『風立ちぬ』を見て驚いたこと、への追記

2013-07-28 16:10:17 | Weblog
 (今回も『風立ちぬ』のネタバレがあります)

 前回『風立ちぬ』のことを書きました。アクセス数が物凄くて、改めて宮崎駿監督の人気を思い知りました。「一番納得いった批評」という好意的な感想から、「岡田斗司夫のパクリ」という批判も頂きました。岡田さんの批評も確認しています。「夢の中の飛行機は女にしか見えていない」「二郎は女が出てくると絶対にチラッと見る」「菜穂子は森の入口にキャンバスを置いて二郎を誘い込んだ」というような、僕よりもずっと詳細な見方をされています。大枠の見方はほとんど同じで、パクリと言われても仕方ないくらいですが、「今回は正直に、絶対にエグいことを描いているはず」という若干穿った見方をすれば、大抵あのような見方になると思うので、特に驚くこともないと思います。

 これまでの宮崎作品にも「エグい」ことは書かれてきました。そのエグさはいつも「悪者」の方に転嫁されてきましたが、転嫁しても、劇中に出てくるエグさの全ては作者の内から出てきたものです。
 僕は少し小説を書くのですが「実はこんなに気持ち悪いことを考えているとバレるのが怖い」という理由で逡巡することがあります。極悪なセリフを、悪のポジションに置いた登場人物に言わせて、「これは僕の本音ではありません、世間にはこういう極悪な人もいるので表現しただけです」みたいなフリをして誤魔化そうとしても、そんな稚拙が通るわけもありません。

 宮崎作品の代表的な「悪者」はラピュタのムスカです。宮崎監督はムスカに「人がゴミのようだ」というセリフを言わせていますが、今回は「悪者」にではなく「主人公(=宮崎駿の投影)」に言わせるのではないかと思っていました。なぜなら主人公の声に、宮崎さんが正直者と言って止まない庵野秀明を起用しているからです。
 だから、「人がゴミのようだ」というセリフは出てこないにしても、”人をある程度ゴミのように扱う主人公”というものを想定して映画を見始めました。薄情者ということです。

 この想定は、映画の最初の方で「肯定」されます。
 まだ幼い二郎が、夢から醒めて目を開けるのですが、近眼なので世界はぼやけていて見えません。枕元の眼鏡を手に取り、それを掛けて初めて視界がクリアになります。この一連の流れが、全て二郎の視点で描かれています。
 加えて、屋根に登って裸眼で星を見ようとするシーン。隣に妹のカヨがやって来て、二郎には見えない流れ星を綺麗だといい、二郎は打ちのめされます。夢の中でカプローニに「近眼でパイロットになれなくても設計はできる」と言われて、やっと元気になります。
 これを僕は「二郎は私宮崎だ」という宣言に取りました。宮崎監督の著書に『本へのとびら』という児童文学を紹介したものがあって、その本の中で彼は「グライダーは本当に素敵だし、みなさん免許を取るといいです。私は近眼だし机にしがみつく仕事してて無理だけど」みたいなことを書いています。複雑な空への気持ちがあると思います。それが、この辺り、少年時代の二郎の描写と重なるように思えました。実の息子に「父親らしいことは何1つしてもらったことがない」と言われてしまうような、宮崎駿という男の生き様も重なってきます。
 そうして、この礼儀正しく親切で秀才な主人公は、絶対に自分勝手でヤバい奴な筈だと思いながら映画を見ていました。

 その結果が前回に書いたもので、今回は、その追記に当たります。
 追記したいことは、『魔の山』のことです。
 『風立ちぬ』は堀越二郎と堀辰雄の二人をモチーフにしたものですが、これに宮崎駿本人、加えてトーマス・マンの『魔の山』を加えないわけにはいきません。

 『魔の山』という言葉は劇中で何度か口にされるので、別にこれも何かの裏を分析するものではなくて、ただの表層の話になります。「ここは魔の山です」という、そのものズバリのセリフが、『魔の山』の主人公と同じ名前であるドイツ人 カストルプの口から発せられているので、無視できるはずもありません。

 『魔の山』の主人公カストロプは、飛行機技師ならぬ造船技師で、山の結核病院に入院している従兄弟を訪ねて行って、自分も結核だと判明、なんとそこに7年も入院します。
 堀辰雄の『風立ちぬ』も結核の話なので、宮崎版『風立ちぬ』に占める結核文学の比率はかなり高いと言えます。魔の山を訪ねた造船技師は結核でした。では、魔の山を訪ねた飛行機技師に「病」はなかったのでしょうか。結核のことではありませんが。
 「力を尽くす10年」というのは、見方によっては「熱病」に浮かされた10年ということだったのかもしれないなと思っています。結核という悲劇が一連の文学作品を彩ったように、ある才能と熱意の生み出した悲劇がこの作品を彩っています。

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『風立ちぬ』を見て驚いたこと

2013-07-25 00:25:07 | 映画紹介
 宮崎駿の『風立ちぬ』を見ました。かなり驚いたので、感想を書きたいと思います。いわゆる”ネタバレ”がありますので、まだ見てない方は読まれない方が良いと思います。映画を見たこと前提に書きますので、まだの方には意味がわかりにくいかもしれません。

 「えっ、本当に?」というのが、『風立ちぬ』を見た僕の最初の感想でした。なんとなく美しい話として見てしまう物語の基底が、圧倒的に残酷で、これまでの宮崎映画とは次元がまったく異なっています。
 そして、たぶんこの残酷さが宮崎駿の本音なのだと思います。今回、宮崎駿は今までよりも正直に映画を作りました。それは長い付き合いで、今回主人公の声を担当した庵野秀明も言っていることなので間違いありません。何より、庵野秀明が主人公役に抜擢されたこと自体が「正直に作った」という意思表示です。庵野さんに対する宮崎監督の評価は始終一環して「正直」というものだからです。今回も「庵野は正直に生きてきた」から、その声が使いたかったと宮崎駿自身が言っています。

 この「正直」という評価は代表的庵野作品『エヴァンゲリオン』に対しても使われました。「正直に作って、何もないことを証明してしまった」と庵野秀明との対談で宮崎駿は言っています。
 ここで言う「正直」というのは、主に「心の底では考えている残酷なことに対して」正直」ということです。エヴァンゲリオンでは残酷さは正直に画面に現れていました。アスカの乗る弐号機が使徒に喰われてアスカの目から血が吹き出したりするシーンを見れば、そういうのは実にはっきりしています。

 庵野さんが「正直」ということは、宮崎さんは「正直ではない」ということですが、今まで慎重に嘘をついて来たのだと思います。子供向けにオブラートで包むようなやり方で。
 今回、宮崎監督はオブラートを3分の1くらい外しているはずです。その外し方に天才的な技巧を適用することで「正直になっても、俺にはこんなのがある」ことを証明しました。

 『風立ちぬ』という映画は、さっと表面だけ見ると「不安定な時代を生きた、天才技師である男と病を抱えた女の恋愛物語」ですが、良く見ると「美しさを追い求めることの残酷さ」を描いた映画です。
 残酷すぎて、ジブリが果たしてこんな映画を作るのだろうか、と思ってしまうくらいに残酷です。鈴木敏夫プロデューサーが宮崎駿にこの映画の企画を持ちかけたとき、宮崎監督は「映画は子供のために作るものだ」と怒ったそうですが、この映画を宮崎さんは子供にあまり見せたくないのではないでしょうか。あなたが生まれたこの世界は残酷なのだと言うことになるからです。

 主人公、堀越二郎は一見すごく良い奴みたいに描かれていますが、根っこの部分は人の心が分からない薄情者です。映画の端々で彼の薄情さが描かれます。特に妹が訪ねて来る時にいつも約束を忘れていて、妹を一人ずーっと待たせているところに明々白々な表れ方をしています。何時間もずっと待たせて、一言「ごめん、わすれてしまっていたよ」で済ませるのですが、妹は兄が薄情者であることを承知しているので、それに対して文句を言いません。そんな妹も、後に堀越二郎が結婚したあと、妻の菜穂子が可哀想だと泣いて訴えます。二郎の妻菜穂子に対する態度はそれくらい酷いのですが、二郎自身はそれが酷いとは全く気付いていません。二郎はそういうことが分かる人間ではないからです。

 この映画が”恋愛物語”からはみ出るのは、男の方がそういう薄情な男だからで、もっと云えば、二郎は菜穂子を別に愛しているわけではありません。二郎は菜穂子が好きですが、それはほとんど単に菜穂子が「美しい」からです。
 二郎は「美しさ」が好きです。それ以外のことにはあまり興味がありません。飛行機が好きなのも、美しいからで、彼が作りたいのは美しい飛行機です。焼き魚を食べてはその骨の曲率が「美しい」と言います。菜穂子に対しても褒め言葉は「きれいだよ」ばかりです。

 僕が最初に、「あれ?」という違和感を感じたのは、計算尺を返して貰った二郎が教室を飛び出していったとき、菜穂子ではなく、菜穂子の侍女のことを想っていたときです。前情報でだいたい二郎と菜穂子が結ばれることは分かっていたので、どうして菜穂子ではなく、その侍女のことを二郎が好いているのか理解できませんでした。
 にも関わらず、後に菜穂子と再開して恋に落ちた二郎は、堂々と菜穂子に告白します。
 かつては侍女の「美しさ」が好きで、今は成長した「美しい菜穂子」が好きです。

 「二郎と暮らすために、まず結核を治す」と山の療養所へ入院した菜穂子のところへ、二郎は見舞いに来ません。
 それどころか、「大丈夫?心配してる」と1,2行書いた後に、(多分延々と)「今、仲間達とこんなに面白い仕事してるよー」と書いた手紙を菜穂子に送ります。二郎は自分のことしか考えられません。

 この辺りで、ようやく菜穂子は二郎が薄情であることを悟ります。
 自分が、一人の人間として「普通に」愛されているわけではなく、ただ「今のところ外見が美しい」から好きと言われているだけだと悟り、山を下りて二郎の元へやって来ます。
 ただルックスだけで、好きだと言われていても、菜穂子の方では本当に二郎のことが好きなので、くじけずに病を押して捨て身で、言わば命がけで山を下りたわけです。
 命がけで山から街へ、二郎の元へやって来て、二人は即席で結婚式を執り行い結婚しますが、仕事で忙しい二郎と、病身の菜穂子の生活は全く噛み合いません。「いってらっしゃい」と「おかえりなさい」だけです。二郎が仕事をしている間、菜穂子は一人で治療も受けずにずっと布団に寝ていて、その様子を見た二郎の妹は「かわいそう」と泣いて兄に訴えます。菜穂子は二郎に美しい所を見せなくてはならないので、どこにも出かけないのに毎日化粧をしています。
 妹の訴えに対して、二郎は「僕達には時間がないから、一日一日を大事に過ごしているのだ」と答えるわけですが、これは全く頓珍漢な答えです。だって、二郎は朝から夜遅くまで仕事をしているだけで、特に菜穂子と多くの時間を過ごすわけではないからです。もしも、本当に大事にしているのであれば、菜穂子は療養所に返して、二郎が週末にでも訪ねるというスタイルにすればいいはずですが、二郎はそんなつもり毛頭ありません。病身で命を削ってだろうがなんだろうが、朝「いってらっしゃい」と美しい菜穂子に言ってもらって、一日美しい飛行機の設計をして、夜遅く帰ったらまた美しい菜穂子に「おかえり」と言ってもらう。それが彼にとっての「大事にすごす」です。菜穂子の健康も、二人の未来も、菜穂子の望みも、そんなもの知ったことではありません。

 ある日、飛行機の設計が終わり、徹夜明けで帰ってきた二郎が、菜穂子の隣にバタンキューと眠ってしまうと、菜穂子は二郎の掛けていた眼鏡を外します。美しいものを追い求める男の眼鏡を外すのは「美しい私を見るのは、もう最後だ」というサインです。
 翌朝、菜穂子は散歩に行くと嘘をついて家を去り、また山の療養所へ向かいます。これ以上、美しい状態を二郎に見せることができないくらいに病が進行したことを自分で分かっていたからです。喀血したり、しきりに咳き込んだりする姿を二郎に見せるわけにはいきません。そんなことをしたら、途端に二郎に嫌われてしまうことを菜穂子は分かっています。

 菜穂子が去った後、二郎の設計した飛行機のテスト飛行が行われます。今までのテスト飛行は失敗続きで、急旋回などの負荷を掛けると翼が折れたり、機体が空中分解したして墜落していました。
 でも、今回はテスト飛行の真っ最中、山の方へ風が吹いて、機体は美しく飛び続けます。ええ、もちろん、この山へ吹いた風は菜穂子の命が尽きたことを暗示するものです。
 二郎の飛行機は飛び続け、菜穂子は死にました。

 この後、夢の中で二郎は菜穂子に「あなたは生きて」と許されます。
 これは、アニメに身を捧げてきた宮崎監督の、自分に対する許しだと思います。

 菜穂子のことを中心に書いて来ましたが、この映画には別の大きな主題もありました。それは、ここ数ヶ月、特にベーシック・インカムのことを真剣に考えるようになってから僕が考えていたことに似ている、というか、僕とは全く反対の意見で「ピラミッドのある世界が良い」というものです。

 ピラミッドを、僕も本当に例にあげて喋っていたので、この部分が実は一番強く印象に残っています。
「ピラミッドのある世界と、ない世界、どちらがいいか」
 という問いに、二郎は、つまり宮崎駿は「ある世界」と答えます。
 僕は「ない世界」と答えます。

 何の話かというと、ピラミッドのある社会というのは、ピラミッドのような美しいものを、天才的なインスピレーションの具現化を沢山の普通の人々の苦しみが支える社会のことです。
 この映画でいえば、二郎みたいな天才が飛行機を作ることを、他の才能のない人は苦しくても支えるべきだ、という話です。菜穂子の苦しみは言うまでもありませんし、二郎が飛行機の勉強や設計、試作に使うお金もそうです。途中、二郎は親友に「飛行機の設計に使うお金で日本中の子供にご飯を食べさせることができる」と言われています。そうは言っても、友達も二郎も「じゃあ、飛行機のお金を貧しい人々に回そう」なんて思いません。自分達は恵まれていて、好きなことができてラッキー、というのが二郎達のスタンスです。自分達の作った飛行機が、戦争で使われて人が殺されるわけですが、それも大した葛藤なく「お陰で好きなことができてラッキー」という感じです。

 主人公、堀越二郎は、裕福な家庭に育ち、才能に恵まれ、大学卒業後は三菱に鳴り物入りで入って、上司にも部下にも非常に恵まれます。生きにくい時代を描いたということですが、基本的に庶民の生活と二郎は全く関係がありません。銀行の取り付け騒ぎなどで騒然としている街を通るのも、上司と一緒に車に乗ってで、窓から慌てる人々を「ふーん」と眺めているだけです。
 エコな左翼人みたいなイメージにまみれていますが、宮崎監督自身、裕福な家庭に育って学習院を出ています。最終的なところでは、宮崎さんのメンタリティはそういうところに立脚しているのだと思います。でも、そういうのはポリティカリー・コレクトではないので、今まで言わなかった。

 才能溢れた人が傍若無人に振る舞い美しさを追求すること。他の人々、特に庶民がその犠牲になること。そういうものが、残酷だけど、でも残酷さ故に余計に美しいのだという悪魔の囁き、宮崎駿の本音を、この映画は大声ではないものの、ついに小さな声で押し出したものだと思いました。

横岩良太 短編集
横岩良太

TETSUO rave part1 自然編

2013-07-07 19:14:10 | Weblog
 ちっぽけな橋の上に座り、水面の方へ脚をブラブラさせながら、プラスチックカップに入ったコカコーラを飲んでいる。絶え間なく変化する水面の形状が、光の屈折方向をあちこち動かし、その所為で水中の光景はフラフラ定まらない。川底の石も、魚たちも、落ちる白い光も、全てが定常を知らず、どうして僕はさっきまでこの景色をまるっきり静かなものだと思っていたのだろう。

 朝は7時を過ぎていたが、まだ誰も起きてこない。
 ふと見ると、僕の座っている左隣に、一匹の黒い毛虫が歩いていた。彼は、ある地点で立ち止まると、頻りに地面を確かめている。一体そこに何があるのか、僕には良く分からない。でもそのポイントが、彼はどうしても気になるようだった。
 毛虫が地面を確かめているのを眺めていると、やがて一匹の蝿がやって来て、僕と毛虫と同じように、橋の上に止まった。彼は橋の上を素早く歩き回り、毛虫の側に来ると、今度は慎重な面持ちで毛虫に近づいた。毛虫が気になるのか、毛虫の気にしているものが気になるのか、これも僕には良く分からない。そういうことは彼らにしか分からない。蝿は毛虫に触れると、一瞬だけピクリと停止して、そして飛び去った。
 毛虫は毛虫で、地面に興味をなくしたのか、僕とは反対の方向へ橋の上を歩き始めた。人間が10秒ほどで渡る橋を、この毛虫はどれくらいの時間で渡るのだろうか。

 ゆっくりと、しかし確実に遠くへ歩いて行く毛虫を見ながら、僕はあること気が付いた。自然に対する見方が、昔と決定的に変化している。子供の頃なら、毛虫がいたら、ただ避けていた。蝿というゴミを連想させる生き物が何を考えているのかなんて、考えもしなかった。
 そういえば、さっき歩いていて、シカや、それより幾分大きな生き物の足跡を幾つか見つけたけれど、この川原で足跡を見つけたのははじめてのことだ。きっと、昔はそういうものが見えなかったんじゃないだろうか。
 子供の頃、川や山はただの遊び場で、虫は邪魔で気持ち悪いものだった。いつのまにか、それらは随分といとおしいものに変化していた。
 僕は思うのだけど、もしも山や森林に、何かの精のような、霊魂のような、トトロのような存在があるのだとしたら、それらは子供にしか見えないのではなく、大人にしか見えないのではないだろうか。

 いくつか前の記事に「TETSUO rave part1 反省編」を書いたけれど、これはその翌朝の話で、パーティーの後、僕は夜を一人外で明かした。厳密には、テントや車内に寝場所がなかったわけではないが、多少の雨にも関わらず、どうしてか外で眠ろうと思った。
 準備とパーティーで忙しく、一日ほとんど何も食べていなかったので、燻っている焚き火の中からアルミホイルに包まれ焼け焦げているドライカレーを拾い出し、全部食べた。体が猛烈にカロリーを欲していて、普段はほとんど口にすることのないコカコーラもガブガブと飲んだ。もうみんなテントに入って眠っていて、僕は一人だった。
 みんながキャンプを張っている地点から、川をいくらか上流へ歩いて行くと、僕が何度もテントを張ったことのある、いわゆる「お気に入りの」川原がある。ドライカレーとコーラを摂取したあと、そこへ向かって歩き始める。猛烈に眠たい。装備は最低限で、寝袋の代わりにサバイバルシート、ライト、ライター、レザーマンのナイフ。
 川を臨む岩の上を歩いていると、深くなって流れが緩やかな淵に、三匹の大きな魚が泳いでいる。恥ずかしい話だが、僕は魚の名前がほとんど分からない。僕は水の中を知らない。

 川原は、形状を変えていなくて、まだ十分な広さを保っていて、僕はそこへ下りてシートを広げ寝転んだ。上流へ少し歩くだけで、気温が随分と低くなっていて寒い。このままでは到底寝れないので、急いで枝を拾い集めて小さめに焚き火を起こした。
 暖かさは重要で、火は偉大だ。
 焚き火の側で、僕はうつらうつらと眠った。
 谷間に沿って、大きな鳥が、頭上を飛んで行く。

 それほど長くは眠っていない、周囲がすっかり明るくなり、もう誰か起きているだろうかと、僕は焚き火を消してシートを畳み、脱いで乾かしてあったビブラムを履いて、みんなのキャンプへ戻った。意外にもまだ誰も起きていなくて、仕方なくコカコーラをカップに汲み、僕は橋の上に座った。その後、しばらく川を眺めた後、毛虫の存在に気が付いた。毛虫が遠くまで歩いて行った頃、今度は三脚とカメラを担いだ、朝早い一人のハイカーが現れた。僕と彼は自然に挨拶を交わし、3分程立ち話をした。そろそろ、みんなも起きて来ることだろう。

わしらは怪しい探険隊 (角川文庫)
椎名 誠
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