これはかなり迷いながら書いて、しっくり来ないので公開も躊躇っていたのですが、あまりタイムリーさがなくなりすぎるのも考えものなのでアップします。
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和歌山県太地町のイルカ漁を告発した米映画「ザ・コーヴ(The Cove)」がアカデミー賞を取って、最近下火になっていたシー・シェパードのこととか捕鯨問題がまたクローズアップされている。
この映画に関しては以前トレイラーを紹介していて(殺されるイルカたち)。
それについて思うことも少し書いたことがある(殺して食べること)。
それでツイッターにも色々なポータルサイトにもリンクがあるので、いくつか捕鯨問題やこのドキュメンタリーについての記事も読みました。
相変わらずそこでは「間違っている」とか「異文化を理解するべきだ」とか、物事の正しさを基準に据えようとした議論ばかりが行われています。
もう一度書くけれど、クジラを殺すこと、イルカを殺すことに正しいも間違っているもあったものではない。正論なんてものは世界のどこを探しても見つからない。殺したい人は殺し、それが嫌な人は文句を言う、ただそれだけのことだ。どちらも正しさとは関係がない。
だから「牛や豚はいいのに鯨は駄目だなんて筋が通らない」というような意見は全くの的外れです。異文化を理解すべきだという人は、自分が他の文化には何の関心もないという異文化を理解していないことと、文化というもの自体に力はないということを理解していないと思う。これも何度も書いているけれど、何かを「文化だから守る」「文化だから許す」というのは戯言です。
ある人が「ザ・コーヴ」を”イルカ好きの為の妄想映画”と呼んでいた。僕はこの作品を見たことがないけれど、実際にこれを見た僕の友人も取材方法にかなりの無理があるし、偏見が多い、というようなことを言っていた。映画がなるべく中立であることを心がけたドキュメンタリーではなく、イルカ好き、イルカを利用したい人の作ったプロパガンダであることは間違いないのだろう。
だが、それはこの映画の欠点ではない。そこを批判しても意味がない。
そもそもメディアの本質は意見だ。メディア自体を人間が作り出した以上、それは全て意思の塊だ。真にピュアーに中立なメディアは存在しない。何かにカメラを向けるというのは物事の一部を切り出す行為だし、それを誰かの目につくところに置くというのは切り取ったそれをフューチャーするという行為だ。自然をぼーっと写しただけの映画でも何でも同じことだ。これを見よという誰かの意見だ。
それから、社会的な活動の全ても意見だ。正しいとか間違っているとかではなく「私はこうしたい」という意見表明の総体が社会を構成している。意見が力を伴ったとき、それは実際に社会を動かす。正しさが世界を動かしているわけではない。たとえば基本的人権は「正しい」ものではない。それは多くの人々の意見が勝ち取った一つの「力(権力)」だ。人を助けるとき、僕たちはそれが「正しい」から助けるわけではない。助けたいから助ける。
イルカ好きの作った妄想映画なら別にそれで構わない。話題作になって、実際にイルカ漁反対の声を挙げる人が増えれば彼らの目論見は成功だし、それに対して”正論”を掲げて反対しようというのは実に滑稽だと思う。シー・シェパードにしても同じだけど、彼らはもはや「正しさ」という土俵では戦っていない。「イルカを殺さないでほしい」とか「クジラを殺さないでほしい」という欲望の話をしているだけだ。この時イルカを捕りたい人に言えるのは「こっちはイルカ捕りたい」ということだけで、そのプロパガンダとして「イルカを捕るとこんなにハッピーなことがあります」「イルカを捕らないと我々はこんなに困ったことになります」というメッセージを発信するしかない。正当化なんかには意味がない。意味がないとは言い過ぎで、それは人々を説得する糸口にはなると思う。でも本質は正しさにではなく「こうしたい」という所にあり、最終的にはそこへしか訴えることはできない。誰かを説得できるというのと正しいということは違うことだ。
僕としてはイルカや鯨を殺さないでほしいなと思う。単純に。
でも、それが僕自身の最終的な結論かと問われればNOというしかない。
正直なところ良く分からない。
最後に、僕は「美味しんぼ」のこの主張に賛同する者ではありませんが、一つの材料として。
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和歌山県太地町のイルカ漁を告発した米映画「ザ・コーヴ(The Cove)」がアカデミー賞を取って、最近下火になっていたシー・シェパードのこととか捕鯨問題がまたクローズアップされている。
この映画に関しては以前トレイラーを紹介していて(殺されるイルカたち)。
それについて思うことも少し書いたことがある(殺して食べること)。
それでツイッターにも色々なポータルサイトにもリンクがあるので、いくつか捕鯨問題やこのドキュメンタリーについての記事も読みました。
相変わらずそこでは「間違っている」とか「異文化を理解するべきだ」とか、物事の正しさを基準に据えようとした議論ばかりが行われています。
もう一度書くけれど、クジラを殺すこと、イルカを殺すことに正しいも間違っているもあったものではない。正論なんてものは世界のどこを探しても見つからない。殺したい人は殺し、それが嫌な人は文句を言う、ただそれだけのことだ。どちらも正しさとは関係がない。
だから「牛や豚はいいのに鯨は駄目だなんて筋が通らない」というような意見は全くの的外れです。異文化を理解すべきだという人は、自分が他の文化には何の関心もないという異文化を理解していないことと、文化というもの自体に力はないということを理解していないと思う。これも何度も書いているけれど、何かを「文化だから守る」「文化だから許す」というのは戯言です。
ある人が「ザ・コーヴ」を”イルカ好きの為の妄想映画”と呼んでいた。僕はこの作品を見たことがないけれど、実際にこれを見た僕の友人も取材方法にかなりの無理があるし、偏見が多い、というようなことを言っていた。映画がなるべく中立であることを心がけたドキュメンタリーではなく、イルカ好き、イルカを利用したい人の作ったプロパガンダであることは間違いないのだろう。
だが、それはこの映画の欠点ではない。そこを批判しても意味がない。
そもそもメディアの本質は意見だ。メディア自体を人間が作り出した以上、それは全て意思の塊だ。真にピュアーに中立なメディアは存在しない。何かにカメラを向けるというのは物事の一部を切り出す行為だし、それを誰かの目につくところに置くというのは切り取ったそれをフューチャーするという行為だ。自然をぼーっと写しただけの映画でも何でも同じことだ。これを見よという誰かの意見だ。
それから、社会的な活動の全ても意見だ。正しいとか間違っているとかではなく「私はこうしたい」という意見表明の総体が社会を構成している。意見が力を伴ったとき、それは実際に社会を動かす。正しさが世界を動かしているわけではない。たとえば基本的人権は「正しい」ものではない。それは多くの人々の意見が勝ち取った一つの「力(権力)」だ。人を助けるとき、僕たちはそれが「正しい」から助けるわけではない。助けたいから助ける。
イルカ好きの作った妄想映画なら別にそれで構わない。話題作になって、実際にイルカ漁反対の声を挙げる人が増えれば彼らの目論見は成功だし、それに対して”正論”を掲げて反対しようというのは実に滑稽だと思う。シー・シェパードにしても同じだけど、彼らはもはや「正しさ」という土俵では戦っていない。「イルカを殺さないでほしい」とか「クジラを殺さないでほしい」という欲望の話をしているだけだ。この時イルカを捕りたい人に言えるのは「こっちはイルカ捕りたい」ということだけで、そのプロパガンダとして「イルカを捕るとこんなにハッピーなことがあります」「イルカを捕らないと我々はこんなに困ったことになります」というメッセージを発信するしかない。正当化なんかには意味がない。意味がないとは言い過ぎで、それは人々を説得する糸口にはなると思う。でも本質は正しさにではなく「こうしたい」という所にあり、最終的にはそこへしか訴えることはできない。誰かを説得できるというのと正しいということは違うことだ。
僕としてはイルカや鯨を殺さないでほしいなと思う。単純に。
でも、それが僕自身の最終的な結論かと問われればNOというしかない。
正直なところ良く分からない。
最後に、僕は「美味しんぼ」のこの主張に賛同する者ではありませんが、一つの材料として。
![]() | 美味しんぼ (1) (ビッグコミックス) |
雁屋 哲 | |
小学館 |
![]() | 悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス) |
レヴィ=ストロース | |
中央公論新社 |
それはそれとして、私はこの映画の扱いに「カートゥンのようだ」という印象を持ちました。(映画自体は観ていません)テレビが刺激的に映るうちは、子供は家事の邪魔をしません。
シー・シェパードの船長がこのたび日本に連行されたことで、捕鯨支持への声がこれまでになく高まっている。反捕鯨論の信用は史上最低レベルに低下した。
これもすべてシー・シェパードの暴力行為のおかげだ。暴力的な直接行動のおかげで、「反捕鯨論者は恐ろしい人間」というイメージが日本国中に浸透した。思えば、非暴力を謳うグリーンピースの場合、海獣捕獲論争以外での基本的立場はほとんど同じだったから、多少批判しにくいところがあった。
しかし、今回は極右的な直接行動主義のグループが相手だ。こちらの方が批判をずっと行いやすい。なぜなら、現代の日本人は暴力的直接行動を好まないのに、シー・シェパードはそれを理解せず、過激な行動を繰り返して、どんどん自滅してくれるからだ。
そう、今回の件は反捕鯨論の敗北である以上に、直接行動主義の敗北でもあるのだ。極右の皆さんも、「他人のふり見て我がふり直せ」ということわざをしっかり心に刻んでいただきたい。
「善悪正邪は可否を問うときの指標として、客観的な役割を期待されているのではないでしょうか」というのは全くその通りなのだと思います。ただ、この客観の場所というのが、実はどこでもない存在しない場所で、善悪正邪が全部言い訳になっているように見えます。本音同士ではなく、双方が言い訳だけで対話を進めるほど不毛なものはないなと思うのです。
この映画は確かにとても軽いノリを感じますね。ジャッカスみたいなバラエティーに近いものがあるように感じました。トレイラーしか見て無いですが。
梅咲アラカさん
僕はここではイデオロギー対立自身ではなく、その対話手段が全部エクスキューズになっているのではないか、というコミュニケーションの問題を書いたつもりです。今のところどちらの肩も持てません。
長らくブログから離れていました。
たしかにインターネットでの意思疎通はまだそんなに長い歴史を持つものではありませんね。これから変わっていくのだろうなと思います。
今のところ、本質とは別のところで単に自分の何かを誇示したいとか悪口を言いたいとか、そういう動機だけで成り立っているやりとりも見かけて、それが一種の娯楽にはなっていると思いますけれど、議論ではないのでそんなにあまりに真剣な振りをされると、なんだかなあ、と言う気分になります。
はちさんが言われるように、みんなが尊重しあうようになるとネットはすごい力を発揮しそうですね。