西海岸旅行記2014夏(51):6月21日、仁川国際空港、関西国際空港、死んだ家について

2014-10-10 18:30:43 | 西海岸旅行記
 飛行機は3列シートの真ん中だった。通路側は大柄な何人か良くわからないおじさんで、自分が大柄なのを分かっていて小さく座っている。いきなりヘッドホンとアイマスク。窓側は髪の長い韓国人の女の子で、本を読みながらいかにも韓国人っぽく舌打ちしてため息を付いている。もう飛行機の中は韓国だなと思ってほっとする。
 夜中に出発する長いフライトは、意外に楽だったし、一度目の機内食のあとは結構しっかりと眠った。機内食はビビンバにした。新しいロボコップがあったので見てみたら全然面白くなくて内容はほとんど覚えていない。一度だけトイレに行き、他は眠っていたんだか本を読んでいたんだか、気が付くと機内に明かりが灯って二度目の機内食だった。キムチご飯。

 仁川国際空港に着いたのは、朝6時過ぎで、まだ空港の中は半分眠っている。シャワーでも浴びようかとブースまで行ったが、開くのは8時。周囲のソファーでは旅人達が、旅の途上だし疲れているしもうどうにでもなれという感じで脚を投げ出してゴロゴロしている。僕は1軒だけ空いていたガラガラのカフェでコーヒーを飲むことにした。店には痩せた面長の女の子1人しかいない。先客のフランス人夫婦が「私達のコーヒーはまだか」とイライラしているが、女の子は平気で僕の注文を取り、そのあと渋々といった感じでフランス人のコーヒーを入れはじめた。彼女が僕のコーヒーを入れている途中に、別の店員の女の子が「ごめんごめん」と言いながらやってくる。遅刻したのだろう。

 コーヒーを受け取って席に座り、ラップトップの画面でブラウザを開いた。調べたかったのはソウルのホテルとAirbnbだ。今回は仁川にいてもトランスファーだが、とてもソウルに行きたい気分だった。僕はやっぱり韓国が好きなんだと思う。ソウルには二年前に行って、とてもいい街だと思った。どこがかは良く分からない。日本とほとんど同じじゃないかと言われたらそうかもしれない。昔、韓国人の女の子と付き合っていたことがあって、その影響もあるとは思う。けれど、もっと別の何かだ。僕はアメリカ人の女の子とも付き合っていたことがあるけれど、かといって今回アメリカにそれ程の親しみは感じなかった。これは恋人がどうとかそういう問題ではない。

 湿度の問題かもしれない。
 アジアの湿った雑踏と滑らかなカオス。
 そこから埋もれるように立ち上がる未来的建築とうごめくハイテック。

 色々なことを考えていると、4時間があっという間に過ぎて、僕は関空へ向かう飛行機に乗った。今度は一番窓際で隣の席は韓国人の女の子だった。英語が随分うまかったのでそう言うと「カナダに留学してた」と言う。誰もかれもがカナダへ留学している。妹がこの飛行機のどこかに乗っていて、一緒に大阪へ遊びに行くのだという。妹さんと変わろうかと聞いたが、別にいいというので、そのまま話をしていると50分はあっという間に過ぎ、僕達は関空に着陸した。大阪はひどい曇り空だ。「せっかく来たのに雨らしいからがっかりしてるの」と彼女は言った。


 日本。飛び交う言葉の全てがストレスフリーで瞬時に理解できて慣習を知り尽くした馴染みの国は流石にほっとする。ほっとするということは、同時に刺激がなくて詰まらないということでもある。日常へ返って来たというがっかりした気持ちが湧き上がる。京都駅までの特急電車「はるか」の出発時間まで、まだ40分くらいあったので僕は本屋へ入った。空港の中の本屋ゆえか、旅行関連の本が充実しているけれど、まあ別にそれはいい。パラパラと本を立ち読みして、手が止まったのは建築家、隈研吾の本だった。

《 ジュンコちゃん姉妹とは、年が近かったので、しょっちゅう遊びに行っていましたが、この家が境界人の僕にとっては、実に魅力的で、神話的ですらありました。どう魅力的かというと、そこで、農業という生産行為が行われていて、生き物がいて、生命が具体的にザワザワと循環していて、大地とつながっていたからです。
 二軒しか離れていなかったのに、僕の家や、その周りのサラリーマンの住宅は「郊外住宅」で、そこには生命の循環は感じられませんでした。僕の家も含めて、みんな「死んだ家」のように感じられました。
 郊外住宅がなぜ死んでいるかについて、「建築的欲望の終焉」を書きながら、じっくり考えました。郊外住宅は、どれも白っぽくて明るいのですが、その本質が暗すぎるから、無理して明るい色を塗っているので、実はみんな死んでいるのです。匂いもしません。
 ジュンコちゃんちは、いつも何かの農作業がおこなわれているせいで、いつ行っても匂いがしました。春には春の、夏には夏の匂いが、秋には最高にいい匂いがしました。一生分のサラリーを捧げて、住宅ローンで手に入れた郊外住宅は、何の匂いもなくて、みんな死んでいるようでした。 》
   ー 隈研吾「僕の場所」 ー 

 これだ。
 この本には、僕がアメリカで感じた寂しさのことが書いてあるような気がした。好きだったはずのモダン建築が並ぶ高級住宅街に感じた、冷たさと死の気配はサスペンス映画のせいなんじゃない。
 日本円が1000円しかなかったので、僕はクレジットカードをポケットから取り出した。日本へ戻ってきてがっかり落ち込んでいた気持ちは既に吹き飛んでいる。早くこの本を読みたくてドキドキする。
 旅は終わったりしない、できない。

僕の場所
隈研吾
大和書房

西海岸旅行記2014夏(50):6月19日、ロサンゼルス国際空港、僕は帰るのが嫌いだ

2014-10-10 12:27:10 | 西海岸旅行記
 左手に沈みゆく太陽。深まる夕暮れの中、湾岸道路を北上してロサンゼルスを目指した。音楽は掛けていないし、ラジオも点いていない。別に感慨に浸っていたわけではなく、iPhoneの音楽はチャイニーズ・シアターで全て消去していたし、ラジオも最初はいいと思ったけれど2日経つと同じ音楽ばかり流れていることが分かってウンザリだった。それに僕は音楽のないドライブが結構好きだ。車体の風切り音や、タイヤと地面が起こすノイズ、エンジン音。音ではないけれどイメージされる精巧なメカニズムと、そこら中に掛かっている強力な力、応力。1トンの物が時速100キロで走っていて、それをゴムタイヤの摩擦ごときで制御できているなんてウソみたいだ。
 雨の中でさえ。

 もっとも、今日もカリフォルニアの空は快晴で夕方の色合いだって光伸びやかなクリアネスはどこまでも。
 日本へ帰るのか。
 アメリカはどうしてかグッと来なかった。異国を訪れた日本人の典型のように、「日本はかなり過ごしやすい国だ」ということも認識した。僕のセンスはどうしようもなくアジア人で、アメリカの合理的できれいな街並みや店舗はどうにも寂しいことがわかった。僕が好きなはずの大きなモールやモダンな建物が、そればかりだとどうにも居心地悪いことも分かった。車は便利だし大好きだが、車社会は寂しくて、面倒くさくて乗りたくない電車に付随する「駅前」の雑踏が恋しかった。
 それでも当然のように、帰るのは寂しい。詰まらない。たった二週間のうちに旅行がすっかり日常になっていて、京都は既に夢の向こうみたいだ。

 帰る、という行為が僕はたぶん嫌いで苦手だと思う。
 旅行には終わりがあり、帰るという行為が宿命付けられている。だから僕は旅行が好きじゃない。きっと、今まであまり旅行へ行かなかった理由はこれだと思う。
 帰りたくない。戻りたくない。空間的にも状態的にも、僕は帰ることが嫌いだ。出たら、もう戻りたくない。軸付近を振動するような人生は送りたくない。振幅が一時的にどれだけ触れようとも、また戻るのは嫌だ。単調増加がいい。発散へ向かい単調増加。次数は高けりゃ高いほうがいい。

 どこかの国から飛んで来たり、どこかの国へ飛んで行く飛行機の姿が見えるようになる。道路標識にはLAX、ロサンゼルス国際空港の文字が読める。10日間お世話になったこのフォルクスワーゲンともそろそろお別れだ。フリーウェイを下りて、目に付いたガソリンスタンドでガソリンを入れる。前にも書いたように、僕のカードは機械に通らないのでわざわざ下りてレジまで行かなくてはならない。空港の近くのスタンドだからか、売店のレジははじめてみるような行列だった。並ぶしかない。
 ガソリンを入れ終えて、レジでお釣りを貰い車に戻ると、ホームレス風の男がやって来た。

「乗せてくれないか」

「駄目だよ、悪いけど」

 彼はあっさりと僕の車を離れ、次に隣の車を当たった。どこへ行きたかったのだろうか。

 エイビスのレンタカー返却場所をまだ調べていなかったので調べたところ、空港からはちょっと距離のある場所だった。時間にそれほどの余裕はなくなっていたので少し焦る。マップに目的地をセットするのが面倒だったので、「まあ分かるだろう」とスタンドを出たものの、道はやや入り組んでいて分かりにくい。間違えて空港の方へ入りそうになり、グルっと出てくればいいかと入ったのが失敗だった。予測してしかるべきだし、クミコを送ってきた時にもそうだったわけだが、空港の中は渋滞していてこっちへ行きたい車とあっちへ行きたい車が交錯しひどいことになっている。

 やっと空港を抜けて、レンタカー返却の道路サインも見付け、エイビスの返却上へ着いた。入り口には例によって、「入ることはできるが出ることはできない」曲がったスパイクが敷かれている。
 返却自体はあっさりしたものだ。係の女の子がやってきて車の窓に白いマーカーで何かを書く。それから携帯端末を操作してレシートをくれて終わり。

「空港へはどうやって行くのかな?」

「あそこからシャトルバス出てるわよ」

 バスには15人程の乗客が乗っていた。出発してしばらく、空港が近づくと運転手が「みなさんどこの航空会社に乗るか教えてください」と言う。アシアナに乗るのは僕1人だった。みんな疲れた旅行者なのか、バスの中は静かだ。誰かのスーツケースが車内を滑って、それを止めて上げたおじさんに持ち主の女の子がお礼を言う。会話はそれくらいで、バスはすぐに空港へ入った。

「アシアナはここだよ」と運転手がバスを駐めて、僕はバスを下りた。

 自動チェックインの機械にアシアナは入ってないのでカウンターへ向かう。アシアナは韓国のエアラインでカウンターに並ぶ列には韓国人が多い。飛び交う韓国語を聞くとちょっとホッとする。チェックインが済むともっとほっとした。なんだかんだ言って、帰りの便を間違えていることに気付いたのは6時間前なのだ。
 改装したのか、やけにきれいな空港の中を一巡りし、それから僕はソファに座ってやっぱりラップトップを開いた。

西海岸旅行記2014夏(49):6月19日、ソーク研究所、陰影の鋭い突然の終幕

2014-10-09 23:08:22 | 西海岸旅行記
 少し店を見て回ったあと、僕達は結局"SUSHI ROCK"という日本料理屋へ入った。ここは変な名前だからずっと前に通った時から気になってはいたとマックンが言う。店内は若干の高級感を出そうとした作りだったが、定食があったのでトンカツ定食を頼む。店はビルの2階にあって、窓の外にはラホヤの美しくリゾート地らしい通りと爽やかな建物、その向こうには海が見えた。昼下がりの太陽はどこまでも明るく、外のテラス席で直射日光に照らされたまま食事をしている人達が信じられない。
 運ばれてきたトンカツ定食にはカリフォルニアロールも付いていた。スシ・ロックというだけのことはある。外の景色にまったくそぐわないトンカツ定食は、日本で食べるのと同じ味で美味しかった。カリフォルニアロールを飲み込んでマックンが言った。

「洞窟を見るという目的は達成したけれど、これからどうしようか?」

 まだ昼下がりで、僕達には午後が丸々残されていた。

「そうだなあ、これといってしたいこともないような、そういえば6時位から近所の情報系の大学でデジタルアート系の舞台があるってネットに出てたような」

「あー、大学といえば、大学じゃないけどソーク研究所も近くだよ」

「ソーク研究所は見ときたい」

 あれっ?なんだろうこの胸騒ぎは。
 背骨の周りが急にソワソワする。僕は急いでiPhoneのメールボックスを開いた。探しているのは航空会社のメールだ。

「あっ、ヤバい」自分の間抜け具合が恐ろしくなる。

「帰りの飛行機、明日の夜中12時半じゃなくて、今日の夜中12時半だった。。」

 夜中まで起きていることが当たり前過ぎて、いつの間にか僕は午前1時とか2時は「その日の夜中」だと勘違いしていた。当たり前だけど、「その日の夜中」ではなくて、「その日起きる前の朝」だ。今日は19日だから、20日午前12時半は今日の夜中で明日の夜中じゃない。完全に1日勘違いしていた。旅行の予定を立てた最初の最初から勘違いしていた。レンタカーは飛行機のチケットを買ったすぐ後に日本から予約しているが、そのとき既に1日長く予約している。マックンにもずっと3泊させてもらうお願いをしていた。違う2泊だ、僕は今日の夜飛行機に乗って日本に帰るのだ。まさかこんなバカな間違いを自分が犯すとは驚きだった。胸騒ぎがしてくれて良かった。

「じゃあ、もうあまりゆっくりはしてられないね」

 食事が済んだ後、海沿いをグルっとして車に戻ってラホヤを出た。フライトは夜中だし、ここからカールスバッドまで1時間、そこからロサンゼルス国際空港まで1時間、プラス渋滞やなんやかやを1時間入れて合計3時間あれば空港には着くだろう。10時に空港に着くようにしたとして、ここを7時に出ればいいわけだから、まだ4時間くらいの余裕がある。
 とはいっても、急に今夜帰ることになったのであまり落ち着いてはいられなかった。最後の余韻もあったものじゃない、不意打ちのオウンゴール。何が6時から舞台があるだ、見てたら大変なことになっていた。

 時間を考えて、ソーク研究所にだけ寄って、それからカールスバッドのマックンの家で荷物をまとめ空港に向かうことにした。
 ソーク研究所というのは、生物系医学系の私設研究所だ。カリフォルニア大学サンディエゴ校の隣に立っていて、建物はルイス・カーンが設計した。ルイス・カーンはドキュメンタリー映画で「神の建築家」という呼称まで使われていたが、ブルータリズムの名にふさわしく彼の建築は人を寄せ付けない凛とした高潔な緊張を湛えている。そしてどこか神聖だ。そういうものが人間の使う建築として優れているのかどうかは知らないが、造形は寂しく禁欲的なのに肉感が艶かしい。

 「あれ、前来た時はここから先閉まっててて入れなかった、ここも入れるんだ」

 マックンは一度来たことがあるらしい。前回より先まで進めるということで、連れてきてもらった身としても嬉しい。
 ソーク研究所の中庭はルイス・カーンの友達だったルイス・バラガンの助言によるものだという。
 完全な平面になっているコンクリートの地面を想像しよう。平面の左右両サイドには、四角い箱みたいに幾何学的な2階建ての建物が立っている。その建物は規則的に僕達に対して45度傾いた壁を突き出している。平面の真中には、縦に細い水路が走っていて、水路に沿って足元から遠くへ視線を動かしていくと、平面は突然直線的にスパッと終わる。その向こうは海だ。平面と両サイドの壁が作る直線的エッジが収束する向こうに、水平線と空が見える。

 まあ、きれいな造形ではあるが、寂しい建物だと思う。静かで生命の躍動を感じない。排他的で何かが阻害されているような気がする。まあ実際に阻害されて僕達は建物内部に入ればいわけだが。
 少しすると閉門の時間になった。警備の人がゲートを閉めるから出るようにと言う。
 表へ出て、車に乗ってカールスバッドまで戻る。マックンの部屋で小休止して、荷物をバックパックに詰め込んだ。
 彼の部屋を出たのが何時だったのか良く覚えていない。駐車場までマックンは一緒に出てきてくれて、車の窓からバイバイを言う。

「色々ありがとう、楽しかった」

「またどうせすぐ会うだろね、どこでかは分からないけれど」

 レザーマンのツールセットは、ナイフも付いていて飛行機に持ち込めないのでマックンに上げた。来るときはクミコの悩ましいキャリーバッグに入れて預けていたのだが、帰りはすっかり忘れてポケットに入れたままだったのだ。航空会社のカウンターでナイフだけ預けることもできるとかできないとかいう話で、その制度を試せばいいのかもしれないが、ナイフを友達に上げるというのは男らしく気分の良いことにも思えた。

西海岸旅行記2014夏(48):6月19日、ラホヤ、輝く街と謎の洞窟

2014-10-08 21:46:49 | 西海岸旅行記
 翌日は昼過ぎに起きて身支度した。今日はマックンも休みなので、2人でどこかへ行こうということになる。僕の観光に対する熱意のなさは彼も了解済みだ。

「カールスバッドはレゴランドが有名だけど、まあ行かないよね」

「そうだね、行かないね。どういうとこ行きたいかな。もう海はいいから湖とか、山とかない?」

「うーん、海と反対の方は砂漠だからね」

「あっ、じゃあ洞窟とか」

 僕は洞窟が好きだ。周辺の洞窟を探してみると、ラホヤという街に海へ続く洞窟があるという情報が出てきた。入り口は、ギフトショップの建物の中らしい。

「あー、そういえばなんかそんなの聞いたことあるよ。行ったことないけど」

 そうして僕達はラホヤへ行くことにした。
 ラホヤは、サンディエゴの少し北にある海辺の小奇麗な街だ。カールスバッドからマックンの車で1時間ほど。風光明媚というのはこういう街を指すのだろう。道路沿いの駐車スペースは結構埋まっていて、駐められるところを見つけるのに少しだけ街をグルグルしなくてはならなかった。
 車を駐めたところが、たまたまラホヤ現代美術館の前だったので中を覗いてみた。展示はあまり興味のあるものではなかったので、ショップだけ見て出る。美術館自体は小さくてモダンで爽やかで、ラホヤの街を象徴しているかのようだった。ラホヤ(La Jolla)はスペイン語の「宝石"la joya"」が鈍って出来た名前だとも言われている。かつて住宅平均価格がビバリーヒルズを抜いたこともあるリゾート地だが、しっとり落ち着いていて明るく賑わっているのに煩くない。

 もう昼の2時を回っていて、二人共空腹だった。海岸を洞窟の方へ歩きながら、目ぼしい店があれば入ることにする。海ではアザラシが海水浴場の人々に交じるかのような近さで泳いでいるし、相変わらずリスは穴から穴へ走り回っている。カモメも雛を育てていた。道路では人々が寛いだ出で立ちで歩いている。立ち並ぶ家やホテルは作りも色もきれいで、海に面する芝生の広場には樹々が木陰をしっかりと作っていた。
 この街はかなりいい。

「あっ、あれじゃない?」

 マックンが目をやる先に、ネットで見た洞窟の入り口になっている店があった。

「じゃあ、見てからランチでいいか」

 中へ入ると小さな建物で、入ってすぐ斜め右に洞窟の入り口があった。これはなかなか奇妙な眺めだ。普通のちょっと小綺麗な土産物屋の中に、開け放たれたドアがあって、その中は岩がゴツゴツした洞窟になっている。まるで「どこでもドア」が時空をねじ曲げているかのようにそこだけ異質だ。
 料金を土産物屋のレジで払ってから洞窟に入るシステムらしい。レジで「どうだ!」というような顔をしているおじいさんに入場料を払うと、「君はなんでそんなクレイジーな金髪なんだ」と言われる。僕の金髪はウィッグでスーパーに金髪なので日本では良く不思議な顔をされるけれど、まさかアメリカでこんなことを言われるとは思わなかった。

「あっ、これはカツラなんです」

「え! ほんとに」

「そうそう、それでなんでこんな金髪を選んでいるかというと、単純にカッコイイと思ってるのと、あと日本では金髪だとまともに働けないので、それでも生きていけるように強くなろうと思ってこうしてます」

「そうなのか、それすごいカッコイイよ、オレも欲しい、もっと若く見られたい」

「若くなんてしなくても、今のままでカッコいいですよ」

 洞窟の中は階段になっていて、海に続いているせいかじっとりと湿っている。ところどころは水溜りになっていて、足元に注意しないと靴が濡れてしまう。土産物屋の立地からも想像でできたけれど、洞窟はあっさりと短いものだった。階段を下り切ると、もう海面のレベルで、海に向かって開いた口をバックにしてプロっぽいモデルの女の子がプロっぽいカメラマンに写真を撮られていた。なんとも日常と地続きだ。唯一、非日常的なのは、手摺が壊れていて、その上に結構大きな岩がのっかっていたことだ。上を見上げるといかにも新しい剥離跡があった。こんな危ないところにお金払って入ってる場合じゃないねと、僕達は洞窟を後にする。

 階段を登って洞窟を出ると、さっきのレジのおじいさんがまた話し掛けてきた。

「ところで君たちどこから来たの? 君の髪は本当にカッコイイな」

「日本です、そして日本には同じカツラいくらでも売ってますよ」

「おー、日本か、オレは日本が好きなんだ」

 レジの奥では若い女の子が2人「またはじまった」というような目配せをこっちに飛ばした。

「ほんとに、適当に言ってるだけじゃないんですか?」

「いや、ホントだって、たとえば、ボンサイ。ボンサイとか好き」

「他には?」

「えっと、他は、うーん」

「ほら」

「ホントだってば、ちょっとこっち来て」

 彼は立ち上がると僕達を店の裏へ案内した。そして、ちょっと離れたところに立っている家を指さした。

「あれは、オレが自分で建てたんだ。日本風だろ」

「えー、ほんとにあれ自分で作ったんですか!」

 その家だか小屋だかはとても素人が作ったとは思えなかった。良くできている。そして、庇の形が確かに日本の神社のそれに似ていた。彼は本当に日本のある部分が好きなのだろう。生まれてからずっとこの街を出たことがない、いつか日本に行きたいと彼は言った。それから握手をして別れる。
 僕達の空腹はそろそろ限界だった。ランチの場所を探しながら、マックンが軽口を叩いた。

「あの家、おじいさん自分で作ったって言ってたけれど、すごい良く出来てたじゃん。なんとなくだけど、もしかして、あの洞窟も自分で掘ったんじゃないのかな」

 まさかとは思うが、あのおじいさんなら有り得る話だった。期待はずれなような、危ないような、インチキのような不思議な洞窟は、今日もあのおじいさんに守られているのだろうか。

西海岸旅行記2014夏(47):6月18日:カールスバッドの長く短い夜

2014-10-07 20:01:57 | 西海岸旅行記
 ミッドウェイ博物館を出た後、どこか気分の良さそうなところでゆっくり書物でもできないかと思っていたが、海沿いは大抵だだっ広くて日光もきつい。なかなか良さそうな場所がないので、面倒になってカールスバッドまで戻った。お腹が空いていたのでクッキーを買ってマックンの部屋に戻る。書物をするならここが一番いい。結局1時間もしないうちにマックンも帰ってきて、夕飯に出ることにした。

「何がいいかな?」

「まあなんでもいいんだけど、結構日本食とかがいいかも」

「それだったら、僕が同僚とランチに行きまくってる日本食の店あるから、そこ行こうか」

 彼のチームは、インド人とか中国人とか、主にアジア人を中心にして構成されているのだが、中華の店もインド料理の店も色々と回って、結局はその日本食の店に落ち着いたらしい。実際に行ってみると、繁盛しているカジュアルなお店だった。適度に広くて眺めもいい。店の人は日本人で、客の多くは地元の人だと思う。僕もマックンも焼き鯖定食を注文した。8ドルくらいで、日本の定食屋と同じ感じのものが出てくる。
 おいしい。
 僕はさっきかなり大量にクッキーを食べていたので、夕飯なしでもいいかと思っていたくらいだが来て良かった。

 もう間もなくこの旅行は終わってしまうけれど、実は残りの滞在や機内食では僕は一切欧米っぽいものを食べていない。日本食か韓国料理だけ。それ以外の食べ物は全然食べたくなかった。
 これには自分でもかなり驚いた。
 まず、僕は「食べ物は興味ないし栄養があればなんでもいい」と普段公言しているし、加えて日本にいるときだって日本っぽい食べ物を食べるよりは外来の食べ物を食べることの方が多い。海外に行くと日本食が恋しくなるとか、訳の分からない一昔前の迷信だと思っていた。
 でも、迷信ではなかったのだ。このとき食べた焼き鯖定食は本当においしかった。翌日食べたトンカツ定食も、機内食のビビンバもプルコギも。パンとかパスタではない、米食圏の料理が骨身に染みておいしかった。くそっ、これじゃまるでコンサバティブな老人じゃないか、と思うけれどそうだった。

 満腹になった僕達は、近所のスーパーマーケットへ寄ってチーズやビールやウィスキーを買った。明日はマックンも休みで、特に時間の制限はない。お酒を飲みながら、彼はもう免許取得間近のセスナについて色々教えてくれた。

「アメリカの怖いところはさ、セスナの免許取る学校に入ったら、別に何にも申し込んだりしてないのに、勝手に家に”セスナ学校補修コース”とかシュミレーターのパンフレットが送られてくるようになって、免許取れる時期になって来たら、今度は勝手にこういうの送られて来る」

 マックンは僕の前に何冊か、セスナ機やセスナ機グッズの載ったカタログを広げてくれた。個人情報は駄々漏れというわけだ。
 その後、テキストなんかと一緒にパイロットの使う地図を見せてもらった。
 空に空域という概念があって、たとえば空港の周囲を勝手に飛んではいけないとか、色々決まりがあるのは知っていた。でもここまでとは思わなかった。
 見せてもらった地図によれば、空はびっしりと空域境界で仕切られていて、「空を自由に飛ぶ」なんて概念からは程遠い。

「えっ、こんなに細かく分かれてるの?!」

「そうだよ、今はiPadのアプリとかあるから便利だけど、ちょっと前まではこれを頭に叩き込んでたんだね」

 彼は学部時代から車も買い替えたり改造したり、持ち物も大抵のものはいいものをサラッと揃えていて、なんでも上手くこなす優秀な男だったが、ついにセスナを操るようになった。
 身につまされる。僕も空を飛びたいとずっと思っていたのだが、未だにパラグライダーすらやったことがない。
 足元を見ないでぼんやり口にしていただけということだ。
 「いつかアメリカで研究生活」というのと同じように。
 マックンは「僕は社会の歯車でいいから」と就職したかと思うと、あっという間にアメリカで研究生活を送るようになった。そして、セスナで空を本当に飛びまわる。さらに僕が途中でやめてしまった博士号も、彼は就職してからの研究であっさりと取得。
 なんとも歴然とした差だが、まあそれはそれだ。

 今の研究の話も色々聞かせてもらった。二人共バックグラウンドは電子情報で専門が物性なので、話はしやすい。
 思い出話もいくらでもあった。
 時計が1時を回ったのは二人共覚えている。
 しゃべり続けて、「あれっ、外明るくない?」と時計を見ると朝の5時を過ぎていた。

 「えっ、ウソ、まじか?!」

 「やばいな、こんなの久々だ、とにかく寝よう」

 実は、マックンとは2人で行動したことがそんなにはなかった。大抵イマムラ君がいて3人で動くことが多かったので、今回も「泊めて」というのには多少の遠慮があった。けれど、泊めてもらって本当に良かったと思う。友達は本当に大事だと思った。かなり照れくさいことだけど。

西海岸旅行記2014夏(46):6月18日:サンディエゴ、空母ミッドウェイの乾いた午後

2014-10-07 15:27:36 | 西海岸旅行記
 翌日、僕は昼前まで寝ていて、起きたらマックンは既に会社へ出掛けていた。部屋は3階で、バルコニーの向こうは適度に開けている。落ち着いた昼前のアパートメントの影と、樹々の囁き、それからプールの水音。
 昨日の夜、マックンにいくらか観光スポットを教えてもらったけれど、この心地良い部屋に1日いても良いような気分になる。実際、僕の観光に対する熱意は極めて低く、「意外。去年、イマムラ君が遊びに来た時、あのイマムラ君でさえかなりハイテンションになってアメリカ堪能してたけれど」とマックンも驚いていた。イマムラ君は僕達の共通の友達で、「なんで死ぬ危険を冒してまでみんな飛行機とか乗るんだ、行くなら船で行けば、頭おかしいんじゃないの」というような人間だ。彼が去年マックンの所まで遊びに行ったことは知っていたし、帰国直後、当の本人から「リョウタ君、絶対アメリカ行ったほうがいいって。絶対アメリカ好きだと思う」と、かなり力を入れて言われた。イマムラ君とも僕は長い付き合いなので、彼が言うのであればきっと僕もアメリカは気に入るだろうと思っていた。

 大体イマムラ君に言われるまでもなく、僕はアメリカが好きなはずだったし、今回だって「移住したいかどうか」という見極めの為に来たのだ。それも「ほぼ住みたいには違いないが念の為」という感じで。
 ところが、どうやら僕はアメリカに来てあまり元気がなかった。期待が大きすぎたんじゃないか、と言われたらそうなのかもしれない。自分でも予想外のことだった。

 観光はもういいな。
 今日はここで書物したり、何かを読んだりしていようか。
 何をするにしても、とりあえずシャワーを浴びよう。
 
 シャワーを浴びると、どこかへ出掛けてもいいような気になってくる。
 空母だけ見に行こうか。

 カールスバッドから更に南へ1時間ほど行くとサンディエゴで、サンディエゴにはミッドウェイという空母がそのまま展示されている。僕は大きな船が好きだし、そんなもの人殺しの道具じゃないかと言われても空母には興味があった。昼食に、カバンへ幾つか放り込んであったエナジーバーを齧って水を飲み、僕はマックンの部屋を出た。自由に使ってくれていいと、鍵はスペアをもらっていたので戸締まりはそれで行う。

 もうすっかり見慣れた海岸沿いの景色が、気付くと都市の顔になっている。サンディエゴはカリフォルニア州第二の人口を擁する大きな都市。メキシコとの国境はすぐそこで、もともとスペイン領なので地名もスペイン語が多い。空母が展示されていることからも推測されるように、米海軍の基地の街でもある。
 空母ミッドウェイ博物館の前にある駐車場はたくさんの車でほとんど埋まっていた。駐車料金10ドル。ずっと奥の方まで車を進めるといくつか空いているところがある。ここも、これでもかという炎天下の駐車場で、車を下りて周囲を見渡すと、海、デカい空母、そして都市。どこだって、海辺の都市は羨ましいばかりの美しさだ。

 20ドルでチケットを買って、いよいよ空母の中に入った。入り口でいきなり押し付けの記念撮影があった。例の写真を撮っておいて気に入ったら後で記念に買わせるやつだ。どうでもいいし、だいたい1人なのでそんなことしても仕方ないと思ったが、万が一この空母見学が素晴らしくてテンションが上がったときのために撮ってもらった。もちろん、あとでこの写真を買ったりはしなかった。

 空母の中には簡単なフードコートみたいなものもあるし、ギフトショップもある。もちろん、空母や戦争にまつわる様々な展示が行われていて、甲板に出ると数々の戦闘機が置いてある。駐車場がほぼ満車だったように、空母の中も観光客とか家族連れで賑わっている。
 けれどまあ、別にそれを見たからといってどうってことはない。
 ここ数年感じていて、さらにこの旅行の後半から確信しはじめたことだが、別にどこかで何かを見ても99%はどうでもいい(1%だけ度肝を抜かれるものがある)。見ているだけでは大抵なんともない。自分がそれを作るとか、オペレーションに参加するとか、そういうことにならないと楽しくはない。この空母もさらっと見て、「ふーん」と言ってそれで終わりだ。

 全長296メートル。いくら大きいと言っても30分もあれば空母の中は一回りできる。帰ろうかと思った時に、無料の内部ツアーが目に付いた。空母の格納庫やデッキは自由に見れるが、内部の居住空間や司令室などは20人程度のグループでガイド付きで回るようだった。せっかくだし、この後の予定もなかったので見ていくことにする。
 前のグループが空母や注意事項についての簡単なレクチャーを受けている間、僕は他の観光客に混じって列に並んでいた。老人のグループから幼稚園児を連れた家族まで、年齢層は広い。並んでいる通路にはモニターがいくつか吊られていて、観光客が退屈しないように空母の説明動画のようなものが流れている。当たり前だけどどんなものがあったところで待つのは退屈だ。僕の後ろに並んでいた家族連れの小さな女の子はしじゅう「早く帰りたい」とブーブー言っていた。

 10分もしないうちに、僕達の番が回ってくる。レクチャーをしてくれるのは、ここでもおじいさんだった。カリフォルニアサイエンスセンターでも、この船の上でも、たくさんの老人がボランティアをしている。この空母博物館はNPOで管理していて、払って頂いたチケット代も船の修繕などに当てている、というような話を彼ははじめた。
 ミッドウェイ博物館は、海に浮かべた空母そのものが博物館の建物であり展示でもある珍しい博物館だ。開館したのは2004年。ミッドウェイ自体は1945年から1992年まで現役だった。その半世紀の間にベトナムも湾岸戦争も経験している非常に古い船だ。レーダー設備の説明などをするときも、ガイドのおじいさんは何度も「これは旧式だけど」と口にした。現行の原子力空母に比べてどれだけアホみたいに燃料がいるかとか、とにかく「この船は古いから空母はこういうものだとは思わないでくれ」という感じの口ぶりだった。

 一頻り彼の話が終わり、「何か質問は?」となったけれど、誰一人手を挙げず、なし崩し的にレクチャーは終了する。

「最後に、船のなかは非常に狭く、階段も急なので、頭をぶつけたり転んだりしないように動くときは絶対に動く方を確認してから動いて下さい。バックパックを背負っている人は、背中に背負うのではなく前に背負うことを強くオススメします。では行きましょう!」

 たぶん、古いとはいえ本物の空母の中を見るのは貴重な体験だったと思う。司令室から通信室、レーダー、食堂も厨房もキャプテンの個室も一通りのものは見ることができる。設備はいろいろと揃っているし、「すごい、こんなものまで」という驚きの声も聞かれたが、実際にこんな船に何ヶ月も乗っていたら気が滅入るだろう。要所要所で「はい、みなさん集まって」と繰り広げられるおじいさんの話が結構長いので、段々と退屈してくる。僕達のツアーチームは、段々と「興味があるのかないのか熱心に話を聞いているシニア層」「退屈にしている子供をなだめて話を聞かせているファミリー層」「あからさまに退屈している僕とヒスパニックの女の子2人」の3つに分かれてきた。自然と僕達3人は最後尾に固まって移動する。

 ツアーから開放され車に戻ると、炎天下の熱気がしっかりと車内を熱していた。エアコンを全開にして、一旦車を下りる。隣には中国人のファミリーがワンボックスを駐めて、各々がクーラーボックスからペットボトルを取り出していた。空母は本物だがすでにリアルではなかった。

西海岸旅行記2014夏(45):6月17日:カールスバッド、巨大資本チェーンと地方と再会

2014-10-06 18:10:09 | 西海岸旅行記
 パサデナを出てから、悪名高き世界最大のスーパーマーケット、ウォルマートへ寄った。
 ウォルマートは一時期、出店地域の小さな店を壊滅させることでかなり批判されていた。出店計画を発表すると地域住民が反対運動を起こしたりする。僕は、こういう批判には反感を持っていた。地域に根ざした昔からの商店街なんかが潰れるのは、そこに魅力がないからだ。

 日本の、どこか知らない街に初めて下り立った時、駅前の商店街を通ることがある。一見レトロな雰囲気が魅力的に映ることもあるが、中へ入れば大抵の商店街は死んでいる。別に近所にイオンモールができて価格競争に負けて死にそうになっているわけではない。店はレトロも何も、ただ手を入れるのが面倒で昔のまま放置されていて、店先に並べてある商品もいつ仕入れて誰に向けて売っているのかわからないようなものばかりだ。廃れていくだろうという諦めしか感じられない。駅前という地の利だけで食べていてそこに胡座をかいていたツケだ。駅前にあるのに廃れていくというのは、商店街の店にどれくらい魅力がないのかを端的に表わしている。こんな便利なところにあるのに、誰も寄り付かない。「昔ながらの商店街が素敵」という人は、本当にこんなとこで買い物してるのだろうか。

 そんな店より、たとえビジネスの歪が見え隠れしようが、どんどんと新しいアイデアを展開してくる大資本の店が魅力的なのは当然だ。大型スーパーは人情がない。商店街には会話と人間味が溢れている。みたいな話はどうでもいい上にはっきり言ってウソだ。別に大型スーパーの中でだって人と人のコミュニケーションは禁止されているわけではないし、実際に常連のおばあさんとパートのおばちゃんが話をしたりもする。商店街は外で立ち話だけれど、大型店は全館エアコンが効いていて休憩スペースもある。

 それに、日々の買い物とコミュニケーションは切り離したい人だって多いのではないだろうか。僕だったら、大根を買いに行くたびにいちいち「今日は暑いですね」とかどうでもいい話をしたくない。特に疲れていてさっと買い物を済ませたいときに、いちいち話掛けられたら堪らない。人々の言う「人間味溢れるコミュニケーション」というのはこういうものなのだろうか。別に買い物と「コミュニケーション」をセットにしなくてもいいのではないだろうか。だいたいそんな会話上辺だけだ。それよりも、安くて便利な「人情味のない」買い物であれこれ買い込んで友達のパーティーに行く方が何倍もいい。コミュニケーションはパーティーの方で取る。
 シェアハウスだって同じだ。住むのはプライバシーの確保された家に住み、コミュニケーションはどこか別の場所で取る。バーでもカフェでもパーティーでもクラブでも何とか教室でも道端でも、人とコミュニケーションを取る機会や「出会い」とかいう安物は、そこら中に溢れている。
 僕は「出会い」とか「つながり」とか言わない人と、たくさん出会って繋がっているし、そういう関係でないと気持ち悪い。

 ちょっと話がずれた。
 小さなショボイ商店街より大型スーパー万歳だった僕も、今回アメリカで同じようなチェーン店しかないことにウンザリした。だから今は、これからどういう風になって欲しいのか良く分からない。やる気のある小さな素敵な店がたくさんできれば良いというわけでもないような気がする。

 ウォルマートで少し買い物をしてから海沿いへ出てパシフィック・オーシャン・ハイウェイを南下する。1時間半程南へ下がったカールスバッドという街に友達が住んでいて、今日は彼の家に泊めてもらう予定だった。ロサンゼルス中心街から離れていくせいか、建物も減ってビーチも開放的で、人も少なくなっていく。太平洋は当たり前だけどだだっ広く広がっていて、落ち着いた雰囲気がなんだか寂しい。
 考えてみればカルテクに行った時から既にそうだったのかもしれない。僕は一人旅ができないので、1人で観光のようなことをしてもどんどんと気が滅入ってくる。休憩がてらに展望ポイントで車を駐めて、海岸沿いにいるリスや海を眺めていても、基本的には感傷的な気分が深まっていく。何か特別な目的でもない限り、僕には1人で出掛けたい場所がない。

 この沈んだ気分は、友達の家の近所にあるモールで最高潮を迎えた。
 彼は、マックンという名前で僕の京都での修士時代同期。かなり優秀な男だ。ある企業の研究所に入ったかと思えば数年前に「なんかカリフォルニアに行くことになったよ」と言ってアメリカへ引っ越した。夕方には仕事が終わるということだったので、少し早く彼の家の近所に着いた僕はモールで時間を潰していた。シネコンが改装中の寂れたモールだった。広いけれど人がほとんどいない。別に買い物をするつもりもなかったけれど、こういう時アメリカの地方都市ではモール以外に行くところがない。アイスクリームか何か食べるつもりが、照明さえ薄暗いような寂れたモールの中では注文する元気もなかった。

 結局、ソファに座ってラップトップを開くことになる。幸いにも30分もしないうちにマックンから電話が掛かってきた。アメリカのうらぶれた地方のモールでマックンからの電話を取るのは不思議な気分だったがほっとする。家の詳細な場所を教えてもらって、彼が帰宅するころを見計らい家へ向かうことにした。
 モールを出て、しばらく車を走らせると、広い道路の道端に見慣れた姿。実は先月大阪で会ったばかり。

「いやいや、良く来たね」

「もちろん、3日ばかり宜しく」

 流石というかなんというか、彼の住んでいるアパートは家賃20万弱でプールもジムも付いていた。京都の基準では、部屋自体が20万円分の広さに相当するかどうかは分からないけれど、この辺は安全な地域で家賃が高いのだという。

「別のもっと安いところもあったけれど、一応安全を買ったよ」

 部屋の中を一通り案内してもらって、「今日だけは僕に奢らせて、いかにもアメリカなレストラン行こう」と、いかにもアメリカンなデカいレストランへ連れて行ってもらった。定番のイカフライをはじめあれこれ食べて10種類の地ビールを飲み比べる。ふと我にかえると、京都からうんと離れたアメリカの地方都市で、こうして2人でご飯を食べているのが夢のように不思議だった。それだけで何が起こるか全然予測不可能な僕達の人生にクククと笑いが込み上げてくる。

西海岸旅行記2014夏(44):6月17日:カリフォルニア工科大学、残り物のピザを食べる

2014-10-06 00:31:17 | 西海岸旅行記
 翌朝、寝不足の体にシャワーを浴びてホテルを出た。11時にはロサンゼルス国際空港にクミコを送り届けなくてはならない。駐車場のフォルクスワーゲンは無事だった。オッケー、これでこの若干危なっかしいホテルはクリアだ。今日もロサンゼルスの空はこれでもかという快晴で、寝不足の頭脳には光がキツイ。昨日の残りのコーヒーを紙コップからガブガブと飲んで、サングラスを掛けた。
 少しだけ時間があったので、トレーダー・ジョーズへ寄って、クミコがこまごまとお土産になりそうなものを買う。ちなみに、僕はお土産をまったく買わない質で、昔は恋人の誕生日プレゼントすら買わなかった。人に物を上げて喜んでもらいたいという感覚が欠如しているのだと思う。もしもみんなが演技や建前でなく生きているのであれば、僕はいくつかの点で「人間味」だとかいうのを欠いた存在なのかもしれない。

 手荷物検査の列に吸い込まれていくクミコを見送り、駐車場へ戻ってすっかり愛着の湧いてきたフォルクスワーゲンに乗った。ドアを閉めるととても静かだ。助手席に誰もいないのは変な感じがした。クミコとは10日間ずっと一緒だったので流石に少し寂しい。エンジンを掛けてエアコンを入れる。それからiPhoneを取り出してグーグルマップを立ち上げた。目的地はカリフォルニア工科大学。

 カリフォルニア工科大学、通称カルテックは憧れの大学だった。リチャード・ファインマンもここの教壇に立っていた。トランジスタを発明したショックレーもここで教えていたし、インテルを興したムーアもここの大学院生だった。クォークというアイデアを提出した理論物理学者ゲルマン。フラクタルを提唱したマンデルブロ。電気素量を測ったミリカン。それから倫理的な問題をさておきロスアラモスでマンハッタン計画を主導したオッペンハイマー。数々の科学者を輩出している、カリフォルニアという恵まれた環境にある大学。実際にファインマンはカルテックの環境の良さを理由に別の大学からのオファーを断わり続け
、ここに30年もいた。

 この旅行記の最初に書いたように、僕は別にカルテックで研究生活を送るということに対して本気ではなかったのだろう。さらにアカデミックから下りた今となっては、キャンパスを見に来たって仕方ないけれど、近所まで来たわけだから気にならないわけがない。
 空港からカルテックのあるパサデナまでは、車で40分程度の距離。
 パサデナに入ると、まっすぐな道路沿いにきれいな家が並んでいる。寂しいくらいに明るくてきれいな住宅街の中、カルテックの小さなキャンパスは控えめに構えられていた。ノーベル賞受賞者を多数出していて世界に名を轟かせる名門大学にしては拍子抜けするくらいに小さなキャンパスだ。ちなみに、ドラマ"The Big Bang Theory"の登場人物達はパサデナに住んでいてカルテックで研究をしている設定になっている。

 ビジターセンターを訪ねてツアーみたいなものに参加する手もあるのだろうけれど、別にそんなことしたくなかったし、かといって特別に訪ねたい研究室があるわけでもなかった。なんだかんだ言って僕は何かの終わりを確かめに来ただけなのかもしれない。夏休みで人の疎らなキャンパスを一周して、特に何をするでもなく僕は大学を後にした。
 道端に駐めていた車に戻ると、急に空腹を感じる。もうお昼はとっくに過ぎていて、今日は朝から何も食べていないから当然だった。そういえば、バックシートには昨日のCheesecake factoryの残りがあった。丸一日立っているし、車の中は暑い。まだ食べれるだろうか。恐る恐るドギーバッグを開けてみると、サラダは完全にベチャベチャになっていたものの、ピザとフライドポテトはまだ大丈夫そうだった。まあいいや、これを食べよう。

 エアコンを付けて車の中で昨日の残りのピザを齧る、そんなランチは見窄らしいし可愛そうだと思う人もいるかもしれない。けれど、僕はそういうのがまったく平気だ。あまり食べることに熱心になれない。基本的には食べるのは面倒だと思っていて、食べないと死んでしまうので義務的に食べているというところが僕にはある。美味しいものを食べるのは嬉しいし、アイスクリームが食べたくなって買ったりもするけれから、いつもいつも完全に100%どうでもいいとは言えないが、8割方食べることはどうでもいい。なるべく手軽に簡単に最短距離で食事は済ませたい。好きな食べ物は「簡単に食べれる食べ物」。カロリーメイトを毎日食べていて健康に暮らせるならそれでもいいくらいだ。
 それから、残り物のピザだってそれなりに美味しい。これはきちんと書いておこうと思う。

ご冗談でしょう、ファインマンさん〈上〉 (岩波現代文庫)
岩波書店

西海岸旅行記2014夏(43):6月16日:ロサンゼルス、ウエストコースト・ジャパニーズ

2014-10-04 23:11:54 | 西海岸旅行記
 ベニス・ビーチを一頻りウロウロしてから、車を1時間ほど走らせて小高い丘の上にある住宅地へ向かった。クミコが昔住んでいた家があるのでその前で記念撮影をする。
 それから、夕食の約束があったのでレドンドビーチの駐車場に車を駐めた。レドンドビーチは日本でも流行ったドラマ"The O.C."のロケ地でもある。賑わう桟橋でカオリさんとナオキさんと待ち合わせ、そのまま桟橋にある海鮮料理屋で夕食にした。店は韓国人が経営する威勢の良い所で、カニをハンマーで砕きながら食べるのが名物になっている。まだ"Cheesecake Factory"を出てから3,4時間しか経っていないので、僕もクミコもやや満腹という腹具合だったけれど、カニとかエビとかカキをこれでもかとご馳走になった。
 二人共、西海岸に憧れてずっと昔、日本からLAへ引っ越してきたということだ。本当の本当に当たり前のことだけど、人には色々な生き方がある。

 僕はこれからどうしようか。
 人には色々な生き方があると、肌身で分かるようになったのは、実は結構最近のことかもしれない。色々な生き方、というときの「色々」の中身が、所詮は僕の想像可能な「色々」でしかなかった。その外側の存在を、実感してはいなかった。

 自分の想像可能な範囲や視野のことを考えると、必ず高校生だった頃を思い出す。
 心の底から恥ずかしいのだけど、僕は普通科の高校なんかに3年間嫌々通っていた。それも進学校気取りの男子校でなんの楽しみもない高校に。どうして高校なんかに行っていたのかというと、当時の僕は高校に行かないと人生が終わると思っていたからだ。まだ1990年代の後半に入ったばかりで、インターネットは全然普及していなかった。ネットがあれば僕は高校には行っていないし、たぶん中学校にも行っていないし、小学校にも行っていない。あれは多大なる時間の無駄で得るものは余計なストレスだけだった。

 昔気質な男子進学校にふさわしく、僕の高校ではバイクに乗ることは禁止されていた。バイクに乗っていることがバレると退学になる。
 高校を卒業して2,3年した頃、中学校の同級生が結婚したのだが、その二次会で、僕は同じ高校を退学した男に会った。彼は「バイク乗りたかったらか退学した」とあっさり言った。その後オーストラリアに引っ越して自動車関連の仕事をしているということだ。
 話を聞いて頭を殴られた気がした。完敗。僕はなんて愚かだったんだ。毎朝、嫌だ嫌だ嫌だと思いながら、それでも高校をちゃんと卒業していい大学に行かなくてはならないと思い込んでバスに乗っていた自分が間抜けで愚かでバカでかわいそうになる。当たり前の話だが、高校なんか行かなくても人生は終わらない。特に今なら尚の事。同じ轍は二度と踏まない。

 その日ちょっと体調の悪かったナオキさんと桟橋で別れ、僕達3人はそのままコーヒーショップと日本人経営の居酒屋をハシゴした。日本語の通じる日本人のネットワークは、どうしても心地良い。同郷だとかそんなのどうでもいいことのはずなのに、どうしても心地良い。店の中はまるで日本。カオリさんがとても聞き上手な人なので、ついついあれこれ話しながら焼酎やワインを飲んでしまった。  
 彼女は僕より少し年上だ。年齢の話になったので、歳というのは「残り時間は分からないから、便宜上、生まれてからの時間を目安で採用しているだけ」という自説を展開する。人はいつ、何歳で死ぬか分からない。20歳の人間が、30歳の人間よりも10年長い残り時間を持っているとは限らない。

 僕がしっかりお酒を飲んだので、帰りの運転はクミコにかわってもらった。カオリさんを家まで送り、僕達はホテルへ戻る。幸いというか、実は人気がないホテルなのか、深夜を過ぎても駐車スペースは空いていて、車上荒らしにあっていた車もなくなっていた。部屋の中は無事で、僕達の荷物がそのまま置いてある。クミコは明日の昼日本に帰るので、急いでパッキングをはじめた。僕はまだこっちに残るけれど、クミコにとっては旅の終わりだった。旅の終わりにはいつも余韻なんてない、そこにあるのはいつも慌ただしいパッキングだけだ。

ASIAN JAPANESE―アジアン・ジャパニーズ〈1〉 (新潮文庫)
小林紀晴
新潮社

西海岸旅行記2014夏(42):6月16日:ロサンゼルス、ベニス・ビーチ、スケートボードは魔法

2014-10-03 20:27:13 | 西海岸旅行記
 ベニス・ビーチの近くで適当に車を駐めるつもりだったが、空いているスペースがなかったので、「まあこの際有料でもいいか」と、道路沿いに現れた駐車場へ車を乗り入れた。係の男がやってきて「20ドル」と吹っ掛けてきたのでやめる。

 「じゃあ、10ドルでいい」
 
 「もういいよ、ここには駐めない」

 その駐車場を出て3分もしないうちに、道路脇の空いているスペースを見付けたので車を駐めた。もちろんタダ。車を駐めたのは住宅街の中で、5分も歩くとベニス・ビーチに出る。ビーチが近くなると流石に人も増え、水着で歩いている人もチラホラ目についた。こんな寒いのによく平気で濡れたままの半裸で歩いていられるなと思う。僕はナイロンジャケットを羽織っていて、それでちょうどいいくらいの涼しさだった。

 昼下がりから夕方に移り変わろうかという時間帯、ビーチ側の道路へ出ると繁華街のようにたくさんの人が歩いている。そうか、繁華街のようにというか、ここはれっきとした繁華街だ。こんなに混雑しているのに、その間を縫うようにスケートボードが走り抜けていく。別にここに限った話ではないが、アメリカでは日本よりもカジュアルにスケボーが利用されている。別にトリックなんてできないしする気もないけれど、便利だし面白いから乗っているという感じがある。混雑している歩道の、ビーチと反対側には店が立ち並び、土産物とか服とかスケボーとかマリファナが売られていて思い思いに音楽を流している。商品に埋もれるようにして、店の前にはATMが置かれているが、こんなところでお金を下ろす気には全然なれない。ストリートパフォーマンスも自前のラップを歌ったりダンスをしているので結構うるさい。小さなテニスコートのようなもので、サイズダウンしたテニスのようなスポーツに熱中するマダム。野外ジムで炎天下半裸の筋トレに励む男達。おじいさんが1人歩道に向かって腕を鍛えていて、僕達の前を歩いていたイケイケの女の子3人組が「絶対こっちに見せつけてる。キモイ」と大笑いする。

 一際たくさんのギャラリーを集めているダンスパフォーマー。その100人以上はいる観客達の輪を抜けると、ビーチに別の人々の集団が見えた。
 真っ白で柔らかいビーチの中、そこだけ1段高くなっていて、複数の人影が光の中を滑らかに移動する。魔法が掛かっているみたいだ。夜中にこっそり覗いた、部屋明かりの妖精の影。
 残念ながら、その影は妖精の影ではない。スケーターの影だ。
 でも、そこに魔法が掛かっていることは間違いのない事実だろう。

 世間には「スケボーは目立ちたがりのアホなガキの乗り物だ」というイメージがあると思う。スケートボード自体が発達したのとスケート技術の発展で、ストリートにおけるスケボーの可動域は昔より大きくなった。今となっては信じられない話だが、1970年代まではプロスケートボーダーであってもオーリー(スケボーに乗ってジャンプ台など使わずに自力でジャンプすること)はできなかった。今ではその辺の中学生がオーリーで公園のベンチに飛び乗っている。もっと上手い人は階段の手摺に飛び乗って滑り降りる。つまり、昔はなんだかんだいってもコロコローと転がっていくその延長で二次元的にしかスケボーは動けなかったけれど、現代スケートボードは飛び上がるという三次元的な可動域を持っている。2000年代にはそうして飛び上がったスケボーにより、ベンチだとか花壇の縁が破壊されるという事象が多発してありとあらゆる場所に「スケートボード禁止」の看板が出ることになった。

 おまけにスケボーは煩い。アスファルトの上を走るとゴーッとかなり大きな音がするし、オーリーでも飛ぼうものならデッキやウィールが地面に叩き付けられてバンッと鋭い音がする。これだけでも迷惑だといえば迷惑だし、さらに乗っている当人も「はー、スケボーってなんでこんなにうるさいんだ」と思っていたりする。僕は音が気になる方なので極力柔らかいウィールを履くようにしているが、それでも気休め程度の効果しかない。

 うるさくて、危なっかしくて、公共施設の破損も招く。ストリートカルチャーだとかいって落書きもしそうだし服装はだらしないし。煙たがられて当然だが、それでもスケートボードは魔法の乗り物だ。
 地面を滑って移動する感覚。
 ちょうど徒歩と自転車の間のような手軽な移動感覚。
 日常生活における僕達の移動方法は限られている。歩く、自転車、バイク、バス、電車、車、それにあとせいぜい船と飛行機。このうち自ら操縦するのは徒歩、自転車、バイク、車くらいだ。なんとも窮屈なことに。本当は他にもたくさん移動方法はあるのだ。誰だって一度はローラースケートで街中を走り抜けたらどんなに愉快だろうかと想像したことくらいあるのではないだろうか。道具を使わなくても、本当はスキップしたって構わない。ただ恥ずかしくて実行しないだけだ。だけど、僕の数少ない先輩はかつてこう言った「人生は恥ずかしいくらいがいい」。至言。