voice.void.

2008-06-30 20:12:32 | Weblog
 昔、ヤフーオークションで買った物を送ってもらうのに「別にどっちでもいいけれど都合が悪くないならクロネコで」ということを頼んで、「クロネコは評判が悪いから佐川にします」という返事を貰ったことがある。別にどっちでもいいわけだけど、でも、クロネコの集配所は比較的アパートの近所にあるので、不在通知を貰った場合すぐに取りに行けて便利だなと思ったわけです。
 あるBMXショップのサイトを見ていたら「佐川は荷物の扱いが乱暴だからヤマトで送ります」みたいなことが書いてあった。

 二つの言い分は真っ向から対立するものだけど、どちらも正しくないのだろうと思う。僕が思うに、たぶんどちらも一度か二度ヤマトなり佐川なりで嫌な目にあっただけのことだと思う。運が悪かったのだろう。あれだけたくさんの荷物を扱っているのだから、たまにはミスも起こるに違いない。もちろん統計を厳密にとって両方の会社を比較することは可能だ。だけど、そんなに有意な差が出ることもないのではないかと思う。

 僕がここで言いたいのは、どちらの運送会社が良いのか、ということではなくて、両者がこういうことを主張する動機みたいなもののことです。
 もしかしたら、本当に理由のある評判みたいなものだってあるのかもしれないけれど、この人たちは単に「私はあなたよりも色々なことを知っています。たとえば運送会社なんてどこでも同じと世間の人は思っているでしょうが、私は詳しいので実はここは駄目でここが良いことを知っています。あなたは知りませんよね」ということを主張したいだけなのではないか、ということです。本人が意図しているがどうかに関わらず。ヤマトで一度嫌な目にあって、そのとき「よし、ヤマトは駄目だってこれから言おう、運送会社に詳しい感じで」と思ったのではないかということです。根拠なんてない。一度悪いことがあっただけでその会社を査定することはできない。それは彼も良く理解している。だけど、知ったかぶりをしたいという欲望に押されて、ついそれだけでは分からないということを無視してしまう。答えはたぶん存在しない問題なので、別に間違っているもなにもない、ただ大きな声で断定しておけばそれで済む話だ。もしかしたらこの人はそれを体験したんじゃなくて、誰かに聞いただけかもしれないけれど。そして、僕がこのとき「なんか詳しそうな人がヤマトは駄目って言っているから、駄目なんだろうな。詳しくなった」と思い、友達が荷物を送ろうとするときに「ヤマトは駄目だって」と得意げに言えば、次は彼も同じことをまたするのだろう。

 多くの人が、忠告や情報の授与のためでなく、自分の威信を誇るために下らない情報を人に伝える。そして、ときどきほとんど全ての情報がその程度の信頼性しか持たないように見えて恐ろしくなる。インターネットではあまりにも多くの人々が断定する形で何かを言うように見えるからだ。断定がもっとも高い頻度で用いられるところがどこかを、僕達は悲しいくらい良く知っている。それはコマーシャルだ。

balance.

2008-06-29 22:41:27 | Weblog
 ドアーズの”水晶の船”昔やっただろ?
 あれ今聞くと涙出るな、あのピアノ聞くとまるで自分が弾いてるような気分になってさ、たまらなくなるよ。もうすぐ何聞いてもたまらなくなるようになるかもしれないな、みんな懐かしいだけになってさ。もう俺はいやだよ、リュウはどうするんだ? もうすぐお互いにはたちになるんだからなあ。
(村上龍「限りなく透明に近いブルー」)

 この間Kに会ったとき「最近は少しずつ長いスパンで物事を考えられるようになってきた」という話をした。お互いにどうやら気の短い人間みたいだけど、ようやく。僕は29で、彼女は28になった。Kとはじめてあったのが何年のことか思い出せない。でも20世紀から21世紀に変わる大晦日に少し会ったはずなので、西暦2000年の夏にはじめて会ったんじゃないかと思う。だとしたら、僕達がイベントのために夏休みのほとんど全部、朝から晩まで机や椅子を作り続けていたのも2000年の夏だったんだろうか。恐ろしいくらいの昔、過去だ。なんて子供だったことだろう。

 年をとるということがどういうことか、昔は良く分からなかった。もちろん今も分からないけれど、昔よりかは過ぎた年月の分だけ分かっているし、50歳になるということがどういうことかは分からないけれど、29歳になるというのがどういうことかは分かる。人によって29歳になるということの意味は違うだろうから、あくまで僕に分かるのは僕なりの29年間生きるということだけれど、それだって単純に人間が29年間生きるということの共通項をいくらかは含んでいるにちがいない。そして、ときどき年を重ねるということはなかなかヘビーなことなのかもしれないなと思う。

 子供の頃、老人を大事にしましょう、おじいさんおばあさんを敬いましょうと言われて、老人は弱いから大事にしなくてはならないのだと思っていた。僕は大事にしなくちゃならないな、と思った。
 でも今は全然違う。この人は僕よりも数十年長く生きていて、戦争すら生き延びたのだと思うと、心の奥から畏敬の念が湧き上がるのを止めることができない。

 外が雨なので、部屋を掃除する。随分前から気にしていたCDを整理する。古いCDがたくさんある。そういえば時代がテープからCDになって初めて買ったCDはハリウッド映画のサントラ集だったけれど、あれはどこへ行ったんだろう。ローリングストーンズだとかハイロウズだとかピストルズだとかTレックスだとか、10年前はこんなのを聞いていたんだなと不思議な気分になる。それとかロクセットとかクラウドベリージャムとかゼイマストビージャイアンツとか、今思えばポップミュージックの入り口だった。自分でコンパイルしたCDとか、まだそんなにCDRが普及していなかったころにはじめて焼いたジャニスジャップリンとか。あの人にもらったCDだとかこの人にもらったCDだとか。あのイベントのCDとか。古いコンパクトディスクを見たとき、これを聞いていた過去の自分と今の自分はほとんど別の人間のような気分になるのは僕だけだろうか。

100bunny.

2008-06-28 13:28:49 | Weblog
 午前中に新しい研究方針がはっきりしたので気分がいい。相当大変な計算になる。本当は1年くらいかかりそうだけど、時間がないのでなんとか半年で仕上げたい。
 大学の、いつも僕が使っている出入り口に変な虫がいたのでしばらく眺めて、写真を撮ったりする。研究室に戻ってOに「変な虫がいた」と写真を見せると、Oもこの虫を見たことがないらしく、すぐに自慢の一眼デジカメを取り出して「まだいそうなら見に行きたい」と言う。虫なんてすぐにどこかへ行くに違いなので、僕達は慌てて研究室を出て、ちょうど違う部屋から出てきたMちゃんへの挨拶もそこそこにエレベーターに飛び乗る。
 虫はやっぱりもういなかった。こういうときは虫の気分になるに限る。最後に虫がいた場所に、自分が虫の習性を備えた存在としていたのならどっちへ行くのか考える。なるべく暗くて狭い方へ。僕は植え込みの淵に沿って虫が移動したに違いないと思ったので、淵に溜まっている枯葉を木の枝で取り除いてみた。するとしばらく進むうちに虫は出てきて、僕達は喜んで変な虫の写真を撮った。通りがかる人は奇妙な顔をして見ていたけれど。
 虫は結局オオヒラタシデムシの幼虫でした。珍しい虫ではないです。でも、僕ははじめて見た。虫なんて別に好きではないし、この幼虫もフナ虫みたいな気持ち悪い虫なのですが、でもしぐさがなんというか思慮深げというか、頭をもたげてしばらく考えてから歩き出したり、なんとなく好感の持てる虫でした。

 夕方、チェコ(メイン)の雑貨屋さんDOMAによってから、府立図書館へ行って「おくびょううさぎ」と百人一首のことを調べる。
 おくびょううさぎというのは僕が幼稚園のときにやった劇なのですが、別にオリジナルでもなんでもなくて、紙芝居にも絵本にもなっている有名な話です。もともと仏教の説話か何かだと思う。先日ふとおくびょううさぎのことを思い出して、ただストーリーが思い出せないのでネットで検索すると、たくさんヒットはするのですが、どうにも僕のやった劇とは感じが違うのです。なぜなら僕はおとうさんうさぎの役だったのですが、おくびょううさぎにはおとうさんうさぎなんて出てこないからです。気になったので母親にメールをしてみたけれど、案の定「ごめん全然覚えてない」とのことで、謎は深まるばかりです。
 そこで、昨日は図書館でおくびょううさぎの絵本と紙芝居を当たったのですが、それぞれ一つしかなくて、話の内容はネットにあるのと同じものだった。僕が幼稚園でやったのは若干の脚色が入っていたんだろうか。もしもどなたかおとうさんうさぎの出てくるおくびょううさぎの話を知っている方があればご一報いただけるとうれしいです。谷を跳び越すとかそういう話だったような気がします。

 百人一首は、以前にも書いた「ならべると地図になる」という話のことで、この説を唱える林直道教授の「百人一首の秘密-驚異の歌織物」を借りに行ったわけですが、ついでに織田正吉氏の「絢爛たる暗号-百人一首の謎をとく」も借りてみる。略歴によるとこの織田氏は肩書きが「笑い、ユーモア、言語遊戯研究家」となっていて不思議な感じがするけれど、この絢爛たる暗号はとても面白かった。とても面白いと言っても、僕は百人一首の本なんてゆっくり読んでいる場合じゃないのでかなり内容の詰まった2冊を30分で読むという資料のような読み方しかしていませんが、和歌に対するイメージは大きく変わりました。

 特に「絢爛たる暗号」は色々な和歌を紹介していて非常に興味深い。
 僕は和歌というのは一首ごとに見るものだと思っていたのですが、なんと昔の歌人はまとめて100個とか歌を読み、そして全体の構成でうまいかどうかを判断していたようなのです。たとえば、31首の歌を詠み、並べて見ると各歌の最初の一文字で新しく一つの和歌ができていて、さらに各歌の最後の一文字を並べても歌が一つできている、という具合です。どれくらいの時間をかけて作るのかしりませんが、これを即興でやっていたのなら驚愕するほかない。
 だから、歌をその一首だけで判断するのは間違っている。それが他の歌とどういう関係にあるのか、ということがとても大事な要素だ。

 林氏、織田氏ともに、百人一首を一幅の絵のように並べて、その配列によて浮かび上がる新たな意味を見付けたというのは同じです。林氏はその歌織物は後鳥羽院との思い出の地、水無瀬の里を地形的に描いたものだ、と言い。織田氏は、良く分からないけれど、後鳥羽院と、あと定家と噂のあった式子内親王のことを読み込んだものだと言う。

 百人一首は、稀有の天才、藤原定家が選んだにしては下らない歌が多いことが長らくの謎とされ、一時期は定家の選ではないのではないか、という説が多く出ていた。今では資料からほぼ定家の選であることは確定している。定家は構成を重視して、一部の歌のクオリティは犠牲にしたのだ。

 ここで、百人一首に含まれる歌を4つ書いてみます。

 君がためをしからざりし命さへながくもがなと思ひけるかな

 秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ

 田子の浦にうちいでてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ

 君がため春の野にいでて若菜つむわが衣手に雪は降りつつ

 もう一目瞭然ですが、4つ目の歌は先の3つの歌の部分をつなげたものになっています。百人一首というのは基本的にこういうものすごい構造になっているわけです。それも、全ての歌を定家が作ったというのであればまだ分かるけれど、定家は自分の歌を一個入れただけで、他は全部鎌倉時代までに詠まれた歌を集めてきて、ちょうどこういうふうなことが起きるように歌を選んだわけです。当然ネットもパソコンもない時代に。驚異的な知性と教養の持ち主だったことは疑いようがない。

 定家自身の歌、

 来ぬ人をまつほの浦の夕凪にやくや藻塩の身もこがれつつ

 にしても、「海辺の光景」「恋しい心」「火」の3つが重なりあうように読み込まれていて、さらにその3つは互いを修飾するように関連しているので深さは3重にとどまらず、そのうえなんとこれは万葉集にある歌と古今集にある歌の2つを本歌取りして合成したものなので、はっきりいってもう有り得ないくらいの絡まりをみせる歌となっている。奇跡みたいによくできている。天才だとしか形容できない。

 スーパーマーケットへ行くと偶然Pに会う。ここしばらくで偶然Pに会うのは4回目なのでとても驚くとともに、なんとなく自然なことのような気分にもなる。

 夜、街乗り用でいいやと思って一時はセンタースタンドまで付けようかと思っていたBMXでちょっと遊ぶと、楽しくて街乗り用にする考えは一気に吹き飛んだ。普通の高さにしていたサドルも邪魔で仕方ないので下げることにする。通学のときはサドルを上げたほうが楽なのでクイックに変えてもいいかもしれない。もしくはシートバックを買って六角を常備するか。グリップも僕の手にはなじまないので早急に交換して、手に豆ができているとAが嫌がるのでグローブも買うことにする。後輪のハブもペグで直止めという変なことになっているのだけど、締め付けるときにトルク管理し難いのでアクスルナットも付けた方がいいかもしれない。あと街乗りにはライトが必要だけど、今のキャットアイのライトは衝撃でおかしなことになるので、もっと軽くて小さいのを買おうと思う。あと、バニーホップしてもずれないようにちゃんとしたバックパックも必要だし、なんだかんだいって出費がかさみそうです。

korg.

2008-06-27 15:49:45 | Weblog
 G8のせいで御所の周辺は大混乱です。僕は御所の近所に住んでいるのですが、昨日は夕方大学から帰ろうとすると、あらゆるコーナーに警官がいて、車は大渋滞で、寺町なんてどれだけ渋滞しているのか知りませんが車から降りてる人までいたくらいです。

 テレビゲームにはあまり興味がないけれど、さっきから任天堂のDSというのを買ってもいいかもしれないなと思っています。それはKORGがDS用に開発したソフトDS-10を買ってもいいかもしれないなと思うからなのですが、DS10というのはソフトシンセ、シーケンサーみたいなソフトです。KORGによると往年の名機MS-10をベースにデザインしたという話です。
 このDS10はたったの4800円なので、僕がDSを持っていれば迷わずに買っていたと思います。4800円というのは、なんというかもう楽器を購入する値段ではないですよね。ゲームボーイ用のシーケンサーである、かのnanoloopでも1万円はするのに。DS本体も別にヤフオクで買えば5000円もしないので、合計1万円もしません。それほど欲しいというわけでもないですけれど。

 

s.

2008-06-22 23:17:45 | Weblog
 すこし更新をしていませんでした。なんだかパソコンの画面を見ていると吐き気がするというへんてこなことが先日から起きているので、あまりパソコンに触れていません。だから、この記事も急いで書いています。いつもより文章がより乱れてしまうと思う。

 前回の日記にコーヒーのことを書いたら、友達がメールで「おいしいコーヒーの真実」と言う映画が公開されると教えてくれました。僕はコーヒーのことをIくんにさらっと聞いただけなのですが、彼もこの映画の関係で情報を仕入れてきたのかもしれません。

 土曜日に所用で実家に帰ると、父親にまた「お前のあれは反則だった」と言われた。あれというのは妹の結婚式で僕が着ていた服のことですが、僕はベルベットのスーツをややカジュアルに着ていったので、それはもう当日両親は驚愕し大憤慨だったわけです。ただ、僕は別にそんなにドレスコードをはずしてないし、だいたい式を挙げる当の妹カップルには式の打ち合わせや何かの段階でそういうことも言ってあった。向こうの一族に失礼だとか、まあ両親の言うことも分からないでもないけれど、なんというか、もうそういうのやめにすればいいのになと思う。
 ある儀式に参加するとき、そのルールを守るのは確かに大事なことだと思う。決決まりごとがあってそれを守ることが喜びを倍増させる装置になることも僕はとてもよくわかっていると思う。でもちょっとくらい別にいいじゃないかと思うのです。僕がもしも式を挙げるなら、もともと別にみんな好きな格好でくればいいと思う。

 僕もしばらくすると職業を選択しなくてはならないわけですが、リクルートスーツに身を包んでというのはできないのだろうなと思う。僕に限らず、みんな嫌ですよね?たとえば、あのリクルートスーツをウキウキしながら買いに言って、満足してお金を払っている人ってどれくらいいるんだろうか。仕方ないから欲しくもないのに買って着たくもないのに着てるんじゃないだろうか。企業の面接だかなんだかというのをする人も、みんながそのスーツを着てくることになんらかの喜びを覚えるんでしょうか。着てこないやつは本当に無礼だと思うのでしょうか。実際のところ誰がそれを気にしているのか。実は誰も気にしていないくて、誰もそんなことしたくもなくて、でもなんか知らないけれどそういう決まりがあるらしいからみんな従っている、というだけなら、もうそういうのやめにしませんか。くだらないゲームとか茶番とか。従業員全員がこれはおかしいと思っているのに何故かずっと続いていることとか、なんの価値もないことをみんなが知っていてみんながそれを嫌なのに誰もやめようと言わないこととか。

d.

2008-06-20 14:50:13 | Weblog
 1,2週間前に、久しぶりにI君と長話をした。僕達は二人とも、大雑把に言うと理論物理学を学ぶ博士課程の学生なのだけど、時折この話題が上がる。「世界にはたくさん苦しんでいる人がいるのに、こんな役に立たないこと研究してて、僕らってほんとに自分勝手だよね」

 何を役に立つといい、何を役に立たないというのかはとても難しい。理論物理はある意味ではとても役に立っている。僕達の生活が物理学の進歩無しには在り得なかっただろうことは誰もが認めるだろう。でも、それが役に立つということかと問われれば、僕は答えを持たない。なくても良かったといえば、べつに携帯もカーナビも電子レンジもなくて良かったのかもしれない。救急車のお陰で命が助かった人もいれば、車に轢かれて死んだ人もいる。そういった誰かの幸福に関わる問題には答えることが難しい。でも、幸福にある人間が生きるということは、ある人間が恋人や家族や友人に囲まれて健康に衣食住に困らず暮らす、ということに極めて近いだろう。ならばそこには農業だとか医学はダイレクトに効いてくる。物理学者は外科医のように傷ついた人を救うことはできない。だけど、外科医がCTやMRIを使えるのは物理学のお陰だとも言える。事態は複雑だ。

 とりあえず明らかなのは、どこかで困っている人を直接助けることを自らの意志で無視して見殺しにして、僕は今机の前に座っているということだ。良いことか悪いことかは分からない。残酷な気もするけれど、でも「俺さ、給料25万なんだけど、節約して10万でやりくりして、それで15万は毎月寄付してるんだ」というようなことを言う人がいたら素直に感心したりもしない。それがいいことなのか悪いことなのか、それすら良く分からない。

 一番良く分からないのは、国連だかどこだかの食料計画とか医療計画とかがもう随分と昔にできて、それで各国がトータルすればもう莫大な額のお金をつぎ込んで援助しているのに、未だに貧困やなにかの問題が解決しないことです。数十円の寄付でワクチンが一個買えて子供一人の命が助かるんですよね?世界各国が、先進国が出してる援助がいくらなのか知らないけれど、まだ不十分で子供がバタバタ死んでいくというのが僕には理解できない? どうせ誰かがうまい汁を吸って、結局苦しい人々には援助がいきわたらないのだとか、資本主義は構造的に弱者を必要とするから本気で助けようなんてしてないからだとか、もうそういった話はたくさんです。

 コーヒー農園で働く人々は貧困の極みにあるそうです。120円入れてボタンを押したらコーヒーが飲めるのはそういうことです。本来、農園の人々がまともに暮らせるだけの対価を払って缶コーヒーが一個300円くらいになっているはずのところを、たぶん色々な会社の”努力”で、豆を買い叩いて120円になっているのだと思う。これは極端に言えば僕達がその農園の人々から差額の180円をもぎ取っているに等しい。UCCだとか、大手のメーカーが、その生産製造に携わる人々全員に、まともな賃金を支払って、それで「うちはちゃんとした値段で豆を買って、労働者にもそれなりの報酬を払っているので、今日からコーヒー300円です」とか言ったらどうなるんだろうか? みんな買わないのかな。全部のメーカーが段々とそうなったらどうなるんだろうか? ペットボトルのジュースが一本500円くらいになって、服がTシャツ1枚5000円くらいになって、靴は安いスニーカーで20000円、パソコン1台50万円。海外の労働者に正当な賃金が支払われ、僕達の生活水準は低くなる。経済格差ってなんだろう。本当に、どうして国によってこんなに物価が違うのだろう。どうして日本でコンビニのレジを1時間やれば貧しい国でホテルに泊まって食事をすることができるのだろう。日本で働いて貯めたお金を持って、貧しい国へ移住してそこに住んでいる人たちを助けるようなことをはじめるのは本当に助けなんだろうか。その貯金ではニューヨークのストリートキッズを5人しか救えないのに、アフリカへ行くと50人救えるのはどういうことだろうか。

 小学校のとき給食を残すのは極悪なことだった。残すならとても深い反省が必要とされた。先生は「食べたくても食べれない人がたくさんいるのに」というようなことを言い。僕はそれなら僕達にサービスする前に多すぎる分をその人たちに回しておくべきだと思った。食べ物を残すことがもったいないことだという感覚が僕になかったわけではない。それは多すぎたのだ。多すぎるものは食べることができない。貧困に苦しむ人々のことを考えながら多すぎる食事を無理矢理お腹に詰め込むというのは異常なことでしかない。今は別問題だし、説教の道具にするのではなく、真剣に飢餓のことを考えているのであれば給食を半分にして浮いたお金を募金に回す、というようなことを会議に提案すればいい。食べ物を残すことがもったいないことだというのは、世界には飢餓に苦しむ人もいる、というのとは本来無関係だ。世界中に食べ物が溢れているからといって食べ物を粗末にしていいわけなじゃない。苦しんでいる人々を上げて、それで何かを僕達に躾けようとする姿勢が子供のとき嫌悪されて仕方なかった。そういうことを言う人は別にその問題のことを考えているのではなくて、それらを単に利用しているだけだった。

 まとまりがないけれど、こういうことは本当に分からない。分からないのではなくて、分からない振りをしているだけかもしれない。分からないからとりあえず今の生活は続けます。募金くらいするけれど。みたいな言い訳のために。本心では遠くの他人のことなんで気にしていないのかもしれない。身の回りの大事な人々さえよければそれでいいのかもしれない。酷い話だけど、僕が何もせずに生きているというのはそういうことを意味しているに他ならない。

e.

2008-06-20 11:30:31 | Weblog
 もう随分前に見た記事だけど、しばらくすると英語は滅びるそうです。滅びるというのはもちろんキャッチーにするための過剰表現で、その心は「ネイティブな英語話者よりもネイティブではない英語話者の方がどんどん多くなっていき、滅茶苦茶な英語が世界で流通した結果英語は大きく変形する」というもので、これはもう実際に起こっていることです。

 そういえば、僕の周囲にも英語を話す人はたくさんいるけれど、ネイティブな人はほとんどいない。ほとんどというか今現在京都にいる友達でネイティブな英語話者は一人もいない。中国人や韓国人やトルコ人やポーランド人や日本人が入り乱れて英語で会話しているとき、厳密にネイティブな感覚でそこに用いられている英語が正しいのかどうか査定する人はいない。だから必然的に僕達の運用する英語というのはネイティブなものからずれていくのだろうなと思う。だいたいの意思疎通が図れればそれでいいわけだけど。

 加えて、僕に限って言えば発音がどんどんとおかしくなっています。ドラマ「ロスト」に出てくるサイードというイラク人のキャラクターのせいだと思うのですが、僕はどうやらイラクとかあの辺りの人が話す英語の訛りが好きみたいで、気がついたら真似をしていることが多い。さらに僕がほとんど毎日会う唯一の人物であるOもトルコ出身なのであの辺りの訛りが多少みられる(たとえばthreeをトリーとかmythologicalをミトロジカルとか言うので最初は何のことだか分からなかった)。だから僕の英語は日本人のくせに中東訛りの英語にだんだんとなってきているような気がします。
 中東の人の訛りは結構日本語の片仮名音に近いような気がするから、その分余計に日本人には馴染みやすいのかもしれません。

 英語という言語は、かつてイギリス辺りがフランス辺りに300年間くらい(あまり良く知らない)支配されていたとき、その政治的劣勢によって結構な変化を余儀なくされた。弱い言語が強い言語による変性を受けるのはとても自然なことに見える。ところが、それから時代が進んで最強の言語になった今、英語は新たに、今度はその世界的ドミナント故に変化を強いられているようです。

ps本当にどうでもいいことだけど、訛りの好みのほかにも書き味の好みがあって、僕は筆記体でbetweenと綴ることがとても好きなようです。

route_optimum.

2008-06-17 15:18:54 | Weblog
 梅雨にしては雨も降らず、気温がぐんぐんと上昇して、夏は好きだし、それはそれでいいのだけど、通学が困難になってきました。今のアパートに引っ越してから初めて夏を迎えるわけですが、自転車で20分くらい掛けて通学しているので、夏の炎天下に大学へ行くと、研究室に着いたはいいものの汗だくだし消耗しているし研究どころではない、という状況になってしまいそうです。もうその兆候はかなり強く見られる。前のアパートは大学まで徒歩一分という近さだったし、もっと遠くに住んでいたときもバイクで通っていたので特に困ることはなかった。でも、この夏は昼間に大学へ行くというのは至難の技となりそうです。

 従って、生活をすっかり朝方に切り替えようとしています。でも、なかなかすんなりとは行かないし、それに今日もそうだったのですが、ときには昼まで自宅周辺に用があって、どうしても昼からしか出られないということもある。最悪の場合はバスとか地下鉄を使えばいいけれど、お金も掛るし不便だし。ということで今日は部屋から大学までもっとも涼しく行けるコースを探してみました。

 まず、2,3分は炎天下を我慢して御所へ向かいます。御所の周辺かあるいは中を通れば木々が影を作っているので日光の直撃を避けることができる。それでとりあえず今出川寺町までは来れた。次は、1,2分の太陽光線被爆を我慢して出町商店街。それからまた1,2分の被爆を我慢して下鴨神社は糺の森を抜け、これで随分と大学の近くまで来たことになる。でも、この後はもう無理だ、あとは住宅街の中を7,8分かけて炎天下の往来を通り大学を目指す他ない。
 ということは、もともと20分くらいで大学にたどり着くわけだから、このルートをとったところで5分くらいしか被爆時間には差がないことになる。まあそんなものですね。木をもっと植えればいいのにな。


 

bmx100.

2008-06-16 12:47:37 | Weblog
 日曜日、土曜日の朝に届いたBMXを組み立てる。そういえばBMXが届く直前に姫路のKから電話が掛かってきて驚いたことに来週僕のアパートのすぐ近所に引っ越してくるという。本当に目と鼻の先で、こういうこともあるんだなと思う。BMXはずっとずっと前から物色していて、念願と言っても過言じゃない。欲しかった形に極めて近いものが手に入った。中古でちょっとボロいけれど、同じ形のもっと状態の良い物を先日のオークションで高くて諦めたばかりだった。それで、やっぱり僕の予算では欲しい感じの物は無理なのだろうとしばらくBMXのことを頭の中から消していると、Tから「友達がBMXを只で手放すけれど」という話が来て、ただ写真を送ってもらうと僕の好みとは少し違っていた。好みとは違うけれど、これはこれでいいなと思い、随分迷った後に断って、それから僕は本当にどういうのが欲しかったのだろうと思ってオークションを開けてみたらこのバイクがあったというわけです。だから、このBMXを買うことができたのはタイミング的にほとんどTのお陰だと言える。

 この日、僕は寝不足だった。基本的に7時間は眠らないと頭がすっきりしないので、2日間連続で5時間くらいしか寝ていないというのは僕にとって非常な寝不足だった。だから、僕は自転車を組み立てたりする前に少し眠ったりすれば良かったのだけど、でもワクワクしてそれはできない。脳にも体にも動け動けと鞭打って、しかも食事もコンビニで買ったおにぎりをお茶で一瞬で流し込んで、つまり文字通り寝食を忘れて、大学から工具を取ってきて、足りないものを買いにいってと朝から動き回った。こういうとき、自分の研究もこれくらいの勢いで出来たらいいのになと思う。子供の頃、たとえばプラモデルを買ってもらったとして、帰りの車の中で我慢できなくて箱を開けて部品をなくしたりすることがあった。今でも何かを作るとき、そういう精神状態になることが時々ある。疲れていても、足りないものがあるのなら何度でもホームセンターに往復するし、食べるのも寝るのも邪魔なことになるし。だから、前に人生のもしもを考えることはあまりにもひどい妄想に過ぎないということを書いたけれど、実は僕は毎日理論物理学じゃなくて工学部で実際に物を作るところに行っていたら、と思う。後悔でもなんでもなくてやっぱり妄想として。僕は理論物理を選んだし、打ち込めるとかそういうレベルでではなく、もっと深いところで理論物理学がなんだかしらないけれどいいのだろうなと思う。それに、僕はあまり物事に熱中しすぎている自分が好きではないし、もっとニュートラルな状態で、つまり今のような状態でいたいと思う。

 そうして、昼過ぎにBMXが組み上がって、軽い調整をしたあとTのお店まで自転車を見せに行く。するとTがあるお菓子の説明文に書かれている「百人一首の秘密」というのを見せてくれた。なんと百人一首は歌を10X10で並べると地図になっているという話で、とても面白いです。その説に関して本を出している林教授のサイトがここにあります。よければどうぞ。
 http://www8.plala.or.jp/naomichi/

 この地図は地図というよりも言葉で編まれた風景画といったものですが、ものすごい言葉遊びだと思う。さすがアバンギャルドな天才藤原定家。

 僕は子供のときから基本的にはMTBなんかのスポーツ車に乗っていて、先日まで乗っていた自転車がはじめての所謂軽快車、シティサイクルだった。たぶんその辺りの経緯はこのブログの古いところにも書いたと思うけれど、カゴが付いていることが非常に便利だということに20代半ばで気が付いて買ってみたわけです。カゴや荷台は本当に便利で、泥除けも便利だけど、乗っていてやっぱり窮屈だった。BMXに乗ると心底開放された気分になる。シティサイクルじゃただの障害でしかない段差も穴も、BMXに乗っていれば遊び道具になるし、障壁を喜びに変換するなんてすごい自転車だと思います。もちろん、たくさん不便もある。スタンドもないし係留できる場所をいちいち探さなきゃいけないし、雨上がりは背中に泥が跳ねるし、ギアやチェーンに干渉しないようにズボンの裾をバンドで止めなきゃならないし、ワイヤーロックがいるし(そういえば今日の朝大学に自転車をとめていると用務員のおじさんにワイヤーロックをほめられた。細身のコンパクトなやつを使っています。ワイヤーカッターで1秒で切れるだろうけど)。でもまあその不便さも悪くはない。

sticky.

2008-06-11 20:56:00 | Weblog
 些細なことではあるかもしれない。でも、久しぶりに「えっ」と頭が一瞬停止するようなインパクトのある偶然が昨日ありました。ここ3,4日、全く何のきっかけもなく、僕は「べたべたするとか粘着って一体どうなってるんだろう?」と気にしていて、化学系の友達に質問のメールでも送ろうか、でも答えるのはきっと面倒に違いないし自分で調べたほうがいいかな、でも、今ちょっと他にすることもあるし、後回しでいいや、と思いながら暮らしていたのです。
 それが、昨日郵便受けに届いていた物理学会誌をパラパラめくると、なんとレオロジーの記事で「粘着とは」ということが詳細に書かれていました。僕はソフトマターの物理は全くの門外漢だけど、この記事のおかげで大体の疑問は解決しました。偶然というのはまれに起こるものだけど、今回は3,4日、ぼんやりと気にしていると答えが向こうの方からまさに飛び込んできたわけで、妙な気分で僕はその記事を読みました。

 ということを書こうと思ってネットを立ち上げたのですが、すると友人の日記にも、たまたま知り合った人に瞑想に興味があるという話しをしたら実はその人は瞑想のすごい人だった、ということが書かれていて、そういうことってなんかあるよなあと思う。

 こういう偶然も、別に統計をとって考えれば特別なことではないのかもしれない。たとえば、僕は別にこの数日粘性のこと以外何も気にしていなかったわけではないし、目にしたテクストの数もそこそこの量があって、さらに科学に関するテクストの割合が高いというバイアスもあるし。でも、それでも偶然が起こるとインパクトは大きい。うっかり超自然的な力を想像してしまうし、たぶんこれは最も深い意味合いでの信仰に似ていると思う。