人間はいまどのような状態になっているのか、実在というものを意識しすると時間と空間にの中で矛盾を抱えることになります。
意識するということは矛盾を抱えるということです。時間の矢、飛翔する矢はある時は動、ある時は静の内にあるということです。パラドックスの世界はまさに意識過程の産物です。
しかしながら形成という動的な働きの中に実在を吟味はじめる「もと」の探求が浮かび上がってきます。深淵なる深み、底なし「無底(Ungrund)」などを置きたくなる。しかし神無き後の、あるがままに、なぜあるがままがあるのか。みずからそのようになるように生きているから、とも言えますが、おのずからそのようにもなっているとも考えられます。
あるがままは、常に矛盾を孕んでいるということが言えます。このような二重性状態を深淵なる無底の根源無き場所からの働からと体感する時、それはまさに一元的なあるがままが、観えてくるのではないかと思うのです。
「あるがまま」という歌を聴き、感動する時の自分は、今の自分よりもっと自分い近いものを感受するのではないでしょうか。
西田の認識論は、以前の現象学的見方を離れ、行動主義に似たものになる。「行為的直観」が今や標語になる。行為直観とは、知識過程そのものの中に作ることと見ることとの相関が含まれることを意味する。(野田又夫著『哲学の三つの伝統』岩波文庫・第二部「西田幾多郎における東西の綜合」p188)
人間は歴史的存在ですので時々にその思考視点が推移していきます。より「もと」への探求がそうさせるとも言えます。
時間が円環であり、また直線でもある。それが常に二重構造に立ち現れている。この実在をより根源的な「もと」への探求に移行して行く時、よりあるがままが観えてくるのではないでしょうか。
ハイデガーの現象学には、底なしの世界があるのでしょうか。
生死の二重性に生きる人間。なぜの疑問の先に何があるのか。彼岸にあるのかそれとも天空にあるのかそれとも足下の此岸にあるのか。
私がもっとも私に近くなる時、「あるがままの私になりたい」が響くのだと思います。自己の深淵から。
清流の流れのそのもとに、ドクドクと湧き出す水源を見つけます。さらにその水源を見ると底なしの大地から湧き出すのを見ます。