リモートコントロール。

2006-05-26 22:57:43 | Weblog
 僕はニュースにとても疎いのですが、最近久しぶりにライブドアの名前を耳にしました。『金持ち父さん、貧乏父さん』というタイトルだったと思いますが、ロバート・キヨサキさんという日系アメリカ人の方が書いた本が何年か前に発売されて、日本には軽い株式投資ブームがあって、それがライブドア事件と共に終わったような気がします。株式投資じゃないか、こういうのは投機ですね。

 ロバートさんの本は僕も読んでいて(確かブログにも何か書いたような気がします)、とても面白い本だったし、結構社会の見方も変りました。「お金の為に働くのではなく、お金を自分の為に働かせよう」と謳って、つまりは株式や不動産に投資してそこから得る利益で生活しましょう、ということを彼は基本的には言っています。たとえば、今手元に200万円あるならば、それで200万円の車を買うのではなく、200万円は投資して、そこから得る利益でやがて車を買えば良い、というようなことが書かれています。200万円あるから200万円使う、ではいつまでもお金は貯まりませんよ、とまあ当たり前のことです。

 ただ、この本の主張はある意味では非常に高飛車なものだと僕は思う。それから、先に言っておくと投資なんてそうそううまく行くものではない。経済というのは魔法のようにお金を増やすシステムではないのだ。一定量を世界中の資本主義に従う人々で取り合うゼロサムゲーム。

 「お金の為に働くのではなく、お金を自分の為に働かせよう」

 というのは、人々に投資(あるいは投機)を促すとても上手なコピーだと思うけれど、これはあくまでもコピーであって真実ではない。

 村上龍さんも『希望の国のエクソザス』だとか、かなり経済に突っ込んだ作品をいくつか書いてらして、経済に関する著作も結構あって、その中にも「株に投資することと賭け事は全然違う、投資したお金は働いているのだ」ということが書かれている。

 「お金が働く」という表現を僕は比喩表現としてではなく、現実として理解することができる。
 たとえば、悪者扱いされることも多い銀行という存在は、それ抜きにしてこの日本が成立するものではないし、もともと「みんなが箪笥に千円持っていても何もできないけれど、それを預金してもらって、つまり銀行という一所に集めてやれば、それを資金として事業ができるのではないか。大掛かりな工事もできるのではないか。みんなの力を合わせましょう」というのがはじまりで、とてもクレバーなものです。この銀行に集まったお金が”働く”というのはとてもしっくり来る表現だ。

 でも、当たり前だけど、お金は働かない。
 働くのは人間だ。
 経済的にお金が働くということは言えるけれど、別にお金が荷物を運んだりビルを建てたり野菜を収穫するわけではない。そういうことは誰か生身の人間がするのだ。お金を貰う為に(ちょっと今は生きがいとか労働の喜びみたいなことはのけておきます)。
 だから、僕はさっきのコピーをこう書き換えた方がいいと思う。

 「お金の為に働くのではなく、人々を自分の為に働かせよう」

 こっちの方がずっと真実に近い。
 資本主義というのはそういうことです。常識的に見てどう考えてもひどい儲け方をしているのに「資本主義社会のルールにちゃんと従ってるから」というエクスキューズをする人を僕はとても嫌いだと思う。それは殺人が犯罪に指定されていない国で「法律は破ってないもんね」なんてへらへら言いながら暮らしてる人殺しみたいなものだ。

 へんてこな宗教のいけないところは「聞く耳持たず」なところだ。なにかの教義があって、それが絶対で、それに従うことが最優先される。そうすると、他の人とまともにコミュニケーションがとれない。なにを言っても聞いてもらえない。教義を作ってそれに従うというのは「厳しい」ことではなくて、とても「楽」なことだ。何かを考えたり悩んだりする必要がない。僕たちは生きて行く中で「右へ行くべきか左へ行くべきか」重大な判断を迫られることが多々ある。でも「右へ行きます教」の信者なら話は早い、迷うまでもなく「じゃあ、私は右へ行くので」と、他の人々が頭を抱えて悩む隣りをさっと通り抜けることができる。もしも右がとても危険なルートだったとして、誰かそれを知っている人が警告しても、彼はそれを聞きいれない「いえいえ、私達は右へ行けば、それで幸福になるんです」。

 経済というのは僕たちがより良く生きる為の道具だけど、「資本主義に則っている」と言い過ぎる人は資本主義を教義に仕立て上げて自分は思考停止したへんてこな人々だ。この世界は果てしなく複雑で、僕たちにはたぶん理解不可能で、だからいつの世も僕たちはどこかに思考の最外殻を作ってその中に安住しようとする。外のことを考えるときりがないから、「ここで終わり」という思考の果てを勝手に作って、その外を見て見ぬ振りをする。その思考の果てが、ある時は仏教やキリスト教やイスラム教やギリシャ神話や資本主義で、でも、見て見ぬふりをする為には僕たちは「何から」目を逸らすのか「どちらを」見てはいけないのかを「知って」おかなくてはならない。「知りたくないもの」「知ってはならないもの」を「知らない」ままでいる為には、何を知ってはいけないのか、何を知ると面倒なことになるのか、を「知って」おかなくてはならない。だから全部知らない振りなのだ。知らない振りならお手のもの。

スペインで煙の輪っかを作る。

2006-05-24 23:56:49 | Weblog
 月曜日の夜にみなみ会館で「800発の銃弾」という映画を見て、そして僕は頭がくらくらとしました。

 この映画はマカロニウエスタンに関するものなのですが、僕は今回マカロニウエスタンという言葉の意味をはじめて知りました。
 今まで、「マカロニウエスタンというのは偽西部劇のことだろう」とぼんやり思っていて、マカロニは中が空洞だから、その空虚な感じがインチキっぽくて偽西部劇のことをそう呼んでいるのだろう、と勝手に推測をしていたのですが、そうではありませんでした。

 ウィキペディアによれば、

『マカロニ・ウェスタンとは、1960年代~1970年代前半に作られたイタリア製西部劇のことである。大半のものはユーゴスラビア(当時)やスペインで撮影された。英米伊などでは、これをスパゲッティ・ウェスタンと呼んでいるが、セルジオ・レオーネ監督の『荒野の用心棒』が日本に輸入された際、「スパゲッティでは細くて貧弱そうだ」ということで、映画評論家の淀川長治が「マカロニ」と変名した。日本人による造語であるため、マカロニ・ウェスタンという言葉は他国では通用しない。ドイツでは、イタロ・ウェスタンという呼称もある。』

 イタリアだからスパゲッティということだったんですね。それを淀川さんが改名したなんて。

 僕がこの映画の何に対してくらくらしたのかというと、それは虚構と現実の混在に関してです。
 主な舞台は『ウエスタン村』で、この『ウエスタン村』というのは、昔はマカロニウエスタンを撮影していたけれど、今は寂れてしまってテーマパークと化していて、しかもお客もあまり来ない、いわばひどくうらぶれた場所です。ちょうど人気の全くなくなった東映太秦映画村みたいなものを想像すると分かりやすいと思います。そこで、『ウエスタン』を捨てられない人達が細々とショーをやっているわけです。

 そのショーというのがまた奇妙で、彼らは西部劇のショーをスペイン語で行うので、僕たちは異常な違和感を感じざるを得ない。中国に太秦映画村を持っていって、中国語で中国人が「遠山の金さん」を演じているようなものです。

 外の世界は現代のスペインで、『ウエスタン村』の中でも携帯電話は使える。ここはテーマパークで観光客も少しはやってくる。規模は違えど、ディズニーランドやユニバーサルスタジオと一緒で、ここはウエスタンを仮想した遊園地なのだ。

 最初はそれ以外に『ウエスタン村』のポジションは見えない。だけど、映画が進行するにつれて『ウエスタン村』は単なる「虚構」ではなくなっていく。
 なにせ『ウエスタン村』には歴史があるのだ。一連のマカロニウエスタンが1960から1970年に撮影されたのなら、この『ウエスタン村』にはざっと30年の歴史があることになる。『ウエスタン村』の年をとって半ばくたびれ果てたスタッフたちは、そこで長年働き、西部劇風のバーで酒を飲み、その西部劇のセットをまるで本物の村のように使用している。それはかつて映画撮影のために組まれたセットでしかなかったかもしれないが、30年も誰かが使っていれば、もう只のセットではなくなって村になる。すくなくともスタッフにとってはもうセットなんかじゃない。村だ。

 彼らは西部劇の格好のまま、時には馬を駆って街に出る。このとき彼らがリアルな街に現れた虚構なのか、それとも彼らがリアルで街が虚構なのか良く分からなくなる。もちろん、大体のところは彼らが虚構で街がリアルなんだろうけれど。

 逆に、街の人々も『ウエスタン村』へ入ってくる。象徴的なシーンは『ウエスタン村』に隠してあるマリファナを街の警察が押収しに来るところだ。

 (金庫の前で)

 警察官     :「金庫の暗証番号は?」

 インディアン男 :「何いってんだ。只の木の扉だぜ」

 金庫は(金庫といっても銀行の金庫みたいに中に入れるやつですが)、セットで作り物でしかないのに、街からやって来たリアルな世界の人間である警官が、その金庫を「リアルな機能を有する金庫」だと誤認してしまいます。つまりこのとき『ウエスタン村』という虚構はリアルだと誤認されているわけです。

 『ウエスタン村』と、そこに属する人々というのは、リアルと虚構の境目にいる存在で、僕は思考が追いつかなくてくらくらしたわけです。

 劇中ではショーに使う「空砲」をリボルバーでしょっちゅう打ち鳴らすのですが、終盤では彼らは村を守るために「実弾」を銃に込めて警官隊と戦います。虚構から現実へ。

 さっき僕は思考が追いつかなくて、と書きました。
 実際にまだ何がくらくらするのか本当は良く分かりません。
 セルバンテスの国で作られた、いかにもドンキホーテじみた人々の登場するこの映画の構造が、未だに良く分からない。西部劇ごっこをしていたら本当のガンマンになってしまった、というような話。

 徒然草に「狂人の真似だといって都大路を叫びながら走るのは、それはもう狂人の真似ではなくて狂人だ」という段があったと思う。
 これにとても似た映画。
 


グラデーションと川辺を走る犬。

2006-05-22 19:27:44 | Weblog
 オレンジジュースを飲みすぎました。
 とても昔にもどこかに書きましたが、人体の密閉度ってすごいですよね。たとえばヨガなんて流行っていますけれど、あんなにへんてこなポーズをとったり、あるいは走ったりすれば、僕たちは膀胱の中に保持している液体をいくらか外に漏らしてしまっても仕方ないのではないかと思うのですが、でもそんなことはほとんど起こらない。別にきちんとした栓があるわけでもなくて、単に括約筋でぎゅっとやっているだけなのに、驚異的だ。

 また少し空いてしまいました。
 引越しパーティーや、ライブや、普通のパーティーや、その他の大事なことや日常的なことがあって、なかなか日記を書く気分ではなかったのです。

「これは僕の偏見かもしれませんが、京都では演奏を聞きに来る人が、上手か下手かを重視するような気がしてやりにくいです。上手だとか下手だとか、そんなのよりももっと音楽を楽しんで欲しいです」

 というようなことをある演奏家に言われて僕はびっくりした。

 音楽を演奏するにあたって、その演奏が上手か下手か、というのは重要なことだ。確かに、音楽には「何か」があって、その「何か」が聞く人に伝わることはとても大切で、それは演奏のレベルがどうこうといったことよりも重要なことに違いありません。でも、演奏のレベルがその「何か」を伝える上で大きな要素になっていることも事実です。
 別に人々は「上手だね」と言われたいために一生懸命な練習をするのではない。その「何か」を伝えるために練習をする。上手な演奏でなければけっして表現できないことや伝えることができないことがある。だから音楽を人に聞いてもらおうとする立場の人が「上手か下手かなんて」というのは、なんとなくへんてこな気がするのです。

郵便受けに住み着いたフクロウの話。

2006-05-15 15:08:03 | Weblog
 夜空を滑るジャンボジェットの灯りを眺めながら、僕にはやっぱりあの中に100人以上の人間が乗っているなんて信じられないな、と思った。でも、僕が信じようが信じまいが、そんなことにはお構いなしに、ジェット機に人々は乗っていて、彼らは旅の途中にあるのだ。

 僕はアフリカ大陸を見た事がない。アフリカだけではなく、僕はあらゆる「大陸」というものを見た事がない。なぜなら僕はこの日本と言うアジアの国から出たことがなくて、そしてこの国は島国であって大陸ではないからだ。
 このことはつまり、こうも言い換えがきく、

「僕は大陸にのったことがない」

 これは今更ながらビックリだ。
 そうか、僕はこれまで大陸には乗っかったことがないのか、ずっと島にいるんだ。大陸ってとても身近な言葉だけれど、僕は大陸を本当は知らないのだ。

_____________________________

 昔、歯周病を予防するという歯磨きペーストのコマーシャルで、

「現代では成人の80%以上が歯周病です」

 ということがアナウンスされていて、僕はそれに驚いた上、実に奇妙な気分になった。
 80%の人が罹っているなら、それはもう「病気」ではないんじゃないだろうか?
 もちろん、それが治療可能で、より「健康」な人がこの世界に存在しているという意味合いで、それは「病気」と呼ばれても仕方ない。でも、これが80%ではなくて99%だったら、100%だったらどうなんだろう。

「現代では人々の100%が、150歳以下で死んでしまうという病気に罹っています」

音楽家の家に生まれた猫。

2006-05-12 17:06:17 | Weblog
 昨日は夕方からI君に誘われて、O、I、Aも一緒に5人で自由空間SAKANAまでフルートを聞きに行きました。

 そのフルート演奏者の方は、フルートだけではなく、竜笛という日本の雅楽で使う笛も披露してくださったのですが、僕は演奏よりもなによりも指使いが気になってしかたありませんでした。

 通常、楽器は指先を用いて操ります。フルートは指の先の方を使って、管の穴を閉じたり開いたりします。でも、竜笛は指の先ではなくて、もっと付け根に近い部分で演奏するので、見かけ上はまるで笛をぎゅっと握り締めているように見えました。
 僕はその「指先」「付け根」の違いが気になったのです。

 演奏に適した指の配置を考えるならば、「指先」を用いたほうがより動かしやすいように思える。でも、竜笛はより使い難い「付け根」を用いる。わざわざ「付け根」を用いるにはそれなりの理由があるはずだし、それは西洋と日本の身体運用法の違いを表しているような気がした。

 ちょっと話は飛びますが、例えば剣道の動きというのはあまり伝統的な日本武道の動きではありません。もともと日本人はあんな風に足のバネを使って、胸を張って構えたりしませんでした。でも、明治時代に欧米の文化を急速に取り込んで、結果的に現代の剣道ができました。空手も柔道もそうです。実は日本と言うのは恐ろしいくらいの大変化を明治時代に経験していて、別にそれは良いのですが、僕達がそれ以前の日本を想像もできない、というのはちょっと悲しい話だと思います。

 その演奏者の方に、西洋のフルートと日本の竜笛を吹く上で体に感じる違いはどの程度あるのかを尋ねると、それはもう結構違うということで、フルートを吹くときは胸を意識するけれど、竜笛を吹くときは下腹(つまり丹田ですね)を意識するらしいです。
 西洋化した現代剣道が「胸を張って構え」、昔の日本の剣術が「丹田を意識する」だったことになんとなく対応するな、とぼんやり思う。

「竜笛の操作において指先を使わないことには何か理由があるはずですよね。わざわざ使い難い部位で操作するなんて」

「理由ね。あるんですよ、実は。ちょっとオカルトみたいな話ですけれど、付け根に近いほう指の関節から”気”が出るんだそうですよ。残念ながら僕には分かりませんが」

 そうなのか。
 先人たちの教えを継ぐ人々がそういうのならそうなのだろう。そこから”気”が出ているから、そこを使うのだ。僕たちはそれを”気”という言葉でか語れない。でもそれはきちんと機能しているに違いない。我々が未だ自分たちの言葉で解体できないこと、真に新しいことには、そのもの自体に新しい名前を与えて、その名を使う他ない。

 僕がいつの間にか放ったままにした「人工知能」と「量子力学」の話。一番言いたかったことは、絶対に自分たちの言葉で解体できないものを、絶対に人間の理解能力、認識能力では感知できないものを、僕たちはどのように扱えば良いのかということです。
 それらはこの世界に存在しています。残念ながら僕たちはこの世界の全てを理解できるようには設計されていない。その可能性がとても大きい。でも僕たちは世界を知りたいと思う。言葉では表現しきれないものを言葉で表すとき。たとえば、絶対にこんな一言では表せない「神」という言葉を僕達が使うとき、このとりあえず使った「神」という言葉は一体何を表しているのでしょうか。この言葉を使うとき、僕達の頭の中では何が起こっているのでしょうか。僕たちは「神」という言葉が神を表さないことを知りながら、「神」という言葉無しに神を思考することはできません。逆に、神を表さない「神」という言葉を用いて、僕達は神を思考できる可能性を持っています。このぐるぐるした混乱状態に、僕達が絶対に理解することのできないことを理解する可能性も存在するのではないかと思います。

マイクロスコープ。

2006-05-11 17:45:01 | Weblog
 店の入り口は少しだけ開いていて、そこから痩せた白猫が外を眺めていた。引き戸を開くとすぐそこに電話をかける年をとったマスターがいて、その向こうから若い女の子が「いらっしゃいませ」と言った。

 昨日の夕方、カツサンドの有名な「コロナ」へ行ってきたのです。それはもう想像以上の素敵な店で(潔癖な方にはお勧めできませんが)、ディテールを書くと一本の短編小説になってしまいそうです。

 最近、陶芸関係の人々が身の回りに増えたので、ときどき陶芸のことを考える。

 昔、「おいしんぼ」という漫画で、主人公の山岡さんが、名前を忘れてしまったけれど偉い陶芸家に、

「陶器の模様なんて、釉薬と焼結による偶然の産物に過ぎないじゃないか」

と毒付いて、

「お前は全然わかっとらん」

と怒られていました。

 僕は何故かそのシーンを忘れることができなくて、焼き物を見るたびにその場面を思い出す。
 山岡さんが言いたかったことは、「模様は偶然の産物だから作家の力量ではない」ということで、もっと言えば「いい模様ができても、それはあなたの力ではなくて単なる偶然の産物なのだ」と言うことだと思うけれど、でも芸術というのはそういうものだ。
 作品の1から10まで全てを作家がコントロール可能な場合、そのとき出来上がったものを芸術だと呼ぶことはできない。なぜなら芸術とはその作家の領域を超えた世界を、作家自身と鑑賞者に表示する方法のことだからです。だから偶然と不自由は芸術にはなくてはならない。僕たちは芸術を行うことはできるけれど、芸術を操ることはできないのだ。

 先日、「誰だって芸術家になれる」というような言葉を耳にしました。これは何かに似ているな、と思って考えてみると、それは(これも名前を忘れてしまったのですが)大昔の社会学者か哲学者の言葉で、

「誰もがその気になれば官僚になれる平等な社会、というのは裏を返せば、官僚にならない人間には何の力もない、ということを示している」

 というようなものでした。
 誰だって芸術家になれる、というのは「芸術家でない人には何かの力がない」と考えている人の発言ですね。

 話は少し変わりますが、最近ネットにしても電車にしても、街のいたるところに繁殖している広告のコピーが嫌でしかたないです。僕たちは四六時中「私にお金を払いませんか」という暗喩に曝されて生きているわけです。なんともへんてこな社会。

タピオカ。

2006-05-10 14:34:57 | Weblog
 昨日は友人の短い映画撮影を手伝いに行きました。僕も少しだけ出ています。
 それで、その帰りにみんなしてお茶をして、なんとなく話がアイデンティティについて、みたいになって、僕はそこで今まで思っていたことをうまく言葉にまとめることができました。

 それはワープの話に端を発します。
 ここ数年の量子力学に関する実験は、発展がとても目覚しくて、情報を瞬時に遠隔地に送る量子テレポーテーションを実現してしまいました。理論的には無限遠まで瞬間的に情報を送ることが可能です。そして情報というのは情報単体で存在するものではなく、「何かの物理量」を媒体として表現されるものなので、情報のテレポーテーションができたということは、物理的な何かを遠隔地に転送した、ということと同じです。将来的には「物体」のテレポーテーションは可能になる。

 ただ、このテレポーテーションには注意が必要です。

 今、地点Aから地点Bへコアラを転送するとします。
 Aでコアラの情報を全て読み出し、その情報をBへ送りBでコアラを再生します。

 このとき、AのコアラとBのコアラは「頭から爪先まで全ての状態が等しい」としても、同じコアラではないですよね。なんというか、僕たちはそれを「同じ」だとは思えないですよね。だいたい、Aでもともとのコアラを消滅させないとしたら、Aにはオリジナルのコアラが残って、Bに表れたのは「コピーに過ぎない」ということになります。これは転送ではなくて、コピーの製造です。

 ここでは、かわいそうですが、オリジナルのコアラは情報を読み出されると同時に消滅することにします。そうすれば、見かけ上はコアラがAからBへ転送されたように見えます。Bに現れたコアラはAのときの記憶をそのまま持っているので、「自分はAのコアラと同じだ」と思い込んでいるし、他の人から見てもAとBのコアラは同じにしか見えません。だから、なんだか怖いことに不都合は生じない。Aで消されたオリジナルコアラの「死」を無視すれば。

 僕たちはAとBのコアラを「異なる」というスタンスを取ります。やっぱり、同じでも同じだとは思えない。

 でも、もしもAとBの2点が極々近いとしたらどうでしょうか?

 さらに、もしもAとBが全く同じポイントだったらどうでしょうか?

 コアラはAで瞬時に解体されて、瞬時に復元される。
 これでも、やっぱり解体前と復元後のコアラは別物ですよね。たとえ時間のラグがなくて連続に見えても、やっぱり別物です。

 そして、時間0のうちに解体されて復元されることと、そのときに解体も復元も何も施されなかったこと、はほとんど同じです。
 加えて、我々の体はあらゆる瞬間に「変化」を起こしています。0.001秒前と今は全く同じ状態だ、ということはありえません。体のどこかで何かが変化しています。

 前々回くらいのブログで僕は、意識の連続性というのは単なる錯覚だ、と書きましたが、ここにきて新しい書き方をすることができます。

 僕たちはあらゆる瞬間に死んでいる。
 そして、すこしだけ元とは異なったコピーをあらゆる瞬間に作り出して、それを自分だと勘違いしている。

道の果てでサリーはワルツを踊る。

2006-05-08 14:36:02 | Weblog
 こんにちは。
 随分と御無沙汰してしまいました。キャンプや美術館や、色々なところに出掛けていたのです。それにここ数週間、とても重要なことがあって、僕はパソコンに向かうどころではありませんでした。

 ゴールデンウィークが明けて、街はまるで夏のように強い光を放ちます。肌の表面にはうっすらと甘酸っぱい汗の膜が張って、その匂いがすると僕は夏を想う。地下鉄に乗ると、隣りに半袖にビーチサンダルをはいた気の早い青年が座り、その明らかな姿は時間を超えて漏れ出した、次に来る夏そのものだ。都会のコンクリートを、人々が汗を流し、剥き出しの姿で歩き回る日々がもうすぐやってくる。僕はこの世界を好きだと思う。

 そうだ、友人のミサちゃんが作った『レコードのあるくらし』というミニブックが150円でWorkshop records、paralax records、ArtRockNO1で売られています。僕はとても短い話を一つだけ書きました。もしもよろしければ手に取ってみてください。言い訳ですが、甘々なのはそのような注文だったせいです。もう恥ずかしいくらい甘々に書いてしまいました。

 先日、ある人と、芸術において「製作」と「鑑賞」というのは一体なんなのか、という話をしていて、僕は芸術というものがどういう働きをしているのか、ぼんやりと分かった気がした。
 どうして僕達がそんな話をしたのかというと、それはある授業の一環で(僕がとっているわけではないですが)、そのクラスにおける多数派意見は「製作も鑑賞も実は同じことである」。
 だから、もちろん僕達の意見というのは「製作と鑑賞は異なる物である」というところから始まる。半分はただの天邪鬼で、あとの半分は「~と~は実は同じ」という言い回しにもううんざりだから。

 この「実は同じです」という言い方はもう本当にもっともらしくて嫌になります。「本質的に、実はAもBも同じことなのです。一見異なるように見えますが、でも、私はA,Bの等価性を発見しました」みたいに偉そうな、とても便利な言い回し。
 世界というのは隅から隅まで繋がっているので、「実は同じ」なのは当たり前のことだから、そんなことはもう言わなくていいんじゃないだろうか。音楽学校に進むか、それともイルカの調教師に弟子入りするか迷っている少女に、「人を楽しませるという意味では音楽もイルカも、本質的には同じことだから、君は好きな方をとればいい」というアドバイスをしてもあまり意味がない。それよりも、音楽とイルカはこんなに違うのだ、ということを示すほうがずっと役に立つし、そしてその方がずっと難しい。
 AとBが同じだということは、実はとても簡単なことで、当然のことで、僕達がしなくてはならないのは「A,Bは本当は同じ」だということを分かった上で「A,Bはこんなに違う」というポイントを見つけることだ。

 しかしながら、僕達の議論は「製作も鑑賞も同じ物である」というところに一旦落ち着いてしまいました。
 
 「製作」というものは、「製作手法」によって生じた束縛条件、あるいは偶然から「自分がこんなものを作りたいことを今まで自分は知らなかった」と思うような新しい物を作り出すことであり、「鑑賞」というのは「作品」を見ることによって、「自分が今見ているものを表現する言葉を私は持たない」と気付くことです。

 つまり、どちらも芸術なしには想像することすらできなかった何かに気が付く、という作業です。

 最初、僕たちは「製作」と「鑑賞」の関連を調べるために、「製作にとって鑑賞は必要か」「鑑賞にとって製作は必要か」という二つのテーゼを考えました。

 一つ目の「製作にとって鑑賞は必要か」というのは、言い換えると「鑑賞なしの製作は可能か」ということですが、ここではもっと厳密に「鑑賞者なしの製作者は存在し得るか」という表現にします。このとき鑑賞者と製作者は現実的に「別人」でなければなりません。製作者が作品完成時には鑑賞者に変化する、というのは今は無しです。
 この問いに対して、僕達は「イエス」ということができると思います。実際に誰も見ていない作品というものはこの世界にたくさん存在しているはずです。引き出しにそっとしまわれた詩だとか。少なくともそういった作品は未だ見ぬ鑑賞者(あるいは未来の自分自身)を想定して作られた物かもしれませんが、先に書いたように今はそのことは無視します。

 なぜ無視するかというと、これを無視しないでは「製作」と「鑑賞」の差異を浮き彫りにすることができないからです。存在しないけれど想定された鑑賞者、の存在をありにしてしまっては、一方がもう一方の必要条件になるかという問いかけのもとで「製作」と「鑑賞」の違いをいうことはできません。あり、の時に導かれる答えは「製作は鑑賞を現実には必要としないが、潜在的には仮定された鑑賞を必要とする。また、鑑賞は製作を現実には必要としないが、潜在的には仮定された製作を必要とする。よって両者はともに必要としあう」というもっともらしいけれど、だからなんだ、というものです。

 僕たちは今「製作」と「鑑賞」の差異を見つけたいのです。それらの等価性はもう当然で言い尽くされている。細かな違いを見つけるために、僕らはフィルターの網目を調節しなくてはなりません。高周波に乗った小さな情報を探る為に、ハイパスフィルターの閾値を細かく調節しなくてはなりません。だから今は「製作者と鑑賞者はリアルに別人でなくてはならない」という条件を付けています。なにも一般的な議論をするつもりはないのです。

 この条件下では、製作者のいない鑑賞者は存在できません。製作者がいないとあっては作品もないわけですから、鑑賞なんて無理な話ですよね。

 改めて、

「製作者は鑑賞者を必要としないが、鑑賞者は製作者と必要とする」

 これも、だからなんだよ当然じゃん、といった感じですが、僕としてはぐるっと回って同じ物から違いを拾い出したつもりだったのです。とりあえず、これは議論のワンステップにはなるだろうと思っていたのです。

 しかし、ここに来て強敵が現れました。
 「写真」です。
 写真を撮る、という行為は果たして「製作」か「鑑賞」どちらに属するものなのでしょうか。
 「製作」だとは思うのですが、力強く「製作です」と断定できないひっかかりがある。でも、「鑑賞」でもないな、というのは分かる。だけど、「鑑賞」かもしれないな、という気もする。もしも「鑑賞」でOKなら、鑑賞に製作が要らないことになるかもしれない。さらに、「作品の写真を撮る」という行為は一体何なのでしょうか。

 シャッターを切る、世にも悩ましい一瞬。