Nanto Mohaya Portlandというポートランドを紹介したジンの紹介

2013-12-17 20:34:51 | 書評
 "Nanto Mohaya Portland" ( https://omoshirocool.stores.jp/ )というジンの存在をTwitterで知り、注文して読んでみました。
 念の為に書いておくと、日本語のジンです。
 とても良いジンだったので紹介したいと思います。
 現在手に入る「ポートランド」をテーマにした日本語書籍の中で、”1番ちょうどいい!”ものではないかと思います。

 最近、僕はポートランドに強い興味を持ち、移住を射程に入れて情報収集していて、その一環でこのジンも注文しました。
 6月には実際に訪ねてみる予定です。

 ポートランドは、LAやNYみたいに、誰もが知っているアメリカの都市ではないので、先にどのような都市なのかイメージを持って頂く目的も兼ね、"Nanto Mohaya Portland"の1ページ目を引用させて頂きたいと思います。

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   ポートランドのうわさ。
  
  ・クリエイティブな若者が住みたい街ナンバーワンらしい
  ・アメリカで最も環境にやさしい街らしい
  ・アメリカで最も自転車にやさしい街らしい
  ・アメリカで最も美味しいクラフトビールが飲める街らしい
  ・アメリカで最も外食目的で出かける価値のある街らしい
  ・チェーン店よりも地元のビジネスを大切にする街らしい    ・音楽や美術をはじめ芸術全般がとても盛んらしい
  ・活気あるコミュニティがたくさんあるらしい
  ・近くにアウトドアを楽しめる大自然がたくさんあるらしい
  ・近くにレベルの高いワイナリーがたくさんあるらしい
   などなどなどなど…

  これらのうわさを聞いて
  「なんだその面白そうな街は!」と思い
  自分で大変しにいってみることを決意

  ちなみに、うわさは全て真実だったのでした  
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 これらの噂に惹かれた著者、荻原貴男さんが、実際にポートランドを訪ね、見聞きされたことを30ページ程度のジンにまとめられたものが、この"Nanto Mohaya Portland"です。
 紙面のデザインも、文章もとても上手で、丁寧にデザインされていることが伺い知れます。
 フルカラーで、写真がふんだんに使われています。
 
 目次も紹介させて頂きますと、
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  1,なぜポートランドに心惹かれたのか
  2,ポートランドの魅力概論
  4,ポートランドってどこ?
  5,5つのエリア
  6,優れた公共交通
  7,自転車の街ポートランド
  8,ポートランドファーマーズマーケット
 12,フードカート
 14,ビール好きの楽園ここにあり
 16,本好きの聖地パウエルズブックストア
 18,zine - 個人が作る小冊子
 20,IPRC
 22,オモシロリスト ポートランド
 27,ポートランドブックガイド
 28,ポートランド看板デザインコレクション
 _______________
 という構成。

 27ページの”ポートランドブックガイド”でも紹介されている「グリーンネイバーフッド」は、日本で出版されている、ポートランドに関する一番有名な本ではないかと思います。
 まだ精読はしていませんが、この本の前書きには「(日本で)長い間通っていた飲み屋で常連客と仲良くなって話をするようになり、足が店から遠のくようになった」というようなこと書かれています。

 僕は、この感覚がとても良く分かる気がします。
 馴染みの、常連のお客さんと仲良くなって、お店に行って人々と話すのは、どちらかというと「良いこと」だとは思うのですが、少なくとも僕はそういうのを面倒に感じます。そうでない場合も極稀にあることはありますが、大抵の場合「なんか面倒」になって来ます。

 今、「地域」とか「コミュニティ」とかで「人と人が出会う」ということがアチラコチラで叫ばれていますが、ひねくれているのか僕はそういうのがあまり好きではありません。
 建築の動線設計で、「人と人が出会う空間」とか書いてあると、イラッとします。

 だから、程度の差はあっても、僕は「グリーンネイバーフッド」の著者の方と似たような傾向を持っているのではないかと思い、その方が続けて「ポートランドにはそういう嫌な感じもなく上手くいってる、この街に一歩足を踏み入れて興奮した」というようなことを書かれているので、それだけでもよりいっそうポートランドのことが気になるようになりました。

 ただ、この本では都市設計のことに重点が置かれているので、訪ねたり住んだりしたときの空想に役立てるにはちょっと話が違う感じがします。
 その点、"Nanto Mohaya Portland"は、「ちょうどいい!」です。ざっと目を通すと、「ああ、素敵な街があるんだなあ」というすっきりした気持ちになります。全体を流れる透き通った空や水のような雰囲気が、ポートランドという街の心地良さをこちらへ伝えてくれます。行ってみたい、と素直に思いました。
 これから、誰かにポートランドのことを知りたいと言われたら、まずこのジンを読んでみるといいと答えることになりそうです。

 最後にポートランドに関する書籍の紹介をしておきます。

From Oregon With DIY
エディトリアル・デパートメント

 雑誌"Spectator"のポートランドがフィーチャーされた号。
 情報が「ヒッピーの残り香」に偏っている感じで、自然も大事にしてるハイテク都市みたいな部分があまりなく、ちょっと期待はずれでした。まあDIYと書いてあるので当然といえば当然ですが。



The Mighty Gastropolis: Portland: A Journey Through the Center of America’s New Food Revolution
Chronicle Books

 英語で書かれた本で、これはポートランドの食に、その豊かさと自由さに焦点を当てたものとなっています。アメリカっぽいというか、ほぼ全員タトゥー入ってます。



グリーンネイバーフッド―米国ポートランドにみる環境先進都市のつくりかたとつかいかた
繊研新聞社

 本文中でも紹介した本です。

 

 

変態を隠蔽することがイジメと似ていて窮屈なこと

2013-12-14 20:41:49 | Weblog
 前回の記事に痴漢と変態のことを書きましたが、ほとんど痴漢の話に終始していたので、今回は変態の方に焦点を当てたいと思います。

 大人になって、痴漢と変態の多さにびっくりしたという趣旨のことを書いたわけですが、痴漢が多いことと、変態が多いことは、もちろん別の話です。
 痴漢は多いと困るけれど、変態は別に多くても困らない。困らないどころか、ここには人間の多様性が発露しています。
 ネットが発展して、人々の変態ぶりは増々明白になって来ました。それらは当然のように匿名性の中でだけの明白さであり、あくまで隠蔽された多様性です。この隠蔽を、僕達の社会はこれからも続けたほうが良いのでしょうか?

 話をマイルドな範囲に持ち込むとして、年齢のことに話題を絞ることにします。

 社会には「若くてスタイル良くてキレイな女の子がGOOD」という暗黙の了解が存在しています。すこしだけ厳密さを担保する為に、恋愛という要素を見ないことにして、「セックスの対象」と限定した場合でもそうです。
 たとえば20代の青年が、「若くてスタイル良くてキレイな女の子」に対して性欲を感じることは「健常」であり、もしも彼が中年のオバサンに対して性欲を感じるならそれは「異常」だとみなされます。
 でも、それが「異常」ではないことは、アダルト界に存在する「熟女」というジャンルの存在とコンテンツの数が既に証明しています。

 仮にその20代の青年が、オバサンとそのような関係にあったとき、若くてキレイな女の子とそのような関係にあったときと同様に、周囲の人達にそれを伝えることができるでしょうか。
 友達にはなんとか言えても、親には言えないとか、すんなりとはいかない部分がどこかにあるのではないかと思います。

「それはそうだろ、だってそれは異常なんだから、そもそもセックスというのは生殖の為の行為であってだな、人間は本能的に子供ができやすそうな相手を選ぶようにDNAに書き込まれていて云々」
 ということをいう人もいると思います。

 でも、僕はあまりそういう”DNAに刻まれた本能”論には耳を傾ける気にはなれません。僕達はきっと本能から離れたところへ行くことが可能だと思っていて、どこから来たか、なんてことは知識としてだけ知っておけばそれでいいからです。「イジメはなくならない、イジメは動物の本能だ」みたいな議論の組み立て方は本当にどうでもいいです。だったら本能なんてバイオテクノロジーで書き換えてやるぜ、と思います。
 さらに、生殖云々を基準に語るのであれば、僕達はコンドーム付けてセックスしだしたときから既にみんな変態です。

 前回の記事は、「抑圧に疲労を覚える」みたいに書いて終わりました。それは、人々がウソを付いている場面がいくつも想像されるからです。
 たとえば、ある若い男がいて、彼はでっぷりと太ったオバサンが好きだとします。でも対外的にはそんなこと言えないし、別に嫌でもないので、若くて美しい女の恋人がいます。
 ある日、その若くて美しい恋人や友人達と食事をしていて、太ったオバサンのことが話題に上がります。
「嫌よね、年取るって、私がオバサンになっても愛してくれる」
「太ったらどうしよー」
 みたいな若者らしい会話が繰り広げられますが、もともとオバサンが好きな彼にとってはオバサンになっても愛すのは自明のことだし、太れば尚更良いわけです。
 でも、彼は口が裂けてもそんなことが言えないので、「太らないように気を付けないと、若い子に乗り換えるぞー」みたいな下らない冗談で乗り切ります。
 ほんと馬鹿みたいだけど、きっとこういうことはたくさん起こっているはずです。

 もちろん、年齢や体型だけでなく、その他の性癖や性別やなにもかも、別に性的なことに関わらずこういう場面はあると思います。

 自分の本心を隠し、周囲が「OK」としているものに、あたかも自分の好みも一致しているかのように振る舞うこと。
 そういうのはなくなればいいと思う。

 人々のそういった振る舞いによって、あたかも価値を持っているのは極一部の限定された人々や物事だけで、そこに入らないものは蔑まれて仕方ないという風潮が出来上がる。
 それによって、人々は「極一部」になるべく近付こうと、非常な努力を、非常なコストで行ったりする。年を取ることは避けられないのに、お金をつぎ込んで嘘っぱちのアンチエイジングに精を出し、嘘っぱちの下らない美容情報に翻弄される。
 「もう私は50歳だから誰にも好かれない」「太っているから」と言って諦めたり苦しんだりする。
 せいぜい「この条件でも受け入れてくれる人を探す」みたいなネガティブなポジティブさしか持てなかったりする。
 でも、世の中には本当は「年を取っているからこそ」「太っているからこそ」好きだという人だってたくさんいて、ただどういう訳か、僕達の社会はそれを隠そう隠そうとしているだけなのだ。
 本当はその子と仲良くしたいのに、いじめられっ子と仲良くすると自分ものけものにされてイジメられそうで怖い。そういうのと、とても良く似た、人々がお互いに足を引っ張り合って不幸な世界を作る動きにとても良く似ていて、僕はそういうものを嫌悪します。

大人になって痴漢の多さに驚いたこと

2013-12-12 21:20:20 | Weblog
「ちょっと10分くらい女の子の恰好で夜道を歩いたら、変な男に絡まれたり、急に胸を触られた。世の中こんなに酷いのか。。。」というようなことをFacebookで読みました。

 僕が大人になって驚いたことの1つは「社会がこんなに性的な変態に満ちていること」です。

 子供の頃、「最近あの公園の周りで遊んでいると、拐われたりするから行ってはいけない」とか「あの道はコートを肌蹴て裸を見せてくる男が出るから通ってはいけない」というアナウンスが学校などであったように思います。
 僕達は「拐われる」というのは、「身代金目的の誘拐」のことで性的な何かだとは全然思っていませんでした。
 コートをはだけてくるのは「性的な何か」だということは分かるけれど、それも「ただの変態の気狂い」というカテゴリーに収めて笑い飛ばしていました。
 なんというか、変態とか痴漢とか、そういうのは本当に稀な、僕達の生活とはそれほど関係のない、ただの冗談として存在する言葉でした。

 そのような認識が一気に書き換わったのは、高校生のときです。
 当時付き合っていた彼女は、僕と同じ年齢で、高校生で、そして電車通学でした。痴漢にあう頻度を聞いて僕はかなり驚きました。最初に「今日痴漢されて」と言われたときは、「えっ!?」と思い、怒りに打ち震えたのですが、彼女およびその友人達が痴漢の被害にあう頻度を聞いて、無力感のあまりどうしていいのか分からなくなった。
 違う高校に通っていた僕が、毎日の通学を一緒に行うことはできないし、車で送って上げるなんてこともできないし、学校をやめて通学をやめてもらうわけにもいかない。当時はまだ女性専用車両というものもなかったのではないかと思う。
 今から思えば、何日か学校を休んで一緒に通学するだけでもそれなりの効果はあったのかもしれないし、他にもできることは色々あった。でも当時の僕は、通っていた厳しい進学校気取りの高校に飲まれていて、それすらできなかった。本当に情けない。「キモいし超ムカつく」と、明るい素振りで事後的に報告されるのを聞き、やり場のない怒りに震えて、そして気休めの言葉を掛けるしかできませんでした。

 そういうこともあって、僕は所謂セクハラ的なものには敏感かもしれません。大学生になり、酒の席で酔っ払ってるんだか、酔ったふりだか、女の子にベタベタする先輩を実力行使で引き離したりして、すぐにその様な人のいる集団には足を踏み入れなくなりました。
 周りでは、相変わらず女の子達が痴漢やレイプ紛いの被害にあっていました。恋人や友達から電話が掛かってきて「さっき歩いてたら後ろから来たバイクの人にお尻触られた。どうしよう」とか、そういうことを聞かされると、それもやっぱり事後でどうしようもなくて、僕はやり場のない怒りと無力感に苛まれました。

 一時期は、恋人にペッパースプレーなどの武器をあげていました。大抵の場合、女の子達は「大丈夫、大丈夫」と言います。でも、この大丈夫には何の根拠もありません。戦闘訓練を受けていて滅茶苦茶強いとかそういうことがないかぎり、大丈夫では全然ないはずです。

「帰ったらすぐ連絡するから、大丈夫」というのも、何の実効力も持たない訳のわからない方法です。
 これは「心配する時間をなるべく短くして上げる」という、女の子側からの配慮にすぎません。これで「うん、じゃあちゃんと連絡してね」と言って別れるのは、本音では「送るの面倒だったからありがたい」ということです。

 夜道に関してだけでなく、大学で教授が部屋のドアを締め切らないようにしていたり、夜の繁華街で大声で笑ってみたり、そういうのを見ると、僕達の社会がいかに性的なものなのか、あるいは必死にそれらを抑圧しようとしているのか見えるみたいで、主にその「抑圧の仕方」に、なんだかどっと疲労を感じることがあります。

イノダコーヒーのケーキが不味くて裸の王様だと思ったこと

2013-12-07 19:07:32 | Weblog
 イノダコーヒーで食べたケーキのマズさに驚いてこの記事を書いていますが、別にイノダコーヒーの悪口を書きたいわけではありません。店の好き嫌いは別れて当然のことなので、僕はもう二度と行かないと思うけれど、何度も行きたいという人がいるのも理解はできます。
 ただの店の悪口なら、何もブログを書くまでもないのですが、時代の移り変わりを肌で感じた気がしたので、そのことを書こうと思います。

 イノダコーヒーというのは、京都ではそこそこ有名な喫茶店です。京都市内だけでも店舗が5,6軒あったと思います。「京都の朝は、イノダコーヒーの香りから」というコピーが、結構すんなりと受け入れられているような印象もあります。
 そういう老舗の喫茶店です。
 ただ、僕としては別に興味のあるお店でもなく、昔一度入ってコーヒーを飲んだことがある程度でした。

 昨日入ったのは、家から一番近い喫茶店の1つだからというだけの理由です。本当は flowing Karasuma ( http://www.flowing.co.jp/index.php ) というカフェに行こうと思っていたのですが、時間や元気さの加減で近場で済ませたわけです。
 ちなみにこのflowingは素敵なお店ですが、今年一杯で閉店してしまいます。イノダコーヒーが70年以上も続いて、flowingが7年も経たないうちに閉店するというのは、単に流行り具合の問題でもないのでしょうが、なんだかなあという思いを拭いきれません。

 とはいえイノダコーヒーも、あと5年くらいでブランドイメージを食い潰してしまって、閉店へと向かうのではないかと思います。
 酷いことを書いているようですが、「今どきこんなケーキ出すか?」というような酷いケーキでした。ペコちゃんの不二家しかなかった時代ならともかく、エンゼルパイに毛の生えたようなココアケーキをどういう気持ちで提供しているのかとても不思議です。
 僕の周りには何人かカフェを経営している人がいますが、まだ歴史も経験もない彼らでも、こんな酷いケーキは絶対に出しません。お客さんのことを考えたら怖くて出せないと思います。

 もう一つ、彼らが絶対にやらないであろうことで、昨日僕がイノダコーヒーで目にした変な点を上げます。
 特に仕切りがあるわけでもなんでもないのですが、店内は一応喫煙席と禁煙席に分かれていて、僕達が座った禁煙席のテーブルには「禁煙席なのでお煙草はご遠慮ください」といったことの書かれた札が載せられていました。
 そのプラスチックの札が、古ぼけてとても汚くなっていました。これも普通に、「ここで食事をする人」のことを考えたら、ある程度のクオリティを求めるお店であれば有り得ません。

 滑稽で、「裸の王様」という言葉が脳裏を過ぎったのは、そのようなケーキが、そのようなテーブルの上に、良く訓練された物腰のウェイターによって丁寧に運ばれて来た時です。
 何かが決定的に間違っています。

 これは適当な食べ物でも、丁寧に堂々と提供すればお客は騙される、という戦略なのでしょうか。
 多分、違うと思います。
 お店の人は、うちは老舗だし、昔からの通りに、こうしておけば大丈夫だ、と信じている気がしました。

 そしてお客さんの多くも、ここは老舗だし大丈夫だ、と思っているような気がしました。大丈夫というのは、具体的には「このケーキはまずい気がするけれど、でもここはイノダだし、大丈夫なはず、昔懐かしのケーキなのね、きっと」とか、「テーブルの上にこんな汚い札が置いてあるけれど、ここはイノダだし、このお店がそうしているってことは、これは別に気にすべきポイントではないってことね」という風に考えるということです。
 人間というのは、驚くほど自分自身の判断基準が脆弱で、環境に判断を影響されるものです。

 環境のせいであろうとなんのせいであろうと、このお店を好み満足するのであれば、それはそれで良いことです。
 でも、僕達より下の世代が、ありとあらゆる食べ物を食べてきた世代が、このような喫茶店を支持することはないと思います。裸であることが、大声では叫ばれなくとも、小さなさざ波のように広がり、ちょうど古くからの慣習で残っているだけの権威が清々と打ち砕かれていくように、ここも消えていくのだと思いました。あるいは何かの変化がそれを回避するのかもしれませんが。

 そのように。不味いケーキを食べながら、何かのイミテーションで満たされたような店内で、「世代交代」という言葉を肌身に感じた気がしました。

堀江貴文さんのこと

2013-12-05 20:50:57 | Weblog
 昨日、堀江貴文さんのサイン会に行ってきました。

 「堀江貴文さんのサイン会に行って握手してもらった」というと、ちょっとびっくりされますが、僕は昔から堀江さんのブログや本をずっと読んでいました。

 最初に堀江さんのことが気になったのは、昔書いていらした「社長日記」というブログを読んでのことだと思います。どうしてそのブログを読むようになったのかは忘れましたが、当時同じ研究室を使っていた友達と夜中に読んでは話をしていました。

 僕が今年の春くらいから、たまに言及している「ベーシック・インカム」というアイデアも、最初は堀江さんのブログで知ったのだと思います。2009年か2010年頃、堀江さんは結構たくさんベーシック・インカムについて話されていたと思います。
 そういえば、ブログに長い間ベーシック・インカムのことを書いていませんが、ずっと「名前考えなきゃな」って言いながら半年以上やってきた僕達のグループは今も健在で、年明けの1月にはスイスでプレゼンを行うことも決定しています(残念ながら僕は行けないのですが)。

 冗談のように作りはじめた”ベーシック・インカム・ゲーム”も、日本語版と英語版でのきちんとした製品が間もなく上がる予定です。
 全員が他のことで忙しいのと、色々と足を取られることもあり、なかなかスピードのでない今年の活動となりましたが、エンジンも温まり、メンバーの個性が化学反応を起こし始めたので、来年はビュンビュン動いて世界を変えたいと思います。

 ちょうど昨日は、堀江さんサイン会のすぐ後にベーシック・インカム・ゲームの英訳ミーティングがあったので、サインを書いて頂いているときにベーシック・インカムのことを少しだけ話しました。最近あまりベーシック・インカムのことを話されませんが、ずっと考えは変わっていないし、ただ話す機会がないだけだということで、最後に「機会があれば」と言って頂きました。

 実は、サイン会に行ったことは自分でも驚きでした。
 僕は、どんなに好きな人のサイン会でも「サイン会」とか「握手会」みたいなミーハーなイベントには行かないと思っていたからです。実際に一度も行ったことはありません。
 ところが、一昨日の夜、Twitterで「明日京都で堀江貴文のサイン会がある」という情報を見つけて、居ても立ってもいられない気分になり、サイン会を実施する書店のサイトを確認しました。サイトには「電話予約可能」と書いてあって、営業時間を見れば閉店まであと数分。即座に電話を掛けて予約を取りました。
 行くことを考えたこともないサイン会に、むしろそんなのに絶対行かないと思っていたサイン会に、躊躇いなく一瞬で行くことにして予約までしてしまったテンションに自分で驚きました。

 僕にとって堀江貴文という人はそんなにも大きな人だったわけです。
 このサイン会は、堀江さんの新しい本「ゼロ」のプロモーションとして行われたものですが、「分かってもらおうとなんてしない、誤解する方が悪い」というこれまでのスタンスをやめて、丁寧に書かれたこの本は、僕としてもたくさんの人に読んで貰えるといいなと思います。(これまでの書籍も丁寧だったと思いますけれど)

 本の中から、一部引用して終わりたいと思います。


 考えてみればおかしなものだ。
 塀の中に閉じ込められ、自由を奪われた僕が、塀の外で自由を謳歌しているはずの一般読者から、仕事や人生の相談を受けていたのだから。
 そして思う。
「みんな塀の中にいるわけでもないのに、どうしてそんな不自由を選ぶんだ?」

 刑務所生活で得た気づき、それは「自由とは、心の問題なのだ」ということである。
 塀の中にいても、僕は自由だった。外に出ることはもちろん、女の子と遊ぶことも、お酒を飲むことも、消灯時間を選ぶことさえれきなかったが、僕の頭の中、つまり思考にまでは誰も手を出すことはできなかった。
 だから僕は、ひたすら考えた。自分のこと、仕事のこと、生きるということ、そして出所後のプラン。思考に没頭している限り、僕は自由だったのだ。

 あなたはいま、自由を実感できているだろうか。
 得体の知れない息苦しさに悩まされていないだろうか。
 自分にはなにもできない、どうせ自分はこんなもんだ、この年齢ではもう遅い。
 もしもそんな不自由さを感じているとしたら、それは時代や環境のせいではなく、ただ思考が停止しているだけである。あなたは考えることをやめ、「できっこない」と心のフタを閉じているから、自由を実感できないのだ。
 思考に手錠をかけることはできない。
 そして人は考えることをやめたとき、後ろ手を回され鍵をかけられる。そう、思考が硬直化したオヤジの完成だ。彼らはもはや考えることができない。考える力を失ってしまったからこそ、カネや権力に執着する。そこで得られるちっぽけな自由にしがみつこうとする。彼らオヤジたちに足りないのは、若さではなく「考える力」、また考えようとする意思そのものなのだ。
 僕はオヤジになりたくない。
 年齢を重ねることが怖いのではなく、思考停止になること、そして自由を奪われることが嫌なのだ。だから僕はかんがえることをやめないし、働くことをやめない。立ち止まって楽を選んだ瞬間、僕は「堀江貴文」でなくなってしまうだろう。  
                            』
 

ゼロ―――なにもない自分に小さなイチを足していく
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