西はりま天文台訪問記03;宇宙人はいるのか?

2014-02-14 17:59:19 | Weblog
 観望会の翌朝は雪だった。
 ロッジのチェックアウトを済ませた後、ミュージアムショップでも覗いて帰ろうと天文台北館へ行くと、天文台で作成された動画が流れていて、僕達がそれを見た時、画面では昨日の観望会でお世話になった鳴沢さんが"SETI"の話をされていた。

 その後、もう一度「なゆた」を見て、パネル展示も眺めていると、西はりま天文台で研究されている方々の紹介パネルがあり、鳴沢さんの自己紹介には「宇宙人を探しています」と書かれている。
 そうか、鳴沢さんは宇宙人を探されているのか。
 そういえば観望会でも何度かチラリと地球外生命体に言及されていたなあ。

 SETIというのは、Search for Extra-Terrestrial Intelligenceのことで、日本語では「地球外知的生命体探査」と訳される。いわゆる「宇宙人探し」のことだ。
 どうやって宇宙人を探すのかというと、基本的には、宇宙にアンテナを向けて、彼らが送ってくるであろう「不自然な」電波を受信してである。それだけではなく、送られてくるであろうレーザーを探したり、こちらからシグナルを送ったり、いくつかの方法があるようだけど、詳細は鳴沢さんの著書「宇宙人の探し方」にお任せするとして、ここでは個人的にSETIのことを書きたいと思います。

 実は、僕もSETIとは全く無関係というわけではありません。
 かなりカジュアルにですが、参加していました。
 SETIには、SETI@home ( http://setiathome.berkeley.edu/index.php )という、実に素敵なプログラムがあり、文字通り家からSETIに参加できるのです。実にカジュアルですね。

 SETIでは宇宙からの電波を解析して、宇宙人が発信したのではないかと思われる電波を探し出すわけですが、広い宇宙からの電波を24時間解析し続けるには、膨大なコンピュータ・リソースが必要となります。とても1つの研究施設では賄いきれません。

 そこで、電波望遠鏡で取得したデータと解析ソフトを、インターネット経由で世界中のボランティアのパソコンに送り、それぞれのCPUで計算をしてもらう、という作戦が取られました。
 つまり分散コンピューティングです。SETI@homeは極めて成功した分散コンピューティングの1つだと思います。

 僕もかつて研究室のパソコンにこれを載せていて、スクリーンセーバーの代わりにSETI@homeが起動するようにしていました。
 ひょっとしたら目の前で、自分のコンピュータで、宇宙人からのメッセージを発見できるかもしれないという期待にワクワクしながら、クールな解析過程のグラフィックを眺めるのはとても素晴らしい気分です。

 もしも見つからないとしても、自分の元に送られてくるデータの出先を考えると胸が高鳴ります。
 SETI@homeで送られてくるデータは、プエルトリコにあるアレシボ天文台で取得されたものですが、アレシボ天文台には世界最大、直径305メートルの電波望遠鏡があります。

 アレシボ天文台Arecibo Observatoryのグーグル画像検索結果
https://www.google.co.jp/search?q=Arecibo+Observatory&espv=210&es_sm=122&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ei=L879UvDrB8ejlQWX-IDQBA&ved=0CAsQ_AUoAw&biw=780&bih=362

 こんな凄い設備から、僕のパソコンなんかにデータを送って貰えるわけです。それだけでも、どうあったってワクワクします。
 だんだんとパソコンで大きな計算を走らせたままにすることが多くなり、SETIのプログラムは削除してしまいましたが、ほんの微かにでも参加できたことを嬉しく思います。

 さて、「SETI@homeに参加していた」と書くと、「じゃあ、宇宙人がいると思っているのか?」という質問が飛んでくるのではないかと思うのですが、僕は「どちらかというといるんじゃないかなあ」と思っています。

 これには前提が1つあります。
 それは、「世界が僕達の科学が捉えているような感じのものである」ということです。
 説明しにくいので言い換えますと、「僕達の世界が、何かの作り物ではないなら」ということです。
 たとえば、もしもこの世界が誰かの作り出した仮想世界であって、僕がその中に放り込まれただけだとしたら、その誰かは別に宇宙人なんて作っていないかもしれません。ここがもしもマトリックスの中であれば。宇宙人どころか、他の人達だって。僕はこれを誰かに読んでもらえるだろうと信じて書いているわけですが、もしかしたら読者なんて1人もいないのかもしれません。全てはただのプログラムなのかもしれません。ブラックホールどころか、月も地球もないのかもしれません。

 でも、特に根拠はありませんが、僕はここがマトリクスの中ではないと信じています。あの人にもこの人にも意識があり、僕はこの世界でひとりぼっちではないのだと信じています。
 同時に、これまで人類の科学が築いてきた世界認識は、ある程度まで正しいのだろうと信じています。つまり、僕達の物理学は宇宙の彼方ででも通用して、天文学が捉えた宇宙像はある程度まで正しいのだろうと。これは全く不思議なことだけど、生命は化学反応の賜物として生まれたもので、けして神がサクッと作ったものではないのだろうと。

 そうであれば、このメッチャクチャに広大な宇宙の中で、地球人がひとりぼっちだとは、僕には到底信じられないのです。
 僕にとって、「自分」でない「他者」の存在は既に不可思議です。そして僕は「他者」の存在を信じています。つまり、僕はもう最初の一番大きな問題に対して、根拠のない仮定、いうなれば信仰のようなものを既に持っていることになります。その「他者」が地球人か宇宙人か、どの銀河にいて、どんな形をしているのか、タンパク質でできているかミネラルでできているのか。そんなことはもう些細な問題にも思えます。

 もしもこれを読んでくれている「あなた」が存在しているのであれば、他所の星に「宇宙人」が存在していると考えるのは、僕にとっては随分自然なことのように思えるのです。
 
 

宇宙人の探し方 地球外知的生命探査の科学とロマン (幻冬舎新書)
鳴沢真也
幻冬舎

西はりま天文台訪問記02;なゆた望遠鏡

2014-02-13 16:42:48 | Weblog
 M82銀河の中にぼんやりと見える光点は、なんと超新星ということだった。
 超新星爆発。
 僕が見ているのは、1200万光年の彼方、僕達が住んでいるのとは別の銀河での星の最後だ。
 写真でも映像でもない。網膜に届いたその光子は、1200万光年を旅してきた、1200万年前のとんでもない大爆発のカケラで、それを「なゆた」望遠鏡がかき集めて目に運んでくれた。
 たった今、1200万年前に、すごいことが起きている。
 _____________

 前回、西はりま天文台を訪ねた、その心境みたいなものを中心に書きました。
 今回は、観望会のことを、訪問記らしく紀行文調で書きたいと思います。

 宿泊者観望会は19時30分からということだったけれど、19時前からなんだかソワソワして落ち着かない。夕方までポツリポツリとしていた小雨は、幸いにも上がっているようだった。とはいえ、空はきっとまだ曇天だろう。望遠鏡は、「なゆた」は動かしてもらえるだろうか。天候が悪い場合、観望会は研究員の方のお話会になるらしい。それはそれで楽しそうだが、どうせならやっぱり「なゆた」を覗いてみたいと思う。

 家にはないテレビを珍しがって点けて、画面の向こうで読まれるニュースは何の話だか、まったく聞きもせずに僕達はコートを着てマフラーをグルグルと巻いた。「外はとても暗いので懐中電灯をお持ち下さい」と、部屋には懐中電灯が用意されていたけれど、コートのポケットにはすでにスノーピークのライトが入っている。
 もちろん外は暗い。
 なんてったって、ここは天文台なのだ。

 スニーカーの紐を結んで外へ出ると、本当に外は暗かった。期待を込めて見上げた空へ、見える星はほんのわずか。寒くて、暗くて、星も見えず、でもやっぱり天文台にいるという高揚感が静かに背骨を登って行く。ロッジから小高い丘の上、2つ並んだ天文台のシルエットを目指して僕達は歩く。

天文台北館の横を抜け、「なゆた」の設置されている南館へ。建物の灯りが玄関に落ちていて、すこしホッとする。どこからか金属音のような、虫の鳴き声のような音が、周期的にずっと鳴っていて、ここがただの建物ではなくて、特別な機能を備えた施設であることを象徴しているようだ。
 僕達の他に、人は見当たらなかった。ロッジでは隣の部屋にも人がいるようだったけれど、その人達は来ないのだろうか。

 南館の入り口を入ると、青い色のダウンジャケットを着た男の人が僕達を迎えてくれた。胸元で目立つワッペンには「NASA」と書かれている。

「もう一組来られるようなので、少しお待ちください」

この方が、この日の観望会でいろいろな話をして下さる鳴沢真也さんだった。鳴沢さんが、実は地球外知的生命探査の第一人者であるということを、この時はまったく知らず。それどころか、この後観望会が始まると、冗談の連発だったので、NASAのワッペンもあいまり、しばらく僕は鳴沢さんのことをプロの研究者だとは思っていませんでした。
 しかし、観望会が進むにつれて、冗談でサラッと覆われた鳴沢さんの豊富な知識と鮮やかな説明ぶりに感銘を受けるようになっていきます。

 もう一組の人達が来るのを待つ短い間、展示室の中を見ていると、雲の動きや天体をモニターした画面がいくつか壁に掛かっていて、素直にかっこいいなと思う。
 やっぱり科学はかっこいい。
 そう思っていると、すぐにもう一組の人達がやって来た。ロッジで隣の部屋に泊まっている人達だった。
「では」と鳴沢さんに案内していただき、みんなでエレベーターに乗り込む。
 どうやら無事、観望会は行われる。
「なゆた」望遠鏡のある3階までエレベーターは上がっていく。
 いよいよだ。

 エレベーターを出て、少し歩いたコントロールルームの隣に、なゆた望遠鏡への扉がある。嬉しいことに僕は扉を開く係りをやらせてもらった。ただ扉を開けるだけのことだけど、こういうのはとても嬉しい。

 扉を開くと、蛍光灯の白い光の中、「なゆた」は真っ直ぐに立っていた。
 大きくて、しっかりとした造形。
 灯りを消すまでのあいだは自由に撮影して良いということだったけれど、エキサイトしていたのと、「なゆた」が大きくてiPhoneの画角に収めにくかったのもあって、僕ははこのときロクな写真を撮ることができなかった。

「なゆた」のある部屋と、コントロールルームは音声でも繋がっている。こちらの声はマイクで拾われて向こう、つまり「なゆた君」に届き、「なゆた君」の声はスピーカーでこちらへ届く。
鳴沢さんと「なゆた君」が話をして、部屋の屋根が開き、望遠鏡のカバーも開き、照明が落ちて観測体制が整う。カッコいい。完全にクールだ。開いた天井越しに見える星空は、天候がそれほど良くないとはいうものの、普段僕が街中から目にするものよりずっときれいだった。

「次の雲が近づいているので、ちょっと急ぎ目に見るもの見た方がいいと思います」

 空の様子をモニターしてくれている「なゆた君」が教えてくれて、僕達の"天体観測"は始まった。

最初に見せて頂いたのは、やっぱり月でした。
望遠鏡の、大きくて重たいはずの躯体が、スムーズに完璧な精度で動いて月を捉える。
 巨大な望遠鏡に設けられた、小さな接眼部を覗き込むと、そこには地球の大気にやや揺らぐ月の表面が大きく写っていた。僕達が毎晩のように見上げている月の、その実ぜんぜん見えていない細部。
 かつて僕が持っていた小さな望遠鏡とは違い、「なゆた」には追尾装置が当然付いている。だから、地球が動いているにも関わらず、望遠鏡に見える月の部位は微動だにしない。

 まだ気楽に月へも行けないけれど、人類の科学も木と石からはじめて遠くまで来たのだ。
 じっと静止しているようにしか見えない巨大な望遠鏡は、地球の回転に伴い、計算に合わせ、精密に制御されて動いている。制御系のプログラム、ベアリングや歯車、軸の精度。構造体の剛性。僕の思いも寄らぬ、ありとあらゆる部分がキチンと作られてはじめて巨大望遠鏡による天体の追尾は実現する。
 光学系の精密さは言うまでもない。「なゆた」の直径2メートルの主鏡は数千万分の一ミリの精度で磨かれている。
 そんなハイテクの隣で、僕達は気楽に星を眺めて冗談を言うのだ。21世紀はちゃんとやって来てるのかもしれない。

 このあと、木星や、冒頭に書いたM82銀河の超新星、その他たくさんの天体を見せていただきました。
 僕の頭の中は、半分は地球から遙か遠くの世界へ飛んでいき、半分は「なゆた」自体の制御系が行っている計算のことを想像して、2つに分裂していた。

 天文台の入り口で聞こえた周期的な音が、この部屋の中でもずっと聞こえていたので、一体何の音なのか鳴沢さんにお聞きすると、赤外線カメラを冷やす冷却装置のコンプレッサの音だった。
 僕達はこの日、「なゆた」に設けられた接眼部から直接星々の姿を見たわけだけど、多分これはかなり特殊なことだ(写真中央がなゆたの接眼部です)。

 僕は天文学のことを全然知らないものの、誤解を恐れずに書いてしまうと、きっとこのレベルの望遠鏡に直接肉眼で覗く部品を付けるのは滅茶苦茶に「趣味的」なのではないだろうか。

 なぜなら、折角の高性能望遠鏡で集めた光を、見える周波数の限定された人間の目なんかで覗いても仕方ないからだ。それは折角集めた光の持つ情報の多くを捨ててしまうことを意味する。たとえば僕達の目には赤外線は見えない。でも赤外線カメラなら見える(*1)。
 さらに、肉眼で覗いていては録画もできないわけだから、研究という枠組みで考えるならほとんど意味がない。

 それでも「なゆた」が肉眼で覗けるようにデザインされているというのは、西はりま天文台のスタンスを象徴しているように思う。
 どうして、わざわざ肉眼で覗けるようになっているのだろう。
 それは、もしかしたら”僕達素人”が覗けるようにではないだろうか。僕達は、映像でも写真でもデータでもなく、やっぱりまず「ナマの」星を見たいと、どうしても思う。そんな僕達の為に、「なゆた」の接眼部はあるのではないだろうか。
 ここは、きっととても開かれた天文台なのだ。
 宇宙に対してだけでなく、僕達に対しても。

 せっかく説明して頂いた細部は、実はもう良く覚えていない。
 でも、覗き込んだ星々の光と、見上げた宇宙空間と、ファニーだけど的確な鳴沢さんの宇宙ガイドは、記憶というよりも手触りのように脳裏へ刻まれ、僕は自分が日本というより地球というより「宇宙」に住んでいるのだという事実を再認識した。
 やっぱり、こうでなくちゃ。
 
(*1)最近は性能が上がって余計なものが映らないようになっているかもしれませんが、少なくとも数年前までのデジカメは赤外にも感度がありました。だから、赤外線リモコンのボタンなどを押しながら、その発信部をデジカメの画面で見てみると、確かに発信部から光が出ていることが確認できます。念の為ですが、見えているのは赤外線の「色」ではありません。 


西はりま天文台のサイト: http://www.nhao.jp/

西はりま天文台訪問記01;イントロダクション

2014-02-06 18:44:23 | Weblog
 西はりま天文台へ行ってきました。
 西はりま天文台には、口径2メートルの反射式望遠鏡「なゆた」があります。もしかしたら口径2メートルというのは、一桁だし、20メートル!とかいうのとは違ってあまりインパクトがないかも知れません。でも口径2メートルというのはとてもすごいです(写真の通り!)。「なゆた」は日本国内最大の望遠鏡で、一般に公開されている望遠鏡としては世界最大。また人が直接覗き込む接眼部のついた望遠鏡としても世界最大のものです。

 僕は京都に住んでいるので、播磨というのはそんなに遠くもなく、2004年に鳴り物入りで「なゆた」が設置されたときからずっと興味を持っていました。
 でも、ずっーと、見に行くことはなかった。それは、いつもの僕の僻みのせいなんかではありません。僕が、なるべく星のことを考えないようにして生きてきたからです。

 星の事を考えないようにしていたのは、もどかしさで一杯になって、心の奥の方にぐーっと力が入ってとても疲れるからです。
 子供の頃、貯めたお年玉で天体望遠鏡を、僕も買いました。もちろんビクセンのです。今回、西はりま天文台のミュージアムショップでビクセンの製品とロゴが目についたとき、昔持っていた望遠鏡の、フィルターやレンズを入れるプラスチックケースのガチャガチャした手触りが蘇ってとても懐かしかった。

 最初に自分の望遠鏡で見たのは、もちろんというか、月でした。
ピントが合うと、圧倒的な質感が、小さな接眼レンズの向こうに出現します。大地の起伏と、それらが太陽光と織りなす白黒の陰影。僕は今、違う星の地面を見ている。向こうの星にも確かに大地が、地形が存在している。もっと見たい。もっと詳しく見たい。
 月に生き物がいないことは知っているけど、ひょっとしたらと思う。
 誰も住んでいないのは知っているけど、やっぱりひょっとしたらと思う。
 じっーとこのまま見ていれば、何かが動かないだろうか。
 でも、ずっと月を見ていることは難しい。なぜなら地球は自転していて、追尾装置のない僕の望遠鏡の視界を、月はあっさりと横切り消え去るのだから。

 手動で角度を調節し、レンズを覗き込み、視界から月が切れるとまた調節する。見るだけではなく、あそこへ行きたいと思う。でも、あそこへ行くことはとても難しい。なにせロケットが必要なのだ。車でも飛行機でも船でもない、ロケットが。

 しかし、科学がもう少し進めば、僕達がロケットに乗って月に行くことは可能だろう。
 問題なのは、もっともっと遠くの星々だった。たとえば10億光年の彼方、他所の銀河の美しい形を見ることができるのに、そこへ行くことはできそうにない。相対論はロケットを光速まで加速することは不可能だと示唆している。光の速さでも10億年かかる距離を、光速未満の速度で、この100年も生きない生物がどうやって移動できよう。10億光年の孤独にはクシャミも出やしない。

 ワープというマジカルな手段を開発すれば良い、と思わなかったわけではありませんが、「よしワープの研究に人生捧げよう」と思うほどの楽観性も自信も度胸も持ち合わせていませんでした。

 胸をザワザワさせるのは、輝く星の瞬きや、各望遠鏡が捉えて科学雑誌に載せた写真だけではありません。
それらを見ていると、「もしかしたらあの辺には知的生命体が存在していて、スターウォーズみたいな生活が本当に繰り広げられているのではないか」という想像に取り憑かれます。スターウォーズみたいな世界と僕が言う時に指しているのは「他の星にあっさり行けるくらい科学が発展している」というだけのことではなく、「色々な星の住人がみんなで何かしている」ということを含みます。

つまり、僕は星空を見上げると、「あっちでは色々な星の住人がみんなで暮らしているのでないか、しかも超ハイテク付きで」という想像に取り憑かれて、居ても立ってもいられない気持ちになってしまうのです。

それに対して、僕は現代の地球という場所に縛られています。もしかしたら火星くらいには行けるかもしれないけれど、死ぬまでに太陽系を出ることはないでしょう。他の星の住人が作った街を見ることはないでしょう。

 この「閉じ込められた」状況にどうしても耐えられなくなり、どうにか抜け出したくて、一番苦しかったのは中学生のときです。空間を他所の銀河まで移動できないなら、時間を未来まで移動しよう、そうすれば未来の技術で色々な星へ行けるかもしれないと思いました。

 僕たちは過去にメッセージを送ることはできないけれど、未来になら送ることができます。たとえば五万年後にだって「手紙」が残りさえすればメッセージは届きます。
 そこで、僕はタイムマシンを持っていると思われる未来の誰かに宛てて「迎えに来て欲しい」と手紙を書きました。指定した時刻は手紙を書き終えた1分後だったので、上手く行けば僕は手紙を書いた1分後にタイムマシンに乗れるはずでした。

 残念ながら、1分後どころか、それから20年以上経ってもタイムマシンは現れていません。
 手紙もどこかへ行ってしまったので、そのせいかもしれない。
 今なら、Webの海にでも投げ込んでおけば、未来の誰かにメッセージが届くのでしょうか?
 そしたらタイムマシンは1分後に来てくれるでしょうか?
 もう僕はこの時代を生きるつもりだけど。
 もう僕は今ここから、遥か彼方の天体を、僕達の科学の粋を集めて眺めているつもりだけど。

ストレスは”貯まる”のか。

2014-02-02 23:30:54 | Weblog
「抑圧が駄目とも限らないんじゃない?」みたいな会話が聞こえてきて、抑圧という言葉について考えました。
 僕達が何かを我慢しているとき、それはしばしば「欲求を抑圧」というような表現が用いられます。そこには漢字が指し示す通り、何かをギュ~と抑えつけて圧力がこもったようなイメージがあります。まるで、空気をギューッとボンベにでも詰めたように、あるいはバネを押し縮めたかのように。
 そういう「何かを圧縮した」イメージは、僕達の心に窮屈さと不安定さをもたらします。無理矢理空気を詰め込み過ぎたボンベがいつか爆発してしまうように、何かを我慢して抑圧することが重なると、それがいつか爆発しておかしくなってしまうのではないか、というように。

 しかし、そもそもが、これは喩え話に過ぎません。僕達が何かを我慢することと、気体やバネをギューッと押さえつけることは全く別の話です。
 どうして「欲求の我慢」を抑圧という「ギュ~と押し縮める」描像で表現するようになったのかは知りませんが、僕達の心が別に気体でもバネでもないということに留意することは重要だと思います。何かを我慢したからといって、それが「破裂」する心配も、「膨らもうと沸き上がってくる力」を感じ必要も、本当はないはずです。何かを我慢したときは、端的に、ただそれを我慢しただけのことです。

 似たような言葉の使い方に、「ストレスが”貯まる”」というものがあります。
 長い間ストレスに晒されると、本当に体を壊したりするので、このアナロジーに当っている点がないとはいいませんが、ストレスというものを「貯まる」から「発散」するというイメージで捉えるのは実はとても変なことだと思います。ストレスって貯まるんですか? なんというか、そういうバクっとした言葉で、直面している「嫌さ」を表現して良いのでしょうか。本当は「毎日、気の合わない上司に会うのが嫌」なのに、それを「ストレスが貯まる」という風に表現して、「ストレス発散」というこれもバクっとした方法で解決しようとしていいのでしょうか? 本当はその上司のいる会社を辞めるとか、あるいは汚い作戦を立ててその人が首になるように仕向けるでもなんでもいいですが、本当は具体的な問題に対する特定の具体的な解決方法を考えるべきではないでしょうか。なんでもかんでも「ストレス」に読み替え、数ある「ストレス発散」の中から何かをチョイスして実行したところで、その実効性は疑わしいものです。カラオケで熱唱しようが、海外旅行へいこうが、飲もうが食べようが、明日からもその上司に会い続けることには変わりありません。

 このような、「答えたくない質問に答えたフリをするためにちょっと話をずらす」のに似た言葉使いを、僕達は日常生活でかなり使っていて、同時にかなり縛られているように思います。