オーリーという奇跡と裸足と時代

2014-11-28 23:29:20 | Weblog
 高校生のとき、どこから手に入れてきたのか友達がスケートボードのビデオを見せてくれた。まだ1990年代の半ばでインターネットはほとんど普及していなかったから、youtubeもAmazonもなかった。求める情報があれば本屋に行くか、それを知っていそうな人に聞くしかなかった時代の話だ。物心ついたらインターネットがあった世代には想像もできない不便な時代。IT革命は今日まだ途上だが、本当に革命的に世界を変えつつある。IoTとデジタルファブリケーションが普及して「モノ」の自由度が高まり、さらにビットコインのような暗号通貨で中央政府や国家と関係なく個人間で価値のやりとりが行われ、エセリウムで契約が交わされるようになると世界は完全に変わるだろう。そのとき本当に「ネットワーク」の世界がやってくる。

 とにかく1990年代半ばの話だ。今から見れば哀れとしかいいようのない情報弱者だった僕達の下にやってきた一本のVHSテープ。誰を映したものなのかは覚えていない。教則ビデオではなくて、複数のスケーター達がそこらを滑って遊んでいる様子を映したものだったと思う。そこで僕は衝撃的なシーンを目にする。
 オーリーだ。
 オーリーはスケートボードに乗ってそのままスケートボードと一緒にジャンプするテクニックのことだが、ジャンプ台を使うわけではない。平らな地面でできる。平らな地面で板の上に乗ってジャンプして、どうして板まで一緒に飛び上がってくるのだろうか。原理を説明されれば納得するかもしれないが、自分でそういうことができるかもしれないと思い立って実行するにはかなりの障壁がある。思いついたとしてもそんないかにも不可能なことをしようとするだけ時間の無駄だという風に思える。
 ところがテレビ画面の中では、その誰だか分からないスケーターがオーリーで華麗に跳んでいた。パイロンを飛び越え、柵に飛び乗っていた。そういうことが可能なのだと彼は示していた。ならば僕達はそれに着いて行くだけでいい。追従者は楽だ。
 ビデオをコマ送りにして、一時停止して僕達は彼の動作を分析し、真似をした。そのやり方が正しいのかどうかも良く分からないまま練習を重ねて、なんとか板が浮き上がるようになってきた。全然「上手い!」には程遠かったかれど、「全くもって不可能」に見えたことが「それなりにできる」という状態にはなった。

 このときの不思議な気分を僕は一生忘れないと思う。「難しそうだからできなさそう」なことができるようになったのではなく、「そんなことしようとも思わなかったくらい想像の外にあったこと」を実際にやっている人がいて、その情報に基づいて練習すると自分もできるようになった。
 無知は窮屈だし怖い。そしてやはりパイオニアは偉く、情報はとてつもなく重要だ。個人の思考は限定されている。
 あのとき画面の中で飛び上がっていた名前を知らないスケーターと、ビデオを見せてくれた友達にはとても感謝している。

 臆病でケチな僕達は、「できるかどうか分からないこと」をするのを嫌う。大抵の人は「努力すればできるようになる」と約束されていることに対してだけ、好んで時間なりコストなりを割く。そうでなければ安心して「努力」ができない。英会話スクールに通えば1年後にはいくらか英語が話せるようになっているだろうし、毎日触っていれば3ヶ月後には大抵の曲がギターで弾けるようになっているだろう。そういう前例はいくらでもあるし、ノウハウもいくらでもある。そういう情報の蓄積はとても有り難い。当時僕がびっくりしたオーリーも、今では「オーリー 練習方法」と検索するといくらでも丁寧な解説が見つかる。スケートボードを買うと誰もが最初に練習するポピュラーで当たり前のテクニックになっている。

 オーリーと同じように、僕が思っても見なかった世界の存在は「武術」からも示された。
 小学生の頃、僕は父親の本棚を漁るのが好きだったのだけど、その中に少林寺拳法の本が一冊あって、その本について父親に尋ねると「昔習っていた」と小手返しを教えてくれた。小手返しというのは相手の手首を外側に捻って体全体を崩す、大抵の武術にある技のことだ。手首を強く捻られたら体勢を崩さざるを得ないのは、言われてみれば当たり前のことだが、それまでの僕の中にはない考え方だった。人を崩すとなれば、足を払ったり、一本背負いみたいにしてぶん投げたりするしかないと思っていた。こんな風に手首をちょこっと弄ってなんて思いもしなかった。

「そうか」と僕は納得した。
 僕達は、自由に自然に、あるいは最適に体を動かしていると思っているけれど、実はそうではない。日常生活では体の使い方なんて意識しない。意識しないから「自然」な動きをしているのだと思い込んでいる。でも意識しないことと「自然」「自由」「最適」という概念は常に一緒であるとは限らない。僕達の動きは環境に影響されて作られたものでしかない。普段は意識せずに日本語で話しているけれどそれは日本という環境で育ったからだ、というのと同じことだ。別に日本語で話すことが人間にとって自然で自由で最適なわけじゃない。たまたま日本で育ってそうなっただけだ。
 同様に、僕達の動き方、歩き方、座り方、走り方、物の持ち方などの全ては、育った環境からの影響で体にインストールされたものにすぎない。そして普段は意識しないが故に、インストールされていない動きの存在にはなかなか気が付かない。手首を捻れば人は倒れるのに、テレビで柔道やプロレスばかり見ているとそういうことにはなかなか気が付かない。現代を生きていると、過去の人類がどのように体を使っていたのか全然想像できない。どうせ今と同じだったのだろうと思ってしまう。けれど、かつての人類は、今の僕達とは全然違う動きをしていたはずだ。たとえば裸足で山の中を歩いてみるとどうだろうか、ゴツゴツした石の上、登山靴を履いているときと同じように踵でしっかり着地できるだろうか。足先で地面を探るようにふわっと着地するつま先中心の歩き方にならないだろうか。裸足で歩いていたなんてのは大昔のことに聞こえるかもしれない。例が極端だと。でも、明治時代には裸足禁止令が出るくらいにまだ裸足で歩く人はいたのだ。

 ネットでなんでも検索できると僕達は思っているけれど、そのほとんどは「現代」に関する情報だ。
 特に写真や動画はそうだ。youtubeのどこを探したって平安時代の貴族を映した動画はない。いくらググっても聖徳太子の写真は出てこない。そしてイメージでの記録が残っていないと僕達は圧倒的な早さでそれらの存在を忘れてしまう。ちょっと想像してみて欲しい。もしも自分の写真もビデオも何も残っていなかったら、幼稚園や小学校時代の自分をどれくらい思い出せるだろうか。
 世界は時代と共に圧倒的に移り変わり、僕達はその変化のほとんどを多分認識していない。

武術が「健康体操」であるということ

2014-11-05 20:24:22 | Weblog
 前回、武術で武器の練習をするのは「邪魔者でもある武器と仲良くなる為、ひいては敵とも仲良くなり、宇宙とも仲良くなる」という話をしました。でも、そうするとこんな疑問が起こるかもしれません。

「じゃあ、別に武器ではなくても、なんでも扱いにくい道具を扱えるようになれば同じことではないか?」

 その通りです。

「道場を出ても、自分のいる所が即道場である。歩くこと即武術」というのは、そのことです。起源に人を殺したり身を守ったりする術があるので、そこで行われていた稽古を辿るのが一番素直な道ですが、別にサッカーでも自転車でもイスに座るでも立っているでもなんでも同じです。ただ、背景に理想としては「宇宙と1つになるシステム」を意識するかどうかということになると思います。自身の身体と周囲の環境を全体最適して生き延びていくという姿勢が武術ではないかと僕は思っています。今や伝説的と言っても過言ではないパンクバンド「ザ・クラッシュ」のジョー・ストラマーは「パンクとはスタイルのことではない、姿勢のことだ」と言っていますが、武術も同じことです。空手とかテコンドーとか八極拳とか、そういうスタイルではなくて「周囲と調和して自由自在に生き延びる」という姿勢が武術と呼ばれるものだと思います。子供の頃、「冒険野郎マクガイバー」というアメリカのドラマが大好きでした。マクガイバーは喧嘩は弱いのですが、科学知識と機転の良さに長けていて、敵に襲われたりどこかに閉じ込められてピンチになったりすると周囲にある有り合わせのもので武器や道具を作ってなんとかします。彼は入り身投げも小手返しも正拳突きもしませんが、間違いなく武術家です。

 段々と、武術の意味が自分なりに分かるようになって来ましたが、20歳の頃は正直なところ強くなりたいという気持ちがほとんどでした。ある日、合気道の道場で、稽古中に僕は先生に食って掛かってしまいます。当時、合気道には半信半疑で取り組んでいて、稽古が嘘の慣れ合いにしか見えないこともあれば、たまに「あれっ、今のはなんだ?合気道はすごいかもしれない」と思うこともありました。その日は開祖の植芝盛平先生に直接学んでいた先生の稽古で、僕は納得できないことがあったので色々とわかったようなことを言い続けました。細かいことは忘れてしまいましたが、「実戦的ではない」とかなんとか、本当に恥ずかしことを並べ立てていたのではないかと思います。これも本当に恥ずかしいことに、僕はとうとうと持論を展開して稽古は終了時間を大幅に過ぎてしまいました。先生にも他の道場生にもかなり迷惑だったはずです。そのやりとりの中で、先生に言われた一言がどうしても忘れられません。僕の主張していた「実戦的」がどんどん否定されるので、「じゃあ、実戦的でなくてもいいのなら合気道の稽古は一体何なんですか?」とイライラしながら言ったところ、先生はこうおっしゃいました。

「健康体操や」

 この言葉の意味が分かってきたのは、10年以上経ってからです。当時はこの言葉をトドメとばかり、数日後に僕は合気道をやめました。性急で浅はかな判断だったと思います。合気道をやめて、やっぱりあんな超絶な世界なんてないんだ、反射と筋肉を鍛えてメカニカルに合理的に戦うのがいいのだ、と判断して総合格闘技的なことを齧ったりするようになりました。「格闘技」から「武術」へ興味が戻るのは、その後甲野善紀先生に会ってからです。これも10年くらいは前の話なので、まだ甲野先生も有名ではなくて、内田樹先生がホストになって神戸女学院大学で稽古会が行われていました。内田先生もまだそんなたくさんは本が出ていなくて、今ほど有名ではなかったと思います。比較的牧歌的な稽古会で、僕はまったく訳のわからない感じで甲野先生に崩されました。そこで知り合ったボクサーと医者の三人で「これはなんだ?」と言いながら中華を食べて帰ってきたのですが、常識的な動きの外側は確実に存在するのだと嬉しくなりました(ちなみに僕もボクサーも二十歳くらいで、すでに開業医だったそのお医者さんが奢ってくれた)。

 常識的な動きの外側の話はまたにして、「健康体操」に話を戻すと、今では僕も合気道や武術の稽古は健康体操だと言えます。ただ、健康の概念がすこし違って、自分の身体と周囲の人、環境が調和していくような健康です。血行が良くなるとかコリがほぐれるとか、そういう狭義の健康ではなく。
 もう先生は亡くなっているので、「僕が間違っていました、すみませんでした」と伝えることはできないのですが、あのとき「何言ってんだ?」と脳裏に焼き付く言葉を頂いて、ようやくその有り難みも意味も分かるようになってきて、僕は本当に間抜けだなと思います。

術の世界に踏み入って
甲野善紀
学研パブリッシング

一本の棒が教えてくれること。杖術と宇宙

2014-11-05 16:21:09 | Weblog
 15年ぶりに杖を触りました。それも思い立ってアマゾンで買ったのですが、たった一本の棒が面白くて仕方ないので毎日振り回していて、そうするうちに武術のことを色々書きたくなったのでこれを書いています。
 念の為ですが、杖というのはいわゆるおじいさんが使うツエのことではなくて、杖術という形で武術に用いる棒です。もともとは生活用品のツエで身を守るということだったわけですが、今の普通のツエとはちょっと違う性質の棒になっているので、もはや武術のための棒と化しています。

 15年ぶりに触ったと書きましたが、15年前にも杖は少ししか触ったことがありませんでした。当時、僕は格闘技や武術が好きで色々なところに顔を出していて、特に合気道は毎日練習していました。合気道では杖も使うので、先輩方が杖を扱っているのを見て少し教わったりしましたが、「わざわざ武器を持たなくては使えない技なんて練習してもしょうが無い」と思っていて、杖には大した興味が持てなかったのです。
 杖を練習することの意味が分かってきたのは、道場へ行ったりしなくなって随分経ってからです。内田樹先生が見事な説明をしておられました。武器というのは一見とても便利な道具に見えるけれど、実際には扱い方が分かるまで「自分の動きを妨げる邪魔者」です。たとえば、重たい刀を持ったらいきなり自由自在に振り回したりなんてできません。こんな重たいものを無理して振り回すより、軽快で自由に動ける素手の方が戦闘力が高いんじゃないかというくらいです。
 それを押して武器の訓練をするのは、実は「邪魔者と仲良くなる」為です。仲良くなって自在に扱えるようになる。その結果、素手では到底成し得なかったようなことができるようになる。杖なら杖の行きたい方に行かせてあげて、それが即自分の望む方向でもある。そのような自分と杖のどちらが主であり、どちらが従であるのか分からないような協調系が発現します。
 つまり、今までは「自分の身体のみ自由自在」だったのが、「自分の身体+武器で自由自在」という拡張されたシステムができます。これは小さな一歩かも知れませんが、鮮烈な清々しい一歩で、はじめて自身の身体から一歩外に出たわけです。

 拡張は一歩では終わりません。「身体+武器」の次にシステムに組み込みたいのは「敵対者」です。今度は相手に意思(というか敵意。。。)があって、向こうも自分の動きたいように変化するので、武器のときのように一筋縄では行きません。が、発想としては武器のときと同じことです。「身体+(武器)+敵」で新しい系を組み上げて機能させること。その発現したシステムの運動が「相手は倒れていて自分は立っている」という結末に向かって行くこと。武術では敵を作らないというのはこういうことです。この先に「もう戦わないでお互い仲良くしよう」というのがあります。「武術の極意は自分を殺しに来た人間と仲良くなることだ」は人を煙にまくための「逆説っぽいこと言っといたらいいだろう」で言われているのではなく、こうした段階を踏んだ話です。

 敵を「なくせたら」それで武術は終わりかというと、これには終わりがありません。「身体のみ」から「身体+武器」、「身体+武器+敵」へと拡張された「自分」というシステムはその拡張をやめることなく広がります。次は「大地」かもしれないし、「風」かもしれません。そのとき自分の周囲にあるもの全てへと拡張は続きます。これは「砂浜で喧嘩していて砂を相手に投げて目潰しする」というような話でもあったりはしますが、同時にもっとなんだか分からない超越的なレイヤーの話でもあります。終わりなき拡張の果てはもちろん「全宇宙」です。だから「武術は地球と一体になることだ」とか「宇宙と一体になる」というのは、これも冗談でそれっぽく言われているわけではありません。本当にそんなことできるのかどうかは兎も角、そういう所を目指して稽古は広がります。

 15年ぶりに恐る恐る狭い部屋で振り回した杖は、微かにですがそういうことを実感させてくれました。「体というのはこういう風に動かすのだ」と、何の変哲もない樫の棒があれこれ教えてくれて、それに耳を澄ますのは気分の良いものです。

私の身体は頭がいい (文春文庫)
内田樹
文藝春秋