Philippides.

2008-02-29 16:33:17 | Weblog
 前回の記事を少し補足しておきます。
 「なんの為に人は生きるのか?」という問いは問われた時点で論理的には既に破綻している。とだけ書いて、それが何故なのかを書くのを忘れていました。
 どうして破綻しているのかというと、それは実に簡単なことで、この問いは無限に繰り返される「何故」を繰り込んだ問いに他ならないからです。例えるなら、無限大って数字で言うと何? みたいな問いかけです。ちょっと違いますね。
 子供のときに相手に対して延々と「なぜ」だけを言い続けるイライラするような遊びをされた方も多いと思います。その遊びだかいじめだかが成立するのは「なぜ」と問う人が、延々と何故だけ言っていれば相手を絶対に困らせることができる、と知っているからですよね。随分穿った見方ですが、本質的に人生の意味を問う問いはこれに等しいものです。

 「なぜ」の無限の繰り返しが人を苦しめるのは、それが論理で編まれた世界の中を延々とぐるぐる回り続けるだけだからです。今目の前に「全論理」があるとして、誰かがある「こと」の説明を求めてきたとき、僕達にできるのはその「こと」とは違う「こと」の順列組み合わせを「全論理」の中から選び出して、その「こと」を置き換えるという作業だけです。
 「なぜ」という問いは

 「こと1」は「なぜ」。

 という形で使われ、その答えに

 「こと1」は「こと2」に繋がるからだ。

 というものを要求します。人生の意味は何か。人は「なぜ」生きているのかという問いは、上の形式で、

 「ことN」は「ことN+1」に繋がるからだ。のN→∞とした極値を示せという問いに相当しますが、解は論理空間の中をあちこち行ったり来たりするだけで収束しません。なぜなら問いそのものが「ことN」の次に「ことN+1」を持ってくることをいついかなる場合にも要求しているからだ。「はい、次」としか言わない人はいつまでたっても「はい、次」としか言わない。

 なので、ちょっとずるいけれど「ことN」と「ことN+1」を同じにしてしまって、見かけ上の収束を図るという手がここで現れる。つまり「生きているから生きている」と言い切ってしまうということです。これは一つの特殊な解と言えます。しかし、(「A」とは「なに」か。「A」である。では「A」とは何か。「A」である。では「A」とは何か。「A」である。)の永久の繰り返しが内部で続いていることには変わりありません。停止ではなく足踏みのようなものです。そして、人が完全に同じ場所で足踏みを続けられないのと同じように、このときN番目のAとN+1番めのAは同じではない。たとえば、『私は私である』という文章が書かれたとき、1番目の「私」と2番目の「私」は同じ「私」ではありません。1番目の「私」は「は」で受けられる「私」であり、2番目の「私」は「である」で受けられる「私」だからです。何も文法の話ではなくて、ニュアンスが微妙に違いますよね。同じ「私」という記号を用いて示してはいるものの実体は同じものではありません。「私は私である」というとき、一回目の「私」と二回目の「私」では意識のあり方が微妙に異なるはずです。だから、もしもこの微妙な違いを区別する言葉が与えられれば、僕達は二種類の「私」を別の記号で示すことになる。今は単にそれを持ち合わせていないだけのことです。

 絶対零度にしても量子のゼロ振動が止まらないように、一つの単語やセンテンスだけを口ずさんでいても、意味というのは同じ場所に留まっていない。床の上に1マスが1メートル四方のメッシュを描いて、その一つのマスの中で延々と足踏みを続けることは簡単にできる。だけど、1マスが10センチ四方だったらどうだろうか。隣のマスに足を踏み込んだりしてしまわないだろうか。意味のメッシュを細かくすると、同じ言葉の繰り返しは同じ意味の繰り返しではなくなる。だから厳密に言えばこれは解ではない。

 ここで誤解の無いようにきちんと区別をしておくと「なぜ」という問いは演算子であって、ある値のことではありません。そして、「こと」というのはある値(意味)のことです。上の段落で言ったのは、値(意味)の繰り返しはぶれる、ということであって、演算子の繰り返しがぶれる、ということではありません。足踏みのたとえでは「次の一歩を踏みなさい」というのが「なぜ」に相当し、その「足の着地する地点」が「こと」に相当します。「次の一歩を踏みなさい」という命令は厳密に繰り返され、ただ着地する足の位置だけがぶれていく。

 つまり、「人生の意味を問う」行為は、僕達に「論理空間」の中を延々にぐるぐる回れという命令に等しいわけです。それが狭い範囲であれ、広い範囲であれ。適度なランニングは僕達を鍛え強い肉体を与えてくれる、しかし過剰なランニングは、アテナイに勝利を伝えて直後息を引き取った兵士のように人を殺すだろう。人生の意味を問うことは日々のランニングと同じようなものだ。そこにはゴールなんてないし、必要なら各自であの公園のベンチまで、という風に決めればいい。それにもちろん、ランニングは人生に必要なことでも、高尚なことでもなんでもない。

 前回、こういった問いには答えが無い、と断言した後に、だけど、僕は自分が生きている意味は知っている、と書いていて、それは確かに矛盾したことだ。でも、僕はそれは論理的に書いたわけではないので、矛盾なんてしていても一向に困りはしない。僕の場合は僕の周りに過去や今や未来いてくれている人々を見ていれば、自分の生きる意味は自動的に分かります。問いも論理も入る余地なくして。もちろん、この場合の「生きる意味が分かる」というのは、別に「論理的な意味」を持ってはいないし、生きる意味という問いの答えのことでもありません。

 

 
 

rigid body system.

2008-02-28 17:40:09 | Weblog
 先日「生きている意味」に言及するコメントをいただきました。人がどうして生きているのか、というものですが、ほとんど全ての人が知っているように、この問いに対する答えは存在しません。でも、そこに答えが存在しないというのは別に、望みがない、ということとは関係が無い。
 どうしてかあまり誰もこのことを言わないので、少しそのことを書きたいと思います。

 僕達は少なくとも人生に一度くらい「どうして生きているのか」という問いに取り付かれます。そして、なぜかそれは実に高尚な問いかけのような気分がしてしまい、その答えを知ることが至上命題で、他のことが全部くだらなく見えたりする。 この問いは一見万能だ。人に何かを諭されそうになったとき、「そんなこと言うけれど、でも、そもそも何の為に人は生きているのですか。それを先に教えてください」と言えば、相手はたじたじになるだろう。怯んだ相手を見て、彼はさらに続ける。「ほら結局はそんな人生の基本みたいなことがあなただって分からないんじゃないですか。どうして生きるかも知らないのに、生き方のことを言われたくありません」実に汚い手だ。誰かを貶めるもっとも簡単で頻繁に使われる手段は、その人が絶対に答える事のできない問いを問うことです。そして、生きている理由を論理的に説明することは誰にもできない。

 先に言ってしまうと、「どうして生きているのか」を考えることは別に高尚でもなんでもない。この問いに対する答えを探す、というのは極めて限定された頭の使い方でしかないし、視野狭窄も甚だしい。それで大きな口を叩かれてはたまったものではありません。もしも、この問いを振りかざして大きな口を叩く人があったら、その大口は単に最強のエクスキューズ、ジョーカーカードを使う、という後ろ盾から生じたものに過ぎないと思って良いと思います。

 僕達は毎日沢山の言葉を使って生きている。だからもうこのことは誰もが良く知っていると思うけれど、言葉やセンテンスにはそれ自身に確定した意味はない。もしも僕が「あれはヤバイ」と言ったとき、その文脈を知らない人がこれを聞いたなら、あれが「いい」のか「わるい」のか判断できないはずです。「バカ」という単語だって愛情の表現にもなれば軽蔑にもなる。
 問いかけもこれに同じことです。ある問いが発せられるとき、僕達はその問いの差し出され方に注意を払う必要があります。問いというのは何も答えを見つけるために立てられるとは限りません。特に、このどうして生きるのかという問いは万人に共通であり、かつユニバーサルで論理的な答えがないとほとんどの人が知っています。もしも自分がそれを人に尋ねるとしたら、そのとき自分が相手の返答の中に真実を期待しているのかどうか胸に手を当てて考えてみればいい。たぶんそんな期待はないだろう。その問いによってイニシアティブを取りたいとか、相手の反応を見たいとか、相手の心の深い所に入りたいとか、そういう動機で問いは発せられるのではないだろうか。

 もしも心の底から自分が何のために生きているのかを知りたいと思っていて、その所為で夜も眠れない、というような人があるなら、偉そうですけれど、僕はその問いに答えはないとここで断言しても良いと思います。ではもうそれで終わりなのか、というとそうではありません。僕達は「なぜ生きているのか」という疑問を浮かべるのはどうしてなのか、それは一体どういうことなのか、を考える必要があると思います。問いの答えではなくて問いの出所のほうが重要だということはよくある。なぜなら問いというのは僕達人間の主観によるエゴイスティックな、世界の切り取り方に過ぎないからです。この一体なんなのか分からない世界を、僕達は日々自分勝手に編集して生きていて、それに関しては自覚的な人が多い。だけど、何かに疑問を持つときだけは無自覚になってしまうことも多い。「問い」というのは無機であり無垢であり客観的な道具だと考えてしまう。それはとんでもない間違いで、本当は問いの立て方で全ては決まる。

 「どうして人は生きているのですか?」という問いかけは、ぱっと見た感じでは破綻のない文章だけど、実質的には「数字の1と四分音符ではどちらが臭いですか?」という問いと同じ程度には破綻している。もちろん、ここに色々なこじつけを当てはめて個性的な答えを楽しむというのはありだけれど、それはそれに過ぎない。論理的には完全に破綻している。
 だから、僕達は本当はどういう問いを立てるのが良いのか、そこからはじめなくてはならない。
 それから、僕は大体のところ自分が何のために生きているのか良く分かっています。

she speaks acrimoniously.

2008-02-27 19:59:58 | Weblog
 これは僕の基本的なスタンスですが、「なんだってやってみなくては分からない」というのは本当だろうけれど、だからといって「やりたくないことでもやってみなさい」というのは変だし、やってみなくちゃわからないというのは「やりたいことはやってみればいい」という風に使われるべきだと思います。
 世界は複雑だし、人生は複雑だし、一体どの選択がどう災いに転じたり幸福に転じたりするのかは誰にも分からない。でも、だからといって何かを選ぶときに自分の意志を除外する必要は無いし、やっぱりどうするのがいいのか、どうしたいのか、ということを考えて選択を行いたい。
 こういう風に書くと誤解があるかもしれません。
 僕は別にしたいことだけをするのがいいとも思っていないし、僕自身大抵のことにはこだわりがないので、どうでもいいような態度で物事を決めることがあります。ただ、嫌なことを無理矢理人にさせるのはやめたほうがいいのではないか、ということを言いたいだけです。

 先日中学の部活動について書いて、いくらか反応を貰いました。中学校での部活動が義務的だったことに戸惑いとストレスを感じていた人は結構多いのだと思います。中学の教師をしている知人に聞いてみると、「昔は義務だったけれど、今はもう違う」ということでした。良かった。
 先日の記事には「昔の自分に今の考え方を伝えたいけれどそれはできない」と書きました。改めて考えてみるとこれは実にエゴイスティックな考え方です。昔の自分には伝えることができないけれど、もしかしたら今の子供に伝えることはできるかもしれないからです。おこがましいのは分かっているけれど。でも、いくら青二才でもなんでも、少なくとも僕は子供よりは物事が分かっていると思います。大人になるに従って心が雲って見えなくなる、みたいな話をする人もいるけれど、そんなのは大嘘だし、長く生きるに従って僕達は研ぎ澄まされる。

 僕はまだ自分自身があまりに未熟で、とても人に何かを教える立場ではないし、それに他人のことにはあまり興味がありません。ところが、塾講師のアルバイトをしていたとき小学生や中学生を目の当たりにすると教えたいことが溢れるように湧き出してきて驚きました。僕の教えたかったことというのは学習塾で教えるにはかなり害があるようなことばかりだったと思うし、仕方無しに僕は極めて控えめに仕事をしていました。

 そういえば、この塾でアルバイトをしていたとき、一度小学生の女の子が僕のところへ怒りながらやって来たことがありました。曰く「先生の所為で学校のテスト間違ったじゃん」。それは理科のテストだった。彼女はかなり賢い女の子だったので僕が教えたことはきちんと理解しているはずだし、一瞬僕が何か間違ったことを教えたのかと思った。でもそんなはずはない。自慢ではないけれど僕は小学生のとき誰からも天才だと言われるくらいには理科ができたし、大学院生にならずしても小学生のときにだってその単元を教えることはたやすくできただろうというくらい自信があった。
 結局それは明らかに学校の先生の間違いだった。その子はもちろんくだんのテストとそれにまつわるプリントを僕に見せてくれたのだけど、それは滅茶苦茶なものだった。その先生が頑張ってプリントやテストを作ったのは見て取れるけれど、残念なことに内容は滅茶苦茶だった。僕だってそれなりに頑張って教えているのに、同じ単元を学校でそんな滅茶苦茶に教えられてはたまったものではない。これは僕がその先生に連絡をつけるか何かしたい、と最初は思ったけれど、いかんせん一介のアルバイトだし、連絡をするさいには塾の名前を使うことになるし、色々面倒があるかもしれないと思ってそれはやめにして、その女の子にメッセンジャーを頼むことにした。まず塾にあった理科のテキストを何冊か見せて、どれに書かれていることも僕の言ったとおりであることを示して、それから学校の先生を論破できるように、どうしてそうなるのかを事細かに説明した。彼女は目を見張るように賢い女の子だったので、後日先生にそれをきちんと伝えてくれた。

 僕がそのとき思ったのは、こんなに賢い子でもやっぱり学校の先生の言うことが正しいと思うのだ、ということです。僕にオーラがないだけのことかもしれないけれど、でもちょっと考えればその先生の言っていることがおかしいと、僕の助言なんてなくても本当は気がついたはずだと思う。
 彼女はとても賢い女の子だった。でも、学校ではシャーペンを使ってはいけないだとか、ベルがなったときには椅子に座っていなくてはいけないとか、そういうことにはとてもうるさくて、そういうところを見ているとやっぱり子供なんだなと思った。学校というのは彼女をすっかりと覆っていた。それは見ていて非常にもどかしいものだった。

simple.

2008-02-26 00:55:12 | Weblog
 バイオ燃料のジェット機が試運転か何かという記事を見て、すこし変な気分になりました。バイオ燃料の発達ってどうしてこんなに遅いのでしょうか。発達というかなんというか、植物から油を絞るのはずっと昔からやっていたことですよね、きっと。素直にその油を燃やしてエンジンだとかなんかを動かすほうが、地下深くから原油を掘り出して、それをプラントで精製して使うよりもずっと簡単に見える。今、基本的には石油で世界は進んできて、そうしてこれからその「代替燃料」としてバイオ燃料に手が伸びたわけですけれど、そうじゃなくてもともと世界が植物の油を燃やしてここまで来ている可能性の方が大きかったのではないかと思うのです。その方がシンプルで簡単に見える。そして誰も石油なんてわざわざ掘らなかった。植物オイルで動く高性能エンジンを作り、植物オイルからプラスチックを作る。そういった世界。どうして石油なんてわざわざ掘るようになったのだろう。

 同じようなことが電気自動車に関しても言える。もともと発明されたのは電気自動車の方がガソリン自動車よりも早い。昔はバッテリーが貧弱なものだったので、あっという間にガソリン自動車が世界を占領したけれど、エンジニアがもっと電気自動車に固執していればバッテリーだってもっと早く発達しただろう。
 なんとも奇妙な気分を拭いされないのは、電気自動車はガソリン自動車に比べれば馬鹿みたいに簡単に作れるからです。これはちょっと想像して頂ければすぐに分かります。エンジン一つとっても、その機械的な設計、素材の開発、オイルの開発などがあり、さらにエンジンにガソリンを噴射して送り込むキャブレターを設計し、状況に応じた最適な噴射量を計算し、エンジンを冷やすためのラジエーターを作り、排気ガスを外に送り出すマフラーを付け、排気ガスの毒性に注意をして、エンジンの騒音を抑える工夫をして、まさにテクノロジーの結晶です。
 ところが、電気自動車ときたら全く簡単なもので、モーターとバッテリー、以上です。今からガソリン自動車のメーカーを立ち上げるのはかなり大変ですが、電気自動車なら中学生にも作ることができます。バッテリーが良くなかったから、ということを無視した場合、今までのガソリンエンジン技術って一体なんだったんだ、という気分がどうしても少ししてしまいます。もちろんそれはそれで、そこからのスピンオフもたくさんあったのだと思いますが。でも、その労力をバッテリーの開発につぎ込んでいたら、という気持ちも少しあります。

 これは結果論に過ぎないけれど、良く考えれば50年前に予想して計画できたことなのではないかとも思うのです。もしかしたら僕達は目先の何かにとらわれてばたばたあちこち動き回っているだけなのかもしれません。一番大事なことは人間関係に尽きるので、別にガソリンエンジンの時代が駄目だったということを言いたいわけではないです。どんなテクノロジーの元に生活していても、だいたいは等価だと思います。無駄でもなんでもない。

 ただ、無闇矢鱈に簡単なことを難しくしすぎていることに気が付いていないことがあるのではないかと思います。先日インドで空気で動く車を発売するという報道がありました。タンクに空気を圧縮して詰め込んで、その圧力で走るわけです。子供のおもちゃの延長というかあまりにもシンプルというか。

 こういう一見シンプルな技術が実用化され始めているのは、その裏にとんでもないハイテクの蓄積ができたためなのかもしれないけれど、不思議な気分は消えません。冷蔵庫もまだヒートポンプもものがほとんどだけど、コンプレッサーで媒体圧縮してって、うるさいし21世紀の製品には全然見えませんよね。冷却性能が劣るので普及していませんが、ペルチェ素子という、もう電気を流せば熱を動かすことのできる半導体があって、一部の小型冷蔵庫には使われています。将来的には機械的に動く部分というのはどんどん減って、なぞのマテリアルでできた固体が何でもこなすようになるのだろうと思います。ハードディスクからフラッシュメモリに移行するように。それはもう魔法のような世界で、それこそ時計を分解して機械の仕組みを学ぶみたいな実体験的学習は減るのだろうけれど、人類はそのころには別の学習手段を習得しているに違いない。

fifth part.

2008-02-25 11:29:17 | Weblog
 ジュリアン・ジェインズの本を、途中でやめたといいながら、またパラパラと見てみるとどうして古代の文献は詩の形式で書かれているものが多いのかということが分析されていました。それは二分心における神の声は右脳の働きのよるものだからだ、ということです。興味深いことに左脳に障害を負った患者で言葉を話すことができなくなった人も歌は歌うことはできる。昔の詩というのはもっと音程に強い意識が向けられていた。

 もちろん、これも唯の推測に過ぎないと著者は書いているけれど、やっぱり面白い本だと思います。

 古代の人々は今の僕達がもっているような時間の観念もないし、ましてや一生なんていう概念もなかった。なのにああした年代記みたいな詩が残っているのは右脳の働きである神の声がそれを語ってくれたからだということです。その人自身は自分という意識も昨日という記憶も持たない、ただ右脳から流れ出す詩にそれが語られている。自分は無知であり神は全知全能だった。べつに昨日あったことやなんかを神の声は言っているだけなんだけれど、無意識で記憶を持たない「私」にとってそれは知られていないことなので別世界のことを神が語ってくれているように聞こえた。

 こういう話を読んでいると、なんて昔の人は哀れな、とポストモダンに生きているにも関わらず現代の感覚で思ってしまう。積み上げてきた自分の人生を知らないなんてと。もちろん、無意識で生きているのと意識的に生きているのではどちらが良いのかという議論はできないけれど、やっぱり今の僕にとって過去が全部消えてしまうような無意識生活は恐ろしく思える。だから想像してちょっと怖くなっていたのですが、考えてみれば未来の人類から見れば僕達も同じような状況にあるのかもしれません。つまり、未来の人類は意識より上位の仮に「メタ意識」とでも呼べるようなものを獲得していて、「昔の人ってメタ意識なかったらしいよ。かわいそう」みたいな感じになるのではないでしょうか。多分そうなるのだと思います。そのとき、もしかしたら今の僕達が持っている「自我」だとか「記憶」というものは、古代人の「神の声」に相当するなんだか得体の知れない野蛮なものとして捉えられるのかもしれない。これも多分そうなるのだと思います。

 肝心な部分を読んでいないというか、どうして神の声が聞こえなくなって意識が芽生えたのかという章をちらりとしか見ていないので、詳しいことはわからないのですが、ざっと見たところ神の声から意識に移行した理由は社会が大きくなって制度の維持が神の声ではできなくなったからです。5人が一つの像を見て幻聴を誘発され、それで集団ヒステリー的に同じ意図を持った神の声を聞くことは容易いですが、1万人となると話は変わってくる。文明や社会の進歩が人から神の声システムを奪って意識を与えた。これがだいたい3000年前くらいだというのがジェインズの説です。それが本当だとしたら、僕達はきっと次のステップを持っているのだろうな。情報化とハイテク化が進んで、テクノストレス症候群が発生して、携帯のメールを四六時中チェックして、引きこもりになったり欝になったり自殺したりする人の数が急激に増加して、もしかしたら僕達の用いている現行の「自意識とか記憶とかで生きる」というシステムは崩壊へ近づいているのではないかとも思います。ちょっとこれは言いすぎかなとは思いますが。でも次に何かがあるのだとしたら、それはどのようなものだろうと、想像ができないものであっても考えないではいられない。

p.f.

2008-02-25 01:11:06 | Weblog
 僕は中学生のときサッカー部に所属していました。でも、練習にはほとんど出たことがありません。いわゆる幽霊部員というやつです。僕の通っていた中学では部活動は義務だったのか、あるいは実質義務だったので、全生徒がなんらかの部に所属していました。僕にとってはこれは理解不可能なことだった。僕としては授業が終わればすぐにどこか学校の外へ遊びに行ったり、家へ帰って本を読んだりしたかったのですが、なんと放課後にまで学校の中でスポーツだとか囲碁だとかをしろというわけです。そういうことが好きな人はそういうことをすればいいと思う。今となっては必死に毎日放課後の練習に出て、みんなで全国大会を目指すみたいなことをやてみてもそれはそれで良かったのかもしれないなと、ときどき思わなくもありません。でも、僕はそういうことの好きな子供ではなかった。

 中学生くらいの年齢の子供社会には独自の構造があるので(たとえば女子は先輩が視界に存在する限り繰り返し挨拶をしていたり)、部活動にいかないというのはもう許されざる行いだった。毎日のように、今日はちゃんと出ろだとか、どうしてこないのかとか、そういうことを同級生からだけではなく教師からも言われるので、僕は毎日結構なストレスを感じていました。今なら色々とうまく説明できるし、それらの小言もどうでもいいことだけれど、当時は学校の存在が僕の中でも大きかったし、彼らをうまく説得するなんてできそうになかった。恥ずかしいけれど告白すると、僕は中学1年生の夏休みが終わる日、夜眠る前に泣きました。不思議なことにみんなは夏休みだというのに毎日のように学校へ行って部活動に励んでいて、僕ときたらたったの一度もその練習に参加していないし、また明日からの練習にも行くつもりがないし、それはもう一体何を言われるか分かったものではないからです。みんなは僕のことを理解しなかったけれど、僕にとってみればみんなの方が異常だった。周りの人がほとんど全員異常なところへ明日からまた通うのだと思うとうんざりした。振り返れば高々それくらいのことで泣くこともないだろうと思うけれど、当時はまだ12歳か13歳の子供だったのです。

 もちろん、部活以外の点ではみんな比較的まともに見えた。僕も成績は良くて、クラス委員だったし、比較的順調な学校生活だったと思う。放課後になって帰るときだけ、僕は小言に耐えながら素早く学校を後にした。放課後の僕は悪者だった。結局3年間部活動にはほとんど関わっていないので、たしか卒業アルバムの部活コーナーに載せられた集合写真でも欠席扱いになっていたと思う。3年生のときはいつも遊んでいた友達4,5人とサボって帰っていたので、その友達も全員欠席になっていたと思います。3年になるころにはそういった比較的だらけた友達も増えて図太くなっていたので、部活動のことはほとんど気にならないようになっていました。

 それにしても、学校というのはなんて窮屈なところだったのだろう。当時の自分がそれに負けそうだったことをとても悔しく思います。でも、当時の僕はその程度のものだった。あとから考えればなんでもないようなことに随分な重圧を感じていた。もしも昔の自分に連絡が付くのであれば、色々なことを教えたいと思う。むろんそれは不可能な話だ。だけど、今の僕が未来の自分の力を借りることはひょっとしたらできるのではないかと思うことがある。きっと今も自分は10年後の自分が見たら笑い飛ばすような壁にぶつかって凹んだり怖がったりしているのではないかと思うし、それなら10年後の自分を先取りして、10年後の自分ならどう思うだろうかと考えるのも、ときには何かの助けになるのではないかと思うのです。

high.tech.

2008-02-24 21:32:37 | Weblog
 今日は友達が出展するというので宝飾品の展示会へ行ってきました。ホテルにジュエリー関係の人達が集まってがちゃがちゃ話をしているところを始めて見たのですが、専門家同士がある対象を前にしてああだこうだと会話しているところは実に興味深いものです。僕には良くわからない部分が観察され、僕には良くわからない評価基準で、僕には良くわからないテクニカルタームでの会話がなされるわけですが、そういう人々を目の当たりにすると頼もしいというか色々な人々が色々なことを深めたり作ったりしているのだ、ということが実感として湧いてくる。僕は僕の担当分野で傍目に頼もしいなと思われるようになりたい。と素直に帰り道反省していました。

 友達はまだこの世界ではとても若いのだと思いますが、他の人々の作品とは何かが決定的に異なっていて、それはもちろん彼の個性故だろうけれど、でも僕は時代だとか世代のことを考えないではいられませんでした。ある時代において、そのモードに則った作品が意識的無意識的にたくさん作られて、あるとき誰かがそこからはみ出したものを差し出す形で世界というのは進んできた。

 最近、テクノロジーの進化について「行けるとこまで行こう」という気分を持っています。すこし前までは、もうテクノロジーの進歩なんていらないのではないかと思っていました。そんなことよりももっと大事なことがたくさんあるだろうと。
 もちろん、テクノロジーの進化なんかより大事なことはいくらだってあります。だけど、なにもそんなのけちけちすることもないなと最近は思うのです。人類の頭脳がどこまで行けるのか、ちょっと見てみたいと思う。

 未来というものに対して、僕はそれなりに明確なビジョンを持っています。それはイメージなので文章で表現なんてできないけれど、たとえばcorneliusのPVを作っている辻川幸一郎さんや、あるいは少し前にテレビで流れていた「からだ巡茶」のCMがちょっと近いような気もします。グリーンでクリーンでピンクでハイテクな世界。

 そういえば聞きたい音楽も結構たくさんyoutubeにあるので、もはや音質にこだわらなければ僕達は世界共通の音楽ライブラリーを手にしているような感じもあります。だから好きなバンドの名前なんかを入力したら勝手にyoutubeを探してそのバンドの曲を自動的に流してくれるソフトでもあればいいな、と思ったのですが、やっぱり大抵のことは誰かがすでにやっていて、検索して見るとそういうサイトがありました。結構便利です。(なぜかデフォルトのプレイリストがアダルトな感じだけど)

http://www.videoevolved.com/








cern.

2008-02-20 16:41:15 | Weblog
 一部の物理学者はどきどきしながらその時を待っているわけですが、今年は物理学史上に残るビッグイヤーになる可能性が非常に高いです。欧州原子核研究機構
(CERN)で本格的に稼動する大型ハドロン衝突型加速器(LHC)がヒッグス粒子というものを見つける可能性が結構高いからです。ヒッグス粒子というのは質量を生み出すメカニズムに関わる粒子で、これが見つかると物理学の標準理論が完成してしまう。一部の修正事項を無視してあえて大袈裟に書いてしまうと、標準理論は今のところ重力を除く全てを説明することができている。つまり現在人類は標準理論で説明できない現象を知らない。重力に目を瞑ると、半分これは究極の理論で、宇宙の全てを説明する理論です。すご過ぎるけれど、僕達はそういう時代に生きています。

 もっとも、物理学者はこれで探求を終わりにできると考えていません。重力やなんかの問題は残っているし、標準理論で終わりではすることがなくなってしまうので、必死で標準理論で説明できない現象がないか探しています。

 僕はこれでも一応物理学者志望で、というか本当はいい加減に胸を張って物理学者ですと言えるようになるべきですが、それなりに究極の理論や究極の理解ということに思いを馳せるときもあるので、今日はそのことについて少し書いてみたいと思います。

 昨日ジュリアン・ジェインズのことを少し書いたけれど、彼は「比喩」というものを語るときに、「比喩とは単なる例えのことなのか?」という問いかけを即座に打ち消し「比喩とはそんなにちっぽけなものではなく、もっと重大なものだ」と言っています。曰く「我々が何かを理解するというのは、我々が何かを身近な比喩で表現することに成功したときだ」

 人はときどき『「分かる」というのは一体どういうことだろう?』という疑問に取り付かれますが、その答えの一つがこれだと思う。
 「分かる」というのは自分がその対象を身近なものの比喩で置き換えることに成功したときに生まれる感覚のことだ。

 僕はジェインズのこの記述を見て、そうか、とちょっと衝撃を受けたのですが、考えてみれば昔ヴィトゲンシュタインを読んでいたときに「説明とは何かの本質を示すものではなく、ただの比喩のことにすぎない」という分析を読んでガツンとやられたのをすっかり忘れていただけのことでした。昔ある衝撃とともに知ったことをすっかり忘れて、もう一度同じような文章で衝撃を受けるなんて、なんて間抜けなんだろうと思う。

 兎にも角にも、僕達の「わかる」という感覚が「身近なものへの比喩」と極めて似ている、いやこれでは言葉を濁し過ぎですね、「分かる」というのは「比喩」そのものだという観点からすれば、実は僕達物理学者の求めている究極理論というのはもしかすると砂上の楼閣にすぎないのではないかという疑問が当然のように湧いてきます。

 ここで誤解を招かないようにきちんと断っておきますが、僕は我々の世界に対する理解が比喩の成功不成功に依存するような曖昧なものである以上、人類が究極理論を手にすることはできない、あるいは手にしたとしてもそれは幻だ、ということを言いたいわけではありません。

 物理学は科学であり、科学には厳密な決まりがあります。それは現実的な実験観測でデータが取れて初めてある程度の正しさが認められるということです。だから理論はそれを証明するような実験を考えて実際に測定されてみないことには真偽を確かめることができない。もちろん、「でも実験できなくて測定もできないようなことの中に真理があるかもしれないじゃないか」という意見だってたくさんあるとは思う。それは正しい。だけど、とりあえず科学者は「実験観測で見えるものだけ」を相手にすることに決めたのだ。そういう流儀にしようと。だから科学が絶対に一番正しい真理への道なのだ、なんてはっきり言ってほとんどの科学者は考えていない。単にこれがいいんじゃいかなってくらいの感覚で実験と観測に重きを置いている。もしも観測できないところに真理があるなら、科学は真理に到達しないだろう。ならそれはそれで仕方ない。そういう腹の括り方のことです。

 だから、実験観測を重んじるという意味合いで科学が、物理学が標準理論を手にしたら、それは実際に我々のこの宇宙を説明するだろう。あくまで人間から見たこの世界であれなんであれ、兎に角理論は完璧に現象を予測するし、技術とともに多種多様な新しいものを作るだろう。科学のいう究極というのはそういうことです。それは形而上の問題に立ち入るものではないし、理論が予測を行い実験の結果に完全に一致すればそれで全てOKです。

 閑話休題。
 理解が比喩にすぎないというのであれば、我々の世界を理解しようという意志は最終的にこの日常生活に還元されなくてはなりません。つまり、リンゴがテーブルの上で転がった、みたいなことに。だけど、このリンゴの運動というのは実際にはニュートン力学で記述される現象であって、言ってみれば物理学を物理学で例えて分かった気になっているにすぎません。ならばこれは理解ではなくて例え合いのどうどうめぐりでしかない。僕達の「分かった」が比喩であるのなら、この宇宙に住む僕達はこの宇宙の中で起こっているある現象を他の現象で例えること以外にすることがないし、それは理想である何かより深いものを知るという意味の「(理解)」とはかけ離れたものだ。科学という意味ではなく、形而上学的に宇宙を理解することを考えると、そこには果てしない閉塞感があることを否めない。でも、いつか僕達はここから出る為の天才的なアイデアを考え付くのかもしれない。
  

bicameralism.

2008-02-19 19:50:59 | Weblog
 途中で読むのをやめてしまいましたが、しばらく前までジュリアン・ジェインズという心理学者の書いた「神々の沈黙」という本を読んでいました。これはかなりインパクトの強い本で、嘘か真かは知りませんが「20世紀でもっとも重要な書物」というような紹介もありました。

 内容は実に過激です。少なくとも僕はこの本を読むまでそういったアイデアを持ちませんでした。一言で言うと

 「人類が意識を獲得したのは高々3000年前くらいで、それ以前の人には意識はなく、単に頭の中で聞こえてくる”神”の声を聞いてそのとおりに動いていた」

 というものです。つまり、古代ギリシャやエジプトの人々には僕達が今持っているような”意識”はなかった。
 卒倒しそうになる意見ですが、一級の心理学者として、いかに我々の生活に意識が「使われていない」のかを最初に詳しく解説し、その上で仮説として「古代人には意識がなく神の声(分裂症患者に見られる幻聴のようなもの。著者は逆に分裂症患者が幻聴を聞くのは古代人の名残だと考えている。)を聞いて行動していただけだ、というものを立てる。ついでその仮説に則って古代の文献や遺跡を分析してみる、というスタイルで、もちろん古代人の意識についてなんて科学的な証拠はないので「これは仮説にすぎない」と著者も何度も書いているけれど、でも面白いです。
 意識を持たず頭の中で聞く神の声に従って行動することを「ニ分心」と名付けていますが、ニ分心でかなりバイアスが掛かっているものの比較的論理的に古代文明が読み解かれます。古代人には神の像は単なる偶像ではなくて本当に神そのものだった。像は幻聴を引き起こすトリガーになっていた。同じように死体も幻聴を起こすトリガーとなっていたので古代人には死者の声が幻聴としてだけど本当に聞こえていた。だからお墓の中に色々な生活用品や食べ物や生贄を入れた。というような視点は僕にはとても新鮮なものです。

 そうだ、無意識はともかく、どうして神の声なのだ、ということを思われる方があると思いますが、この神の声が仮定されたのは古代の文献なんかでは神の声を聞いてどうこうしたという記述が多いためです。それを文学的な修飾だというのではなく、素直に本当に神の声を聞いていたのではないかと解釈したものです。

 もちろん、古代人には意識が無かったという意見はとても過激だし、とんでもない仮説だと思う。だけど、本来は昔の人にもずっと今の人間と同じように意識があった、というのも証拠がない以上仮説にすぎない。仮説というか単なる思い込みで、その昔恐竜の色がトカゲからの類推で茶色だとか緑だっただろうと思われていたのと同じことだ。今は恐竜の色はもっとカラフルだったかもしれないし、よく分からない、というふうに素直に認められている。

 面白いと言いながら、読むの途中でやめたのは、最初の方だけで大体のところは分かったのと、あと遺跡や文献の分析はいかんせん証拠がないので「まあそうかもしれないけれど」という感じを受けるし、本は日本語版で600ページくらいあって結構長いからです。他に集中しなくてはいけないことがあるときに600ページの本を読むのは余程のグルーブ感がある本で無い限り「そうだ、こんなことをしている場合ではない」と我に返ってしまって読み切れるものではありません。でも、とても面白い本だと思います。

ehs.

2008-02-15 17:43:53 | Weblog
 以前簡単に電磁波過敏症について触れました。そのとき多分僕はどうしてみんな「科学的には電磁波との因果関係が証明されていない」というのか疑問だということを書いたと思います。書いてないかもしれませんけれど。電磁波との因果関係を調べるなんて朝飯前に見えるからです。
 もしかすると、すでに「科学的に」因果関係のあるなしが判定されているかもしれないので、たぶん健康関係では一番たくさんの情報収集をしているように思えるWHOのサイトを単純に見てみました。WHOでもプロジェクトを立ち上げて電磁波問題に取り組んでいる様子で、すぐにファクトシートが見つかります。

 WHO、電磁波過敏症に関するファクトシート。

 この中からconclusionsの一部を引用すると

 Conclusions
EHS is characterized by a variety of non-specific symptoms that differ from individual to individual. The symptoms are certainly real and can vary widely in their severity. Whatever its cause, EHS can be a disabling problem for the affected individual. EHS has no clear diagnostic criteria and there is no scientific basis to link EHS symptoms to EMF exposure. Further, EHS is not a medical diagnosis, nor is it clear that it represents a single medical problem.

電磁波過敏症候群の症状は人によって様々である。それらの症状自体は紛れもなく存在しているし、場合によってはとても深刻なものになる。発症すればまともに生活できないということになりうる。電磁波過敏症候群にははっきりとした診断基準もないし、電磁波を浴びることが本当に症状を引き起こしているのかどうかの科学的な根拠はない。それから、電磁波過敏症候群というのは医学的な診断ではないし、体にどこか悪いところがあってこういった症状が出ているというわけでもない。
(訳責 横岩)

 やっぱり電磁波を浴びることが症状を引き起こしているのかどうかは科学的に分かっていないみたいですね。どうしてだろう。症状が重篤でない患者さんに協力してもらって、電磁波を当てたり当てなかったりブラインドテストをすればすぐに因果関係の有無は分かるはずだ。いろいろな国でそれなりの研究機関が調べていて因果関係が科学的に分かりませんというのは一体何故だろう。僕には信じがたいことです。

 本当に誰もこれくらいのことをしていないというのなら、これくらいのことは僕がしようかと思う。

 動物実験だとか、病理学的なアプローチがたくさん取られている様だけれど、もしも本当に電磁波を浴びて困っている人がいるのであれば先に因果関係だけでもはっきりさせておかなくてはならない。本当にそういった病気があるのに病院に行っても「気のせいじゃないですか。ストレスとか」みたいにあしらわれているとしたらたまったものではありません。かつて人類は本当に存在している病気のことを見逃して偏見をたくさん生み出してきました。これは史実ではないけれど、僕は子供のときドラえもんで、そうか、と思う話を見ました。のび太の祖先である少年がドジなので村人からまぬけ呼ばわりされていたのですが、「近眼で何も見えていないからだ」ということに気がついたドラえもんが眼鏡をあげた瞬間、その少年は急になんでもバリバリこなすようになるという話です。たぶん当時のその村には近眼の人が他にいなくて、近眼という概念が存在していなかったのだと思う。僕はそれを見てちょっとぞっとしました。村人はみんな、その少年にも同じように物が見えているはずだと思い込んでいるし、少年の方もそう思っているはずです。誰かが近眼という概念を発見しないかぎり、その溝は絶対に埋まらない。誤解だけがどんどん積もっていく。あの人は近眼でこれが見えないからこれができないのだ、という理解ではなく、間抜けだからできないのだという理解しかされない。
 僕達は自分の感じている主観的世界を他の人々と共有することができない。故に毎日たくさんの誤解が生まれているはずだと思う。そういうことはできれば少ない方がいい。