映画紹介:『サイタマノラッパー』入江悠

2013-02-26 19:26:14 | 映画紹介
”朝晩吐き出す吐瀉物
 が真っ赤に染まれば俺もお陀仏”
(『DJ TKD 辞世のラップ』(伝説のタケダ先輩)より)

 言葉というものからずっと遠くへ行きたいと、ずっと思っていた。
 言葉は泥臭くて青臭くて、嘘臭くて胡散臭くて、意味はロマンを剥ぎ取るようで、紡ぐロジックは直感を邪魔するみたいで、言葉はいつも真理から遠い誤魔化しみたいで、語ろうとする行為は野暮みたいで、分かってる人は黙って頷けば良くて、心通わせるのは語学じゃなくてハートとソウルとジェスチャーみたいで。

 昔、音楽を作っていた友人と「歌詞が邪魔だ」という話をしたのを良く覚えている。
 それはやっぱり野暮で、ストレートな意味はダサくて、クールな音楽を台無しにするみたいで。

 ラップやピップホップというものはずっと嫌いだった。
 ヒップホップのイベントなんか行くもんかと思っていた。ファッションもダサいし、やっぱりヤボだし。感情のないクールなものが、クールな音楽が、僕は好きだった。
 昔の恋人がヒップホップで踊っていたときも、なんだか釈然としなかった。
 カッコつけることがカッコ悪いというお手本みたいな気がしていた。

 けど、時折口ついて出てくるあのリズムはなんだろ。
 それがどうしたって思っててもつい口をついて出てくるあのライムはなんだろ。
 ”俺は東京生まれのヒップホップ育ち
  悪そな奴はだいたい友達”

 『サイタマノラッパー』を見て、色々なことが氷解したり繋がったりして、頭の中に一幅の絵ができた気がしています。
 たぶん、ラップは日本を変える。
 急に何言ってんの?って思われるのだろうけど。
 
 事の始まりは都築響一さんの『夜露死苦現代詩2.0 ヒップホップの詩人たち』というインタビューでした。

《都築:それは、その時代その時代で、特に若い子たちの想いっていうものを、一番確実に表現する音楽のジャンルがあるんです。それはたぶん、40年くらい前だったら、自分が「あぁ?!」と思ってることを一番ダイレクトに表現できたのはフォーク・ミュージックだったかもしれない。そしてそれがパンクだった時は、「とにかく3コードさえおさえればいけるぞ」みたいなことでいけたと。そもそもの最初に、僕の地方巡りの仕事っていうのがあるんですけど、地方に行くと若い子たちがつまらなそうに夜中にたまったりしているわけじゃないですか。でもそこで昔みたいに、ギターで「とりあえずFを練習するぞ」とかではない。それがここ10年ぐらいはヒップホップで、「とりあえず有りもののビートで、とにかく自分のラップをやる」と。そして、それを中学校の体育館の裏で練習するみたいな、僕は特に日本ではそうだと思ったんです。それからやっぱり、ヒップホップは他の音楽に比べて垣根が滅茶苦茶低い。だって楽器がいらなくて、マイク一本でしょう。スタジオすらもいらないくらいで、夜中の公園とかで練習できる。一番お金がなくても練習できる音楽で、だから世界中に広まったと思うんです。僕は世界の田舎にも行くんですが、昔見ていた、ロックが世界中に広がっていく速度よりもヒップホップの方が早い。だって今、イランだってラップがあるわけだし、たぶん北朝鮮にだってあるかもしれなくて、これだけ包容力のある音楽形態ってなかなかないわけですよ。中国にロック・バンドもありますが、それはやっぱり資産階級じゃないとできない。だけどヒップホップの場合は、本当にラジカセ一個あればいいということがあるので、そういうヒップホップの形態の持つ力というのがありますよね。》

 これを読んで僕はハッとしました。
 もう長い間「音楽が何かを表現する」ということを全然気にしていなかったからです。
 冒頭にも書いたように、僕は音楽に「意味」というものを求めなくなっていて「クールさ」「ダンサブル」「美しさ」といったものしか目に入らなくなっていました。
 かつてロックで世界を変えようという運動があったことも、自分がロックに参っていたことも、全部忘れていました。
 加えて、もしも誰かが何かを言いたいのであれば、その人はやっぱりロックを使うだろうという思いがありました。ロック世代で頭が止まっていたということです。ロックで叫んでいた10代のあと、クラブミュージックをひたすら消費し続ける20代を通過し、完全に音楽の持つ意味性みたいなものと疎遠になっていました。

 この都築響一さんの文章を読んだ直後、僕は同居人の女の子が以前リビングで見ていた映画のことを思い出しました。僕が通りがかった時に画面に映っていたのは、ヒップホップっぽい格好をした太った青年が自室の壁に張られたラッパーのポスターを拝んでいるという場面で、その時はラップに興味がなかったので「また変な映画見てるなあ」と思いながら通り過ぎただけでした。
 彼女に「あの時見てたの何?」と聞くと、「あれは『サイタマノラッパー』という映画だよ、面白かったよ」という返事があり、早速僕も見てみた次第です。
 (つづく)

SR サイタマノラッパー [DVD]
入江悠
アミューズソフトエンタテインメント

書評:『心の専門家はいらない』小沢牧子

2013-02-24 16:36:32 | 書評
「心の専門家」はいらない (新書y)
小沢牧子
洋泉社

 前回再録して紹介した小沢健二さんの『企業的な社会、セラピー的な社会』を読んだ後に、小沢牧子さんの『こころの専門家はいらない』も読んでいて、その感想文も書いていたと思ったのですが、それはツイッターで紹介しただけだったので、ここにまとめておきたいと思います。

 著者、小沢牧子さんはご自身が<心の専門家>というか「心の専門家の専門家」です。臨床心理学を研究しているうちに「どうもこれは嘘っぱちではないか」と気づいて今のようなスタンスに変えられたようです。
 カウンセリングとか精神医療とか抗鬱剤とかに対して、実は結構たくさんの人たちが「どうもこれは嘘っぱちではないか」という思いを抱いているのではないでしょうか。でも、そういうことを言うと「あなたは何か自分の心に向き合うのが苦痛であると感じてしまうような心の傷を持っているのではないですか、カウンセリングの回数を増やしましょう」というような、斥力を吸引力に変える巧妙な装置までカウンセリングには組み込まれています。
 この装置は、実に強力に構造化されたもので、本文中にもこのような記述があります。

 ”たとえばクライアントがカウンセラーにこう訊ねたとする「先生はお子さんがいらっしゃるのですか」。その場合様々な返答がありうるだろうが、もっともカウンセリング臭の強い返答は、次のものである。「それが気になりますか?」”

 このまま、どうして子供がいるのかどうかということが気になるのか、心にあるその原因を探って行きましょう、という形でカウンセリングは開始可能です。元々の質問は答えられることがありません。はぐらかされています。患者はカウンセラーと「患者:カウンセラー」という関係を結んだ時点で相手のコントロール下に入ります。
 いかに柔らかに、友好的に親身に振舞っていてもカウンセラーは立場的に「”正しい”心の専門家」で患者よりも”上”です。患者はカウンセラーに「ああしろこうしろ」とは言われないけれど「自然に」カウンセラーが喜ぶような返答、考え方をするようになっていきます。
 このように「自然に」どういう風にするのか相手に喜ばれるのかを汲み取って、それに沿って行動するようになる、という現象は教育現場にも持ち込まれていて、著者はこのように書いています。
 
 ”個々人の自己開発を求める生涯学習路線も、意欲関心態度を最重視する学校教育も、「みずから(自由に)決めよ、ただし望まれるように」という新たな管理の流れのなかにある”

 小沢さんの、この「自ら自由に決めよ、ただし望まれるように」というフレーズは強烈です。
 この作法は、企業にも、例の「社会人」とかいう人達の間にも蔓延しています。
 ドラッカーなんかが研究してきたのは「自発的に喜んでやっていると思い込ませたまま相手を支配する方法」というなんとも気味の悪いものですが、嬉々として読む人が続出して、それが会社経営のバイブルになり、社会全体が「操作されていることに気づかないまま操作されている人々の集団」になってしまいました。
 ドラッカーの「マネージメント」などを読んでる人はどことなく気味が悪い、と直感的に思ってしまうのは当然のことです。こちらから言わなくても自分の望んでいることを向こうが自然に察して勝手に喜んでやってくれるような方法が知りたいと、その人が思っていることの表明ですから。
 そういう本を「あやしい」ではなく、「有名企業の社長も読んでる」由緒正しい本だと思い込んで「俺も人をコントロールしてやろう」と読む人がたくさんいます。それがステップアップの為に勉強熱心で偉いとか言われます。また会社や何かに従って生きている人も「コントロールされている」と思いながらコントロールされ続けるよりも「コントロールされてなんかない、自由だ、これは俺の意志だ」と思いながら生きる方が気が楽なので、一見だれも困っていなくて、「こっそり人をコントロールする本」は、まるで社会の役に立つ本のように思われているのかもしれません。

 カウンセリングの持つ問題点は、他にもありますが、「外部の問題」を患者の「内面の問題」に摩り替えるというのが最重要ではないでしょうか。たとえば学校がカウンセラーを雇うのは生徒のためではなく学校の為です。登校拒否の子供がいたとしたら学校に問題があると考えるのは面倒なので「その子の心の問題のせい」にして済ませるわけです。
 これは非常に便利な手段です。
 ちょうど「会社に行くのが嫌で嫌で仕方ない」人が、その理由は今の仕事に全く興味がないからだと薄々気づいていても、転職するのが面倒なので、「問題は仕事にあるのではなくて私にあるのだ、仕事を好きになる努力をすればいいのだ」と考えるのに似ています。そもそも、このような思考形態はカウンセリングの普及と共に広まったのではないでしょうか。

 もう何十年と暴走肥大してきた消費社会は、ありとあらゆるものに値段を付けて貨幣と交換可能にしてきました。カウンセリングはその過程に発生した、武力の代わりに言葉で人々をコントロールする技術の一つかもしれません。遂にそれは人々の日常へ、心の中は入り込むことに成功してしまいました。

 ”最後の最後まで商品にされていなかった、人間の関係性さえもが消費財にされてしまった”

 という著者の言葉に、僕はまったく賛同するものです。

 ここからは余談になりますが、

 ”人を日常的に支えている力は何であろうか。ふだんはあまり自覚していないまでもそれは、自分の身になじんでいるものの人や場所であると、わたしは体験的に考えている”

 というセンテンスが本書にはあります。
 僕はこれを読んで、著者の夫であり、小沢健二の父である小澤俊夫さんのことを思い出しました。小澤俊夫さんは、グリム童話を専門とするメルヘンの研究者ですが、『小澤俊夫 昔話へのご招待』というラジオ番組をお持ちです(ポッドキャストで聞けます)。
 その中でリスナーからの「子供が同じ絵本ばかり何度も何度も読んで新しいのを読まないのだけど、どうしましょう?」という質問がありました。
 小澤さんの答えは「それでいい、無理して新しいものを読ませないで下さい」でした。
 子供というのは自分の心の安らぎを身近な、自分の慣れたものから覚えます、だからずっと同じぬいぐるみを手放さなかったりします。そういうのは子供の心にとってとても大事なことで、同じ物語を何度も何度も繰り返して読むのは悪いことどころか、むしろ大事なことだ、という返答です。
 なんとなく「やっぱりご夫婦だな」と思いました。
__________________
『「心の専門家」はいらない』小沢牧子

 目次

序章 臨床心理学をなぜ問うか

 1 疑問の始まり

 2 カウンセリングへの違和感

第Ⅰ章 現代社会とカウンセリング願望

 1 若者世代のカウンセリング観
  「心主義」への傾倒
  友だちを求め、おそれる
  専門家側からの働きかけ

 2 あらたな人間管理技法
  自由に決めよ、ただし望まれる形で
  臆病の蔓延と排除の合理化
  自助努力への圧力

 3 「心」という市場
  アメリカの社会・文化背景
  「関係」の商品化

 4 カウンセリング依存の帰結
  生き方の委託
  「子どもの虐待」増加の示すもの
  親の適性判定のごとく
  「生かされる消費財」への道

第Ⅱ章 「心の専門家」の仕事とその問題群

 1 「心の時代」とは何のことか
  「モノから心へ」なのか?
  「心のビジネス」の始まり

 2 「心の専門家」はどのように登場したか
  歴史的経緯と学会論議
  「心の専門家」という名づけ

 3 カウンセリング技法とは何か
  問題をずらす技法
  「心の変容」のしくみ――言語戦略

 4 「治す・治る」を問いなおす
  登校拒否の治療とは
  差別の問題と「治療」
  「狂気を治す」ということの問題

 5 「心」についての専門性は成立するか
  専門性とは何か
  人間管理の技術学

第Ⅲ章 スクールカウンセリングのゆくえ

 1 あるカウンセリング場面から
  傾聴し、そして?
  原因の免罪と現状維持

 2 導入の経緯と現状
  学校と子どものズレのなかで
  導入が見送られた八〇年代の事情
  教職員の無力感の増大
  「心の専門家」の二重構図

 3 大学生のスクールカウンセリング観から
  日常的かかわりの意義
  問われるおとなのかかわり

 4 実践例とその問題
  短期療法への傾斜
  暗示の即効性とその問題
  悩むことからの回避
  考えることからの退却

 5 学校の未来をどうひらくか
  「する」ことから「在る」ことへ向けて

第Ⅳ章 「心のケア」を問う

 1 災害と「心の支援」
  カウンセラー派遣をめぐって
  日本は遅れているのか

 2 死の臨床と「心のケア」
  生物的生命から人の生活へ
  混迷する医療

 3 阪神・淡路大震災から学ぶもの
  「心」という名のベール
  生活への配慮をこそ

 4 PTSDと「心のケア」
  二次的被害の重大性
  当事者の思いと揺れ
  「心的外傷」ではなく「できごと」

 5 高齢社会と「心のケア」
  「介護」は家事のうち
  「関係」は制度になじまない

 6 犯罪被害者と「心のケア」
  心理主義の介入
  高じる親の不安

終章 日常の復権に向けて

 1 あきらめの広がり
  「心」へのサービスの進行
  「心のケア」の脱政治作用

 2 つながりをめざす
  なじむことの力
  平準化の関係原理
  縁の思想に賭ける

あとがき
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「心の専門家」はいらない (新書y)
小沢牧子
洋泉社

書評:『企業的な社会、セラピー的な社会』小沢健二

2013-02-24 11:00:58 | 書評
 2009年に掲載していたものの再録です
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 昨日書いたように、小沢健二の「企業的な社会、セラピー的な社会」を買ったので、眠る前に読んでみました。面白かったです。

 冒頭の文章をネットで見つけたので貼り付けると

『「社会と何の関係もない言葉」きららという少女が、考えています。
このお話の頃の世界には、そんな言葉がたくさんありました。社会と、現実と、何の関係もない言葉。

例えば「対外援助」という言葉がありました。
いわゆる「豊かな」国が、税金で、いわゆる「貧しい」国に「援助」する、「対外援助」のお金。
本当は援助するのなら、貰ったお金を「貧しい」国がどう使おうと勝手なはずですが、そうではなくて、お金には「このお金を、こういう風に使いなさい」と、ただし書きがついていて、どうやらお金は、「豊かな」国の大きな企業が受けとることになっているのでした。
つまり「豊かな」国のA国の人びとが払った税金が、A国を出ることもなく、同じA国に本社を持つ大きな企業の銀行口座に流れて行きます。
お金を受けとった企業は、「貧しい」B国に、倉庫にゴミのように積んであった売れ残りの製品や買い手のつかない車を送りつけたり、B国の人たちが「建てないでくれ!」と涙を流して頼んでいる、大きなダムを建てて、村々をダムの底に沈めたりします。
そんなことがなぜか、もう五十年以上、「対外援助」と呼ばれているのでした。』



 登場人物は「うさぎ!」と同じで、焦点を

『社会の問題について人々が考え始めたら、こっそりとある枠組みを与えて、その中でだけ自由に活発に議論させて、本質には目が行かないように操作する』

 ということに当てている。

 たとえば、エコカーを作るのだって世界に1台車を増やすことに変わりないし、車を作るには資源が必要だし、タイヤから撒き散らされる微小なゴムのカスのことや、ひき殺される莫大な数の動物や、アスファルトで埋められてしまう地面のことは何も言わない。
 人々が本当に自由に考えると、車ってもしかしたらそんなにいらないんじゃないかとか考え出すので、そういうことじゃなくて燃費のいい車に乗り換えることだけに考えを集中させるように誘導して、そして燃費のいい車をどんどん売る。人々は燃費のいい車を買うことでなんとなく問題の解決に貢献しているような気分になる。

 ある社会問題を解決したいと思っても、好き勝手に行動されては困るのでNPOを作らせ「報告」を義務付ける。税金やキャッシュフローのことがあるので本当には自由に活動できないけれど、NPOのできる範囲で貢献することに満足を覚えて終わる。

 タイトルにもある「セラピー的な社会」というのは的確な言葉だ。
 ある人が社会生活に疲れてセラピーに行くと、セラピストはその人の内面的な問題をどうにかしようとする。本当は環境の方を変えなくちゃ本質的な解決にはならない。「周囲を変えることはできないから自分の考え方を変えましょう」ということを仄めかして丸め込む。嫌な暗い気分になったというのは「何かがおかしい」というシグナルなのに、それを無かったことにする。

 人々が本質を考えないように、本質には関係がないのに関係があるように見せかけた出口の無い問題を与えて、その中でエネルギーを使わせる。本当はとても具体的な目の前にある問題なのに「大昔からの難しい宗教問題」とか「脳科学」とか「遺伝子に組み込まれた人間の性質」とか、なんかぼんやりとして解決のできないように見える問題に摩り替えて、現実の世界を変えようなんて気にさせないようにする。
 革命が起きないように。
 人々が本質を考えないように。

 オザケンはそういうことを沢山の資料を引いて書いていた。

 ネットにはオザケンを批判する文章がたくさんあるけれど、とんでもなく見当ハズレなのは小沢健二が資本主義を否定していると思っている人々の意見で、別に彼はそんなことを全然言っていない。それどころが正しい競争が働いていない歪な状況を指摘している。それからハイテクを否定して原始に帰れと主張していると思い込んでいる人もいるんだけど、これも彼は全然そんなこと言ってなくて、むしろものすごいテクノロジーに期待すらしている。

『企業的な社会、セラピー的な社会』は普通には売られていないのですが、小沢健二さんの母親である、小沢牧子さんの著書『心の専門家はいらない』は、本書の内容に多大な影響を及ぼしています↓
「心の専門家」はいらない (新書y)
洋泉社


書評:『逃げる中高年、欲望のない若者たち』村上龍

2013-02-24 10:56:26 | 書評
逃げる中高年、欲望のない若者たち
ベストセラーズ

 以下は2010年に載せていたものですが再録します
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 村上龍さんの新しいエッセイが出たと @tatsu9393 さんのツイートで知りました。研究室からの帰りに本屋に寄ってチェックしてみると、文字が大きい上に印字スペースが狭く、さらに表紙の厚みが普通のハードカバーの倍あった。だから少ない原稿で無理矢理作った本にしか見えなかったし、それで1300円というのは読者というか書籍というもの全部を馬鹿にしているみたいにも思えた。でも、結局、僕はその本を買った。

 本のタイトルは「逃げる中高年、欲望のない若者たち」というものです。帯には「村上龍の挑発エッセイ」と書いてある。僕は今この本を半分ほど読んだところで、まだ全部は読んでいない。それでも今、その挑発だか何だかに乗って書くことがあります。

 村上龍という作家はたぶん僕の一番好きな作家です。たぶんと言葉を濁したのは、僕が村上龍の作品に対して感じる「好き」は単純な好きではないからです。性格の悪い、変態でグロい身も蓋もないことが書かれているので、僕はこれを手放しに「好き」だとは言えない。ただ、この作家の書くものには何かとんでもないものが含まれているということは分かるし、読みたい、と思う。「半島を出よ」という作品を読んだとき、僕はその凄まじさに圧倒されて、こんなに凄い小説を書いたら命が燃え尽きてしまうのではないかとすら思いました。ものすごいエネルギーがつぎ込まれているのをビリビリと感じた。

 それから、村上春樹という作家も好きだか嫌いだか良く分からないけれど、なんだか読んでしまう作家です。つまり好きなんだと思います。
 昔「あー、良太君のメール、なんかに似てるなと思ったら、村上春樹みたいだね」と言われてひどくショックを受けたことがあります。たぶん今も変わらず「読書の好きな男が文章を書くと村上春樹みたいになってしまう病」は蔓延していると思うけれど、僕は当時それを自覚していてどうやって抜け出そうかと画策していました。そういえば最近もまた言われてしまったので抜け出すにはまだ訓練が必要みたいです。

 柔らかめに書こうとすると村上春樹みたいになってしまい、硬めに書こうとすると村上龍みたいになってしまう。それは僕を捕らえる一つの檻です。しかし、同時に表現の道具でもありました。
 とにかく、僕が中身も確かめずに買う小説は2人の村上という名を持つ作家のものだけです。
 それでも今日は、老人達の肩を叩いて、世代交代を伝えたいと思うのです。

 村上春樹の「1Q84」を読んだとき、最初に僕が感じたのはなんと”老い”でした。どこがどう老いなのか具体的に分からないのですが、最初の数ページを読んで「あっ、僕は今、老人の書いた小説を読んでいる」とはっきり自覚したのです。
 言うまでもないことですが、別に老いた人の書いた小説だから悪いとかそういうことではありません。ただ、それはもうフレッシュな何かから随分遠くに来たのだということです。村上春樹は「グレート・ギャッツビー」の翻訳者後書きみたいなところで、確か「翻訳の賞味期限」について書いていました。今さら僕が翻訳なんてしなくても既に良い訳がいくつも出ている、ただ時代は変わるしそれらの翻訳はもう賞味期限が切れている、だから僕は新しい翻訳を出してみた、というようなことです。
 文章に賞味期限があるのならそれを紡ぐ作家にも賞味期限はあるのではないだろうか、そしてこの作家の賞味期限はそろそろかもしれない、と僕は1Q84を読んでいて思ったのです。新刊なのになんだかもう古いような気がしたのです。繰り返すようだけど、古いから悪いとかそういうことではなく、古いというのはただ遠いということです。源氏物語は紛れもなく素晴らしいけれど、でも21世紀の僕たちからは遠い、そういうことです。

 やっと村上龍のことですが、最近の小説「歌うクジラ」では老いを感じなかったものの、この「逃げる中高年、欲望のない若者たち」からは老いのようなものを感じました。老いというよりも、村上龍もある世代という枠の中で生きていて、それはもう引退しつつある人々の世代なのだと感じました。もう本当に僕達がしっかりしないといけないのだと思いました。

 たとえば「サイゼリヤの誘惑」という章があって、その中に、自分の番組にサイゼリヤの社長が出るから行ったことのないサイゼリヤに行ってみた、ということが書かれています。村上龍はまず「その安さとおいしさ」にびっくりして、それから生ハムにびっくりします。

(以下引用)
「もっと驚いたのは、パルマ産の生ハムが紛れもない本物だったことだ。中田英寿が現役でパルマに所属していたころ、わたしは何度も彼の地を訪れ、ミラノやピアチェンツァやボローニャなどを含めて、かなりの量の生ハムを食べたが、サイゼリヤは、本場にまったく劣らない味だったのだ。(・・・中略・・・)モッツァレラチーズもまさしくバッファローの新鮮な本物で、本場イタリアの、たとえば高速道路のドライブインのものよりは品質がはるかに上だった。何でこんなにハイレベルの食材がファミレスにあるんだ、とつぶやきながら、わたしは満足してハムとチーズを味わった。
 ワインも本物で、フィレンツェで飲むキャンティのテイストが維持されていた。(・・・中略・・・)本場イタリアでも通用するような「本物」の味と茹で具合で、本当にびっくりした」
(引用終わり)

 サイゼリヤべた褒めです。
 その後、客はこんなにハイクオリティの食べ物がこんなに安く提供されているなんてどんなすごいことか分かっているのか、幼稚園児が普通にこんな本場のイタリアンを食べているのは不自然じゃないか、今は安くて高品質なものが手に入る、ユニクロの服を来てニトリの家具とヤマダ電機で買ったテレビのある部屋でマクドナルドを食べている生活は自分が学生の頃より数百倍快適だろうということを書き、その後、こう結んでいる。

(以下引用)
「だが、何かが失われるような気もする。それが、失われてもいいものなのか、それとも失われるとやばいものなのか、それはまだわからない」
(引用終わり)

 わからない?
 いや、分かると思うんだけどなあ。
 世代、という括り方は僕も嫌いだが、でもこういう文章を読んでいると世代という言葉を意識しないわけにはいかない。
 僕は今31歳だけど、その何かは”失われるとやばいものだ”ということは普通に分かっている。たぶん同世代のほとんどが分かっている。でも村上龍には分からない。僕たちはサイゼイリヤへは安いから行くことがあっても絶賛はしない。僕は2回サイゼリヤへ行ったことがあるけれど、別にそんなにおいしいわけでもないしレストランに必要な決定的なものが欠落していることは明白だ。
 僕たちは彼らには見えない大事なもののことも分かっているから、その大事な何かを失いはしないし、快適な生活も失いはしない。それらを踏み越えて更なる未来へと歩みを進めている。
 もう「本場」とか「本物」とかいちいち言わなくてもいい時代を僕たちは生きている。村上龍は「本場イタリア」とかそういうことをいちいち言わなくてはならない世代の人なのだ。

 海外旅行へ行きたがらない若者のことに言及しているけれど、けして「友達いっぱい」ではない僕の友達のうち10人以上は海外で暮らしている。旅行とかホームステイではなく、海外で研究したり働いたり専門的な勉強をしたりしている。今は日本に戻っている人たちを含めれば倍はいる。もういちいち「海外」とか大声で言わなくていいのだとみんな知っている。

「若者は外部に欲しいものを探さない、まるで死人」だと村上龍は言っているけれど、それは単に僕たち若者の欲しいものが老いた人間には理解できなくて見えないというだけのことだ。僕たちが「欲望のない若者たち」なのではなく、彼らが「欲望の見えない老人たち」なのだ。

 芸術の世界にも科学の世界にも職人の世界にも経営の世界にも、ありとあらゆる世界に尊敬すべき先輩達がたくさんいらっしゃる。けれど、僕たちはその人たちを越えて行く。彼らの作ってくれた豊かな世界に育まれたお陰で、当然のようにその上を行く。ピカソは天才的な芸術家だったけれど、今見たら「ふーん」で終わりだ。だって僕たちはピカソ自身がそうして作ってくれた新しい世界で呼吸して育ってきた新世代なのだから。大好きな奈良美智さんたちの世代も、悪いけど今越えて行く。天才科学者が一生掛けた発見も発明もググったらすぐに勉強できる。そして新しいものを作る。大好きな尊敬すべき先人たちが作ってくれたこの世界で、僕たちは巨人の肩に乗って、もっとずっと遠くの未来まで歩いて行く。僕たちが次の世代に乗り越えられるいつかまで、ずっと歩いてく、今。

逃げる中高年、欲望のない若者たち
ベストセラーズ


村上春樹にご用心
アルテスパブリッシング

書評:『弱いロボット』岡田美智男

2013-02-22 20:17:12 | 書評
弱いロボット (シリーズ ケアをひらく)
岡田美智男
医学書院

 『弱いロボット』というタイトルを店頭で見て、最初に僕が連想したのは、現行ロボットの未熟さというようなものでした。
 産業用ロボットのように、何かに特化したロボットの中には凄まじい高性能を持つものがありますが、僕達の日常生活に入ってきたロボットと言えば、せいぜい「ルンバ」程度です。あんなものが21世紀のお掃除ロボだなんて、1970年に大阪万博で輝かしい未来を想像していた人達からすれば驚きでしかないと思います。(あと「アイボ」というのもありましたね。もう絶滅したようですけれど。)

 万博ついでに書いてしまうと、僕は2005年の愛知万博で「リニモ」に乗った時、そこはかとなく脱力感に襲われました。それは「リニモ」が、ただのモノレール並の遅さだったから、という理由からだけではなく、そこへ到達するまでのリニアモーターカーの歴史を鑑みてのことです。
 リニアモーターカー開発の歴史は100年くらいあると思います。今は磁気浮上式について話をしていますが、科学の世紀と言われた21世紀をまるまる費やしても「リニモ」程度のものが万博で鳴り物入りで紹介されていて、世界的に見ても、ほとんどリニアモーターカーは普及していません。
 さらに、日本のリニア計画は2027年に東京ー名古屋間、2045年に東京ー大阪間開通ということですが、2045年になっても僕達は「祝リニアモーターカー開通!」とか、なんとなく昭和な響きのする言葉を万歳するのでしょうか。

 と、まるで悪口のようなことを書きましたが、別にこれは悪口ではなくて、科学技術の発展は難しいということの再認識と、元科学少年としての軽い失望を表明したまでです。
 この「昭和的科学少年の21世紀初頭に対する失望」というのは、ラーメンズが『アトム』というコントで上手に表現しています。
(一番下に動画を引いておきました)

 閑話休題。
 とはいっても、実は愛知万博の話はこの本の内容に関連があります。
 岡田さんは愛知万博に「自分ではゴミを拾えないけれど拾ってほしそうにして周りの人にゴミを拾って貰うロボット」を次世代ロボットとして提案したが相手にされなかった、という経験をお持ちです。
 この「自分ではゴミを拾えないけれど拾ってほしそうにして周りの人にゴミを拾って貰うロボット」は「弱いロボット」の一つです。
 そうです「弱いロボット」というのが何を表しているのか、どういうロボットのことを言っているのかというと、それは「何もできないロボット」だったのです。
 著者の表現を本分から引用すると、

『「あ、そうか。手足もなく、目の前のモノが取れないのなら、誰かに取ってもらえばいいのか」
 あらためて考えてみると、こんな捨て鉢ともいえる発想で作られたロボットは世の中にまだないのではないか。ポイントとなるのは「一人では動こうにも動けない」という、自分の身体に備わる「不完全さ」を悟りつつ他者に委ねる姿勢を持てるかどうかである。つまり、他者へのまなざしを持てるかどうかということだろう。』

 というように、自力では何もできないので周りの人に助けて貰うロボットです。
 僕は最初に「ロボットの未熟さ」というものを連想していましたが、その「未熟さ」というのは「なんでもできるロボット」に対しての未熟という意味でした。僕の視点の先には「なんでもできる」というものが置かれていたということです。蓋を開けてみれば、岡田さんの研究は完全に反対方向を、「なにもできない」という方向を向いたものでした。

「え?そんなのロボットなの?」
 という反応は、妥当なもので、僕もやっぱりそう思ってしまいます。
 実際、ロボット展示会に「弱いロボット」を出品しても、「何の役に立つの???」と完全に浮いた存在になってしまうということです。

 「弱いロボット」は、ロボット単体では役に立ちません。
 ただ、このロボットは人とのインタラクションの中で、コミュニケーションの本質を浮かび上がらせたり、人々のコミュニケーション触媒になったりという機能を発揮します。
 岡田さんの研究目的も、単純なロボット開発ではなく「コミュニケーション」に重点を置いたものです。それはこの本がブルーバックス等のサイエンス本としてではなく、「ケアをひらく」という介護を扱ったシリーズの一冊として出版されたことからも伺えます。

 自分ではゴミを拾えないゴミ箱ロボットと子供たち
 (1分20秒くらいからです)↓



 「何もできないロボット」を「幼児」のアナロジーとして「人々に何かさせる」ということ。
 (例:かわいらしいゴミ箱ロボットを作って、人々にゴミを拾わせる)

 もしくは、

 「極度に対話能力の低いロボット」を使って、人々に「人形遊び」的な「一人会話」を引き起こること。
 (例:ムームーなどと意味のないことしか言えないロボットの発話から「タコ焼きね」などと人が勝手な解釈を見出す)

 これらが不気味なことであることに、岡田さんは自覚的で、これらの研究は端的にまだ途上です。これからエンジニアリングの枠を大きく超えて、ますます面白くなるのではないでしょうか。
 僕はこれまでロボットを「性能、機能」だけで見てきた節があり、本書によって大きく目が開かれました。

 また、本書を貫いているある重要な姿勢があって、それを紹介しないわけにはいきません。
 その姿勢は、「歩くというのは、どうなっちゃうか分からないけれど、とりあえず一歩踏み出してみて、つまり地面に向かって倒れこんでみて、それで始まるんだ」ということです。
 それこそが「生きている感じ」で、だから僕達は「静歩行型ロボット」を見ても生きている感じを受けなくて、「動歩行型ロボット」からは生きている感じを受け取る。
 倒れこんだ先に地面らしきものがあることを信じて前に倒れること、そこから物事は始まり、また一歩進んだ先には別の視界が開ける。
 コミュニケーションも同じことで、取り敢えず発してみた一言を「相手」という地面が受け止めてくれて、そして会話が始まる。とりあえず投げてみる一言は「文法的に意味のある」センテンスでなくていい。英語が話せないという思い込みの一部は「意味のあるセンテンス」を組み立ててから投げなくてはならないという強迫観念に由来している。日本語で話す時だって人は「意味のあるセンテンス」ばかり発してはいない。雑談を分析してみれば意味のない言葉だらけだ。もしも「意味」というものが希求されるのであれば、それは個々がその一回の発話で達成するものではなく、会話に参加している全員のコミュニケーション全体で達成されるものなのだ。
 何か一つの行為に、その一歩に、確実な意味なんかなくていい。その投げ出された行為は誰かに受け止められ、インタラクションの中で意味は形成されていく。僕達がすることは、社会という地面を信じて一歩前に身を投げ出すことだけだ。
_________________
『弱いロボット』岡田美智男

 目次

 はじめに

第1章 言葉のもつリアリティを求めて
 1 そのしゃべりで暮らしていけるの!?
 2 雑談の雰囲気をコンピュータで作り出せないか

第2章 アナログへの回帰、身体への回帰
 1 嵐の前の静けさ
 2 とりあえず作ってみる
 3 もっとソーシャルに!

第3章 賭けと受け
 1 「静歩行」から「動歩行」へ
 2 言い直し、言い淀みはなぜ生じるのか
 3 行為者の内なる視点から
 4 おしゃべりの「謎」に挑む
 5 「地面」と「他者」はどこが違うのか

interview 「とりあえずの一歩」を踏み出すために

第4章 関係へのまなざし
 1 一人ではなにもできないロボット
 2 サイモンの蟻
 3 ロボットのデザインに対する二つのアプローチ

第5章 弱さをちからに
 1 乳幼児の不思議なちから
 2 ロボットの世話を焼く子どもたち
 3 おばあちゃんとの積み木遊び
 4 「対峙する関係」から「並ぶ関係」へ

第6章 なんだコイツは?
 1 どこかにゴミはないかなぁ
 2 「ゴミ箱ロボット」の誕生
 3 ロボットとの社会的な距離
 4 学びにおける双対な関係
 5 ロボット-「コト」を生み出すデバイスとして

 参考文献
 あとがき はじめに

第1章 言葉のもつリアリティを求めて
 1 そのしゃべりで暮らしていけるの!?
 2 雑談の雰囲気をコンピュータで作り出せないか

第2章 アナログへの回帰、身体への回帰
 1 嵐の前の静けさ
 2 とりあえず作ってみる
 3 もっとソーシャルに!

第3章 賭けと受け
 1 「静歩行」から「動歩行」へ
 2 言い直し、言い淀みはなぜ生じるのか
 3 行為者の内なる視点から
 4 おしゃべりの「謎」に挑む
 5 「地面」と「他者」はどこが違うのか

interview 「とりあえずの一歩」を踏み出すために

第4章 関係へのまなざし
 1 一人ではなにもできないロボット
 2 サイモンの蟻
 3 ロボットのデザインに対する二つのアプローチ

第5章 弱さをちからに
 1 乳幼児の不思議なちから
 2 ロボットの世話を焼く子どもたち
 3 おばあちゃんとの積み木遊び
 4 「対峙する関係」から「並ぶ関係」へ

第6章 なんだコイツは?
 1 どこかにゴミはないかなぁ
 2 「ゴミ箱ロボット」の誕生
 3 ロボットとの社会的な距離
 4 学びにおける双対な関係
 5 ロボット-「コト」を生み出すデバイスとして

 参考文献
 あとがき
________________


弱いロボット (シリーズ ケアをひらく)
岡田美智男
医学書院




書評:『私の個人主義』夏目漱石

2013-02-20 21:30:32 | 書評
 「どんな犠牲を払っても、ああここだという掘当てるところまで行ったらよろしかろうと思うのです」

 夏目漱石がこんなダイレクトな物言いをしているのを、僕はこれまで知りませんでした。
 『私の個人主義』というのは、漱石の講演を書き起こしたもので、冒頭部分は講演をすることになるまでの長い経緯だとか挨拶が書かれていて、昔読んでみた時、僕はそこで退屈してやめていました。今日は最後まで読んでみたのですが、すっかり心打たれる講演です。

 以前、高橋源一郎さんが「漱石だけは明治文学の域を超えている。彼だけは他の明治の作家とは違う」というようなことを言っていらっしゃいました。僕にはそれがどうしてなのかずっと分かりませんでした。加えて、僕はある程度本を読むのが好きな方の人間ですが、漱石はいくつか読んでみてそんなにも面白いとは思わなかったので、取り立ててそれ以上知ろうともしませんでした。
 今日、『私の個人主義』を読んでみて、どこが「明治文学を超えている」のか分かった気がします。明治文学はロシア文学の輸入に終始している感が、あるいは西洋かぶれ、国家主義に終始している感がありますが、漱石はそれを乗り越えて「個人主義」「自己本位」の文学を組み立てました。

 漱石が、「西洋盲従」「他人本位」から「文学は自分で作るしかない」という「自己本位」に到達したのはイギリス留学中のことです。
 1900年(明治33年)、当時33歳の夏目漱石はイギリスに留学して、「漱石発狂」とも噂されるまでに酷い神経衰弱に陥りました。しかし、その間に漱石は決定的な何かを掴んだわけです。1年少しで帰国し、教師の仕事を転々としたあと、神経衰弱の治療も兼ねて『我輩は猫である』を執筆。1905年「ホトトギス」への掲載となりました。ここから次々と日本文学史に残る作品を発表していきます。僕は先程も書いたように、漱石の作品をそんなには好きでなくて、でもそれは読んだ時まだ自分が若かったせいなのかもしれないなとも思っていますし、同時に、漱石が目指していたことがいくらか達成された後の時代を生きているからかなとも思っています。どちらにしても、この先人の言葉に、「負け惜しみの強い」「こじつけ」という意味の偏屈なペンネームで作品を書き続けた偉大な先人の言葉に、僕は強く背中押されます。

 『 以上はただ私の経験だけをざっとお話ししたのでありますけれども、そのお話しを致した意味は全くあなたがたのご参考になりはしまいかという老婆心からなのであります。あなたがたはこれからみんな学校を去って、世の中へお出かけになる。それにはまだ大分時間のかかる方もございましょうし、またはおっつけ実社界に活動なさる方もあるでしょうが、いずれも私の一度経過した煩悶(たとい種類は違っても)を繰返しがちなものじゃなかろうかと推察されるのです。私のようにどこか突き抜けたくっても突き抜ける訳にも行かず、何か掴みたくっても薬缶頭を掴むようにつるつるして焦燥れったくなったりする人が多分あるだろうと思うのです。もしあなたがたのうちですでに自力で切り開いた道を持っている方は例外であり、また他の後に従って、それで満足して、在来の古い道を進んで行く人も悪いとはけっして申しませんが、(自己に安心と自信がしっかり附随しているならば、)しかしもしそうでないとしたならば、どうしても、一つ自分の鶴嘴で掘り当てるところまで進んで行かなくってはいけないでしょう。いけないというのは、もし掘りあてる事ができなかったなら、その人は生涯不愉快で、始終中腰になって世の中にまごまごしていなければならないからです。私のこの点を力説するのは全くそのためで、何も私を模範になさいという意味ではけっしてないのです。私のようなつまらないものでも、自分で自分が道をつけつつ進み得たという自覚があれば、あなた方から見てその道がいかに下らないにせよ、それはあなたがたの批評と観察で、私には寸毫の損害がないのです。私自身はそれで満足するつもりであります。しかし私自身がそれがため、自信と安心をもっているからといって、同じ径路があなたがたの模範になるとはけっして思ってはいないのですから、誤解してはいけません。
 それはとにかく、私の経験したような煩悶があなたがたの場合にもしばしば起るに違いないと私は鑑定しているのですが、どうでしょうか。もしそうだとすると、何かに打ち当るまで行くという事は、学問をする人、教育を受ける人が、生涯の仕事としても、あるいは十年二十年の仕事としても、必要じゃないでしょうか。ああここにおれの進むべき道があった! ようやく掘り当てた! こういう感投詞を心の底から叫び出される時、あなたがたは始めて心を安んずる事ができるのでしょう。容易に打ち壊されない自信が、その叫び声とともにむくむく首を擡げて来るのではありませんか。すでにその域に達している方も多数のうちにはあるかも知れませんが、もし途中で霧か靄
のために懊悩していられる方があるならば、どんな犠牲を払っても、ああここだという掘当てるところまで行ったらよろしかろうと思うのです。必ずしも国家のためばかりだからというのではありません。またあなた方のご家族のために申し上げる次第でもありません。あなたがた自身の幸福のために、それが絶対に必要じゃないかと思うから申上げるのです。もし私の通ったような道を通り過ぎた後なら致し方もないが、もしどこかにこだわりがあるなら、それを踏潰すまで進まなければ駄目ですよ。――もっとも進んだってどう進んで好いか解らないのだから、何かにぶつかる所まで行くよりほかに仕方がないのです。私は忠告がましい事をあなたがたに強いる気はまるでありませんが、それが将来あなたがたの幸福の一つになるかも知れないと思うと黙っていられなくなるのです。腹の中の煮え切らない、徹底しない、ああでもありこうでもあるというような海鼠のような精神を抱いてぼんやりしていては、自分が不愉快ではないか知らんと思うからいうのです。不愉快でないとおっしゃればそれまでです、またそんな不愉快は通り越ているとおっしゃれば、それも結構であります。願くは通り越してありたいと私は祈るのであります。しかしこの私は学校を出て三十以上まで通り越せなかったのです。その苦痛は無論鈍痛ではありましたが、年々歳々感ずる痛みには相違なかったのであります。だからもし私のような病気に罹った人が、もしこの中にあるならば、どうぞ勇猛にお進みにならん事を希望してやまないのです。もしそこまで行ければ、ここにおれの尻を落ちつける場所があったのだという事実をご発見になって、生涯の安心と自信を握る事ができるようになると思うから申し上げるのです。』

kindleでタダで読めます↓
kindleは端末を持っていなくてもiPhoneアプリもアンドロイドアプリもありますし、PC用のソフトもあります。もちろん全部無料です。
私の個人主義
夏目漱石
メーカー情報なし


もちろん岩波も↓
漱石文明論集 (岩波文庫)
夏目漱石
岩波書店


青空文庫も↓
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書評:『犬はどこから…そしてここへ』畑正憲

2013-02-20 16:53:10 | 書評
犬はどこから…そしてここへ
畑正憲
学習研究社

 僕の大好きなムツゴロウさんの一番新しい本です。
 「ムツゴロウさんの本」というとキョトンとする人が結構いるけれど、ムツゴロウさんは作家で、たぶんこれまでに100冊程度は本が出ているのではないかと思います。
 僕が子供の頃は「ムツゴロウと愉快な仲間たち」というテレビ番組がゴールデンで流れていて、「子猫物語」とか「REX」といったムツゴロウさんの映画も夏休みにやっていて、学校で使うノートも表紙が動物の「ムツゴロウ学習ノート」で、クラスに1人は「将来ムツゴロウさんの動物王国で働きたい」というような人がいました。

 それでも、というか、それ故にか、ムツゴロウさんを「ただの変な動物おじさん」だと思っている人がとても多いのですが、ムツゴロウさんは作家で、あの「ヨーシヨシヨシ」と動物をかわいがる姿からは想像しにくい激しい生き方をされています。
(参考:Wikipedia「畑正憲」

 麻雀も強くてプロ麻雀連盟の相談役です。強いだけではなく、お正月には三日三晩トイレ以外不眠不休で打ち続けると何かに書いてありました。Wikipediaには10日間打ち続けたこともあると書いてあります。

 僕が小学生の頃は結構誰も彼もがムツゴロウさんを好きだったように思いますが、中学生の頃になると「実は悪い人で裏で動物を虐待している」という噂が優勢になっていたような気もします。
 僕は高校から大学学部時代に掛けて、かなり沢山ムツゴロウさんの本を読んだのですが、ムツゴロウさんは「ただ動物を可愛がる」というよりも、人と動物が一緒に何かをすることに興味を持たれている印象を受けました。走り過ぎて馬が死んでしまうような競馬にも意気揚々と参加されていたと思いますし、スリランカで象使いに弟子入りしたときもでっかいバールみたいなやつでしっかりとゾウを叩いておられました。娘を動物好きに育てたら、魚を殺して食べることも拒否するようになりそれに衝撃を受けて、もっと深いことを教えようと思ったというエピソードが無人島へ移り住む前後の本に書かれていて、これはムツゴロウさんのスタンスを象徴的に示していると思います。

 さて、Wikipediaには、東大の修士にいたとき、

「研究の途上で文学の世界で生きるか、研究者の世界で生きるか悩み、自殺寸前まで精神的に追い詰められ、突如研究室から姿を消した」

 と書かれています。

 そして、この『犬はどこから…そしてここへ』の冒頭にはこうあります。

「私は、教えることと、学問を自分の正面に出すことを、非常に嫌っていました。自分は文学を書くんだという気取りがずっととれなかったんです」

 ええ、この本は今までのムツゴロウさんの本とは少しだけ毛色が違います。

 「今回は、思い切って犬についての話をさせていただきたいと思います」
 「私の新説を聞いていただくのは、今日が初めてです」
 「犬は、私にとって特別な生き物でありました」

 こんな前口上で始まります。
 講演の録音が元になっているので、話があちこちに飛んで少しわかりにくいのですいが、新説というのは副題にもある「犬は狼の子孫ではない」というものです。
 今から14万年前、僕達の祖先ホモ・サピエンスが誕生しました。ミトコンドリアDNAの分析によればイエイヌが誕生したのも同じく14万年前です。ホモ・サピエンスはその頃から体が大きくなりますが、それは肉食によるもので、たぶん犬と一緒に肉を食べていたのではないかというのがムツゴロウさんの推測です。
 犬には他の動物には見られない、特殊な性質が、それも人と共に社会を形成する性質があります。狼や狐はどんなに子供の頃に慣れても、大きくなるとムツゴロウさんが「第二次社会適応期」と呼ぶものがやってきて原野に帰って行ってしまいます。でも犬は離しておいても人間の近くにずっといる。一緒に狩りをしても、犬は獲物を食べない。人間が獲物の肉を与えてはじめて食べる。きっと、14万年前に犬と人は契約を交わし、仲良くなり、そして共に長い年月を生き延びてきたのだ。

 あとがきに、まだ科学的に証明されたことでもないし、もっと調べたいこともあるから本当はまだ発表したくなかった、と書かれているように、これが本当に正しいのかどうかは分かりません。でも、一般的に信じられている「狼が人に慣れて犬になった」という意見には「ムカつく」とムツゴロウさんは書いています。学術的な文献を読むだけでなく、世界中で犬に体当たりしてきたムツゴロウさんの意見に僕は耳を傾けたい。
 それに、もしもムツゴロウさんの説が正しくて、人類が人類だけでではなく、本当に犬と共に14万年も生きてきたのだとしたら、こんなに素敵な歴史観は他にちょっとないと思うのです。

犬はどこから…そしてここへ
畑正憲
学習研究社

書評:『あなたを天才にするスマートノート』岡田斗司夫

2013-02-19 14:33:06 | 書評
あなたを天才にするスマートノート
岡田斗司夫
文藝春秋

 前回、岡田斗司夫さんの『評価経済社会』という本を紹介しました。とても見通し良くすっきりと書かれた本だったので、頭の中がまとまった賢い人なのだろうな、という印象を受け、三部作として紹介されていた残りの2冊も読んでみることにしました。
 ただ、残る2冊はタイトルが結構厳しくて、『あなたを天才にするスマートノート』と『人生の法則 「欲求の4タイプ」で分かるあなたと他人』というものです。かなり胡散臭いですね。ビジネス本とスピリチュアル本みたいですね。

 通常であればタイトルを見ただけで手を出すことはなさそうな本ですが、著者が岡田さんなので読んでみました。
 岡田斗司夫という名前を僕がはじめて見たのは十数年前、高校生の頃です。当時『トンデモ本の世界』という「と学会」が出した本が売れていて、岡田さんはその「と学会」の会員でした。『トンデモ本の世界』という本は、世に出回っている”トンデモ本”をウォッチして楽しむというスタイルの意地悪な本です。たとえばUFOについて真剣に書かれた本を取り上げて「ここにこう書いてあるけれど、全然辻褄合ってないですね。著者の人どういうつもりなんでしょうね、バカですね、プッw」というような。
 この本は意地悪だけどとても面白くて、僕は色々な影響を受けました。僕の物事を批判的に見てしまう性向の一部はこの本に起因していると思います。

 少し話はずれますが、数年前、僕は町山智浩さんという映画評論家の存在を知って、彼の評論を好むようになりました。不幸なことに、僕は「映画が大好きだ!」という程には映画が好きではないので、あまり映画を見ないのですが、町山さんの映画評論は評論だけで既に映画よりも面白いです。「この人は本当に映画が好きなのだ」ということがヒシヒシと伝わってきます。悪口ばっかり言ってらっしゃいますけれどw。(参考:町山智浩の映画塾
 しばらくして、町山智浩さんが『トンデモ本の世界』の仕掛け人だったということを知り、また昔読んでいた別冊宝島のいくつかも町山さんの手によるものだったということを知りました。加えて町山さんはもともと、みうらじゅんさんの担当者で、みうらさんからは「バカの町山」と呼ばれています。というか「町山智浩」と書いて「バカ」と読むことになっているそうです。僕は知らぬ間に長期に渡って町山智浩という人の影響を受けて来たことになります。

 閑話休題。
 岡田さんは、ガイナックスを作った人で、オタキングで、最近ではレコーディングダイエットの人で、そういうこともなんとなく知っていました。『評価経済社会』がはじめて読んだ岡田さんの著作だったので、詳しいことは何も知らないですが、その漠然としたイメージからも、『評価経済社会』の内容からしても、『あなたを天才にするスマートノート』と『人生の法則 「欲求の4タイプ」で分かるあなたと他人』の2冊が、よもや単なるビジネス本やスピリチュアル本ではないだろうという予想はできます。

 結果的に『人生の法則』の方はパラパラと見るだけで”読む”には至りませんでした。僕には興味の持てそうにない内容でした。

 『スマートノート』の方は、なんだかんだ言って所謂「ノート術」の本だったのですが、技術的なことは置いておいて面白かったです。
 ノート術の本を読んで、ノート術とは関係のない何が面白かったのかというと、著者のスタンスです。

 岡田さんは子供の頃頭が良くて、だから悠々と遊んでいました。当然ノートを取るとかメモを取るみたいな泥臭いことはしなかった。ところが大人になるに従って、自分の到底敵わない人達と出会うようになり、彼らに太刀打ちする「メモを取る」ようなります。するとメモには強烈な力があることが分かり、やがてそれはノート術へと発展します。この本は20年間に渡る岡田さんのノート試行錯誤結果ということです。
 岡田さんは1958年生まれで、今54才。僕は1979年生まれで、今34才です。岡田さんは僕のちょうど20年先輩に当たります。賢い人だなと思え、面白いと思う本を書かれた20才の先輩が、ちょうど20年分の思考錯誤の結果を公表しているのなら、僕はそこから学ぶことがたくさんあるはずです。こんなラッキーなことはあまりないと思います。
 そこには「うまくできているウェブサイトはノートに丸ごと写してみる」というような本当に泥臭いことが書かれています。つまり、そういうことだということです。「賢く見られたい」という見栄でスマートさを求めるのではなく、「本当に賢くなる」為に泥臭いことを厭わないという姿勢がバサッと公開されています。

 岡田さんは自分が賢いということをIQテストで認識したと書かれています。実は僕も似たような背景を持っていて、子供の時に受けたIQテストが良かった為、本当に恥ずかしい話ですが自分のことを天才だと思っていました。だから成績がパッとしなくなってくると「最近ロックを聞くようになったからだろうか、ロックは脳に良くないのかな、クラシックにした方がいいのかな」とか本気で考えていました。もちろん成績が落ちるのは自分の努力不足のせいですが、そうではなくて頭脳のコンディションが乱れているのだと考えていたわけです。
 この時に、僕は自分のことを真摯に見つめて、「メモを取る」に相当する努力をはじめるべきだったのです。そういうことに気づかないのは天才でもなんでもなくて、むしろバカだったわけです。
 そういう反省がずっとずっとあって、だからこの泥臭い本を読んでとても心打たれました。僕自身はもともと常にノートを携帯していて、特にノートの使い方の何かを特に変更したわけではありません。ただ、ノートに見出す意味と、それに向かうスタンスが少しだけ変化しました。

あなたを天才にするスマートノート
岡田斗司夫
文藝春秋


kindle版もあります↓
あなたを天才にするスマートノート
岡田斗司夫
ロケット


あと、僕はもう何年もこのノートを使っています(クロッキー帳ですけれど)↓
マルマン クロッキーブック S・M・Lシリーズ 小 55枚 クリームコットン紙(中性紙) 60G/平方メートル SS2
クリエーター情報なし
マルマン(maruman)


トンデモ本の世界―MONDO TONDEMO
と学会
洋泉社

書評:『評価経済社会』岡田斗司夫

2013-02-19 02:37:31 | 書評
評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている
岡田斗司夫
ダイヤモンド社

 「評価経済社会」というタイトルが目に入った時、だいたいの中身は予想できるような気がした。インターネットの普及と発展に伴い社会は「貨幣」を中心としたものから「評価」を中心としたものへと移行しつつある、というようなことが書かれているのだろうと。

 日常的にネットを使っていれば、誰にでもそういうことは感じ取れる。たとえばアメリカのKickstarterや日本のCAMPFIREみたいなクラウドファンディングを利用すれば、「評価」さえ高ければ「貨幣」は以前よりもずっと簡単に集めることができるようになっているし、「評価」さえ一定以上あればTwitterを使って無銭旅行をすることもCouchSurfingを利用してよその国のよその家に泊めてもらうこともできる。

 かつて地域社会が強度に存在していた頃、人々は地域の中で交換したり贈与したり、持ちつ持たれつの生活をしていました。物やサービスの移動は必ずしも「貨幣」を媒介していなかった。お裾分けにリンゴを貰ったからお返しにサラダ油を持って行こうというような場合にはお金は登場してきません。もちろん、人々が全くお金を使わないで生きていたわけではないけれど「貨幣」を媒介しないルートもたくさん存在していた。

 その後、消費社会の発展に伴って、より多くの事が「貨幣」を媒介とするようになります。隣の家から醤油を借りてくる代わりにコンビニで醤油を買ってきて、悩み事の相談はカウンセラーにお金を払ってしてもらうことになった。同じ町内に冷蔵庫を余らせている人と買おうとしている人がいても、お互いに存在を知らないので、余らせている人は業者に頼んで捨ててもらい、買おうとしていた人は電気屋で買って来る、というあまりスマートでない状況が発生していました。

 孤立した消費者達による社会は、ネットの発展と共にいくらか孤立を弱め、僕達は金銭を媒介しないルートを取り戻しつつあります。それも以前よりずっと広い範囲でのやり取りを可能とするルートをです。

 そういうことが書かれているのだろうし、別に読むこともないか、と思っていたけれど、読み始めると面白くてそのまま読み終えてしまいました。

 この本によれば、僕達は今「農耕革命、産業革命に次ぐ大変革としてのIT革命」を生きているということです。実にエキサイティングな。
 こういう風にまとめてしまうと、これも今更本に書くようなことかという話だけど、パラダイムシフトのことを中心にざっと歴史の流れを説明する様は面白く読めます。

 パラダイムというのは、ある時代特有の考え方の枠組みのようなもののことですが、パラダイムが異なる時代のことは(お互いに)バカにしかみえない、ということが本書には強めに書かれています。

 狩猟採取時代の人々から見れば、農耕革命以後の中世人達は「土地と社会制度に縛られたかわいそうな人達」で、産業革命以後の近代人達は「自分で食料も捕れない情けない未熟者」です。

 中世人達から見れば、「狩猟時代人は野蛮で不安定でかわいそう」、「近代人達は私腹を肥やすために堕落してる」です。

 近代人達から見れば、「狩猟時代人は野蛮で無知無明でかわいそう」、「中世人は怠け者の上、宗教に洗脳されててかわいそう」です。

 お互いに全く理解し合えません。
 さらに、僕達現代人は「社会は時代と共に進化して良くなる」と信じきっていますが、それすら現代人の持つ独自のパラダイムでしかないようです。たとえば昔の中国では「古代が最も偉大な時代、その後はどんどん堕落してバカになって来てるだけ」という考え方が常識でした。

 中世人が近代人を「堕落している」と思い、近代人が中世人を「怠け者」と思うことについて補足しておくと、中世では勤勉は悪で、近代では善だということです。勤勉というのは「より沢山の何かを手に入れるために、より沢山働く」ということですが、それは欲望の表出でカトリック的に堕落です。

 近代以降「勤勉が尊い」ものになったのには理由があります。
 最近はベーシックインカムなどの議論も活発化していますが、基本的に近代以降の思想は「働かざるもの食うべからず」です。優秀な勝者がたくさん得て、負けた人達は貧しい生活を余儀なくされる。それが「正しい」という時代です。

 貧乏人なのはその人自身の所為で、努力不足、能力不足の所為で、自己責任だから仕方ない、という時代。昔はそんなことはなくて全部「神様の所為」でした。あの人が貧乏なのは神様の所為でかわいそうで、だから施してあげるのが「正しい」ことでした。

 「優秀な人が、努力した人がいっぱい取るのが正しい」という時代になった理由は、1つには、進化論や何かで自然界が「弱肉強食」であるという科学的な常識ができたからです。それは別に自然界のことであって、本来人間の生き方や倫理とは関係のない話なのですが、そうは言っても社会というものは段々と科学の影響を受けます。面白いことに「人間の社会も弱肉強食だね、ふーん」というだけにとどまらず「人間社会も弱肉強食が正しい」という信仰にまで思想が昇華しています。

 また別の理由は、近代以降の社会が大量の労働力を欲したからです。

「成長期を過ぎると優秀な工場労働者に育てるのは難しくなる。だから公教育が産業社会に不可欠だ」

 ということをアンドリュー・ウールという19世紀の社会学者が既に言っています。

 未来学者アルビン・トフラーは「公教育には表のプログラムと裏のプログラムがあって、表はリテラシーや計算なんかを教えることだけど、裏は”時間を守る””命令に従う””反復作業を嫌がらない”を叩きこむことだ」と指摘しています。

 酷い言い方をすると、工場の一部として大量の労働者が必要だったので、子供の時から「一生懸命に作業することが善だ」つまり「勤勉は尊い」と学校を使って叩き込んだわけですね。

 僕は個人的には小中高と受けてきた教育に強い反感というか、ほとんど恨みに近い感情を持っています。あんなものにホイホイ従っていた自分が恥ずかしいし、どうして誰も「学校なんてどうでもいいものだ」と教えてくれなかったのかとも思います。
 学校というところは随分とおかしな所で、この先、今の形態がそう長く続くとは思えません。新しいパラダイムを生きる人に「えっ、あの義務教育っての受けてたんですか!?」と言われる時代もそう遠くないと思います。

 「評価経済」という、この本の主題からは外れてしまいましたが、評価経済というものに関する本文での記述は、僕が最初に予想したものにそれほど遠くはなかったと思います。ただ、僕が思っていたよりもずっとダイナミックな変化であるという認識を得ました。

 追記;
 この「評価経済社会」を読んだ時に思い出した本があります。ホリエモンの「新・資本論 僕はお金の正体がわかった」という本です。副題に、僕はお金の正体がわかった、と書いてありますけれど、このお金の正体は「信用」とか「信頼」だと彼は結論付けています。たとえば病気になったときに入院や手術にお金が掛かるので、それが怖くて人々は保険に入ります。それはお金を使って不安を1つ取り除くという行為ですが、そんなことをしなくても病気になったときに助けてくれる友達や知り合いがたくさん入れば、入院するときにお金を貸してくれるくらいに親しい人達が周りにいればそれで大丈夫じゃないか、という話です。お金がなくて家賃が払えないなら、大きな家に住んでいる人に頼んで一室ただで貸してもらえばいい。そんなことおいそれと頼めるものでないと人は言うかもしれないけれど、そういうこともできない程度の人間関係しかない人生はそもそも無味乾燥ではないか、ということが書かれた本でした。堀江さんの「信用」と岡田さんの「評価」はとても似ていますね。

評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている
岡田斗司夫
ダイヤモンド社


kindle版もあるようです↓
評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている
岡田斗司夫
ロケット


新・資本論 僕はお金の正体がわかった (宝島社新書)
堀江貴文
宝島社