人形峠ウラン鉱山残土

2013-09-27 20:16:13 | Weblog
 1955年に「原子力平和利用博覧会」という催しがあったらしい。日比谷公園で原子力列車の模型など、”素晴らしい原子力の未来”を印象付ける展示が行われ、36万人の来場者があったということだ。
 原子力は、まだ貧しかった日本に、1つのビジョンを示した。
 「ウランを掘り当てて大金持ちに!」だとか、「放射能でガンが治る」とか「放射能でお茶がおいしくなる」というような、勝手な流言飛語が飛び交い、日本中が盛り上がったらしい。

 この「原子力の流行」は、正力松太郎率いる読売新聞が仕掛け、引き起こしたわけだが、当時の日本が来る高度経済成長と大量消費社会を控えて自前のエネルギーを渇望していたことを考えれば、彼がいなくても誰かが同様のキャンペーンを張ったかもしれない。

 311以降の世界を生きる僕達は、「唯一の原爆被爆国なのに、原子力発電をこれ以上行うなんてどうかしてる」というような言説をしばしば耳にするけれど、1945年に2発の原爆を落とされた、そのわずか10年後に原子力ブームが起こっていたというのは、もっと異常なことだったのかもしれない。
 無論、原子力そのものは無機であり善でも悪でもない、原爆と平和利用は別だという話は、それはそれで筋が通っている。ここではそれに関して論じるつもりはない。

 それでは何のことを書きたいのかと言うと、原子力平和利用博覧会が開かれていたのと同じ年、1955年(昭和30年)に、岡山と鳥取の県境で発見されたウラン鉱山と、それがもたらした公害のことだ。

 岡山と鳥取の県境に、人形峠という変わった名前の峠がある。人形峠という名前は子供の頃に何かの怪談で聞かされた気がするけれど、その他で特に聞いた覚えもなく、ウラン鉱山があったことも知らなかった。

 僕は今「ニッポンの穴紀行」という、日本の近代史に関わる全国の穴を訪ねるドキュメンタリーを読んでいて、その中でこの事を知った。
 この本は図書館で偶然見つけて、開いたページに載っていた「滋賀会館地下通路」が気になり読みはじめた(僕は京都に住んでいて、近所の滋賀会館が気になったのですが、偶然、この本を読んだ翌々日にニュースでNHKが滋賀会館を買うと聞きました)。
 しかし、この本に出てきた「穴」の中で、一番驚かされたのは滋賀会館ではなく「人形峠夜次南第2号坑」だ。

 話は、日本が原子力・放射能ブームに湧いていた当時、マスコミを騒がせていた「ウラン爺さん」こと、東善作に始まる。
 
 東善作は1893年、石川生まれ。後に新聞記者になる。記者時代にアメリカ人の曲芸飛行を見て飛行機に魅せられ、渡米して飛行機操縦を覚える。そのまま第一次世界大戦の勃発を迎え、なんとアメリカ軍の1人として戦争に参加している。日本に帰国の後、1930年に、日本人初の三大陸横断飛行を成し遂げる。
 なんとも活発な人だ。

 東は、第二次世界大戦の後、一攫千金を狙ってウラン鉱山探しをはじめ、1955年にこの人形峠のウラン鉱山を発見する。東はこの時62歳。採掘の始まった人形峠には食堂や土産物屋がいくつかできて賑わったが、ウランの質が悪く、残念ながら東が大金を手にすることはなかった。
 それどころか、ウラン鉱石を溶かしたウラン風呂に入り、ウラン鉱石を撒いた畑で育てるウラン野菜を食べる、独自の「ウラン健康法」のせいか、妻、養女をガンで亡くし、東自身もついにガンで死んでしまった。

 なんとも壮絶な人生だが、話はこれで終わらない。
 東が1955年に見つけた人形峠のウラン鉱山は、1957年から採掘が始まり、品質が悪いので使えないものの1987年まで採掘は続けられた。そして、翌1988年に残土から強い放射線が出ていることが分かり、その危険性が指摘される。

 人形峠から北へ15キロ程の所に、方面という場所があるのだが、ここでも1958年にウラン鉱脈が見つかっている。ここで3年間採掘に従事していた榎本益美さんという方が、残土放射能の危険性をニュースで知り立ち上がった。

 榎本さん達の当時の作業環境は最悪で、マスクすらしない状態で1日12時間坑内にいたという。原子燃料公社(現・日本原子力開発機構)から時折視察に訪れる職員はもちろん防塵マスクを着用の上、坑内に留まるのは短時間。榎本さん達作業員には「天然放射能だから大丈夫、作業に専念して下さい」というようなことを言っていたらしい。

 結局、榎本さんは、血を吐いて、鼻血を出して、毛が抜けるようになり、8箇所の胃穿孔が見つかって、この仕事を辞めている。
 また、因果関係はともかく、榎本さんの奥さんはガンでなくなっている。地域におけるガンの多さ、そこへ飛び込んで来た人形峠残土放射能のニュースを受け、榎本さんは方面地区のウラン残土撤去を求める要求を出した。
 2006年にようやく放射能レベルの高い残土の撤去が終わったそうだ。

 鎌仲ひとみ監督の、「ミツバチの羽音と地球の回転」を見た時、あんなことがこの日本で起こっていて、そして僕はそれを何も知らなかったということに衝撃を覚えたのですが、この人形峠のウラン鉱山の話からも、それに似たショックを受けました。
 ちなみに、このウラン鉱山には、人形峠環境技術センターというものができていて、申し込めば坑内の見学もできるようです。

ニッポンの穴紀行 近代史を彩る光と影
西牟田 靖
光文社


ミツバチの羽音と地球の回転 [DVD]
鎌仲ひとみ
紀伊國屋書店

ブックスタンドがとても便利なこと

2013-09-18 22:07:07 | Weblog
ELECOM EDH-004 ブックスタンド
クリエーター情報なし
エレコム


 今回の記事は、商品の宣伝です。
 僕はアマゾンのアフィリエイトにも入っているので、アフィリエイトで小遣い稼ぎが狙いなのか、と言われれば完全には否定しませんが、どうでもいい商品についてブログで紹介文を書いてスズメの涙程度のお金を貰うのは実に効率が悪いですし、精神衛生にも悪いのでアフィリエイトの為の記事を書くつもりはありません。

 今回は本当に便利な商品を買ったので、嬉しくなってこれを書いています。たぶん何名かの方には有益な情報になると思っています。
 買ったのはエレコムの「EDH-004」というブックスタンドです。ずっと前にほしい物リストに入れたまま買うのを忘れていました。それをようやく買ったのですが、圧倒的に便利です。

 アマゾンに書かれている製品特徴をそのまま貼り付けますと、

『厚み62mmまでの書籍を挟み込み可能。
 ブックスタンド本体を丸くデザインし、用紙類などを挟み込んでも用紙が後ろに倒れません。
 大きめの本を支えるために、前面の左右に2本のストップホルダーが付いています。
 書物などを開いた状態で容易にホールドできる上に、ホールドしたまま指先でページ送り可能。
 18段階のプレート傾斜角度調整が可能』

 ”指先でページ送り”は、ちょっと勇み足な表現かもしれませんが、片手で十分楽にページは捲れます。
 片手でページが捲れて角度が自由に調節できるブックスタンドです。

 行儀の良い話ではありませんが、僕は一人でご飯を食べるときは絶対に本かパソコンを見ていて、段々とパソコンを見ている割合が増えてきました。
 理由は実に明快で、パソコンは自立して立っていて、画面がご飯を食べながら見るのに適した角度になっているし、更にネットサーフィンくらいならほとんど片手で操作可能だからです。
 両手がお茶碗とお箸で塞がっていても、それくらいなら、まあなんとかなります。

 対して本の場合は事情がもう少し複雑になります。
 ページを開いて、テーブルの上に置き、ページが勝手に閉じないように何か重りになるものをページの端に置きます。上手い具合に。左手にはお茶碗、右手にはお箸。そのまま、机の上に目を落とすという不自然な角度で、ご飯を口に運びます。ページを読み切ってしまったら、今度は両手のお茶碗とお箸を一旦置いて、両手を使ってページ捲りと重り載せを再度行います。
 これは、かなり面倒くさい。

 だから、いつの間にか、僕は読みたい本を我慢して、どうでもいいウェブサイトを食事中に眺めていたりするようになっていました。
 このブックスタンドがあれば、もうそのようなことからは開放されます。

 悩みが、行儀の悪い、些細なことで、あまり多くの方には賛同して頂けないかもしれませんが、多くの読書人が「カップアイス食べながら本を読みたいのに、カップアイス食べるには左手でアイスを支えて右手でスプーンだから本が読みにくすぎる」的な悩みを抱えているのではないかと思います。
 少なくとも、僕はそうでした。このブックスタンドは、そういった悩みを随分と軽減してくれます。

 実は、ブックスタンドを買ったのは初めてのことではありません。北欧製のオシャレなブックスタンドを数年前に持っていたのですが、それは本当に只のスタンドで、本を立てかけて置くことしかできないものでした。すぐに使わなくなったと思います。

 今回のエレコムのブックスタンドは、チャチなプラスチック製品でオシャレの欠片もありません。見た目は完全に割り切って作った製品で、滑り止めのゴムなんて、ほとんど普通の輪ゴムが巻いてあるような感じです。さらにアマゾンのコメント欄によれば、このストッパーゴムはすぐに切れるらしく、みなさん普通の輪ゴムで代用されている様子です。
 けど、そんなことはどうでもいい、と思うくらいこの製品は便利です。

 考えてみれば、本とノートを机に広げるというスタイルはかなり異常です。
 パソコンの画面が机の上に、水平に寝ていたら使い物になりませんよね。どうして本は机の上に寝かせたままなのでしょうか。

 今回、面白味も何も考慮せず、ただ、絶対にブックスタンドの示唆はブログを読んでくれた人の何人かには役に立つ、と思って商品紹介を行いました。
 アマゾンのコメント欄には271ものコメントが付いていて、そのうち145個が星5つ、93個が星4つです。皆さん色々と細かなことも書かれているので、よろしければそちらも参考にされてください。この製品は文庫、新書サイズに対応していないのですが、後ろに大きめの本を置いてから文庫本を置けば問題ないなどの情報もあります。

ELECOM EDH-004 ブックスタンド
クリエーター情報なし
エレコム

東京五輪がもたらす希望とは何か

2013-09-10 20:50:32 | Weblog
 2020年のオリンピックが東京での開催になりました。オリンピックには全く興味がないのですが、今回はショックを受けています。
 IOCが東京での開催を発表する前日、Twitterにはオリンピック関連の発言が結構たくさん並んでいて、その中に「外資系証券会社で働いている友達が社内ではみんな東京って言ってるってさっき言ってた」というようなツイートがありました。
 証券会社で働いているとそういうことが本当に分かるのかどうか、僕は良く知りませんが、オリンピックに関する多くの発言が金の話に終始しているのを見ていると暗澹たる気分になります。現代ではスポーツは巨大産業なのだと思い知ります。

 少しだけスポーツの悪口を書きます。スポーツのというか、スポーツの扱いに対する悪口を。僕は子供の頃、「スポーツ選手っていいよね、君も大きくなったらスポーツ選手になりたい?」みたいなことを聞かれると、「スポーツなんて何の役にも立たないから興味ない、将来は科学者になる」と答えていました。

 そのように書くと、スポーツを全面的に否定しているようですが、当時から僕はサッカーが好きだったし、完全に否定するというわけではありません。
 ただ、それは単なる娯楽に過ぎないと思っていました。

 スポーツは「誰かが決めたルール内で行われる、ただの娯楽」です。確かに、そこから感動も生まれるし、希望も生まれる。中田英寿が引退した後に「サッカーで世界を変える」と言っていましたが、本気だったのだと思います。サッカーには強い力があると僕も思います。

 しかし、その力は人々の心に働くものです。
 ある力が、直接人々の「心にだけ」働きかける時、僕達は注意深くなる必要があります。そこには何かを隠蔽して見えなくする巧妙な嘘がしばしば潜んでいるからです。

 僕はそうは思っていませんが、百歩譲って2020年の東京五輪が東北地方の人々に「希望」を与えたとします。
 この「希望」は本物の希望でしょうか?

 もうすこし具体的に書きましょう。
 311のあと仮設住宅に住んでいるある少年が東京五輪に希望を見て、憧れの選手目指して柔道の練習に明け暮れるとします。
 ええ、彼には希望という名前の強いモチベーションが生まれているわけですが、かといってそれで仮設住まいが終わるわけではありません。仮設住宅で希望を持って練習に打ち込む姿、が美談として放映されたりする可能性はありますが、そんなものまやかしの希望です。この状況ではもともと「希望」という単語は「仮設を出る」意味で使われるものでした。それが「そのままでも頑張る」に摩り替わっているわけです。

 つまり、東京五輪が「希望」になるという言は、一体何を意味しているのかというと「状況は変わらないとしても、希望というものに後押しされて、より辛抱強くその生活に耐えることが可能になる」ということではないでしょうか。「フワッと夢見心地にさせて、一層我慢させる」ということではないでしょうか。
 
 同時に福島、東北の状況もきちんと改善される、という風には、僕にはとても思えません。
 今回、オリンピックが東京に決まり、「これで対外的なこともあるから、政府も本腰を入れて原発対応などに乗り出すに違いない。喜ばしいことだ」との発言も多々見られますが、本当にそうでしょうか。
 そんなのの、一体どこが良いのでしょうか。
 外面を気にしてようやく動くというのは、既に絶望的なことだと思います。そして見栄えだけを気にした方法は、本質的な過ちとなりやすい。

 プレゼンで安倍総理が「福島原発は問題ない」と断言した、というような記事を読んだので、実際にどういうことを言ったのか、プレゼンの様子をyoutubeで見てみました。
 安倍総理は「ニュースの見出しより現実を見てくれ」「原発はコントロール下にある」と確かに言っていました。前回の記事で「広告化社会では言葉はキレイ事になり、発言者も聞く方もウソだと分かっている」ということを書きましたが、一体いつからどんなウソを言っても大丈夫な社会になってしまったのでしょうか。

 広告化社会と演出化する消費者

2013-09-01 09:48:28 | Weblog
 先日、ファブラボ関連のイベントが横浜であったので、関東まで行ってきました。東京で電車に乗って街を眺めているとき、街中と車内の至る所に貼られている広告にイライラして「広告化社会」という言葉を思い付いたのですが、検索してみると既に1982年にその言葉をタイトルにした本が書かれているようです。
 その本に何が書かれているのか、僕の思う広告化社会と同じなのかどうか、は分かりませんが、広告化というのは既に使い古された概念なのかもしれません。

 僕の思う「広告化」というのは、人々が広告に長年晒されることによって物事を広告の文脈でしか捉えられなくなってしまうということです。僕達は恐ろしい程の数の広告を毎日毎日見ています。
 そしてその大半は軽薄な嘘と誇張で、言葉には何の真実味もありません。僕達はもはや「高級」と書かれていても高級ではないことを知っているし、「お得」と書かれていてもお得ではないことを知っているし、「流行」と書かれていても流行っているわけではないことを知っています。
 言葉には常に誰かの汚い欲望にドライブされたウラがあると、僕達はそのように考える悲しい習性を身につけてしまいました。「どうせ上手いこと言ってるだけだろ」

 考えるだけではなく、自分が話すときにそういう話法を踏襲するようにもなっています。ペラペラの合板と石膏ボードと壁紙と安い塗料で日本中の街がペラペラになってしまったように、僕達の言葉もペラペラ語られる広告コピーと嘘の政治演説とほぼ宣伝にすぎないメディアによってペラペラになってしまいました。
 言葉は死にかけています。
 これは全然大袈裟ではありません。
 ある集団の会話を聞いていて、この人達には知性がないと思うことがありますが、どうしてそのような印象を受けるのかというときっと彼らが自分達の会話をしているように見えて、実は広告のやりとりしかしていないからです。テレビや雑誌で見せられた広告を、あたかも何かの興味深い事象であるかのように語り合っているわけですが、実は広告の道具として使われているにすぎません。
 ちょうど、店で何か買うと、その店の宣伝の付いた紙袋を持たされることに、もう僕達が何の疑問も抱かなくなってしまったように、人々は自分が広告の一部として利用されていることに気付かないし、それどころか喜びを感じながら「広告の話をしたり」「広告の紙袋を持ち歩いたり」しています。
 喜んでいるならそれでいいじゃないか、という考え方も、ええ、あるんでしょうね。僕は与しませんが。

 与しない理由の1つは、その「喜び」の半分は欺瞞で、それについて人々は実は自覚的だからです。
 この記事のタイトル後半は「演出化する消費者」です。これは、消費者は本当は喜びを感じていないのに、あたかも自分が喜びを感じていたかのように演出する、ひいては自分に対してまで喜んでいたかのように演出する、つまり騙す、という意味です。
 加えて、この「演出(騙す)」までもが、すでに消費社会における供給側(資本側)の手の内にあります。

 演出化した消費者の具体的な行動は「カメラで動画や写真を撮って、編集加工して、気のきいたコメントを付けてネットに公開」という、つまり広告制作と全く同じ手順なのですが、「デジカメ」も「編集加工ソフト」も「ネット」も資本側が供給しているものです。
 つまり、現代の消費者は、”旅行に行く””新しい服買った”などの消費行動を、演出する(広告する)為に、演出ツールであるデジカメや編集ソフトを消費しています。無料の編集アプリであれば、広告を見せられながらそれを使い、広告を見せられながらFacebookにアップします。
 消費社会が怖いくらい順調に成熟した結果、社会は広告化して、広告化した人々が自発的に広告活動を行うようになり、その広告活動の為に更に消費をする、という状況になっています(”二重の消費”と呼ぶことにします)。

 二重の消費には、消費という言葉では済まされない問題が含まれています。広告が僕達の言葉をペラペラに骨抜きしてしまったように、二重の消費は僕達の行動を、生活そのものをペラペラに骨抜きしつつあります。
 旅先で見たどうってことない風景に、サクッとインスタグラムのフィルターでも掛けて「味のある写真」にして、あたかも素敵な所へ出掛けたように演出。
 つまんないパーティーなのに、Facebookにアップする写真を撮るからって急に満面の笑みとオモシロポーズで集合。

 僕は演出そのものを否定したいわけではありません。演出は滅茶苦茶素敵なスパイスだと思います。友達が編集してくれた旅の記録とかパーティーの記録とか、そういうものは僕も大好きだし、いつもとても有り難いと心の底から思います。けれど、やっぱりそれらはメインではないし、メインは旅でありパーティーであり、出来事そのものです。
 演出の背後には「楽しくハッピーでありたい」という僕達の根本的な欲求があるはずですが、それが「(事実はどうであろうと)楽しくハッピーだと見られたい」「(事実はどうであろうと)楽しかったと思いたい」という欲求にシフトしているように見えて仕方ないです。事実の方の、リアルな出来事に手を入れるのは大変だから演出で誤魔化すように。リアルな世界には、少なくとも若い世代の人間はほとんど全員が閉塞感を感じているのではないでしょうか。その閉塞感の半分はペラペラ化した社会に対してかもしれません。
 先日、横浜で友人と話していて、「そうなってはじめてインターネットがインターネットになるのかもしれない」と僕は言ったのですが、実はまだIT革命は始まったばかりです。IT革命は全然死語ではありません。はじまったばかりというか、ITは普及しましたが「革命」自体はまだ起こっていないと言えます。今のところ、ITは従来の消費社会をさらに拡張する道具として使われる流れが強いからです。ネットには広告が溢れかえり、広告化した個人が演出やアフィリエイトを垂れ流しています。つまりインターネットは広告化社会に取り込まれたままで、ペラペラです。

 僕達は確実に、歴史上、ある特異点にいます。たぶん消費社会の産んだペラペラさの極限にいます。これに対して、閉塞感や苛立ちを感じるのはきっと正常なことだし、それを演出という消費社会的手法で乗り越えることはできません。正面見据えて、面倒なことに取り組んで行くしかなくて、その為の小さな運動とそれらの連動が、世界の至る所で起こっているように思います。