2008年の映画に『愛を読むひと』(The Reader)というアメリカ・ドイツ合作映画がある。1995年 に出版された法律家で作家のベルンハルト・シュリンクの小説『朗読者』を、スティーブン・ダルドリー監督が映画化したものです。第81回アカデミー賞では作品賞を含む5部門にノミネートされ、ケイト・ウィンスレットが主演女優賞を受賞している。
この映画に描かれている裁判では、アウシュビッツ強制収容所に勤務していた女性看守人がユダヤ人殺害に関与した罪で裁かれる。第二次世界大戦後の戦争責任を追及する裁判には、ニュルンベルク裁判や極東国際軍事裁判、フランクフルト・アウシュビッツ裁判などがありますが、映画での裁判はニュルンベルク裁判後20年経ち発覚した事件に対するものである。
ユダヤ人によってイスラエルで行われたアイヒマン裁判とは異なり、ドイツ国内でドイツ人を裁く裁判所である。『朗読者』という小説を映画化したものであるが、この本はドイツでは教科書にも取り上げられるほどメジャーな小説で、ナチスに迎合した国民一人一人とその後の世代に問う作品となっているようだ。
この裁判をゼミで取り上げ傍聴する学生に、教授は、ゼミ生に対して次のように語る。
人は、「社会を動かすのは道徳だ。」と言うが、それは違う。社会を動かしているのは「法」だ。看守は仕事として行ったと言うが、その行なった行為から「何が悪いかをどう判断する?」
と学生に問いかける。その問いは読者や観客へ投げかけられている問いでもある。
「アウシュビッツで働いたという事だけでは罪にならない。8000人があそこで働いていていたが、有罪判決を受けたのは19人で、その内殺人罪は6人。殺人罪は意図を立証せねばならない、それが法だ。」
問題は「悪いことか?」ではなく「合法だったか?」ということだ。それも現行の法ではなくその時代の法が基準となる。
「人をどう裁く?」
「彼女は仕事をしただけでは?」
ナチ党の下で戦争下にあったドイツの国民それぞれに投げかけられているといであり、戦後の人々にも同じように問われている。そのような風潮が色濃く残っているのがドイツなのである。
これまで自明の道徳律が急変し、学校の教師やドイツ人の子供たちは、仲間のユダヤ人の子供たちの迫害者に変わる。社会全体がユダヤ人の迫害する側に転ずる。
一人一人が歯車だったのか。前代未聞の道徳破壊がそこにあったが、誰もそれに気を回さない。気が付いてはいたが歯車理論で悪はより小さな悪に転じて行った。
日本人然りなどと言うつもりはない。
広島、長崎への原爆投下は誰が決断しそれに迎合し、それが正義と叫んだか。
終戦記念日のたびに色々な問いが投げかけられるが、歯車理論は今も健在のような気がする。
「第一講ではカントの定言命法を例にとりながら、近代道徳哲学では、人間に理性があること、実践理性が人間の行動を律し、善悪の判断がかのうであることを素朴に想定していたことを指摘する。そして古代のアリストテレスやトマス・アクィナスの哲学を考察しながら、道徳というものがふつうにかんがえられるように、他者との関係であるよりも、自己との関係であることに注目する。カントの定言命法は、主観的な原則としてみずからにてらして吟味する性格のものであり、他者に対する影響や、他者に対する配慮などが入る余地がないのである。」
この文章は、ハンナ・アーレント遺稿集ジェロ-ム・コーン編『責任と判断』(みすず書房)の訳者中山元先生のあとがき書かれている。
カントの定言命法の欠点をよく目にするが、起源がハンナ・アーレントにあることをはじめて知った。
「他者に対する影響や、他者に対する配慮」
まずこの欠落が叫ばれなければならないわけである。・・・・今に生きる思想だ。