半島から見た海のヨット。

2005-05-15 21:30:19 | Weblog
 いつも選ぶべき話題を間違える。
 電車を降りたあと、なんであんな話をしたのだろうかと後悔した。
 他に話すべきことはいくらでもあった。

 今日は松尾でバーベキューをしました。
 待ち合わせ場所に向かう電車の中で、僕は山折哲夫の「死の民俗学」という本を読んでいたのですが、冒頭でイギリスの歴史家ジョン・マクマナーズの「死と啓蒙」から文章が引かれていた。

 「死者を塔に吊るして猛禽にゆだねるペルシアのゾロアスター教徒、死者の顔に絵の具を塗るアメリカ・インディアン、自分の小屋に骸骨を吊るしておくブラジル人、王の皮膚に砂を詰めるヴァージニアの土着民、先祖の骨を粉にして酒に入れるオリノコ川流域の未開人、壷に死者の灰をうやうやしく保存する日本人、さらに、死体を切り刻んで陶器の鉢に貯蔵しておくバレアレス諸島の未開人たち・・・」

 こうして、さまざまな死に関する変わった習慣を挙げ連ねて、その中に日本の骨壷のことを書かれるととても奇妙な気分になる。
 僕だって何度か骨を拾ったことがあるし、骨壷を抱えたこともある。もちろん、それは日本人の感覚から言えば死者に向かい合う極ありふれた手段の一つだ。でも、死者の骨を保存するというのは確かに自然なことだとは言い難い。控えめに言ってもずいぶん変わっていると思う。昨日までそうは思わなかったけれど。

 やっぱり、自分のことを外から見るという行為はとても難しい。

 こういうことを話しても良かったのだ。明るい話題ではないけれど、それでもまだましというものだ。電車は明るい五月の午後を走り抜けていた。電車には比較的たくさんの人々が乗っていた。休日の明るい午後に電車がガラガラになったりはしない。僕たちはたぶんバーベキューの煙にいぶされて、バーベキューの匂いを車内に持ち込んだのだろうけれど、さんざんに煙を吸い込んだ僕らにそれは分からない。

 硬すぎるプレッツェルとジャスミンティー。
 甘すぎるチョコレートとゾウの群れ。
 いい加減なピンクで塗りたくった彼の絵をどうか分析しないで欲しい。

 

チェッカー。

2005-05-15 02:48:15 | Weblog
 昨日の夕方、慌てて図書館へ行き、閉館間際の10分間で本を適当に借りた。
 レヴィナスと村上春樹と山折哲夫と、それから「やってみよう、地域通貨」という変わった本を借りた。

 「やってみよう、地域通貨」といタイトルには本当にインパクトがある。
 「やってみよう、編み物」だとか「やってみよう、ガーデニング」ならば話はまだ分かる。誰だって、うん、ここは一つやってみるか、と感じるに違いない。
 でも、この本が扱うのはなんといっても「通貨」なのである。もちろん、地域通貨というのは普通の意味合いで我々が普段用いる「通貨」という単語とは意味が異なる。たしかに編み物やガーデニングと同じような感覚ではじめることができるかもしれない。ちょっとした組織が必要となるので「作ってみよう、サッカーチーム」だとか「作ってみよう、バンド」というのにより近いかもしれない。

 ざっとその本を斜めに読むと(そんなに面白い本というわけではなかった)、地域通貨というのは「本物のお金」と「ただ」の中間を埋めるような存在であることが分かった。

 たとえば、一人暮らしのおじいさんのことを考える。

 彼はたぶん82歳で、まだ比較的元気が良くて、それから庭の手入れが得意かもしれない。あるいは名前だって亀谷宗吉朗さんというのかもしれない。
 宗吉朗さんはもう12年も一人で暮らしていた。鳥が大好きなので、庭には小鳥の水飲み場と、お米やパンの切れ端を入れておく白いお皿がのった古い机があった。宗吉朗さんは毎朝、だいたい6時かっきりに小鳥の水とお米を取り替えた。
 小鳥達のほうも、いい加減に心得たもので、朝の6時になると宗吉朗さんの庭にやってくるように習慣が付いていた。宗吉朗さんは、そうして鳥達が集まってくると、「ん、ん」と小さく唸り(もちろんそれはとても穏やかな唸りだ)、鳥達はゆったりと水を飲み、お米を食べた。
 庭は、手入れの得意な宗吉朗さんのことだから、それは実に気持ちよく作られていた。庭木の他に、いくらか鉢植えの花も飾ってあり、一つだけ捻くれた形の苔むした石灯篭があった。手水鉢にはいつも鮮やかな花びらが1枚浮かんでいた。

 こうした、とても静かな暮らしというものは、それは確かに素敵ではあるが、時々、宗吉朗さんは寂しくなった。
 なんといっても、一人で暮らしているのだ。

 さて、地域通貨のことを書かなくてはならない。
 ここに、地域通貨を用いて宗吉朗さんを庭師として雇う、ということを考える。

 もしも隣に宗吉朗さんが住んでいても、自分の庭を「時給1200円くらいでちょっと手入れしてもらえませんか?」と頼むのは、なんとなく気が引ける。たぶん、人の良い宗吉朗さんのことだ。「いいえ、そんな、ただでいいですよ、もちろん」と請合うに違いない。
 だけど、頼むほうだってただで働いてもらうのは心苦しい。

 そんなときに「地域通貨」を使うというわけである。
 たとえば、単位を「プリン」と定めるなら(本物のプリンではない)、「じゃあ5プリンで、お願いします」「わかりました、では5プリンで」となるわけである。

 そして、宗吉朗さんは、その5プリンで斜め向かいの家に住んでいる少年からギターを教わった。

 つまり、地域通貨プリンの交換によって地域内のコミュニケーションやなんかが活発になると言うわけです。
 すこし恐ろしいことに、この地域通過には「時間が経つと価値が失われていく」という性質を持つものがいくつかあります。それは「早く使わなくては価値が減る」のでみんながその地域通貨を早く使うようになり、結果的に地域内の交流速度は加速する、というわけです。

 つまり、この通貨の目的というのは地域の活性化に他ならない。地域通貨の使用は、コミュニケーションであり、お金のための経済活動とは次元の違う経済活動が発生し、それは僕らの生活を楽しくする可能性を持つ、ということです。
 かつてレヴィ・ストロースが言ったように、僕らは交換によって成立しているし、これはなかなか楽しいアイデアかもしれない。

 そういえば、佐藤雅彦さんが小学校の頃、学校で牛乳瓶のキャップが通貨として通用しだしたという話があったけれど、あれはまさしく地域通貨だ。

 やってみよう、とはあまり思わなかった。

 

まるで外国みたい。

2005-05-12 17:27:04 | Weblog
 外ではひどい雨が降っていて、僕としては本当は食べ物を買いに行きかったけれど、でも部屋の中にいるしかなかった。考えてみるとそれほどお腹がすいている、というわけでもないような気がした。

 身体性、ということを時々考える。
 言葉の持つ身体性、あるいは絵画の持つ身体性。なんだって、僕らが身体を持つ以上、人間の周囲には常に身体性というものがついてまわる。

 建築に携わる先輩が「コンピュータで図面を書くようになってから、人の図面を見てもどこに着目すればいいのか分かりにくくなった」と言っていた。
 どういうことかというと、手で図面を引いた古き時代においては、人は間違いを消しゴムで消さざるを得ないし、そうするとどうしても消した跡が残ってしまう。簡単なところならば大した消し跡は残らないけれど、自分のこだわりやなんかで何度も推敲したところは消し跡が沢山残って汚くなる。その汚い部分が苦労したところであり着目すべきところなのだ、という理屈である。

 なるほどな、と僕は思った。
 もちろん、本来なら「消し跡」のような本来図面に書き込まれるべきではないものを頼りに図面のポイントを探るべきではないのかもしれない。純粋に建築学的に、書き込まれた線と数字を眺めて、その中から重点を見つけるのが本当の在り方かもしれない。

 でも、やっぱりこういう話を聞くと嬉しくなって、やっぱり手書きがいいですよね、と言いたくなるのは僕だけではないと思う。

 たぶん、ここで「手書きの図面は身体的」であり、「コンピュータで描いた図面」は身体性が欠落している、という単純な構図はあまり意味がない。意味がない、というか間違っているとすら言える。
 身体性という言葉は基本的に定義が不可能な言葉だし、この言葉に関して他の人々とコンセンサスをとることはとても難しいと思う。そもそも言葉としてなんだか違和感すら覚えることもある。

 身体性という言葉は、神という言葉に似ている。
 僕らは神という言葉なしに神を思考することはできない。でも、神という言葉では本当の神を表すことはできない、という事も知っている。なぜなら神はすべてを包含していて、言葉は決して神を包含し得ないからだ。僕らはとりあえず神という単語を使う。神を表す言葉がないからといって黙りこくるわけにもいかない。
 身体性というのも「その手の」言葉なのだ。
 身体性は身体性を表すことができないけれど、でも、僕たちは身体性という言葉を用いなければ身体性を考えることはできない。つまり、どこへも行けない。

 構図としては間違っているけれど、ある意味では正しいとも言える。
 あるときには「手書きの図面は身体的」であり「コンピュータで描いた図面は身体的ではない」し、また他の場合には「手書きの図面は身体的ではなく「コンピュータで描いた図面は身体的」である。
 ひどく曖昧な書き方になるけれど、でもこれは「要は解釈によるんでしょ」ということではない。答えは一つしかない。

 僕はいつの間にかコンピュータで文章を書くことが多くなった。多くなったしというか、紙にペンで書くことはほとんどなくなってしまった。
 でも、かといってコンピュータで書くことに身体性を感じないかと言うとそういうわけでもない。

 ただ、ときどき計算を紙の上で行っていて思うのだけど、果たして僕は同じように数式を変形していくという行為をコンピュータの上で行うことはできるのだろうか。
 どんなにすぐれたワープロソフトがあってもできないような気もする。

 ひどい雨と、遠くから聞こえてくる犬の吠える声のせいで、まとまりのない文章になった。

 最近の携帯電話はメールの文章を半分勝手に予測して勝手に候補を出してくれます。あの機能を用いていると誰かに自分の脳みそをひっつかまれて、そしてゆっくりとスライスされて違う順番に貼り付けなおされているような気分になる。
 コンピュータ機器やテレビが子供たちの頭を蝕む、というような議論にはあまり加担したくないけれど、最近は子供たちも携帯電話を持っていて、人事ながら心配になることがときどきあります。あんな変な機能を使っていては携帯電話みたいな人間になるのではないかと思う。

 どうかんがえても、携帯の予測機能から僕らは影響を受けるし、それならいっそのこと「元気になる予測機能」としてポジティブな言葉ばかり出てきてしまう、とか「悲しみに浸るモード」とか色々作っても面白いんじゃないだろうか。
 たとえば、元気モードに設定しておくと、朝どうにも体調が悪くて待ち合わせをキャンセルしたいときでも「ごめん、今日買い物の約束してたけど、朝起きたらなんか熱があるみたいで、」と書くと「予測候補;①でも熱あるほうがふらふらして面白いから、②顔色いつも悪いって言われるけれど、今日は結構赤いし、③おじいちゃんが熱のあるときは買い物に行くといいと言っていた、④大根も買っていい?」というような候補が出てきて、ついつい買い物に出掛けてしまう、という次第です。

 雨が止んだので、何か食べ物を買いに行こうと思う。たぶん、大根は買わない。

手紙。

2005-05-09 00:09:01 | Weblog
 スターバックスでエドガー・アラン・ポーを読みながら待っていてくれると言うのなら、僕としてはどんなに雨が強く降ろうとも出掛けるしかない、しかも、彼女は夏が終わればヨーロッパの小さな国に留学して、たぶん1年か2年はもう日本に戻ってこないのだ。

 水曜の夜、中学を出てから全く会っていない友人に再会した。
 その小さなイベントには他にも、2,3年会っていない昔のバイト友達と、半年近く会っていない古い友達も来てくれた。
 僕とユミちゃんが店に着いたときには、既にみんな来ていて、呼んだ本人が一番遅れて実に申し訳ない思いをした。

 中学卒業以来会っていないと友人に会うのは、どんな気分がするのだろうと思ったけれど(実に11年振りのことだ)、とても普通で大した感慨を抱くことはなかった。
 もちろん、11年と言うのは結構長い時間だし、彼はシステムエンジニアになっていて一人前の大人になっていた。前にあったときはまだ15歳で、僕らは「大人にならなくては分からないこと」をほとんど何一つ知らなかったし、大体その存在自体を大人たちの詭弁ではないかと疑っていた、でも、今はもう26歳で「大人にならなくては分からないこと」が本当に世の中には存在するのだと知っている。つまり、大人になった。

 子供の頃は「大人になる」ことがとても嫌だった。人は年をとるにつれてどんどんと汚れていくのだ、鈍くなるのだ、という物語がたくさんあるせいだと思う。たとえば、子供にしか見えない妖精だとか。
 たしかに、子供にしか見えない妖精というものはこの世界に存在している。でも、思うのだけど、大人にしか見えないものはもっとずっとずっと沢山存在しているのだ。10歳の時の僕には見えて、今の僕には見えないものは確かにあるのだろうけれど、でも26歳の僕には10歳の僕よりもたくさんの物事を見ることが可能なのだ。

 その夜、中学生の時から知っている僕ら3人に関して言えば、外見もそんなに変わってはいないし、年をとり肩書きが変わったものの本質的には何も変わっていなかった。
 きっとそういうものなのだと思う。

 株の話を振ると、彼はシステムエンジニアだけど経済学部卒で、今も銀行のシステムを作っているので、いくらかそのような話を聞くことができた。
 年をとることがとても素敵なことのように思えた。
 子供の頃、僕らは単なる客で、高校生や大学生になると友達がウエイターをしている店ができ、22歳を過ぎる頃からはあらゆる業界にプロとして生きている友達の姿を見ることができる。

 次の夜、つまり木曜日の夜には、日本最大手のインテリアデザイン会社で働く友人に会った。こちらも久しぶりの再会で、彼は僕よりも年上で就職してから3年目だけれど、最後に会ったのは彼の大学院の卒業式の日で、じつに2年ぶりということになる。
 今、愛知万博を手掛けているということなので、万博の内情のような話を聞くことができた。もともと頭のいい人だな、とは思っていたけれど、プロフェッショナルになっていらして頼もしい限りだった。

 だんだんと、友達に会うスパンが長くなる。
 遠くに行ってしまったり、仕事を持って忙しくなったりして仕方ないことだけど。
 でも、長く会わなくても次に会ったときとても自然なのが、いかにも大人になった証だと思う。

 金曜日の夜、その子は僕にとても長い映画を見せてくれた。
 彼女が留学する先の国で作られた映画だった。
 光と影の使い方をとても強く意識して作られた作品だった。
 夏が終われば、また友人が一人遠くに行ってしまうわけで、僕は自分が向かう先に自分自身だって急がなければ、どんどんと取り残されていくと思った。
 
 

メアリー、ジェット族になる。

2005-05-04 09:26:29 | Weblog
 お金持ちになることに決めた。
 誰だって漠然と「お金持ちになりたいなあ」とは思うだろうし、僕だってぼんやりとそう思っていたけれど、その為には具体的に何をすれば良いのかよく分からなかった。会社を作ろうといつも友達と話しているけれど、なかなか具体的なアイデアは浮かばないし、ちょっとした商売すら元手の不足で二の足を踏んでいた。

 そんななか「金持ち父さん、貧乏父さん」という2000年に日本語訳が発売された日系アメリカ人ロバート・キヨサキ(なんだかうさんくさい名前だと言えなくもない)が書いた本を読んでみるとなかなか面白かった。
 この金持ち父さんはシリーズ化されていて、トータルで全世界2000万部以上の売り上げということだったが、世界63億人のうち、今既に存在している多くの金持ちに加えて、さらに2000万人も金持ちが発生してはその皺寄せはどこに行くだろうと余計な心配をした。
 でも、経済というのはゼロサムなのだ。誰かがお金持ちになれば誰かが貧乏になる。

 「金持ち父さん」に書かれていたことの中で一番印象的だったのが、「資産を作りなさい」という話で、普通人はお金を稼いでそれを使うけれど、「稼ぐ」→「使う」→「稼ぐ」→「使う」・・・・、というループにはまっていてはいつまで経ってもお金持ちにはなれないし、お金持ちになりたい人は若いうちから株や不動産などの資産を作りましょう、欲しいものは稼いだお金自体ではなく資産運用からの利益で買うようにしましょう、というアイデアだった。

 これは至ってノーマルだけどあまり人々がやらないことだ。

 僕たちは経済社会にどっぷりと、それこそ揺り篭から墓場まで、浸かって生きているのにお金に関する教育を全く受けていない。受けていないというのは間違いかもしれないけれど、少なくとも大抵はたったひとつの考え方しか教わらない。

 「一生懸命働きましょう」

 でも、これはどう考えたって僕たちの思考をドライブするような方法論になっていない。なんとなくお茶を濁して、結局のところは「一生懸命に働いてくれる労働者」を育成する為の思想だとも言えなくはない。もともと教育というのは国家のそういった思いからはじまっている。そしてお金自体に関しては何も教えない。
 あと、僕たちは何を習っただろうか?
 せいぜい「税金はみんなの役に立つものだからちゃんと払いましょうね」くらいのものじゃないだろうか。

 くどうようだけど、僕たちは生れたときからお金の社会に生きている。
 誰だって食べ物はスーパーマーケットやレストランでお金と引き換えに手に入れるし、そこらへんを飛んでいるハトを捕まえて食べたり野草を摘んだりしない(すくなくとも日常的には。たしかに自給自足の農家だっているけれど)。食べ物というのは生命に直結しているものだし、お金はほとんど命に等しいのだ、とだって言える。なのに僕たちは「一生懸命に働く」ということ意外になんのお金に関する教育も受けていない訳です。

 ここで僕は教育の非を叫びたい訳ではなくて、自分が今までいかに大事なサバイバルの要素を見落としていたのか、ということを実感した、ということを反省を込めて書きました。
 なんとなく、お金のことを学んだり、話したりするのは気がひけてしまう。
 でも、しばらく経済のことを勉強してみようと思います。エコノミーという言葉はギリシャ語の「よく生きる」という意味の言葉「オイコノミクス」から来ているそうです。つまり最初は、みんなでよく生きるにはどうすればよいのか、ということを考える学問だった。
 グローバリゼーションで規模が広がった経済活動のせいで、富める国が「得る」ことの皺寄せは弱い国に「失う」という形でもたらされ、その中では病院すら消えてしまう。僕はお金持ちになりたいし、もちろんその為にも勉強したいけれど、でももしも僕がお金を稼いでどこかで誰かが困るようなことがあるのなら、そのことも考えなくてはならない。とにかく、これ以上無知なままでいるのは嫌だと思う。

犬とサッカー。

2005-05-03 21:49:23 | Weblog
 梅田の街は休暇を楽しもうとする人々で溢れ返っていた。僕は先日見たロスト・イン・トランスレーションの影響で、自分が全くの異邦人であり見知らぬ国の見知らぬ街を歩いているような錯覚に陥った。なんなんだろうこの人々は。この広告は。この文字は。
 もちろん、僕自身だって「この人々」に含まれているわけです。

 この間、せっかく誘って貰ったのに行けなかった「セックスピストルズ展」のことを思い出してヘップファイブまで足を運んだ。
 もうパンクロックなんて卒業したと思っていたし、この企画展にも無料じゃなければ入らなかった。でも僕はそこに飾られた写真のいくらかからあの時代にイギリスにあった空気を感じとり、そしてなによりも1977年にシド・ビシャスが新聞か何かの隅に書いたサインを見て意外にも感動してしまった。

 言っておくと、僕は別にピストルズのファンではない。
 高校生の頃には良く聞いたけれど、今はもう聞かない。クラッシュはまだ時々聞くけれど、ピストルズは全然聞かない。
 こういうのを、「好きだった」とは言っても、決して「好きだ」とは言わない。
 展覧会にも「只だから」入った。なんだか恥ずかしいなと思いながら入った。

 でも、入ったときの僕と出てきたときの僕は別人だった。
 なにもステレオタイプのパンクスになったわけじゃないし、決してインスパイアされて元気になったわけでもない。むしろ、シドのサインを見たときは少し悲しいくらいだった。彼がその紙に1977年に確かに書いたのだ。

 僕はシド・ビシャスというベーシストを特別には好まないし、セックス・ピストルズというパンクバンドも特別には好まない。でも、それらに触れたときどうしても1970年代に流れていた空気を吸い込んでしまうのだと思う。

 この間フリッパーズ・ギターのグルーブ・チューブのPVを見て、改めて僕は60年代や70年代に存在していたサイケな空気が好きなのだと思った。超えるべきだとは思っても、あの時代を超えるものを僕はいつになっても見つけることができない。
 60年代には何かがあった、と村上春樹だって言っている。

 すこし前まで、これは単に懐古主義に過ぎないのだと自分では思っていた。古いものが良く見えるのだ。現に「十分古く」なりつつある80年代だってブームを巻き起こしているじゃないか、と思っていたのですが、でもそれが60、70年を超えることはできないんじゃないんだろうかと思えて仕方がない。

 スペースエイジの専門店に入って、また同じことを考えた。

 時代と言うのはアイスクリームに似ている。
 甘くて冷たい。
 そして、食べても食べなくても時間が経てば消えてしまう。

3人姉妹、花火を振り回す。

2005-05-02 02:56:27 | Weblog
 ベルリンフィルのピクニックコンサートがテレビで流れていた。
 野外で、あんなに楽しそうに観客もオーケストラも生き生きと音楽を楽しんでいるクラシックのコンサートを僕は見たことがない。
 ロケーションもとてもきれいだった。とても行きたくなった。

 一昨日、ソフィア・コッポラのロスト・イン・トランスレーションをやっと見た。
 バージンスーサイズの時と同じ、独特のガーリー感が出ていた。
 音楽の使い方が完璧だった。

 この映画にはhiromixも少し出ているんだけど、最後の最後にもチラッと彼女の顔が映って、なんとなくソフィア-hiromixラインを感じずにはいられない。

 先日、写真展に行った影響もあって、最近はまた結構カメラを持ち歩くようになった。
 露光計の電池が切れていたのも入れ替えて、フィルムも入れて、きれいなシーンに遭遇したらすぐに撮りたいと思う。

 そういえば、高雄に行ったときの写真は駄目だった。お堂のなかで撮った写真はとてもきれいな写真になるはずだだったけれど、なんとも間の抜けたことにフィルムがきちんと入っていなかった。生まれてはじめての初歩的なミスを、よりによってすごく大事な写真をとったときにおかしてしまった。