青が好きないとこ。

2005-02-27 21:50:41 | Weblog
 とてもお腹が空いていて、いい加減何かを食べなきゃならないと思いながら内田先生のブログを読んでいたら、こんな下りがあって頭を殴られた思いがした。

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キャリアパス的思考のピットフォールというのはここだと思います。
18歳や20歳のときの幼い想像力が描いた「アチーブメント」とか「サクセス」の呪縛に未来をまるごと投じることのリスクを過小評価してしまうこと。
これに尽きると思います。
それは自分の未来の未知性、「自分がこの先どんな人間になるのかを今の自分は言うことができない」という目のくらむような可能性を捨て値で売り払うということに等しいのです。
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 ただでさえお腹が空いてフラフラとしていたのに、加えて頭をガツンとやられたのでクラクラとした。
 僕は小学生の頃から漠然と科学者になりたいと思っていました。でも、どうやら勉強が好きだという性格ではないし、今のところは理系失格といってもいいような有り様です。だいたい高校生の頃からこっち方面は向いてないのではないかと散々に悩んだし、他にこれなら熱中できると思う事やなんかもいくらか見付けた訳ですが、でも僕の中に存在している、もっとも基本的な価値判断の基準が「科学者」に設定されていて、どうにもそこから抜け出す事ができそうにないのです。

 そうして、多くの時間を不毛なことにつぎ込んでいるのかもしれない。

 こういった心配を常に抱え込んでいて、もしたしたら手にすることのできた他の可能性を、僕だって26年も生きていればそれなりに想像したりするわけですが、こうして文面で「自分の可能性を捨て値で売り払う」と書かれるとどきどきしてしまいます。

 かつて真島昌利は「あきらめきれぬことがあるならば、あきらめきれぬとあきらめる」と歌を綴りました(もともとは江戸時代の歌かなんかだそうです)。
 僕は、その教えに従いどうにかこうにか遅々とした歩みを続けている訳ですが、もしかしたら袋小路に向かって歩いているだけなのかもしれない。
 でも、まあ、袋小路に向かっていようが太平洋に向かっていようが、僕は生きている訳で、何もその期間死んでいる訳ではないので、それはそれで大した問題でもないような気もします。

 今日は少しだけ掃除をしました。
 

万国博覧会。

2005-02-19 16:04:52 | Weblog
 何気なく耳にした一言が、全然重要なことに見えないのに、何故か絶対に忘れられなくて、あるシチュエーションになると必ず頭の中に蘇る、ということが結構あります。

 これは、僕が昔書いた小説の中にも使ったネタなのですが、高校のとき化学の先生が

 「人間は大きく分類すると、”入れることに満足を覚えるタイプ”、”出すことに満足を覚えるタイプ”の二つに分けられると思う。つまり、食べるか、出すか、とういうことだ。私は”出す”方だ。」

 というような話をしていたのを、僕はそれ以来何年もトイレに入るたびに思い出してしまう。

 他にも色々と、こういったフラッシュバックは起こって。それまでなんとも思っていなかった人を誰かが「かわいい」と言っているのを通りすがりに聞いて、それからその人を見るたびに「かわいい」という言葉が脳裏に発生して、なんだかその人のことが段々と好きになってしまったり、パソコンのマウスを使うことが躊躇われたり、ストローに水を吸い上げてみたり、僕達は日々そこらじゅうから耳に入る言葉と何かを関連つけて、時に縛られたり、プロモートされたりして生きているわけです。

 こういうのを多分、言霊と呼んでも、呪いと呼んでも構わないと思う。多分、呪いだというほうがより正確ではないかと思うけれど。もちろんいい呪いだってあります。「君はにんじんが好きになる」とか。

 呪いと言えば、僕は占いというのも呪いの一つだと思う。
 占いというのは未来を見通すものではなくて、誰かの未来を宣言することによって、彼や彼女達に知らず知らず「そうする」ように仕向ける力を植えつけることだ。
 だから、本当はもの凄く責任のある仕事だと思うのです。

 昔の友達が、彼とはもう連絡すらとれないのですが、特に強調したわけでもなく、さらりといったことのなかで、二つだけどうしても忘れられないことがあります。

 「大橋マキって感じいいね」
 「髭剃りジェルをつけるときは水使わないほうがいいような気がする」

 この2つです。
 きっと彼はもっと重要なこともたくさん言ったに違いないのですが、僕はなぜかこの2つしか良く思い出すことができません。

 それで、何年も経ってから僕はブログを作るにあたって、ヤフーで”ブログ”と検索をかけたのですが、そうすると”著名人のブログ”というカテゴリーが出てきて、その中に大橋マキblogというのがあって、それをみるとすぐにその友達のことを思い出して、それで(アナウンサーだということ以外)どんな人なのか知らないけれど彼女のブログを読んでみると、今はアナウンサーじゃないそうで、でも色々なところを取材したりして暮らしている様子で、興味をもっていたものを実際に彼女が取材していることが多いのでときどき覗くことにしています。

 随分、前置きが長くなった。

 今日、大橋さんのブログを見ると「愛知万博を取材した」とありました。
 僕は全然詳しくはないですが、万博ファンで、実は愛知万博が楽しみで仕方ありません。
 テーマがなんとなく愛、とか環境とか「良い子と青少年のためのイベント」みたいに見えるのであまり受けがよくないのか、周囲の人々にいっても全然明るい反応が返ってこないのですが、僕は本当に万博が楽しみです。

 ジャーナリズムの人達はいいな、と思いながら彼女のレポートを読んでいたら、ますます万博に行きたくなりました。

 僕が生まれる前の話で、もう絶対に1970年の大阪万博にはいけないけれど、この2005年の愛知万博はもうそこなわけです。何十年に一度のことだから、もっと盛り上がればいいなと思う。何十年に一度というだけで、もう中身がどうであれ盛り上がればいいと思う。
 昔テレビでみた、どこかの県のお祭りは「72年に一度だった」だいたい一生に一度の祭りだということになる。前にどういう風に祭りを行ったのかは老人達が「うっすらと覚えているだけ」なわけです。そして、自分が大体二十歳もすぎていれば、「僕はもう一生この祭りをみないのだ」と永遠を感じながら祭りを体験するわけです。
 番組を見たときすごく感動しました。

 人生において「ハレ」と「ケ」をどれくらいの配合にするのかはとても重要なことだと思う。

 それから芥川賞とかアカデミー賞とかカンヌとか、毎年はやりすぎじゃないかなとも思う。
 4年に一回くらいでいいんじゃないだろうか。毎年そんなにすごいものができるとは思えない。
 

アミーゴ書店の軽快な午後。

2005-02-17 20:54:11 | Weblog
 最近、堀江社長がやけに気になります。といっていたら劇団HANAFUBUKI藤堂さんも「最近堀江社長が気になる」とブログに書いていた。前にも同じようなことがあったような気がする。

 なんとなく、堀江社長を見ていると、僕らはみんなお互いに目隠しをし合っていて、しかも、お互いに「道は曲がりくねってるし、しかも凸凹だし、気をつけて、歩くのは大変だよ」と言い合っていて、そんな中彼だけは目隠しをしていなくて、さらに道が本当は真っ直ぐなのを知っているように見える。

 価値観や、あるいは競争社会よりも分化のない社会を好むとか、そういったことは色々ありますが、僕は少なくとも彼のやり方から見習うべきことを沢山発見しました。これからももっと活躍して頂きたいと思う。

 それで僕は今日も堀江社長の社長日記を読んでいたのですが、なんとなくとても引っ掛かることが書いてありました。

 それは去年大流行した「冬のソナタ」という韓国のドラマに関することなのですが、引用させて頂くと


 「・・・番組制作面でのネットと放送の融合という面では韓国がブロードバンド先進国としてかなり先走ってやっている。たとえば先日韓国のKBSのプロデューサー氏から聞いた話だが、冬ソナだって、視聴者からのメールなどでの要望で、途中で脚本を変更したりするそうだ。つまり視聴者が見たいものをオンデマンドで作っている感じなのだ。韓流ブームってのは、たんなるブームではなく、ネットがある意味良質なドラマ作りに寄与している結果なのかもしれない。・・・」

 僕には、これがいいことなのかどうか良くわからないのです。
 分からないと言うか、なんだかとても不気味な感じがする。

 冬のソナタというドラマを僕は見たことがないけれど、元々のライターが仕上げた脚本が視聴者の意見で変わるというのはどうにも腑に落ちない。

 例えば、本を読んでいて、とても好きなキャラクターが死にそうになったとき、「どうかこの人には死なないで欲しい」と思ったら実際にストーリーが変化してその人は死ななくなって病気から回復したりするわけです。
 これって小説ですか?

 新しい形態の小説なのだよ、君は古い、と言われればそれまでだけど、でも、僕は多分古い小説しか読まないだろうな、と思う。ストーリーを自分の妄想でドライブしたくない。

 もちろん、僕は何も否定しているわけではなくて、単に奇妙な感じがするといっているだけです。僕は、宮藤官九郎が書いた脚本の方が僕の妄想よりも好きだと思うし、村上春樹が書いたストーリーの方が自分の妄想よりも好きだと思う。それだけのことです。

 大勢の人の妄想で出来上がったストーリーを、大勢の人が観る、というのは人類史上未だかつてない自慰行為じゃないかと思う。
 文学まで民主主義の始まりだろうか。


リサは夏が待てなくて3歩だけ前に出た。

2005-02-16 23:59:13 | Weblog
 JRに乗ると、トイレの付いている車両だった。

 僕は誰かがこの中に入って用をたすのを見なかったけれど、でも時々は誰かが、このペラペラな壁の向こうで人類の抱える生理的な問題を解決したりするわけです。

 そして、まあ当然だけど彼や彼女の廃棄物は、僕の乗っているこの車両のどこかに一旦ストックされる。つまり、僕はそういうものと一緒に時速80キロで京都の街を駆け抜けているわけです。

 もちろん、人間の排泄物というのは、この世界のいたるところに存在している。
 僕のお腹の中にも、あの人のお腹の中にも。
 僕は電車に乗っている人々を見た。
 それが全部、人間ではなくて排泄物の詰まった袋だったら、僕はあまりこの電車に気持ちよく乗ると言うわけにはいかないな、と思う。
 でも、まあ普段は気持ちよく電車に乗っている。
 人間と言う形のカバーは偉大だと思う。 


ランダウ広場で祝杯を。

2005-02-10 14:17:19 | Weblog
 南の方から吹いてくる風を沢山吸い込めばいいんじゃないかと思って窓を開け放った。谷川俊太郎が言った通りに連続でバトンタッチされた朝。異国のおやすみを受けて、僕は窓からおはようと言ってみた。何が起こるにせよ、僕らに朝は今到来し、身を切るような冷たい空気の中をちっぽけな鳥達が移動した。
 南から吹く風はそれでも冷たかった。1000年も昔に誰かが誉めたのと同じ山並みを見つめていると、遠くの方で猫が鳴いた。確かに時間は過ぎたのだ。

 神戸女学院大学の内田樹先生が、「ブログの作法」について何か書いて下さい、というオファーを受け取った、とブログに書かれていました。僕は最近ブログを始めたわけですが、その作法というものに時々頭を悩ませます。特にトラックバックというものは、相手のブログから自分のブログにリンクを張る装置なのですが、これは人の家の塀に、勝手に自分の店の広告を張るようなものです。だから、手順としては当然、先にその家の人に断るべきだと思うのですが、でも、ブログの世界ではどうやらそれが普通に行われています。ブログを作るなら、つまり家に塀を造るなら、落書きや張り紙は覚悟しなさい、というわけです。

 これは大抵のブログのヘルプにある「ブログの使い方」を読んでみても、トラックバックを打つときは、単に「相手のトラックバックURLをコピーしてペースト」というようなことが書かれているに留まり、そのままヘルプを読み続けると「迷惑なトラックバックは削除することができます」と書かれている事からも覗えます。みんな好き勝手にやって、嫌な思いをした人は自分の責任で自分のケアをして下さい、という万人による万人の闘争が起こり得る環境となっている。
 もっとも、これらは常識的な礼儀が前提の上で考案されていると思うけれど。

 このブログも、少し躊躇いながら内田先生のところよりトラックバックを引いています。
 ご迷惑でないといいと思う。

 僕はトラックバックを受けたことがまだありませんが、もしもあればきっと嬉しく思うのでお願いします。


 最近やけに堀江社長のことが気になります。それで、昨日初めて堀江社長のブログを見てみました。忙しくて派手な生活。
 堀江社長はホリエモンという競走馬を所有しているそうです(こんなこと今では大抵の日本人が知っているに違いないですが)。僕は馬主というのが一体どういったものなのか良く知らないので、簡単に調べたのですが、馬主というのはとてもお金が掛かる上に、どうやら儲かるということはないそうです。世界最強のなんとかという馬の馬主でさえ赤字だそうです。基本的は馬主というのは「馬を買って、調教師に預けて、レースに出るのを待つ」ものだということ。

 これを知って、僕はこういうのを本当に「所有」というのかどうか疑問になった。何千万円も払って馬を買っても、基本的にその後は普通の競馬を見に行く人とそんなに変わらないように思うのです。ただ、レースをみて「僕の馬が走っている」と思い込むことができて、それが嬉しいということになります。

 もちろん、それでも嬉しいには違いありません。
 例えば、数年に一度しか使わなくても別荘を所有することは、数年に一度リゾートホテルに泊まるよりも、人間の精神に深い満足感をもたらすことがあります。車だって、滅多に乗らなくてもタクシーやレンタカーを利用するよりは買った方が嬉しいものです。
 「所有」において大事なことは「やろうと思えば自分の自由になるのだ」という思い込みをお金を払うという経済的な儀式を通じて得る事だと思う。

 僕らは経済社会に生きているので、お金を払うというのは実に強力な儀式になり得る。
 昔、読んだ禅の本に「どれが自分の物でどれが自分のものでない、などと小さいことを言うな、全部捨て去れば良い。全部捨て去ると自分の物だ、人の物だ、と言わなくなる。そしてその境界が消えると言う事は逆に全部が自分の物だという事でもある。全部捨てれば即ち全てを得るのだ」というような事が書かれていたけれど、全部自分の物だといっても人の物を勝手に使う訳にはいかない。もっとも悟りを得ていればこんな文句は言わないのだろうけど、我々凡夫はどうあっても「本当に自由に使える権利がないと意味がない」と考えてしまいます。

 そこで経済教の儀式を執り行います。
 僕らは形式的なものに過ぎなくとも、「お金を払う」という行為を行う事で、自分が本当に何かを得たような気分になれるのです。
 それは、我々人類の大半が経済社会に生きていて「所有」という概念が経済的法的な意味合いにおいて最も広く共有されているからです。ここでは自分が「自由に使用できるかどうか」ではなく、「所有権を持っているか」ということがポイントになり、世間にはそういった価値観が普及している。極端な話、たとえ自分が一生に一度も乗らないフェラーリを買って、それを友達が毎日借りて行ってしまっても、誰かの前で「あのフェラーリは本当は僕のものなんだよ」と言えればそれでいい、ということだって有り得ると思うのです。この場合、自分が本当に所有しているかどうかよりも「人が私に所有権を認める」ということが大事になります。

 馬主の場合は、馬を所有するということの他に「競馬を支えている」ということも関わってくるので、車や何かと同じではありませんが、やっぱりどこか釈然としない。

内田樹の研究室

チョコレートマニアの憂鬱。

2005-02-09 15:20:46 | Weblog
 久方の光のどけき春の日にしず心無く花のちるらむ。

 まだとても寒いのに何故か最近頭を離れない。

 VJという存在がいつ頃からのものなのか知らないけれど、今や大概のクラブイベントにはDJとVJがいて、欲張りなことにDJが一人でVJを兼ねる為のDVJなる器材まで売られています。

 昔、とある友達と「何か新しいことしたい。DJ、VJって要は聴覚と視覚はもう大体ある訳で、次って何が来るかな? 後は人間の感覚としては味覚と嗅覚と触覚が残ってるけど」という話をしたことがあります。味覚は、まあ食事のできる所も多いので、これも既に存在しているものとすれば残るは嗅覚と触覚ということになります。

「触覚はちょっと何していいのか良く分からないけれど、嗅覚の方はお香とか使えばなんとかなるんじゃない、アロマジョッキーとか言って、えっとAJ」

「AJ、なんかぱっとしないな。うーん。ぱっとしない。それにみんな煙草も吸うし、匂いなんかよっぽど強くしないと分からないんじゃないの、そしたら煙とかすごくてやばいことになるんじゃない」

「そっか、駄目だな」

 なんて言っていたのですが、大橋マキさんのブログによるとアロマ用の立派な機械が存在していて、それからアロマジョッキーとは言わないみたいですが、そういったパブリックなスペースにおいて香りをコントロールすることは結構普及してきている様子です。それで悔しい事に大抵のことは進んでいるアメリカ合衆国においてはもう随分前からメジャーだということです。

 匂いと言うのは人間にとって生命線である呼吸にダイレクトに影響するので、それを上手くコントロールすることは相当に難しいのではないかと思います(匂いが気に入らないからといってずっと息を止めているわけにはいかない)。雑貨屋かどこかでお香を買って来て、うきうきしながら火を付けたけれどなんだか臭くてすぐに火を消したという経験は随分多くの人が持っているのではないかと思う。

 もちろん、すでにお店ではアロマを利用するところも多いですが、それは言わば音楽で言えばBGMのようなものです。でも、AJのアロマはそんな半端なものではありません。人の気持ちをコントロールしようとする企みを含みます。音楽と映像と連動して、例えば音楽が最高潮に達してBPMはカウンターの限界を突破し、映像はもうグラングラン、照明ビリビリ、スピーカーは飛んで、フロアは不確定性原理を打ち破って世界の裏側に突き抜けようという時にとても強いシトラス系の香りを放つ、というのもそんなに悪くはないんじゃないかと思うのですが。

 うーん。AJ。どうかな。

 言葉が出たついでに書くと、僕らが立っている床が壊れない事は実は古典的なニュートン力学では説明できません。どうしてかというと、たぶん多くの中学生や高校生は「原子と言うものは原子核の周りを電子が回っていて、原子核がプラスで電子はマイナスだから引き合って、その引き合う力が電子の遠心力と釣り合っているから原子は壊れないで存在することができる」と習うと思うのですが。これっておかしいと思いませんか。僕は長年疑問に思っていて、大学生になってようやく謎が解けたのですが、
普通、釣り合っているものに力を加えたらバランスが崩れて壊れる筈です。僕らが今床の上に立っているとすると床を構成する原子には僕らの体重が掛かるわけです。そしたら単にバランスが取れているだけの原子なんて壊れてしまうんじゃないか?

 この問いはもっともなもので、ニュートン力学に基づいて考える限りでは原子は壊れてしまいます。
 そこで登場するのが量子力学で、なんと「物体の運動量と位置を同時に正確に決める事はできない」というちょっと滅茶苦茶な理論が鮮やかに僕らが床の上に立っていられる理由を説明してくれます。

 これは式にすると (運動量の曖昧さ)×(位置の曖昧さ)≒ h

 と書く事ができます。hというのはプランク定数と呼ばれるとても小さな定数で、どれくらい小さいかというと0.000000000000000000000000000000000663です(ばーっとやったので一桁か二桁違うかもしれませんが、それくらい気にならないくらい小さい)。

 僕らが床の上に乗って原子を圧迫すると、ギューっとなるので(位置の曖昧さ)が少し減ります。そうすると全体の値を保つには(運動量の曖昧さ)が大きくなる必要があります。これはまあ電子の動こうとする力が増えるようなもので、その力で僕らの足は押し戻される訳です。

 ニュートン力学はとても日常的で人間の感覚に近いけれど(押したら動くとか)、でも実は僕らが床に立っている状態すら説明できないわけです(でもアポロはニュートン力学で月に行きました)。世界と言うのは色々やっかいにできているんだなと思った。

大橋マキBlog

青色だけがうつった写真。

2005-02-07 16:34:13 | Weblog
 亡くなった祖母のことを頑張って思い出していた。
 頑張ってというのは、祖母がなくなったのはもう随分と昔のことで、僕がまだ名古屋に住んでいた頃だから、幼稚園に通っていたか、大きくても小学校に上がったばかりの話で、それに僕の一家は祖母と一緒に暮らしていた訳ではないので、僕はそんなに祖母と長い時間を過ごしてはいない。

 とは言っても、もちろん僕が祖母と一緒にいたことは事実で、曖昧な記憶ならばいくつかは持っています。でも、それらの記憶は本当に遠い遠い記憶で、本当にそういったことを僕が体験したのか、あるいは誰かが僕に話して聞かせたり、写真を見せたりして、それで僕が勝手に記憶を作り上げているだけなのか判然とはしません。
 本質的にはそんなのどっちだっていいことで、僕がダイレクトに体験したことであろうと、いい聞かせられたことであろうと、僕らがそういった記憶を持っている以上、歴史はそうあったのだと断言したって多分問題はないのだろうと思う。

 多くの人が語るところによれば、祖母は初孫ということもあって僕を本当に甘やかしてかわいがってくれたようで、それは僕の記憶とも一致するし、その乳幼児期における「おばあちゃんこ」的なものは今でも強く残っています。
 たぶん、多くの人が神頼みをする場面で僕はおばあちゃん頼みをしています。亡くなったのは祖母(母方)だけでなく、父方の祖父も亡くなっているので、両方に頼みます。神様じゃなく(もっともそこら辺の神様にだって頼み事はするけれど)。
 逆に自分が情けないことをしたときは祖父や祖母がどう思って見ているだろうかと考えてしまいます。
 
 もうすぐ田舎で祖母の法事があり、僕は祖父から、是非とも法事には参加して、それから従兄弟達に亡き祖母がどのような人であったのかを僕の口から伝えて欲しいと頼まれました。従兄弟達の中で僕だけが唯一祖母の生前を記憶しているからで。祖父が何かを頼むなんてことはほとんどないことなので、僕は僕には分からない歴史の中の一部としてなるべく確実にその役目を果たそうと思った。法事の翌々日はまだ全然書いていない論文の提出期限で、普段ならばまたの機会にして欲しいところだけど、今回は延期する気分にはなれない。僕は色々な人の助けによって辛うじて成立しているわけですが、祖父には多大なる恩恵も受けているし、僕はいい加減自分が貰ったものを返していかなければならない年齢になったと思う。


エアポート。

2005-02-06 21:01:10 | Weblog
 昔、西部講堂で行われた第1回目の「ボロフェスタ」というイベントで少しだけ手伝いをしたことがあります。今が第何回目なのか僕は正確には知りませんが、でもそれは素敵な音楽と文化に関するイベントで、せっかくいいものがたくさんあるんだからみんなで一緒に楽しみましょう、というような主催者の精神がひしひしと伝わってくるせいか、沢山の人達を巻き込んでボロフェスタは着々とどこかへ向かって進んでいる様子です。僕は京都に住んでいて京都のことしか分かりませんが(それだって僅かに)ある季節になるとどこからかボロフェスタに関する情報が耳に飛び込んできます。

 このボロフェスタを企画運営する中心団体はにしき屋という名前で、それからその中にはロボピッチャーというバンドがあって、さらにその中には加藤さんというやや感傷的だけど天才的な感覚で文章を書く人がいて、僕は彼のブログを時々読ませて頂くわけですが、その中に、「古い知人から立て続けにメールが来た。そういう時期なのだろうか」というようなことが書かれていて、それを読む寸前に田口ランディさんのブログで「いつも電話なんて全然鳴らないのに今日は一日中電話が鳴りっぱなしだった。こういう日がたまにある」というような日記を読んだばかりだったので少し変な気分になった。

 確かに僕にもそういった日はあります。
 まるで誰かがスイッチをカチッと入れたかのように、その日に限って色々な人から連絡があって、そして大概何かから僕は救われているのだと思う。

 一見ランダムに見えるような物事にも実は偏りがあって、例えば僕の友人が研究しているようにランダムな事象が何かしらのパターンを形成していくというのは近頃ではよく知られた話です。僕らが今利用しているWWWにしても、雑多なネットワークの発展に伴いリンクやアクセスがやけに集中するサイトやあまりリンクのないサイトが生まれます。
 だから人からのコールが極端に多い日と少ない日が僕らの人生の中に忍び込んで来るというのは本当はそんなに不思議なことじゃないのかもしれません。でも、僕はあまり元気のない日に沢山のコールがあると世界の背後には目には見えない不思議な力が働いていて実際のところ僕らを導いたり助けたりしてくれているんじゃないかと、神の存在すら信じてしまいます。

ロボピッチャー( http://www.robopitcher.com/ )
田口ランディブログ;アメーバ的日常。

モスグリーンに設定されたきれいな鳥の一生。

2005-02-06 12:33:05 | Weblog

 「言葉で言葉を超える事はできるのか?」

 というコピーを帯びた本が売っていて、それは僕の好きな思想家が関わった本なのでしばらくは何の疑問も抱かなかったのですが、後になってふと思った。

 「言葉を超えない言葉なんて果してこの世界に存在しているんだろうか?」

 僕がときどき相談相手になってもらう思想家の先生は「絵画には言語では説明しきれないものがあるがそれが何を説明しているのかということを言語で説明する」という難行の実践に頭を悩ませていらっしゃいます。ややすればこれは自己矛盾に陥ったテーゼだとも言えるけれど、僕はこれを追求することが不毛だとは全く思わない。その行いの内には新しい言葉と意味が生み出されると思う。言葉の世界はAでないならAでない、と断言して終われるものではないと思う。AでないならAでない、と断言する行為全体と、AでないけれどAだとしたら、と思考する行為全体が初めて意味を形成するような気がするのです。

 そのスタンスが一番正しいと思うので、言葉というものの定義を曖昧にしたまま話を進めますが、僕は全ての言葉はそれを誰かが発した時点で、あるいは耳にした時点で、言葉を超えた付加的なものを身に纏うと思うのです。
 そうして僕らは言葉という「記号」を常に「象徴」に変えながら、付加された部分を読み取ったり読み違えたりしてコミュニケーションをするのだと思う。

 ホームズは言った。
 「どうしてあの夜犬が鳴かなかったのか分かるかい、ワトスン君。みんな何が起きたのかということばかりに注目して何が起きなかったのかということには注意を払わない。でも今重要なのは何が起きたかではなく何が起こらなかったのかということなのだよ」

 昨日彼女が言わなかった言葉を僕は考える。

チップス先生、スポーツカーを買う。

2005-02-04 02:14:54 | Weblog
僕の部屋にはカーテンというものがありません。けれども、それでは窓がないのか、というと勿論僕の部屋にだって窓の一つくらいはあります。窓の外には小さいですがベランダだって付いています。カーテンがないというのは語弊があるかもしれません。僕は布でできたカーテンは持っていませんが、紙で作ったカーテンはあります。ただ、これをカーテンと呼んでも良いのかどうか少し怪しいというだけのことです。

 どうして僕が親が聞けば哀れむような紙のカーテンを使っているのかというと、それは倹約のためというよりもむしろ欲しいカーテンが売っていないという事実に起因します。
 僕はもともとあまり布のふわっとした得体の知れない形状の定まらない質感が好きではありません。そういったものが部屋の壁に大きな面積をとっていると軽く圧迫感を感じます。それでできればプラスチックか何かのソリッドな冷たく表面が滑らかなカーテンが欲しいと思っていたのですが、そんなものはなかなか売っていません。

 そこで僕は一計を案じました。
 ボール紙で折りたたみ式カーテンを作ってしまえば良いのではないか、と。
 ボール紙ならば片面はきれいにコーティングが施してあるのでプラスチックに近い質感を得ることができます。それで3年前に巨大なボール紙を買って窓にぴったりな折りたたみカーテンを作りました。
 一年半前にアクリル絵の具で大きな絵を描いて今ではちょっと異様な感じになっていますが、僕は大きな絵を描くのが好きなので(下手なんだけど)これは作業も楽しいし今まで壁に絵を描くことをなんとなくためらっていたのが半分叶った形で一石二鳥でした。
 みなさんもよろしければどうぞ。完全にオリジナルなカーテンがとても安く作れます。
 
 もちろん窓との間に空気の層を作って断熱もするので寒い冬には昼間から役立ちます。真っ暗になるけれど。
 そういえば作っていたお風呂のほうは、電気では沸かすのに異常に時間がかかるのと、あと試験だとか卒論だとかで気乗りがしないので放ったままになっています。冬を乗り切るために作ろうと思っていたのに、冬も終盤に差し掛かってしまった。