公的な青少年の支援という枠組み

2010-11-27 21:56:03 | Weblog
 青少年の活動を支援する、というような目的で存在している、ある公共施設で働く友人からメールが届いた。

 そこには、大学生の青年が施設にやって来て署名を集めていたら「政治活動と宗教活動はここではできない」と言われてやめさせられたのだが、一生懸命な青年の活動をやめさせるのは変ではないだろうか、ここは活動を支援してあげる施設なのに。がんばってやってるんだから何でも支援してあげればいいのではないか。ということが書かれていた。

 その人は、他の職員が全員「政治と宗教はダメ」と疑うことなく普通に思っているようだったので、話す人がいなくて、僕なら分かってくれるのではないかと思った、とメールを送ってくれた。

 友人の職場では、具体的には青少年達がやってきてバスケットボールの練習をしたりダンスの練習をしたりフリーマーケットをしたりするらしい。そういうことが税金を使った公共の施設が行う公共性の高い青少年の活動の支援らしい。
 公共とは一体なんだろう。政治とは本来社会全体のことを考えるもので極めて公共性の高いものだと僕は思うのだけど違うのだろうか。
 少なくとも極めて個人的と言えるスポーツの練習やダンスの練習、と、政治に関わる署名運動のどちらがより高い「公共性」を持っているかは火を見るよりも明らかだと思う。
 しかし、そこで働く職員達はそういうことを考えないようだ。「政治と宗教はここではダメ」でその先は理由も何もない。
 「決まりだからダメ」で終わりなのだろう。思考の枠組みが。



 規則というのは最初から自然に存在しているものではなく、過去に誰かが何かの為に決めたものだが、誰がいつどういう理由で決めたのか、それが今も妥当なものなのかどうか、そういうことには職員の人は興味はなくて、単にルールとか「そういう空気」がそこにあるからそれに従って働いている。
 そうすると何も考えなくて良いので仕事の知的付加が下がりストレスが減る。バスケットボールをしに来た子供達に「本当にバスケが好きだなぁ、ちゃんと勉強もしてよー」とか軽口を叩いて、わたしはスポーツする子供と触れ合っていい仕事をしているなぁ、とかだけ思っていればいい。
 そういうのはとても楽だ。
 スポーツとか子供との触れ合いとか、そういった社会的に無条件に「良い」と見なされているものにだけ関わって何も考えないのはとても楽なことだ。そして多分楽しい人にはそれが楽しいのだろうと思う。だからそれはそれでいい。
 でも、そこへ政治のことを考えているというような青年がやってきたとき、その人たちには対応できないしバックアップすることなんて全然できないのだろう。「あっ、なんか面倒な人が来た、政治と宗教はダメって決まってるから帰ってもらおう」
 
 どうしてスポーツやカルチャーは良くて、政治と宗教はダメなのだろう。
 それは政治と宗教には社会を本当に動かす力があるからだ。実は僕たちは政治と宗教の中で生活している。それは空気のように、普段は存在を意識できないくらいに普遍的に僕たちを覆っている。それはあまりに長い歴史と強い力を持つので考えるのが面倒で、実は一部の人々が政治と宗教を支配していて自分たちは年貢を取り立てられる農民のように暮らしているのだということを僕たちは直視しないようにしている。ある程度の自由は身の回りにあるし、食うに困らないし、結婚もしたし、子供もいるし、海外旅行もしているし、結構楽しいし、だから実は何かの支配下で生きているのだとしても、まあいいや、見ないことにしよう、社会ってみんなで生きていくのだからそういう風に我慢するのが当たり前じゃん、とか思っている。生きるというのはそういう風に何かの支配下で耐えることで、その”お陰で”、耐えている”お陰で”すてきな家庭とか車とかを持てるのだ、と思っている。
 もしくは本当に社会のことが見えていない。信じがたいことだけど、まるで磯野家の人々のように、自分の日常生活以上のことが本当に見えない人たちが存在している。

 政治を考える青年は、もしかしたらただの目立ちたがりかもしれないが、少なくとも、何かが見えてはいる。そういう人間には活動支援施設は支援をしてくれない。
 支援施設はスポーツとかカルチャー教室のような社会的には無力で安全なものにしか力を貸してくれない。
 体制が体制を維持するためにはそれは当然のことかもしれない。
 ある一定の広さを与えて、その中でだけ自由に考えさせる、本当は自由じゃないということは悟られないように、囲いが見えないように。
 囲いを指摘する者があれば、なるべく早く排除する。みんなが囲いの存在に気づくと一揆のようなことが起きて制度が崩壊して支配者は地面に引きずりおろされるからだ。

 公共施設が支援している青年活動には全部そういう側面がある、ということはそういうところのお世話になる人は頭の片隅に置いておいた方がいい。

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宗田理、映画とシナリオ、映像と文章

2010-11-27 21:11:32 | Weblog
 そうか、そういうことだったのか。
 彼は映画監督になりたかったのか。

「私は、終戦後間もなくアメリカ映画を見たときのことを思い出した。当時田舎にいた私は、その映画を一本観ただけで映画の素晴らしさに感動し、将来は映画監督になりたいと決心した。
 私はためらうことなく、日大芸術学科に入学した。私の夢はいろいろな事情で実現しなかったが、いまこの映画が、あのときと同質の感動をあたえてくれたことで、私の心は満たされている。」
(宗田理、映画「ぼくらの七日間戦争」パンフレットより)

 小学生の時、”ぼくらの七日間戦争”をビデオで何度も何度も観た。台詞を全部覚えてしまうくらいに見た。当時、僕は探偵小説に影響されて少年探偵団を作っていたのだけど、その友達も台詞を覚えるくらい何度もこの映画を見ていたので、僕たちはいつでもこの映画のシーンを再現することができた。

 この映画の原作が小説で、それがシリーズだということもすぐに知ったけれど、僕は映画のイメージを壊したくなかったのでしばらくは原作を読まなかった。
 だんだんと我慢しきれなくなってきて、まずは”ぼくらの七日間戦争”そのものを読まずにその続編(ぼくらの大冒険だったかな?)を読んでみた。
 おもしろかった。
 おもしろかったし、映画のイメージを大事にしたいのと同じくらい小説の中のイメージも膨らんだので、そこで堰が切れて僕は”ぼくらシリーズ”を読み始めた。

 いつ頃まで”ぼくら”を読んでいたのか、良くは覚えていない。多分、”ぼくら”が海外遠征をするようになった頃、話が陳腐に思えてきて新刊を待つのをやめた。

 高校生のとき、友達に「ぼくらシリーズが好きだった」と言うと、彼は「あー、あれ、なんか友達が、あんなの小説じゃないって馬鹿にしてた」と返答した。
 小説じゃないってどういうことだろうと思ったけれど、面倒だったし、なんか自分が小説のことを全然分かっていないのかもしれないし無知をさらけ出すかもしれないと思って言わなかった。今なら、「えっ、あれ小説だけど。小説じゃないってどういうこと、その人って日本語読めるよね?」とか返せるけれど、当時はまだ小説や文学といったものについて自分は何も知らないと思っていたし、そういったものが格好を付ける道具の一つでもあったので下手なことは言えなかった。馬鹿みたいだけど「もしかしたらダサいかもしれないこと」は口にできなかった。

 先日、本屋でたまたま”ぼくらの七日間戦争”が目についたので、十数年ぶりに開いてみた。
 なるほどな。
 小説じゃない、というのはもしかしたらこういう意味だったのかもしれない。
 書き方が、シナリオや脚本に似ていた。描写がシンプルすぎるところがあった。
 僕は今、小説で複数の人間が集まって話をしているところをどう書いたら一番うまく行くか考えているところだから、ちょうどそういうところに目が行くのだけど、この小説では登場人物の多い場面で実にあっさりと

「なんとか」
 とAが言った。
「なんとかかんとか」
 とBが言った。
「なんとかだ」
 とCが言った。
「なんとかは?」
 とDは言った。

 みたいに書かれていた。
 だから小説じゃないわけではないけれど、たしかにこれは脚本に似ているとも言える。

 一昨日何か映画でも借りようとTSUTAYAに行くと、やっぱり七日間戦争が目について、ついでにこれも借りた。

 ちなみに本命として「ゾンビ・ドッグ」という映画を借りたら、全然ゾンビに関係なくて、C級すぎて途中で見るのをやめました。
 冴えないアル中のシナリオライターが原稿を書けなくて狂気に堕ちていく話です。後からネットで調べてみると、最後の方では主人公の狂いっぷりが凄いらしく、一部の人たちには絶賛された映画らしいです。僕はそういう狂気にはあまり興味がないので途中で見るのをやめて良かったなと思う。
 ただ、主人公が車でひいてしまい、死体を捨てた瞬間に不思議と生き返ってきた犬が、不思議にしゃべるのだけど、犬はソフトバンクのCMとかみたいに演技も何もしなくて、ただ普通のかわいい犬が座ってるだけで、主人公も最初は「しゃべっているっていうけれど口も動いてないし」とか突っ込むんだけど、そしたら犬は小さくてかわいい犬なのに野太いおじさんの声で「私はテレパシーで話している」とか言って、そのまま映画が進められるのが面白かった。台詞をかぶせているだけで、映ってるのは勝手にしてる普通の犬なんです。その様子だけでも見る価値はありました。

 閑話休題。
 七日間戦争のDVDには劇場公開時に販売されていたパンフレットが特典として収録されていました。
 そこで冒頭に引用した文章を見つけたわけです。
 映画の勉強をしていた人だから、脚本っぽさが小説に出ていても不思議ではないなと、高校のときに友達に言われたことの謎がようやく解けたわけです。

「子供たちはトビラをあける。
 このシーンは感動的だ。暗い工場内に差し込む日の光、入り口に立つ子供たちがシルエットになって浮かび上がる。
 活字では絶対に描けない、映像の素晴らしさ。
 これが映画なのだ。」
(同引用先より)

 映画監督を志していた小説家が、映画化された自分の作品を見たときの感動が強く伝わってくる。
 僕もこのシーンのことをはっきり覚えている。とても好きな場面だ。でも、工場のトビラを開くのは夜で射した光は日の光ではなかったはずw

 たしかにこういうことは映像表現でしかできないし、文章では絶対にできない。それは最近"the big bang theory"というドラマを書き起こしてみて身に染みた。このコメディドラマのおもしろさを文章にすることはできない。

 けれど、もちろん、小説のおもしろさを映像にすることも、また同じように、できない。
 物事にはそれぞれの特徴があり、変換不可能な物事の特徴の集合である故にこの世界はこんなにも豊かだ。

 近いうちにこの映画も見直してみようと思う。ガチガチの管理教育を行う中学校から脱走してガチガチの大人たちに一泡吹かせた中学生の物語を。

「菊池くん、次は何なの?」
「うーん、ねらうは。国会議事堂だ!」

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裸で眠ることが被服の分断した身体を統合することについて

2010-11-24 12:12:10 | Weblog
 もうずいぶんと寒くなってきましたが、僕は眠るとき、あいかわらず素っ裸です。
 子供の時はパンツもはいてパジャマも着て寝ていましたが、大人になってから裸度が増していき、いつの間にか素っ裸で眠るようになっていました。ときどき服やパンツを履いたまま寝てしまうことがあっても、夜中に目が覚めて脱いだり、無意識にいつの間にか脱いだりしています。

 裸で寝る場合と、何かを身に付けて寝る場合では「身体認識」が全然違うような気がします。
 哲学者、鷲田清一さんは「ちぐはぐな身体」という本の中で、服が肌に触れる感覚は我々の身体がどこまでなのかを教えてくれる、というようなことを書いていらっしゃったと思いますが。それと同じことが肌に触れる布団の感覚でも起こります。

 鷲田さんの言うように、確かに服は僕達の肌に当たり、それは「ここに私の肌がある」ということを示してくれます。でも、服というのは断続的なものです。僕達はシャツとかズボンとか靴下とかパンツとかブラジャーとか、色々な異なったものを体の各部分にまといます。それらは構造的に別々であるだけでなく、素材としても体を締め付ける強さも別のものなので、結果的に「足に当たるズボンの感覚」と「背中に当たるTシャツの感覚」などは全く異なったものとなっています。
 この「感覚の不連続」は、そのまま身体認識の不連続です。
 つまり、服を着るという行為は、「身体をパーツごとに切り離す」という行為でもあるわけです。僕達は体を「Tシャツに覆われる部分」だとか「パンツに覆われる部分」だとかに分断して認識しています。

 だからどうだ、というわけではありませんが、とにかく僕達は被服の着用という文化によって、本来一体である身体をバラバラな部分の集合として認識するようになりました。それ以前に言語が、つまり「腕」とか「お腹」とか「指」とか、そういった名前が身体を分断したかもしれませんが、その時分断されたのは概念としての身体です。服はそれをさらに感覚レベルで切り離しました。
 被服は大まかに外部環境と身体の境界を示したあと、さらに身体の中にもいくつか境界線を引いたのです。

 素っ裸で眠ると、この分断された身体が再び一つに統合されます。なぜなら布団は全身を同じ素材で切れ目なくすっかりと覆うからです。僕達は素っ裸で布団に包まれたとき、自分というのは一つの身体なのだ、とはっきり認識することができます。
 この時、全身を「一体」であると感じるにはパンツの一枚すら邪魔になります。パンツをはいていると、そこだけ不連続な感覚を持つので、身体はパンツから上、パンツのところ、パンツから下の3つの部分に分割されてしまいます。

 長々と書いていますが、だからどう、というのはないんです。
 でも、眠るときは素っ裸が一番快適だとは思います。

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石上純也という建築家について、あるいは自由について

2010-11-23 09:54:42 | Weblog
「えっ!これはモデルで実は上から吊っている、とかではなくて、本当の本当に立っているんですか?」

「はい、そうです。本当に立ってます。吊ったりとかしてないですよ」

 僕達はあっけに取られて、地面から垂直に立てられた細い細い、真っ白な棒を眺めていた。あっけに取られてそれらを眺めているのは僕達だけではなかった。この広い会場に来ている他の人達も、それぞれに繊細な棒を眺めているはずだ。だけど、棒は細すぎて少し離れるとほとんど見えないし、棒と地面を斜めに結んでいるワイヤーはもっともっと細くて全く見えないので、そこでは人々が、まるでただ何もない空間をじーっと眺めているかのようだった。


 ”展示室8「雨を建てる」 scale = 1/1”
 圧縮材である柱の太さは、0.9mm、引張材であるワイヤーの太さは、0.02mm。
 雨粒の大きさは、0.1mm~5mmくらい、雲の粒の大きさは、0.01mmくらい。
 雨粒のようなスケールの柱と、雲の粒のようなスケールのワイヤーで作られた建築。
 地上に雨が降るように、空に雲ができるように、54本の雨の柱を建て、2808本の雲の糸を張る。空気に溶けていくような、とても透明な建築がたちあがる。
 その透明性に、ぼくは惹かれる、なぜなら空間が透明だからである。
 (石上純也”建築のあたらしい大きさ”展、パンフレットより)


 2010年11月21日日曜日、愛知県の豊田市美術館まで「石上純也 建築のあたらしい大きさ」展を見に行ってきました。他に愛知県近郊を訪ねる用があったとかそういうことではなく、ただこの展覧会を見に行くためだけに京都から豊田市まで行きました。僕は暇で時間を持て余しているわけでも、交通費が有り余っているわけでもなく、むしろ両方とも不足しているのですが、この展覧会にはどうしても行きたかった。
 僕が遠くの展覧会までわざわざ出かけることは滅多にありません。さらに、この展覧会は建築の展覧会です。当たり前ですが、建築というのは家とかビルとか都市みたいに大きなものなので、展覧会をするからといって実物を運んでくるわけには行きません。だから建築の展覧会には模型とか図面とかスケッチとか写真しか並んでいないわけです。せっかく美術館まで足を運んだとしてもそこにあるものは資料であり実物ではない、というなかなか悲しいことが建築関連の展示では起こってしまいます。にも関わらず、建築に関する展覧会を遠くまでわざわざ見に行ったというのは、僕が石上純也という建築家をどれくらい好きなのかを端的に表していると思います。

 彼は天才的な詩人です。
 スケッチや作品を見ていると、建築という言葉と平行してどうしても詩という言葉が浮かんできます。
 何より、彼の書く文章がはっきり言ってそのまま詩であると、先ほど引用したキャプションを読んでも分かると思います。正確で美しい言葉を使う建築家は何人もいますが、これほど緻密で詩的な言葉を使う建築家を他に僕は知りません。
 そして、彼が立体や平面や言葉で表現するすべてのものからは透明な清々しい「自由」という香りが立ち上ります。

 この夏、「ヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展」で石上純也は金獅子賞を取りました。出展された作品は、細いカーボンファイバーを使った、空気のように見えない、幅4x高さ4x奥行き13メートルの構造体です。いくら企画展示部門であったとはいえ、ほとんど見えないし触ることもできない、つまりあるのかないのかよく分からない石上作品は建築という枠組みを大きく飛び出しているようにも見えます。現に、なんと作品は関係者向けの展覧会がオープンしたわずか3時間後に壊れて崩壊してしまいました。。建築なのにファインアート作品よりもずっと脆いなんて考えられないことですw
 それでも、石上純也は金獅子を取りました。僕は夏の終わりにこのニュースを聞いたとき「なんかものすごいことが起きた!!!」と鳥肌を立てたのを覚えています。
 崩壊したにも関わらず、彼の作品は国際的な舞台で認められました。それは石上作品が現行の建築の枠組みをはみ出しているけれど、でもギリギリ人々に理解可能であったということです。もしも石上純也が建築家でなかったなら、誰も彼のことを理解できなかったかもしれないなと思います。建築という言葉が彼の思考とこの世界を繋いでいるような気すらするのです。

 その彼の思考のことを「自由」と呼んでも構わないと思います。僕が石上さんのことを好きなのは、それが自由というものから湧きだした何かだと感じるからです。
 自由というものを定義することは今の僕にはできません。もしかしたらそれは原理的に不可能なことなのかもしれません。あるいは僕は自分の好きなものに「自由」というラベルを張り付けているだけかもしれません。どういうことかははっきり説明できないけれど、でも僕は「自由」から湧きだ出したものが好きです。
 自由から湧き出したものが好き、であり、同時に自由でないものに恐怖を感じます。自由でないものが連想させるのは戦争とかイジメられて自殺してしまった子供とかそういう悲しくて息苦しくてやるせないものです。脳裏に浮かぶイメージは68年のベトナムで頭を打ち抜かれるベトコンの映像とかそういうものです。あの時、頭を打ち抜かれて射殺された男はゲリラの将校でした。その男のこめかみに銃口を当てて無慈悲に引き金を引いた男はアメリカ兵ではなく、同じベトナム人でした。当時南ベトナム大統領の側近だった男です。実はこのピューリッツァー賞を取った有名な映像のわずか数時間前、射殺された男の率いるゲリラ軍は射殺する方の男の仲間や家族を皆殺しにしています。こめかみに銃弾を打ち込む時いったいどんな気持ちだったのだろう。仲間や家族を惨殺された果てしのない怒りとかベトナム人同士でいったい何をしているのだろうとか、もうぐちゃぐちゃで感じることを止めてしまいたい状態だったのではないかと思います。アメリカとソ連の代理戦争で国民同士がその家族まで殺し合うこと。そういうことに含まれる閉塞感と恐怖を、僕は自由でないすべてのものから感じ取ります。
 だから、僕は自由が好きだというより、自由を激しく希求している。
 そして、どんなに大げさに聞こえようとも、僕にとって石上純也という建築家は自由の象徴です。

石上純也|ちいさな図版のまとまりから建築について考えたこと (現代建築家コンセプト・シリーズ)
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石上純也 建築のあたらしい大きさ
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学祭で大声で売る人が苦手な理由

2010-11-22 13:20:51 | Weblog
「学祭の模擬店で大声で品物を売る人が嫌いだ」というようなことをツイッターに書いたところ、「どうして自分の店に客を呼ぶために大声を出している人が嫌いなのか?」という質問を頂きました。ツイッター上では140文字の制約があって、そこで「嫌い」という論理的に説明できるかどうか分からないことを説明しようとするのは無理だと判断したのでここで説明を試みたいと思います。「嫌い」の説明なのでもしも上手く説明できなかった場合は申し訳ありません。
 尚、僕はここにはただ「僕はそれがなんだか嫌いだ」ということを書いているだけで、だから学祭がダメだとかやめなくてはならないとかいう主張をするつもりは毛頭ありません。やりたい人がたくさんいて楽しみたい人がたくさんいることは承知しています。むしろ僕はひねくれていて心が狭い人間なのだろうなと少し恥ずかしく思っています。


 僕がそれを嫌うのには、理由が主に3つあると思います。

・大声は暴力に極めて近いものだという認識が僕にあるから。

・「楽しい」という事を「大声で笑ったりして賑やかである」と画一的にはき違えている感じがするから。

・それらに気づいていても「学祭だからOK」という言い訳をしているような気がするから。

 という3点です。

 一つ目の「大声が暴力に極めて近いものだ」というのは、もちろん、学祭に限っての話ではなく一般的なものです。
 日常生活で大声を出す人はあまりいません。電車の中や食堂で大声を出す人はいません。それは大声を出すことが恥ずかしいからでも面倒だからでもなく、単に大声を出すと周囲の人に威圧感を与えたりして迷惑だからという理由によるものだと思います。必要以上に大声を出すとき、人は自分が周囲に何かをアピールしています。例えば、ものすごい大声でバカ笑いしている集団は、本当にそれが面白くて仕方ないというよりも、自分達は今こんなに楽しくしているのだ、というアピールを周囲にしていることがあると思います。楽しさだろうが賢さだろうが裕福さだろうが、その空間にいる、本来自分達に無関係な人々の耳に大きな音声を放り込んで自分達の何かを誇示するというのはとても暴力的なことだと思います。無論、誰かを恫喝することは言うに及びません。
 自分のお店に来てもらう為に大声で叫ぶというのは、あくまで自分の利益の為であって、緊急時に避難先を人々に伝えなくてはならなくて大声を出したりするのとは違う話です。「おいしいタコ焼きいかがですか」と叫ぶのは、言葉が丁寧であったとしても意味としては「うちのタコ焼き買えよ」ということです。もしも、これがタコ焼きを買って貰えないと生活できないとか殺されるとかいう場合であれば「お願いだからタコ焼き買って下さい」という心の叫びだと解釈することもできますが、学祭の模擬店でそういうことは考えられません。
 今書いたことは少し極端かもしれませんが、大声が「ちょっと暴力的なもので、優しいものではない」ことには同意して頂けると思います。そして僕は優しいものが好きで、暴力的なものが嫌いです。自分達の模擬店の為に大声を出す(あるいは歩いている前に立ちふさがる)人たちが優しいとは決して思えないのです。

 2点目の「楽しさ」のはき違えというのは、実はそんなに大声を出したいという訳ではないけれど、でも大きな声が出ていないと自分のお店や学祭全体がなんだか盛り上がりに欠ける詰まらないものみたいに思われるのではないか、という「画一化された楽しさの基準」ドライブがかかっているような気がするからです。
 僕は「楽しさ」には色々なベクトルがあると思っています。冗談を言い合って笑うのが楽しい人もいれば、じっと静かに座っていることが楽しい人だっています。お酒を飲むことが楽しい人もいれば、お茶を飲むのが楽しい人もいます。
 ところが、世の中には自分の楽しさ基準に合わない人のことを「詰まらない」とばっさり切り捨てたり、それも楽しさの一つであるということを信じない人が結構たくさんいます。そういう人達は静かにしていたいから静かにしている人に向かって「それじゃ面白くないでしょ、もっとパーっとしようよ」とか訳の分からないことを言います。お茶を飲んでいる人に「なんで?お酒飲まないと詰まらないじゃん」とか傲慢なことを平気で言います。
 僕はそういう人達が嫌いです。自分の価値観以外の価値観を想像できない人が嫌いです。
 さらにもっと嫌いなのは「静かに座っているのが私には楽しいけれど、世間ではパーっと騒ぐのが楽しいということの標準みたいで、そこから外れると私が楽しいということをみんなは分かってくれないらしいから、だから私は静かが好きだけど賑やかに振る舞おう」と考える人達です。ひいては自分がそんな心持ちで賑やかにしているだけなのに、そんな状態で「もっとパーっと賑やかに」と平気な顔して静かな人に向かって言う人です。
 これはそのまま3つ目の理由に繋がるのですが、ここでは「学祭というのはパーっと賑やかなもので、私は静かなお店がいいんだけど、それじゃあ学祭をエンジョイしていないみたいだから大声出しておこう」という嘘があるのではないか、ということです。
 学祭だから、というのが言い訳になって「大声で人に何かを売るのは若干暴力的な感じもするけれど、でも学祭だから暴力的でもまあいいじゃん」と思って普段ならそれを慎むような人が大声を出している場合もあるのではないか、ということです。
 だいたい、このような感じで僕は学祭で大声で店をしている人が嫌いです。穿った見方で自分でも性格が悪いと思いますが、でもそう思っています。

若きサムライのために (文春文庫)
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堕落論 (新潮文庫)
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the big bang theory: The Dumpling Paradox, part2

2010-11-20 14:07:57 | the big bang theory
ギョーザ矛盾問題を解け! その2

「それに、ペニー、ゲームにはゲームの倫理ってものがあるんだ」
 シェルダンがまだぶつぶつ言いながらリビングへ戻ってきた。
「ペニーはもう帰ったよシェルダン」
「えっ!あっそう。バイバイくらい言ってくれてもいいのに」
 シェルダンが上げた手の下ろし場所に困っていると、ドアを開けてペニーが戻ってきた。
「問題が起きたの」
 するとシェルダンがすかさず言った。
「分かってるよゲームで手が痛いんだろ、それは手根管症候群というやつだよ、当然の報いと言える」
 ペニーはこの人は一体なにを言うのだろうという表情でシェルダンを眺めた。レナードが、何の問題が起きたのさ、と聞くと、ペニーは「うーんとね、なんていうかハワードとクリスティが私の寝室でそういうことしてるみたいなの。。。」と言い、オエッという表情をした。
「本当に?」
「農場育ちの私に言わせれば、もしもセックスの音じゃないとしたらあれはハワードが搾乳器に搾られている音よ」
 シェルダンがその光景を想像して顔をしかめた。
「今日、私ここで寝ていい?」
「もちろん。このカウチで寝ればいいさ。それか僕のベッドでもいいよ。うん僕のベッドでも。新しい枕買ったばかりだし、低アレルギー性のいいやつをさ」
 レナードはそれとなく自分の寝室で寝ることを薦めたがペニーは全く取り合わない。
「あー、うん、このカウチでいいわ私、ありがと」
 そこへシェルダンが口を出した。
「ちょっと待った、レナード、ちょっと話がある」
 シェルダンが台所の方へ歩いていき、レナードはまた始まったという顔でシェルダンの後について行った。
「言わなくても分かるよ、ペニーを泊めることに反対なんだろ」
「というか誰も泊めない主義なんだよ。正直なところ、もしも僕がここの家賃を一人で払えるなら君にも出ていってもらってる」
「それはずいぶん素敵な友情だこと。他には?」
「緊急避難セットだよ。うちには2日間分の緊急避難セット2人分しかない」
「だから?」
「だから、もしも地震が来て僕たち3人がここに閉じ込められたら翌日の午後には食料がなくなる」
「まさか地震が来たら僕たちが共食いする羽目になるからペニーを泊めたくないって言うわけ?」
「極限状態では何が起きるかわからない」
 もういいという風にレナードは頭を振ってペニーの元へ戻った。
「ペニー、寝てる間に僕たちの肉を噛みちぎらないと約束してくれるなら泊まっていいよ。毛布と枕を持ってきてあげる」
「オッケー、わかった。どうやら僕の意見は完全に無視されているみたいだね。明日の朝のスケジュールについて話させてもらおう。僕はトイレやお風呂を7時から7時20分まで使うから、それ以外の時間に顔洗ったりトイレしたりするようにペニーは時間調整して」
「トイレの時間なんてどうやって調整するのよ」
「11時以降は何も飲まないことをお勧めする」
 とシェルダンが言い放ったとき、レナードが、枕と毛布を持って戻ってきてカウチの上に置いた。
「はい、ペニー、どうぞ」
「ありがとう」
 枕と毛布を整えるペニーを見てシェルダンが「ククッ、間違ってるなあ」と言った。
「何が、間違いなわけ」
「枕の位置さ。頭は反対側にしなきゃ」
「なんでよ」
「どこの文化圏においても普遍的なことだけど、寝るときは足をドアの方に向けるんだよ。襲撃者から身を守るため人々は古くからそうしてきた」
「あっそ、私襲われてもいいから」
「へー、そうかい」
「他に何か私が知っとくべきことある?」
「あるよ。もしも間違って僕の歯ブラシでも使おうものなら、そしたら僕は窓から飛び降りて死ぬから。そしてどうかお葬式には来ないで下さい。おやすみ」
 シェルダンは窓を指さしてそれだけ言うと寝室へ歩き去った。
「ごめんね、シェルダンがあんな感じで」
 レナードが代わりに謝った。
「いいわよ。全然」
「一応言っておくと、シェルダンの歯ブラシは強化ガラスのケースに入れて紫外線の殺菌ランプの下に置いてある赤いやつだから」
「らしいわね」
「うん、じゃあ、おやすみ。ぐっすり寝て」
「ありがとう」
 でもレナードはペニーのもとをなかなか離れずにどうでもいいようなことを言い出した。
「ぐっすり、って考えてみたら変な表現だよねー。ねっ。なんでぐっすりっていうんだろう。昔の人は。。。」
 ペニーは腕を組んでそれを冷たい目でじっと見てレナードを追い払った。
「おやすみ」
 ペニーはリビングの電気を消してカウチの毛布に潜り込んだ。

 シェルダンが「無視されている」と言っていたけれど、本当に無視されていたのはシェルダンではなくラジェシュだった。シェルダンとレナードが寝室に引き上げ、ペニーがリビングの明かりを消したとき、ラジェシュはキッチンでサンドイッチを食べていた。ペニーがいたから照れ屋の彼は話すことができず、黙ってサンドイッチを食べていたのだ。仕方がないのでラジェシュはこっそりと部屋を出ていくことにした。サンドイッチを軽く振ってみんなにバイバイをして、ソロリと部屋を開けて外に出た。

「えっ?誰」ラジェシュがドアを閉める小さな音でペニーは目を覚まし、不安そうに周囲を見渡した。そしてシェルダンの言っていた”文化的慣習”を思い出して枕の方向を反対に変えた。

 翌朝、一番に起きてきたのはシェルダンだ。シェルダンはシリアルの入ったボウルを持って、いつものカウチに座ろうとした。でもそこにはまだペニーがぐっすりと眠りこけていて、シェルダンは座ることができない。他のイスに座ればいいんだけど、シェルダンはいつも同じ場所じゃないと気が済まないのでペニーの顔の上に座ろうかとか色々まごまごしているとレナードが起きてきた。
「何やってるんだよ!?シェルダン」
 シェルダンはレナードの所へ駆け寄って言った。
「この部屋に住み出してから土曜日の朝はいつも6時15分に起きてボウルにシリアルを入れてそこにカップ4分の1の脂肪分2パーセントの牛乳を入れてカウチのここの部分に座ってテレビのBBCアメリカを点けて”ドクター・フー”を見てるんだ」
「でも今日はペニーがまだ寝てるじゃん」
 レナードが怪訝な表情で諭すと、シェルダンは全く同じことをまた言い始めた。
「この部屋に住み出してから土曜日の朝はいつも6時15分に起きてボウルにシリアルを入れてそこにカップ4分の1の。。。」
「分かってる分かってる」
 レナードは遮って言った。
「自分の寝室にもテレビあるんだから、ベッドの中でシリアル食べながらテレビ見ればいいじゃん今日は」
「でも僕は病人でも母の日のお母さんでもないから、そういうことはしない」

 2人がそういう会話をしているとペニーが目を覚まして寝ぼけた声で言った。
「うーん、おはよー、今何時ぃー」
「6時半になるところ」レナードが答える。
「えっ!ほんとに!私丸一日寝てたの?」
「いや、そうじゃなくて朝の6時半だよ」
「なによ、あなた達こんな朝っぱらから」
 ペニーは顔をしかめてまた毛布に潜った。
「こんなことをしている間に僕のシリアルは分子の結合が緩んでしまった。もうここにあるのはシリアルじゃなくて細切れでベトベトの小麦ペーストだよ」
 シェルダンがシリアルを捨てようとするところにドアを開けて向かいの部屋、つまりペニーの部屋から、クリスティと実りある一夜をすごしてハイテンションのハワードがやって来た。
「オッハー! 非モテの諸君!」
 うるさいハワードの挨拶を聞いてペニーが再び毛布から顔を出して起きあがった。
「あんた達なんでそんなに寝るのが嫌いなのよ、もー。っていうか、ハワード、あなたが着てるのって、ひょっとして私のローブじゃないの?」
「うん、そう、勝手に使ってごめんね。ちゃんと洗濯して返すよ」
「もう要らないからとっといて」と、ペニーは頭を抱えた。
「それでクリスティは?」
「今シャワー浴びてるよ。あっ、そうそう。そういえばさ、あの体洗うスポンジってどこで買ったの? あれいいね。うちのじゃ届かないところまでちゃんと洗えたよ」
 ペニーはもはや呆然とした表情だった。
「あなた、私のスポンジまで使ったの。。。」
「僕っていうか、正確に言うと、僕たち、だけどね」
 ハワードは嬉しそうにフフフと笑った。
「スポンジも上げるから、もう要らないから、とっといて。。。」
「うん。それから、君のクマのぬいぐるみコレクションも見ちゃったよ、クククっ」
 そして廊下からクリスティの声が聞こえてきた。
「ハワード、どこ?」
「ここ、ここ、こっちだよ、僕のかわいこちゃん」
 クリスティがドアを開けてこっちの部屋にやって来て「いたいた、私の小さいエンジンちゃん」と言い。ハワードがエンジンの物真似をして音を立て2人は抱き合ってキスをした。それから彼女はみんなに挨拶をした。
「こんにちは、私クリスティ」
「こんにちは、僕はシェルダン」
「僕はレナード」
「2人のことはハワードに聞いてるわ。いつもハワードの後をくっついて歩いてるって」
 レナードとシェルダンは複雑な表情をしたが反論するのはやめておいた。
「それで、クリスティ、あなたどういう予定になってるのよ」
 ペニーが尋ねると、クリスティはハワードがビバリーヒルズに買い物に連れていってくれることになっていると答えた。
「うん、そうじゃなくて、泊まるところの話なんだけど、正直なところ、うちに泊めてあげるのってちょっときついのよね」
「それについては何の問題もないよ、クリスティはうちに泊まればいいんだから」
 ハワードが言った。
「でもハワード、君はお母さんと住んでるじゃないか」レナードが水を差す。
「なに言ってるんだよ、お母さんなんかと住んでるわけが、あるんだよなー、それが、うんお母さんと住んでるんだ」
「よし、それで決まり」と少しイライラしたシェルダンが言った。「クリスティはハワードのところに泊まる。そうすればペニーは自分の部屋に戻れるし、僕はカウチに座ってドクター・フーの残り24分を見れる」
「シェルダン、そんな勝手にさっさと全部決められないよ」
「もう話はオシマイ、みんな出てって、僕はテレビを見る」
 シェルダンの解散宣言によってみんなはリビングを出ることになった。
「お母さんいるけど、ウォロウィッツ家に来てくれるよね」
 ハワードがクリスティに聞くと、クリスティは「ウォロウィッツ家って何、メキシコ料理やか何か?」と聞き返した。
「そうか、言ってなかった。僕の名字はウォロウィッツって言うんだよ。僕のうちに泊まることにするよね?」
「わー、そうなんだ、ウォロウィッツって名字なんだ、わお、じゃあユダヤ人でしょ。私ユダヤ人の男は初めてよ、みんな!」
 クリスティは嬉しそうにそう言って、身支度をしにペニーの部屋へ戻って行った。
「クリスティってかわいいだろ。クローン人間の技術が確立されていたら12体はクローン作るね」
「あのさ、ハワード、君さ、あの子にいいように使われてるの分かってる? これから買い物で色々買わされるんだろ、どうせ」
 レナードがちょっと気まずそうに言った。
「そんなの構うもんか。昨日彼女が服を脱いだの見て嬉しくて涙が出たくらいだぜ」
 それでも尚うれしそうなハワードを見てペニーが言った。
「ハワード、聞いて。私はクリスティのこと昔からよく知ってるの。あの子は物を買ってくれる男となら誰とでも、その人が物を買ってくれる限りセックスする女なのよ」
「本当に?」
「ええ、本当に」
「やったー!」
「えっ・・・・」
「ユダヤ人にはこういう時の為に蓄えがあるんだ、お金持ちでごめんよ」
(その3へ)

the big bang theory; the dumpling paradox, part 1.

2010-11-18 14:53:43 | the big bang theory
 僕の大好きな海外ドラマ"The Big Bang Theory"をいくつか書き起こしてみることにしました。ただ台詞を書き起こしただけではシナリオみたいで読み難いし、かと言ってノベライズすると一から小説を書くのと同じくらいの労力がいるので、シナリオに少し肉付けした程度になっています。
 それなりに忠実に訳したつもりですが、僕はそれほど英語が堪能ではないので、分からない所、あるいは文化的に日本人には理解できないところは端折ったり好きなように書き換えたりしています。
 最初の方の回は好きではないので飛ばしました。

・主要な登場人物(多分みんな二十代半ばです)

 レナード : 実験物理学者。オタクだけど仲間うちでは一番まとも。シェルダンと二人で暮らしている。向かいに引っ越してきたペニーに恋心を抱いている。

 シェルダン : 理論物理学者。IQ187の天才で、11歳で大学に入学している。オタク。屁理屈ばかりこねる。

 ペニー : レナード達の部屋の向かいに引っ越してきた今風の魅力的な女の子。

 ハワード : 工学者。オタク。ユダヤ人。数ヶ国語を操る、と少なくとも自分では思っている。無類の女好き。母親と二人で暮らしている。

 ラジェシュ : 理論物理学者。インド人。オタク。女の子が苦手で話すことができない。ペニーがいるときに言いたいことがあると誰かの耳元で囁いて代わりに言ってもらう。

________________________

「ギョーザ矛盾問題を解け!!!(その1)」

「この新しいケータイすごいんだぜ」
 ハワードはポケットから取り出した携帯電話に向かって言った。
「レナード・ホフステダー、に電話を掛ける」
 すると携帯電話は例のゆっくりとした合成音声で返事をした。
「ヘレン・ボクスレイトナー、に電話、でよろしいでしょうか?」
「違う。レナード・ホフステダー」
「テンプル・ベス・セダー、に電話、でよろしいでしょうか?」
「違うってば。もー」
 見かねてレナードが、ちょっと僕にやらしてみてよ、とハワードの携帯を手に取り、そしてふざけて「オバカ・バカバーカ。ふふっ」と言った。
「ラジェシュ・クータパリ、に電話、ですね」
 隣にいたラジェシュが、えっ、という表情を浮かべた瞬間、ラジェシュの携帯から呼び出し音が鳴った。
「へー、これは優れた技術だ。全くすごい。バカって言ったらインド人の僕に掛かるわけだね。この携帯作ってる会社は人種差別するってわけだ」

「あのさ、君たちはその携帯電話で遊ぶためにここへ来たわけ? テレビゲームしに来たんでしょ。早く”ヘイロー”やろうよ。8時からしようって言ってたのに、もう8時6分じゃないか」
 ソファーに座ったシェルダンはそう言って手に持ったゲームのコントローラーをヒラヒラさせた。
「オッケー、ごめんごめん、やろうやろう」
 レナードがシェルダンに返事をして、全員がソファーに座りコントローラーを手に取る。”ヘイロー”というのは4人が今夢中になっているバトル・シミュレーションゲームで、今は少し携帯で遊んでいたけれど、もちろんみんなこのゲームを早くやりたくてうずうずしていた。
「ゲームを始める前に、この6分のロスを、ゲームの時間、トイレ休憩、ピザ休憩、のどこから捻出するか決めないと」
 シェルダンがまた細かいことを言う。
「ゲーム、トイレ、ピザ、からそれぞれ2分2分2分で」
 ラジェシュがさらりと素早く決めて、もしもピザがアンチョビのピザだったら、とハワードがなにやら言いかけた時、誰かがドアをノックした。すでに時間が6分遅れていてイライラしているシェルダンは「まったく誰だよ、こんな時に」と毒づいてドアの方を見る。
 レナードがドアを開けると、入ってきたのはやはり向かいの部屋のペニーだった。
「ちょっと困ったことになってて。しばらくこの部屋に匿ってくれない?」
「もちろんいいよ。でもどうしたのさ?」
 レナードが聞いた。
「ネブラスカにいたときの知ってる女の子が、クリスティって名前なんだけど、電話してきたの。それで”カリフォルニアはどう?”って聞くから、”すごくいいわよー”って返事したわけ。分かるでしょ、元いた所から別の場所に移ったら、新しい場所が本当に素敵かどうかに関係なくみんなそう言うわよね。そしたら彼女うちに泊めてほしいって」

 またまたソファーからシェルダンが「もう8時8分だけど」とコントローラーをヒラヒラさせて、レナードはうるさいと軽くあしらった。

「そしてまあ今日うちに来たわけ。もう喋りに喋るわけよ。オマハで彼女がエッチした男たちについて。オマハにいる男全員と寝たんじゃないかしらってくらい。それで見たこともないようなヤらしい下着の数々を洗面台で洗ってるの」

「下着1枚づつ洗ってるの、それとも一気に全部洗ってるの、どっち!? 一気に全部だったらまるでエロスのブイヤベースだ」
 ハワードがソファーから身を乗り出して聞いたのでペニーは冷たい視線を投げかけた。
「この人は本当に頭がどうかしてるわね」
 レナードは「よく知ってるよ」と答えてハワードをたしなめ、それからペニーに言った。
「でもさ、そのクリスティって子のことが嫌いなら泊めなけりゃいいんじゃないの?」
「そういうわけにもいかないわよ。彼女は昔私の兄と付き合ってて、それと同時に私の従兄弟と結婚してたんだから、家族みたいなものなの」

 そこへまたシェルダンがコントローラーを持ったまま「うるさく言うようで悪いけれど、ヘイローしないの? オマハの娼婦の話の方が楽しいってわけだね」と言った。
「別に娼婦ってわけではないと思うよ」
 レナードはそう言ったけれど、ペニーは娼婦という表現に賛成した。
「いいえ、彼女はまさに娼婦よ、いつも男をとっかえひっかえしてるの、昔一度こんなこともあったのよ、っていうかハワードどこ行ったの」
 振り返るとソファーにハワードの姿はなく、代わりに開いたドアの向こう側から声が聞こえてきた。
「ボンジュール、マドモアゼル。この辺りに引っ越してきたばかりらしいですね」

「これはまたややこしいことになった」とシェルダンが言った。

 ペニー、レナード、シェルダン、ラジェシュが廊下に出てみると、すでにハワードはペニーの部屋の中だった。ドアは閉まっていて内側からはスローな音楽が聞こえている。
「信じられない。クリスティ、私の部屋に勝手にハワードを入れた。ほんとに信じらんない」
「僕はわざわざお金を払って星占いしてもらう人々がいることの方が信じられないけれどね。そしてもっと信じられないのはもう8時13分なのにまだ僕たちがヘイローを始めていないってことだ」
 シェルダンは腕時計を見てイライラしながら言った。
「わかったわかった、じゃあもうハワードとクリスティは放っておいてヘイロー始めよう」レナードは部屋の中に戻りながら言った。「でもハワードがいなくなっちゃったから2対2の対戦はできないね。ハワードが戻ってくるまでは1対1でやろう」
「1対1なんてイヤだよ。2対2のチームプレイがしたいんだ。1対1なんて。1対1なんて」シェルダンは、1対1なんて、とどうしてか2回つぶやいた。
「しかたないだろ3人しかいないんだから。じゃあラジェシュを半分にぶった切って2人にするか?」
「ほー、僕を半分にぶった切るだって、いいさ、やれよ。哀れな外国人にそんなことしたらインドから10億人が押し寄せてお前なんてボコボコにされるから」
「あのさ、一人足りないんだったら私がやってあげてもいいわよ」
 ペニーが見かねて申し出てレナードが「本当に?それはいいアイデアだ」と言ったが、またしてもシェルダンはノーと言った。
「車輪の発明はいいアイデアだった。相対性理論もいいアイデアだった。でもこれは違う。ちょっとした思いつきっていうか、むしろくだらないアイデアだよ」
「なんでよ。私がやってあげるって言ってるのに」
「なんでよ、だって。おバカなペニーちゃんペニーちゃんペニーちゃん」
「なになになに、なんだってのよ」
「これはとても複雑で難しいゲームで高い学習能力が要求される。多種多様な武器、乗り物、作戦、そういうのを分かってないとできないし、それだけじゃなくて入り組んだ物語が背景にあるんだよ。君が急にやってできるわけ・・・」
 ペニーがシェルダンを無視してコントローラーを掴み適当にボタンを押してみると画面の中で弾丸が発射されて誰かの頭が吹き飛んだ。
「わー、面白いじゃないの! 吹き飛んだの誰の頭?」
「僕のだ」
 シェルダンがペニーをにらみ付けた。
「オッケー、だいたい分かったわ。始めましょうよ」
 レナードが「こうすれば2対2でできるんだからさ」とシェルダンを促した。
「けど、誰が初心者のヘタっぴペニーと組むんだよ」
 シェルダンは喋り続け、ペニーは勝手にゲームをはじめた。「ははー、おもしろい、またシェルダンの頭吹っ飛ばしちゃった」
「ちょっと待てペニー、そういうのはスポーツマンシップに反するんだぞ。反撃するチャンスの全くない相手に攻撃をするなんて一体君は・・・クソッ」
 ペニーはそんなのお構いなしに攻撃を続け、シェルダンは慌ててコントローラーを握りゲームに参加した。
 
「これでも食らえ」とか「死んでしまえ」とか「どうだ」とか叫び声と笑い声を上げながらゲームは長時間続き、そしてレナードとペニーのチームはシェルダンとラジェシュのチームをこてんぱんにやっつけた。
「こんなのインチキだ」負けたシェルダンは立ち上がって言った。「どうやってるのか知らないけれど彼女はインチキしてるに違いない。魅力的でモテモテでゲームまで上手いなんて人間はこの世界にいないんだ」
 立ち去ろうとするシェルダンに向かってペニーが言った。
「シェルダンちょっと待って、忘れ物」
「なに?」
「プラズマ・グレネード砲よ!」
 ペニーは画面の中にまだ残っているシェルダンのキャラクターを木っ端微塵に破壊して大笑いした。「今に見てろ」シェルダンは捨て台詞を残して彼の寝室へと引き上げていった。
「なんて不機嫌な負けっぷりかしら、たかだかゲームで」
「公平の為に言っておくと、彼は勝ったときも全然喜ばないよ」とレナードは言って笑った。
「あー、面白かった。じゃあ、私そろそろ部屋に戻るわね」
 立ち上がりドアから出て行くペニーをレナードは見送る。
「君はヘイロー上手だし、今日は楽しんでくれたみたいだし、僕らいいチームだったし、これからも時々さ、一緒にヘイローしないかな?良かったら」
「あー、うん、それより私はリアルな生活を楽しむことにするわ、ごめんなさい。ラジェシュ、いつも通りあなたとの会話楽しかったわ。おやすみなさい」
 ペニーが部屋を出て行ってドアを閉めると、彼女は何を言ってるんだ、僕は彼女と一言も喋ってないのに、とラジェシュが肩を竦めた。
「彼女は暗号製造機みたいな謎の塊なんだよ。ラジェシュ」
(その2へ続く)

本の紹介:橋本治「これで古典がよくわかる」

2010-11-10 11:11:04 | Weblog
 最近、橋本治さんの「これで古典がよくわかる」を再読しました。この本には別に有名古典作品の解説が書かれているわけではなく、文字のなかった日本に漢字が入って来て、そして和漢混交文ができるまでの過程、古典だって生身の人間が書いたのだ、ということなどが書かれています。とても面白いので一部を引用したいと思います。

「 < あしびきの山鳥の尾のしだり尾の
    ながながし夜をひとりかも寝む >

 柿本人麻呂の歌です。有名なこの歌を見ると、「ほんとになに言ってんだかな」という、いたって幸福な気分になります。「あしびきの」は「山」にかかる「枕詞」で、「山鳥の尾のしだり尾の」は、「長い」にかかる「序詞」なんですね。つまり、「あしびきの山鳥の尾のしだり尾の」には、なんの意味もない。「山鳥の尾は長くたれている ー だから”長い”」、ただそれだけです。この歌の意味は、ただ「えんえんと長い夜を一人で寝るのか。。。」だけです。なんだかわけのわからない言葉を延々と読まされてきて、意味はそれだけ。「えっ、そんな解釈でいいの?」と、私は高校生だった昔に、喜びました。あんまり勉強が好きじゃなかったからです。
「人間の感情を素直に歌い上げる」はずの「万葉集」の中に、こんな冗談みたいなものが入っているなんて、なんだかとても嬉しくなりました。「あしびきの山鳥の尾のしだり尾の」だけで前半を終わらせてしまうなんて、「内容空疎の技巧本位の極み」みたいなもんでしょう? それが「日本文化を代表するようなものの一つ」って、なんだか嬉しくありません?
「かも寝む」の「かも」は((中略))。つまり、「かも寝む」とは「寝るのかよォ」ですね。「こんなに長い夜を一人で寝るのかよォ」が、日本を代表する天才的歌人・柿本人麻呂の「有名な作品」です。  」(引用終わり)

 古典が急に身近になりませんか?
 古典は「まだちゃんとした日本語の文章がなかった」時代に書かれたものなので、つまり滅茶苦茶だから専門家であっても意味ははっきり分からない。分からなくて当たり前なのだから、人間が書いたということを前提に自分で解釈しようよ、その方がきっと正しいよ、というスタンスです。

 他にも少し紹介すると、鎌倉三代将軍実朝が「ややこしい家に生まれてお飾り将軍で関東というイナカからトカイである京都の文化に憧れることだけに生き甲斐を見いだしていたオタク青年」だったことを踏まえ、彼の歌を解釈します。
 普通、実朝の歌は「雄大で男らしい万葉ぶり」と評価されていて、たとえばこの歌、

 大海の磯もとどろに寄する波
 破れて砕けて裂けて散るかも

 も、「雄大な海岸の荒波を表現した男らしい歌だ」となっています。
 ところが橋本さんはここで、ちょっと待てというわけです。「ややこしい家でストレス一杯のオタク青年」が「破れて砕けて裂けて散る」って言っているのはヤバイんじゃないか、「死ね死ね死ね死ね」って言ってる感じがしないか? と。しますよね?

 橋本さんの本には世界の20世紀を一冊の本で解説したものもあって、ざくっとばっさりおおまかに何でも説明されています。面白いけれど、でもそれでいいのかな、人間の複雑な行いの集合ををそんなに単純に説明してしまって、という思いがずっとあったのですが、物理学者が物体を「球だと仮定」するように、枝葉を切り捨てて本質をすぱっと説明することの大切さを最近思い知りました。そのことを書こうと思っていたのですが、長くなったのでそれは次回に。

これで古典がよくわかる (ちくま文庫)
筑摩書房


二十世紀〈上〉 (ちくま文庫)
筑摩書房

タイムトラベルとは大げさだけど

2010-11-06 11:48:50 | Weblog
 真空には本当になんにもないわけではなくて、真空中では常に粒子と反粒子が生成し対消滅している。生成してから消滅するまでの時間が非常に短く、それが至る所で常に起こっているので、僕たちのスケールで見ると均されて何もないように見える。本当は細かなデコボコがたくさんあるのだけど、遠目に見ると滑らかな平面にしか見えない板のようなものだ。
 これはイメージとして掴みやすい話だ。細かいごちゃごちゃが色々あるけれど、ざっと平均してだいたいゼロで、遠目に見たらなんにもない。細かく見たら本当は色々なことが起こっているのだなあ。うん、そうか。という風に。

 真空が実は本物の空っぽではない、というのは少しだけ常識はずれかもしれない。でも言われてみれば納得できて、すぐに新しい常識に組み込むこともできる。新しい豆知識の蓄積というわけだ。

 今日はそんな豆知識から、常識から、もう少しだけ遠くへ行ってみよう。

 不確定性原理という量子力学の言葉は非常に面白い概念なのでよく引用される。どういうことかというと、特定の二つの物理量を同時にカチッと決めることはできない、ということで、たとえばある粒子の「位置と運動量」なんかを両方ちゃんと決めることはできない。<位置の曖昧さ>と<運動量の曖昧さ>を掛けたものは絶対にプランク定数という小さな正の数よりも大きくなる。運動量というのは物体の質量と速度の積のことなので、ざっと”動き”だと考えて構わない。運動量を動きだと言い換えてもう一度書くと<位置の曖昧さ>と<動きの曖昧さ>を掛けるとプランク定数よりも絶対に大きくなるということだ。だからミクロな視点でみると「ある粒子がどこかに完全に静止している」ということはあり得ない。完全に静止しているというのは「位置の曖昧さがゼロであり動きも曖昧さなくかっきりゼロ」ということだし、ゼロ掛けるゼロはゼロでプランク定数よりも小さくなるからだ。そんなことはあり得ない。もしも全くの曖昧さなしに粒子の運動が分かったなら、そのとき粒子の位置の曖昧さは無限大になって宇宙のどこに存在しているか全く分からなくなる。逆に曖昧さ全くなしに粒子の位置が分かるなら、そのとき粒子の動きの曖昧さは無限大になりどういう動きをしているのか全然分からなくなる。なんだか無茶苦茶な話みたいだけど、これは超高精度の実験結果を小数点以下10桁くらいまでピタリと言い当てる魔法みたいな現代物理理論の一部だ。

 今、例として「位置と動きの曖昧さ」を挙げたけれど、他にもコンビネーションはあって、「<時間の曖昧さ>と<エネルギーの曖昧さ>」も不確定性原理の関係にある。だから超短い指定された時間の中ではエネルギーというのはちょっとくらい増えたり減ったりしてもいい。さらにアインシュタインのE=mc^2が指摘するようにエネルギーと質量は同じなので、超短い時間の中では質量がちょっとくらい増減してもいいということで、つまり粒子ができたり消えたりしてもまあいいということで、話を冒頭の真空に戻せば、粒子と反粒子ができたり消えたりしててもいいということです。

 と、実はここまでが枕で、これから本題に入ります。さきほどから粒子とか反粒子とか書いていますが、電子の反粒子は陽電子と呼ばれています。電子はマイナスの電荷を持っていて、陽電子はプラスの電荷を持っている。電荷の符号が逆なこと以外はすべての性質が全く同じです。

 さて、やっと写真に載せた図を見ていただくことにしましょう。縦軸のtは時間です。下から上に向かって時間が流れています。横軸のrは位置です。矢印付きの線で示したのは電子の運動で、どの時刻にどの位置に電子があるかということを示しています。

 図を見るとあれっと思うことがあります。a-bの間のことです。aまでは問題ありません。時間の経過に沿って、つまり下から上へ電子が移動しています。b以降も同様です。下から上へ移動しています。ところがa-b間では線が上から下へ書かれてまるで時間が逆行しているように見えます。電子が未来から過去へ進んでいるみたいに見えます。
 おいおい、何をデタラメ描いてるんだ、と言いたくなると思いますが、取り合えず一旦この図で許して下さい。ついでにこのa-b間で「aからbへ電子が時間を逆行して進んでいる」というのを「bからaへ陽電子が時間に沿って進んでいる」と読み換えてみてください。この読み換えはOKですよね。話を分かりやすくするために二つの箱を考えます。箱AとBがあり、それぞれにボールが10あるとします。今Aからボールを一つ取り出してBに入れると結果的にAは9、Bは11になります。もしもこれを元に戻したいなら、まずは時間を戻すということが考えられます。時間を戻すとBからボールが一つAに戻ってまたそれぞれに10づつという状況に戻ります。ただ、別の方法として「マイナスのボール」というへんてこなものを使うことも考えることができます。マイナスのボールは上げると一個増えて、もらうと一個減るので、時間を戻すのではなくAからBにマイナスのボールを一つ移動させることによってもボールを10づつに戻すことができます。つまりここでは「ボールが時間を逆行すること」と「マイナスのボールが時間に沿って移動すること」は同じだということです。つまりaからbへ電子が時間を逆行するのと、電荷が逆の陽電子が時間に沿ってbからaへ進むのは同じだということです。なんか胡散臭いですけれどね。でも状況だけをみるとそういうことですよね。

 これを踏まえて図に戻ります。今度は点線で時間軸を区切ったt1,t2,t3に注目して下さい。時刻t1の時点では電子が一つ見えています。t2の時点では二つの普通の電子と一つの時間を逆に進んでいる電子が、つまり一つの陽電子が見えています。t3では再び電子が一つ見えるきりです。
 これって何かに似ていますよね。
 もう一度書き直しましょう。

 t1: 電子
 t2: 電子 +(陽電子+電子)
 t3: 電子

 まるで電子が一つ飛んでいたら近くに陽電子と電子が生成してすぐに対消滅したみたいだ。真空の中の粒子と反粒子の生成対消滅みたいだ。
 エネルギーと時間が不確定性原理の関係にあるなら限定されたエネルギー下では時間が不確定になるし、その時間の曖昧さに含まれる時間はいつも正だとは限らないかもしれない。とか。そういえば位置と動きだって、位置の曖昧さが小さいなら動きの曖昧さが大きくなって光速だって超えちゃったり。光速を超えるということは過去に進むということだから。あっ電子が過去に進んでもいいかも。とか色々騙されているような辻褄があっているようなことをうっかり考えてしまいますよね。極小の世界には不思議が一杯。

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光と物質のふしぎな理論―私の量子電磁力学 (岩波現代文庫)
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