僕達に自由意思はあるのか?

2010-06-27 12:12:26 | Weblog
 久しぶりに自由意志について書こうと思う。何度か書いたことの繰り返しになるけれど、ちょっと整理しておきたい。いつもなんとなく気にして、その実あと一歩のところで考えることをやめていた。

 まず、僕達に自由意志があるのかどうかという問い。つまり、僕達は与えられた状況、おかれた環境において自由に行動や思考を選択できるのか?という問題。

 普段、僕達は自分で行動を選択していると思いこんでいるけれど、実はそうではない、と考える方が理に適っている。

 先に言葉を定義してしまおう。
 この文章中では、僕達が普段思っているような自分のことを素直に「自分」と呼ぶことにする。本当に「自分」という認識は存在しているのかとか、その認識はどこに担保されているのかとか、そういった問題はここでは問わないことにする。
 嘘でも本当でも僕達はそれぞれが自分という認識を持っている。そこには超常的に主体が発生している。主観が発生していることの超常的異常さと不思議については、これも何度も書いているけれど、また改めて別の機会に書きたい。今日は主観の不思議は問わず、その存在を前提として話をすることにします。

 僕達は自分という主体を持っていて、その主体の意志で物事を決めているつもりになっている。でも本当にそんな自分の意志なんてものは有り得るのか、という問題。
 僕達は自分で物事を決めているのではなく、全ての動作思考が単にメカニカルにピタゴラスイッチみたいに動いているだけなのに、それを自分の意志で決めたと勘違いしているだけなのではないか?

 ちょっとクドくなりましたね
 先へ進みましょう。

 人間という存在、自分という存在はあまりにも難解すぎるので、もっと簡単に人工知能をコンピュータで実現した場合のことを考えてみよう。
 先ほど書いたように、ここではAIが意識を持ち得るのかというチューリングテスト的なことは考えない。もっと言えば、ここでは意識や意志という言葉を使わなくてもいいかもしれない。その為に人間ではなくコンピュータを思索対象に選んだ。

 ここでのポイントはただ一つ。

”””「物理法則に従った一連の流れの連鎖」で動いているこの宇宙において、「今ここ」を起点とした流れなんて生み出すことができるのか?”””

 だって、宇宙は因果関係の連続で動いているわけですよね。それを「今ここ」で断ち切って、そこから全く新しい因果関係の連鎖を始めるなんてできっこないように見えませんか? なぜなら「今ここ」で連鎖を断ち切る時に僕達が使える道具もまた今までの因果関係の連鎖に含まれているからです。それどころか僕達自信がそこに含まれているのではないだろうか。宇宙にはそれしか存在していない(ランダムな要素については後述します)。

 AIを今のノイマン型コンピュータで実装するとします。僕達はその時何をするのでしょうか。僕達がすることはAIが自分で判断できるようなプログラムを与えることです。つまりルールを。それがどんなアルゴリズムでも、ファジーでも遺伝的でもニューラルネットでも、アルゴリズムを生成する為のメタなアルゴリズムであっても、僕達にできるのはこれまでの因果関係の続きにくっつける別の因果関係を与えることだけです。真に自発的に何かがAIの中で起こるわけではない。AIはアルゴリズムのレベルで与えられた因果関係に従い、もっと深いレイヤーではチップ内の電流の流れという極めて明白な電磁気学のルールに従っているだけだ。
 ルールに従って動くだけの機会を僕達は自由意志とは呼ばない。

 それがAIの中であろうと、ひいては僕達人間の「自分」という場においてであろうと。因果を断ち切って新しい何かを始めるなんて、そんな奇跡的な暴力行為を、我々は行うことができるのでしょうか。
 これはぱっと考えてみれば「できない」と思うのが普通だと思います。なのに僕達は24時間これが「できている」と思い込んで生きています。

 もちろん、これを「できない」と素直に認めて絶望していた人々も歴史上には沢山存在します。こう言った考え方はニュートン力学の誕生以降ずっと存在していて、機械論的世界観とかニュートン力学的世界観とか呼ばれてきました。
 全ては宇宙がはじまった瞬間の初期値で決まっていて、あとは僕達の人生の全部を含めて何もかも決められた通りに動いていくだけだ。自分の人生を自分で決めるなんて笑止千万って。

 長くなって来たので、続きは次回に。
 量子力学が登場したとき、人々はその「曖昧さ」に自由意志への一縷の望みを見ますが、考えてみればそれも。。。

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オザケン@京都会館その1。その夜ニューヨークは真っ暗だった。

2010-06-26 15:14:01 | Weblog
 だけど、僕は上を向いて天井を眺めていた。
 ステージの上から緩やかなドーム状のカーブを描いているはずの真っ暗な天井を。

 会場は真っ暗だ。
 ステージの上にだけ、微かなスポットライトが落ちていて、その小さな光の中に彼は立っていた。彼はニューヨークで起こった停電のことを話していた。2003年の夏、ニューヨークでは大規模な停電が起こり、設備の大半を電力で動かしている世界一番巨大な街は機能を停止した。交通網と通信網を失った街には、家へ帰ることのできない人々が溢れた。停電はニューヨークだけではなく北米とカナダにまで広がっていて、復旧の見通しは一晩なかった。

 その夜の話だ。
 電気がないと動かない、世界で一番大きな街が電気を失い、そんな中で真っ暗な一晩を過ごすのは恐ろしいことなのかもしれない。
 でも、彼が語ったのはそういった恐怖とは別の話だった。 

 電気のない街にはロウソクが灯り始めた。冷蔵庫が動かなくてどうせ腐るからと、食料品店がただで食品を配り、ロウソクの灯りで人々がそれを調理した。周囲の状況に耳を澄ませ、困っていそうな人を助けたり、感じの合いそうな人を探したり。
 テレビの代わりに電池で動くラジオが大活躍した。ラジオからは音楽が流れていた。

 そうして、人々は真っ暗な大都会で一夜限りのパーティーを始めた。

 それは、もしかしたらこうであったかもしれない別の世界の在り方だった。いつもとは全然違う、別の可能性だった。僕達はそういう風に、それぞれが助け合い、みんなで音楽を聞いて、ロウソクの灯りの下で食事をして、って風にも暮らせたのかもしれない。

 夜が明ければ、一夜限りのパーティーは終わり、人々は忙しいニューヨークの日常へ戻っていく。
 だけど、一度見た、その別の世界のことを、別の在り方のことを、別の可能性のことを忘れることはない。

 ステージの上で、小沢健二はそういうことを朗読していた。僕は生まれて初めて目にするその人の方を見れば良かったのかもしれない。小さな光の灯るステージの上を。
 だけど、僕は天上を見ていた。

 朗読が終わると音楽が演奏され、そして真っ暗闇という停電の演出は終わり、豊かな明かりがステージを照らし出す。今は遠目にもはっきりと小沢健二の姿が見えた。
 ステージから溢れた光は僕の眺めていた天井へも届き、前川國男がデザインした曲面に豊かな陰を落とした。
 1960年の完成以来、きっと一度も日の光を浴びずに、数々のステージを見守ってきたこの天井はさっき小沢健二が読み上げた朗読をどのように聞いたのだろう。

 一夜限りのパーティーが始まる。

 (その2へ続く)

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仏教の国へようこそ。あるいはバカボンについて。

2010-06-25 14:16:40 | Weblog
 最近知ったことだが、赤塚不二夫の天才バカボンというのはサンスクリット語のバギャボンだかなんだかから来ているらしい。そのバギャボンだかなんだかという言葉の意味は覚者、つまり悟りを開いた者であり、僕たちに馴染み深いブッダという言葉と大体は同じ意味のようです。

 バカボンの弟、はじめちゃんは生まれてすぐに言葉を話した天才児ですが、これは生まれてすぐに7歩歩き 天上天下唯我独尊 三界皆苦我当安之 と言ったブッダの誕生を彷彿とさせ、さらにハジメという名前自体もインド哲学者の中村元から取られているとの説があります。

 ブッダの弟子には知恵遅れで数も数えられないチューラパンダカという者がいました。彼は毎日掃除することで悟りを開きます。
 そう、彼がレレレのおじさんのモデルだそうです。

 これはチューラパンダカの話ではなかったような気がしますが、掃除と仏教と言えば以前本屋で面白い絵本を立ち読みしました。ある若い僧侶が掃除をするように言われ、毎日毎日掃除をします。どれだけきれいにしても師匠からは「まだ汚れている」と言われ、その度に「わかりました、もっときれいにしましょう」と応じ、しぶしぶながらも掃除を続けます。
 そんなある日、ならず者が寺へやってきて掃除をしていたこの僧侶をからかいました。何を言ったのかは知らないけれど、汚い言葉で罵ったり、優位な気持ちになりたいとバカにする言葉を吐いたり。
 そういった雑言を浴びせられた僧侶は思わず「はい、きれいにしましょう」と返事をしてしまい、この瞬間に悟りを開きます。

 そういえば映画「ベストキッド」もこういう感じの話でしたね。ミヤギさん(老空手家)に弟子入りしたら毎日掃除させられて、「毎日掃除ばかりじゃないか、空手を教えてくれないならもういい」とダニエル(アメリカ人の少年)は出て行きそうになる。するとミヤギさんは「ちょっと待ちなさい、そこに立ちなさい」と言って少年に殴りかかる。少年はとっさにそれを防御し、その動作が毎日の掃除で身に付いたものだと、掃除の意味を悟る。
 なんて素敵な話だ。

 僕はそんなにバカボンを見ていたわけではないので、どういう話だったのかあまり知らない。けれど、「こーれーでーいいのだー こーれーでいいのだー」という歌は脳裏に染み着いている。

 医者の助言を聞かず、人は死ぬときは死ぬのだからと酒を飲み続けて彼が死んで行ったとき、僕たちは色々なことを感じたのではなかっただろうか。

 赤塚不二夫は実はものすごく幅広い人々に仏教的な影響を与えた漫画家だった。それは良いも悪いも関係なしに、僕達日本人の骨身と血肉になっている。
葬式でもお経でもお寺でもなく、天才バカボンというマンガによって仏教はもっと近くに浸透した。
 「これでいいのだ!」ってさ。

 ハイテクで混沌とした21世紀の日本。
 仏教の国へようこそ。

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ポメラ pomera DM20

2010-06-23 02:41:01 | Weblog
 しばらく前にポメラDM20を買いました。
 ポメラというのは文章作成機能だけを持ったガジェットで、折り畳み式のキーボードに小さなモノクロの液晶が付いたものです。昔のワープロをご存知の方は、あれが少し大き目の手帳くらいになって、インクリボンを使っての印字機能等がなくなったものを想像して頂ければ良いかと思う。
 ネットブックもある昨今、こんな作文しかできない道具が売れるとはあまり考えられていなかったようですが、予想に反して売れ、今ではモデルも3種類出ています。とは言っても世間一般に存在が浸透したガジェットでもないのか、電車なんかで開いて使っていると「なんて小さいPCだ!!!」といような好奇の目で見られる。

 ポメラを買ってからいくらか時間が過ぎたので、今日はこの道具についていくつか感想を書こうと思います。

 総論としては、僕はこのガジェットがとても気に入っています。毎日鞄に入っているし、毎日使っている。これまで、ある文章を思いついたとして、そのキーワードだけをiphoneに書き留めたりして、それでも頭の中が止まらなくて、流れていく思考を眺めながら「これを今書いておくことができればなあ」と思っていることが時々あったのですが、それからはほぼ解消されました。今もこの文章をポメラで書いています。

 では、良い所と悪い所をそれぞれ。

 まずは良い方から。
 液晶の画面ですが、モノクロでも十分に見やすいです。文字も大きさが7段階選べて、F6キーを押せばサクサク変わります。書くときは大きめにしておいて、全体の構成をざっとみたいときに小さくしたり、結構自由に変えることができます。
 それから液晶のレスポンスとコントラストも十分です。これはレビューを読んでDM20を選んだ一つのポイントでもあるのですが、画面に関しては小さいもののストレスはなく使えます。
 そして、この光輝的ではない画面はとても目に優しいです。PCの液晶モニターで作業しているときに比べてぐんと目が楽だ。
 さらにこのモノクロ液晶にはまだメリットがあって、それは消費電力がとても小さいこと。お陰でポメラはアルカリ単4電池2本で20時間くらい、同サイズのeneloopで15時間くらい駆動します。これだけ電池が持つのであれば、バッテリーを気にする必要は全くなく、使っていない間でも電源を入れっぱなしにして気にならない。まるで紙のノートを開いている気分です。僕はアマゾンでなんと驚愕の73%オフだったeneloopを入れて使っています。この電池は継ぎ足し充電ができるので、たまに充電してやればまずバッテリーで悩まされることはない。もしも切れてしまったらコンビニで電池を買えばさらに20時間使えるし、どうしても心配ならアルカリ電池を鞄に入れて置いてもいいかもしれません。

 キーボードは慣れるまで30分くらい掛かりました。一旦慣れてしまえばこれもブラインドタッチで普通に使えます。
 折り畳み式のモバイルでここまで使えれば文句はありません。

 それから、起動とシャットダウンについては早くて嬉しいです。電源入れて2秒で書けるというのは誇大広告ではありませんでした。さっとキーボードを開いて電源入れてさっと書けるのは本当に嬉しい。
 電源を切るときもキーボードを畳めば自動的に電源が落ちます。電車で目的の駅に着いたらさっと畳んで鞄に入れることができる。もちろん次に開いたときには前回の画面がそのまま出てくるので続きをすぐに書くことができます。

 あとQRコードの生成機能ですが、これもDM20を選んだ理由の一つで、僕はiphoneと連携して使っているので必要な機能でした。実はアパートにインターネットを引いておらず、ネットは研究室かiphoneという状態なのですが、僕の場合はポメラがあることで部屋にネットがなくても十分になりました。長いメールもブログもポメラで書いてQRコードを使ってiphoneに送ってネットに持ち込んでいます。連続QRコードの読み取りもスムースなのでここもストレスなく使うことができます。

 さて、それでは良くない点ですが、これはもう圧倒的に残念なところが一つあって、変換が弱すぎます。中学生レベルの漢字しか出て来ません。変換ではかなりのストレスを感じています。仕方なく平仮名のままにしたりして、まるで自分の書く文章ではないように見えることすらあります。

 他に、特にDM20の場合ですが、外装デザインが終わっています。これは失礼な言い方だし、向こうには向こうの事情があったのだろうけれど、どうしてこんな変なデザインになったのか全く理解できません。着せかえパネルのようなものも売られているのですが、そんなに欲しいというほどの物でもなく、さらに高々プラスチックの板が3000円くらいとかなり足下を見た値段設定なので、僕は買わないで自作しました。そこまでこだわりがあるわけではないのですが、恥ずかしすぎてモバイルなのに人前で使えないくらいのデザインだったので仕方ありません。

 もう一つ、些細な欠点ですが、ファイルの管理がやりにくいです。
 ホーム、あるいはデスクトップに当たる画面がないので、たとえば開いているファイルを移動したいとき、そのファイルを閉じる必要があるのに、単にファイルを閉じるということができません。閉じるのではなく、代わりに他のファイルを開く必要があってこれは結構な手間です。ホーム画面も用意されていると嬉しいなと思います。

 と、以上pomera DM20の簡単なレビューでした。

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銀行に集まる個人の小さな力

2010-06-20 01:03:16 | Weblog
 銀行というものが長い間好きではなかった。今も別に好きではないから、好きでは無かったという表現は控え目すぎるかもしれない。僕は何となく銀行というものが嫌いだった。たぶん、お金というのは何かと汚いものだ、というような道徳を子供の間にはそれとなく吹き込まれるからだろう。

 随分昔のある時、僕は日本で最初に銀行ができたときの話を聞いた。もうその銀行の名前すら覚えてないけれど、その話の一部は印象深くて今も忘れない。
 その時、日本にはまだ銀行がなくて、それで誰だかが「日本にも銀行を」と奮闘し銀行ができた。彼は銀行が存在しなかった時代に「どうして銀行が必要なのか」ということを説かねばならなかった。

 僕はそれまで、どうして銀行が存在しているのか、深く考えたことがなかった。せいぜい金庫の代わりか何かとしか思っていなかった。家にお金を置いておくのは不安だから、セキュリティのしっかりしたところに預けておくのだ、と。

 僕のあまりにも浅はかな銀行理解に反し、銀行設立に奔走するその男が主張したのは「みんなの力を少しづつ集めて大きなことを成す」という事だった。
 たとえば、100万人の人々がそれぞれ100円を貯金箱に持っていても、それは世界を動かす力にならない。でも、この100万の人々がそれぞれの100円を銀行に預ければ銀行には1億円のお金が集まる。1億円あれば、それを借りた人が何かの事業を始めることが可能だ。それは社会に流れをもたらす。

 この話を聞いてから、銀行と、それからお金に対する見方が変わった。お金というのは世界中の人々が力を貸したり借りたりするときに使うコミュニケーションの道具だ。

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電子書籍の自炊が変に見えて仕方ないこと

2010-06-16 13:06:38 | Weblog
 電子書籍の黎明期にあって、自宅で書籍を裁断しスキャンする人が出現している。そうしてpdf等にしたデジタルデータを電子ガジェットに入れて持ち運ぶというスタイル。こうして蔵書を電子化する一連の作業を表す「自炊」という言葉も定着しつつある。

 需要があればどこにでもサービスが発生するように、自炊を代行してくれる会社もいくつか現れた。
 本を送れば一冊100円程度でPDFに変換して送ってくれるということだ。

 本をいちいちバラバラにすることには、スキャンをしやすくする為だけでなく、著作権を守る意味もある。
 スキャンの代行はコピーであってはならない。それでは勝手に複製を作って利益を得ることになり法に触れてしまう。でも元の本がバラバラにされて捨てられるなら、それは複製ではなくデータの移行になる。
 詳しくは知らないけれど、大体はこんな感じでスキャン会社は営業が可能なのだと思う。

 ツイッター以前書いたように、この自炊について、もしも多数の人が同じことをするのであれば、これは社会的な無駄になると思う。個人であれ、代行会社であれ、製本された本をバラしてスキャンしてデータにするなんて。
 これが無駄だと思う最大の理由は、データがすでにこの世の中に存在していることだ。だって、出版社には既にデジタルデータがありますよね。今は入稿ってデータだろうし、昔の物も再版だとか色々で大体はデータになっているのではないかと思う(これは思っているだけですが)。

 では、もうそのデータを本と交換にダウンロードできるようにすれば良いのではないかと思うのです。いくつでも簡単に複製ができることはデジタルのメリットなのに、各自がスキャンしてデジタル化するというのは、余計なお世話だろうけれど悲しい話に見えてしまう。

 それから、スキャンして本を捨てるというのは、なんというか本に対してあまりにもあまりにもなのではないかと思うのです。
 僕はそれほど物を大切にする人間ではなく、実際に、二度とは読まないなと思った本は読んだ所まで破り捨てるようなこともしていました。そうすれば栞も要らないし、荷物もコンパクトになる。

 その僕ですら、もしも自炊する人が増えるならという前提下、せっせと本を切り刻んで捨てるというのはあまりにもあまりにもだと思えてしまいます。
 だから自炊というのはどうにもおかしなことに見えてしまう。

 著作権を守りたいというのも良く分かる。僕達のこの世界に本がたくさんあるのは出版業界のお陰だし、著作権というシステムはそれなりに上手く機能してきた。ここで急に、お金お金なんて著作権の話ばかりしないで、なんて言うつもりは全然ない。

 ただ、もう少しなんとか効率的にならないものかと思う。
 たとえば、こういうのはどうだろうか。
 大日本印刷(DNP)は数年前に「ジュンク堂、丸善」という大手書店を二つ傘下に納めていて、さらに古本屋最大手ブックファーストまで持っている。
 言うまでもないが、ジュンク堂、丸善は日本のほとんどの出版社とコネクションを持っている筈だから、データをDNPが集めることは可能だろう。ならば「DNPがシステムを構築し、ジュンクと丸善(もちろんウェブも)を窓口として紙の蔵書を回収、回収した本のデジタルデータを低価格で顧客にダウンロードしてもらう、回収した本はそのままブックファーストやあるいは図書館などの公共施設に流す」というのは成立しないだろうか。
 出版社、書店、DNPで上手く話をつければ全員が儲かるようにもできるのではないかと思う。出版社はデジタルで買い直して貰える機会を減らすことになるが、それでも一度売れてしまった過去の書籍から再びいくらかの利益を得ることができる。丸善ジュンクは手数料を得るし、ブックファーストは只で在庫を増やすことができる。ユーザはスキャンという手間と、その為の時間から解放される。代行サービスよりも実際のスキャンが入ってこない分早く安くできる筈だ。

 そして何より、電子化された分だけ本の総量が増える。切って捨てたりなんてせず、再販だとか寄付という形で、つまり人が読むことのできる形で紙の本を残すことができる。電子を選ぶ人もいれば、紙を選ぶ人もまだたくさんいるのだから、それもいいことだと僕は思う。

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植物の支える世界のエントロピー

2010-06-14 22:14:19 | Weblog
 世界はどんどん豊かになる。
 資本主義というのは、一定の豊かさを奪い合うゲームではなく、どうしたらみんなでより上手に豊かさを増やして行くことができるのか考える行為だ。ゼロサムじゃない。本来それはポジティブである。

 「生命」というものを、仮に「エントロピーを減少させるシステム」だと定義してみよう。いやいや、生命というのは外殻を持ち、自己を維持することができ、子孫を作ることができる云々という人がいるかもしれない。でも今はエントロピーという言葉だけを使う。心配しなくても、生命というものが一体何なのか完全に理解している人はこの世界に一人もいないし、僕達は自由に好きな説を唱えれば良い。本当は何事についてもそうであるように。

 エントロピーは一般に「乱雑さの度合い」と解釈されているけれど、元々熱力学で使用される概念だった。熱という漠然としたものを定量的に扱うことを可能にした天才的な発想。ルドルフ・クラジウスが1865年に発表している。今からおよそ150年も昔にこんなことを考えたなんてクラジウスをはじめとした当時の物理学者のものすごい想像力に圧倒される。
 さらに1940年代の終わり、情報理論をほとんど一人で生み出して完成させてしまった天才クロード・シャノンが、情報を扱うときにエントロピーを導入している。情報理論も情報という漠然たるものを定量的に扱うことを可能にしたし、熱と情報は同じものである、という驚愕の事実を示した。

 この宇宙では、放っておくとエントロピーは増大する。それを言葉で「乱雑さが増える」とか、良く聞かれるように「整理しないと部屋がどんどん散らかっていく」と表現するのは乱暴過ぎるので、ここでは砂浜を使って大体のイメージを説明したい。
 それは風の穏やかで、加えて波も穏やかな心地の良い砂浜だ。きっと太陽も強すぎないだろう。ビーチには凹凸もなくてほとんど平らだ。この状態を僕達は「エントロピーが最大」の状態と言うことができる。散らかっているというより、砂がこれ以上均一になれないくらい均一になっている状態だ。その砂浜で、僕達は巨大な砂の城でも作ろうと画策する。ビーチを独占して砂を全部使って、せっせと作業をして城が完成したとき、僕達はこれを「エントロピーが最低」の状態だと呼ぶことができる。全くもって均一な状態のビーチとは対局の状態だ。

 幸か不幸か、砂の城は放っておくと爽やかな風だとか波だとか、あるいは雨に打たれて壊れてしまう。それで僕達が作り上げた精巧で巨大な城なんてものの数日で真平らなビーチに戻るだろう。
 これがエントロピー増大則というものだ。落としたインクが水の中を均一に広がって水全体に色が付くこと。放っておいてもその逆は起こらないこと。

 僕達生命は奇跡みたいにしてその熱力学第2法則に逆らっている。リンゴだとか刺身だとか、生命体がこの混沌たる世界から抽出生成したエントロピーの低い食べ物を口から取り入れて、エントロピーの高い大小を排泄して生きている(この辺は語弊があるかもしれませんがこの表現で)。

 僕達は生物という低いエントロピーを食べているわけで、それで低いエントロピーを保つことは比較的簡単かもしれない。
 本当に奇跡的なのはむしろ植物の方だろう。太陽のエネルギーを利用して、大気中に拡散した炭素を集めたり地中のミネラルを集めたり。

 僕達の世界というのはダイレクトにこの植物の恵みで動いている。太陽のエネルギーは無論他にも色々な経路で僕達の社会を動かしているけれど、直接的な生命の、僕達の体の動力源としては植物が地球上に拡散した様々な成分を収集してくれることだけがポイントになる。

 これは食物連鎖を知る僕達にとっては本来自明な筈だけど、でもすぐに忘れてしまう。
 そして、この植物からやってくる富を僕達が使い、つまりはそれを食べて動き、そして物を作るという形で富を変換していることをもっと激しく忘れている。

 自然からの恵みが、有り難すぎることに毎年送られてきて、それを食べて物を作った物は「残る」。次の年の恵みで僕達はまたその上に新たな物を構築して、それが毎年毎年繰り返される。
 だから、富というのは増えるのだ。有り難い自然の恵みの分量だけ、それは毎年増える。
 もちろん、作られたものが壊れるという形で、ここにもエントロピーの増大は起こり富は失われる。それでも、人類の歴史を見れば分かるように僕達人類は富の増加がマイナスにならないように工夫を重ねてきていて、現に世界にはこんなに富が増えた。奇跡みたいな植物達が支えてくれてるのだから、毎年の富の増減をポジティブに保つのは本当はそんなに難しいことではないのだ。
 そして資本主義というのはその工夫の一つで、次回はそのことを書きたいと思う。

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働くことが厳しくなくても良いのではないかと思うこと

2010-06-13 22:22:23 | Weblog
 しばらく前の話だけど、「日本の労働環境、あるいは職場って変じゃない?」という話に興味を持っている人の間でちょっと有名になった書き込みがあります。

 その人はある会社の事務みたいなところに就職したのですが、表計算ソフトのスキルが高かったので自分の仕事がほとんど自動化できることに気付きました。そしてマクロを組んであっさりと仕事を終わらせた。
 これは会社としては喜ぶべきことだし、もしかしたら経営者は喜んだかもしれない。でも部署の上司や同僚の反応は違った。彼らは「それはずるい」「他の人はみんなちゃんと手で入力している」というようなことを言いその人を凶弾したらしい。

 ここまでバカなことが起こるのは少数の会社で少数の部署の話だと思う。
 だけど、これを読んだとき僕は友達のSのことを思い出した。彼女は「私ってなんでこんなにプライベート上手く行かないんだろう、仕事は限界感じたことないし余裕なのに」と豪語するインハウスのデザイナーで、実際に他の働く友人達と比べてもかなりゆとりある生活をしているように見えた。
 ただ、僕は彼女が「私、頑張ってテキパキ仕事したら、どうやらみんなには早すぎるように見えるらしく、サボってると思われるから、だからなるべくわざとゆっくり仕事してるの」と言っていたことを忘れない。

 昨日、ある経営者がこういうツイートをしていた。「私の場合、集中して働くと、夕方にはエネルギーが切れてぐったりと動けなくなってくる。私は特別体力がないのだろうか。緊急時に時々なら理解できるが、日常的に残業して夜遅くまで働いている人達を見ていると、昼間サボっていたから夜にああして働けるのだとしか思えない」

 これは会社で働いたことのない僕が言うと怒る人もいるかもしれないけれど、僕が言っているのではありません。その百戦錬磨の経営者の人です。本当は時間内に片付かない無理難題を押しつけられたりしていて限界を越えて働いているのだと思う。あしからず。

 昼間サボって夜に頑張り、「昨日徹夜で寝てない」と頑張った僕私をアピールする悪い癖は働く人だけでなく学生の間にも多く見られる。実際に僕も人のことを言えなかった。
 これを「時間にメリハリのない不毛な生活」と見るか「限界までサボり深夜の追い込みパワーで仕事を仕上げる生活を楽しむ知恵」と呼ぶかは意見の分かれるところかもしれない。
 どちらにしても、人が一日に使用できる集中力には限界があるし、むやみに長い間働けば良いというわけでもない筈だ。

 僕がこういう風に日本の会社に対して批判的な意見を取り上げるのは、自分ならそんなところで働きたくないからで、半分は自分の為に書いている。日本で働くという選択肢を取るなら、その時はみんなが働き易い環境で働いていて、誰も「社会というのは厳しいものだ」とか言わない社会で働きたい。みんなが優しくなり「社会というのは優しいものだ」ということを言う社会だって有りだと僕は思うのです。

 こういうことを書くと「あまちゃんだ」「理想論だ」みたいな批判が飛んでくるのですが、だから僕はどうしてみんながそんなに厳しくしたがるのか、理想的なのを目指さないのか、ということを問うているわけです。
 そして、最近そう思い始めているのですが、日本では多くの人が「厳しい」「苦しい」を好むのかもしれないし、そうだったら別にこの国で暮らさなくても良いなと思っています。みんなが好きでやっていることだっったらそれはそれで僕が口出しすることじゃない。

 僕は昔やっていたアルバイトで、「ここで社員として働きたい」と思ったことが一度もない。それどころか「どうしてこの人達はこんなところで社員として働いているのだろう」といつも思っていた。それはもう本当に過酷な生活に見えたから。
 大抵の場合、その過酷さは「人が足りていない」ことに由来するようだった。なのに不思議なことに働きたくても働くところのない人達もたくさんいるということだ。

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僕はコーヒーが飲める

2010-06-13 00:58:48 | Weblog
 新車の匂い、と名付けても良い匂いがあると思う。あの飛び回るプラスチックの分子をダイレクトにキャッチしたような匂い。父は数年前にきっぱりタバコをやめたが、僕が子供の頃、両親は共に結構なヘビースモーカーだった。

 新車の匂いと、早速そこに染み着いたタバコの匂い。夏の炎天下に止めておいて、それらの匂いが充満した車内。乗り込むときに換気はしたけれど、でもそんな短時間の換気がどうにかできる種類の匂いでもなく、さらに車内の空気をこれも独特の匂いを持つエアコンが強風で撹き回す。
 それで、僕はさっきチョコレートを調子に乗って食べ過ぎたばかりだ。
 こういう時、車が山道を曲がれば、僕はもう胃の中身をそっくり吐き出すしかない。運が良ければ車外かビニール袋の中に、悪ければTシャツとシートの上に。

 コーヒーという世界中で広く飲まれている嗜好品に対する僕のイメージというのは得てしてこういうものだった。
 何故なら、僕はコーヒーを飲むといつも吐き気がしていたから。

 味も香りも好きだった。小学生の頃はコーヒー牛乳を牛乳でかなり薄めたものを飲んでいた。コーヒーゼリーも食べていた。
 でも、そこまでだった。
 ある日僕は両親が飲んでいる「普通の」コーヒーを飲んでみた。それはなんだか重たくて、大人ぶって飲んだけれどしばらくすると吐き気に襲われた。

 何度か試してみても、どうやら僕は本当に「普通の」コーヒーを飲むと吐き気がするようだった。
 もう全然覚えていないのだけど、結局高校生になる頃には諦めて全くコーヒーを飲まなくなったと思う。祖母もコーヒーを飲むと気持ち悪くなると言っていたので、そういう遺伝もあるのかなと思っていた。

 以来、僕は出されるコーヒーも全部断って飲んでいない。作業の時に誰かが気を利かせて買ってきてくれる缶コーヒーも、客室で出されるコーヒーも。
 もちろん、お店でコーヒーを頼むこともない。コーヒーの有名なカフェに入って結局はココアを飲んだりというように、それはそれでなんだか寂しいものだった
 一度だけ、サプライズでサイフォン一式を持って来てもらったことがあって、その時だけ一口飲んだ。その時も一口で「たぶんこれ以上は飲まない方がいいな」という感じがした。

 そんな僕が昨日コーヒーを飲みました。
 一口ではなく、一杯。
 吐き気もほとんどしなかった。

 吐き気もなかった、というのはコーヒーを飲んでのかなり消極的な、じゃあ飲むなよ、とでも言われそうな感想だけど、これは僕にとっては大きな前進です。
 コーヒーを飲んでも吐き気がしない。僕はコーヒーを飲むことができる。

 ずっと、別にコーヒーなんて飲めなくてもまあいいや、と思っていた。それが変わったのはあるブラジルカフェでのことだ。
 そのお店は僕の大好きなお店で、なんとブラジルコーヒーが一杯たったの200円という緩い値段設定になっている。僕はコーヒーとは無縁なので、いつもフェジョアーダなんかを目的にしてそこへ行っていた。

 ただ、一月程前にものすごく気になって一口だけアイスコーヒーを飲ませて貰ったらものすごく美味しかった。
 僕はコーヒーの味が苦手なのではなく、飲んだ後に吐きそうになることが問題だったので、味自体はとても魅力的だった。でも、後で吐きそうになることを覚悟してまで飲む気にはなれないし、一口飲んでおいしいなと思うに止めた。
 でも、コーヒーのことがなんとなく気になるようになった。

 そして昨日、アマゾンからローソンに届いていたタリーズジャパン創業者、松田公太さんの本「すべては一杯のコーヒーから」を読んで無性にタリーズのコーヒーが飲みたくなり、夕方に三条のタリーズでコーヒーを注文した。
 生まれて初めてコーヒーを注文した。

 注文するのもはじめてなら、カップ一杯のコーヒーを飲み干すというのも生まれて初めての体験だった。同行者に「大丈夫?」と見守られる中、僕はコーヒーを全部飲んでみた。しばらく立たないと気持ち悪くなるかどうかは分からない。

 ツイッターで状況を書くとなんと松田さんから直々にリプライがあった。「コーヒー好きになって下さい!」
 調子に乗って「もうなりました!」と返事をする。

 30分経っても、1時間が経過しても、なんと僕は気持ち悪くならなかった。どうやらもうコーヒーを飲むと気分が悪くなるという子供じみた体質はクリアされたようだ。こんなことならもっと早くに試しておけば良かったのかもしれない。
 もっとも、今回がたまたまオッケーだった可能性もまだあるけれど、近々、今度はブラジルコーヒーを飲みに行こうと思う。そして、ちょっとだけ、微かな憧れのあったこの飲み物にうるさくなんてなってみたりなんかして。

僕はコーヒーが飲める。

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記憶すること

2010-06-08 16:20:58 | Weblog
 記憶力が悪いのではないか、ということを意識し始めたのは中学生の時だ。
 今もはっきりと覚えている。塾では英語の授業の最中だった。不規則変化する動詞に重要なものがいくらかあって、それらを紹介すると同時に、もうこの授業中、今みんな覚えてしまおう、ということを先生は言った。
 覚える時間を何分か取った後、順に当てられて動詞の変化を言うわけだけど、みんなが100パーセントとはいかなくともちゃんと答えるのに、僕は僅かにしか答えることができなかった。
 もしかすると、怠け者の宿題すらしない僕とは違い、みんなは予習して既にいくらかを暗記していたのかもしれない。でも、多分そういうことではなかったのだと思う。少なくとも当時の僕はそう考えなかった。僕は記憶力が悪いのだ。あるいは覚えることが苦手なのだ、と思った。

 僕が中学生の時に通っていた塾には入塾テストがあって、その結果でクラスが分けられていた。僕は一番上のクラスにいたのだけど、実は学力テストの結果はそう芳しいものではなかったらしい。今更、このような胡散臭いテストの結果を自慢するわけでは全くないが、当時は学力テストの他にIQテストがあって、僕はそっちの方で輝かしい結果を出し、学力的には不十分であるが”将来の伸びしろを考慮して”そのクラスに入れてもらった。
 こうして半分インチキみたいに入った訳だから、もともとトップクラスにいた他のメンバーとは出来が違ったのかもしれない。でも、とにかく僕は他のみんなが数分間で覚えてしまったことを全然覚えることができなかった。記憶力の欠如を自覚した瞬間だ。

 考えてみると、僕は単純な記憶作業がいつも苦手だった。学校の勉強は概ね楽にこなせたけれど、ただ一つ、漢字は覚えることができなかった。これも僕が小中高と一貫して宿題を全くしなかったせいかもしれない。みんなが家で覚えて来るのに自分は何もしなかったからにすぎないのかもしれない。その辺りの本当の原因は分からないけれど、事実として学校の漢字テストでは僕はいつもクラス最低レベルだった。

 もっと考えてみると、僕は実は中学生になるまで「あいうえお」が言えませんでした。だから国語辞典を引くときも大変だった。「さしすせそ」まではなんとか分かったけれど、その次が何か分からなかった。
 予定を忘れたりとか、そういうことはなかったし、歴史の流れや物語は忘れないにしても、こういったシンプルな暗記はどうやら本当に苦手だったのだろう。

 だから、高校生のとき、僕はいくつかの記憶術に関する本を読みました。けれど元来の怠惰な性格も手伝い、それを実際に活用するよりも記憶術の勉強をいくらかすることで満足してしまっていた。記憶術の本に書いてある「円周率100桁覚える方法」みたいなのを一通りやってみて、よし円周率が言えるようになった、満足、という風に。
 それでそんなこともすっかり忘れていた。たまには思い出すこともあったけれど、それを使って何かするということは殆どなかった。15年間。

 それらの記憶が、要点だけざっと脳裏に蘇ってきたのは、最近1日10分だけしている韓国語の勉強の最中だった。英語には漠然とした知識の蓄積があるけれど、韓国語にはそれがない。中国由来の漢字語は日本語と似ているし文法もほとんど同じ。だけど、基本的にはやっぱり完全に未知の言語だった。音にも馴染みがない。「私=チョ(丁寧)、ナ(丁寧でない)」などという単純で基本的な暗記から始めるのは大変だ。やっぱり単語を覚えるのにもとても時間が掛かるし、覚えてもすぐに忘れてしまう。

 やっぱり大変かなあ、と思っていると、ふと記憶術のことが思い出された。それは説明可能な具体的なテクニック
としてではなく、暗黙知に近い形での記憶の蘇り方だった。頭の中で何かのストーリーを紡ぐようにして、日本語と韓国語を連結する。その紡ぎ方は自分では良く分からない何かで、15年前の僕にはなかった何かだった。15年間の経験と知識の集積が織りなすリンクの連続なのかもしれない。

 韓国語の学習に、この思い出された記憶術は役立っていて、なるほどこういう便利なものを僕は知っていたんじゃないか、どうして今まで忘れていたのだろう、これで韓国語の勉強も楽になる、少なくとも人並みに記憶できる、というようなことを考えていると、今度は「どうしてこれを本業である物理の勉強に使わないのか? どうして今まで物理に使わなかったのか?」ということに思い至り頭を殴られたような衝撃を受けた。

 物理を学ぶ上でも、僕は記憶力の弱さが結構な障壁になっていることを意識していた。もちろん、物理学を理路に沿って学ぶなら、それは単純な公式の暗記とは異なるものだ。だけど、やっぱり語学でいう単語のように最低限暗記しておくべきものはたくさんあるし、それは思い出せないならネットで調べたりすれば良い、というものでも全然ない。頭に入っていて思い出せるか、調べて分かるかというのことの間には天と地ほどの開きがある。周辺部まで全てを頭脳に納めるのは不可能としても、中心部は血肉としておかないと思考は進まない。

 そういうわけで、韓国語の勉強から大事なことに一つ気が付きました。15年前の自分にちょっと感謝したり、15年前のことを無駄にしなかったことに嬉しくなったり、15年後の自分が喜ぶことはなんだろうと思ったりしています。

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