虚構として肥大した情熱とやりたいことの消失

2015-04-09 21:22:18 | Weblog
 1999年。僕は20歳で、ロバート・ハリスの「ワイルドサイド歩け」という本を読んでいた。「ワイルドサイドを歩け」というのは、有名なルー・リードの曲のタイトルだ。この本は比較的短いエッセイが集められたもので、今読み返すとなんだか若くてフレッシュで気恥ずかしい内容なのだけど、当時の僕はかなりの影響を受けた。本はまもなく部屋に遊びに来たユリちゃんという女の子がパラパラと眺めて「貸して」と持って行ってしまった。彼女は当時、電通とか博報堂とか、あるいは日テレとか、フジテレビとか、どこだか忘れたけれどそういうバリバリの業界みたいなところでキラキラと働きたいから私大学院は京大に行って学歴ロンダリングしてやるの、なんだかんだ履歴書で落とされるの怖いし今の大学じゃ正直微妙、とか言うような女の子だったのだけど、その後どうなったのかは知らない。「ワイルドサイドを歩け」の影響を受けて、LSDの父ティモシー・レアリーが言ったように"Turn on, tune in, drop out"したかもしれないし、やっぱりテレビ局とかでキラキラとワイドショーとかCMの仕事でもしているのかもしれない。
 その後、僕はこの本を買い直したり捨てたりまた買い直したりした。度重なる引っ越しをくぐり抜けて今も手元にあるので、きっと好きな本なのだと思う。
 
 この本で紹介されている「100のリスト」というものが、20歳の僕には実に新鮮な考え方だった。
 100のリストというのは、やりたいことを100個リストアップするというだけのなんてことないリストだけど、別に「月面基地を開発」とか「起業して世界を変える」とか「エベレスト登頂」とかそういうのでなくてもいい。そういうのでもいいけれど、そういうのでなくてもいい。「1日に100個プリンを食べる」とか「亀を飼う」とか、なんというか小さいことでも下らないことでも構わない。ちなみにロバート・ハリスは「モデルと付き合う」とか「アヘン窟で一夜を過ごす」とかそういうことを書いていた。
 どうしてこの100のリストが新鮮だったかというと、僕はそれまで「やりたいこと」というのは情熱を持ってして人生を掛けてドカンとやる何かデカいことだと思っていたからだ。特にずっと科学者になるつもりだったから、「生涯を〇〇の研究に捧げる」みたいなのが「やりたいこと」の標準だった。そういうのがない人生というのは詰まらないだろうし、魅力的ではないだろうすら思っていた。
 今となっては良く分かるが、人生の大目標を1つ掲げて、そこへ向かって生きていくという生き方は1つの幻想だ。
 ロバート・ハリスは、自分にはそういう大きな目標はないけれど、こうして100個自分のしたいことをリストアップすると自分なりに自分がどんな感じで生きていきたいのか分かったというようなことを書いていた。これは小学生のときの作文に夢は大リーガーですとか書いて、それに向かって毎日野球の練習に励んで甲子園に行ってプロに入団するというような生き方よりも、かなり自由な感じがする。「私にはやりたいことが何もない」と言って謎の絶望をしている若者には光のような言葉だ。
 誰かが「やりたいことがない」というとき、多くの場合は「情熱的に人生を賭けてやりたいことがない」というのを指している。コーラが飲みたいとも、寝たいともアイス食べたいともなんとも思わない人というのはかなり珍しい。

 どうして僕達はやりたいことだらけなのに、やりたいことがないと簡単に言うようになってしまったのだろうか。
 いつから「やりたいこと」と「情熱」はセットになってしまったのだろうか。
 そういうことを考えていくと、僕達の社会を覆っているうっすらとした毒ガスの正体が見えてくる。
 僕は「情熱」のことを毒ガスだと言おうとしている。
 そんなはずがない、情熱というのは素敵な人生の活力で花で宝石だと僕も言いたいけれど、たぶん状況はそんなにシンプルではない。

 「情熱」はここ半世紀の間にハイパーリアルで垢まみれになった。
 ハイパーリアルというのは「現実が元となってフィクションが作られ、そのフィクションに現実が影響され、さらにその影響された現実が元となってフィクションができて、さらにそのフィクションが現実に影響を・・・」というような意味合いの言葉だ。僕達は現実を生きているけれど、この現実というのは只のピュアな現実ではなく、フィクション、つまり作り話の嘘っぱちの影響を何重にも受けていてこんがらがっている。たとえば誰かと恋に落ちてロマンチックな言動をするとき、僕達は多少なりともそれまでに見聞きしたラブストーリーの影響を見せないわけにはいかない。胸がドキドキするという言葉の使い方と、さらには「胸がドキドキしていることは恋の証である」という認識の仕方それ自体がすでにどこかで見聞きした物語の影響だ。その見聞きした物語は誰かが自分の体験に基いて作ったものだが、その人の経験も何かの物語に影響を受けている。たぶん21世紀の僕達は18世紀末のロマン主義がマスメディアによってブーストされた世界を生きている。

 裸の情熱というものが、果たして存在したのか、どんなものだったのか、僕達にはもう分からない。だが情熱がここ数十年でどうハイパーリアルになったのか言うことはできると思う。スポ根アニメとかドラマとか映画とかドン底からのサクセスストーリーとかそういう虚構と、情熱が賛美されてやる気を見せれば御社に採用されたりあの人に許してもらえる可能性が高まるという現実の不文律が相互作用してネガティブなスパイラルを加速している。情熱の見せかけの閾値は加速度的に高まっている。だから何かをしたいと思った時に自分にこう問い掛ける。
「果たして私はこれを行うに十分な情熱を持っているのだろうか? 本当にやりたいのだろうか?」
 一体、何に対して、何に比して「十分」なのだろう。 本当とはどういうことだろうか、今「やってみたいな」と思った気持ちが「本当ではない」というのはどういうことだろうか。それが本当ではないなら、何が本当だというのか。一部の意識高い系と呼ばれる人達や起業家と自分の情熱を比べるのは2つの意味合いで無意味だ。まず彼らの情熱は半分見せかけであり、情熱を見せることがプレゼンテーションで高得点を叩き出し資本を募るのに有利だという戦略にすぎない。無論、ドラマで見た主人公の情熱を比べるのはもっと無意味だ。2つ目に情熱とはそもそも計量し比較できるような「量」ではないし、たぶん情熱という概念自体が虚構に限りなく近いからだ。何かをしたい気持ちが芽生えた時、その気持ちを情熱という言葉で換算して何かの基準で誰かに査定してもらう必要なんてどこにもないし、測れない重さを測ったつもりになって自分で失格の烙印を押す必要もどこにもない。
 この垢にまみれた「情熱」が毒ガスのように地表を覆っていて、僕達は脚に鉛がついていると錯覚しているのではないだろうか。

ワイルドサイドを歩け (講談社+α文庫)
ロバート・ハリス
講談社

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