Q。

2007-04-27 16:45:40 | Weblog
 2004年の8月13日に沖縄国際大学に米軍のヘリが墜落した。その日、沖縄以外の場所から発信されたニュースのトップは巨人の渡辺オーナー辞任に関するものだった。

 という衝撃的な括りで終わっていた友人の日記を読んだ。
 リンクが張られていたので、そのリンク先を開いてみて、そして僕は複雑な気分になった。

 これから先は、ものすごい躊躇いと共に書きます。たぶん、こんなことは書かない方がいいのかもしれない。これはある意味では僕の人格の欠陥と基地問題に対する知見のなさを暴露することに繋がる。それに批判する対象がきちんとした論理を持っているのに、僕はそれを理解したがらないで無理矢理批判しようとしている。それは全て、文面が不愉快だというバカみたいな理由に拠っている。

 リンク先は沖縄国際大学のヘリ問題学生対策委員会( http://www1.odn.ne.jp/okikokuiinkai/index.html )なのですが、先に率直な感想を書くと、その文面が僕にはとても不愉快だった。

 要旨、とされているものを引用すると、

【趣旨】


 もうすぐ沖国大への米軍ヘリ墜落から1年が経過しようとしています。墜落に抗議する世論の高まりにもかかわらず、米軍は、この1年のあいだにも事故・事件を次々と引き起こしています。最近も、本島中部で米兵による女子小学生わいせつ事件が起こり、キャンプハンセンでは米軍演習による山火事が発生しました。そして、金武町伊芸区キャンプハンセンでは1年以上に渡る地元住民をはじめとした抗議にもかかわらず、米陸軍の都市型戦闘訓練が強行開始されました。

 これに対して県内では、再び米軍に対する怒りの声が高まっています。7月19日に開催された都市型戦闘訓練施設の撤去を求める金武町での「県民抗議集会」には、わずか4日の準備期間にもかかわらず、1万余の人々が県内各地から集まり声をあげました。辺野古でも基地建設をストップしています。
いまこそ、基地撤去の声をさらに高めるために、米軍ヘリ墜落の現場から普天間基地撤去の声をあげ、全県的な団結を深めることを基礎に全国にアピールすべきときではないでしょうか。

 昨年、8月のヘリ墜落以降、県内大学の学生・教職員はさまざまなかたちでアピールしてきました。ヘリ墜落から1年という区切りの時にどうするのかということが社会的にも注目されています。墜落現場の壁も撤去されたなか、私たちじしんがアピールしなければ、結局、抗議の声は収まったと受け取られかねません。米軍司令官が、ここにいたってもなお、“米軍が何もないところに普天間や嘉手納の基地をつくったあとに住民が近づいてきた” と白を黒と言いくるめるたぐいの暴言を叫んでいることを許してはいけません。

 そこで、学生・教職員といった立場を超え、一大学人として声を合わせて社会に向けたアピールを発することを提案したいと思います。ヘリ墜落からちょうど1年の8月13日に、記者会見等をつうじてこれを発表する予定です。大学人の広範な力の結集をもって基地撤去に向けたさらなる声の高まりをつくりだしましょう。

 つきましては、趣旨にご賛同いただき、ともに名前を連ねていただけるようお願いします。ぜひ、よろしくお願いします。
 
(以上、引用終わり)

 これを読んで不愉快になるのは、単に僕の器量が小さいせいだろう。
 だけど、僕にはこの”アピールしていきましょう”という言葉を快く受け入れることはできない。なぜならば、アピールの対象がどうしてか「全国」だとか「社会」であって、「米軍」でも「日本政府」でも「アメリカ政府」でもないからだ。このメッセージから僕が読み取れるのは「私達ってこんなに困ってるんです。助けてください」ということのみで、主体的なアクションが見えない。
 もちろん、社会に広く状況を認識させることは一つの戦略になり得る。僕を含めた全日本国民は沖縄の基地問題の当事者に含まれるはずだが、日常的にそれを意識することはほとんどない。これは日米構造が今の形であることを考えれば異常なことだし、多分日本という国家にとって大きなビハインドだ。上記のサイトにある米軍が沖縄国際大学のキャンパスを閉鎖している写真をみれば、たぶん普通の日本人は怒りを覚えるだろう。僕はとても嫌な気分になった。もちろん、その不快感はその写真に写っているアメリカ軍に対するものでアメリカ人一般に関するものではないけれど。
 しかし、このように世論を動かそうという方向性はそれほど有効ではないし、そのことには本人達も気が付いているのではないだろうか。

 ここまで読んで、多分僕の文章に不愉快を覚えた人がたくさんいらっしゃると思います。それは半分は僕の計算ですが、半分は計算抜きの正直な気持ちです。だから、その点で僕は文句を相当に言われるかもしれないなと思いながら書いています。
 もしも読者の方が不愉快に感じていらっしゃるなら、その中には「じゃあ、あなたはここに書いているようなことを沖縄国際大学に向かってダイレクトに言えるのか。ごちゃごちゃとブログに文句を並び立てるよりも文句があるなら当の本人に言えばいいではないか」という意見があると思います。

 僕はここに書いたことを当人達に伝えないでしょう。それには主に2つの理由があります。

 第一に、僕がここに書いていることの意味をまだ自分で咀嚼していないこと。つまり自信がない。というよりも寧ろちょっと間違ったことを書いているという落ち度の自覚がある。

 第二に、直接意見を言って、その後に始まるであろう議論に労力を割く意思がない。つまり、本気ではない。

 以上の理由から、僕はこの文面を沖縄国際大学に送るのではなく、それとはかけ離れた個人の日記に載せています。できれば、沖縄国際大学の人がこれを読んだりしないといいな、とまで思っています。かなり暗いモチベーションだと言い得る。

 『僕は自分の言っていることを良く理解していなくて、さらに本気で議論をするつもりがないから、当人に言わずブログで愚痴を言っている』

 これと同じ構造が、今の話題にはもう一つ含まれているのではないかと僕は思う。こう書きかえられはしないだろうか。

 『沖縄国際大学の委員会は自分の言っていることにいまいち自身がなくて、さらに本気で米軍や日本政府と議論する気がないので、とりあえず「全国」「社会」にアピールしている』

 もちろん、これも相当穿った見方なのでしょう。
 僕が実際に米軍の近くで暮らしている人々の気持ちを全く理解していないだけで、住民の人々は実にシリアスな思いで日々を暮らしていて、引用した文章だって切実に書かれたものなのかもしれない。
 でも、だとしたら本当はすべきことが他にあるのではないかと考えてしまうのです。それが何なのか今の僕には分からないけれど、こうやって世間にアピールしたりデモをしたりする他に手立てがないというのは、もしもそうならなんて閉塞された社会なのだろうと思う。そして、ひょっとするとそれが現実なのかもしれないと考えて背筋が寒くなる。

 こんな風に軽薄なことを書くのは僕の見識が低いことの証明だろう。
 上に書いたことは「本気はないからアピールしているのだ」という風に要約することができますが、逆に「本気になるべきだ」とも僕は思わない。ここで本気というのは命を掛けて、というくらいの意味合いです。不愉快だし危険はあるけれど、でも命を掛けてまで米軍の基地を追い出そうとは思わないでしょうし、沖縄に住んでいる人が、沖縄に住んでいるという理由から命がけで基地を追い出す、というのはおかしなことです。たとえば僕は京都に住んでいますが、京都に住んでいるから沖縄から米軍を追い出すことに命を掛けなくていい、ということにはならない。できれば物事は誰も命を掛けたりなんてしないで、個人の負担が小さいままで解決したほうがいい。

 となると、やっぱり全国にアピールというのはベストな手立てにも見えます。
 論旨がふらついていて申し訳ありませんが、僕はこの手の問題にどうやって対峙していけば良いのか、皆目検討が付きません。
 


2007年4月25日水曜日

 研究室。

・黒糖蒸しパン
・すき焼きのような煮物
・フレンチフライ
・ご飯
・カボチャサラダ
・豆とマカロニのサラダ
・揚げとワカメの味噌汁
・ご飯
・プラムワイン
・ポップコーン

2007年4月26日木曜日

 部屋の掃除などをした後、夕方からWと日仏学館へダンスの映像作品を見に行く。軽い気持ちで行ったのだけれど、途中で立食パーティーを挟んで4時間近くもあり、終わると10時だった。そのままメキシコ料理屋へ。

・立食パーティーのイタリアン
・奈良漬のパスタ
・メキシコ料理(また名前が分からない)
・ワイン
・テキーラ
・ポップコーン

composition No,5.

2007-04-25 14:55:55 | Weblog
 「私はあなたの住んでいた町を見てみたい。」

 「I want to see the city you have lived in.」

 日本語は細部から出発して全体へと至る。
 対して、主たるヨーロッパ語や中国語は全体から出発して細部へと至る。

 言語体系が先で、思考体系がそれに従うのか、それとも思考に言語体系が従うのか、どちらが本当なのかは良く分からない。だけど、少なくともこの日本語の言語活用ルールが日本の文化を強く反映していることは確かだ。

 たとえば、隣の国であり、文化圏をかなり近いと考えても良い中国と日本を比較してみればいい。中国は上にも書いたように英語などと同じく「全体から細部」という言語運用を行う。その国で書かれた説話集『法苑珠林』と、同じ説話集の日本語版『日本霊異記』を比較すれば、同じ話ではあるものの『日本霊異記』のほうが細部に渡る緻密な描写が成されていることは明らかだ。穴に落ちた男を助ける話では、中国では「助けた」と書くに留まり、日本ではそれはどのように道具を工夫して助けたのか、ということが仔細に描写されている。

 日本には文学作品はあるけれど、全体を統括するような文学理論がない、と長らく言われてきた。西洋にはギリシアを発祥とした巨大な哲学体系・思想体系が存在しているが、日本にはそういった体系は存在していない。しかし、それでは日本にはそういった哲学が存在しなかったのかというとそうではなくて、それらの思想というものは「体系」ではなく「個々の作品」の中に生生しく表されている。
 中国にには古くから詩の理論が存在していて、日本には存在しない。だけど、日本には短歌を初めとした洗練の局地にある詩の文化が存在している。誰もそれを分析して体系付けようなどとはしなかっただけだ。少なくとも近代までは。

 西洋の文学作品に比べたら、日本の文学作品には構成というものがない。たとえば日本文学最高峰の一つである源氏物語はだいたいの構成がないとも言えないが、基本的には個々の小さな話がそれぞれに描かれているし、今昔物語に至っては短い話が適当に集められているにすぎない。一応の分類はされているが分類に法則のようなものは見出せない。大事なのは個々の話であり、細部であり、全体ではないのだ。

 このようなピンポイントの考え方は日本古来からのものだといえる。なぜならば日本の神話では時間のはじまりとか終わりとかいう概念がない。連続して流れていく時間という概念がなく、単に今がずっと続いていくという記述しか見ることができない。
 日本人は仏教が伝来するずっと以前から極度の刹那主義者だったのだ。

 日本の話言葉では、いとも簡単に主語や目的語が省かれる。それはどうしてかというと、その場に居れば誰が主語に当たり、何が目的語に当たるのか、ということが自明だからだ。これは逆に言えば、その場にいない人には省略は通用しない、ということを意味している。つまり、日本語の話言葉というものは「その場にいる人間だけに通用する」ということが暗黙の前提として定められているのだ。だから日本語は普遍性を持っていない。省略のない話言葉はどのような文脈に置かれても理解されるが、日本の話言葉はそれを使った場所・時間以外の場所ではもう機能しない。これは日本人の自己中心的な思想を強く反映している。加藤周一さんが日本語における「国語」という言葉の使い方を「普遍性がない」と批判したように、日本語はその話法において既に普遍性を排除している。

 日本語は、その場限りの言葉であり、日本の文化は、ここだけしか見ない文化なのだ。日本人は分かりにくいということが時々言われるけれど、それは当然の話で、そもそも日本人は他文化圏の人間に何かを伝えるという概念を持っていなかった。

 こういったことを考えていて思い出したのが、昔D君に指摘された。アメリカンジョークは短いしディテールがないけれど、日本の落語は長いしどちらかと言うと落ちよりも話の状況自体を楽しむ傾向がある、ということだった。
 細部を重んじて全体の構成をあまり気にしないというのは、アメリカンジョークと落語を比べれば一目瞭然だ。
 アメリカンジョークは

  太った婦人がアヒルを連れて酒場に入ってきた。
 「ダメじゃないか、こんな所にブタなんか連れてきたら」
 「何よ、この酔っ払い。どうしてこれがブタに見えるのさ」
 「今、俺はアヒルに話しかけたんだ」

 という風にあっさりと数秒で語り終わってしまいますが、落語は何十分も掛けて事細かに状況を描写する。落語は物語であり、それは僕達を別の世界へ連れて行く力を持つ。

 そうして、僕は日本の文化が細かいことにこだわるものだ、というテーゼを全く納得しそうになっていたのですが、良く考えてみればとても引っ掛かることが思い出された。
 それは日本のデザインのことだ。

 ミンパク(国立民俗学博物館のことです)へ行って、各国の伝統文化を眺めると一目瞭然なのですが、日本の展示物を見ると、細部にこだわるどころか、細部なんてあったものではないのです。良く言えばミニマルデザイン、悪く言えば手抜きで「模様なんていちいちつけていられるか。使えればそれでいいんだよ道具なんて」という声が聞こえてきそうな気がします。
 他の国の展示物には細かい彫刻や極彩色のペイントが施されていて、どうして日本のものだけこんなに質素なのだ、と思い悩んでしまう。
 これでは話が全く逆だ。日本人だけ細部にはこだわっていない。
 どういうことだろうか。

 良く分からないので、一旦この話をのけておくと、一部の批評家達が「日本らしさを持っていない」とこき下ろそうとしている今や世界的な作家、村上春樹さんが実はいかに日本的な作品を作っているかということが見える。村上さんは「ストーリーなんてどうだっていいんだよ。大事なのは語り方だ」みたいなことを言っていたように思うのだけれど、これは全体の構成ではなくて細部の描写に力を入れるということの現われではないかと思うのです。


2007年4月24日火曜日

 食べたもの
・トマトとブラックペーストの全粒粉パスタ
・ホウレン草のおひたし
・ご飯
・すき焼きみたいな煮物
・ココア
・黒糖蒸しパン

automatic.

2007-04-24 15:08:09 | Weblog
 今月は正式な春の始まりで、学校では新入生に間違えられてサークルの勧誘を受け、服を買いに行くと「これ、もうすこし大きいサイズないですか?」と、店員だと勘違いされて質問を受けた。
 考えてみれば、僕は自分が他の人々からどのように見られているのかを知らないまま一生を終えるに違いない。それはちょっと恐ろしいことだ。時々この世界の「姿」が見えないことに軽い苛立ちを覚えるけれど、加えて自分がどう認識されているのかすら僕達には分からない。どう見ればいいのかも、どう見られているのかも、両方分からない。つまりなんにも分からない。それにも関わらず僕達はこの世界を生きている。ごく自然に。そこにある90パーセントは思い込みで、せめて願うべくは僕の思い込みと君の思い込みが等しくありますように。

 実は僕達の眼には光を感じる細胞が100万個くらいしかない。たったの。どうしてたったのかというと、今時携帯電話のカメラですら200万画素くらいはあるし、でもそれでも大した画像にはならないことを僕達はよく知っているから。100画素のデジカメではL版プリントだってちょっときつい。なのに、僕達の見る世界がこんなにもクリアでスムーズなのは、それは脳が補正をかけまくっているからだ。「認識」のうち9割は補正であり、外部からの情報は1割程度らしい。脳の中の華麗な生活。

 昨日、Tにギメルリングという指輪の話を聞いた。
 ギメルリングというのはパズルリングとも呼ばれるもので、複数のパーツからできた指輪のことです。パズルという呼び名からも察しが付くように、この指輪は一度外すとバラバラになってしまって、再度組み立てようとしても並大抵のことでは組み上がらない。つまり、大袈裟に言えば一度外すと失われてしまう指輪です。
 教えてもらったギメルリングのサイトには「トルコの兵士が出征するときに浮気をしないように着けたのがオリジンだ」と書いてあったのでちょうど隣にいたトルコ人のOに「知ってる?」と聞くと「なんだそれは?」と言われた。他のサイトには「トルコではよく知られている」と書いてあったのだけど、まあトルコ人だって当然色々な人がいる。
 

2007年4月23日月曜日

 研究室のあと、久しぶりにTと会ってご飯。

この日食べたもの
・ハンバーグ弁当
・メキシコ料理(パパス以外はもう名前が思い出せない)
・ビール
・テキーラ

A。

2007-04-22 01:19:54 | Weblog
 絵を描くとき、自分がきちんと向かい合っているキャンバスよりも、むしろパレットの中で乱雑に広がった絵の具の模様をきれいだと感じるのは何故だろう。
 と言うと、カレンは「それはあなたの絵が下手だからよ」といとも簡単に答えを出した。

 最近、夢の中に知らない人が良く出てくるので、朝起きると変な気分になります。夢の中では僕はその人のことを知っているので、何の違和感もなくストーリーは進展するのですが、起きた後に、なんだ夢だったのか、でもそれなりに面白かったな、なんて中身を振り返ると、そういえばずっと一緒にいたけれどあの人は一体誰だったんだろう、という風に自分がそんな人のことは知らない、ということに気が付く。そしてとても奇妙な気分になる。もしかしたら知っているはずなのに知らないと思っているだけではないか、と考え込んでしまう。

 レヴィナスというフランス人思想家の思想ベースは、戦争で自分の周囲の人が死んでしまったけれど自分は生き残ってしまった、という自責に似た感情から始まっている。それは考え方によっては理不尽な責任感だし、考えすぎだと一笑にふす人だっているかもしれない。でも、一旦責任を引き受けるというところから、彼は豊穣な思想を展開する。

 こんなことを書くべきではないな、と思う気持ちもあるのですが、僕はインターネットを開いて、友人の日記で、昨日だか一昨日だかに起こった特急電車でのレイプ事件のことを知ってしまって、自分でも吃驚するくらいの憤りを感じて、それに関していろいろと考えざるを得なかった。
 僕は物に八つ当たりをしたりするタイプではないと思っていたけれど、自分が座っていた椅子の座面に思い切りパンチをしていた。そして、自分が一体何を感じてるのか良く考えてみると、それは僕がそこにいてその女の人を助けることができなかったという激しい自責の念だった。

 僕はそこにいなかった。
 何も今回に限ったことじゃない。友達が袋にされて財布を取られたときも、レイプされそうになったときも、恋人が痴漢にあったときも、僕はそこにいなくて何もできなかった。ただ電話の向こうから聞こえてくる悲痛な声を事後的に聞くだけだった。慰めることはできても、本質的には何もかもが手遅れだった。

 かつて、孔子は旅の途中で一頭の牛を助けようとした。そのとき弟子がこういった「先生、困っている牛はこの世界に無数にいます。だから、この牛を助けることはほとんど意味がありません」

 師、応えて曰く「この牛は私の眼の前を通った。だから助けるのだよ」

 これはイエス・キリストが言った「汝の隣人を愛せ」という言葉と同義だ。みんなが周りの人を大事にすれば、世界は随分と住み易くなるに違いない。
 孔子は、この今を生きていても、地球の裏側から死につつある人の映像がリアルタイムに飛び込んでくるような時代でも、多分、同じことをいっただろう。なぜなら、僕達が発揮できる最良のパフォーマンスは、人類の総体としてのベストは、彼の視座によって発揮されるだろうから。

 だけど、「目の前にはいない」けど、目の前に突きつけられる事実にはどう対応すればいいのだろう。
 レヴィナスの考えたこと。

 僕達は生きていく中で常に悲劇の襲撃を受ける可能性を持つ、ということに最も敏感だったのはブッダかもしれない。現代では村上春樹という作家がとてもセンシティブにそれらを描いている。ありとあらゆる場所でありとあらゆる人に悲劇は牙を向く可能性を持っていて、そこには、少なくとも僕達が知りえた形でのロジックは存在しない。僕達はせいぜい日々を丁寧に暮らす以外の手立てを持たない。

 僕達はきれいごとで「汝の隣人を愛せ」というわけではない。これは大切な人のことをいつもいつも護れるわけではないから、だからそのときは「あなた」が「私」に成り代わってそれを行って欲しいという願望のことだ。
 だから人は祈る。



2007年4月20日金曜日

 あまりぱっとしない1日。
 言語文化情報学、B先生2回目。来週までにカタカナ言葉の分析。
 肝心の研究は計算が軌道に乗らない。机の周りがぐちゃぐちゃなので研究室の掃除を少しだけした。
 本当は今年から食べ物の記録を付けようと思っていたのにすっかり忘れていた。そういえば季節で食べ物の好みは明らかに変化するな、と考えていたら思い出した。

食べたもの
・ご飯
・ワカメと麩の味噌汁
・カボチャの煮物
・菜の花からし和え
・肉団子と野菜の煮物
・ココア
・ぶどうジュース
・キノコカレーのクスクス



2007年4月21日土曜日

 曇りとはいえ実に暖かい1日だった。
 今日から夏だ。

食べたもの
・野菜カレーのクスクス
・ぶどうジュース
・マンゴージュース
・ジンギスカン
・大根のサラダ
・ご飯
・プラムワイン


2007年4月22日日曜日(雨)

食べたもの
・焼きナスのトマトソースパスタ×2
・プラムワイン

aero.

2007-04-19 04:20:33 | Weblog
 最近、"A-bike"( http://www.a-bike.co.uk )という自転車のことが気になっていて、色々と調べています。そんな中でカナダの「空中に自転車専用のチューブ道路を張り巡らせる」という計画のことを知りました( http://japanese.engadget.com/2006/01/30/velo-city/ )。本当にそんな街ができたら楽しいですね。京都は自転車の街だと言っても過言ではないので、京都でもこれに類する大胆なことがあれば楽しいだろうなと思う。

 昔から時々、折り畳み自転車を持ってどこかへ出掛けるのは楽しいだろうな、とぼんやり思っていたのですが、僕の知る限りでは折り畳みとは言うものの大きくて重たいものばかりで、ちょっと買おうという気になるものはありませんでした。
 ところが、最近は色々な折り畳み自転車が販売されています。Tが教えてくれたトランジットコンパクト(トラコンと通は呼ぶらしいです)、エクスウォーカー、ゼロバイク、など、様々な折り畳み自転車があります。

 最初はTが教えてくれたトラコン(通に習って僕もこう呼ぼうと思う。ちなみに改造していない自転車のことを”野生”というそうです。だから、改造していないノーマルのトランジットコンパクトは”野生のトラコン”と表現できます。世界って広いですね。)を僕も買おうかと思ったのですが、A-bikeの異常なまでの小ささと秘密道具感にすっかりとやられてしまって、買うのならばA-bikeがいいなと今は思っています。ただ、A-bikeはI君に言わせれば「そこまでして自転車に乗りたいか?」というような乗り物なので、走行性能は良くありません。トラコンは折りたためるし、乗れるし、バランスが取れているのですが、A-bikeは大分と折りたたむことに偏っているので、実際に買うとなると躊躇してしまう部分もあります。さらに、今はイギリスだか香港からだかしか買うことができないので試乗もできないうえ、値段も4万円くらいはするので、やっぱり躊躇します。トラコンの方が乗ることを考えれば優れている。

 自転車に乗って駅まで行って、そこでさっと自転車を畳んで(トラコンでもA-bikeでも10秒で畳めるらしい)、電車に乗って遠くの街まで行き、そこでまたさっと自転車を展開して乗るというのは全く新しい次元の生活を提供してくれると思う。駅前の駐輪場へ自転車を止めて、というスタイルはあと10年もすれば崩壊してしまうんじゃないだろうか。

 

運河。

2007-04-17 19:58:03 | Weblog
 そういえば、城というものをきちんと見たのは初めてのことだった。二条城の周りは何度も通っているし、大阪城公園にも何度か行ったことがあるけれど、城というもの自体をそんなに気にしたことはなかった。
 僕達は桃山御陵へ行くつもりで、そろそろ西に傾いた日の光を背中に受けながら斜面を登っていた。そして、気が付くとそこには城があった。死後の王を護る墳墓ではなく生前の王を護った巨大な建築物が、晴れ渡ることだけを考えて作られたような実にあっけらかんとした空の下で午後の日差しを浴びていた。僕はほんの一瞬の間、現実感を喪失した。その造形はあまりにも21世紀の日曜日とはかけ離れていた。I君は「日本じゃないみたいだ」と言い、僕は「今ではないようだ」と思った。致命的に粗悪なセンスで作られたぼんぼりと、公園で散歩をする人々だけが、現代日本を思い出させた。僕は携帯用の超小型三脚を持っていたので、それを使ってOがデジタルカメラで7人全員の入った写真を撮った。もちろん背景は城で、デジタルカメラで城の写真を撮るというのは物凄い長さの時間を包含した行為だと僕は思った。
 途中で合流したYさん以外の全員が、月桂冠の見学で手に入れた日本酒を持っていて、さらに僕を含む何名かはプラムワインを持っていた。その上、城のすぐ手前には盛りを過ぎたものの桜が咲いていて、僕達は日本酒とワインの封を切り乾杯をした。それは4月半ばの日曜日としては上々の過ごし方に違いない。


2007年4月14日土曜日
 Tがランチに誘ってくれたけれど、僕は手巻き寿司パーティーの準備があったので行けない。そのまま電話で30分ほど話す。そういえば本当に久しぶりだった。準備といっても、ほとんどHさんが準備してくれていたので、僕は買出しをHさんと一緒にして、その後はやってきたMちゃんなどに任せきりにしてしまう。僕は酢飯というものがあまり好きではないので、匂いが嫌だと言って離れてお茶を飲んでいた。
 それにしても夜はなかなか暖かくならない。本当は手巻き寿司花見をするはずだったけれど、寒いので軟弱にも室内に変更した。春で環境が変わるせいか、時間の感覚がおかしい。Kさんが「ひさしぶり」と言ったけれど、考えてみれば前回会ったのは3週間前だ。Oさんは肉が食べられないと言っていたわりには生魚を平気で食べるのでやっぱり人の好みというのは良く分からないものだと思った。Oの持ってきた濁り酒を「赤ん坊のゲップみたいな味だ」というとI君に例え方を咎められる。T君は仕事が相当忙しいということだったけれど、いつものびしっとしたスーツではなくてカジュアルな服だった。そのカジュアルな白っぽい服には醤油が零れ、僕の服には(顔にも)Kさんの噛り付いたイクラが飛び散った。

2007年4月15日日曜日
 アパートの向かい部屋に住んでいるSちゃんが「歩いていく」というので、僕も仕方なく出町柳まで一緒に歩く。高野川を下っていくと、とても天気のいい日曜日のせいか人がたくさん歩いていていかにも春めいていた。
 出町柳でI君、Oと落ち合い、京阪で伏見稲荷へ。Mちゃん、Hさんと合流し伏見稲荷を通過し石峰寺へ。若冲の五百羅漢像を目的として訪れたけれど、それよりも寺のこじんまりとしていて家庭的な雰囲気が良かった。公園に犬とウサギがいたので写真を撮っていると近くで遊んでいた飼い主の少年に「ウサギなんて珍しいか」と言われる。「このウサギはすごいいいウサギだよ」と返答する。
 京阪で移動。月桂冠見学。黄桜見学。鳥せいで昼食。商店街を物色。Yさんと合流。なんとか神社。伏見桃山城。

2007年4月16日月曜日
 研究室の後、買い物に出ていつもとは違うお香を買う。焚くと香りは良いけれどビリビリするような気がしたのですぐに消した。臭いのは我慢できるけれど、なんとなく危険な感じの匂いなので全部捨てる。喉と鼻の奥に不快感。

2007年4月17日火曜日
 奨学金の手続きを済ませて研究室へ行くも体がだるい。風邪をひいたらしい。昨日喉や鼻が変だったのはお香のせいではなくて風邪のせいだったのかもしれない。もしくはお香の所為で風邪をひいたのかもしれない。

speed.

2007-04-13 21:26:47 | Weblog
 今日は、少しおかしなことを書きます。かなりオカルト染みて、とんでもない話です。僕のことを、気が狂ったのではないか、と思われる方もあるかもしれません。だけど、一つの可能性として。

 昨日、池谷裕二さんの「進化しすぎた脳」を読んでいると、被験者が好きなときにボタンを押す実験のことが出てきました。いつでも自由意志によってボタンを押せばいいわけですが、被験者の脳をモニターすると面白いことが分かります。それは「ボタンを押そう」と思う前に運動をつかさどる脳の部位は活動をはじめる。ということです。
 これを解釈して「僕達は体が勝手に動いていて、そのあとに自分がそうしようと思ったのだ」というふうに捕らえることができます。これに類する実験は僕も読んだことがあるので、このような考え方があることは以前から知っていました。じゃあ僕達の意思とは一体なんなのだ、と恐ろしくなる考え方ですが、解釈としてはありだと思います。僕達は自分の意識でではなく無意識で動いていて、意識はそこに「これは自分の選択した行動だ」という言い訳を載せるだけだ、という解釈。

 しかし、この考え方にはやっぱりうまく馴染めない。馴染めないというか、そうではなくて僕達は自分の意思で行動しているのだ、という希望を持ちたい。
 そのためには上の実験をこのように解釈するという手立てもある。「運動部位が活動をはじめたのはもちろん自分の意思であり、その時点から含めて意識的だとする。単にそれが意識に上るまでには時間がいくらかかかるだけのことだ」
 だけど、今までの脳科学の見地からすれば、これはおかしな話かもしれない。

 そこで、僕はある仮説を立てた。その仮説について述べる前に、2つ話しておかなくてはならないことがある。

 1つ目は、ロジャー・ペンローズのことだ。ペンローズは天才的な物理学者で、ホーキングと一緒にブラックホールの特異点理論を打ち出したりした。子供のときから神童振りを発揮していて、たとえば騙し絵で有名なエッシャーは幼いころのペンローズが書いた落書きに触発されてあのような絵を描くようになったと言われている。
 物理学、数学で輝かしい業績を積み上げてきたペンローズは人の意識と脳に関する著作「皇帝の新しい心」を出版して一躍世間一般の人間にも広く認知されるようになった。ただし、その内容は「新しい物理学が意識の解明には必要なのだ」とした上で、「細胞にある微細管内での量子力学的な効果が意識の形成に一役かっている」というもので、この仮説は四方八方から大々的に攻撃される。

 2つ目は量子力学、主に量子電磁力学のことで、これは今までで最も高い精度の成功をみている物理理論なのですが、その中ではときどき時間の前後というものは入れ替わり、ときには時間を遡る粒子というものも平気で現れる、ということです。電子というのはマイナスの電荷を持つものですが、プラスの電荷を持つ陽電子というものも存在していて、これは時間を逆行する電子だと解釈できます。
 ただ、一応断っておくと今のところ量子力学を用いて過去を操作する、というようなSFみたいなことはできていません。理論的にそのような可能性があるのかどうかも分からない。

 ここまで書くと、もう僕が何を言いたいのか大体の予想はつくと思いますが。そう、僕はペンローズの説を受け入れないでも、脳の働きに量子力学が影響をしていることはそれがこの宇宙に存在している以上妥当なことだし、もしかしたらところどころでは時間の流れが反対になっていることも有り得るのではないか、ということを言いたいのです。だから、動こうと思う前に動くための脳活動が起こる。

 もちろん、異常なことを言っているのはよく分かっているし、これを大々的に押し出すことのできる理屈を僕は持ち合わせていない。でも、脳と意識というのはすでに科学では説明できそうにもないくらい不可思議なものだ。だから、その深部にあるメカニズムについて僕達は異常な仮説を持つことができる。
 それから、進化というものを考慮すると、意識してから実際に体が反応するまでの時間は短いほうが素早く動けるので有利だし、神経での信号伝達速度や脳での情報処理に時間的な制限がある以上は、「自分が意識したより前の時刻に行動が始まる」という選択枝は”なんでもあり”ならば当然取られるものだと思う。

 だから、あくまで仮説として、僕は「脳内の情報処理においては一部時間が反転している」という可能性のことをしばらく考えてみようと思います。

suger.

2007-04-13 18:42:21 | Weblog
 言語文化情報学の講義で「加藤周一 歴史としての20世紀を語る」のビデオを見た。2000年にNHKで放送されたものだ。加藤周一という人のことを僕は有名な批評家でなんとなく朝日の匂いがする人だという以外に何も知らなかった。このビデオを見て特別な感慨を受けたとか感動したとか、そういったことではないですが、来週のクラスまでにビデオの内容をすっかり忘れてしまう可能性が随分と高いので、いくらか記憶が保たれているうちにメモをしておこうと思う。

 日本国憲法はもともと英語で書かれた物が日本語に翻訳されたが、翻訳の仕方にナショナリズムの影がある、というような話から始まったので僕はさっそく躓いた。たとえば「我々日本国民は」というのは元々「 we, the Japanese people 」の役で、英語ではどこにも「国」なんて言葉は入っていないのに日本語に翻訳すると日本”国”民になってしまう。peopleというのは限定なしの「人々」でしかないのに日本人が訳すと国民になる。アメリカ人にとってはpoepleはアメリカ人も表すことができるし、メキシコ人だって表すことができる。というのが加藤さんの主張だけれど、でも今は文脈が"the Japanese people"なんだからそりゃあ日本人のことしか表していないんじゃないか、と僕はもう何がなんだか分からなかったのですが、よく考えてみるとそれは日本国民の国民という概念に関する意見だった。

 つまり、日本語における「国」という言葉の使い方の問題のことです。僕達は日本語のことを国語と呼ぶけれど、たとえばフランス人がフランス語でフランス語のことを国語と呼ぶかと言うとそんなことはない。国語に対応するフランス語はない。それはなぜかと言うと、一つにはフランス語が話されている国は別にフランスだけではないからだという話があとから出てきた。
 このクラスの先生はフランス人なのですが、最初、日本に来て履歴書のようなものを書くときに、フランスでフランス語を教えていたことがあったので「フランスで国語を教えていた」と書いたら相手に誤解されたという話をしてくれた。フランス人にとっての国語はフランス語だけれど、日本語の単語で「国語」と書くとそれはもう文脈や話者の国籍によらず日本語以外の言葉を表すことができない。これを”ほぼ”単一民族、単一言語国家である日本のナショナリズムの一片だというようなことを加藤さんは言っているわけだろうな。
 ただ、僕にはそれがナショナリズムだとはあまり思えない。

 本のタイトルだけは知っていたけれど、加藤周一さんの代表的な著作は「日本文学史序説」(もちろん、国文学史序説とは言わない)という本で、これは日本文学を「もののあわれ」など日本人特有の感覚でしか理解できない言葉を使わないで「普遍的な概念で」表そうとした著作だということだけれど、僕にはその普遍さというものがどこに担保しているのか、よく分からないし、もしもその本の意図が成功しているのならそれはすばらしい仕事だと思うので図書館で借りてみようと思う。
 本当は、普遍的な概念だけを用いて、ある国家固有の感覚を表現することはできない。たぶん、それは加藤さんもきっと良く良く理解されていて、その上で道をさがしたのだと思う。

 このビデオの主題は「ナショナリズムを言葉で超える」というようなものだった。加藤さんは外来語の多用と日本で再興しているナショナリズムは矛盾しているし理解できない、ということをおっしゃっていたけれど、それはナショナリズムがこの国の極一部で起こっていることにすぎないからだと思う。すこしだけ失礼なものいいをすると、加藤さんはナショナリズムを消したいのではなくて攻撃したいように見えることがあった。つまり、彼にとってナショナリズムというのは消えてもらっては困る対象でもあるように見えた。それとも僕がナショナリズムについての自覚を持たなさ過ぎるだけだろうか。

 外来語の使用、カタカナ言葉の使用は、意味をオブラートに包んでぼやかすもので、その言葉を用いている人は本当の意味を知らないし、全部を曖昧にする手立てだということもおっしゃっていたけれど、僕はその意見には反対だ。
 外来語をそのまま使うというのは「日本人の頭ではストレートには理解できないけれど、でも良く考えればそのような概念の存在も理解できなくはない」という概念を持ち出す。ということで、それは日本語にはない概念を導入する試みの一環だ。それはやがて日本語の中でこなれて、世代が変わる頃には日本人はその新しい概念を実質的なものとして獲得することができる。だから、外来語の使用を「分からないくせに安直に使っている」というのは、できないことをできるようになろうと練習している人に対して「できないくせにやるな」というようなものだ。それでは物事は前へ進まない。

 もう一つ、日本が中国や朝鮮に日本の宗教である神道を押し付けたことに対して、それはキリスト教や仏教と違って無理なことだ、ということを加藤さんが言っていたけれど、確かに僕もそのように思えて仕方ない。どうしてだろう。

pi.

2007-04-12 17:12:26 | Weblog
 たとえば、光はまっすぐに進むだけではないし、本質的には全空間に渡る無限の経路を確率的に持っていて、同様に光の反射の入射角と反射角は別に等しくない、反射するとき光子は鏡の中の全電子と相互作用する。電子は別に原子核の周囲をぐるぐる回っていない。そういうのは全部100年前の考え方だ。
 でも、一般的な物理教育では100年前の考え方が未だに幅を利かせている。多分、それら古い”間違った”考え方が僕達にはしっくりくるからだ。その上、日常生活にはほとんど差し障らない。

 先日、Hが僕の「イメージできないことを考えることはとても困難だし、だいたい分かったという感覚に辿り着かない」というのを受けて、「でも、わかったというのがどういうことなのかとても難しいことだけれど、論理的に積み上げていったものがある結果を出すのなら、べつにイメージできなくても分かったといえなくもないのではないか」というようなことを言った。

 確かに、僕はイメージにこだわりすぎるきらいがある。宇宙は僕達のイメージを遥かに超えた仕方で作られていて、イメージは半分くらいしか役に立たない。そこから先に切り込んで行けるのは論理だけだ。その結果がしっくり来なくても、それは受け入れるしかない。つまり、僕は自分の持っている「そうか、分かった」という感覚をあまり信用しすぎてはならないのだと思う。良く分かった気がしないけれど、論理的には確かにそうだ、ということを「分かった」だと認めなくてはならないのかもしれない。


レストラン。

2007-04-10 16:37:32 | Weblog
 東京へ引っ越す前に、Yから冷蔵庫を貰った。僕がもともと持っていた冷蔵庫は、その昔懇意にしていたリサイクルショップから無料で貰ったものだった。冷蔵庫は売り物にならないくらいに傷んでいたわけだけれど、でも僕はその古めかしい風合いと手頃な大きさや色合いが気に入って、4年以上の長きに渡ってその冷蔵庫を使っていた。でも、ものというのは壊れる。気に入ったスニーカーを毎日履いて、それがどんどんとくたびれていくのを眺めるのと同じように、僕は冷蔵庫が機能を低下させて行くのを見ていた。最初の3年か3年半の間、冷蔵庫は全く正常に機能していた。問題点といえば、ときどき音がうるさいくらいのものだった。冷凍庫に霜が付き易かったがそれほど気にはならなかった。

 しかし、4年が経過する頃、霜の付く速度は尋常ではなくなり、やがてそれは霜ではなく氷と呼ぶほうが相応しいものになった。氷は日に日に成長し、冷凍室の蓋は閉まらなくなり、僕はナイフや工具や炎やドライヤー、電熱線を駆使してときどき氷を取り除いたが、それははっきりいって重労働で数時間を必要とした。

 そうして、僕は冷凍室を開かないように固定して封印するに至った。つまり、21世紀にも関わらず僕は冷凍室のない生活を余儀なくされた。冷凍食品は買うことができず、余った肉を冷凍保存するという生活の知恵を使うこともできなくなった。コンビニエンスストアやスーパーマーケットでアイスクリームを買った場合は、部屋に帰ってすぐにそれを食べる必要があった。

 ならさっさと新しい冷蔵庫を買えばよかったのではないか、という意見はもっともだ。でも僕はさっきも書いたようにその冷蔵庫のことがまあまあ気に入っていた。冷凍庫が使えないくらいはなんでもない。

 だけど、虫歯を放っておけばどんどんと悪くなるように、あるいは年老いた象が群れを離れるように、僕の冷蔵庫は不具合の度合いを大きくしていった。ドアのパッキンは劣化し、冷蔵室内に水が溜まるようになった。水は主に冷凍室からやってくるものだった。冷凍室の中では氷が成長し、氷は封印された扉をこじ開け、そうしてできた隙間で外気と接触して溶けた。水は当然重力に従い下へと流れ落ち、劣化したパッキンの隙間から冷蔵室に入り込み、蒸発皿のキャパシティを上回るだけの水が冷蔵室ないに溜まることとなった。冷蔵庫に仕舞われたホウレン草やニンジンやバターがびしょ濡れになり、冷蔵庫はその役割を果たすことができなくなった。
 僕は冷蔵庫を使うのをやめた。

 つまり、僕は21世紀にも関わらず冷蔵庫のない生活を送るはめになったということだ。ちょうど冬のことだったので、それほどの不自由は感じなかった。春に引っ越すとき冷蔵庫を上げるよ、とYが言ってくれたので、春までは冷蔵庫のない生活をすることにして、実際には大した不便がなかったので、僕は冷蔵庫なんて本当はいらないんじゃないだろうかと考えた。

 I君とYの部屋まで冷蔵庫を貰いに行って(ついでに手製のブックスタンドも貰った)、部屋に冷蔵庫を備え付けると、僕はスーパーマーケットで買い物ができないというのがどれだけ不便なことだったのかを思い知った。僕はその次の日、スーパーマーケットで思う存分買い物をした。冷凍食品もアイスクリームも買った。そして部屋に帰ってピカピカの(Mちゃんが信じられないくらいきれいにしてくれた)冷蔵庫にそれらを放り込むと驚くほど豊かな気分になった。僕の部屋には食べ物がたくさん蓄えられているのだ。

 そのような経緯もあり、僕はこの春先自炊というものに目覚めていたのですが、気候がその暖かみを増加させるにつれ浮かれ心地になったのか、ここ1週間くらいは全ての食事を外食で済ませていて、当然ですが驚くべきスピードでお金が減ってしまいました。でも、それはそれで悪くはない。