professional toothbrush.

2008-03-28 17:40:53 | Weblog
 右上の親知らずが生えてきた関係でこの間から歯医者に掛っているのですが、今日はトータルに歯の健康に関するカウンセリングみたいなものを受けて、色々と驚くことがありました。
 結論を先に書くと、人間の歯というのはそんなにうまくできたものではないので、一生定期的なクリーニングに通う方がいい、ということです。

 近頃さんざんテレビのコマーシャルで流れているように、歯周ポケットの中の汚れというのは歯磨きではきれいにすることができない。そのプラークで繁殖した細菌が出す化学物質で歯茎は炎症を起こし、その下にある顎の骨が融ける。なんとも恐ろしいことに、この顎の骨の溶解は痛みを伴わずに起こる。一度融けた骨はもう元に戻らないので、歯茎が軽くはれてるとか、歯磨きで血が出るとか、軽い軽い初期症状があればその段階で治療を開始したほうがいい。
 人が歯を失う原因を僕達は「虫歯」だと思い勝ちだけど、実はそうではなくてこうして歯を支える骨が融けてしまうことが主たる原因です。

 これもコマーシャルで流れているけれど、歯周病菌が血液に入って全身に広がりありとあらゆる病気(もう本当にあらゆる。糖尿病も心筋梗塞も)を引き起こすことが近年知られてきたらしいです。たとえば、妊娠中胎児になんとか(忘れてしまったけれど、流産のような悪いこと)を引き起こす原因の第1位が喫煙で、第2位が歯周病菌だそうです。それだとか、人が老衰で死ぬときは肺炎を起こして亡くなることが多いですが、なんとその肺炎の原因は空気中の菌を吸い込んだとか飛沫感染だとかではなくてほとんど歯周病菌だということです。

 ずっと話を聞いていると、まるで歯周病菌が諸悪の根源であるというカルトか何かにも思えなくないけれど、歯科学という一つの立場に立って深く物事を見ていくとこういうことになるんだろうなと納得しました。

 というわけで、親知らずを抜いてもらって、発見された小さな虫歯を治してもらった後も定期的に歯医者さんに行こうと思います。幸いなことにとても快適な歯医者さんなので、3ヶ月に一回行くくらいなんてことない。



27, Mar. 2008 (Thu)
CREST group meeting @ Kyoto Institute of Technology
This meeting and the people really made me jim-jam about study.
After that, I went back to my apartment and A gave me a very nice chocolate.

28, Mar. 2008 (Fri)
Gonna my dentist in the morning.
Then I've been in my office.

あの人は丘の上に住んでいるという。

2008-03-24 00:56:10 | Weblog
 はたして物理学はどこまで行けるのだろうか。と時々思う。
 僕達の限定された認識と思考では、もしかしたらもうこれ以上あまり遠くに行けないのかもしれないなとも思う。でも多分そんなこともないのだろうな。限界まで、はるかに先は長いのかもしれない。
 この世界をコンピュータの中に構築された世界だとすれば、物理学者は今のところCもJAVAもFORTRANもCOBOLも、たくさんのプログラミング言語を理解するようになったと言えるかもしれない。自分達の住む世界が一体どういったルールで動いているのか、そのアルゴリズムとデータ構造と各プログラミング言語の文法を知りつつあるのかもしれない。やがて、僕達は世界を注意深く観察することによって、この世界の限界に見えるような所へ到達するだろう。つまり統一理論のようなものに、でもきっとそれはコンピュータのアナロジーで言えば所詮は0と1だけのマシン語だとかブール代数を知ったというくらいのことでしかないのだろうと思う。もしもコンピュータの中に人類が住んでいるのだとすれば、それより外の世界なんて果たして本当に見ることができるのだろうか。「そうか、全部0と1でできてるんだ」ということで話は終わってしまい、ビットが何で構成されているのか、何によって0と1は担保されているのか、なんてことは知りようがないように見える。半導体の存在と仕組み、各信号を担っている電圧、電磁気の働き、そういったものを想像することは可能だろうか。ソフトウェアの中に住んでいるのだとしたら、僕達はハードウェアのことなんて知ることができるのだろうか。

 これは難しいというか、ほとんど不可能に見える。たとえばある集積回路にとって、1V以下の電圧は0、それより高い電圧は1とする。ソフトの中の人類が、もしもがんばって0と1で全部が記述されていることに気がついたとしても、0という信号を担う電圧が実際には何ボルトの電圧なのかは知りえない、それは0Vでも0.1Vでも0.9Vでも有り得るし、実際の回路を見ないことには電圧は分からない。
 と書きながら、もしかしたら知性をフル活用すればなんとかなるような気分もしています。だとしても、その電流が半導体を流れていて、それが基盤に載っていて、なんてことまではやっぱり分かりそうにないように見えます。

indistinguishable.

2008-03-18 15:19:39 | Weblog
 土曜日の夜、久しぶりに実家でご飯を食べたりお酒を飲んだりしていると、Yちゃんから「お気に入りのラジオが壊れたから診て欲しい」とメールが来て、昨夜大学でそれを修理した。単なる接触不良だったので、いとも簡単に直ったのですが、もしもこの故障原因がより深いところにあった場合、僕はどれくらいのコストを掛けて修理しただろうと思った。お気に入りのということだから、そこそこのコストは掛けてでも修理したのかもしれない。

 原理的に、電子部品がその機能のほとんどを担っているようなものは、直せない、ということがありません。最悪でも部品の特性を一つ一つオシロか何かで測定して、それが正規の値でなくなっていれば、取り外して、新しい素子に交換すれば良いだけのことです。もちろんこれは、原理的には、の話であって、実際には部品の数が多ければそんなこともしていられないので、基盤を焼いて、すべての部品を買ってきて、全く同じ新しい回路を組んだほうが早い。そして、こんなことを言えは実も蓋もありませんが、それなら時間も労力もお金も、新しく同じものを買ったほうが圧倒的に安く上がる。

 もっと大きな問題は、果たして新しい同じ回路がもとの回路なのか、というアイデンティティの問題です。
 たとえばコンデンサを一つ取り替えるだけで済んだなら、僕は「それを修理した」ということができます。でも、回路を丸々作り直したなら、「それを修理した」と言えるのでしょうか。「はい、お気に入りのラジオ修理したよ」って言えるのでしょうか。「中身は丸々交換したんだけど」

 そういえば、僕の今使っているテレビは、そのデザインが気に入って手に入れたものの、あっさりと2ヶ月で壊れてしまい、苦肉の策としてブラウン管も何もかも別のテレビのものと入れ換えました。つまり、機能的には元のテレビの面影は全くないわけです。それでも、僕は見掛けが元のままなので、なんとなくそれを元のテレビだと思っています。

 そういえば、筒井康孝の小説で、身体の悪いところを人口部品に代えていったら、最終的には元の身体のものは歯が一本残っただけで、あとは全部人口部品になりました、この人は誰ですか。みたいなのがあった。

 そういえば、昔ある物理学者が、この宇宙にある電子は区別することができなけれど、それは本当はこの世界には電子がただの一個きりしかなくて、それが同時にあらゆる場所に現れているからだ、という面白いことを言いました。

 素粒子は区別できない。
 区別できないものは「同じもの」なのだろうか。

 量子テレポーテーションで地点Aの電子から地点Bの電子へ状態を転写するとする。このとき実際には地点Aの電子がワープして地点Bへ行くのではなく、ただAの電子が持っていた状態が、Bの電子に転写されるだけのことです。
 だけど、電子はもともと区別ができない。だから、原理的に我々人類は本当に電子がワープしたことと状態だけが移動したことを区別することはできない。さっき僕は「実際に電子が移動するんじゃない」と書いたけれど、それはあくまで推量でしかありません。もしかしたら本当に移動しているのかもしれない。どっちなのかは永久に分からないし、絶対に区別が付かないことを区別する必要はない。

 ここで、地点Aにあった電子に注目してみると、事態はより明確になる。量子テレポーテーションを行いAからBへ状態を転写したなら、Aの電子の状態は量子複製不可能定理によって瞬時に失われる。だから、元のままの電子がAに残っているということは有り得ない。ただの遠隔コピーではないのだ。もしかすると唯の遠隔コピーかもしれないけれど、だとしてもこの量子複製不可能定理のおかげで「コピーと瞬間移動の区別」はできないようになっている。見かけ上、完全にAにあった電子がBへ移動したように見える。

 ここでちょっと注釈ですが、量子テレポーテーションによって「情報」が瞬時に伝わるわけではありません。量子テレポーテーション自身は瞬時に起こるけれど、それと「情報を運ぶ」というのは別の話です。
 相対性理論によって、僕達の宇宙で禁止されているのは「何かが光の速度を超えて移動すること」ではありません。禁止されているのは「情報が光の速度を超えて伝達されること」だけです。実際に光速を超えたレーザーパルスのようなものは実験室でいくらでも作られています。箱にパルスを入れる前に箱からパルスが出てきたりします。だけど、それを使っても「情報」は光速を超えて送ることができない。量子テレポーテーションを使っても、情報は光速以下でしか送ることができない。

 僕はずっと、原理的に区別できないからと言って区別しなくてもいい、というのは変だと思っていました。たとえば恋人にある電子を貰ったら、いくら他の電子と区別が不可能だからといっても、絶対にその電子と他の電子を交換したりはしない。
 でも、こういうのはあくまで人間にとっての重要事項であって、学問的なスタンスでものを考えるときは区別できないなら区別がないのだと考えるほうが正しいなと最近思っています。なぜなら、その区別というのはただの偏見に過ぎないからです。

 幸か不幸か、僕達はこの世界の真実を知ることができません。僕達は人間であり、人間というフィルターそのものであるがゆえに、直接何かを認識することができないからです。人間は人間のものの見方しかできない。それは超音波で世界を見ているコウモリの世界感がなんだかへんてこなものに見えるのと同じ程度にへんてこな世界観でしかない。知るという行為自体が、分かるという認識そのものが偏見の一部なので、何かが分かったと思ったなら、それは即座に「あるものについての人間なりの偏見を得た」と言い換える必要がある。純粋な真理は絶対に知られない。知られたものは真理ではない。そして、ヴィトゲンシュタインが言ったように「語り得ぬものについては沈黙せねばならない」。

 量子力学は人類が手にした物理学の中で最高精度を誇るものの一つだ。たとえるなら、太陽と地球の間の距離を予測してみたら、測定の結果誤差が髪の毛の太さ程度もなかった、というくらいに高精度な理論です。だから、その数学的体系はほとんど完成していて、ただ、その数学の解釈だけができていない。そして多くの物理学者はもう気が付いているけれど、その解釈には意味がない。解釈というのは人間が人間の世界の尺度で何かを例えようとする試みにすぎないし、もはやその程度の比喩の通用する世界ではないのだ。式が何かを示していて、その予測が驚愕の精度で宇宙を説明するのであれば、その”式自体”が物事を表現する頂上にあるもので、それを解釈しようなんていうのは空しい行いなのではないだろうか。それは話の次元を引き摺り下ろす為の議論でしかない。式をそのまま「分かる」以外に方法はない。

 だから、本当に我々が区別する術を持たないのであれば、それは区別できないので本当に同じものである可能性を第一に持ってくるべきだ。
 とは言うものの、将来テレポーテーションの装置ができたとしても、僕はその台には絶対に乗らない。

smoke concentration measurement.

2008-03-17 19:16:27 | Weblog
 最近どうにもタバコの煙が苦手だな、と思っていたのですが、考えてみれば最近どころか僕は子供のとき極度にタバコの煙が嫌いだった。両親は共にヘビースモーカーだったので(父はやめると言ってすっぱりやめてしまった)、今思えば家の中は随分タバコ臭かったはずだ。車にも酔うと思っていたけれど、考えてみれば遠足でも修学旅行でも酔わなかったし、僕の家の車が単にタバコ臭かったから吐いたのではないか、と今から思えば思えなくもない。車の中でタバコの煙を吸うのは子供の頃の僕にとって地獄のようなことだったので、「やめてほしい」と言うのだけど、ヘビースモーカーな両親は「本当に神経質な子供だね。窓開けるからそれでいいでしょ」と言って窓を開けてタバコを吸っていた。そして僕はゲロを吐いた。

 大学生になってある日、推理小説の影響で急に僕はタバコが吸ってみたくなり、自動販売機でマルボロを買って吸ってみた。なんの抵抗もなく、むせたりもしないので、吸い込み方が足りないのかと思って思いっきり肺に吸い込んでみたけれど、やっぱり何の抵抗もなかった。これも今から思えば、僕が子供の頃から副流煙をたくさん吸っていたお陰なのではないかと思えなくもない。

 タバコについて長らく不平を溢していた僕がタバコを吸うのを見て両親は吃驚していた。でも、僕は単に推理小説の登場人物がタバコを吸うところが格好良かったので吸い始めただけで、半年も経たないうちに飽きてやめてしまった。
 でも、別にタバコをやめたのはタバコが嫌いになったからではないので、僕の部屋に来た誰かがタバコを吸うことを禁止したりはしなかった。それが今では耐えられない。クラブやバーに行って服に付いたタバコの臭いも耐え難い。いつの間にか、大人になってタバコの臭いに慣れていたはずなのに、また子供の頃みたいにそれを毛嫌いしているのが不思議でしかたない。

 もう一年の後に僕は30歳になるけれど、最近いろいろなことが一回りして、子供の時の自分が強く現れてきているような気がします。仕舞っておいた箱を次々に開けるような、そんな気分です。

 (僕の周囲にいる人でタバコを吸う人はそんなに気にしないでも大丈夫です。そんなに極端なものでもありません。ただ一時期は全然気にならなかったのに不思議なものだ、というくらいのものです。)

m.

2008-03-15 14:56:22 | Weblog
 春になって、空けた窓から昼間の月が見えた。ちょうど半分きりの半月。

 また1年が過ぎて、今年も東山花灯路がはじまります。来週行くので、それとなく花灯路のサイトを見ていて、そこに参加している知恩院のサイトも見てみると『ミッドナイト念仏』なるイベントを発見しました(有名だそうですが、僕は知りませんでした)。なんと国宝三門楼上で夜の8時から翌朝の7時まで念仏会をするらしいです。4月18日金曜日の夜で、参加費無料とのこと。国宝仏教建築の中で夜中に唱えられる念仏。どれだけデコレーションを凝らしたクラブよりも異空間性が高いのではないかと期待してしまいます。これは行くしかありません。
 このリンクに簡単な説明と写真があります。
 http://fm-kyoto.jp/topics/kyonokyo/2006/04/19/000708.html
 

 そういえば、同じく宗教系の行事で、鞍馬寺のウエサク祭にも是非行きたいなと思うのですが、今年2008年のウエサク祭っていつなんでしょうか? ちょっと調べてみたのですが、良く分からないので、どなたかご存知の方があれば教えて頂けると嬉しいです。  

岡本華紗子 高田侑以子 『二人展』

2008-03-06 00:05:51 | Weblog
 次のページに行ってしまったので、もう一度。

 岡本華紗子 高田侑以子 『二人展』

 2008年3月4日から9日 12:00~19:00(最終日は18:00まで)

 @ギャラリー恵風
  京都市左京区丸太町通東大路東入ル一筋目角野村ビル2F
  ℡ 075-771-1011

 そういえば侑以子ちゃんはウェブにいくらか作品をアップしているので、よければこちらも見てみてください。
 http://www.yuiko.org/

Laplace.

2008-03-05 22:00:41 | Weblog
 僕は今大きく見ると量子情報処理の分野にいるのですが、大御所の一人にSeth LloydというMITの教授がいます。名前は良く目にするし、論文もちらっと読んだことがあるけれど、最近彼が一般向けの本を書いていることを知ったので、ちょっと読んでみることにしました。"Programming the universe"というタイトルで、副題が"a quantum computer scientist takes on the cosmos"、とありなかなか挑発的です。内容は量子コンピュータに関心のある人なら誰でも知っているようなことがほとんどなので、あまり面白くはないのですが、せっかく買ったからなあ、と思って歯磨きをするときやなんかにパラパラと見ています。

 先日CERNと標準理論の話を書いたときに、Tが、ラプラスの悪魔がついに君臨だね、というようなコメントをくれた。ラプラスの悪魔というのは別に邪悪な何かのことではなくて、「今の宇宙の全状態が分かり、かつ完璧な理論があれば未来永劫宇宙がどうなるのか完全に分かる」という感じのものです。そのときは人類が完全な理論で宇宙の行く末を予測可能になるのに近づきつつあるのかな、と思ったけれど、重要なことを一つ忘れていました。

 その重要なことが、Lloydの本に書かれていました。

 「宇宙を完全にシミュレートするコンピュータを作ると、それは宇宙そのものになる」

 これは何も、人類にも宇宙が作れる、という意見ではなくて、「宇宙のことを完全に予測したければ、宇宙そのものを作ってみるしかない」というなかなか絶望的な意見です。そして、100億年先のことを知りたければ、100億年待つしかない。

 これが本当かどうかは分かりません。
 たしかに、この宇宙全部の情報を記録、あるいは表現する為に必要なビットはこの宇宙全部をもってしてじゃないと与えられない。でもどこかで圧縮できないのかな、とも思います。

a cup of noodles.

2008-03-03 17:31:18 | Weblog
 東京のAから、絶対見るようにと言って古いカップヌードルのCMが送られてきた。




 僕達というのは本当に進化しているのだろうか。進化という言葉に御幣があるとすれば、変化しているのだろうか、という気分になる。

 高校生のとき、僕は本人とは面識がないけれど、友達の友達がCMをビデオに録って集めているコレクターだった。そういう人達が今どんどんとネットにアップロードして、お陰で僕達は巨大な情報の塊にアクセスできる。もしも僕がCMを社会の関係を読み解く社会学者や何かだったら、ここであっさりと数十年前のCMを動画で示して、それに解説をつけるということができるわけです。これは信じられないくらい便利なことですね。

 それで、カップヌードルのCMをはじめ、ポカリスエットだとか色々なCMを見ていたのですが、途中でふと糸井重里さんのことを思い出しました。別に糸井さんがコピーを書いたCMを見たからだというのではなく。僕の好きなCMのたくさん作られた年代がもしかしたら「糸井仲畑一行百万円」の時代なのではないかと思ったからです。それはバブルだといえばバブルなのかもしれないけれど。

 糸井さんが、彼のもっとも有名なコピー「くう ねる あそぶ」を日産のコマーシャルに載せたのが1988年で、その同じ年には「となりのトトロ」のコピー「このへんないきものは まだ日本にいるのです。たぶん。」というのも書いている。これは「もういない」だったのを宮崎監督が直したという話もあるけれど、それにしても完璧なコピーだし、最後の「たぶん。」なんてもう憎いくらいのものだ。
 僕は1988年には9歳だった。だからこの時代に流れていたコマーシャルを懐かしく思うだけなのかもしれない。でも、なんだかやけにドラマチックでロマンチックに見えてしまいます。