push.

2006-12-24 23:15:43 | Weblog
 また、4弦が切れた。
 僕はいつもギターの4弦を切るのですが、切るといっても演奏中に勢い余ってではなく、大抵夜中に勝手に切れる。眠っていると壁に掛ったギターから、ギュールルルーと嫌な音がして、あっ、また切れるのか、と目を覚ますとパチンっと弦の切れる音がして、あー切れちゃったなとまた眠りにつく。そして、明くる朝目を覚ますと思った通り4弦が切れている。
 初めて弦が勝手に切れたときは蟲の知らせか何かではないかと思ったけれど、別に弦の切れた夜に近しいところで異変が起こったということもなく、単に僕の弦は夜中に勝手に切れる傾向がある、という程度のことなのだと最近では理解しています。まあ、僕は演奏後に弦を緩めるなんて面倒なこともしないし、結構なテンションが掛っているのだからいつ切れたって全然おかしなことではない。

 弦が切れるとき、僕は眠っていて、弦の切れる予兆となるギュールルルという音を聞いて目を覚ますのですが、いつもギュールルルを聞いてから起きるのではなくて、目を覚ますとギュールルルが鳴り出すような感じがしてしまう。
 これはなにも弦に限った話ではなくて、例えば僕は昔、天井一面に折り紙を張りつけていたのですが、眠っているときにときどき折り紙の一部が剥がれて落ちてくることがあった。そのときも折り紙が落ちてくるのを察知して目が覚めた、というよりは感覚としては目が覚めたら折り紙が落ちてきた、と言った方が近かった。

 なにも僕は予知能力に似た超感覚的な話をしようとしている訳ではなく、脳中での時間の作られ方の話をしたいと思っています。
 言うまでもなく、僕たちは頭の中に各人が確固たる時間の感覚を持っている。ある瞬間と言えばある瞬間のことだ。だけど、よく考えてみれば脳内で情報が処理されるには一定のシークエンスが必要で、当然その過程で時間というものは経過してしまう。
 僕たちの視覚機能というのは脳の中に分散して存在している。たとえば目の前を横切る太り過ぎたプードルを見るとき、そのプードルの「輪郭」と「色」と「動き」は別々の場所で処理されて、そのあとで統合される。物理的な時間を軸に取れば、「輪郭」「色」「動き」の3つの要素が処理された時刻は異なっていると考えるのが自然だ。だけど、僕たちはそれを同時に感知することができる。なにかが右に動いている。それは白い。形は太ったプードルだ。という風に順次見えてくるなんてことは起こらない。もちろん、さらに聴覚、触覚、味覚、嗅覚の情報が統合されて、僕は今ここにいるのだ、という確固たる感覚を得ることに成功している。あらゆる瞬間に。

 だけど、これは尋常ならざるものすごいことだ。
 なぜかというと、僕たちの脳が正確な「同時」という概念を持っている可能性が極めて低いからだ。低いというか、難しすぎるように見える。パソコンと同じように、ある周波数の同期信号を出して、というのも、神経系の遅延を考慮できない人体で実行可能だとは思えない。
 僕たちは、何と何が同時に起こったのかということを知ることは絶対にできない。相対論の話は無視して、単に人体の仕組みを考えたとき、既に同時という考え方は崩壊してしまう。電話の音が聞こえた時、同時にテレビで風邪薬のコマーシャルが流れ出した、というようなことは僕たちには分からない。そんな気がするだけで、検証はできない。本当は僕の頭では、実時間で考えたとき、視覚が聴覚に比して2秒遅れている、という可能性だってある。本当はコマーシャルの方が電話のベルよりも2秒早く流れ出したのに、僕はそれを同時だと思ったのかもしれない。そして、僕はその2秒のずれに気がつかないまま一生を終える。

 実際には2秒なんて大きな時間ではないだろうけれど、これより1桁か2桁小さいオーダーで、みんなの「同時」感覚はずれているのだと思う。上に、僕は五感が統合されて「今ここ」という感覚を得ることに成功する、と書いたけれど、正確に言えば成功ではなく、失敗して代わりとなる幻覚を手に入れることに成功しているということになる。
 だから、時間の感覚というのは本当はとてもいい加減なものなんじゃないだろうか。

 時間の感覚と、感覚の時間。
 こういう経験は誰にでもあると思うのだけど、例えば本屋の中を歩いていたら、何かが急にひっかかって、何が気になったのだろうと本棚をよくよく見れば自分の友達に良く似た名前の作家の本があったとか、それに類すること。本棚を見れば、「今井秀雄」という人の書いた本があって、なんだ、この作者の名前が友達の今川秀明に似てたからだ、という風に。
 これはよく考えてみるとおかしなことだ。
 僕たちは「何かにひっかかった」後、本棚をじっくり見回して、さらにいくらか考えてから「何にひっかかったのか」を知る訳ですが、「何かにひっかかる」為には「何にひっかかったのか」ということを先に知っておく必要がある。先の例を使えば、なんとなく歩いていると「今井秀雄」という作者の名前が目に入り、それが自分の友達の名前に似ているな、という風に少なくとも無意識下では思ったから「何かにひっかかった」わけです。それから「何にひっかかったのか」を探すなんておかしな話です。「何か」がなにかなんて最初から分かっている。
 だから、自分が一体何を感じて何を考えているのか、なんて感覚は実はとても曖昧で、さらに時間軸を考慮するならその順番なんて結構滅茶苦茶でもおかしくないとも思う。

トラットリア。

2006-12-21 20:12:39 | Weblog
 歯が痛いです。
 風邪をひいてしまいました。
 僕は風邪をひくと大抵歯が痛いような気持ち悪いような感じになる。
 土曜日に鈴虫寺だとかを散歩する約束をしていたのに、無理そうだ。

 随分と更新をサボってしまいました。
 別段忙しいというわけでもなかったのですが、ちょっとすべきことがあって、なかなか作文という行為に集中できませんでした。
 一昨日も日記でも書こうかとしたのですが、途中でやめてしまいました。
 残っていたのでアップしてしまいます。
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 先週も、また木曜日、金曜日と続けざまにH低で鍋とおでんの会をした。最近千本通りを通ることが多い、木曜の夜中は、僕とI君とT君は(途中までKも)千本三条から松ヶ崎まで、ふらふらと喋りながら歩いているうちに歩き通してしまった。金曜日は流石に自転車を使い、途中でMちゃんを彼女のアパートまで送り届けてから、昨日と同じ3人で松ヶ崎まで帰った。千本通りの傍にあるMちゃんの家で今年は忘年会をするので、近々僕達は千本通りへ再び来ることになるのだろう。

 僕は左京区松ヶ崎に住んでいるし、行動範囲は狭い方なので千本通りを通ることはこれまであまりなかった。もちろん、全くなかったわけではなくて、単に少なかったというだけだけれど、その少ない過去の千本通り通行は、僕にとってはとても思い出深いものか、あるいは遠い過去のものなので、千本通りを続けざまに通ると奇妙な気分になる。そういえば、あのときは後に僕がこういった友達とこの場所を歩くことがあるなんて想像だにしなかったな、という風に。
 当然のことではあるものの、僕達は想像しなかった場所に住み、想像しなかった人と知り合い、想像しなかったことをする。

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 先週は先生とOが出張しているあいだ、新しく考えたことをつめておこうと思っていたら、先生がいないせいか気が抜けてしまって、ほとんど計算が進まないうちに先生が帰っていらした。僕ときたら原因不明の全く役にたたない結果を出力していて、もしかしたらプログラムに根本的なミスがあるのではないかと愕然として全部放り出してしまっていたのだ。もしもそんな間違いがあるのなら、今までのデータは全部無為になる。
 ところが、先生に会いに行くために、朝改めてグラフを睨んでいたら、いとも簡単に原因が分かってしまった。きっと切迫感があったせいではないかと思う。できればのんびりと暮らしていきたいけれど、追い詰められたときに発揮される謎の力も捨てたものではないなと思う。

 どちらにしても、計算結果が示すのは僕のアイデアは全然駄目だ、というもので、これで修士論文を書こうと思っていたからひどくがっかりした。それも単にがっかりしたでは済まされなくて、以前のデータを急いでまとめるか、それとも新しいことを至急考えなくてはならない。僕としては新しいなるべく革新的なことを考えたかったのだけれど、もう時間が全然ない。

トライアングル。

2006-12-13 22:40:38 | Weblog
 メールを書いていると外から自動車のクラクションが聞こえてきた。クラクションは何度も何度も鳴って、うるさいなあ、と思っていたのだけど、良く考えてみればそれはどこかで聞いたことのあるリズムで、モールス信号だった。もっとも簡単なモールス信号で送信できる言葉。SOS。
 多分、誰かがふざけているだけだろうな、と思ったけれど、流石に無視するわけにもいかないので、裸同然だった僕は慌てて服を着て外へ出てみた。だけど、僕が服を着ているうちにSOSは止み、そうして僕が表を見渡してもどこにも異常は見受けられなかった。ただのいたずらだとかモールス信号の練習だったらいいけれど。

 以前、イルカの話を書いて、結局は消してしまった、というようなことを書きましたが、僕がイルカの何を書こうとしたのかというと、それはイルカの死に方についてです。
 イルカに限らず、海に暮らす哺乳類は、溺れ死ぬ。いくら海での生活に適応していようとも、最期に体が弱ってくれば海面に出て息継ぎをすることができなくなって、変な表現だけど、死ぬ前に溺れて死んでしまうということだ。なんて苦しそうな最期だろう。
 僕は納得し、そして理不尽を感じた。
 つまり、そのイルカはもしも陸上で生活していれば死ぬ必要はなかったということだ。まだ、そんなに体が悪くはないのに死んでしまうということだ。
 昔、ゾウか何かの草食動物が、「歯を悪くしてしまい、十分にものが食べられなくなって死んでしまう」という話を聞いたときも同じような理不尽を感じた。単に歯が悪いだけで死んでしまうなんてありだろうかと思った。心臓とか脳とか肺とか肝臓とか、そういったところがやられてしまって、もうそれ以上生きながらえることができない、というのはまだ理解できるような気がするけれど、たかだか「歯」じゃないか、と僕は思った。

 もちろん、高々じゃ全然ない。そう感じてしまうのは歯医者のたくさんいる国で暮らしているからにすぎない。

 でも、参ったなあ。
 あのかわいらしいイルカが溺れて死んでしまうなんてあまり考えたくないし、僕にはそのイメージはちょっとショックが大きすぎる。

 秋にキャンプへ行ったとき、夜中に車の運転の話をしているとI君が「自動車というものは洗車やなんかを除いて、作られてから廃車になるまで何にも触れない、これは驚異だ」というようなことを言って、僕はなるほどなと思った。
 毎日毎日、たくさんの人々が車に乗り、町中を右往左往しているのに、基本的には何にもかすりもしないのだ(ぶつかった場合は事故ということで別の話です)。それは確かに奇妙なものに違いない。

 雨が降るとあいつらはやってくる。
 暗い用水路を飛び出し、ひと時の天下を謳歌して、それが終わるとも知らず、誘われるままに。
 生々しい夏の夜に、狂おしい夏の夜に、雨が降るとあいつらはやってくる。
 はちきれる。
 町中を右往左往しているのは子供を迎えに行く母親達の自動車だ。
 右往左往する間もなく、はちきれる。

 明くる朝、あなたは見るでしょう。
 その無残な宴のあとを。
 まったく、無謀とはこのことなのです。

 炎天下の水掻きを。干上がった水掻きを。

 ダイエットに成功した健康食品なんて。
 痩せるなら体に悪いということだと思うよ僕は。

「フランス風無国籍料理」
「えっ? できそこないフランス料理ですか」
「いえいえ、違いますよ」
「ええ、分かっていますよ。すみません。ちょっとした冗談なんです。フランス料理をベースとした創作料理ってことですよね」
「ええ。そうなんです。フランス料理をベースとして」
「あの、」
「はい、」
「それじゃあ、フランス風無国籍料理じゃなくて、フランス料理風無国籍料理なんじゃないですか」
「えっ?」
「フランス風じゃ意味がちょっと」
「なにがですか」
「じゃあ色がトリコロールなのか、とか、名前がマリーアントワネットなのかとか、犬の糞がたくさんおちていたのかとか、そういうものに似ているのか、ということで」
「そんなわけないじゃないですか」
「でも、たとえているものを省略してどうするのかと、僕は問いたいわけですよ。フランス料理風を略してフランス風にしていいのか、と。カモシカのような足じゃなくて、カモシカの足のような足だろう、と。カモシカみたいな4つ足動物に似た足ってどんなのですかね」

 広い世界に出たい。って。僕は君の意見が全く理解できない。じゃあここは広い世界の一部じゃないのか? この広い世界はどっかで切れているのか? 分断されているのか? それは君が広い世界じゃないところにいるせいじゃなくて、広い世界にいるのに広い世界が見えないだけのことじゃないの? そういうのを視野が狭いって言うんだよ日本語では。分かるジュディー? そういや高校のとき古典の授業で「しやせまし」を「視野が狭い」と訳した剛の者がいたけれどね。「しやせまし」っていうのは本当は「しようかな、やめておこうかな」って意味なんだけど。

 私、今日のパーティー、黄色のドレスにしましょうかしら、それともしましまのドレスにしましょうかしら。
 今日は中止だ、中止。バッテリーが切れたらしい。
 バッテリーって、一体なんの?

「ああ、ごめん。ちょっと私充電切れるから、もう切るね、またかけ直す」
「ちょっと、君、それは一体、どういう意味だね…」
 ツーツーツー。
「教授。聞きましたか今の?」
「ああ、聞いたよ」
「一体どういうことでしょうか? たしかに”私充電が切れる”と」
「うーん」
「文献によれば21世紀の初頭はまだアンドロイドなど出回ってないはずですが」
「さっきのは確かに21世紀か?」
「はい、間違いありません。この新型のタイムテレフォンは何度もテストして完璧だと思われます」
「それでは文献がおかしいのじゃろう。新発見じゃ。21世紀初頭にアンドロイドがいなかったという説は間違っておる。さっきの会話は録音してあるか。証拠に使おう」
「はい、教授。これは歴史を書き換える大発見ですね。今までの定説では23世紀初頭からアンドロイドが普及したとありましたが、21世紀の初頭にすでに電話に出る程度までアンドロイドが普及していたなんて」

 発電機がこなくて今日のパーティーは中止です。

Q.

2006-12-11 19:24:56 | Weblog
 NO MUSIC, NO LIFEだなんて誇らしげに上げた君の顔に僕は唾を吐く。そのヘッドホンちょっとかしてごらんよ、肥溜めに放り込んであげるから。あっ、肥溜めって知らないかシティガールは。失敬。人の排泄物をね。なに。知ってるんだ。それはそれで失敬。とにかく、君にはそれいらないんだよ。音楽。それからさ。それも要らないよ。タバコ。あと広い世界とか。

 「ドラえもん、のび太の魔界大冒険」は藤子不二雄という天才があからさまに現れている作品だ。
 のび太は魔法の存在を信じ、それを人に言うのだけれど誰も取り合ってくれない。漫画という技法を存分に生かして、藤子不二雄は、常識の範疇でのみ思考可能、自分はマジョリティーの中にいて安心してマイノリティーを攻撃する、という大衆を、ドラえもん、しずかちゃん、などのキャラクターを使って表現している。マイノリティーであり、かつ弱者であるのび太の思考は、実は一番鋭い。

「昔話にはたくさん魔法が出てくるのに、あれは全部嘘なのか。昔の人はみんな嘘吐きだったのか」

 唯一の理解者はできすぎ君で、できすぎ君はのび太に「昔は魔法も科学も一つだった。魔女狩りなんかで魔法は滅ぼされたのだ」ということを説明してくれる。さすができすぎ君。
 できすぎ君の言っていることは多分正しいだろう。昔は魔法があった。もちろん箒にのって飛んだという意味ではなくて、妖怪という生き物が文化的に機能していたように魔法もまた社会的な機能を持っていた。のび太はできすぎ君の話を聞いて、「科学のほうが滅びて、魔法が発達したら楽しい世界になったんじゃないか」と考える。そうして「もしもボックス」で魔法の世界を作るのだけれど、そこでは科学が迷信で魔法によって人々は生活している。

 僕たちは日本の個展を読むとき、たとえば源氏物語やなんかの亡霊や怨霊を小説内でのギミックだと思いがちだけれど、たぶん紫式部にしてみればそれらはリアルなものだったんじゃないだろうかと思う。当時は、人々にとってそういった超自然的なものは当たり前に存在していたのではないだろうか。


2006年12月8日金曜日

 Sちゃんの家で鍋をする。
 Sちゃんの家は一軒家で、そこに何人かの人間が集まって御飯を食べたり後片付けをしていると、どうしても僕は法事を連想してしまう。子供の頃は、あまり良く知らない親戚に会って「大きくなったね」と言われたり、「たくさん食べなさい」とどんどん世話を焼かれたり、法事というものが苦手だったけれど、二十歳を過ぎてからはそう悪くもないと思う。
 鍋を食べ終えてから、wiiなる任天堂のゲームで二十代も半ばの大の大人が一頻りはしゃぐ。wiiのゲームはどれも単純な物ばかりで、ハイテクを使って単純かつ原始的なゲームを再現する(たとえばビー玉を転がすなど)というのは、どこか茶道に似ているなと思った。かつて、お金持ち達が自分達の持っていない「貧乏」を手に入れようと、高いコストを払って「貧乏」を買ったのが茶道や「わび・さび」のはじまりだと言われているけれど、たくさんのお金で貧乏を買う行為と、原始的なゲームをハイテクで実現する行為は構造がとても似ている。
 1時頃に切り上げて、帰り道I君とKの3人でラーメンを食べて帰る。

2006年12月9日土曜日

 Sさんのやっているインターナショナル・ポエトリー・リーディングパーティーへI君と行く。
 詩なんて、と思っていたけれど、予想よりもずっと楽しい会だった。
 MちゃんとCDを交換する約束をしていたのに、僕はCDを忘れてしまい貰うだけ貰う。
 アメリカの人が読んだ英語の詩が、ゆっくりだったのにも関わらず全然聞き取れなくて、僕の英語能力ってこんなに低かったのか」とショックを受けていたら、英語がぺらぺらのSさんも「あれ、何故だか分からないけれど、何を言ってるのかさっぱりわからなかった」と首を傾げていたので一安心する。
 パーティーが御開きになり、人が次第に減り、僕らも帰ろうとすると階段を降りたところでお店の人に「今ちょうどコーヒーを煎れたところなんですけれど、良ければ飲んでいきませんか」と引き止められる。僕はコーヒーが飲めないのだけど、せっかくなので「はい、どうもありがとうございます」と言って、I君、Tさんとまた階段を上り、Sさんのテーブルへ着く。
 今までほとんどこういった話をしたことがなかったけれど、4人で博士過程での生活に関する話をする。考えてみればSさんもTさんも博士の2年で、僕とI君にとってみれば先輩なのだ。
 

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2006-12-08 16:02:39 | Weblog
 先日、Hさんの部屋で鍋をした帰り道、I君とKと3人で御土居を見ました。
 御土居というのは秀吉が作った京都の中心部を取り囲む土手のようなもので、今調べたところによれば22.5キロもの長さがあったそうです。以前、I君が研究室の壁に貼っている江戸時代に書かれた京都の地図を眺めていて(それも憑かれたように一時間以上は見ていた)、何か京都を囲う謎の線が入っているので、「これは何か」と御土居の存在を知りました。
 3人で寒い中を自転車で走っていると、I君が「前にこの辺で御土居のようなものを見た」と言い、それにすぐさまKが反応して「御土居ならうちの近所にあるよ」というので見に行った訳です。御土居のことを知っていて普通に場所まで案内してくれるとは流石Kだと思った。

 実際のところ、御土居というのはちょっとしたものです。今は部分部分しか残っていなくて、もはや京都を取り囲むどころではないですが、でもこのような土手が京都を取り巻いていたのかと思うとなかなか吃驚します。登ると、だいたい家の2階くらいの高さはあります。
 僕は別に歴史が特に好きだとかそういうわけではありませんが、でも自分の今住んでいる街が、かつて全然違う姿をしていたのだという当たり前のことにいちいち吃驚します。

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 携帯電話にチェスのゲームソフトが付いていることを最近発見しました。もう何年も使っている古い携帯電話であるにも関わらず、今までそういった機能の存在を知らなかった。
 それで、ルールも分からないままに何ゲームかしていると、だんだんルールも覚え、ときどきは勝てるようになってきたので、なんだか嬉しくなってしまい、「よし、この際だからチェスを覚えよう」と遊んでいると、難度最大までクリアしてこのチェスのソフトでは全く相手にならなくなってしまいました。
 もう駒の動きも覚えたし、一応チェスの大まかなルールは覚えたので、目的はこの時点で達成されたのですが、なんだか物足りなくて僕はチェスのボードを買ってしまい、でも周囲にチェスをする人がほとんどいないので(チェスの本には世界中に普及しているゲームでどこででも対戦相手が見つかる、と書いてあったのだけど)、仕方がないのでインターネットで知らない人と対戦をしてみました。
 僕はこういうネットで繋がったどこの誰だかわからない人とチャットをしたりゲームをしたりする、というのが嫌いなので、いくらなんでもチェスをネットでやるのはやめておこうと思っていたのですが、ちょっと腕試しにやってみたわけです。
 もう2度としない。
 僕が仮想的な席につくなり、知らない人が向かいに座り、そしてゲームが始まり、僕がどうやって操作するのかとか、自分の番のときは合図が出るのかとか、駒の絵を覚えたり、そういった基礎的なことを一通りみたいと思う間もなく、あれよあれよとゲームは進み、結局僕は負けてしまったのですが、なんと、負けた瞬間にまたその謎の対戦相手の人が「再戦」ボタンを押したらしくて、僕のほうには「ゲームスタートのボタンをクリックしてください」という以外「やめる」などの選択肢は提示されず、しょうがないので僕はそこで勝手にログアウトしました。そんなインターネットで延々とチェスをするほどのチェス好きでもないし。
 これはとても気持ち悪い経験でした。もしも誰かとチェスをするのなら、「よろしくお願いします」とか言ってはじめるのが筋だと思うのですが、そういった挨拶はまったく抜きに、まるで相手がコンピュータのプログラムであるかのようにお互いに振舞ったのです。とても不愉快な気分になった。

 それで、僕は昔のアルバイト先で小学生の生徒に「今晩9時からここでチャットしてるから先生も来て」といってURLのメモを渡されたことを思い出した。いまどき小学生がインターネットをしているのは当たり前のことだけど、でもそのとき僕ははじめて彼女達がネットを使うのだということをリアルに知って吃驚した。実にしっくりこなかったのです。
「チャットなんてして楽しい?」
「うん。楽しい。こないだはなんか東京に住んでるツヨシって人と話した」
 僕なら、もしも自分に子供がいても、その子がパソコンを通じてどこの誰だかわからない人と互いに匿名のカバーを被ったままで会話をしているところを見たくもないし、そんなことさせたくもない。ときどき厳しい家庭でテレビ禁止のところがあるけれど、もしもインターネットというものが今と同じ程度に未来においても匿名的ならば、僕は自分の子供に対してインターネット禁止令を出すのではないかとすら思う。

send.

2006-12-04 19:29:41 | Weblog
 長らく更新をサボってしまいました。
 特別な理由はありません。
 僕が前回の日記に「風邪」と書いて、それきりなので中には心配してメールを下さった方もありますが、全然大丈夫です。僕は至ってぴんぴんしていますし、風邪というのも実は風邪ではなくて単なる寝不足だったようです。それも作業に追われた結果の寝不足ではなく、ややルナティックに遊んでしまった結果の寝不足であり、全体に人から心配されるにまっとうな要素というものはどこにも存在していません。現に次の日は朝から鍋まつりなる平和なイベントに出かけました。更新の断裂は放蕩と怠惰の一介なる産物です。

 もちろん、サボタージュの間にも色々なことが起こりました。プライベートな点においても、そうでない点においても。当然ですが、プライベートなことというのはこのブログにはほとんど書かれません。プライベートなことというか、プライベートとして守りたいことは。プライベートであっても別に吹聴して回ったって構わないようなことは書いています。考えてみたら僕はここに僕の考えたり想ったりしたことを僕自身が個人的に書いているので、プライベートでないことは書くことができないですね。全部いプライベートだ。不特定多数の人に聞いてもらいたいか、そうでないかということです。

 この数週間で起こった、極々個人的な、しかし別に人に言いふらしてもいい変化というのは、「村上春樹さんが終わった」ということです。なんとも驚いたことに、急に村上春樹さんの書いた文章を受け付けなくなりました。ほんとうに驚いたことに。でも、考えてみればしばらく前にこのブログで「村上春樹さんの文章は思考停止を誘発する」といったようなことを僕は書いた記憶があるので、その頃から受け付けなくなる傾向はあったのかもしれません。
 それまで好きだったものが急に好きでなくなる、というのはよくあることですが、なんとも不思議なものです。好きではない、というのは言いすぎで、村上さんが特別な存在であることは変わらないけれど、でももう多分読まない、ということなのですが、これは寂しくもどこか開放感に似たものを僕に与えてくれました。「やっとだ」という思いが心の底のほうにあります。

 ブログを書かないでいた間、本当はいくつの記事を書いてはいました。テレビシステムの話だとか、イルカの話だとか、核武装の話だとか、実はそれなりにコンスタントに更新を行うことはできたのです。ただ、全部書き終えてから、「何かしっくりこないなあ」と思って消してしまいました。
 もっと言えば、書き終えてからしっくりこないと思ったのではなくて、たぶん書いている最中からしっくりこないと思っていたのだろうと思います。作文をしているときにしっくりこない一つのセンテンスを書いてしまって、それをしっくり来るように直せないまま後を続けていくと、まるで嘘をついてしまってそれをさらに嘘で塗り固めていかなくてはならないときのように、しっくりこない文章が続いてしまい、最終的に自分とはかけ離れた場所にいきついてしまいます。こういったことが立て続けに起こっているときは、「この作文だって僕が書いたのだから」とそれはそれで良し、にしてしまうか、「これはなんか嫌だ」と破棄するしか方法がありません。そして、こいうったことが続いているときにはエッセーみたいな書き方で作文を行うことはあまり有望ではないのだと思います。こういうときは小説を書くしかない。

「ジェロニモから届いたビデオテープを見たか?」
 男は低い声で言った。気のせいか、僕にはその声は作られた低い声に聞こえた。本当はもっと高い声をしているのだけど、舐められないように低い声を出しているのだ。

 テレビで利根川進さんが行った講演会の様子が流れていた。僕は別に講演内容に興味はなかったけれど、彼の話しかたが面白かったのでしばらく眺めていた。利根川さんはアメリカが長いせいか、英語は堪能だけど、日本語はやや不自由といった具合に見えた。聴衆は普通の日本人の中高年で、なるべく分かりやすく話す必要があると思うのだけど、彼の使う言葉は英単語が多すぎるし、パワーポイントは全部英語だった。言葉に英語が多いと言うのは、「このファンクションがトランスフォームしてですね。このレサルトがコンクリュージョンに出てくるわけです」というような感じで、純粋な日本語としては崩壊していると言わざるを得ない。なんてひどい講演だろうと思った。
 ただ、僕は横文字を使うこと自体には賛成です。多すぎるのはどうかと思うけれど。
 別に日本語で書けばいいのに、いちいち横文字言葉を使って嫌味ったらしい、という批判が時々あって、僕も何度か言われたことがあるのですが、でもそんなのは全く見当はずれな意見に過ぎない。よその国の言葉に存在する概念が日本語にも存在するとは限らないし、そんなときはその言葉をそのまま流用するしかない。もちろん新しい対応語を作るのも手だけれど、それがいつもうまく機能するとは限らないし、どうせ未知なる新しい言葉であることには変わりない。
 それにわざわざカタカナ言葉を使わないと表現できないことだってたくさんある。たとえば、「日本語で言えばいいのにカタカナ言葉で言われたときの嫌らしさ」というのは、日本語で言えばいいようなことをわざわざカタカナ言葉で言う、ことによってしか表現できない。