トマトケチャップ。

2005-03-27 09:39:56 | Weblog
 内田先生のブログを読んでいたら、茂木健一郎さんのことが書かれていた。

 茂木健一郎さんのことを、僕は勝手に認知科学の研究者だと思っているのだけれど、ソニーのクオリアプロジェクトなんかをはじめとして活動の幅が広範囲なので、まあこれは偏った認識なんだと思う。誰かが寺山修司を評して、「彼のことを作家なのか詩人なのかなどと聞かれても、寺山修司は寺山修司だとしかいいようがない」と言っていたけれど、これにならって茂木さんは茂木さんだと納得することにする。もちろん、誰だって○○さんは○○さんな訳だけど。

 僕は予備校に通っていた頃に、茂木健一郎さんの「脳とクオリア」という本を読んで世界観がガシャンと音を立てて変わった経験を持っています。
 あの頃は昼御飯を抜いて、そのお金で一日一冊は必ず本を読んでいたので、何度か読んでいる本に吃驚させられて価値観や世界観が変わるという経験はしているはずなのですが、「脳とクオリア」ほどインパクトの強かったものはありません。

 僕はその日から「この世界が本当は何でできているのか絶対に分からないのではないか」というどうしようもないもどかしさに付き纏われています。
 アインシュタイン博士がどのようなニュアンスで言ったのか僕は知らないのですが

 「私にとって一番の謎は、どうして人類に世界が理解できるのかということだ」

 というような有名な言葉があって、でも、僕はそれに賛同することができない。
 宇宙は僕たちに理解できるような形では作られていなくて、理解なんて永遠にできないのだと思う。

 この世の全事象を表現する美しい方程式を導いたとしても、宇宙の果てに旗を立てたとしても、僕たちはそれでこの宇宙を「理解」したりはできないのではないだろうか。

 でも、だからといって、それなら科学をやめるかというとそれは違う。
 結局のところ、真理に到達しようとして科学を続けている科学者なんてそんなにいないのではないだろうか、という気もする。
 もしかしたら、科学の進歩というのは真理に近づくベクトルなんて全然持ってはいなくて、実は同じ地面の上をくるくると、あるいは右左となんだかうろうろしているだけの事なのかもしれないけれど、人間というのは結構そういったことが好きなんじゃないかと思うのです。誰も本当に本気で「最終的なもの」を指向してはいなくて、例え同じところをグルグルしているとしても、「それはそれ」と妙に納得できる生命体なのではないでしょうか。
 
 ヴィトゲンシュタインが「”思考可能な事”と”思考不可能な事”の境界すら人間には分からない。なぜならその境界を知るには”思考不可能な事を思考する必要があるから(そうじゃないと、あと一歩行くとこの先は思考できなくなるな、という判断が下せない。あと一歩を仮に踏み出してみるには思考が必要だから)」というようなことを言っていて、それを聞いたとき一瞬、閉塞感を感じはしたけれど、絶望的な気分にはならなかった。
 もしかしたら心のどこかで、僕がこのロジックを素直に受け入れる事ができないのかもしれないけれど、もしもこれが正しいとしても人間というのはどうにかして”思考不可能なこと”を思考するようになるのではないかと思えて仕方ないのです。

 なんというか、僕たちは例え同じ地面の上をぐるぐるしていても、やがて季節が巡ればそこには花が咲いたり、果実が実ったりするのだという期待を心のどこかに抱き続けるのだと思う。
 これは、いつか僕たちが「世界」を「理解」するのではないか、という淡い期待ではなくて、『「いつか」「僕たち」は「世界」を「理解」するのではないか』という希望のことだと思います。

ステーション。

2005-03-25 00:28:45 | Weblog
 ちょっとした用があって、今日も少しだけ実家に帰った。そして、晩御飯を食べてすぐに、電車で自分のアパートに戻ったのですが、なんと電車の乗り換えを間違えてしまいました。通いなれた路線なのに、僕はシャッフルから流れてくる音楽に没頭していて、なんとはなしに降りなくてはならない駅の一つ手前の駅で降りてしまったのです。しかも駅の階段を降りるまで自分が間違った駅で降りたという事に気が付かなかった。階段の途中で「そういえばこんなに階段狭かったっけ?」と気が付いて、そして、次の電車に乗ればいいや、と時刻表を見ると、次の電車までは運の悪い事に20分以上も時間があった。

 僕は待つ事がそんなに苦手ではないし、だいたい今はシャッフルもあるし、本だってもっているし、20分の暇潰しは至って楽なものなのですが、でも一駅くらいなら歩いてもすぐだろうし、次の電車が来る前に本来目的としていた駅に辿り着くのではないか、と思って僕は改札を出た。
 雨が僅かに降っていて、暗くて良くは見えないけれど夜空は雨雲を貯えているようだった。一瞬歩くのをやめて、もう一度改札をくぐろうかと思ったけれど、一駅の為に切符を買い直すのも癪だし、雨くらいなんとでもなると思い、僕は線路に沿って春の夜にしてはやけに冷たい雨の中を歩き始めた。

 しばらく行くと、雨はだんだんと強くなり、そして自分がどこにいて前の駅と次の駅のどちらに近いのかも良く分からない、という困った状況が発生しようとしていた。ゴールデンレトリバーと散歩していたおじさんが早足に家へ向かい、僕は少しだけ早歩きをした。それから高架の下に入って雨宿りを考えたとき、目の前のフェンスに傘がぶら下がっていたのでそれを貰った。
 傘というものは結構どこにでも落ちているので助かる。僕はよく傘を拾うし、それからよく傘を置いてくる。こういう風に困ったときに傘に巡り合えるようになったのは、自分もそこら辺に傘を置いてくるようになったせいではないかと思う。この間、コンビニに行くと雨が止んだので、そのまま傘を置いてきた。きっと傘がなくて困った人が拾っていったのだと思う。そして、今日は僕が拾った。

 傘さえあれば、もう何も恐れるものはなかった。それから5分も歩けば、僕は目的の、使い慣れた駅に到達した。
 そして、電車から降りてくる人の中に古い友人を見付けた。彼とはもう7年もあってないし、はっきり彼なのだとは瞬時に判断できなかった。たぶん、向こうもそうだったんだと思う。すれ違いながら目が合って、何秒か経過して、僕らは話し掛けるべきタイミングを逃し、結局何も話さなかった。
 彼とは昔、ある所に一緒に通っていた。そして僕はそのある所で明日から正規にアルバイトをする。なんとなく、今日僕が乗り換えを間違えたのは彼とすれ違う為だったのではないかと思えて仕方なかった。本当は話をすれば良かったのかもしれないけれど、すれ違うだけで十分に色々なことを思い出したりもする。

 僕はいつも思っているのだけど、自分の人生が何かの流れに乗っているような気がして仕方ない。
 ものすごい偶然で助けられる事があったり、後から振り返れば実に危ない橋を渡っていたり、何かに生かされていて、時々、もしくはいつも助けてもらっているのだと思わないと自分の人生がうまく説明できないような気がするのです。

 その友達にすれ違ったせいか、僕は電車の中で既視感のようなものを味わった。僕は遠い遠い昔にもこの電車にこうして乗っていた事が合って、そしてその後長い人生を過ごしたことがあるような気がした。その同じ人生を今はもう一度トレースしていて、本当は僕はこれから何が起こるのか心の底では全部知っているような気がした。そして僕が何の為にトレースという作業をしているのか、トレースというのはどういう位置に置かれた行為なのか、そういうことも全部知っているような気がした。

 という変な気分。

 それと今日は昔視覚の講義でお世話になった先生が主催のゲシュタルト心理物理学の講演に言ったけれど、結局英語で良く分からなかった。ドイツ人の博士はドイツ訛りの英語で、日本人は日本訛りの英語だった。ネイティブスピーカーがいないと、お互いにちょっとくらいおかしな英語を使っても相手が使っている英語がおかしいのかどうか判断できないので、どんどんとおかしな英語になっていくのではないかと思った。でも、もちろんそれでも通じればいいし、言語の本質というものはその辺りにあるんじゃないだろうか。

レール。

2005-03-24 02:13:22 | Weblog
 地下鉄の階段を降りていると、一輪の白い花が落ちていた。季節は春で、それは誰かが誰かを祝福することの多いシーズンで、これもきっと誰かが誰かを祝福したものなのだろうな、と思った。その人はおっちょこちょいなことに大きな花束から花を一輪、この白くてふんわりとした花を落としたのだろう。祝福されたその帰り道に。
 花は階段に落ちていたけれど、きれいなままだった。誰だって、落ちている花を好んで踏んづけようとは思わない。

 僕は昔、花を贈る事に一体何の意味があるのか良く分からなかった。切り花はすぐに枯れてしまうし、茎を切り取られた花が痛々しく見えた。どうせなら鉢に入ったものを贈れば良いのに、と思っていた。
 でも、いくらか年を取って、花を贈る事の偉大さが分かるようになった。僕らは花を摘み取り祝福するのだ。花は枯れるけれど、でも祝福する瞬間に僕たちはたくさんの素敵なものを込めている。

 論文締め切りの時期を振り返って、

 「しかし、あんな目茶苦茶な生活でよく風邪ひかなかったね。碌に寝ないで、碌なもの食べないで」

 「いや、なんかやばいなって時もあったんだけど、一瞬で治った。緊張感のせいじゃない? ストレスがあると免疫落ちるっていうけど、実は逆で、本当はストレスがあったほうが抵抗力高まったりして。ストレス健康法」

 というような会話を友達としていると、どうやら僕らはきちんとした食事をしているときの方が風邪をひきやすいのではないか、という結論に達した。その友達は普段ひどい食生活をしているのだけど、特に風邪をひくということもなく、「実家に帰ってしばらくすると大抵風邪をひく」とのことで、それは実家に帰るときちんとした食事をするせいではないかと考える事ができるし、僕自身も経験的に食べ物に気を付けている方が風邪が治り難いと思う。風邪だからといってビタミンCの入ったものを食べたり、栄養をつけなくては、と色々食べている時にはたいてい風邪が長引く、いい加減にしているほうがさっさと治る。

 それからしばらくして実家に帰ると、父親が半断食健康法を説いた本をくれた、なんか怪しいので「要らない」と言っていたんだけど、「ぱらっとでもいいから読んで見なさい」というので貰って読んだのですが、結構面白くて、説得力もあるし、思わず断食してしまいそうです。その本の主旨は一貫して「現代日本人は食べ過ぎだ」といういもので、医学が発達して、医者も増えて、でも病人が増えているのは食べ過ぎのせいだ、小食にすれば大抵治る、ということを沢山のデータとともに示している。

 これは僕らの、ちゃんと食べてる方が風邪をひく、という経験にも良く当てはまる。

 基本的に食べる事、栄養を摂る事はいいことだとされているけれど、現代人は入れるばかりで出す事を考えない。たくさん栄養を摂る方が良い、というのも一つの狭い範囲で設定されたイデオロギーに過ぎない。

 僕らは意外と、そんなに頑張って食べなくても生きていけます。一日三食食べてきて、食べ過ぎ中毒になっているので、最初は食べる量を減らすと禁断症状でお腹が空くけれど、ふらふらしたりと低血糖症の症状でもでない限りは大丈夫みたいです。

スツール。

2005-03-22 23:49:12 | Weblog
 アマゾンで注文した本が届いた。
 洋書で、丸善に問い合わせると置いてなくて、海外からのお取りよせになります、ということだったのでアマゾンで買った。アマゾンだと在庫が3冊もあって、そして24時間以内に発送可能だった。
 パソコンの画面で注文して、クレジットカードの番号を打ち込むと、数日後に宅配便の人が注文した本を持ってきてくれて、そして僕は受け取りのサインをすればいい。一度もお金に触れる事なく全ては完了し、現実に今僕の目の前には厳めしい本が一冊腰を据えている。
 ネットで買い物をするのは、とても便利で、そしてとても奇妙だと思う。

 情報のやりとりがいくらオンラインに移行しても、結局のところ商品は物理的に運ぶしかないので、ネットでの売買が増えて一番潤っているのは多分運送会社なんじゃないだろうか。僕はヤフオクをするようになるまで宅配便を利用した事なんて数えるほどしかなかった。

 友達に磁性流体を貰ったので、早速ちょっと遊んでみようと思ったけれど、部屋があまりに散らかっていて、機能性が全くないので断念する。僕はどうも散らかっているのが苦手なので早く片づけないとなにもできそうにない。それに今は極度にお金がないので、アイデアがあってそれを数千円で実現できそうでも、それを試す事すら叶わない。とりあえず、まともな生活を取り戻さないと。時間がほしい。

ウサギバニーの活躍。

2005-03-18 14:31:08 | Weblog
 悟りを開いた。
 と僕は高校生のときに宣言したことがあります。

 悟りを開くのはとても簡単なことで、「悟りを開いちゃった」と一言呟いたり、あるいは友達に言ってみればよいのです。一秒でできます。
 ニーチェが言ったように、僕たちは往々にして原因と結果を取り違えます。
 悟りを開いたから「悟りを開いた」というのではなく、「悟りを開いた」と言ったので悟りを開いたのです。

 昨日久し振りに電話すると、畏友である氏は。「完全パンクマニュアルはじめてのセックスピストルズ」に書いてあることを実行されていて流石だと思った。

 昨日先生のところへ行くと「この本を買ってきりきり読み給え」と一冊の書物を指定されたけれど、洋書で一万円くらいするのでぽんとは買えない。最近ずいぶんと出費が多いので、カードで分割で払いたいくらいです。

 ヤフーのトピックに、野球解説のなんとかという人が、フジテレビの社長が堀江社長になるんだったら辞める、と言っていて、記事は著名人が堀江社長にノーを言うのは初めてでこれから波紋が広がりそうだ、と締めくくられていたけれど、どこからどう見ても大袈裟な話だと思った

サバービアでリゾートでデンジャー。

2005-03-16 23:24:48 | Weblog
 子供用のオムツをテレビで宣伝していて、コピーは「男の子は乗り物が大好き。女の子はお花が大好き」というものすごいものだった。

 もちろん、男の子が青を好み、女の子が赤を好む、というのがいつもいつも成立するわけではないのと同様に、乗り物なんてどうだっていい男の子も、お花なんてどうだっていい女の子も、この世界には確実に存在している。頼もしいことに。

 僕はこのコピーからものすごくダイレクトに「フロイト的なもの」を感じて少し考えないではいられなかった。乗り物は男性の象徴で、お花なんていうのはもっと明快に女性だと言える。
 かつて、僕には名前の分からない花がたくさん咲いた川岸を散歩していたとき、その美しい人は「でも、花って植物の性器みたいなものよね。ずっと見てると気持ち悪くなってくる」と淑やかに言った。

 それは、イエスでありノーであった。
 植物は動物ではないから。

 でも、それはノーでもありイエスでもあった。
 植物だって僕らと同じ生き物だから。

 そして僕は大袈裟なマスクの紳士が自転車に乗って通り過ぎるのを見た。
 彼は杉の花粉から身を守る必要があった。
 アメリカ杉の花粉。
 ノーでもありイエスでもあり、つまりそれはアメリカの精液のシンボルだと見なせないわけでもない。世界はあらゆるレベルでアメリカに侵入される。

 でも、実は僕は基本的にはアメリカという国が大好きです。

 友達が買って、早速飽きてしまったらしいi-podシャッフルをしばらく借りていたのですが、ここしばらく音楽を持ち歩くということをしていなかった僕にはとても新鮮な体験でした。それで今日買い取りました(まだお金払ってないけれど)。
 電車に乗っていて、窓の外をスムーズに流れていく夕暮れにTahiti80なんかが被さると、世界はロードムービーに変わり、すこしだけ優しい気持ちになれる。

 昔は部屋の中やどこかのお店や、いわゆるステレオ装置のあるところでしか音楽を聞くことができませんでした。でもソニーがウォークマンを作り、世界はヘッドホンから流れる極々個人的な音楽に満たされることとなった。
 これはとても素敵なことだと僕はとても大切な人に教わった。
 「東京駅に私の乗った新幹線が近付いていくとき、そのときちょうどヘッドホンからナイアガラトライアングルが流れてきて光景と音楽が完璧過ぎて涙が止まらなくなったの。こういうのって部屋でレコードを聞いてるだけの時代には絶対に起こらなかったことよ」

 僕は今や海でも川でも草原でも、そして時速300キロの新幹線の中ででも音楽を聞くし、そのうちには時速580キロのリニアモーターカーの中ででも好きな音楽を聞くようになるのだろう。

レインボー。

2005-03-09 02:08:34 | Weblog
 胃袋に紅茶を大量に流し込んだ後に、少しだけランニングをした。
 あまり体には良くないだろうけれど、でもまあ飲み物をたくさん飲んだ後に走りたくなることだってある。

 僕は比較的気が短いので、ランニングといってもゆっくりと長い時間を走ることができなくて、急にばーっと全速力で走ったりしてしまってペースも何もあったものではないのですが(でもまあブルース・リーはこういった走り方を推薦していました)、本当にたくさん紅茶を飲んだ後だったので流石に胃袋の存在感を感じてゆっくりと走ることにした。

 そういえば、僕が小学生の頃は「運動中には水を飲んではいけない」というのが常識だった。
 これはきちんと水分補給を行う現代スポーツからすると実に変な話で、常識というものは結構あっさりと覆るものだなと思った。

 今思えば水分補給をしないで運動を続けるなんて、誰がどうみても危険極まりない話だけど、当時の僕らはそれを信じていたわけです。
 今だってきっと訳の分からないことを沢山信じているに違いない。

 最近またフリッパーズギターばかり聞いています。
 世界には色々な音楽があって、そしてさらに毎日新しい音楽も生まれるけれど、僕にとっては多分もう永遠にフリッパーズギターのカラー・ミー・ポップを超えるアルバムはないのだろうという気すらする。

 それにしても新しいバイトで少しだけ気が重い。
 アルバイトをするたびに必ず「アルバイトをしないで生きることができたらなんて幸せだろう」と考えてしまう。

 告白すると、僕は新しい環境に馴染むのがあまり得意ではありません。
 これは、ついでに告白すると、最初の頃幼稚園に行けなかったことに既に象徴されている。
 たぶん、僕はとても小さな頃から転んでも誰かが起こしてくれるまで自分では起き上がろうとしないような甘ったれた子供だったので、こういうちっぽけな性格になったのだと思う。

 でもまあ、ちっぽけな性格でも嫌々ながらバイトには行くけれど。
 自分の上のポジションに人がいて、それであれこれと指図されるのが嫌いというか苦手なので、できれば小さくても自分の会社が欲しいと思う。


ローラが家にやってきた。

2005-03-08 01:46:03 | Weblog
 電車に乗っていると、僕の前の席にとても小さな子供を一人連れた家族が座って、そして何やら英語の練習を始めた。その子はまだ本当に小さくて、日本語の「赤」「黄色」「青」なんかをきちんと知っているのかどうかも分からないような年齢に見えたけれど、でも父親にホワットカラーイズデス(実際ひどい発音だった)と聞かれて、ちゃんと「イエロー」とか「レッド」と答えていた。

 そうしたやりとりを見ていて、僕はかつてロラン・バルトの言ったラングとスティル、エクリチュールのことを思い出した。

 ラングというのは所謂「言語」のことで、僕ら日本人にとっては「日本語」というものがラングに当たります。
 スティルというのは「文体」のことで、いうなれば僕らそれぞれの書き方や話し方の好みのことです。同じことであっても、異なった人が書くと違った文章表現になります。

 つまり、ラングというのはその人の言語表現を外側から規定するものであり、スティルというのは内側から規定するものです。

 エクリチュールというのは、これもスティルに似ていて「文体」なのですが、でもその人自体が選ぶものでスティルとは異なります。
 たとえば、自分のことを「僕」と呼ぶのを止めて「俺」ということにする。セールストークの口調。先生の口調。ヤクザの口調。そういったものです。
 そして、僕らは自分の使うエクリチュールをその都度、自分自身で選択することが可能ですが、同時にエクリチュールによって自分自身が変化するということも忘れてはなりません。言葉使いを変えると自分の思考形態や正確が変わるというのは比較的実感し易いことだと思います。例えば、今日から自分のことを「ワタクシ」ということに決めると生活が変わってしまいそうな気がすると思います。

 この時、僕は考えずにはいられない。

 「では、果して”日本語を話しているときの自分”と”英語を話しているときの自分”は同一であるか?」

 これはラングの問題であるが、しかしエクリチュールに関する考察から導かれる至って自然な疑問だと思う。

 

 

 

メアリーおばさんの日課。あるいはクッキーの焼き方に関する話。

2005-03-05 01:28:30 | Weblog
 昨日は京都造形芸術大学の卒展に行って、特に友達の作品から何かの影響を受けた。
 今日は伊藤若沖展に行って、展覧会にはなかったものの、すごい絵を見付けてその絵のポスターの付いてる本を買ってしまった。
 本当は色々なことを僕の頭が考えてくれているような気もするのですが、文章に書き下すことができない。明日は新しいバイトの2次面接があって、更にはその研修もあるので、多少気持ちが落ち着かないせいかもしれない。

 内田先生のブログを読んでいたら、夏に行われた集中講義で高橋源一郎さんが出された課題のことが載っていた。

 それは講義で取り上げた「舞姫」や「野菊の墓」「虞美人草」「金色夜叉」などの2004年バージョンを書きなさい、というもので、様々な設定が既に決まっているという制約の中で学生達は個性的な作品を提出した、という話で、僕の友人もその課題をやっていたので少し馴染みを感じる話題だった。

 この「制約の中で何かを作る」という話を読んで、僕は佐藤雅彦さんのことを思い出した。

 佐藤さんは”ポリンキー”や”バザールでござーる”なんかのCMを作った人で、今は慶応大で表現についての研究をなさっているのですが、佐藤さんが学生に

「垂直と水平の線だけで何かを表現せよ」

という課題を出したところ実にユニークな作品が制限時間内にたくさんできたのに対し、

「それじゃあどんな表現手段を用いても良いから何かを表現しなさい」

と課題を出すと制限時間を過ぎてもあまり作品が上がってこなかった、というのを読んだことがある。

 こういうのは経験的にも比較的スムーズに受け入れる事ができる。
 必ずしも束縛と自由というのは相反する訳ではないのだ。

 そして僕は、この現象が人生という流れ全体にも適応されるものだったらどうだろうかと考えた。
 それはきちんと考えてみる前から、どうやらこれは恐ろしいことではないか、と予感させるものだった。

 21世紀の初頭を生きている僕たちは「自由」に生きる事をまるで当然のこととして社会に要求するし、社会的な合意として「人は自由に生きるべきだ」というのはもう完全にできあがったイデオロギーになっています。

 でも、本当に自由に生きる事が人間のパフォーマンスを最大限に引き出したり、あるいは幸福な生活に繋がるのか、ということはそれほど吟味されていないように見える。

 昔、何かの本に、インドのカースト制度をみんな貶すけれど、実際のところは変な人生の迷いがなくて、自分の生まれながらにして定められた生き方を極めていく点で幸福なのだ、という話が載っていた。確かに色々な考え方がある。
 僕は誰がなんといおうと、極端な話、それが幸福へのルートではないとしても自由に生きる方がいいですが。
 (そういえば昔”職業選択の自由、アハハン”というすごいコピーがあった)

ジンジャーエールを飲む100の方法

2005-03-03 19:38:36 | Weblog
 朝起きて、ジンジャーエールをコップに一杯飲み干した。
 喉がチクチクするのを我慢して、ゴクゴクと飲み込んだ。

 それからCDプレーヤーに入りっぱなしになっていたフリッパーズギターを回転させて、洗濯機も回転させた。

 「線路を歩き、ジンジャーエールを飲む」

 と小山田圭吾は歌い始めた。

 「 what a nice day for a picnic
what a nice day to be happy like a honeybee ! 」

 甘々な歌詞が甘々なメロディーに乗り、僕はチョコレートまで齧りそうになった。

 そのとき、ミック・ジョーンズとジョー・ストラマーが言った。
 もしかしたら、ジョン・ロットンとシド・ヴィシャスだったかもしれないし、そうではないかもしれない。誰の声かはっきりしなかった。でも、とにかく声は言ったのだ。

 ノー フューチャー!

 それは日本語の発音だった。
 もしかしたら、言ったのはどのパンクロッカーでもなく17歳の時の僕だったのかもしれない。

 「いいや」

 僕は気にせずチョコレートを齧った。コルゲートで磨けば虫歯にはならないさ。

 ノーフューチャーでベルリンの壁でチェルノブイリであれもほしいこれもほしいだろ
 3コードで唾はいてボロボロの服でベース弾けなくて演奏は下手なほど真実味があって
 ギターは叩き壊してヘロインでコカインでピスでぐるぐる腕振り回して切れて血だすだろ?

 ピピピと音がして、洗濯機は脱水を終えた。 

 「いいや、僕はもうセブンコードだって押さえられるんだよ」

 まずは真っ白のシャツから干す事にした。