ゼータ。

2009-01-30 14:36:45 | Weblog
 少しずつ引越しの準備をしています。古くなった敷布団を捨てたり、もう着なくなった服を思い切って捨てたり。それから、結局普段もBMXにばかり乗るようになったので、古い自転車を人に上げることにしました。
 とはいっても長い間乗らずに置いてあったので、さすがにそのまま人に渡すことはできなくて、久しぶりに自転車の様子を見て手を入れました。この自転車は所謂軽快車で、小径のシティサイクルです、量販されている安い物なのでブレーキはバンドブレーキでキーっとうるさい音を立てるようになっていました。バンドブレーキが音を立てるのは構造上の宿命なので、こうなっては音を我慢するかブレーキを取り替えるしかありません。もちろんブレーキをサーボブレーキに取り替えました。サーボブレーキはバンドブレーキに互換性があるので、音に困っている人は取り替えるのが良いと思います。自転車屋さんで取り替えてもらっても3500円くらいだし、自分で交換するなら2000円も掛りません。ただしタイヤにくっついているドラムはブレーキの度にネジが締めこまれる形になっているのでものすごく固く締まっていて簡単には外せません。インパクトを加えるとかドラムを加熱するとか色々な方法があるようですが、僕は素直にドラムを外すのだけ自転車屋さんの専用工具でやってもらいました。
 それからフロントブレーキとリアのブレーキワイヤーとリアタイヤのチューブを取り替えて、パーツクリーナーを噴いて油を注して、浮いていたサビに還元剤を塗って、ようやくそれなりになった。

 そして約束の日時に自転車を上げたわけですが、なんとも間の悪いことに僕の普段乗っているBMXの後輪がこの日バーストしました。タイヤが破けてチューブがぶにゅっと出てきて、それでやめておいたほうがいいなと思いながらも少し走ると案の定チューブもパンクしてしまった。
 というわけで僕はしばらく自転車のない生活をすることになりました。タイヤはカラーとパターンをある程度ちゃんと選びたかったのでBMXのお店で注文したけれど、今展示会の最中だとかで入荷まで1週間は掛るそうです。

 自転車がないのは不便ではあるけれど、まあなければないでどうってこともありません。必要なら電車やバスに乗ればいいし、少しなら歩けばいい。大人になって、何か悪いように見えることが起こっても本当はそれはそう悪いことでもないし多少不便な状況になっても必ずそれをうまくやりくりできるという確信を持つようになった。これは年を取ることの一つの効用かもしれない。何があってもめんどくさがらなければ絶対に対処できる。

 僕は市バスで大学へ行き、歩いて図書館へ行った。その不思議な感覚は図書館で本を借りて帰り道、二条通りを歩いているときに起こった。僕は突然今自分が何をしているのかが分からなくなったのです。それは「自分が誰で今がいつで、ここからここへ歩いて行こうとしている」ということが分からなくなり錯乱状態に陥ったという心理学的なことではありません。僕は自分が歩いていると思っている地面も自分が動かしていると思っているこの体も自分が移動していると思っている空間のことも何も知らないということを実感として急に感じたのです。知識としてはそれらのことを嫌になるほど考えてきた。僕はこの世界が何で出来ているのか自分の五感というフィルター、あるいはそれに制限された思考を通じてしか理解することができない。それはとてももどかしいことだ。でもそのもどかしさはそれらについて考えるときにだけ現れるものだった。モードが「それらのことを考える」に切り替わったときにだけ立ち上がるもどかしさだった。ところがこのとき生生しく立ち上がった感覚は思考といバッファをなしに直接僕を捉えた。「一体ここでは何が起こっているのだろう?」という強烈な問いが感覚として発生した。僕は本当に空間を移動しているのだろうか? 自分が実は止まっていて世界が動いているのだという可能性を相対性としての単なる座標の読み替えではない意味合いで感じる。

 本当は何が起こっているのだろうか? 僕たちはこの世界の末端にあるプログラムのことをいくらか知っている。あそこにはどうやらこういうif文が書かれているらしい。ここにはdoループがかましてあってインクリメントを10回するようだ。極々限定された部分に関してだけの限定的な知識を持っている。でも、全体のアルゴリズムのことを何も知らない。プラットフォームが何でソースプログラムが何行あるのかということも、それすら知らない。

 ずっと世界のこちら側から世界を眺めてきた。こちら側というのは僕の知覚が作り上げた虚構であり本物である世界のことだ。そろそろ向こうの世界を覗けないかなと思う。きっと向こうもこちらもあったものではないのだろうけれど。それからこことかあそことか、これとかあれとか、全部ないわけだけど。空間も時間も物質も電磁波も、全部僕達が考えたものでしかない。あの人と僕との間に本当は境界線なんて引けないのだろう。
 若干宗教臭い話になってきたけれど、部分的にしかしらない仏教の経典が何を言っていたのか段々分かるようになってきた気がする。仏教なんて古いと思っていたし、やっぱり物理学が発展してきた現代の方がこの世界のことを「良く、より正確に」考えることができると思っていたけれど、でもそうではないことも分かってきた。結局「この世界って本当は一体何でどういううふうにできているんだろう?」という問いに時代背景や科学は関係がない。鋭い洞察力と思考が要であって、科学はそれほど重要な働きをしない。科学の知識というのはこちら側をぐるぐるするだけのことだ。

 当たり前すぎてこの世界が超絶に異常だということになかなか思い当たらない。僕達はこの世界のことを詳しく調べればこの世界のことが分かるかもしれないと考えているけれど、僕達がこの世界を調べるということがどういうことなのかあまり正しく認識していない。僕達はこの世界を調べることはできるけれど、それはけして世界そのものを調べるということではない。映画マトリックスを例えに引けば、僕達はマトリックスの中でどのように物事が起こるのかということを調べることができるし、実際にその知見はマトリックスの内部で有効かもしれない。でもマトリックスの中をいくら詳しく調べても、その外側にある人間バッテリーの世界は知ることができない。そしてこれは否定しようのない事実だけれど、僕達はマトリックスに類するものの中にいる。それは僕達の知覚のことだし、時代のパラダイムのことでもあるかもしれない。誰も僕達の意識のこと、この宇宙のことを知らないのに、僕たちは「何か」を仮定して安心して生活している。意識が脳で作られていることは論理的には不可能に見えるけれど、それが現代の標準的な意識の解釈で、だから脳が壊れれば意識はなくなる、死ねば意識はなくなると多くの人が考えている。でも実際にはその考えには何の根拠もない。体は細胞でできていて細胞は原子から出来ていて、原子は電子陽子中性子でできていて、それらはさらに結局クオークなんかの素粒子でできていて、という考えには実はなんの根拠もない。それは僕達人間流の解釈でしかない。

 

microbe and our gut.

2009-01-27 12:16:59 | Weblog
 以前、納豆を食べるときにカラシとタレを入れて掻き混ぜると納豆菌の大虐殺が起きていることになるのではないか、ということを書きましたが、どうやら納豆菌というのはそんなに弱いものでもないようです。
 お正月に地元で友達に会って話をしていると、農業が専門の友達が「納豆菌は熱で殺菌する器械に入れてもなかなか死なない、だから実験室には納豆を食べた後に入ってはいけないことになっている」ということを言っていたのです。熱とカラシは話が違うけれど、でも酸にもアルカリにも熱にも強いならカラシくらいで簡単に死ぬとは思えません。

 実際に納豆菌は僕達の腸内で活動を続けるということです。そんなにタフな菌を腸内に取り込んで大丈夫なのだろうかと心配にもなりそうなものですが、今のところ納豆菌はどうやら体に良い働きをしているということしか知られていなくて、特に害はないようです。

 子供の頃、何かの本で「私達の大便の1/3から半分くらいは腸内細菌やその死骸です」という記述が出てきて、それはすごいと僕は人にしばらくの間言いふらして歩いていました。でもあるとき、さすがにそれは多すぎるのではないかと思い、以後ことの真相を知らないまま放ってあったのですが、さっきネットで調べてみると本当の話みたいです。
 僕達の腸内には100兆個くらいの細菌がいて、その総重量はなんと1.5キロにもなります。僕は体重50キロで、そのうちの1.5キロが腸内細菌だなんて。全身の細胞はせいぜい60兆個だと言われているのに、細菌が100兆個もいるなんて。僕達の身体を60兆の細胞と100兆の細菌が入り乱れて複雑に作用する系と見なすと、健康というものに対する考え方も随分変えざるを得ない。

地球儀でお風呂の明かり。

2009-01-24 20:15:05 | Weblog
 高校生のとき、ある友人が「俺は天邪鬼だから、相手が何かを言うとそれが正しいのかどうか考える前にとりあえず、それは違う、と言ってしまう。それから何が違うのか必至に考える」と言い、僕も似たようなものだったので「僕もそうだ」と返事した。それまで自分がそういう性質を持っているとは知らなかったけれど、言われてみれば確かにそうで、このとき僕は自分の性格を表現する言葉を新しく一つ手に入れた。

 とりあえず、それは違う、と言うことは本当に多かった。さすがに大人になるにつれてそのようなケースは減った。でも子供のときはそれは違うと思うの連発だった。たとえば数学の授業で平行な直線はどこまでも行っても交わることが無いというのを先生が教えたなら、即座に非ユークリッド空間ではそうとも限らない、と言うふうに。大抵のことは黒くても白だと言い張れるだけのロジックがどこかにあるのだということを僕は確信していた。普通に考えて相手が正しそうなのに、それに反射的に「違う」と断言して、その後必至に何がどう違うのか考えるときのドライブ感が好きだった。屁理屈ばかり並べて、今から思えば性質の悪いいたずらでした。

 あるとき「日本は海に囲まれた島国です」という文章が何かに出て来て、それにも僕は違いますと言った。そして「海が日本に囲まれているのです」と主張した。今となってみれば、海が日本に囲まれているというのも、日本が海に囲まれていると言うのも両方正しい。だから本当は海が日本に囲まれているのだという意見は何の反論にもなっていなかった。ただこの屁理屈は奇妙に脳裏を離れず数年に一度何かの拍子に思い出す。
 世界地図を広げて僕達は簡単に日本が海に囲まれていることを見て取る。でも本当は地球は丸いし地図というのは嘘も付く。今度は地球儀を見れば、その時点で海が日本を囲んでいるのか日本が海を囲んでいるのかは明白でなくなる。分かり難い場合は日本をどんどん大きくしていけばいい。もっとシンプルに地球には日本しかなくて、その日本が丁度地球の北半球全部を占める場合を考えてみれば、もうどちらがどちらを囲んでいるなんてことは言えない筈だ。

 地図は地表の影に過ぎない。高次元から低次元への射影は情報を落とす。もしも僕達の宇宙が11次元だとかなんとか、ひも理論や膜理論でいうように見えない次元のことを考えないと分からないなら、物性理論も本当は高次元を見込んだ考えをしないと完成しないんじゃないだろうか。

場所。

2009-01-23 11:58:49 | Weblog
 気分屋で付いて行けない、と言われることが少なくない。考えてみれば子供の頃からそうだったし、たしかに僕には昨日の夜おいしいと言いながら食べていたものを次の朝にはまずいというようなところがある。昨日言っていたことと今日言っていることが違うし、このブログに書いたことについて誰かが「あれは私もそう思う」と同意してくれても、もうその頃には「僕はあれはそうは思わなくなったよ」と答えることも少なくない。

 だから、僕が冗談を言っているのかとか、からかっているのだろうと思われることも多いけれど、けしてそういうわけではありません。僕は到ってまじめにそう思って受け答えしている。意見や好みが変わるのは、たとえば「好きな食べ物はなんですか?」という質問を受けたときの答えみたいなものだ。今この瞬間なら「イチゴ味のパピコ」って答えるけれど、本当にお腹が空いている時に同じ質問をされたら答えは天丼とかペペロンチーノなんかに変わっているに違いない。変な言い方だけれど、さっきまでの自分と今の自分と未来の自分はほとんど別人みたいなもので、僕が僕という場所を僕だと認識しているその事実以外にずっと同じものは何もない。まるで意見がコロコロ変わることへの弁解を書いているようだけど、弁解じゃなくて本当はそういうものではないかと思います。コルビジュエだって言ってることと建築が全然違うけれど、でも彼の建築も言っていることも両方がとても興味深い。それは単に二つの思考がコルビジュエという場所で起こったということに過ぎない。僕達は本来が一人でいくつもの思想と好みを持っている。それを認めないのは単に個人間の差異化を明確にしたいという社会的な欲求と利便の追及に過ぎない。あの人はこういう人でこういうものが好きでこういう考え方をするしこういうことを言っていたからこういう風にしておけばいいだろう、みたいな手続きの為のものだと思う。本当は僕達は無限の大きさを持った空っぽの場所に過ぎない、そこには何をいくつ出し入れしても自由だし、可能性というのは無限に開かれている。だから嫌いだと言っていたピアノを今から好きになってもいいし、苦手だって思っていた中国語を今から得意になってもいい。本当はそういうことだと思う。
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 場の量子論で座標系によってハミルトニアンの形が違うのは、本質的にどういう意味を持っているのだろう。同じ現象を記述するにも直交座標で量子化したハミルトニアンと極座標で量子化したハミルトニアンでは形が違うし、どちらが正しいハミルトニアンなのかということを知る手立ては実験結果に理論値が合うかどうかということを見るしかない。たしかにどの座標系で現象を考えるかというのは大事なことかもしれないけれど、普通に考えて実験系の3次元空間を直交座標でとろうが極座標でとろうが自由な感じがするし、量子化の手順に何か深い問題があるような気がする。実際に場の量子論は非相対論的な場面ではまだいいにしても相対論的な場面では随分議論があって、まだまだ発展の余地が残されているみたいだ。

stiff.

2009-01-21 16:23:36 | Weblog
 1+1=2

 というのは正しいことになっています。僕はここに1+1=2の根拠だとか証明だとか、そういう良くある話を書くつもりではありません。単に記号の意味が気になるだけです。あるいは「等しい」という言葉の意味について。

 1と1と足し合わせると2になります。でも、「1と1を足す」という演算と「2」という数字は違うものです。もちろん僕だってバカではないので基本的には意味を理解しています。「1と1を足し合わせた結果は2になるし、2は1と1を足し合わせた結果だ」みたいな意味であることは分かります。

 ただ、本来1+1というのは1+1以外の何者でもない。2というのは2以外の何者でもない。僕達はそれでは気が済まなくて、「演算結果だけを見てみて、それが同じだったら同じ」ということに決めて、その観点で「同じ」という言葉を数学上で使うことにした。

 同じという言葉は必ず「これこれの視点、基準において」という形容を持つものに違いない。だから本当は同じという言葉は何かの切り取り方のことでしかないのかもしれない。

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 大学のコープへお菓子を買いに行くと、栄養ドリンクの前でどこかの研究室の先輩と後輩がしゃべっていて、その内容は先輩が実験で忙しいときに顔が土気色になるくらいひどい生活をしていて、そのときはこれこれの栄養ドリンクを飲んで乗り切った、というものだった。先輩は顔が土気色になったということを自慢気に話していた。

 友達が販売の仕事をしていて、ちゃんと出社時間は守っているのに、もっと早く来た方がいい、ということを店長に言われるらしい。そのお店では店員がみんな早めにやって来て、店の商品を褒め称え狂喜し、売り上げを達成できないときには自ら商品を購入してまで目標に到達しようとするらしい。クールな僕の友人はまるでやる気も愛社精神もない悪者みたいで、そういう狂った職場で働くことは随分な苦痛だろうなと思う。実務よりもやる気や頑張ってる感や奉仕の精神が優先されるような職場は異常だと思うけれど、そういう会社は結構多いらしい。

 昔、あるバスツアーに参加したとき、バス乗り場には屋根があって十分な人数がそこに入れるのに添乗員は傘を差して屋根の外に居た。屋根の下が満員で窮屈だというなら客を優先するのは分かるけれど、でもゆとりがあるのに外にいるというのは意味が分からなくて、僕はこれは、自分を犠牲にしています、私は頑張っています、のサインだろうなと思った。その添乗員の判断か会社の方針かは知らないけれど、そうとしか捕らえることができなかった。

 こんなことを書くと怒る人がいるかもしれないけれど、上の3つの話には共通していることがあって、それは「自己犠牲が好き」ということです。何かのプラスを生み出すことよりも、自分がこれだけマイナスを被っているということを誇りにする種類の人間が僕の理解の範疇を超えて沢山存在する。短い睡眠時間と休日出勤と肩こりの酷さを自慢するような人々のことです。そんなことをお前はのうのう言うけれど、こっちだって好きでやってるわけじゃない、という人がたくさんいるのも知っている。でも、それなら自慢気に自分の疲労具合を語るのは止めた方がいいのではないかと思うのです。自分がどれだけ嫌な目にあっているかということが自慢話になる社会というのは、これからどんどん嫌なことを増やしていくに違いない。意味の無い自己犠牲にはなんの価値もないというコンセンサスは社会に必要なんじゃないかと思う。

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(しばらく前に書いてあったメモ)
 natureの表紙が "QUANTUM LEVITAION"(量子浮上)の文字で飾られていて、ヤフーのニュースにも出ていたけれど、なにやらセンセーショナルな雰囲気が少し出ていた。カシミール効果で斥力を実現したとのこと。カシミール効果というのは本当に大昔にカシミールが理論的に予言した現象で、完全な絶縁体の板二枚をものすごく近づけると間に引力が働くというものです。引力といっても静電気だとかお互いの重力場によるものだとかではなく、量子力学的な場の振動によるもので、真空というのは実は何にもない空間なんかじゃなくて常に粒子が出来たり消えたりしている場なのです、ということを原因とする引力です。
 そのカシミールの発表の後、リフシッツが絶縁体じゃなくてもいいかもしれないということで理論を一般化しました。その一般化した理論によればカシミール効果には引力だけでなく斥力もあるということで、今回の実験はこの理論に則ったものです(リフシッツがこの理論を作ってから何十年も経っている)。遠い未来にやって検証されるような理論を打ち立てるってすごいなと思うし、数十年前は思考実験しかできなかったようなことが実際に実験できるようになる技術の進歩もすごいなと思う。

月が本当に存在するということ。

2009-01-19 15:08:00 | Weblog
 昨日「ザ・ムーン」という映画を見てきました。映画と言ってもドキュメンタリーで、見せ場はほとんどNASA蔵出しのアポロ計画を撮影したフィルムでした。一昨日たまたまこの映画の存在をネットで知ったのですが、久しぶりに「この映画は映画館で見たい」と思い、ちゃんと次の日に見に行くことができて良かったと思う。ここ3年ほど嵌っていた足枷が外れて、フットワークが戻って来たなと感じた。

 映画館で鳥肌を立てたのは本当に久しぶりだった。こういうことを書くとなんてドラマティックな映画なんだろうと思われるかもしれないですが、映画自体は見ようによっては極めて地味なものです。NHKの特番くらいのノリで捕らえるのがいいと思う。科学のことに何の興味もない、という人が見ても眠たくなるだけかもしれない。でも、少なくとも僕は40年前のアポロ計画の映像を見て心の底の方がグラグラと揺さぶられました。なんてすごいんだって。ロケットの発射も、月面のローバーも。月探査機が月周回軌道にいたアポロに向かって吸い込まれるように上昇してくる場面とか。周回軌道で待っていた宇宙飛行士は「レールの上を滑らかにすべるようにこちらへ向かってきた」と形容していた。映像もまさにその通りだった。ニュートン力学に従い、計算され的確に制御されたロケットエンジンの噴射で
月探査機は完璧な軌道で上昇した。

 後に宇宙飛行士は「なにより驚いたのはすべてが完全に決められた時間通りに正確に行われたことだ、まるでどこかに魔法の時計が仕掛けてあったみたいに」というようなコメントをしている。考えてみたらそれはそのはずだ。どのような軌道をどのような運動量で飛ぶかは全て力学的に計算されていたのだから。

 全長90メートルの巨大なロケットは、当然だけど人間がその細部まで設計して作ったものだった。素材、電気回路、コンピュータ、プログラム、制御機構、ロケットエンジン、力学的構造。40年前の科学の結晶に間違いないし、莫大な知力と労力の結晶でもある。それが轟音とまばゆい炎と共に宇宙空間へ登っていき、月に降り立って、それから大気圏を数千度の炎に包まれてまた戻って来るなんて、なんてすごいのだろう。

 このドキュメンタリーは極簡単にではあるけれど、40年前に宇宙飛行士達が月へ行ったことを追体験させてくれる。だから僕は少しの間、想像力を逞しくして月へ降り立ってみました。そのとき思ったのは意外なことだった。
 僕は月面世界の映像を見て、それから月の地表背後に小さく見える地球を見て、「一体なんなんだこれは?」と、もうひたすらそう思ったのです。あの青い星に何十億の人間が住んでいて街があって、そしてこの月には誰もいない。それどころが人類が知る限りの宇宙空間に今のところ他の生命は見つかっていない。この百何十億光年の広大な空間に、この青い小さな星が一つあってそこに僕達はいて、他のところには誰もいない。誰もいない星が数え切れないくらいにたくさんあり、そこでも岩が転がったり何かの液体や気体が流れたり昼と夜が入れ替わったりということが行われている。ただその星から空を見上げる人はいない。一体なんでしょうか、これは? もうわけがわからなくて、哲学も科学も超越した次元でわけが分からなくて、告白すると僕の脳裏をよぎった言葉は「神」だった。それは何か特定の宗教における神ではなく、単に超越者としての神だった。

 映画が進み、エンディング近くになってくると、興味深いことに宇宙飛行士達は宇宙に出て、月を歩いて、神を感じただとか悟りを開いた、全てが一つであることを強く感じた(これは地球という小さい星にみんな住んでいて循環しているという狭い意味ではない)、そういうことが一番重要なことだと言っていた。
 一昔前の僕なら確実に「なにをまた宗教臭くなって」って一蹴していたと思う。でも、今は彼らが本当にそう感じたのだろうと、全部ではなくとも理解することができるし、きっとその感覚は真実に近いと思う。西田幾多郎が「他人と自分の違いなんて、昨日の自分と今の自分程度の違いでしかない」ということを「善の研究」に書いているのですが、そういうのが今では分かるような気がする。そして、頭がおかしくなったと思われるかもしれないけれど、この世界には本当は時間は流れていなくて、それから自分と他人の区別もないんじゃないかというような気が時々しています。

 月へ行ってから40年間、僕達は何をしてきたのだろう。

 

 2009年1月16日金曜日
 夜から急遽Kの誕生日を祝う。ワインをまあまあたくさん飲んだけれど、別になんともなくて少し安心する。正月に妹の家で飲んだとき、僕は人生で2度目、大学1年生のとき以来はじめて記憶をなくしたから、すっかりお酒が弱くなったのかと思っていた。あのときは相当たくさん飲んだのだろう。

 2009年1月17日土曜日
 昼に兵庫のM君に電話して、夜に急遽鍋をすることに決める。僕の部屋はフローリングにソファとスツールで、数の上ならなんとか8人分の椅子はあるけれど、狭い部屋に大勢の人が椅子で座るとボリュームが大きすぎて圧迫感があるので冬なのに床に座ってもらうことにする。M君Sちゃんがお菓子の家セットを買ってきてくれたので(足りないものはI君がコンビニを6件回って買ってきてくれた)、お菓子の家をワイワイ言いながら組み立てて、昨日誕生日だったKもいたので彼女の誕生日ケーキの代わりにする。

 2009年1月18日日曜日
 神戸からHちゃんが来てくれたのでブーガルーの仏光寺店へ行って色々と話をする。そのあと、電子パーツ屋へ寄って、セラミックのクリスタルイヤホンを仕方なく(ロッシェル塩かチタン酸バリウムが当然欲しかった)買う。それからジュンク堂へ寄って久しぶりに本を沢山買う。急いでご飯を食べて、レイトショーの「ザ・ムーン」をSちゃんと見に行く。

Norwegian Wood.

2009-01-16 16:52:19 | Weblog
My last year passed away with "The Great Gatsby" by Scott Fitzgerald.

The next February, it will start that shooting the movie of one modern masterpiece novel "Norwegian Wood". This nobel was written by Haruki Murakami and came into the world in 1987. I remember my seeing this book stacked flat high in book stores that days. It has two volumes of anterior and posterior, each cover was colored red and green. I was 8 years old in an elementary school and totally not interested in this story. I just saw the red cover and the green cover side by side in every book store. It was a very best-seller. I didn't touch it.

I don't remember when is the first time my reading "Norwegian Wood". Not so long ago, maybe just 4,5 years ago. I felt good, just good. Not so much be impressed. I have no idea the reason why I wanted to read it again exactry. Just I can guess that's because of some information of the movie shooting. Any way, last December I pulled out these books (but mine are paperback edition they have no red or green cover) from my bookshelf.

I started to read the anterior and immediatery saw the name of Scott Fitzgerald. The centre character likes "The Great Gatsby" very much. I know Haruki Murakami himself loves "The Great Gatsby". He mentioned that the book on the top of his list is "The Great Gatsby" several times. Actually I have checked The Great Gatsby sometimes. But this is a kind of sad story and I never like sad stories. So I haven't read this book for very long time. However, this time when I saw the title "The Great Gatsby", I felt I wanna read this book. I stopped reading "Norwegian Wood" and went to a book store.

"The Great Gatsby" was published in 1925. We can call this old book. We have some Japanese edition and one of them translated by Haruki Murakami. He is famous as not only a novelist but also a translator. In the afterword by the translator, Murakami says "when I translate something, I always try to make myself just very good translator not novelist. But on this work, on The Great Gatsby, I used my ability as a novelist as well".
The locale is originally early 20s in The U.S.. Murakami changed it more modern taste by getting rid of very classical expressions. I don't know this is good or not. His assertion is that"this story should be near by us", "novels have no freshness date but translations have".

I have finished The Great Gatsby and soon been back on Norwegian Wood. So now, after reading two stories, I feel The Great Gatsby is one part of Norwegian Wood. And, feel that both of the stories vanished away into the fog of my memory.

毎日の物理学。

2009-01-14 14:06:42 | Weblog
「この広い宇宙について、僕達が知っていることは極々わずかなものにすぎない」と子供の頃から平気で口にして来た。実際にそう思ってもいた。でも、最近はもっと強く、本当にこの宇宙ときたらわけが分からないものだなと思う。

 もう何度も書いているけれど、どうして僕達は意識を持つことができるのだろう? 青い空を見て「青」を感じ、ジャズだかハウスだかを聞いて「音」を感じる。これは少なくとも現代科学の枠組みでは、脳に対する理解だとかそういう分野的なことを越えて、パラダイムとして起こってはならないことなのだ。だけど、僕達は24時間ずっとその起こってはならないことを経験している。

 形式的には色も音も触感も味も匂いもなにもかも、全部僕達の脳が作り出している幻想に過ぎないというような知識は広く共有されて、それでなんだかみんな納得してしまったような風潮もある。外の世界には電磁波とか空気の振動とか、なんらかの物理量だけがあって、それを元にして脳が「青色」とかを作り出して、それを僕達は感じてるんだって風に。へー、脳ってすごい、って。

 でも、問題は本当に本当にそんなに簡単なものではありません。
 電磁波が目に飛び込んで来て、網膜で電子が叩き出され、それが視神経を電気信号として伝わり、脳がその電気信号を処理して「青」ができます。なんてことは異常です。脳がどれだけすごいとしても、電気信号から「青」だか「赤」だか、色なんて作れるわけがない。電気信号と色の間には絶望的なギャップがある。

 これはちょうど「いくらでもたくさん、全種類のレゴブロックを使って良いから、それでコカコーラを作ってほしい」という注文に似ている。あるいは「好きなだけ沢山の楽器を使って良いから、それらを鳴らした音を組み合わせてピンクと緑のシマシマを作って欲しい」という依頼に似ている。そんなことはできっこないのだ。電気信号を自由に使って良いから、ついでに生化学反応も使って良いから、それで「青」を作ってと言われても、僕たちが感じているこの青を作ることはできそうにない。ここで誤解されては困るのだけど、ここで言っている「青」というのは「青い色をした物」では全然ありません。そうではなくて僕達の主観が感じている、僕達の頭の中に浮かぶ、僕達が視界に認識している「青」そのもののことです。

 「物理量」から「今感覚に登っているこの感じ」を作ることはできない、と言い換えても良いかもしれない。僕達が何かの物理量でできているのなら意識や認識は発生のしようがない。
 でも、僕達には意識がある。それは本当に不思議なことだ。

 だから、たぶん将来的に宇宙の基本的なメカニズムを探るという意味合いでの科学は一度破綻すると思う。僕達が科学とは呼べそうもないものを科学は導入するはめになると思う。
 なぜなら、僕達に意識があることのインパクトは計り知れないくらい大きいからです。

 僕達は意識のことを物理学で説明できそうにない。それも全然説明なんて出来そうにないし、意識が認識している主観を扱わねばならない以上科学にできることなんて今のところ少ししかない。先にレゴの例を挙げたように、物理で意識を解明できないのはほぼ自明に見える。
 だから、最終的な判断として「意識のことは物理では分かりません。それはこの宇宙の、我々の物理とは関係のないところで何かしらの作用によって働いています」と宣言するなら、それはそれでいいのかもしれない。でも、そうは簡単に行かないのだ。何故なら僕達が僕達に意識があることを知っているから。

 世の中には「意識というのは世界の傍観者にすぎない」と考えている脳科学者もたくさんいる。なぜなら意識は科学で扱えないから、法則にしたがって動いている科学モデルに組み込むことができないから。モデルを立てるときには「このパーツはこういう関数に従って、こういう入力が入ってくればこういう出力が出る」ということを(確率的にであれ)記述できなくてはならない。でも意識というのは自然法則の外にあるようなものなので働きをルールで書くことができない。
 そこで脳科学者達は「意識にはアウトプットがない」と考えた。入力はあるから外の世界を見たり聞いたりすることは出来るけれど、でも意識のアウトプットでこの宇宙の動きが変化することはないと。
 これは日常感覚にとっては実に不愉快な考え方だけど、意識に入力があっても出力がない、ということは「意識で何を感じても、それは感じているだけで、何一つその感じ方が物事を変えることはない」ということです。たとえば、目の前にチョコレートがあって、それを口に入れたら思ったよりもまずかったので吐き出したとします。このとき、僕達の感覚では「まずいと感じたから、そのまずいという感じを回避するために”私”がチョコレートを吐き出した」と解釈しますが、意識は傍観者にすぎない派の科学者にとってはこんなのおかしなことで、「チョコレートを脳が認識して口に運び、舌から送られてきた信号を不適切と判断して脳が自動的に口を操縦してチョコレートを吐き出させた。意識の方ではそれを傍観していて、ただ口にチョコレートが入っているときに”まずい”という感覚が起きていた」となります。好きだからしたとか、嫌いだからやめたとか、僕達のそういう主観的な意思は実際の行動には入り込む余地がなくて、脳をコントローラーとした高度な自動機械が条件に従って自動的に動いていて、それを意識ではただ見ていてあれこれあとから感じているにすぎない、ということです。

 こういう考えかたにしておけば、僕達の物理界は物理学で動いていて、謎の意識界にある意識は謎のメカニズムでそれを傍観している、意識は物理で説明できないけれど、他のことは全部物理で説明できるし、とりあえず二つは切り離してそれで良しとしよう、ということが言える。
 でも、残念ながらそうは問屋が卸さない。
 意識からのアウトプットがないのだとしたら、どうして僕達は意識が存在することをしることができたのだろうか? 僕は今キーボードを叩いて「意識」という言葉を書いている。これは物理界で正式に起きている物理的な現象だ。意識というものからのフィードバックが一切ないとしたら、どうして僕は、つまり僕の脳は意識のことなんて書くことができるのだろうか。

 話をクリアにするために自分を示す言葉を使い分けたい。この物理的な世界で物理的にキーボードを打ったりミカンの皮をむいたりしている我々を”脳”と指定し、そういう物理界で起きていることを認識している我々を”意識”と呼ぼう。
 このとき、もしも意識が脳に何かを教えなければ脳はどうして意識のことなんて語ることができるのだろうか? 僕達が意識の話をすることができるのは、あるいは書くことができるのは、それは脳が意識の存在を知っているからだ、脳が意識の存在を知るためには意識が脳にそれを教えるしかない。だから僕達の意識はアウトプットを持っていることになる。僕達の日常的な解釈は部分的に正しいことになる。つまり、この文章は僕の脳が意識と関係なく自動的に書いているのではなく、僕の意識が脳を使ってこれを書いているのだ。

 ということは、意識という物理学の枠組みでは語る事のできないシステムの出力で今宇宙の一部、少なくともこのキーボードとコンピュータの中の電流、ディスプレイから出る光は制御されていることになり、僕のこの研究室という系を外部から眺めればこの系は物理学的に破綻していることになる。なぜなら系の一部が意識という物理学の範疇にないものだから。

 これらから導かれる結論として、物理は、ひいては科学は毎日の生活において既に破綻している。だからどうだってわけではないですが。僕はやっぱり物理学の手法で世界を見ることをやめないし、何かが具体的に変わるわけではないけれど、とにかく僕達はわけのわからないものすごい毎日を生きています。

beautiful it.

2009-01-09 21:43:32 | Weblog
 研究室に来ると、ホワイトボードがきれいになっていた。僕もOも何かを書いた後に消すということをせず、代わりに書く前に必要な分だけ消すので、ホワイトボードは基本的にいつも書き散らかした計算で何が何だか分からない状態だった。そのホワイトボードがすっかり真っ白くなっていて、一部に指数関数を元にしたグラフが描かれていたから、僕はOが先生と何かの話をしていたのかと思ったけれど、良く見てみるとそれは我々の分野の雰囲気を持っていなかった(後にそれは色彩工学のJの為にOが助言を行った跡だと分かった)。しかもご丁寧にネイピア数(自然対数の底)eの値が2.71.....と書き込まれていて、僕はそれを見て久しぶりにオイラーの等式のことを思い出した。

 オイラーの等式というのは、かつてリチャード・ファインマンが「宝石」だと呼んだようになんともエレガントなもので(人類の至宝だとも言われる)、

 (eのiπ乗)+1=0

 のことです。
 これはオイラーの公式

 (eのiΘ乗)= cosΘ+ i sinΘ

 に Θ=π を放り込んだだけのものですが、ネイピア数と虚数単位と円周率という摩訶不思議な数が極めてシンプルに関連付けられたちょっとできすぎなくらいにできすぎたものです。もともとeもπも全然関係のない定義から出来た定数なのに、それが1と虚数単位iだけで結び付くなんて。しかもこのiが入っているところが本当ににくいというかなんというか。もう虚数のない世界なんて想像も出来ないけれど、でもこの式で改めて虚数の”実在”性みたいなものを感じ取ることができる。数学とこの世界が本当に対応しているのかどうかは難しい問題だけど、本当に世界ってなんだろうと思う。

フラット。

2009-01-08 13:14:28 | Weblog
 このあいだ久しぶりにI君と話していて、ベーシックインカムのことを考え直した。ベーシックインカムというのは「国民全員に対して、生活に要する最低限のお金をあげる」という方針です。老若男女問わず、働いていようがいまいが、全員に一人頭10万円なら10万円を毎月支給する、といった制度のことです。

 一見無茶苦茶に見えるけれど、本当はそう無茶苦茶でもありません。働かないと食べられないというのは大昔の話で、現代のテクノロジーを持ってすれば、働かないけれど食べられるというのは本来当然のことです。
 だって、もともとテクノロジーの進化は「より少しの労力で同等以上の結果を得ること」を目指して行われてきたので(本当は夢とかロマンの問題もあるけれど)、昔は10人が働かないと得る事のできなかった収穫を今や1人で十分という状況になっているはずだからです。ならば、10人の労働時間がそれぞれ10分の1になるか、あるいは一人が働いて後の人はなにもしない、などの労働形態があってもいいようなものを、どうしてそうはならないのかというと「働かざるもの食うべからず」の精神の下、全く不要な仕事を次々と生み出してはそれを忙しそうに行うからです。それが「こういう仕事もあったほうが嬉しいな」という心持ちで作り出された仕事ならまだいいけれど「こんな仕事は嫌だけど、でもしないとお金がないから」という理由だけで生まれてきたものなら、価値がないどころかはっきり言って有害です。
 仕事を作るために税金を投入して公共事業を起こすとか、そこに使われる資源やエネルギーのことを考えてみると、たぶんその税金をみんなにそのまま上げた方がましなんじゃないかと思う。

 もちろんベーシックインカムには沢山問題がある。でも、仕事は本当にそれほど重要なものなのか、とか、生きるために働いているような気分になっているけれど実はこれは何かのごっこ遊びではないのかとか、色々考える叩き台には丁度いいアイデアだと思います。

 今年はゲバラの映画もやるみたいだし、世界恐慌で資本主義の胡散臭さにもうんざりして、革命という文字が見え隠れしそうですね。念のために書いておくと、僕はノンポリですが、日本での「共産」という言葉に対するアレルギーって異常だなと思う。資本主義圏だからしかたないけれど。

 僕は、ここに告白すると、世界中の人が等しく手を取り合って生きていけたら良いなと本気では思っていないみたいです。できることなんてそれこそ沢山あるけれど、自分の生活を優先している。
 派遣村というのがなんだか、僕はその日I君に言われるまで知らなかったのですが、その派遣村というボランティアが運営する場所には500人くらいのホームレスの人が来たそうです。それに対するI君の感想は、ボランティアの人とか、回りの人とか、本気で助ける気があるなら一世帯に一人づつホームレスの人を連れ帰って、次の仕事が見つかるまで宿と食事を提供すればいいけれど、でもそんなこと絶対に誰もしない、というものでした。東京にいる莫大な数の人々のうち、たかだか500人がそういう申し出をすれば問題は解決するのだけど、誰もしない。僕だってしなかった。胸に手を当てて考えてみれば、結局そういうことなのだと思う。それに対して、罪の意識を感じるかどうかというのも繊細な問題だ。

 僕達はそのあと延々と”世界が完全にフラットな”モデルを考えていたのだけど、出来上がったのは「こんな世界で生きていてなんかいいことあるの?」というような代物だった。