今日のブログは一つのやまと言葉から始めたいと思います。その言葉は「ハル」と発音されるやまと言葉です。古語辞典をたよりにしたいと思いますが岩波古語辞典には「はる【春】」しか掲載されていませんので、他社の古語辞典のなかから学研の金田一晴彦監修の『完訳用例古語辞典』を使用します。
<やまと言葉「はる」>
○はる【春】名詞
1四季の一つ。立春から立夏まで。ほぼ陰暦の1、2、3月をいう。
2新年。正月。
○はる【張る】
1自動詞・ラ詞
(1)(氷が)はる。一面に広がる。
(2)(芽が)ふくらむ。出る。芽ぐむ。
2他動詞・ラ四
(1)一面に広げる。(縄などを)張る。
(2)張りつける。(紙などを)張る。
(3)(気を)引き締める。緊張させる。
(4)構え設ける。張る。
(5)平手でたたく。なぐる。
○はる【晴る・霽る】自動詞・ラ下二
1晴れる
2憂いや悩みが解消する。心がはればれとする。
3広々とする。
4広く開ける。見晴らしがきく。
以上の3つの「はる」が掲載されていました。このやまと言葉の「はる」を文頭に掲げ次の話詞に移ります。昨年(2013年)5月12日にEテレ「こころの時代」で放送された、韓国の写真家・鄭周河(チョン・ジュハ)さんが、東日本大震災で被災した福島の風景を撮り続けた話しが再放送されていました。
こころの時代 シリーズ~私にとっての3.11「奪われた野にも春は来るか」~
≪番組詳細情報≫
[番組内容]
鄭周河(チョン・ジュハ)さんの福島通いは2年に及ぶ。原発事故の前から変わらぬ美しい風景を撮りながら、そこで何が失われたのか「目に見えないもの」をどう表現するか思索を重ねた。その過程には、韓国やドイツで、写真家として社会や人間のとらえ方に悩む歳月があった。3・11が問うたことは何か、それと自分はいかに関わるべきか。震災から2年、被災地・南相馬で開催された写真展の模様を交えて語る。
と番組サイトでは紹介されています。昨年番組を見たときには全く無かった感情が湧きました。
番組の後半に鄭さんは韓国での体験から一念発起しドイツに哲学を勉強をしに行った話をされます。その時に写真の暴力性について語ります。
【鄭周河】ケルン大学の哲学科には、大勢の学生がいました。その時出会った人々から、私が学んだことはたくさんあります。まっすぐな気持ちの頭脳明晰な人が大勢いて、ヘーゲルやカントを学んでいましたが、博士課程で勉強している彼らは、15年も20年もかかっても、まだまだ終わらないというのです。それを見て、私は自信を失い、落ち込んでいきました。
私は、「哲学を学ぼうと留学したけれど、それは哲学者になるためではなかったはずだ。哲学は、私が撮ろうとした写真に足りない思考を養うためだった。」と考え直しました。
私がケルンで見たドイツの社会は、ウットリするぐらい完璧だと思いました。システムが調っていて、安全で、道で誰に会ってもみな礼儀正しい人たちです。私のような外国人にもとても親切にしてくれました。街の老人たちもオシャレでしたし、レストランで麗しく食事している、そんな風景をよく見かけました。しかし、ある程度時間が過ぎると、このようなドイツの社会でも、実は老人たちがとても寂しい思いをしていることがわかってきました。
彼らも人間関係において孤立していることが見えてきました。それは、ただ通り過ぎていく人にはわかりません。暮らして見て、初めてわかることなのです。韓国の恵生院(ヘセンウォン)での撮影作業を通じて、私には、人間に対する悩みがありました。私には、そのような負の部分を撮影して、さらけ出す資格があるのだろうか。そのような表現に問題はないだろうか。自問自答の末、考えたのは、結局相手ではなく、私自身の側、写真がもつ暴力性でした。
それで私は、意図して街で老人たちに会う度、写真の暴力性の中でも、もっとも強いフラッシュを昼間に光らせてみることにしたのです。道を歩いている時、突然私がピカッとカメラのフラッシュを浴びせれば、当然それを受けた人たちは凄く驚きます。それにより孤立している老人たちの姿を、写真としても孤立させ、真の姿を写し出したいと考えたのです。写真は、それ自体が非常に暴力的です。写真を撮るとは、朝鮮語では、「斧で人を打ち下ろす」という意味もあります。英語でも、「シューティング(shooting)」と言いますが、それは拳銃で撃つのと同じ意味です。そういう過程を経て、私が作ったのが、『写真的暴力』というタイトルの写真集でした。
写真そのものが暴力性を持っていますから、私は、南相馬を初め、ここ福島県に来て、住民たちやこの地域が抱え込んでいる難しい問題を、果たして自分がキチンと写せるだろうかと考えてきました。結局は、位置という問題かも知れない。撮る者と撮られるもの、お互いの位置を確かめること。相手が私に見せる姿を超え、私が何を把握できるか、深く考えることです。そしてこそ、もう少し意味のあることができるのではないか。学んできたのは、そういうことでした。 <以上>
このように語られた後に福島の写真に『奪われた野にも春は来るか』というタイトルを付けた話が語られます。この言葉は1926年に朝鮮半島で書かれた詩からとったもので、作者は李相和(イ・サンファ、1901-1943)で日本の植民地下で、人びとの悲哀をうたい、朝鮮民衆の心を代弁しようとした詩人。彼は、美しい故郷の風景を連綿と描写することで、故郷を奪われた怒りを綴った方です。
詩「奪われた野にも春は来るか」
作:李相和
いまは他人(ひと)の土地―奪われた野にも春は来るか
私はいま 全身に陽ざしを浴びながら
青い空 緑の野の交わるところを目指して
髪の分け目のような畔を
夢の中を行くように ひたすら歩く
唇を閉ざした空よ 野よ
私ひとりで来たような気がしないが
おまえが語ったのか 誰かが読んだのか
もどかしい 言っておくれ
風は私の耳元にささやき
しばしも立ち止まらせまいと裾をはためかし
雲雀は垣根越しの少女のように
雲に隠れて楽しげにさえずる
実り豊かに波打つ麦畑よ
夕べ夜半過ぎに降ったやさしい雨で
おまえは麻の束のような美しい髪を洗ったのだね
私の頭まで軽くなった
ひとりでも足どり軽く行こう
乾いた田を抱いてめぐる小川は
乳飲み子をあやすよう歌をうたい
ひとり肩を踊らせて流れゆく
蝶々よ 燕よ せかさないで
鶏頭や昼顔の花にも挨拶をしなければ
ヒマの髪油を塗った人が草取りをした
あの畑を見てみたい
私の手に鍬を握らせておくれ
豊かな乳房のような 柔らかなこの土地を
くるぶしが痛くなるほど踏み
心地よい汗を流してみたいのだ
川辺に遊ぶ子どものように
休みなく駆けまわる私の魂よ
なにを求め どこへ行くのか
おかしいじゃないか 答えてみろ
私はからだ中 草いきれに包まれ
緑の笑い 緑の悲しみの入り混じる中を
足を引き引き 一日歩く
まるで春の精に憑(つ)かれたようだ
しかしいまは野を奪われ
春さえも奪われようとしているのだ
<以上>
「奪われた野にも春は来るか」という詩。日本人がこの詩からどのような心像が浮かぶでしょうか。自己の経験から身についている歴史観からこの詩を読み解くでしょうか。
鄭周河さんは、「春」という朝鮮語の話をされます。
【鄭周河】・・・・略・・・・李相和の詩には、絶望観すら漂っています。この詩の最後の一行は、こう書かれています。
「しかしいまは野を奪われ 春さえも奪われようとしているのだ。」
そして、その後がありません。果たして、この「春」とは、どんな意味なのか。私は、どう解釈すべきなのか、考えてきました。「春」とは、ただ季節を指している言葉なのだろうか。毎年巡ってくる春なのか。そうでなければ、何だろうか。季節の春には、希望や自由や温かさとか、そういう意味があるでしょう。
それも理解できますが、朝鮮語には、「春」という音に、「見る」という意味があるのです。それもただ単に見るのではありません。「直視する、しっかり見る」そういう意味です。「しっかり見る」ことは、「考える」ということを意味するのではないでしょうか。「見る」ということを通して、その中にある本質を理解すること、悟ること、それが何よりも必要だと訴え、それが「春」の意味だと思います。春があるからこそ、心で読み解くことができるでしょう。
「春が希望だとしたら、希望とは希望がないところに見つけるものです。」
春がないからこそ、私たちは春を待つのではないか。失われた春は、与えられるのではなく、取り返すのです。時間が経って、自然に与えられるのだったら、それはただの季節の春です。それだったら、夏と変わりません。私が考える春、李相和にとっての春は、単なる季節ではありません。直視することを通じて、どう取り返すか。それが、私が考える見せたい春なのです。 <以上>
日本語の「春」は「ハル」と発音されます。朝鮮語では何と発音するのでしょう。春のイメージに「ハル」という日本語の発音はあります。
「ハル」という発音のやまと言葉としてブログのはじめに三つの「はる」があることを書きました。朝鮮語の「春」には「見る」という意味があると鄭さんは言われています。
日本人は朝鮮半島からも渡来して、私自身にもその血が流れています。やまと言葉には「見る」はありませんが、理解不能のなかでなぜか理解してしまう大いなる重なりを想うのです。超形而学です。超経験主義です。
バカバカしく思われる論法ですが、番組全体からそのような感情が湧いてきました。
昨日の西谷先生の言葉が浮かびます。
「近世以来の自然科学によって、自然的世界の像は一変し、世界は全く非情な、人間的関心に対して全く indifferent な世界として現れている。それは神と人間との人格的関係を横に切断するものになっている。その結果、神による世界の秩序とか歴史の摂理とかいうこと、更には神の存在ということ自身も、縁遠い想念となり、人間はそういう想念に対しては無関心になりつつあり、ひいては自己自身の人間性に対しても無関心になりつつある。」(『西谷啓治著作集第10巻』「虚無と空」p101)
非常、無関心【indifferent】
人間は、自然の一員。
マタイ伝の「山上の垂訓」の教え、
イエスは「善きものにも悪しきものにも降る雨」
を語ります。
自然の無関心に対する超意味への信仰からの応えが期待された存在、それが人間とするならば、「悪の凡庸さ」に気づかなければなりません。
朝鮮語の「春」、日本語の「はる」
中沢新一さんの「環太平洋哲学」が何故か重なります。
鄭周河さんは番組最後に震災2年目の福島の海をたずね次のように語っていました。
【鄭周河】 海によってこのような現実が始まってしまいました。しかし、それは海の過ちでは無く、人間の過ちです。ですから海に対して詫びたい気持ちもあり、また、亡くなった皆さんは、海に還ったように思いますので追悼したいと考えたのです。
私たちが今抱えているのは、津波の問題ではないでしょう。根源は人間です。人間の欲望が創り上げたものが、今、私たちを叩きのめしているのです。たとえそれが海から始まったことであっても・・・・。<以上>
今日という日のこの番組を再度見ることができたことができたことに感謝です。「何かを期待され、意味解せよ。!」と啓示を受けているようでした。