放棄されがちな自己決定権の決定権

2010-10-24 22:00:59 | Weblog
「自分で何でも決めていい」というのは嬉しいことの筈なのに、実際のところ「自分で何でも決めていい」は恐れられ遠ざけられている。そして人は自分の外部に答えを求める。

 たとえば、幸福かどうかというのは、本来は自分で決めて良いことだと思うけれど、「自分が幸せかどうかなんて自分で決めればいい」と言っても、大抵の場合は戯言にしか聞こえない。

 外部の基準を参照することが深く浸透しているので、自分で自分の基準で決めて良い、という言葉はまるで言い訳のようにしか響かない。「あの人は車が買えないから、車なんてなくても幸せだとか負け惜しみ言ってんだろう」「お金なくても幸せとかバカじゃないの」みたいにしか解釈されないということだが、それは判断を下す人間が自分の価値観で全てを計ることができて本当はあの人だってこちらのことがうらやましいのだと思い込みたいからだ。自分とベクトルの異なった尺度で生きている人間からはうらやましいとも思ってもらえないし尊敬もされないので本当はそのことが怖くて目を背けている。

 人と比べても意味がないとか、そういう台詞はたくさん出回っている。でも、それらはちょっと婉曲すぎる。人と比べて幸福を計るどころではなくて、多くの場合、人は自分が幸福かどうかを他の人に決めてもらっているからだ。
 人に人の基準で、たぶん誰かの基準ですらなく、漠然と社会に共有された、あるいは国家や広告会社の作り上げた基準に照らされて、幸福かどうかを決めて貰っている。他の人に「あなたは幸せです」とか「あなたが羨ましいです」と言って貰わなくては安心できない。
 やりたいことが見つからないという人は、多分「やりたいこと」が見つからないのではなくて「人に羨ましいと思って貰えるようなやりたいこと」を見つけることができないだけだろう。
 これらは端的に、その人の生き甲斐が、積極的には人に羨ましいと思われたい、消極的には人に哀れまれたくない、という点にしかないということを表している。
 これは善悪以前に、ただ蔓延する緩やかな恐怖であり、人間の社会性だと一言でパッケージして肯定はできない。恐怖からの逃避と喜びを履き違えると強い歪みが生じるし、複雑な構造に発生した歪みを取ることは最初からそれを作り直すよりずっと難しい。
 そうか全部自分で決めて良かったんだ、と思い出す時、僕はなんだかほっとする。

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昔の人、今の人、未来の人

2010-10-07 19:39:30 | Weblog
 雨の降る夜に、20世紀のことなんて振り返ったりしている。

 僕は子供の頃、古い映画や物語がとても嫌いだった。嫌いというか、怖いというか、もどかしいというか。
 それは、その物語の世界に、僕達が現代持っているようなテクノロジーがなかったからだ。電話がなかったり、車がなかったり、代わりに馬車に乗って、飛脚が手紙を運んで。そういうのを見ていると、物語の中に同調した部分の僕がとてつもない「不便」を感じ、かつ、物語に入り込んでいない部分の僕が「あのね、未来には自動車というとても便利なものができるから、馬に車を引いて貰う必要なんてなくなるんですよ。馬の速さ競って偉そうにしてるけれど、自動車は時速300キロとか出るんですよ」と、まだ何も知らない昔の人達に言いたがる。

 そういう「古い物語がイヤ」症状がいつなくなったのか、はっきりは覚えていない。気がついたら過去だろうが未来だろうが、いつの時代の物語であろうと、あるいは僕達の持つ時間軸のどこにも属さない世界の物語であろうと、なんだってOKになっていた。

 その理由は、たぶん僕が社会というものは人間で構成されていて、その基本的な営み、喜びというのはそれほど大きくテクノロジーに依存するものではないと気付いたからだと思う。
 僕の知る限り、いつの時代の人々も、歌を歌ったり、お酒を飲んだり、恋をしたり、子供を育てたり、生活の根本はそれほど変わるものではないみたいだった。
 そう思うと、急になんだかほっとした、仮にタイムスリップして違う時代に行ってしまったとしても、そこにはその時代を生きる人々がいて、そこで僕は、彼ら彼女らと、その時代の楽しみをして暮らせばいいのだと。

 これは時間に関してだけでなく、空間的なことに関しても言える。
 どこか遠くの知らない街や村へ行くことがあっても、そのときはその場所にいる人達と仲良くすればいい。

 もちろん、その時代、その場所、にいる全ての人達と仲良くすることはできないだろう。現に、僕は今この世界にいても、誰とでも仲良くできるわけじゃない。それでも、人のいる所にはきっと誰か気の合う友達や、好きになってしまうような人がいるに違いない。

 そう言えば、先日ツイッターで「昔の人って」から始まる一連の投稿をした。
 こんな感じで、

 昔の人って、なんかトイレのあと紙でお尻拭いてたらしーよー。こうやって手でww しかもその紙ってのがすんごい薄いの、げ~。 とかいつか言われる時代が来るのだろうな。

 昔の人って、なんか歯ブラシとかいう小さいブラシに歯磨き粉っていう、粉ってくせにペーストのをつけて、それで歯の掃除してたらしいよ。しかも、そのブラシって同じの何回も使うんだって、汚いね、昔の人は。 とか言われる時代がいつか来るのだろうな。

 昔の人って、ケータイとかいうのわざわざ持ち歩いてたらしいよ。手で操作してたんだって、画面こんなに小さいくせにそこで映画みたりもしてたらしい、ププ~ スマートフォンって名前らしんだけど、どこがスマート?原始的ww っていつか言われるんだろうな。

 昔の人って、寿命80年くらいで、人生80年とか言ってたらしいよ。とか言われる未来がいつか来るのだろうな。

「昔の人って、なんか薄ーい紙でお尻拭く時代の次は、なんか水でお尻洗う装置発明したらしいよ」「へー、水って?」「うん、なんかこう便器の中からビューと出てくるらしい」「えっ!便器の水?」「まさかそんなことないと」「なんか汚いね昔の人はやっぱ」 とか言われる時代が来るのだろうな

「昔の人って、なんかコンタクトレンズとかいうレンズを目に入れてたらしいよ」「えー、まじで?痛いでしょ?」「柔らかいあまり痛くない素材を開発したらしい。酸素も通して目にあまり負担は掛からなかったらしいよ」「へー、昔の人の知恵ってすごいな、やっぱ」とか言われる時代が来るのだろうな

「昔の人って、なんか道にゴミを置いてたらしい」「ゴミだらけだったの?」「置いていい時間は決まっててそれを車で集めてたみたい」「じゃあその時間は道にゴミ一杯あって更にそのゴミを載せた車が街中走ってたの?」「だろうね」「昔の人はワイルドだなやっぱ」とか言われる時代が来るのだろうな

「昔の人って、なんか傘とかいう棒の先に小さい屋根が付いたのを手に持って雨の日歩いてたんだって」「へー、でも風吹いてたら小さい屋根じゃ濡れるんじゃないの」「うん、濡れたらしい」「あっ、そうなんだ濡れたんだ」「昔の人は我慢強かったみたいだから」とか言われる時代がいつか来るのだろうな

「昔の人って、なんか人が死んだら集会開いたらしいよ」「えっ、まさかパーティー?」「違うに決まって。。。いや待てよ。そういやお坊さんとかいう人が来てお経という種類の歌みたいなの歌うらしいから、パーティーだったのかなあ、意外に」「かもね、昔の人は良くわかんないなあ」

「昔の人って、なんか人が死んだら燃やしてたらしいよ」「えっ、ほんとに?それはまた過激だね」「うん、それで燃え残った骨を骨壺という骨専用の壺に入れて家に持って帰ったらしい」「えっ、なんで?」「いや、よくわかんないんだけど」「ふーん」

「昔の人って、なんか石油で作った洗剤で食器とか体とか洗ってたらしいよ」「えっ!石油ってあれでしょ、地面の下に」「うん、あれ」「あんなので洗ったら余計に汚れるんじゃないの?」「そこを昔の人の知恵でなんとか」「知恵っていうか他になんかもっとあったんじゃないの?」「さーね」

 この日、僕は急になにもかも、現代の全てが古臭く見えて、それでこういう普段から感じていた違和感のことをツイートした。
 今は未来の過去だということを、最近ひしひしと感じる。
「馬って。。。自動車は300キロでるんですよ」と言っている僕は未来の誰かに言われるのだ。「自動車ってガソリン燃やして走って原始的だね。今のナントカカントカ(まだ発明されていない未来の何か)はワープできるのに」

 僕たちには常に未来がある。

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トリックスター、憂鬱を吹き飛ばす。

2010-10-04 15:43:19 | Weblog
 言葉で何か繊細なことを伝えるのは難しい。本当のところ、「私」というものは、あるいは「私」の思考というものは、言葉を通じても伝えることができないし、他のどんな手段を用いても伝えることはできないのかもしれない。
 それは丁度、頭の良い、言葉を覚えたコウモリが、僕たちに「超音波で世界を見ると、どういうふうに見えるのか」を一生懸命に説明しているところに似ている。僕たちは想像力を働かせて、ある程度の理解はするだろう。でも、彼らが体験しているリアリティを本当に知ることはできない。

 もしかしたら、もっと頭の良いコウモリが現れて、コウモリの見ている超音波の世界を3Dの映像にして見せてくれるかもしれない。しかし、残念ながら、それでも僕たちにはコウモリが見ている世界の実体は分からない。なぜなら、そのとき僕たちの体験するものは、あくまで「人間の視覚を通じた情報」しかも「音から映像に機械で一度変換された情報」だからだ。コウモリ達のように、自分の耳で聞いて脳で空間認識を組み立てるのとは何もかもが本質的に違っている。

 つまり、僕たちがコウモリ達の世界を本当に知ろうと思うのであれば、それはもうコウモリになってみるしかない。

 同じことが、人間の間でも言える。
 もしも、本当に本当に「私」を「他者」に伝えたいのであれば、もう「他者」に「私」になってもらうしかない。
 僕であれば、僕の「私」を完全に「他者」に理解してほしいのであれば、その他者に僕のこれまでの31年間を実際にやってもらうしかない。

 もちろん、そんなのは到底無理な話だ。
 ならば僕達は「本当の相互理解のない世界」を生きねばならない、と絶望するべきなんだろうか。

 当たり前だけど、全然そんなことはない。
 絶望というのは、ありとあらゆる場面で使う必要のない言葉だし、希望はいつでもどこにでもある。マクガイバーならどうするか想像してみればいい。

 それどころか、「完全な相互理解」の成立する世界の方が、言うなればより絶望に近いかもしれない。

 「私」を完全に理解してもらう為に、「他者」に私になってもらったとして、そんな理解が一体なんだというのだろう。
 「他者」はもう「私」であって「他者」ではない。「私」を「私」に理解してもらうことに何か意味があるだろうか。それでは独り言を閉じた部屋の中でブツブツ言っているのと同じことだ。「他者」が「私」になってしまった「他者」不在の世界では、一切の外部と広がりがない。それこそ果てしなく孤独な世界だろう。

 「他者」という「私」を絶対に理解しない存在に溢れたこの世界は、ちょっとめんどくさいかもしれない。
 けれど、「他者」という「私」を理解できない存在のお陰で、僕たちは心豊かに生きていくことができる。「私」は「私の」ではなく「他者の」文脈で理解されねばならない。人は理解してくれないけれど、理解してくれない人がいるからこそ、僕たちはこの世界で暮らすのだ。
 コミュニケーションというのは100%の理解ではなく数パーセントの「誤解」によって成立している。なんてトリッキーなこの世界。

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無という神という無

2010-10-01 10:27:18 | Weblog
 大山へ遊びに行った夜。半分くらいが眠って、半分くらいがまだ起きていて。僕たちは明かりを落としたダイニングで話をしていた。
 話はいつの間にか宗教のことになり、友人が「仏教のことを哲学的だとか自由だとか褒めて、キリスト教などの一神教をガチガチの宗教みたいに言いがちだけど、実際のところは仏教も一神教と同じ構造だ」というようなことを言った。

 彼の言によれば、仏教は、「無」を頂点においた一神教だと見なすことができる、神の代わりに「無」を持ってきただけの話だ、ということだ。

 なるほどなあ、と僕は思った。
 それまで、実は全然そんなこと思いも寄らなかった。

 しばらくの間、でも、「無」は定義されきっていない、というか、「無」は「有」との重ね合わせ状態としての”無”だから、とか色々反論を考えてみたけれど、そういった反論になりそうなものは全部キリスト教などの一神教でも同じだった。
 僕たちは「無」を定義しきれないし、同様に「神」も定義しきれない。神学論争は延々と続いている。

 「何か」を頂点においているけれど、その「何か」が何なのかを知らないまま宗教は進んでいく。「なんか良くわかんないんだけど、とりあえず」ということで歩き続けている。「足下を見よ」とか「隣人を愛せ」とか日常の訓話を散りばめて、ときどき「何か」とは何かを真剣に考えてみたり。
 そう思うと、宗教って実にプラクティカルだ。

 ただ、「何か」について「完全に分かっている。こうだ!」っていう人が現れた時、たまにおかしなことが起こる。
 だから、やっぱり「宗教」というあり方にはいくらかのリスクが伴うとも思う。それは自分の頭で考えない人の集団は怖いという、別に宗教に限った話ではないけれど。

 今回はテーマが大きいせいもあるかもしれないけれど、やっぱりなんだか上手く書けない。一つの文章を書くと直後にそれに対する反論を自分で書きそうになる。さらにその直後に両者を否定することを。
 つまり「A」と書いた直後に「Aじゃない」と書いて、その後に「AとかAじゃないとかそういう枠組みで考えること自体が間違っている」と書きたくなり、さらにその後に「”AかAでないかという枠組みで考える”と”AかAでないかという枠組みで考えない”という枠組みで考えることが変」、と以下同様に話が延々と内側にしか進まない、という現象にすぐ囚われる。

 これは別に悪いことではないと思う。
 ただ、作文としては「すっきりと明快な論理が通っている」方が読みやすいし、読んだ人もすっきりして気持ちが良いと思う。
 だから、それを目指したいな、と思ったり、同時に、それが「危ない思考停止の宗教」と同型だなとか、すっかり寒くなった朝にすぐに冷めてしまうお茶を飲みながら思う。

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