apprehension.

2009-07-31 17:59:01 | Weblog
 自転車の近くにセミが落ちて死んでいた。
 それを見たとき、僕は自分の死生観が去年のそれとは大幅に異なったものになっていることを実感した。

 頭がどうかしたのではないかと思う人もいると思うけれど、僕はもうほとんど完全に輪廻転生を信じているみたいです。ほとんど、というのはちょっと説明が複雑で、僕は生き物が生まれ変わるということを、そのまま最も単純な意味で受け止めているわけではありません。もっと時間や空間の概念を取り払った上での話なのですが、それは今の僕にはうまく記述することができない。

 セミの死骸はもう乗り捨てられた車みたいにしか見えなかった。それは宿っていた何かがエントロピーの増大に逆らって作り上げた奇跡的な造形と機能だった。何かはどこかへ行ったし、行かないし、私だしあなただし彼だし彼女だし彼らでありこれであれなのだろうと思う。まるでお経みたいだけれど。そういえば僕は高校生のときにどうしてか般若心経を諳んじていて、そういう影響で今こういう一文を書いたのかもしれない。般若心経は音として非常に覚え易く作られていて、口にするのも結構心地良かった。
 仏教の経典の記述が、あの頃は無理矢理な逆説を書いておけば有難く見えるとでも思ってるだけではないかと見えたけれど、ここ数年はどうしてもあのような書き方でしか説明できなかったのだなと素直に思う。

 2009年7月30日木曜日。
 Pがなんと日曜の朝のフライトで帰るという。フィンランドでは新学期が9月に始まるらしい。僕はてっきりPはまだ暫くいると思っていたので吃驚する。明後日Mがフランスへ帰る前にインターンをするだとかで東京へ発ち、その次の日にPがいなくなるということだ。Pは同じ学校の女の子が10月から僕と入れ替わりでここへ来るよ、と言っていたけれど、そういうのって本当に不思議な気分だ。世界は確実に狭くなっていく。僕は彼ら彼女らが世界のどこへ行っても、今と同じようにfacebook(mixiとサービスを統合してほしい)やメールやskypeで連絡をとることができ、新しくやって来る留学生を通じてもっと体温の高い関係も保つことができる。そしてやがてまたどこかで再会するのだろう。

 夜、かねてよりM君が飲みに行きたいと言ってくれていたので、KとI君と飲みに行くことにしていたら、I君は電話が繋がらない。後で向こうから掛ってきて、ごめん寝てたとのこと。昼夜の逆転している人だから今更驚かない。
 Kがこんなに日本語を話せるとは知らなかった。大抵のシンガポール人は生まれつき中国語も英語もできて、それって世界の半分の人とは話せるってことだからいいなと思う。M君は最近仲良くなった日本人だけど、春から九州とのこと。ラティーノで食べたり飲んだりしたあと、下鴨神社を散歩して帰る。



 

 

みんなでお金の話をしよう、とマイキーは嬉しそうに言った。

2009-07-30 15:56:17 | Weblog
 そして僕はお金の話をしよう。

 子供の頃はお金のことを何も知らなかった。学校ではお金のことを教えてはくれないし、周りの人々もお金は大事なものだから大事に使って貯金もしなさい、としか言わないし、お金とはそんなものだと思っていた。僕は自分がお金のことを知らないということすら知らなかったので、特にお金に関する本を読むこともなかった。友達が「1億円あったら銀行に預けて利息だけで一生食べていける」と子供らしいことを僕に教えてくれたときも、漠然とそれはそうだろうけれどだからなんだ、と思っただけだった。

 そして「お金は汚い」という概念を自然に獲得していく。

 お小遣いを別にして当時のお金らしいお金との接点はお年玉に限られていた。僕は半分くらい使って好きなものを買って、残りは親の管理下で貯金していた。中学生くらいのときに随分高価な天体望遠鏡をえいやと買ってしまい、その貯金はすっかり果てたのだと思っていたら、大人になって子供預金に残高があったことが分かって、それは予期せぬ助けとなり僕は急場を凌ぐことができた。

 さて、僕が始めて「こんなに無知ではやばい」と思ったのは経済の本をたまたま読んでいて出くわした「銀行にお金を預けるというのは間違った考え方で、あれって預けてるんじゃなくて貸してるんです」というような文章のお陰だった。このときは本当にびっくりして目から鱗が落ちた。

 それから、株のことを少しだけ勉強したり(ズッコケ3人組シリーズの株式会社の話を小学生のとき読んでいたので概念はほとんど全部カバーできていた)、やっぱり投資や投機でもうけるのはなんかおかしいのではないかと考えたり、紆余曲折を経て今はベーシックインカムという考え方が象徴するものに随分近い考えを持っています。
 ベーシックインカムについては様々な文章がありますが、最近書かれたホリエモンのブログによくまとめられているのでリンクを張っておきます。

 働かなくてもいいんじゃないか?
 続・働かなくてもいいんじゃないか?

 ベーシックインカムというのは生活する最低限のお金を全員に無条件で配るというものです。働きたくない人は働かなくても暮らしていけるようになる。このブログでも何度か書いているけれど、今世界中に溢れているほとんどの労働は全くの無駄で、楽しみの為にやっているならいいけれど、やりたくもないのに生きるためには働かなくてはならないのだと思い込んで無駄な仕事を嫌々やっているという訳の分からないことになっている可能性がとても大きくて、じゃあそんなのもうやめようという話です。働きたい人が働いて、働きたくない人は働かない社会を作っても大丈夫なくらいに科学は発達しました。

 僕がこれに諸手を上げて賛同できないのは、やっぱり社会のポテンシャルが下がってしまう可能性があると思うからです。実験してみないことには分からない。だからとりあえずちょっと実験してみればいいなと思います。当然、社会は大混乱するかもしれませんが、別に混乱しても良いのではないかと思う。

 ベーシックインカムのことを聞くたびに思い出す村がある。
 昔、造形芸大で見たビデオなんだけれど、その村には縄を作る天才青年がいて、彼が作る縄の収入で村が養われている。他の人はなんかぼーっとして暮らしている。それはなんかありなんじゃないかと僕はそのとき思った。青年は縄を作る才能があり、その仕事が好きで、それでみんなを養うことに誇りを持っていて、そして村人は彼に感謝をして暢気に暮らす。

20090729.

2009-07-30 15:22:55 | Weblog
 2009年7月29日水曜日
 昼に留学生達に誘われて回転寿司へ行く。みんなもう学期が終わって、帰国も控えていることだしここぞとばかりに遊んだりするみたいで、僕は一緒にそれができないのが歯痒い。
 研究室へ戻るとOがトルコの兵役から帰っていて、久しぶり軍隊はどうだったと色々話す。訓練が厳しかったのかというとそうでもないらしく、決まった時間にそこにいることだけが大事で、例えば射撃訓練を平和主義者だからやりたくないと言えば代わりに庭の掃除でもいい、みたいなことを言っていた。実際にOも手を怪我していたせいか数回射撃訓練をした以外は軍隊らしいことをしていない模様。何か身につけたテクニックはあるのか、と質問すると「朝6時に起きれるようになった」と言っていた。
 そのあとアイスクリームを買いに行くとばったりAに会い、さっき友達のトルコ人が兵役から帰って来たよ、というと、私の国マケドニアは500年もトルコに支配されていた、と彼女は答え、それから暫く政治経済の話をした。みんな考えていることは同じだ。どうして平和な世界が実現されていないのか。

 政治経済には興味がない、という振りをずっとして来た。子供の頃から始終一環して。今から思うと恐ろしい話だけど、そういう娑婆のことは超越して科学や哲学のことだけを気にするような人がカッコいいなと思っていた。
 大人になると色々なことが目に飛び込んできて、興味がないだとかどうだとか言う前にどうしてそんな風になるのかとイライラする。

 Yの所へ行く途中、北山橋でGにばったり会う。20日後にフランスへ帰るけれど、2月に京都に戻ってくるからとのこと。2月なんてすぐだ。最近そういう時間感覚になった。Gは僕達の寮ではなく、別にアパートを借りて住んでいて、それからSとちょっとした問題もあったのであまり誘ったりできなかったけれど、僕にとっては研究分野が一番近い留学生の友達だし、また日本に戻ってきたときは研究の話をしようと思う。

 僕は別にぬいぐるみだとかが好きなわけではないけれど、以前彦根へ行ったときになんとなくひこにゃんの人形を買ってしまいました。でも僕が買ったのはどうやらひこにゃんではなかったようです。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090728-00000008-maip-soci


rss

2009-07-29 16:35:37 | Weblog
 RSSリーダーを使うことにしようと思って、キーワードに自分の分野周辺のことや興味のある言葉を設定していると、僕にも関係のある研究の記事《ブロッホ球》が出てきて、襟を糺す。

 研究だけに集中しようと固めた決心が、このところ少しく拡散し勝ちだったので、偶然にもこの記事を目にして本当に引き締まった。
 基礎研究と製品開発と文筆(一つでいいから面白い長編小説。これは別に勝手に書けばいいけれど)を全部やりたいなと思うけれど、中心はやっぱり基礎研究。

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 森ビルの広告

 http://www.mori.co.jp/company/urban_design/vertical_garden/

 を読んで、昔あったnewtonの近未来予測号を思い出す。
 富士山よりもずっと巨大な構造物を作って、その中を何層にもなった都市にして住む、というイラストが美しすぎて今も忘れない。
 森ビルという企業の理念を何も知らなかったけれど、こういうことを考えていたのか。コルビジュエの都市計画にもこういうのがあったけれど、基本は森林で、そこから突出した超高層ビルと地下に近代的な都市設備が収められているというのは変わらぬ人類の理想形なのだろうな。

 未来を作りたい。

鴨川パーティー2009。

2009-07-27 15:48:25 | Weblog
 2009年7月24日金曜日。

 前日の夜にmp3ファイル名をタグから復元して全部半角英数に変換してあったので、昼前に今夜使いそうな曲を大体選んで、それから昼に大学へ。

 プロジェクターをこれも前日の夜にI君が直しておいてくれたので、まあプロジェクターくらい使おうと話をしているとスクリーンはどうしようという話になり、自然に一昨年の遺産である屋根と壁一つだけのテントを使おうかということになる。ただしフレームは3x4メートルくらいあって分解もできないので、大学から出町柳まで運ぶのはかなり骨が折れる故しばらく相談。一昨年はOにも手伝ってもらって、交通の邪魔にならないように高野川の岸を交代で担いで出町柳まで行った。今年はI君と2人で、さらに3時からMと寮で合流なので時間もないし、担いでいくのは無理な話だった。

 研究室を見回してみると、台車が一台あり、そのキャスターを外してフレームに取り付けて転がして行くのはどうかとなりモンキで分解して、実際にそうする。暫定的にキャスターを針金でフレームに取り付けて、針金がゆるんだら形状の適した石を拾って楔の代わりに打ち込み3時20分頃に出町柳に到着。フレームを公園に置いてそのまま寮へ向かい、Mと合流し、僕の部屋からラップトップ、ミキサー、スピーカーなどを運び出す。3人で公園まで発電機、テーブル、DJ用の機材を運び、それからMにセッティングを任せて僕とI君でもう一度大学に戻りプロジェクターやなんかを運ぶ。
 すでにクタクタ。

 中洲で準備しているとき、僕達の他にも結構人がいて、僕達が外人だらけなのは兎に角、その他の人々も全員外国人の家族連れとか旅行者で、1時間くらいの間僕とI君だけが日本人で、京都だなとなんとなく思う。
 大きなテントというか屋根付きスクリーン(テントじゃないけれど以後これをテントと呼びます)をみんなして設営しているとやっぱり鴨川見回り隊みたいな制服のおじさんが2人でやって来て、「責任者の方は誰ですか?こういうのは許可がいるんです」といつも通りのことを言い出す。

 結局何を言っても捨て身の覚悟で暴動を起こさない限り権力には勝てないので、たかだかテントくらいでそこまで出来ない僕達はテントを壊す。考えてみればこのとき大人しく畳んでおいて、見回り隊が帰った後にまた建てればよかったのだけど、このときはどうしてかそうは思わず錘なども壊してしまう。

 無駄だろうとは思ったけれど、僕は帰っていく見回り隊を追いかけて個人的にちょっと文句を言ってみた。屋根付きのスクリーンを一時的に設置するくらい禁止も何もないだろう。けれどそのしょぼくれたおじさんは僕とは目も合わせず謎の帳面に何やら書き込んで駄目と行ってさっさっと飛び石を渡っていった。
 僕は理不尽だとは思いながらも丁寧な言葉使いを崩さなかったけれど、彼は目も合わせずに言葉も短く、不愉快な僕の頭の中ではあまり良くない戦略が湧き上がってきて、もちろんそんなの実行はしないけれど、久しぶりに嫌な人に会ってしまったなと思う。

 見回り隊の所でのやり取りを近くで見ていた外国人の家族連れが「あの人達ごちゃごちゃうるさいし邪魔だよね」と声を掛けてくれて、僕はちょっとほっとして、それで自分でも吃驚したけれど思わず親指で首を切るジェスチャーをしていた。

 こういうことはもう何度も経験しているので、いい加減に行政にちゃんと言おうと思う。どんどん何もできない街になっていく。昔消防局に言われたのは、この公園は緊急時のヘリポートだから建造物を作ってはいけない、ということだけど、見れば1分も掛らずに撤去できる物であることは分かると思うし、それでも遅いというならもう公園の中は、老人、子供など足の遅い人は立ち入り禁止、いやいっそのこと全面的に立ち入り禁止で緊急時のヘリ着陸の為にずっと空けて置けばいい。

 これは鴨川に関する条例だけではないけれど、法律が持つ問題の一つは現場を見張る人にあまり判断能力がない、あるいは権限がないということだ。条例を作った人の意図というのはすっかり忘れ去られて、明文化されたものにわけも分からず追従するだけなので、現場では全く融通が利かない。そうして誰かが喜び誰も困らないという行為すら禁止されて、誰も納得しないけれど、でも昔の人が作った法律で決まっているから仕方がないという形で無意味なパワーが行使される。文句を言ったところで「私にはその権限はない」という言い方で責任が先送りされ、それがトップまで行ったところで「法律で決まっているから」と最終的な責任が人ではなく文章に落とし込まれて終わる。昔の誰が書いた文章が今生活する人々よりも重んじられる。こういうのを村上春樹はエルサレムスピーチで「システム」と呼んだ。

 日が暮れて、人が集まり。光源でもあるテントがないので随分くらい中、喋ったり飲んだりして(あまり踊ってくれなかった)、電球も一つしかないし、せめて適当なスクリーンを作ってプロジェクターで適当なDVDでも流しておけばまだ明るくなるんじゃないかと思いHちゃん達に頼んでツタヤでDVDを借りてきてもらう。
 不思議なことにHちゃん達がエッシャーのDVDを借りて戻ってきて、机の前で小さく映像を投影し始めると、それまで唯一の光源だった電球がお役御免とばかりに切れた。

 Pがアサヒの蓋が閉まる缶ビールをまじまじ見ているのでどうしたのかと聞くと、この蓋ができるアルミ缶は作るのが本当はすごく難しくて、ヨーロッパでも開発プロジェクトがあったんだけど結局うまく行かなかったんだよ、それを日本は作って普通に売ってるからすごい、と言う。そうだったのか。

 Yちゃんがサプライズで現れてポテトチップをくれる。結局僕はこの日荷物を運ぶ前にチョコバーを食べて、その後おにぎりを一つ食べ、お菓子を抓んだだけで、他はスイカだとかアイスクリームしか食べなかった。夜中に片付けが終わって帰る途中Tがラーメンに誘ってくれたけれどやっぱりアイスクリームを食べてしまう。

 何時に撤収を始めたか良く覚えてないけれど、みんなでばーっと片付けてみんなで運んでもらったので寮に運ぶ物は簡単に片付いた。寮で解散して、そのあと、僕とTとI君の3人は大学までテントのフレームを運ぶ。今度はTがとても丈夫にキャスターを付けてくれたので昼間に比べて驚くほど軽快にフレームを運ぶことが出来た。

 部屋に戻ってシャワーを浴びて、疲れすぎてか眠れないのでペーパーバックを読みながら眠る。


2009年7月25日土曜日。

 午前中から二時半まで大雨。昨日動き回ったのにご飯を碌に食べていないのでご飯を炊いて食べる。

 昨日使った発電機はMが「任せて発電機ならある」というので任せていたら南区なんて遠いところから借りてきたものだった。言ってくれれば古いけれど僕も一応は発電機を持っているし、借りるにしてももっと近所に借りれるお店があるのに、と思っていると、昨日のパーティーの終わりごろ「実は問題があって、今日夜中の2時半から直島に向かって旅立つから、もしも良ければ明日発電機返してきてくれないか」と言う。よければも何も、僕達2人がこのパーティーの首謀で、それでMが借りて来たわけだから、彼が行けないとなると僕が返しに行くしかない。いつもかなり献身的なMが確信犯的なことをするので吃驚した。もしかしたら僕の英語がまずかったのかと思ったけれど、いくらなんでもそんなの聞き間違えないだろうし、フレンチスタイルなんだろうか。

 I君と出町柳で待ち合わせをして、少し遅れて駅へ向かっているとI君から電話が掛かってきて「悪いけれど死にそうにお腹が痛いから帰る」とのこと。
「いいよ、お大事に」と電話を切った物の、片手では持ち上げるのがやっとの発電機と、その他にリールコードを持って一人で階段を上り下りしたり電車に乗ったりするのはかなり大変なことだった。
 誰か他に助けを呼ぼうかとも思ったけれど、もうお店の閉店時間まで1時間半くらいしかなくて、今空いてそうで、すぐに出町まで来れるような人でないと駄目で、そんな人は思いつかなかった。僕は目の前のタクシーロータリーで、ここからそのお店までタクシーで行くといくら掛るのか聞いてみることにした。

 そのとき、ちょうど目の前に一台のタクシーが止まって家族連れを降ろしたので、運転手さんに値段を聞き、3000円くらいだと言うので乗ることにする。結果的にこの運転手さんが大正解だった。
 まず、カーナビ。店はものすごく辺鄙なところにあったのでナビがないと辿り着くのに困難があったと思う。ナビの無いタクシーも多いから良かった。
 さらに親切な運転手さんで、帰りに途中まで只で乗せて貰えた。それから話も上手かった。

 そのあと天神祭りに急に行くことになって、人ごみの中、ビルの陰から花火を見上げる。

 

entropy.

2009-07-26 12:05:00 | Weblog
 ネットを使っていると毎日色々なニュースが画面の端からでも目に飛び込んできて、時々はやっぱりあれこれ思ったり言いたくなったりするのですが、基本的にニュースの記事が伝えている情報はある事柄の極々一部でしかないし、当事者にしか分からないことが本当にたくさんあるのだろうから、蚊帳の外から貧弱な情報を元にして何かを言うのは意味がないと思っていました。
 でも、実はニュースの情報だけで十分に判断できることもあるし、当事者が意外と気付いていないこともあるだろうし、本当は何か思ったら別にそれを口にしてもいいのではないか、と最近は思っています。

 今日『フィルム生産激減で遺跡発掘写真が大ピンチ』http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090726-00000506-san-soci
という謎の記事を読みました。

 内容は「デジカメではデータを保存するCDなどの媒体が湿気などで駄目になったり、機器の変遷で将来読めなくなったりする。だから写真が重要な発掘現場ではフィルム写真を未だに使っているのだけれど、最近は生産が縮小されているのでピンチだ。幕末の写真を私達が今でも見ることができるという事実が示すようにフィルム写真の方が後世に残しやすい。」というわけの分からないものです。

 僕が不思議なのは、

・バックアップをとれば良いだけではないか?
・プリントアウトもすれば良いのではないか?
・幕末の写真ってかなりクオリティが落ちているのではないか?

ということに、取材先の奈良文化財研究所という専門家集団が気付いていないのかということです。僕も昔一度だけ新聞の取材を受けたことがあるのですが、話した内容と記事は随分かけ離れていました。だからこれも新聞の誤解かあるいは作為的な記事ではないかと思ったのです。
 それで文化財研究所にメールで聞いてみようと思ったところ、サイトにアドレスが載っていなかったので面倒になってやめました。

 大前提として熱力学第二法則よりエネルギーを注入してやらない限り絶対に系の情報は散逸する。写真は色褪せて朽ちて行く。幕末の写真が今も見れるというのは馬鹿げた話で、実際のところ撮った当時より遥かに劣化しているはずだ。僕は写真修復の技術を知らないけれど、普通のプリントした写真になんらかの修復処置を施して劣化を完璧に補うということはできない。つまり情報の散逸を防ぐためになんらかのエネルギーを加えるという手段がとれない。
 対して、デジタルデータではバックアップをとることでケアが可能だ、いくらでも同じ情報が複製可能なので、いくつかの媒体に同じ情報を保存しておき、どれかが駄目になれば媒体を交換して生き残っているところからデータをコピーすれば良い。僕達が死にいく細胞は破棄して新しい細胞を作って生き延びているのと同じことだ。はっきりいってアナログよりもデジタルの方がずっと生命に近い。どう考えても一葉の写真よりデジタルデータの方が長生きだ。

 それでもどうしても実際に紙に焼き付けられた写真が良いなら普通にプリンターで印刷すれば、最近では家庭用のプリンターですらフィルム写真より長持ちするインクを使っている。どこから見てもフィルムの方がいいという点はないと思うのです。

 

movie.

2009-07-22 18:23:23 | Weblog
「夏」について抱く言葉にできっこない感覚を、僕は今まで何人の人と共有できたのだろう。

 夏になると思い出す映画がいくつかあって、その中で今特にパッと浮かんだ2つの予告編をyoutubeから引っ張ってきました。
 二つとも学校にたて突くストーリーですね。僕は、友達や同級生がいる、という点を除いて学校の大抵の部分が嫌いだったのでそれも仕方がないのかもしれない。それともこういう物語が好きだから学校をあまり好きではなかったのか、どちらだろう。

 「ぼくらの七日間戦争」は小学生のときにビデオに録画して本当に100回くらい見て台詞を全部覚えてしまった映画です。今見ると随分子供じみた映画だし、なにより21年前に作られたものなので矢鱈滅多古めかしい。僕はこのとき仲良しグループで所謂少年探偵団を結成していて、そのメンバーで良く僕達もエスケープしたいと話をしていた。この映画には2があるのですが、期待満々で見に行くと子供心にすらバカらしい映画で、がっかりして帰って来たのを覚えています。
 もちろん、七日間戦争を皮切りに、僕はそれから中学3年間くらい「ぼくらシリーズ」「2年A組探偵局シリーズ」を筆頭とする宗田理さんの本を読み漁っていました。間違いなく多大な影響を受けていると思います。

 「69」は大人になってから作られた大人になってから見た映画。映画館で見てそれからツタヤで一度借りて、友達からも一度借りた。学生運動華々しい1969年に自分の高校をバリケード封鎖するという村上龍の自伝的要素のある物語。原作はもともと好きだったし、英語の翻訳もあるので日本語と英語の両方で読みました。村上龍自身が「書くのが楽しかった小説で、こんなに楽しく小説を書くことはもうないだろう」というようなことをあとがきに書いていたと思います。実際に随分楽しい小説で、村上龍のなんかシビアでドロドロしたところが苦手だという人も比較的楽しく読めると思う。

 と書いていて思い出しましたが、そういえば「ぼくらの七日間戦争」も原作では学生運動のことに触れていました。映画が作られた88年、原作がその数年前に書かれたとして、主人公である中学生の親世代は60年安保の世代で、その影響を受けて自衛隊の基地跡を「解放区」に仕立て上げる、という感じだったと思います。というわけで最後に69年東大安田講堂攻防戦の映像を。









鴨川パーティー。

2009-07-21 21:55:23 | Weblog
 そうだすっかり忘れていたけれど、24日の夕方から雨じゃなければ鴨川は出町柳デルタで簡単なパーティーをします。僕は本当は忙しくてパーティーどころじゃないのですが、国へ帰る留学生とのお別れパーティーでもう何がなんでもやらなきゃという雰囲気です。Mの発電機はまだ手元に届いてなくてさらに出力不明、僕のDJソフトが何故かサウンドカードを認識しなくなり、I君のプロジェクターは壊れたまま、そして僕は自分が嫌になるくらい研究が進まなくてもう臨界状態、と満身創痍だけど、それなりに音楽が掛ってなんだか楽しくできればいいと思う。なんならスピーカーとロウソクでいいや。花火も買おう。もう警察が来て怒られて雰囲気悪くなって、というのは避けたいので早いうちはハウスよりの曲を掛けて、夜は横ノリのエレクトロニカとかソフトロックとかにしようと思います。MがDJピンポンしようと言っていたけれど、前のハードディスクがクラッシュしてからラップトップに入っている曲はもうぐちゃぐちゃで何がどこにどんな名前で入っているのかもわからないし、おまけに僕は未だに初代のTractorを使っていてフォーマットはmp3オンリーかつ文字情報は半角英数のみじゃないとフリーズという今時異常に厳しい環境なので(mp3tagediterでタイトルなどを全部再編集しなくては使えない)、23日の夜までに整理は不可能だ。
 みんな気まぐれかつ携帯がなくて連絡が付かない人が多いので、最悪の場合なし崩し的に「やっぱりどっかクラブ行こう」というような事態にならないとも限りませんが、もしも通り掛られる方で僕達を目にされたらどうぞいらして下さい。

太平洋戦争という名前。

2009-07-20 18:09:57 | Weblog
 夏の炎天下研究室へ向かって自転車に乗っていると、明るい道路の先に2人のお爺さんが並んで歩いていた。2人の姿が似ていた所為かも知れない、彼らは2人ともベージュの帽子をかぶりポロシャツを着ていて、僕は太陽の下歩く彼らのことを戦友なのではないかと思った。

 老人を敬いましょうということを言われると、僕は違和感を感じて、その理由の一部に戦争というものあることを否めない。彼らは戦場で命を懸けて戦った。僕はそこに畏怖の念すら覚える。

 夏になると毎年戦争を思い出すと書いているように思う。一昨年の夏、みんなで和歌山県の友ヶ島へ行って日本軍の基地跡を見たけれど、夏の自然と海と基地の跡はとても調和が取れているように見えた。

 戦争の跡、には僕達がまだ消化していない何かがある。
 それは過去から学ぼうとか戦って散った人々のことを思おうとか、そういった次元とはまた別のものかもしれない。戦争の跡を見たときの自分の気持ちがまだ良く分からない。

 友達が野口健さんの考え方を学びたいと書いていたので、野口健さんのブログ(http://blog.livedoor.jp/fuji8776/?blog_id=1477032)を読んでみたらとても面白かった。
 中に遺骨収集のプロジェクト動画があって、この記事を書くきっかけになりました。



動物たちは水辺に集まりそれぞれ水を飲んだ。

2009-07-20 16:46:30 | Weblog
 水
 と書かれた看板を草の上に寝かし、撮った写真をそのまま載せた野外イベントのフライヤーを昔部屋の壁に貼っていた。僕はそのイベントには行かなかったが、その写真は昔流行ったロモで撮ったみたいな写真で、完璧な構図だった。僕はその部屋には5年間住んでいたが、そのフライヤーは5年間ずっとそこに貼ったままだったと思う。

 先日、またI君とやっぱり起業というのも面白そうだなという話をしていて、では僕達はどういった会社なら作ってみたいのだろうと議論していたら、サイエンスに関係していて人の役に立ち未来を切り開くもの、という当然と言えば当然の結論に達した。もうテクノロジーは十分に見えるのにどうしてか解決されない世界のそこここにある問題を解決して、かつそこから収益を得る。たとえば水不足は未だに深刻な問題だけれど、近年効率の良い海水の淡水化装置もあることだし、うまいビジネスモデルさえあればパイプラインと淡水化装置の組み合わせで収益を上げつつ水のインフラを世界の到る所に確立できるはずだ。

 このとき「じゃあ例えばどんな事業だか例を挙げてみてよ」ということででまかせに水のインフラの話をしたのだけど、これは僕の一番の目的とは大きくベクトルが異なる物の、それでもそんなに悪い考えでもないように見えた。

 実は先月、知人のいる会社でカンボジアに井戸を掘る為の募金箱の製作を募っていて変なのを一個作ったのですが、そのとき水というテーマは少しく僕の頭に入ってきたのだと思う。

 僕は水がとても好きだ。飲むのも遊ぶのも見るのも聞くのも。子供の頃、夏の暑い日に水道で手を洗っていて急にこの冷たい謎の物体が手に触れる喜びを自分でかみ締めて嬉しくて仕方なくなったことがある。プールで泳いでいてもそうだった。水が体の汚れを洗い流せることがまるで奇跡みたいだとずっと思っていた。

 そして途端に水に関することがバーっと頭にフラッシュバックする。そういえば何年か前の世界水フォーラムは京都で開催されたはずだ。僕はそのとき地下鉄に乗ってたくさんの出席者を「なんだろうこの人々は」と思って眺めていた。今年の世界水フォーラムはイスタンブールで開かれたらしい。イスタンブール。トルコという国は僕にとってもはや他所の国ではない。トルコ人のOと3年も一緒にいたし、彼が帰るこの秋、入れ替わりにまたトルコから大学にRがやって来る。

 水問題のことを少し調べていて、「バーチャルウォーター」という言葉の存在を知りました。ある食べ物を輸入したとして、その食べ物を作るのに必要な水の量をバーチャルウォーターの量としているようです。世界の利用可能な水のうち70パーセントは農業に使われているわけですが、それからも分かるように農作物の生産には莫大な水が必要で、算出されたバーチャルウォーターの量というのはちょっと吃驚するものです。たとえば牛丼一杯(牛肉、米、タマネギ?)を作るのに必要な水の量は約2000リットル。2005年度、日本は800億立方メートルものバーチャルウォーターを輸入したことになるらしいです。