今年の誕生日は、運転免許証の更新と重なり、新型の免許証になりました。国籍本籍地の既済蘭のないICチップが組み込まれ、暗証番号が2個付いています。
世の中これほど自分がどこの誰であるかということを端的に証明してくれるものはないわけで、これに金融カードの様な機能も付随すればこれほど便利なものはないと思うわけですが、想定外の問題も必ずあるわけでそう成るうわさも聞かれません。
現実はそうたやすくないわけです。今朝はそういう現実の中でどう生きるがよろしいか、現実というものに焦点を当てた話をしようと思います。
最近多く語る万葉集の世界、昨日のEテレ「日めくり万葉集」では、これまた話題にしています倫理学者の竹内整一先生が撰者で、大伴旅人の「酒を讃(ほ)むる歌十三首」からの歌が紹介されました。でした。
先に紹介された歌が、巻3-349
生ける人
つひにも死ぬる
ものにあらば
今在る間は
楽しくをあらんな
訳
生きている人は
いずれ最後には死ぬ
ものであるから
今この世にある間は
楽しく生きよう
次に紹介されたのが、酒を賛むる歌であるのですがこれも「酒」が入らない、
この世にし
楽しくあらば
来む世には
虫に鳥にも
我はなりなむ
この歌の訳ですが、竹内先生は、
【竹内先生談】
自分がいまたのしいのであれば、来世、虫になろうが鳥になろうが構いはしない、と詠っています。彼はこの歌に、当時流行り始めた浄土教への挑戦の意味を込めています。
と語っていました。日めくり万葉集のテキストは、大変親切なテキストで番組内で語られるナレーターの言葉もそのままほぼ100%と記載されていてメモを取る必要がありません。
残念なのはとても素敵な風景を含んだ画像はどうしても録画で再度見るしかないわけで、印象的なカラー写真の風景等を入れるとなると690円のお手頃価格では収まらない現実の厳しさがあります。
さてテキストからの引用ですが、当時、伝来した浄土教は、この世は無常ではかないもの、来世で極楽浄土に生きることを人々に説いていました。しかし対照的に、この世で楽しく生きるべきだと大伴旅人は詠っているわけで、このような考え方は連綿と受け継がれていると竹内先生は語っています。
【竹内先生談】
中世ですと、『徒然草』の「徒然」は単な暇(ひま)ではありません未来へと計画を立て、先へ先へ進むのではなく、今をそれ自体として楽しめというのが『徒然草』の大事なメッセージですが、背景にあるのは厳しい無常感です。
近世の『葉隠(はがくれ)』という武士道の書物でも、来世ではなく、今ここでどうきちんと人や殿様との関係を築いて生きるか、ということが大事なのです。死んでからどこかいい世界に行く、という発想ではない。旅人の言っていることは、『徒然草』や『葉隠』にも繋がっています。
と述べ、万葉のこの時代に旅人のように考える人がいたということの意味は大きいということです。私見ですが芭蕉や西行さんのはるか前に既にそういうことを言う人がいた、ある面普遍的なところを感じます。
さらに竹内先生は次のようにも語っています。
【竹内先生談】
生きているものが、みな死んでしまうものであるからこそ、今を楽しめるのだよ、楽しむべきなのだと衆人は言いたいのでしょう。
当たり前のことのようですが、万葉の時代にこのように言っていたのは大事なことです。 我々に対しても、生けるものは必ず死ぬ、だからこそ今を楽しみなさい、と言っている気がします。
この言葉が番組の最後に語られました。幻想的な夢物語や瞑想世界に遊んでもいられない、「食事はまだか」「宿題は済んだか」「歯は磨いたか」・・・悟りというものがあるとするならば、悟りがあろうがなかろうが、幼子までが現実世界を離れて生きることはできないわけです。
最近「野狐禅(やこぜん)」について語られたブログを読んで、考えさせられました。
「野狐禅」とは禅宗の禅問答集の『無門関』の第二則に書かれている話です。
どんな話かというと、『無門関を読む』(秋月龍著 講談社学術文庫)の現代語訳で次のような内容です。
<引用『無門関を読む』(秋月龍著 講談社学術文庫)から>
41 百丈(ひやくじょう)の野狐(やこ)
(第二則 百丈野狐)
百丈和尚が説法されるたびに、ひとりの老人がいて雲水とともに聴法していた。説法が終わって雲水たちが法堂から禅堂に退くと、老人もまたいなくなった。ところが、ある日思いがけなく老人が退場しなかった。そこで禅師は、
「目の前に立っている者は、いったい何人だ」
と尋ねた。老人は答えた、
(『禅問答の知恵』自由現代社p170から)
「はい、私は人間ではございません。過去の迦葉(かしょう)仏の時代に、百丈山に住職として住んでいました。[そのとき]修行者が、
『大修行の人でも、やはり因果に落ちますか』
と尋ねたので、私は、
『因果に落ちない』
と答えました。[その答えが誤っていたために、]
て[畜生道に輪廻して]います。今どうか老師、私に代わって一転語をはいて、私は五百ペん野狐身に生まれ野狐の身から解脱させてください」
】一
そこで老人は[ただちに修行者の立場に立って]、
「大修行の人でも、やはり因果に落ちますか」
と尋ねた。和尚は答えた、
「因果を昧(くらま)さない」
老人は言下に大悟して、礼拝して言った、
「私はもう野狐の身を解脱しました。[そのぬけがらは、]山の後ろに住めておきます。失礼ながら老師に申し上げます。どうか亡くなった僧侶の事例によって葬っていただきたい」
和尚は維那(いのう)に命じて白槌(びゃくつい)して雲水たちに告げさせた、
「斎座(禅院の昼食)の後で、亡僧の葬式をする」
雲水たちは、「一山の大衆(雲水)はみんな健康で、涅槃堂にも病人はいない。どうしてそんなことを言われるのであろうか」
と言い合った。
斎座の後で、和尚は雲水たちを率いて山の後ろの大岩の下に行って、杖で一匹の死んだ野狐を挑(は)ね出して火葬にふされた。
和尚(百丈)はその晩、上堂して、前の因縁を話された。すると、高弟の黄檗(おうばく)がただちに問うた、
「古人(野狐の老人)は誤って一転語を答えて、五百生の野狐身に堕ちた。一つ一つ[問われるたびに]誤らずに答えたら、いったい何になるべきであったろうか」
和尚は言った、
「近くへ来い。あのお方(前百丈-野狐の老人)のために言おう」
そこで黄檗は近づき進んで、師の百丈に平手打ちをくらわせた。百丈は手を拍(う)って笑って言った、
「達磨の鬚(ひげ)は赤いと思っていたら、なんだ[ここにも]もうひとり赤い鬚の達磨
がいよったわ」
<以上同書p221~p223から>
という話です。あの朝比奈宗源先生は、『無門関提唱』(山喜房佛書林)の中で、
<引用『無門関提唱』(山喜房佛書林)から>
この則は、禅の見性の上に於ける因果を明らめしむる公案である。大修行底の人、すなわち禅の修行の出来上った人も因果律の支配を受けるかどうか、もし受けるとしたらお釈迦さんでも品行いかんによっては地獄へも行かれねばなるまい。もし又絶対に因果律の支配を受けないとしたら、どんな行いをしてもかまわないか、この重要な禅の倫理性に関する対決の要諦である。
<以上同書p12から>
と語り、野狐禅の話を引用した秋月先生は、その著で、
<引用上記書>
・・・・・この公案、「不落因果」は誤りで、「不昧因果」が正しいのだ、などと解するとしたら、とんでもないことです。無門和尚は言います-----
「不落因果」で、どうして野狐に堕ちたのか? 「不昧因果」で、どうして野狐から脱したのか? もしここに、ものごとを見ぬく一つの眼が開けたら、前百丈の野狐の身であった五百生が、そのまま実は風流三昧の生涯であったことが分かるだろう、と。
月を愛で花をながめて暮せかし 仏になすなあたらこの身を
不落にて野狐になりたる咎(とが)の上に 不昧で脱す二度のあやまち
狐が狐に安住して他をうらやまぬときを「仏」というのです。人が人に満足せずして他に求めてやまぬときを「狐」と言うのです。ここを「ただ因果のみあって人なし」とも言うのです。
どこも因果いつも因果となりすませ 外をさぐるな大修行底
<以上上記書p225から>
素人の私にはきつい話で、『笑う禅僧 悩め、苦しめ、そして答えよ!』(安永祖堂著 講談社現代新書)参考にしようかと思ったらキリスト者と公案の話もありますが、さらにきつい話。
こう叩かれてみれば、痛いのは今で、目が覚めるわけです。
草木が語ろうが、花が微笑もうが、これは人の志向的な機能の産物で科学的な世の中、その目で見て、触って、嗅いで、時には味わってみれば、その草木の世界があるわけではありません。
四六時中太陽にさらされ、大地に固定され、渇いたときに雨はなく、欲しくもない時に流される。
狐だったらどうだろう。腐った肉も食べなければならないだろうし。人様の前でもパンツをはかず逃げ回らなければならないし。犬であったら所構わず片足を上げて、股間をさらし商用をつい小用もしたくなる。
そんな世界を500回も繰り返した。当然記憶する能力からすれば開けの明星も宵の明星も同一の金星と分かったはず・・・・・。
大伴家持は違いの分かる男だと思うのです。片手に杯を持ちながら語るのです。
前にも引用しましたが、家持は当然花が微笑むのを知っているのです。
<どこも因果いつも因果となりすませ 外をさぐるな大修行底>
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上記に「志向的な機能の産物」と書きました。「志向性(intentionality・Intentionalita)」の世界です。これだと和辻哲郎先生が言うように、ハイデガーの不足分を感じまた竹内先生の言う「花びらは散る 花は散らない」話になるように思います。
生ける人 つひにも死ぬるものにあらば 今在る間は 楽しくをあらんな
この世にし 楽しくあらば来む世には 虫に鳥にも 我はなりなむ
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