jmm。

2007-09-29 16:26:33 | Weblog
 最近、更新ができていないので、さきほど村上龍さんのJMMに送ったメッセージをそのまま載せてしまおうと思います。
______________________________


 JMM御中

 いつも興味深く読ませていただいています。

 [JMM446F]「パスタ・ストライキ、あるいは気候変動」オランダ・ハーグより、を読んでいて、細かいことになりますが一点気になったのでこのメッセージをしたためる次第です。

 気になったことというのは、『パンはこの夏のあいだだけで10%、卵は20%、ベーコンは8%も高くなっている。つまり、トーストとベーコンエッグの朝食が、ほんの2ヶ月のあいだに、4割ほどあがってしまったのであります。』『朝ご飯が4割高になると聞けば、どんなに鈍いひとでも、そのインパクトを実感するのではないか。』という箇所についてで、既にお気づきかもしれませんが、この計算は間違っています。
 パンが10%、卵が20%、ベーコンが8%値上がりしたのであれば、朝食の値上がりは4割ほどではなくて、せいぜい十数パーセントのはずです。
 単純なモデルを考えて計算すれば分かります。値上がり前の朝食に使うパン、卵、ベーコンそれぞれの値段を仮に100ユーロだとすると、値上がり後、パン:100×1.1=110ユーロ、 卵:100×1.2=120ユーロ、 ベーコン:100×1.08=108ユーロ であり合計は338ユーロになります。もともとの合計額は300ユーロだったので、値上がりしたのは約13%です。
 実際にはパンなどの割合があるので、この13%という値は目安でしかありませんが、すくなくとも値上がり率最大の卵が持つ20%という割合を朝食トータルの値上がり率が上回ることは有り得ませんし、インパクトという言葉を用いるのであれば十数パーセントと4割では重みが全然違うと思います。4割りというのはほとんど半額の値上がりに違いイメージを喚起します。

 ヨーロッパで料理番組が流行っているというのはとても面白かったです。
 私は未だ日本国外に出たことがないので、他国の生活を実感としては知りませんが、あるトルコ人の友人と祭りへ言った際、このようなことを言われて驚きました。彼は「日本の祭りは屋台で食べ物を売っているだけで、みんな食べているだけだね。そういえばテレビでも料理やグルメ番組が多いし、日本人は食べることがそんなに好きなのか」というようなことを言ったのです。
 私は単純に「欧米の人はたくさん食べる」というイメージを持っていたので、むしろ日本人というのは食べることに対してあまり関心がないほうではないかとそれまで考えていました。彼はトルコ国籍ですが、ドイツに住んでいたこともあり、私の「それはトルコと比べてのことか」という質問に「トルコだけではなくて欧米に比べてだ。アメリカに住んでいる友達もそんなことを言っていた」と答えました。
 以来、私は日本人というのは食べることに関して結構貪欲な民族なのだと思っているのですが、これはある意味では国の「老成」であり、希薄になった人間関係を修復しようとする作用なのではないかとも思います。
 当然ですが、食事というのは私達の生活にとって最も基本的なものです。それは生命を維持するということだけでなく、コミュニケーションという視点からも重要だと言えます。小さな子供達は鬼ごっこやかくれんぼなど、共通のフォーマットを通じてコミュニケーションをとることができますが、大人になると同じ役割は「食事を一緒にとる」という行為が果たすようになります。多くの大人にとって、形容無しの「遊ぼう」というのは「食事にでも行こう」というのにほとんど同義です。
 さらに、食事を共にするというのは年齢の壁を取り払うことができます。映画にしろ、音楽にしろ、あるいは観光にしろ、ある程度年齢層による分離が否めませんが、食卓は老若男女問わず囲むことができ、他の時間帯をばらばらに過ごす者達が集合する数少ない機会です。グルメ番組が増えるというのは、家族やコミュニティーに対する関心が高くなったことの表れではないかと思います。
 60年代の終わりにsummer of loveがあり、それからもう40年近くが経過しました。ここ数年、クラブでは”民族的な”音楽のイベントが大盛況で、滋賀県の朽木というところでは夏にヒッピーのコミューンを思わせるような野外パーティーが、今年は17日間もあって公安警察も覗きに来るようになりました。
 私は数年前の「カフェブーム」が結構印象に残っていて、今この時期を「ポストカフェブーム」だと勝手に呼んでいます。ウーマンリブが終わり、スローライフということを人々が言い始めたとき、カフェブームはやって来て、そして終わりました。しかし、カフェブームの終焉はスローから再びファーストへ転ずることを意味するのではなく、実際にはよりスローな生活を目指す傾向の表れになっています。ロハスという言葉の他、料理教室へ行く女の子が増えたように思うのです。つまり、バリバリ外食→スローな外食→家で作って食べる、という流れが見えます。そして、その背後には「食事の相手をより身近で親しい人に」ということがあるように読めると思います。
 さらに、料理を始めた人というのは、自然と農業そのものに興味を持ち始めます。私達は、記号で編まれた社会に疲弊して、土に近い方向へと意識を向けつつあるのかもしれません。

 それでは、失礼いたしました。

eat.

2007-09-23 12:49:14 | Weblog
 友達が、部屋のブレーカーを落として海外旅行へ出かけて、間の抜けたことに冷蔵庫の中に食べ物が入ったままだったので帰って開けてみるとそれはもう阿鼻叫喚の地獄と化していた、という話をして、続けてこう言った。

「でも、不思議なことに冷蔵庫の中にはハエもいてさ、とても締め切った冷蔵庫にハエが侵入できたとは思えないんだけれど、そうだとしたら冷蔵庫の中の食べ物にハエの卵がついていたってことだし、だとしたら私たちって日常的にハエの卵を食べているということになるんじゃないの?」

 それはぞっとするアイデアだけど、確かに的を得た意見ではある。
 虫の卵ってどこにあるんだろう。
 食べ物を放置して冷蔵庫内にハエが湧いたという話は、少なくとも僕はあまり聞いたことがないので、この場合はパッキングの隙間やなんかから小さなハエが侵入したのではないかと思う。

 だけど、昔読んだ何かの本では、宇宙空間で野菜を栽培する方法を開発するため、外部とは完全に隔離された実験室みたいなところで野菜を育てようとすると、何故かどこからか虫が発生して困る、ということが書いてあった。土や種に虫の卵があるのだ。将来人類が宇宙ステーションなんかで食べ物も作って長期滞在するようになったとき、人々は無機質な空間を想像すると思うけれど、実はそこには虫との戦いが待ち受けている可能性が大きいんですよ、とその研究所の人は言っていた。

 僕自身、虫は得意じゃないし、多くの人が虫を嫌う。だけど虫と僕達の生活は切っても切れないものだ。それに特に僕達日本人はたぶん結構多くの虫を日常的に食べている。なぜなら大抵の魚介類には寄生虫がいて、数種類を除いては食べても害はないし、大体加熱すると死んでしまうものばかりなのでみんなあまり気にしないで食べているからです。なんというか、海の生き物というのは僕達が普段ぼんやりと思っているよりも多様です。海というと魚や貝を連想するけれど、本当はもっと沢山の小さな虫たちだって暮らしている。

 そういう魚の中で暮らしているような虫達のことは、できれば知らずにいたいような気もするけれど、やっぱり僕達はそういうことも踏まえたうえで物を食べるというのは一体どういうことなのかを考えても良いのではないかと思います。
 小鳥のような小さくてかわいらしい生き物が、結構グロテスクな虫を淡々と啄ばんでいたりするのを見ると、僕は食べるという行為がこの生物界で一体どういうことなのかを考えざるを得ません。普段僕達がイメージする食事というものには、たぶんかなり複雑なフィルターがかけられているのではないかと思います。

JAXA;red.

2007-09-22 11:22:34 | Weblog
 以前から心のどこかでは欲しかったものが、急に爆発的に欲しくなる瞬間があって、僕は昨日からBMXが欲しくて欲しくて仕方なくなり、普段自分が乗っている自転車が急に味気なくなってしまいました。ストリート用かあるいはフラットランド用のを中古で探してみようと思います。スケートボードは路面を選ぶけれど、BMXはほとんどどこででも遊べるし、それにそのまま強力な移動手段になるのでとても魅力的だと思う。
 僕は子供の頃BMXを持っていたことがあって、あのときはそれでも大きな自転車に感じたけれど、今乗るとどんな気分がするんだろう。

 それから、昨日ビレッジバンガードで子供用のおもちゃ電子ピアノを買いました。なぜかというとサーキットベンディングをはじめたからです。サーキットベンディングというのは(狭義では)音の出る電子機器を改造して変な音の出る楽器にすることです。面白いのができれば動画で紹介しますね。

 昨日Tくんが三重から京都に来ていたので、みんなで中華料理を食べに行くとMちゃんとI君が、友ヶ島の帰りに加太の海岸でバーベキューをしたとき僕達が見上げて首をひねっていたものがなんだったのか教えてくれた。

 夕方の海岸でバーベキューを始めて、食べ終わる頃には周囲は真っ暗になっていて、星を見て星座の話なんてしているとMちゃんが「あの赤いの何?」というので、僕達は全員そっちの空を見上げた。それは不思議な光景だった。空の一部分が赤く霧や靄のようになって光っていたのだ。靄のようではあっても、その存在自体ははっきりしていて目の錯覚なんかではなかった。「地上からの光が雲で反射しているのではないか?」とか様々な推測をしてみるものの、これといって納得の行く意見は出なくて、そのうち赤い色も消えてしまったので僕らはすっかりそのことを忘れて京都へ戻った。

 それはJAXAの行ったロケットからリチウムを放出する実験だった、と昨日二人は教えてくれた。
 以下、さっき調べて見つけた記事です。
_________________________
JAXA:ロケットからリチウム放出、初成功 鹿児島

桜島の上空に浮かんだ赤い光=鹿児島市の磯海水浴場で2日午後7時26分、松谷譲二撮影 宇宙航空研究開発機構(JAXA)は2日、鹿児島県肝付町の内之浦宇宙空間観測所から、高度100~300キロの「大気の風」を観測する小型1段ロケット・S520-23号機を打ち上げた。ロケットから放出した高温のリチウムが太陽光を受けて光る様子を調べる国内初の実験に成功した。リチウム蒸気は高度を変えて計3回放出され、地上からも雲のような赤く淡い光が確認された。

 この高度帯は地球の大気と宇宙との境付近で、今回の実験は風を起こすエネルギーとされる電子やイオンの粒子間衝突などの理論的研究を検証する狙い。同機はイオンの運動速度などを測定する10種類の計測機器を搭載した。【新開良一】

毎日新聞 2007年9月2日 22時04分 (最終更新時間 9月2日 22時09分)
___________________________________

 僕達はまさに9月2日のこれくらいの時間にそれを見たし、他にも岡山や宮崎、いくつかの地域で観測されているのできっとこれのことだったのだろうと思う。
 そうか、実験だったのか。

goa.

2007-09-21 12:17:23 | Weblog
 戻ってから1週間ほどはなんともなかった。相変わらず特に音楽を聴きたいという欲求もなくて、ほとんど音楽を聴く事のない日々が相変わらず続いていた。実に静かなものだ、僕は部屋の掃除すら音楽なしに行った。
 ところが、先日ふと久しぶりに音楽を聞いてみようと思い、僕はたまたま目に付いた、もう10年も前にコンパイルされたサイケデリックトランスのCDをプレーヤーに入れて、アンプとミキサーとイコライザーのスイッチを入れた。

 つまるところはそういうことだったのだ。
 とても久しぶりに聞くその音は奇妙なくせに何故かとても心地よかった。
 僕は多分ゴアとかサイケデリックとか、そういった音楽を聴きたかったのに自分で気が付いていなかったのだろう。
 当然、これは山水人のせいに違いない。

 今年は山水人でそんなに踊りまわるというようなことはなくて、僕達はテントを張って川で暢気に喋ったりして、ときどきステージを覗くというような感じだった。だけど、確実に影響は受けて戻ってきたのだなと思う。

 古いトランスをかけてから、しばらくして僕はあることに気が付いた。ここ数ヶ月僕のアパートの近くでは新しいアパートを作る工事が行われていて、その音が煩いし、おまけにここ数日は近所で草刈が行われていてエンジン音が煩い。でも、トランスをかけると、それらの音楽がなんとなく音楽の一部のように聞こえ始めた。他の音楽ではこうはいかない、自分の聞きたい音楽が持っている音以外の音は排除されてしかるべきだ。トランスというのはそういった意味合いで、他の音に対して寛容な音楽なのかもしれない。

 そういえば、2005年の山水人で24時間ゴア・ギルがDJをして、一晩中トランスを聞きながら過ごした僕達は、帰りの車中で、車のタイヤだとかエンジン、風切り音が全部トランスに聞こえるね、頭おかしくなったのかな、という話をしながら帰ってきた。ちょうどそういう風に、今回も僕は騒音を音楽の一部だと感じた。

 どこか、きれいで広くて誰もいないところで、大きな音を出したいなと少し思う。

blue.

2007-09-20 14:29:43 | Weblog
 今月の頭に友ヶ島という島に行った、ということを書きましたが、その島には日本軍の施設跡が残っていて、ネットなんかに出回っている写真では大袈裟にいうとところどころ「天空の城ラピュタ」を連想させるものがあります。
 そのような訳で、僕はここしばらくラピュタを見たいな、と思っていて、それでなんとなくインターネットを検索してみたりしていたのですが、なんと終盤で唱えられる滅びの言葉「バルス」というのはトルコ語で”平和”という意味だという記述がそこここに見受けられてびっくりしました。

 トルコというのは僕にとっては単なる遠いどこかの国でしかなかった。

 2005年の愛知万博へ行ったとき、僕とAは真っ先にトルコ館を訪ねた。それは「お母さんが欲しがってるから。忘れないうちに」というAの言によるもので、そこで彼女は青い石でできたトルコのお守りを買った。僕はなんとも思わないでそれを見守った。

 それからしばらくして、僕の研究室にトルコ人物理学者Oがやってきて、今ではもう2年が経とうとしている。そうだ、トルコといえば、と僕はお守りのことを思い出して、あのトルコのお守りをつけていればOが喜ぶかもしれないという理由で、民俗学博物館に行ったとき、万博でAが買ったのと同じお守りを買った。それをOに見せると、Oは「それそれ、僕もいつもジャケットの内側につけている」と言ってジャケットの左側を捲り、そして彼はお守りをどこかに落としてしまったことに気がついて気を落としていた。

 バルスというのがトルコ語だ、ということを知ったところで、もしもOがいなければ僕はなんとも感じなかったと思うけれど、やっぱりOがいるからには驚かざるを得ない。人の物事に対する関心のありかたというのはそういうものなのだろうなと思う。

 ラピュタに関する記述をいくらか見ていると、そこに僕が小学校の終わりか中学に入った頃に見ていた「ふしぎの海のナディア」というテレビアニメについての記述がでてきて、正直なところ僕はそれが大好きだったので、そういえばそんなの見てたな、と思いながら読んでみれば、その書かれている内容は「ナディアというのは原案がもともと宮崎駿で、没にされたので宮崎さんはジブリで代わりにラピュタを作った」というものだった。そういえば、不思議な青い石を持った超科学古代文明の王家筋である少女と飛行機の大好きな少年が、海賊に追われて旅に出て、結局は海賊と仲間になって強大な悪と戦う、というストーリー展開は両者とも同じだ。そういうことだったのか。
 ならば、僕が毎日腰に付けているトルコの青いお守りというのは、ラピュタの飛行石と全くの無関係というわけでもないのだなと、ぼんやり思う。

stock.

2007-09-19 17:30:22 | Weblog
 もう随分前のことですが、あるブラジル料理店で夜ご飯を食べていると、マスターとカウンターに座ったお客さんの会話が聞こえてきた。どうやらマスターは経済学で博士号を持っているらしく、それを聞いた客がなにやら株の話を持ちかけた。すると驚いたことにマスターは「株で絶対儲ける方法ってあるよ」と言い出して、僕は友達と話ながらびっくりして、どういう滅茶苦茶なことを言うのかとそれを聞いていた。

「絶対に売らないこと。ずっと、上がっても下がっても売らずに買い続ける。経済って波があるから、一旦下がってもまた上がってくるから。それでずっと長い間持ってたら、何十年に一回かくらいは急に上がることがあるから、そのときに売ってしまう。そうしたら家くらいは簡単に建つよ」

 もちろん、こんな話は滅茶苦茶だ。というか、単純に何のことを言っているのかというとこれは銀行にお金を預けておけば利息が付くということにすぎない。

 経済学的には、銀行にお金を預けるというのは「銀行にお金を貸す」ということだ。だから利息が付くのは当然のこと。
 直感的にも明らかなように、今目の前にあって今使うことのできる1000円は、今は目の前になくて使えないけれど1年後に貰える1000円というのよりずっと価値がある。その「一年間の使用不可能」というのをお金に換算して上乗せしたのが利息分です。

 別にお金を貸す相手が銀行でなくても、企業に貸したって同じだ。株を買うというのはその企業にお金を貸すということだし、ずっと株を売らないというのはずっとお金を貸し続けるというのと同義だ。だから、大きな元金を何十年も貸していたならそれなりのお金が上乗せされて帰ってくるのは当然の帰結だし、それば厳密に言えば儲かったということではなく「何十年もそのお金を使うことができなかった」ということに対する穴埋めでしかない。
 さらに、その会社が倒産しないという保障はどこにもないわけだから、「ずっと株を売らない」ということには大きなリスクが付きまとう。

 カウンターのお客さんは感心して話を聞いていたけれど、お金の話なんてほとんど全部胡散臭いということがどうして分からないんだろうかと思う。僕達は限られた資源をみんなで分け合って暮らしているというのに。

ad.

2007-09-19 17:02:17 | Weblog
 広告くらいなんでもないはずだった。

 昔、まだインターネットにみんなが普通の電話回線で接続していた頃、当時のライブドア(多分ホリエモンが買う前だと思います)は画期的なサービスを開始した。それは無料インターネットサービスプロバイダとでも言おうもので、プロバイダに契約してお金を払わないでも、ライブドアに電話をかけて接続すれば電話代以外は無料、ただしブラウザに広告が付きます、というものだった。
 広告が出るくらい別になんでもないじゃないか、と思って僕はそれを利用した。

 初めてホームページを作ったとき、それもやっぱり無料で、ただし広告が出ます、というものだった。このときも僕は目立つものじゃなければ別に広告が出るくらい構わないと思った。

 だけど、最近インターネットに出ている広告が嫌で嫌で仕方ない。ほとんどのネット上サービスが無料で、その収入源を広告に依存していることを思うと、僕達が大量の広告に日々曝されているのは当然で、さらに広告主が広告料金を払えているということは、その広告発信者にそれなりのお金が流れ込んでいることを意味している。

 当然、広告主は沢山の人々がアクセスするサイトに広告を打ちたがり、逆に広告を置いてお金を稼ぎたいサイトの管理者はアクセス数を増やすことを念頭に置き始める。そうしてテレビの民放が辿ったような道を多くのサイトが辿り始めた。日本で最も有名なポータルサイトであるヤフーでも開けば、広告のくだらなさに開いた口が塞がらない。
 そして、さっきも書いたけれど、その下らない広告を打った広告主にそれなりの利益があるということは、その下らない広告に動かされている人間が相当数存在するということだ。インターネットが裾野の広い個人のメディアであるというのは、ある部分では崩壊している。ヤフーなんかはテレビの延長に過ぎない。

 まだ堀江貴文という人がテレビに出てぺらぺらと喋っていた頃、彼は挑戦的に新聞は終わると言った。ニュースはネット上に人気順に出るようにして、世の中の人々の関心が高いニュースを簡単に知ることができるようになる。アクセスの多い記事が自動的に上位に出るようにしておけば、関心の高いニュースから読める。もちろん人気のないニュースも残しておくから、読みたい人は勝手にそっちも読めばいい。というようなことを言っていた。だけど、上位に出ているニュースというのは世の中の多くの人が既にアクセスした、つまり既に知っていることでしかなく、本質的な意味合いではそれはニュースでもなんでもない。まだ誰も知らないことを人々に伝える手段には、それはなりえない。本当に新しいことはそこでは起こらなくて、単に世の中に追従する手段としてだけ働く。
 そして、結局のところ多くの人にとって、インターネットというメディアはそのようなポジションにあるといって過言ではない。雑誌を読んだりするのと同じことだ。

 広告は、だいたいが「お金」か「美容」に関するもので、言葉を置き換えれば「いかにして楽に稼ぐか」「いかにしてもてるか」という二つの欲望に還元されるものだ。
 ヤフー及び、それに準ずるサイトに毎日何人の人がアクセスするのか知らないけれど、沢山の人々が毎日毎日これらのバカ広告を見ていると、その何割かの人々は本当にバカになってしまうのではないかとときどき怖くなる。


rocket.

2007-09-19 16:20:01 | Weblog
 14日午前10時31分、種子島宇宙センターから月周回衛星「かぐや」が打ち上げられた。僕は研究室にいて、ブラウザを立ち上げるとJAXAがネットで中継をすると書いてあったので、そこへ接続して10時くらいから中継番組を見ていた。番組は手作り感全開のものだったけれど丁寧に作られていて、それで打ち上げ数分前からはナレーションのようなものも一切なくなって、純粋に管制官の声しか聞こえなくなった。
 サン、ニ、イチ、と日本語でカウントされた後、ロケットは点火してきれいに空へ登った。僕は人事ながら不具合が起こらない様にと手に汗握る思いでそれを見ていました。
 無事にロケットが飛び立って、しばらく後に自分の精神状態を鑑みると、どうやら僕は少し感動しているようだった。今時、21世紀の初めに、けして大きくない無人のロケット打ち上げを見て鳥肌が立つとは思わなかった。でも、やっぱりそれは圧巻だったのだ。

 インターネットの中継はお世辞にもいい画質ではないし、画面だって小さい。迫力という意味でなら、何度かテレビで見たアメリカやロシアの打ち上げの方がずっと勝っていた。僕が心動かされたのは映像や迫力ではなくて、その裏に存在するはずの苦労や何かにだろう。

 僕はどちらかというと科学を好むタイプの子供だったけれど、正直なところテレビでロケットやシャトルの中継を見たってそんなに面白いとは思えなかった。それは、背後にある膨大に積み重ねられた科学者や技術者達の労力をイメージできなかったからだ。今はそこに僕が想像しきれないような努力の蓄積を感じとることができる。実際に自分で何かを作ったりしてみれば、大抵のことは見た目よりも難しくて時間も沢山かかる、ということをようやく大人になって知りつつある。子供の頃に見てもつまらなかったイルカのショーで涙を流しそうになったりしてしまう。

 ロケットの打ち上げなんてどれも似たようなものだから、僕はそういったものを見ることにほとんど興味をなくしていて、今回の「かぐや」打ち上げはほとんど偶然に見たものだった。前回打ち上げを見たのがいつかはもう覚えていない。でも、感動したのははじめてで、大人になるというのはこういうことなのかもしれないなと思いました。

sunny sony.

2007-09-18 13:47:31 | Weblog
 rollyを見て、久しぶりにソニーをかっこいい会社だなと思った。
 僕は基本的にソニー製品のデザインが好きではないので(デザインで売れたといわれるバイオもどこが良いのか理解に苦しむ)、ソニーの製品は遠巻きに眺めてしまいます。最近は他社の製品と特別な差異を持たない会社に見えて仕方がなかった。

 ところが、rollyはデザインはさておき会心の作だと思います。あまり売れはしないでしょうが、コンセプトはすばらしいと思う。
 近々、ソニーが対ipodとなる製品を発表するらしい、という噂が流れ出したとき、ほとんどの人は同じような携帯MP3プレーヤーを心にイメージしたんじゃないだろうか。それが、動く音楽プレーヤーだとは。

 1979年にソニーは「ウォークマン」を世に送り出した。それは大袈裟でなしに世界を変えた。個人で音楽を、いつでもどこででも楽しめる、というスタイルは以来人々に浸透し、20年経って気が着いたらアップルのipodができて、ほとんどヘッドホンで聞く携帯音楽プレイヤーは完成の域に達したと言えるだろう。
 そんな時期に、ソニーはヘッドホンではなくスピーカーで、つまり個人ではなくみんなで一緒に音楽を聞くための小型プレーヤーを発売した。自らが始めた「個人リスニング」の世界をあっさりと置き去りにして、自分は次のステップへ進んでいる。rollyには人工知能が搭載されていないので、ロボットと呼ぶには抵抗があるけれど、コンセプトとしてこれはいつでも自分と一緒にいて音楽を奏でてくれる(しかもダンスもする)ロボットだと言ってもいいと思う。どこの会社も作らなかったけれど、SF的に考えればこれはしかるべきベクトルだった。

 個人視聴型音楽の完成形ipodが、遂に一切の物理的インターフェイスを排除して、操作を全てタッチパネルで行うという形に至ったとき、ソニーは液晶パネルを持たず操作はボディーそのものを物理的に動かして行うというrollyを作った。

 何を感じたのかというと、僕は少しほっとしたのです。

 話を2年前に遡ると、2005年は日本で愛知万博が開催された。だけど、これはI君の言葉を借りればハリボテ万博だった。ほとんど全てのパビリオンが「音と映像」に終始していて、「物理的実体を持った何かを体験する」ということはほとんどできない。現代を象徴するように、そこにあるのは「情報」だけで、「実物」なんてものは、もはや無視されかかっていた。

 世界はどんどんと仮想化している。
 最近もっとも嫌いなテレビのCMは、どこかの会社のもので、ラグビーの試合に負けた傷だらけの少年を、その恋人みたいな女の子が触って「痛いじゃないか、やめろ」みたいなことをいうやつです。その後、女の子は「薬をつけてあげる」といって軽く男の子の頬にキスをして、そこで「欲しいと思うテクノロジー第○○位。感覚伝導フィルム」というようなキャプションが出る。カメラが男の子を撮る角度を正面から横に変えると、そこには本当は男の子なんていなくて、それはテレビ電話の画面に過ぎないということが分かる。しかし、未来のテクノロジーでは、画面に触れた感覚を伝えることができるので、この2人の恋人は離れたところで触感を伴ったコミュニケーションがとれるのです。素晴らしいですね。私達はそんな技術を志向する会社です。素敵でしょ。というものだ。

 僕はこのCMを見たとき恐怖に襲われて、大袈裟に言えば吐き気を覚えた。
 こんなものを作ってはならないと思う。代わりに世界中のどこへでも10分で行けるような乗り物を開発したりしなくてはならないと思う。情報だけを送って、僕達のこの肉体というのはどこまで無視されるのだろう。

 rollyはそうしたものに対する一つのカウンターである。このプレーヤーが踊る体を持つことは、僕達自身が身体を取り戻すことの象徴だ。今からほとんど30年前にウォークマンが始まったように、ここから何かが始まるのかどうかは誰にも分からない。しかし、近い将来、僕達は僕達というのがこの生物学的な肉体そのものであることを再認識するんじゃないかと思う。

 

premier.

2007-09-13 14:09:16 | Weblog
 昨日、安倍首相が辞任されてどうしてだか自分でも良く分からないけれど、それなりにショックを受けた。僕は政治に関心の薄い人間で、安倍総理に特別の興味があったというわけでもなく、ましてや前回の選挙以来ほとんど完了形で語られるようにもなった「自民党は終わった」という意見に賛同をすら覚える者だ。でも、安倍総理の辞任はショックだった。
 テロ特、あるいはイラクのアメリカ支援で、民主党が口をすっぱくして言っている不透明性の下に一体何があったのだろうと思う。日本はアメリカ軍に供給している石油を標準的な値段の3倍でどこからか購入していて、はっきりは分かっていないけれど、その購入先はアメリカではないか、と言われている。つまり、アメリカから異常な価格で石油を買ってそれをアメリカにあげているという訳の分からないことが起こっている可能性がある。
 ただ、こういったことが本当に起こっているのであれば、それは誰が見ても変なことであって、それを死守しようとした安倍総理達は一体何を見ていたのだろうと考えざるを得ない。政治には必ず秘密が付きまとう。本当は何か理由があるのだ。

 先日、日本語がしゃべれないOの代理で電力会社に電話をして、新しいOの部屋の電気料金申し込みを行った。一通りの申し込みを終えた後、係の人はこう言った。「そちらのお部屋は湯沸かし器が電気式になっていて、電気料金の安い夜間にお湯を沸かすようになっていますので、湯沸かし器の時計が狂っていないかだけはチェックして頂けるようお願いします」
 なんとも親切なことだ。
 でも、僕は電力会社のオペレータがちょっと調べるだけで、その部屋の湯沸かし器のことが分かってしまうなんて、一体電力会社はどれだけのデータを持っているのだろうと怖くなった。電力会社はそれほどではないかもしれないけれど、電話会社だとか保険会社だとか、そして、日本政府。政府の持つ情報というのは生半可なものではない筈だ。

 メディアを含め、市民はあれこれと勝手な詮索をすることが可能だ。時代はなんといっても平和時代で、何を言っても大抵は許される。でも、本質は蚊帳の外からじゃつけないだろうなと思う。全ては後から理解されるだけだ。
 つい先日、安倍総理が「給油の延長に職を賭す。役職にしがみつくつもりはない」と言ったとき、発言意味が理解できない。やけに成ったのか?というような憶測が飛んだけれど、結局はこういうことだった。

 昔、三谷幸喜さんの脚本で総理大臣をテーマにしたドラマがあった。「総理と呼ばないで」というタイトルで、田村正和が総理大臣の役をやっていた。結局、内閣は支持率が全然なくてスキャンダルか何かで総理が辞めてしまうのですが、本当は何かを庇って彼は辞めた。マスコミや世間には酷く叩かれ、歴代最低の総理大臣として扱われるが、総理官邸側の視点で描かれたドラマを見ていれば、マスコミの連中はただのバカな野次馬で、結局事情を知っているのは内部のものだけだった。
 以来、似たようなことは常に起こっているのだろうな、という想像力を失わないように政治のニュースを聞くことにしています。