出征した犬達

2012-10-29 15:40:13 | 書評
「殺してやろうと思って」と、温厚そうな青年が淡々と言うので、テーブルは一瞬間の静寂に包まれた。彼が殺そうと思ったのは野良猫だ。ある席でのことで、彼とはほとんど全員が初対面だった。「いやね、猫が来てね、庭に、ウンチするんですよ、それが臭くてね」、だから殺して当然でしょ普通にという含みで、毒を撒いてやったと、カジュアルに彼は言った。僕達が「ええー!?」と思っていることには気づいていない様子で、僕達が猫を殺すのは可哀想じゃないか、ということを言っても全く取り合ってくれなかった。それ以上言うと彼に「あなたは気が狂っています」という宣言をすることになるので、初対面の大人として話は逸らされ、何事もなかったかのように処理された。
 結構衝撃的だった春の話です。

 先日、飯田基晴監督の著書「犬と猫と人間と」を読みました。
 前回の記事で、同じタイトルの映画を紹介しましたが、それはまだ見ていなくて、先に本が手に入ったので読みました。
 良い本でした。
 読み触り、と言ったら変だけど、手触りの良いように丁寧に、しかしシリアスに書かれた本でした。犬や猫の殺処分について、あるいは人と動物が共に暮らすことについて、それが本の主題でもあるし、色々な考えを持ちました。

 ここでは、話の重要さとは少し別のベクトルで、全く知らなかったことで、とても驚いたことを書きます。
 それは、戦争中に人だけではなく犬も「出征」したということです。



 なんだこれは?
 というのが、最初に写真を見た時の感想です。悪い冗談かと思いました。

 下に写真を載せた回覧板にはこうあります、
  
『 私達は勝つために犬の特別攻撃隊を作って
  敵に体当たりさせて立派な忠犬にしてやりませう
  決戦下犬は重要な軍需品として立派な御役に立ちます
  また狂犬病の予病の一助としても
  何が何でも皆さんの犬をお国へ献納して下さい 』



 また1944年11月11日の朝日新聞には、

『 狂犬の汚名を受けるよりは死をもってお国の急に殉じようと、ワン公が揃って晴れのお召に応じた。立川署管轄内昭和町の全畜犬がお世話になった飼主の手を離れ、近く某航空研究所の大切な資材として、赤襷姿も凛々しく応召する。
  「飼犬も食べるものがないので最近では次第に気が荒み、中には狂犬になるのも多いのです。この際小さな愛情を棄て、進んでお国に捧げようじゃありませんか、犬死にといいますが犬の皮は飛行服に、その肉は食肉にもふりむけられるのです」との矢根署長の話が実を結んだもの 』

 とあるようです。
 なんとも嫌な記事です。
 犬が実際にどう使われたのかはともかく、1944年12月には軍需省化学局長・厚生省衛生局長が犬の献納を徹底するようにと通知を出し、運動は強制力を強めた。犬を差し出さなければ非国民というわけです。神奈川県だけで1944年の7,8月の二ヶ月で約1万7000頭が差し出されて薬殺処分した記録があると書かれていました。
 なんだこれは本当に。

 

 

犬と猫と人間と
飯田基晴
太郎次郎社エディタス

犬が不幸だとしたら

2012-10-17 19:28:20 | Weblog
 糸井重里( @itoi_shigesato )さんのツイートで、『犬と猫と人間と』( http://www.inunekoningen.com/ )という映画を知りました。映画自体は2009年に公開されたもので、主に日本で殺処分される犬や猫のことを扱っているようです。この映画はある一人のおばあさんが、お金は出すので犬や猫を取り巻く現状を人々に知ってもらえるような映画を作って欲しいと、飯田基晴監督に依頼したのがきっかけで撮られたそうです。
 おばあさんは映画の完成を待たずして亡くなられました。

 何度かこのブログでも触れていますが、日本で一年間に殺処分される犬と猫は30万頭くらいいます。僕は何年か前にはじめてこの数字を知った時、何かの間違いだと思っていたのですが、事実でした。本当に衝撃的だった。
 けれど、衝撃的だったけれど、僕は何もしませんでした。

 まだ大学院にいた頃、ある真夜中に隣の研究室の友人がふらりとやってきて「僕達はこんなことしてていいのだろうか?」という話になったことがあります。こんなことというのは、もちろん研究のことです。僕も彼も物理学をやっていたのですが、世界に今現在たくさん存在している社会的な、あるいは命に関わる問題を無視して、自分の好きな研究をしてて、こんなことが本当に許されるのだろうか、というような内容です。

 先日、昔数学を教えていたある生徒から「世界には衣食住で困っている人がたくさんいるから自分は衣食住では贅沢できない、でも本当はたとえばおしゃれしたりもしたくて、どうしていいのかわからない」というメールをもらいました。
 基本的にその生徒の言うことは正しいと思います。僕は正直なところ自分もその問題に苛まれていてどうしていいのか分からないと答えました。そして、これも自分勝手な話だけど、でも、僕の知っているあなたには悩みつつも楽しくおしゃれして欲しいとも思う、と言いました。

 また、大学院では芸術に関するセミナーにも出ていたのですが、その中でも「餓死する人がたくさんいるこの世界で絵を描くなんてことに全力を傾けていいのか?」という話をしました。
 結論は出ませんでしたが、なんというかOKだということにしないと生きることはまったくもって詰まらない、世界をフラットにしてからでなければ先に進めないというのはなんかちょっと絶対とてもなんだか嫌だなあ、という実に曖昧模糊とした見せかけではあるけれど、日本に生きている勝手でか、実は明確に、とりあえず問題は見えないことにして絵を書きましょう、ね、ね、という雰囲気で話は終わりました。

 たった一度の人生だから、自分の好きなことを思う存分にしたい、人の役に立つことよりも自分の好きなことをしたい、その辺りの問題は見えないふりして、自分の好きなことをして暮らしたい、という風に思ってしまうこの性を、僕はどのように扱えば良いのでしょうか。
 どうして世界には何かを助けるためではない仕事が溢れていて、それに莫大なコストが掛けられていて、さらにそこで働く人達はシリアスなことをしているつもりになるのでしょうか。
 僕達はサッカーを必死に観戦します。感動してとても素敵なことだと思ったり。でも実際はボールを蹴っているだけの話です。僕はサッカーが好きだし、サッカーをしたり見たりして喜んでいる人のことを非難したいわけでもなんでもありません。ただ、どうして人間は誰かを助ける行為にではなくスポーツのようなことに必死になることができるのだろうという素朴な疑問がずっとあります。

 夜中に研究室で友達と話していた時、たとえとして羽生善治さんが上がりました。僕もその友達も将棋が好きだというわけではないのですが、さすがに羽生さんのことは知っていて、さらに彼のことをかっこいいなと思っていました。だけど、僕達は自分たちがどうして羽生さんのことをかっこいいと思うのか良く分からなかったのです。だって、将棋のコマを動かしてゲームしてるだけですからね。めちゃくちゃ強いゲーマーなだけですから。何の役にも立っていないし、将棋の戦法を除いては特に何も生み出していない。
 なのに、どうして僕達は彼にしびれたりするのでしょうか?

 僕は今とてもつまらないことを書いていることを自覚しています。
 世界には生活には人間には彩りや輝きが必要で、それは別に人助けにも実用性にも関係のないことで、そういうキラメキがなくては人生味気なくて、ええ分かってるんです。人助けとか実用性とかいうと詰まらない人間みたいですよね、まるっきり。あるいは偽善みたいですよね。また来た、こういうの、って。

 そこがわからないんです。
 感覚としては僕は「人助けとか実用とかっていいことだけど基本的につまんない、それより役に立たなくてもきれいなものを!」って、どちらかというとそう思いがちな人間です。
 けれど、どうして自分がそういうふうに思うのかが良く分からないのです。たぶん僕だけではないと思います。
 仮設住宅がまだ足りないのなら、仮設住宅をせっせと作る方が本当はいいのではないかと思うのだけど、でもせっせと仮設住宅を作っている人よりも、「味気ない仮設住宅の壁に明るい絵を描きます!」みたいな活動の方が注目されたり、参加したいと思われたりします。
 もう自分でも嫌になるくらいつまんないことを書きますが、壁に絵を描く暇があるのであれば、新しい仮設住宅の部材でも運ぶ手伝いをした方が本当はいいのではないか、と、本当にそういう詰まらないことを僕は思ってしまうし、でも、じゃあ自分がどっちに参加するかと問われたら、なんとも絵を描く方を選んでしまいそうな危惧を抱いています。なんなんだお前は、という話ですね。なんなんだ僕は、というのが実際に僕の抱いている疑問です。

 そういうことを友達に話していると、そりゃ目の前にいる人が悲惨な状態なのと、音楽でも聞いて飛び跳ねて笑っているのじゃあ、話は違うし、嫌なことからは目を逸らしたいと思うのは当然だと思うし、前者が単純には楽しくないのは当然だ、と言われました。
 まとまりのない話で申し訳ないです。
 そのあと、僕達の会話は「清掃活動の人」に移りました。ちょうど友人の職場の人が、その日の出勤時「清掃活動」に出くわして、なんだか気分を害したという話をしていたらしいのですが、それに似た感覚を僕も抱きがちなので色々と考えてしまいました。
 清掃活動というのは、お揃いのユニホームだかゼッケンだかを着て、お揃いのゴミ袋を持って街の何処かをニコニコと掃除している人達です。無償のボランティアです。完全完璧に、どこからどう見ても良い事をしていて誰にも迷惑を掛けていません。
 なのに、どうしてその友人の同僚や僕は、彼らに「おはようございまーす」とか笑顔で言われると嫌な気分になってしまうのでしょうか?

 今日は自らの矮小さを曝け出していますが、実は数ヶ月前に僕は以下のような文章を書いています。このときは自分が下らない人間だと思われるのが怖くて仕舞いこんでお終いにしていました。中途半端ですが、それをここに載せて終わりにします。
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 ずいぶん前に、ツイッターを使って宿を提供してくれる人や車に乗せてくれる人を探しながら"タダで日本一周する"という女の子がいた、と思う。彼女が結局のところ日本一周をしたのかどうか僕は良く知らないのだけど、そういう女の子の存在を知った時あまりいい気分がしなかった。人の好意を最初から宛にしてそういうことを行うのはなんか舐めてるなと思っていた。
 自分のそうした感情に、特に何の注意も払わずにいたのだけれど、数ヶ月前にやってきた同居人の友人と話していて考えが変わった。
 彼は仙台に住んでいて、九州の方を回った後、京都まで僕達の家を訪ねてくれた。ヒッチハイクをしたり知らない人の家に泊めてもらったりもするということだったので、話の流れで僕は前述の女の子のことを持ち出した。そして「そういうのはなんかムカつく」という感じのことを言いそうになり、これでは彼にも文句を言っているみたいでなんか悪いなあ、と思った瞬間に「ところで一体彼女の何に僕はムカついていたのか?」という疑問が頭をもたげた。
 そういった人の好意を宛にした旅のスタイルに疑問を持っていたけれど、でも考え直してみれば一体どこにムカついていたのか良く分からない、と僕は素直に言った。

 旅行者自身は旅を助けてもらって嬉しい。
 泊めてあげた人も遠くから来た旅人を迎えて楽しい。
 乗せてあげた人も同様に楽しい。
 誰も困ったり嫌な思いをしたりしていない。
 なのに、関係のない僕が勝手に嫌な思いをしている。

これは単に僕の心が狭く偏狭で、そして楽しそうなことをしている人々を妬んでいるということに過ぎないのではないだろうか? 
 こういう「調子に乗っている人がなんかムカつく」というのは一体何なんだろう。僕はどうして調子に乗って勘違いであろうが何であろうが気持よく生きている人に向かって文句を言いたくなったりしてしまうのだろうか。自分が何も成し遂げていない小さな人間だからだろうか。何かの変な道徳観のせいだろうか。色々な不満を抱えて生きているせいだろうか。生来の性質のせいだろうか。
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犬と猫と人間と [DVD]
飯田基晴
紀伊國屋書店