで毎日食べる(もちろんそれが十分に安価であればの話ですが)、という性癖があるので、しばらくはオレンジの時代が続くのだろうと思う。今日はスーパーマーケットで2袋のオレンジを買いました。小さな冷蔵庫の中はオレンジだらけで、それはそれで良い眺めだと言えなくもありません。

 ただ、僕の最寄りのスーパーマーケットでは果物のコーナーに「このオレンジには○○という防カビ剤を使っています」といったような表示が丁寧にされていて、この○○の中にはおそろしげな農薬の名前が書かれている。だから、僕はオレンジを単純に「自然の恵みだ」と受け取ることができない。「これは本来なら既に腐っている筈のもので、遠い異国の地で栽培されて、そのあと農薬に曝されて、単に農薬の力でここまでやってこれたのだ」と思いながら、ちょっと化け物でも見るような気分でオレンジに接してしまう。ちょうどスティーブン・キングの”ペットセメタリー”に埋めたお陰で蘇ってきた生き物のように。見た目は普通だけれど、何かが違う。どこかが不自然だ。

 それで、僕はオレンジの皮を剥く前に、すこしだけ丁寧にそれを水で洗う。その農薬が一体どういったものなのかとか、水で洗うことにどれだけの意味があるのかとか、そういったことを何も知らないので半分はただの気休めですが、きっと何もしないよりはいいに違いありません。そうして、まるで気味悪がって扱ったオレンジも、一口食べればとてもおいしくて、「そうだよな、農薬だって人類の大発明の一つだもんな」と都合のいいことを思う。
 おいしいというのは偉大なことだ。

 僕が農薬のことを気にするのはひとえに、名前が恐ろしい、という理由からではありません。当然。それから、発ガン性というのも、ちょっとピンと来ていないところがあるので、実のところそんなには気にしていない。
 それでは一体何を気にしているのか、というと、それは化学物質過敏症というやつです。

 化学物質過敏症のドキュメント番組を見たとき、ものすごい危機感を感じた。
 今、間違いなく物凄いことが起きている。
 化学物質に囲まれて生きる僕ら人類は、今現在、多分ある閾値を越えようとしている。それは人類が歴史的に、系列的に受容可能だった化学物質の量のリミットだ。

 ひどい化学物質過敏症の子供は、友達が使ったシャンプーの残り香を嗅ぐだけで頭がクラクラして酷いときには昏睡状態に陥る。残留した洗濯洗剤、新建材、整髪料、たいてい何にでも反応してしまう。当たり前だけど人がいる場所にも普通の建築物のなかにも行くことができなくてまともな生活はできない。インタビューで小学生の女の子が、化学物質に曝されると「感情がおかしくなる」と言っていて、それはとてもショックな言葉だった。彼女はまだ小学生だけれど、自分の感情がおかしくなるという状態をきちんと把握していて、そんなものを理解しなくてはならない子供というのはきっと大変な生活を送っているのだろうと思う。

 化学物質過敏症の患者は「農薬の散布」のせいで発症しているケースが多い。たぶんアレルギーみたいなもので、一定量以上の化学物質に曝されると発症するのだと思う。
 それで、誰だか忘れましたが、東京の空気を色々な場所で調べた人がいて、その結果、東京のほとんどありとあらゆる場所で空気中に農薬が観測されていた。いつもどこかで誰かが薬を使っていて、それが大気に蔓延しているのだ。
 つまり、全然人事ではない。

 僕たちは酷い環境を生きている。
 都市に出て、「なんか空気悪いよね」と言いながら、でも「まあそんなものだろう。みんな吸ってるし」となんとなく平気だと思い込んでいるけれど、本当は全然平気なんかじゃないのだ。
 ずっとみんなみんな自分で自分を誤魔化してきた。子供の頃、車に乗って、車内のにおいがとても嫌だった経験、新建材のにおいがなんとなく嫌だった経験、そういうのは誰にでもあると思う。もしかしたら「すぐに慣れるから我慢しなさい」と親に言われたかもしれない、僕はそうだった。神経質な子だ、とか、気にし過ぎだ、と言われて、それでこういうものは耐えなきゃ仕方ないのだ、と思っていた。でもそんな訳ない。嫌なものは嫌なのだ。人間はまだまだ敏感な嗅覚を持っている。それが「単に臭い」のか「有害なにおい」なのかはなんとなく区別できる。たとえば電車に乗っていて、赤ん坊がウンチをしたらそれは確かに臭いかもしれないけれど、でも有害ではないと分かる。だけど新建材で建てられた新築の家に入った瞬間に感じるツンとした臭いは「これはなんか変だ、もしかしたらヤバイんじゃないだろうか」という違和感を感じると思う。
 そんな感覚をずっと無視してきた。そのつけが回ってきたのだ。嫌なことを嫌だと言いきらないで、嫌だけどみんな我慢してるし慣れよう、としてきたつけが。

 恐ろしいことに環境庁は化学物質過敏症の存在を認めていない。認めていない、というのは正確ではなく、むしろ「化学物質過敏症なんてものは存在しては困るので調査もしません。そんなのあったら面倒なことになるし」というのが見え見えな態度を取っている。テレビに出てきた環境庁の人間は、

「花粉症の人でも、花粉がなくても花粉の写っているテレビを見てくしゃみが出てしまったりとかあるじゃないですか、精神的なものですよ」

 と、訳の分からないことを言っていて、農薬なんとか会の人は、

「農薬は人体に影響のないきちんと決められた分量があって、それに従って使っているのだから絶対に安全だ」

 と、頭の悪すぎることを言っていた。
 2人とも自分の利益の為に言っているのであって本心ではないと思うけれど、どちらにしてもゴミみたいな人達ですね。

 そんな中、茨城県かどこかの環境なんとかの人は、農薬の無人ヘリ散布を禁止したり、ちゃんと先手を打っていて、僕は彼をとても尊敬する。「過去の水俣病だとか公害から、何も学んでいないんじゃないですか。あの人達は」というようなことを彼は言っていた。彼は本物の科学者だ。科学者は自分達の築き上げてきた大事なものを疑うことができる。そうして自分達が築いてきたものを自分達が築いてきたもののお陰で疑うことができる、という循環運動が科学を進歩させる。

 花粉症のマスクを付けた人がたくさん見られるようになったとき、「風の谷のナウシカ、のマスクみたいだな」と僕は思った。
 化学物質過敏症の患者もマスクを付けるけれど、今度は「ナウシカみたいだな」ではなくて、もうナウシカのマスクそのものだ。

 風の谷のナウシカでは、人々の体は腐界の毒にある程度は適応していた。

「よく考えてみなさい、そんなマスクを付けたくらいで、それで本当に毒を防ぐことができると思うか。人間は腐界の毒なしには生きていくことができない体になっているのだ」

 みたいな台詞が原作の最後の方に出てくる。きれいな空気では生きていけない体になっている。
 マスクを取っても死んでしまうし、腐界をなくすことに成功しても死んでしまう。もう腐界に脅えながら、マスクをして生きていくしかない。

 化学物質過敏症はアレルギーみたいなものなので、これから症状を持つ人が増えることは間違いないと思う。人類は空気中に化学物質を放出することをやめるか、それとも患者を見殺しにするのか、治療薬を開発するのか、何かの選択を行わなくてはならないわけですが、コストがいくらかかっても、もう化学物質の拡散をやめるのが一番良いのだろうなと思う。たぶん化学物質過敏症というのは、何かのシグナルだと思うからです。

electronic.

2006-08-17 15:12:13 | Weblog
 頭痛がするくらい疲れ果てた状態に、喉が渇いたといってカリフォルニアビールとリンゴがうんと入ったサングリアをがぶがぶ飲んで、僕の体はいくらかふわふわとしていた。ヘッドホンを着けて、自転車に跨る。深夜を過ぎた通りにはほとんど車もなく、遠く南、太平洋で発生した台風が街路樹に強い風を送り込んでいた。揺れる木々の中で、どうやって鳥たちは眠っているのだろう。
 通りは進行方向へ向かって、緩やかに下っている。だから僕はあまりペダルを踏む必要がない。ヘッドホンからはコーネリアスが大音量で鳴り響いていた。通りに自動車もなく、人通りもなく、主に透明な高音で作られた音楽が耳元で鳴り響き、台風の風を受け、いくらかアルコールが体内を駆け巡り、僕は今なら車にひかれても全然痛くなさそうだな、と思う。自転車はまるでオートマティックに進み。僕はそこに乗っかっているだけだ。風は背中を押し、僕は然るべきところへ運ばれていく。

 危ない危ない。
 こんなことをしていては本当にひかれて死んでしまうかもしれない。

 僕はヘッドホンを外した。
 ときどきはこんな感じで死んでしまう人もいるのかもしれませんね。

 しばらくすると軽い雨が降ってきたので、立ちこぎなんてして急いで部屋へ戻って、やっぱり喉がかわいたなあ、と冷蔵庫を開けると冷やし飴が入っていたので、ごくごくと飲んで、藤原定家の歌集を読んでいるといつの間にか眠っていて、Eからの電話で起きて、いくらか話をしてまた眠った。
 開け放した窓の外では、相変わらず強い風が音を立てていて、干したままの洗濯物がこれでもかと翻弄されていた。

それは悪いジョークさ、キティ。

2006-08-16 15:49:08 | Weblog
 今日は夜に五山の送り火があって、魂はあの世へ帰っていき、お盆は終わります。相変わらず京都はものすごい暑さで、昼の炎天下に往来を歩くと、照りつける太陽光線に「そうか、ここは宇宙空間の中なのだ」とSF的な認識を改めて持ってしまう。

 昨日、Mと晩御飯を食べていて、やっぱり、ご飯を食べる、という行為で生きていけるというのは不思議なことだなと、また思った。これはずっと昔から思っていることで、2003年にも同じようなことを書いているので再録しました。

 自動車がガソリンで動くとか、扇風機が電気で動くとか、そういったことはまだ納得がいくけれど、生命なんて神秘的なものが、ご飯を食べる、で維持されているなんてなんだか納得がいかない。

**************************

 『フレッシュ』(2003年9月9日)

 ダイガクイモ、という名前であっているんだろうか(良く分からない形に切った
サツマイモに硬くて透明な砂糖のコーティングが付いたやつだ)、それがたくさ
ん入っていたプラスチックのパックを蓋が開いた状態でテーブルから落してし
まった。
 幸い、それは底面を下にしてきちんと着地したので、被害は皆無だった。

 それが一昨日の夜のことで、昨日の朝は同じく蓋の開いた納豆のパックを布
団の上に落してしまった(なぜかと言うと、それは僕が非常に横着な朝食の摂
り方をしていた所為だ)。
 幸い、それは底面を下にしてうまく着地したので、一瞬脳裏を過った最悪の
事態は免れた。

 奇跡というものが、人生において一体どれくらいの頻度で起こるものなのか
僕は知らない、でも、こんなことでも奇跡的だと思い、そして神は本当にいるの
かもしれないな、と思ったりする。

 もちろん、納豆がひっくり返らなかったからといって、それは奇跡でもなんで
もないのだろう、本当のところ。
 奇跡というのは、納豆ではなくソフトクリームを地面に落して、それがコーン
の最下部で、あたかも1984年のオリンピックロサンゼルス大会で森末慎二
が鉄棒男子選手として五輪史上初めて10点満点を叩き出したときの演技み
たいに完璧な着地を決めることをいう。

 そして、もっと奇跡的なのは、納豆を食べて生きていくことができるという事
実の方だ。
 僕らが生命を維持するために行っている最低限の行為は、物を食べ、水を
飲み、排泄し、大気を呼吸するということだけど、そんなことだけで生きていけ
るのが不思議で仕方ない。
 不思議だというか、むしろ冗談にしか思えない。

 昨日は「WOMB」という京都造形芸術大学の近くにあるカフェで晩ご飯を食
べた。住宅街の中、マイナーコードを作るために半音下げた音符みたいにず
れた感じで、特異的なのに周囲に溶け込んで存在する変なお店だ。
 天井の高い広々した空間を、打ちっぱなしのコンクリートと矩形的なイス、
テーブル、天井周囲からの間接的なトップライトで演出したミニマルなお店
で、ピザを齧りながら僕は吹き出しそうになった。

 「ピザを齧るだけで生きていけるなんて冗談に違いない」

 ときどき、何かを食べていて我に返るとそういう風に思う。

 僕らの肉体は有機物で、たとえば同じ有機物である牛肉や豚肉なんかは
常温中に放置しておけば1日であっさりと腐ってしまう。だけど、僕らの肉体
は食事、排泄、呼吸のお陰で何十年間も腐りはしないのだ。
 生肉の塊である腕や足が腐らないのは、代謝や免疫や細菌との共生の
お陰だと頭では分かるけれど、感覚としてあまりにも不可思議だ。例えば、
うららかな春の日、夏の炎天下、冷蔵庫に入れなくても、冷凍しなくても、
僕らの体は常にみずみずしい。
 昨日のピザならば、小麦粉で作った生地の上に、京野菜と湯葉、チーズ
とトマトソースとバジルを乗せて焼いたものを口にするだけで、そんな簡単
なことのお陰で僕の体は腐らないし、生命は維持されるのだ。すごいという
か、やはり冗談にしか思えない。

 ピザが、僕の命の一部になるのだ。
 食べるという行為は、物質である食べ物を生命に変換する特殊な行為な
のかもしれない。
 と考えていて、とんでもない過ちに気が付いた。
 食べ物は単なる物質ではない。それは帽子とか机とか自転車みたいなも
のとは違う。食べ物は、すべて生き物の死骸で出来ている。そう思うと、食
べるというのは生き物から生き物へ命を繋ぐちょっとした儀式だと考えるべ
きだし、そんな当たり前のことに気が付かない自分はかなり痛いな、と思う。

 ピザはそもそも命あったものの集合なのだ。
 食べて命を存えるのは、冗談なんかではない。

No1.

2006-08-12 15:48:24 | Weblog
 どうして人は死ぬのだろう。
 どうして僕たちは失わなくてはならないのだろう。
 どうして僕たちは通り過ぎなくてはならないのだろう。

 ときどき、この世界を恨めしく思う。
 真夏の立葵が咲き乱れる裏庭と都忘れへ水を撒く古びたジョウロの先に。

 楠の木陰で眠る夢見心地の男は、太陽と月と星とを全部一度に見たいと願う。

 僕は炎天下のアスファルトを歩いた。空には高く、白い入道雲が立ち上がり、木々の森からは蝉の声が煩く響き渡る。
 僕は炎天下のアスファルトを歩いた。路傍に転げる蝉の死骸をスニーカーの底で打ち砕く。

 変化など一体誰が望んだというのだろう。
 一体何を繋ぐというのか。

 僕は打ち水の上を歩いた。庭先の艶やかな水色ビニールプールに5人の子供が笑う。
 僕は打ち水の上を歩いた。振り返ると、痩せた猫が蝉の死骸に口を付けた。

 「アイスクリームを買いに行きましょう」

 

チョコフレーク。

2006-08-11 14:59:46 | Weblog
 随分と話題になっていましたが、亀田なんとかというボクサーが世界戦を戦ったらしくて、その判定がおかしいだとかおかしくないだとか、テレビをつけるとその亀田なんとかというボクサーが映っていて、へんてこなおじさんみたいな話し方でインタビューに応えていて、噂通りの尊大な態度だったので僕も不快になった。

 僕は今回の亀田さん騒動に関して特に関心があるのではないけれど、でも一つとても気になる現象があった。
 それは、

「亀田の態度は気に食わないけれど、でもあれはパフォーマンスらしいからまあいいだろう」

 というロジックで、亀田君の態度が気にいらない、という自分の感じたことを打ち消してしまう人達がたくさんいたことだ。僕の周囲には見事に亀田家の話題を持ち出す人がいなくて、僕はテレビやネットから入ってくる情報だけで、そのような判断をしているわけですが、でもそういった記述がとても多く見られた。

 これはとても基本的なことだけど、人は人の判断を、その思想よりも行動を元に行うべきだと思う。
 あの人、毎日一匹ずつ猫を殺しているらしいですけれど、でも本当はいい人なんです。
 そんなのは毎日猫を殺している時点でいい人でもなんでもない。
 パフォーマンスって、『行う』という意味合いの英語ですよね。本来。
 パフォーマンスだろうがなんだろうが、実行された行動はその人のものだし、行った人間はその行動に関して責任を持たなければならない。ナイフで人を刺し殺して、「あれってパフォーマンスなんです。どうもどうも」なんて許されるわけもなし、今回の「態度が悪い」というのも、実際にアナウンサーだとかタレントだとか視聴者だとか、他人に向かって実行している以上は、本当はいい人だ、とかそういった思索が入り込むまでもなく「態度が悪い」と言えなければいけないんじゃないだろうか。

 中学生のとき、僕の友人で比較的いじめっ子体質のKが、同じく僕の友人で、こちらは比較的いじめられっこ体質のMのことをときどき叩いていた。

「痛いなあ、なにするんだよ」

「ごめんごめん、ウソ、冗談」

「ウソって、ほんとに痛いのにどこがウソだよ」

 人間の心理には恒常性バイアスというのがかかっていて、非日常性が強い、あるいは自分の想像を越えるできごとに対面したときに、それを「なにかの間違い」だとして片付けてしまう傾向がある。
 たとえば、店を出て通りを歩くとナイフを持った男がいて、その男が通りがかりの女性を刺したとする。それを見たとき、人は一瞬「これは何か映画の撮影なのだ」と思い込もうとする。

 実際に韓国で行われた心理学の実験があって、その実験では何も知らされていない被験者が乗っている電車の中に煙が充満し始めるのだけど、多くの被験者は煙を見て見ぬ振りをしてそのまま新聞を読んだりし続けた。煙は「なにかの都合で」出ているだけで、異常ではない、と頭のなかで片付けてしまうのだ。

 昔、バス停の前を通ると、ゴミ箱から煙がモクモクと出ているのに誰もそれを気にしないで普通にバスを待っていて驚いたことがある(火は僕達が消した)。特に自分が何かをしなくても、自分はいつもどおりにしていればこの世界をサバイブしていけるのだというへんてこな思い込みが蔓延しているように思う。

 同じように悪いことをする人間がいても、「この人は悪いことをするけれど、本当はいい人なのだ」と思い込んでこの世界に本当に敵となりうる人間が存在していることを認めたくないのかもしれないなと思う。

ヒグラシと犬、あるいは世界的なシャンプーハット。

2006-08-08 18:38:23 | Weblog
「あそこの前、通るしかないよね」

「うん」

 畦道の先には、小さな一軒の農家があって、その庭先には大きな檻があった。檻の中には巨大なドーベルマンが2匹いて、彼らは僕達を見つけるなり大騒ぎに金網へ爪をかけ吠え立てた。

「行くっきゃない」

 ドーベルマンは遠目にも大きくて、中学2年生になったばかりの僕とKより身長が高いように見えた。おまけに、その檻はいかにも手作りで、ドーベルマンがちょっとやる気を出せば、そんなものはないに等しいのではないかと思われた。

「あの檻が壊れたら、たぶん僕らかみ殺されるよね」

「多分じゃなくて、絶対に死ぬよ」

「でも行こう」

「よし」

 僕たちは自転車に跨り直し、全速力の立ちこぎで凸凹とした畦を進んだ。ドーベルマンの檻がだんだんと迫ってきて、僕の目は2匹の犬に釘付けになる。もしも檻が壊れたら、最悪の場合この犬と戦わなくてはならない。僕はムツゴロウさんのテレビも良く見ていたし、動物の本もいくらか読んでいたけれど、この2匹のドーベルマンと瞬時に仲良くなれるなんて全然思えなかった。パチンコはいつでも使えるポケットに入っているけれど、犬が僕達に飛び掛る前に、こんな凸凹の地面で自転車を止めてカップにビー球を装填できるとは思えなかった。たぶん僕は転ぶだろうし、犬が上から乗りかかってきたらナイフで顔や喉を刺すしかないなと思った。

 『クロコダイル・ダンディ』という、オーストラリアのアボリジニに育てられた白人の男を主人公にした映画があって、僕はそのコメディタッチの映画が好きだった。その主人公の男はクリント・イーストウッドが演じていた。
 映画の中で、オーストラリアの大自然ツアーに来た人がクロコダイルダンディに「今、何時ですか?」と訊くシーンがある。イーストウッドは隣にいる人の腕時計をさっと盗み見して「3時27分ですよ」みたいに正確な時間を答えて、「どうして時計もないのにそんな正確な時間が分かるのですか?」という相手の驚嘆に、「なに、太陽の位置でわかります」と飄々と答えて自分の自然理解度の高さをアピールする。とても軽いタッチの映画。

 その中でイーストウッドは長い大きなナイフを背中に付けている。背中に斜に掛けて、ちょうど忍者の剣と反対で、下側、つまり腰の辺りからナイフが抜けるようになっている。彼はそれで敵とも戦うし、缶詰も開ける。そのナイフがあればたいていのことはできる。僕はそれに憧れて、子供らしくそのまま真似をしていた。ただ、オーストラリアの大自然の中ではなく、日本の京都の田舎町では背中にナイフをぶら下げて歩くことはできないので、Tシャツの下にナイフを隠していた。

 念のために書いておくと、僕はいたって普通の子供でした。ナイフを使って生き物を傷つけたことなんてないし、もちろん喧嘩の時にナイフを抜くなんてことは100%なかった。ただ、僕はキャンプや飯盒炊爨や探検や探偵ごっこの好きな子供だったので、ナイフという人間にとって最も基本的な道具を持ち歩かない、なんて考えることができなかった。あとマッチやライターもそうだ。マッチやライターを持ち歩いているとタバコを吸う不良中学生だと間違えられるけれど、全然そんなことはない。火も、最も基本的な道具の一つだ。たとえば雪山では火があるかないかで生死が別れる。でも、なかなかそういったことは理解してもらえなかった。一度中学生のときに警察に尋問されたことがあって、僕は自分の持ち物を説明するのにとても困った。僕は単に夢見がちな子供で、山の中で遊んでいて変な洞窟に紛れ込んでも無事に帰還できる、ということを想定した最低限の装備をいつも持ち歩いていただけだった。

 当たり前だけど、犬は檻を壊すことも、そこから出てくることもできなかった。農夫が作ったのであろうその檻は、適当な作りに見えても十分に頑丈だった。
 僕たちは農家を越えて、しばらく行くと自転車の速度を落とした。すぐに畦道は終わる。その先にはイノシシよけのフェンスがあって、フェンスを越えれば道のない山の中だ。僕とKはフェンスを登って越え、それから小川の浅瀬を歩いて山を登ることにした。小川の水はきれいに澄んでいて、それからとても冷たかった。真夏の汗をたっぷりと掻いた僕たちは、その水を飲んで、顔と頭を濡らした。
 そして、さらに先へと進む。

 だた、僕達には山を登る理由が全く何もない。
 僕たちは行き当たりばったりに行動していて、できることならなるべく深い山へ入りたい、というくらいのものだった。無目的な上に、向こう見ずで、それは本当にただの子供の遊びだった。
 川をいくらか上ると、やがて15メートルくらいの高さの崖が現れた。崖は土と石の混じったもので、まだ露出してからそんなに長い時間は経っていないようだった。

 僕たちはそこを登ってみることにした。
 見ただけで、なんとなくやばそうだな、ということは分かっていた。実際に、壁に取り付いて登り始めるとき、壁がもろいことは十分に把握できた。
 でも、僕たちは登り始めてしまった。自分たちが致命的な出来事に出くわす、という可能性は完全に排除されていた。中学2年生だった僕達にとって、自分達の死というものは遥かかなたにだけ存在しているもので、日常生活でそこに近づくことがあるなんて思いもよらなかった。

「わー」

 僕が10メートルくらいまで登ったとき、僕のすぐ先を行っていたKが足を踏み外して滑り落ちてきた。一瞬のことだ。えっ、と思う間もない。Kの体はほとんど垂直な壁を落ちてきて、僕の頭にぶつかった。支えるなんてできるはずもなく、僕はKとそのまま一緒に落ちるほかなかった。Kは足を踏み外したのではなく、何か脆い石に足をかけてしまったようだった。そして、それは一種のキーストーンでもあったのだろう。崖の上の方が崩れて、大小様々な石と土が僕達目掛けて落ちてきた。

 そのとき、僕は自分の中で緊急モードが起動したことをはっきりと感じた。
 すべてのものがスローモーションではっきりと見える。
 土はたいしたことがないけれど、石の中には僕達の頭よりもずっと大きなものもいくらか混じっていて、それにぶつかることはどうしても避けたかった。
 僕は落ちていきながら上を見上げ、落ちてくる石をはっきりとみることができて、崖を横に蹴ることでなるべく大きな石がぶつからないようにした。さらに自分が着地すべきポイントを、下を見て決めることができた。岩の上なんかに落ちてはならないし、なるべく柔らかな川砂利の上に降りたかった。石が落ちてくるので崖からは離れる必要があった。僕は落下地点を決めて、崖を強く蹴ってそこへ跳んだ。地面がゆっくりと迫ってきて、僕は思い通りの場所へ降りた。足だけでは当然体を支えることができなくて、前につんのめって両手を着く。そのまま転げて左の肩を打った。

「痛い」

 地面に降りた瞬間、世界のスピードは普通の速さに戻った。

「大丈夫?」

「うん、大丈夫。でも死ぬかと思ったよ」

 Kも岩や倒木を避けて、川砂利の上に着地していた。

「なあ、なんかさ、スローモーションになってさ」

「オレも」

「ほんとに?」

「ほんとに、こう、石とかゆっくり見えた」

「そっか。火事場のバカ力とかよく言うじゃん。あれって本当なんだね。これってたぶんそういうことでしょ」

「そうだね。それよりもケガは?」

 僕たちはお互いにパンツ一枚になって体を点検した。汚れはそのまま川で洗い流す。切り傷は少ないものの、二人とも打撲だらけだった。それから僕は右の足首を痛めていて、頭には大きなコブができていた。
 しばらく、川で打ったところを冷やしたりして、それから僕たちは疲れ果てて言葉少なに山を降りた。フェンスを越えて、畦道へ戻る。自転車に乗ってヒザを曲げてみると、思ったよりもヒザが痛いことが分かって、自転車をゆっくりと進める。
 すると、やがてまた例のドーベルマンの檻が見えてきた。

「ワン、ワオー」

「ウォンウォン」

 また彼らは檻の中から大暴れをしていた。

「まただよ」

「どうする」

「今度はもう大丈夫なんじゃないの。さっきも壊れなかったし」

「今度は壊れるかもよ」

「じゃあ、ちょっとだけ突っ走ろっか」

「そうだね。あちこち痛いけど」

「ほんとだよ。まったく、あの犬」

 僕たちは自転車に跨り直す。

「よし、行こう」

「なんか笑えて来るね」

「来る」

 ワハハハハー。
 僕とKは異常な笑い声を立てながらドーベルマンの前を通り過ぎ、そしてそれぞれの家へ帰った。帰ると案の定、「あんた、また何をしてたの?」と母親が僕の姿を眺め、僕はなるべく平静を装って、「Kと山で遊んでただけだよ」と答えた。母親が頭のコブを冷やすのに用意してくれた氷嚢をもらって、僕は自分の部屋へ行き裸になると、その氷嚢で体のあちこちを冷やした。そうして、気が付くと僕は眠っていた。

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 変な記事になった。
 先日ちらっとみたトップランナーに湯川潮音さんが出ていて、

「演奏中はスローモーションなんです」

 と驚くようなことを言っていたので、僕はスローモーションについて書こうとしたのですが、なんだか回想だけでこんなに長くなったのでとりあえずこれでやめます。
 今日は台風がやってくるらしく、空ではとてもきれいに雲が遠くまで広がっている。
 僕たちはどうして空を飛べないんだ。