The Three Musketeers.

2008-01-31 16:11:25 | Weblog
 なんとなく思い出したのでネットで検索していると出てきました。

 http://allabout.co.jp/children/papaikuji/closeup/CU20060802A/index.htm

 『ズッコケ三人組』の那須先生です。

 このシリーズがはじまったのって、1978年なんですね。
 僕は1979年生まれですが、2月にうまれたので学年としては1978年に当たります。世代としてはど真ん中だ。

fractal-based computer graphic/real world.

2008-01-30 16:08:18 | Weblog
 ここ数日、植物の見え方がおかしい。冬が来て木々が葉を落とし、その枝をくっきりと見せるようになったせいかもしれない。どう頑張っても今までのように「自然な形」に見えないのです。どうしてもフラクタルを代表とする数学的な形であるようにしか見えない。京都盆地を囲む低い稜線を見渡しても、どうみても数学的な形にしか見えない。まるでCGのようだ。

 フラクタルというのは今となっては少し古いくらいの概念だし、僕はそれらのことを随分昔から知っていた。だから、ときどき木々を眺めて「フラクタルだ、複雑系だ」と思うことはあった。でも、ここ数日はもっとビビットで、木や山を見るとドキリとして怖くなる。がんばって複雑そうに見せかけてるけれど、それはあまり成功していないなと思う。まるで幼稚園児の工作を見ているような気分です。背後に広がる人工の街がとても複雑なもので自然なものに見えて、その手前に立っている木が、現実世界に挿入されたコンピューターグラフィックにしか見えない。何かの手違いで世界がそこだけ割れて、背後の数学がこっちの世界に流れ込んできたみたいだ。研究室の窓の前にある木の枝の形と氷に入ったクラックの形の違いが分からない。分からないというのは言いすぎだけど、「どうせ同じ人が作ったんじゃん。もうちょっと工夫したらいいのに」みたいな感覚があります。

 こんな奇妙な感覚は生まれてはじめてのことです。どうしたんだろ。
 

weblog5.0.

2008-01-29 16:05:48 | Weblog
 実は去年の年末に「どうして僕はブログなんか書いているのか分からない」という意味のかなりネガティブな日記を書いていて、内容があまりにどろどろとしてきたので消しました。
 もう1年前くらいのデータだと思いますが、日本人は世界一の数のブログを持っているそうです。そのため日本語で書かれたブログの数が英語で書かれたブログよりも沢山あるみたいな記事をどこかで読んだ記憶があります(もしかしたら記憶違いかもしれませんけれど)。

 気になったので今検索してみると、2006年のいつかのデータでは、全ブログに占める言語別割合

 1、日本語 37%
 2、英語  36%
 3、中国語  8%
 4、イタリア語、スペイン語 共に3%

 となっていました。

 英語はほとんど世界共通語なので無視して、日本語の37%というのは異常です。

 ついでに2006年のネット人口を検索してみました。

 1、アメリカ 1億5200万人
 2、中国   1億2300万人     
 3、日本     5210万人

 日本は3位なのでかなり上位だと言えます。世界全体では推定約7億人のネット人口があって、そのうち日本の5210万人というのは約13パーセントです。13%の人口で37%のブログを占めているというのはやはり特異なことです。

 それで、今回改めてどうして日本人はこんなにブログをたくさん書いているのか、ということを考えてみました。
 僕としては背景に神道を置いてみると面白く解釈できるのではないかと思います。

 同じようなことは「日本語のブログ数世界1」みたいな記事を最初に見たときにも考えたのですが、特にこれという根拠も思い当たらなかった。今回は、僕がどうしてブログなんか書いているのか自分で分からないということを踏まえて、より深く踏み込むことができるのではないかと思います。

 多くの個人的なブログ記述者がそうであるように、僕は特別な目的を持ってブログというものを書いているわけではありません。特に何か伝えたいことがあるわけでもなく、楽しい生活を自慢したいわけでもなく、広告収入で稼ぎたいわけでもない。かといって、これは純粋な意味での日記というものでもない。日々の記録を綴っておきたいだけなら、僕は作文をインターネットに載せる必要はないし、ワードか何かで書いて静かに自分のパソコンに保存しておけばいい。

 もしも日記というものの本来の姿が「ありのままの、その日の出来事と感じたこと」を記述するというものだとしたら、日記を不特定多数の人間が読むネットに公開するというのは厳しすぎる束縛条件だ。少なくとも僕はありのままに事実や感情を書くことはできない。「ありのまま」が望まれるのであれば、それはノートかパソコンの中だけの、プライベートな空間に保存されるべきだ。

 でも、実状としては日記をつけている人のほとんどがそれをネット上に公開しているのではないだろうか。ネットに公開するという選択肢が与えられてから、多くの人はネットに公開するための日記を書くようになったと思う。僕はもう個人的に読むために個人的に書いて保存しておくような日記を書くことはなくなった。

 と、ここまで以前書いて面倒になったので放ってあったのですが、昨日ある人が、ブログというのは自己満足の究極の形だという意見もある、ということを言って、それで書きかけていたこの作文のことを思い出した。

 自己満足というのは何にでも適用して話を打ち切りにできる魔法の言葉なので本当は意味を持たない言葉なのだと思う。つまり思考停止のサインなのじゃないかと思うのです。あえて自己満足という言葉を用いるのであれば、「では何故それで個人的にな満足感を得ることができるのか?」ということが問われなければならない。
 さらに、人間という生き物の強烈な社会性を考えたとき、自分だけが個人的に満足する、という極めて限定的な状況が本来的に存在するとは考えにくい。自己満足というのは実際にはとても社会的な満足であるはずだと僕は思います。

 上の方で僕は神道の影響があるのではないかと書いていますが、どうして日本人のブログがこんなに多いのかということを考えたとき最初に浮かんだのは「これはキリスト教の懺悔に近いのではないか」ということでした。懺悔という行為が神への告白である、神の許しをこうものなのだとしたら、日本人がブログを書くという行為は、なんだか良く分からないけれど公表して、知らない誰かが構成する社会に自分をゆっくりと吸収させることに相当するのではないかと思ったのです。

 これは心理学的に言えば単に外面化に過ぎないのかもしれないけれど、だとすれば日本人だけがどうしてそんなにたくさん外面化をしたがるのか、という問いのことです。

 もちろん、西洋にキリスト教的なものを置いて、日本に神道的なものを置くのはあまりにも乱暴な考え方ですが、この辺りから話が展開されたりしないかな、と淡い希望を持たずにはいられません。

 ここのところあまり時間がないので、続きはまた今度、もしも何か浮かんだら書きます。

color.

2008-01-27 23:17:07 | Weblog
 前にも同じことを書いたけれど、ときどき同じことを繰り返しているような気分になることがある。遠い昔に一度人類は全く同じ歴史を辿り絶滅して、そしてまた始まって同じことをしているような。そうか、一度じゃないや、何度も何度も、寸分違わない歴史を、今日買ったソフトクリームの微妙な形まで同じ歴史を。そんなとき、では僕達はどこへも行けないのか、と閉塞感を持つと共に、何度も同じことを繰り返す中に安堵と親しみを感じたりもする。きっと別にどこへも行きたくなんてないのだ。

 まだ何もしていないので、時間ができてから後日きちんと書きますが、電磁波過敏症というのはまだ医学的、あるいは科学的に認知されていないようですね。WHOのホームページにもそう書いてありました。
 でも、電磁波と症状の因果関係を調べるなんていとも簡単なことに思えるし、いくらか疑問があるので研究している病院に聞いてみたいと思う。そして、もしもただの怠慢で因果関係を示す実験をしていないのだったら僕がしようと思う。

 先日、自転車に乗っていたら、道路で工事か何かをしていたおじさんの巻き取っていたホースが僕の肩に当たった。彼は即座に「ごめん」と謝ったのに、僕は何も言わないで睨みつけた。自分でも驚いたことに、僕は無礼極まりなかった。それだけではなかった。恐ろしいことに、僕はたぶんこのまま行けば彼の巻き取っているホースがぶつかるかもしれないな、ということを状況から読み取っていた。だから、それは多分僕の計画的犯行だったのだ。最初に道の真ん中で回りに注意を払わないで作業している彼らを見たとき、僕はたぶん勝手に腹を立ててわざとホースがぶつかるかもしれないところを通り、案の定ぶつかって、そして睨みつけた。結局、僕は睨みつけたかっただけなのだろう。どうしてそんなことをしたのか分からない。この日僕は特に機嫌が悪かったわけでもないし、もしかしたら元々これくらい性格が悪いのかもしれない。
 そのあと、良心の呵責と深い自責の念に苛まれながら大学へ向かった。途中で謝りに戻ろうかとも思ったし、そうすればよかったけれどしなかった。研究室でOに、さっきこんなことをしてしまった、と話したら「そうか、それは悪い連鎖のはじまりだったりしてね。彼はもう他の人にホースがぶつかっても謝らないようになったかも」と冗談ぽく彼は言った。まさにそれは真実だ。彼は不機嫌に今日の残りを過ごし、そのとばっちりを誰かが受け、さらにその人のとばっちりを誰かが受けて、という風に僕がはじめた悪意の連鎖は世界を回る。誰か心の広い人がそれを断ち切るまで。
 次の日、同じ場所を通ったけれど、もう工事は終わっていた。
 

one mississippi.

2008-01-25 20:21:41 | Weblog
 それは確かに夜中の3時を過ぎていた。だけど、けしてその為に僕が心動かされたというだけのことでもないと思う。
 2週間くらい前にみんなで中華を食べに行って、あまり良い店ではなかったのでその後別のバーで少しだけ飲んで、そのあとSさんとSちゃんと僕の3人だけでさらに別の店へ入った。僕はもうお酒を飲むような気分でもなかったので、最初からお茶漬けを頼んで、それでSさんが矢鱈と沢山頼んでくれた食べ物を食べながら話をしていた。
 問題は音楽だった。マスターの友人がコンパイルしたというそのCDには80年代から90年代に流行っていたような曲がたくさん入っていて、そのうちの何曲かに僕はやられて聞き入ってしまったのです。

 僕は今までの人生で一環して、流行りの日本のポップスを聴かない、という立場をとり続けてきたので、本来なら懐かしいとかそういった感覚はなくていいはずだった。だから、どうしてそれらの曲が自分の中にこんなに強く入り込んでくるのか理解できなかった。でも、たとえば恥ずかしいけれどプリンセスプリンセスの曲が掛かったときに自分がどうしてそれに強く反応するのか良く分からなかった。当時の、シンセサイザーだけで音は作りました、みたいな音楽が自分の中に想起するものはまぎれもなく過去に繋がるもので、僕は当時それらの曲を好んで聴いていたわけでもないのに異常なくらいの親近感を覚えた。それだけではなく、表現したかったことが手に取るように分かる気分だった。これもあるいは僕が年をとったからなのかもしれないけれど。

 ある時代を生きるというのはそういうことなのだと思う。時代というのは知らないうちに、好むと好まざるに関わらず、僕達の内側へ深く浸透して来る。CDを買ってステレオで聴かなくても、街角やラジオやテレビで耳にした音楽はその時代性と共に僕達に共有される。人というものが現在ではなく過去と未来を強く欲望する生き物なのだとしたら。ある音楽の本当の良さというのは過去に聞かれ未来に再び聞かれない限り立ち上がらないのかもしれない。

 そういった意味で、79年に生まれた僕には多分ビートルズの本当の良さは理解できないだろう。もっと遡ってモーツァルトだって同じことだ。僕達はそれらを鑑賞して感動することができないわけではない。だけど、そこには時代性というものが決定的に欠落している。時代性は当時を生きた人間だけが獲得可能なものだ。まるで神が並べたかのようなモーツァルトの天才的なメロディは、もちろんそれ自体普遍だとしても、やはり当時の人々に響いたものと今のものでは異なっているのだろう。僕としては、何か作品があったとして、その作品を単体で切り出して価値を測るなんてことはできそうにもないのです。僕達は作品に射影された誰かの人生を込みでしか、それらを観ることはできないのではないでしょうか。だから、狭義では芸術というものが人間を越えることは有り得ないと思うのです。

Phoebe Caulfield got the record.

2008-01-24 21:17:58 | Weblog
 今日は吹雪のように激しい雪と風だった。

 los campesinosというバンドがあって、そのバンドのことを良いなと思います。最近僕はほとんど音楽に興味が無いのですが、もしも自分がバンドをやるならこういうバンドが良かった、というようなバンドです。もしも興味のあるかたはyoutubeでlos campesinosと検索すればPVやライブをみることができます。

 先日、the catcher in the rye をようやく読みました。ようやくというのは、実は僕はこの本のことを10年くらい気にしていたからです。
 僕は10年前予備校に通う浪人生でした。あとで、予備校なんて愚かしいところに何故入ったのだろうと相当に後悔したけれど、とにかく僕は予備校生でした。僕は授業にはあまり出ないで、毎日本ばかり読んでいました。ちょうど予備校の隣が大型書店だったので、昼食を食べずにそのお金で毎日本を買ってどこかで読んでいた。
 だけど、その授業には偶然出ました。古典の授業の最終回で、特異的なキャラクターのM先生はお別れの挨拶にいくらかスピーチをしてくれたのだけど、そのメインとなる話題が「ライ麦畑で捕まえて」だった。

「みんなはライ麦畑で捕まえてを読んだことがありますか? 有名な本だから多分何人かは読んだことがあると思います。ライ麦畑に自分が立ってて、畑の端は断崖絶壁になってる。それを知ってるのは自分だけで、他の人は知らない。それでそっちへ歩いていく人に’危ないよ’って言うんだけど、誰も気にとめない。大丈夫大丈夫何言ってるの、って感じで。それで多分その人は落ちてしまう。だけど私は気にとめてもらえなくても危ないよって言い続けたい」

 僕の記憶ではそういった話だった。僕は彼女が一体何を言いたいのか良く分からなくて、それでそのスピーチはとても深く印象に残った。

 "The Catcher in the Rye" Jerome David Salinger
 『危険な年齢』(橋本福夫訳)
 『ライ麦畑でつかまえて』(野崎考訳)
 『ライ麦畑の捕手』(繁尾久訳)
 『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(村上春樹訳)

 もちろん、当時だってその本の存在をしらないはずなかった。ただ、僕はなんとなく「良い子の読む小説」みたいなイメージを抱いていたので、全く読もうとは思わなかった。ところが村上春樹が2003年に翻訳を発表して、それで僕はまたライ麦畑で捕まえてのことを思い出した。奇しくもその古典の先生は村上先生という先生だった。だけど、やっぱり僕は読まなかった。どうして読まなかったのかはわからない。そしてまたライ麦畑のことを忘れて生活していたのが、去年の暮れに洋書屋へ入ったとき目に付いて、今度はどうしてか本を手に取った。僕は今の今まで村上春樹訳が本屋で平積みにされているときでさえ、手にとって立ち読みをしさえしなかったのです。
 出だしの数行を読んで僕はその本を買うことに決めました。僕は英語のニュアンスを感じるだけの英語解読力を持ちませんが、でも個人的な勝手な解釈が許されるなら、その文体はとても軽やかで素晴らしかった。

 そうして、僕は1951年に書かれた本を2008年に読んだ。つまり57年前の本を。全然良い子の為の小説なんかではなくて、ちゃんとした小説だった。それから、変な言い方だけどこのライ麦畑は村上春樹の小説にとてもよく似ていた。僕はライ麦畑を読むことで村上春樹がどこからやってきた小説家なのか、その一端をかなりクリアに見た気がしました。スラングを多用した文章には賛否両論あったのだと思うけれど、書かれていることは実に繊細だった。

 そして、10年前にその先生が言っていたこともなんとなく分かったような気がした。分かったのは本のお陰でなくて、単に僕が年をとったからかもしれないけれど。

23人の魅力的な女の子たちが一斉に話をすると。

2008-01-23 15:50:12 | Weblog
 先日、1=-1を証明するという数学トリックの話をOとしていて、それは複素数を使ったものだったので、以来なんとなく複素数のことが頭のどこかにあった。それで土曜日に複素数を拡張することを思いついて、少しだけアイデアを練ってみた。どうせ大抵のことはどこかで誰かが既に考えているので、月曜日Oにこういう数学ってある?と聞いてみると、「たぶんそれはClifford代数だ」とあっさり教えてくれた。久しぶりに面白そうなことを思いついたと思ったのに結局新しくもなんともなかったのでがっかりしたけれど、実際にそういった数学が有効に使われていて自分の考えが的外れでもなかったので安心した。

 特にClifford代数のことを詳しく読んだりはしていないので、それがどういったものなのか具体的には分からない。でも当然それはかなり奥深いものなのだろうと思う。

 去年の暮れ頃、Tと炊飯器の話をしていたとき彼の言うことが実にもっともだったので「どうしてメーカーはこういった炊飯器を作らないのか?」ということを散々言っていたのですが、あとで炊飯器のことを詳しく調べてみるとメーカーではそんなことよりもっと奥深い研究をしているようでした。

 なんだか良く分からないけれど、コラボレーションという恥ずかしい響きの言葉が何年か前からそこここで聞かれるようになり、「専門家もいいけど、外部の新鮮な考え方を取り入れたほうがいいんじゃないか」みたいなことを当然のように言う人もいて、ひいては「専門家は専門バカだから外部の視点が必要なのだ」みたいなことを言う人もいて、それは時々は正しいのかもしれないけれど、原則として専門家は専門バカではないしその力量はものすごいと思う。

turning point.

2008-01-22 13:39:53 | Weblog
 昨日は奇跡みたいな1日だった。

 2008年1月19日土曜日
 夜、洗濯物を取り込みに屋上へ出ると、月に見たことも無い大きなハローが掛かっていてショックを受けてしばらく眺める。

playing a metallophone and a violin.

2008-01-18 17:23:31 | Weblog
Jerk alert. At last he is coming up. The guy whe never understand anybody. Every time, in every cases, you know he just always tells you "what the hell are you talking about, listen to me." Definitely he says so, and all. Fuckin' phony sanovabich isn't it?
Anyway you have to talk with him couse' he is in everywhere in this our world. You would tell him same thing again, again and again. Of course he never understand that. You both fo two may get sore and all. May? not may it must be must, for Chrissake.
 16日という日付がなんとなく気になるなと思っていたら、それは先月の16日に僕が引越しをした為だった。ちょうど1月が経過したことになる。僕の以前住んでいたアパートは大学のすぐ隣にあるし、そこはちょうど今の通学路にも当たるので、僕は以前に自分の住んでいたアパートを毎日のように目にする。だけど、不思議なことにもう自分がそこに住んでいたのだという感覚はほとんどない。物事というのは変われば変わるものなのだ。
What should I do at that time? Yes maybe he the phony one would think YOU are the jerk, like you would he is. Some old-shoe people think it's because of Babel. I have watched that movie, named "BABEL" without modification, at one big screen near by Nijo station a few months ago.
 そういえば、今年の抱負というか、毎年年頭には思うのですが、できる限りきちんとした生活をしたいと考えていて、それで僕は比較的細かいことも改良修繕して生活するようにしています。一歩間違えれば細かいことにこだわる詰まらない人間になりかねませんが、それはそれでいいかとも思う。散らかった部屋は片付けて、壊れたものは修理して、健康に気をつかい、おいしいものを食べる。
I don't like this movie so much. But I can empathize with this director. We all have dizzy and unbeatable dikes of communications. It baffles me. Furthermore I know obviously I have that dikes, not a dike, dikes indeed as hell.

distant ancestry .

2008-01-16 16:00:19 | Weblog
 どうかしばらく時間が止まっていてくれないかと思う。
 というのもこの数日異常に本が読みたいからです。文字通り異常です。新しく読みたいものが山のようにある上、さらにこれまでの人生で読んだ本の5分の1くらいをまた読み返してみたいと感じています。つい数週間前まで、もう僕は本を読むことには興味がなくなった、と思っていたのが嘘のようだ。しかも、その読書に興味が湧かない期間というのは実に数年に渡るものでした。そういえば僕は昔本を読むのが好きだったな、というような感じで何年か暮らしていたのです。それが急に氷解して、今はもう図書館に入り浸りたいとすら思う。
 ただ、僕はもうそんなに沢山の本を読んだりはしないだろうなということは分かっています。読書というのはひどく孤独な営みだし、僕は子供の頃と違って最近ではそういった孤独さにあまり親しみを感じません。

 そういえば年末年始からこっち、一体何をしていたのか全く書いていませんでした。僕はまだ初詣にも行っていません。時間がないとかそういうことではなく、ある条件の為にまだ初詣が成されていなくて、だから僕は本当にはまだ今年が始まったという気分でもないです。
 初詣はしていませんが、年越しは八坂神社の雑踏にもまれて過ごしました。その前にはSちゃん宅でニシン蕎麦も食べた。年越し蕎麦を食べて八坂神社に行くというのは僕にとってはじめてのきちんとした年越しでした。
 年が明けて、何人かの友達にあったり、祖母のところを訪ねたり、お墓参りをしたり、至ってオーソドックスなお正月を過ごしました。そういえば、Wが凧揚げをしたいというので、以前書いた携帯凧「アースカイト」で凧揚げをしようとしたところうまく行かなかった。鴨川の堤防でそれなりに一生懸命走ったりしたのですが、結構な風がないとアースカイトはうまく上がらないと思います。隣で親子が機関車トーマスのイラストが付いた凧を上げていて、それは空高く上がっていました。