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思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

沈黙の中で聞こえるもの

2016年11月27日 | 思考探究
 我々の意識の底には誰にもかかる精神の働いて居るのである(理性や良心はその声である)。

 西田幾多郎著『善の研究』岩波文庫・2012版p232)第四編第三章「神」にはこう書かれている。

 しかしこの「良心の呼び声」も私たちの小さな自己に妨げられてこれを知ることができない、と西田先生は語る。

 善きに生きたいと思うのは、性善説的に考えたいところであるが、何ともしがたい自己の業は我を悪しき方向へと導く。

 新奇なる神霊(ダイモーン)の声に導かれたソクラテスと排斥を願うアニュトスとメレトスとリュコンの三名は、パシレウスの役所に告訴状を提出した。

このことについて、

 「ソクラテスにはダイモーンの声が聞こえることがあった」

とプラトンは書くにとどめた、と書いているブログを見て、上記のようにプラトンは三名の告訴状の内容を書いただけで、ソクラテスは神霊の声は聴こえるようなことはなかたのではないかという疑問を感じたことがあった。書き手には何が聞こえたのかそこが問題だ。
 今ある自分を超えること、弁証的な思考はどうしても超越を考える。内在的超越と外的超越が二元的に現れ、後者は絶対的超越存在としての神を、内なる超越はその神霊としての声と化する作用で語られる。真に人間の業である。

 今朝のこころの時代は「母なる神への旅~遠藤周作〝沈黙〟から50年~」でした。

 ポルトガルから来た司祭が踏み絵を前に殉教と棄教を責められる。

 「踏むがいゝ」

ということ声を聴く。

という言葉が番組のテーマ的な言葉で

「汝の意志に従ったがって踏むがよい」。という神の声なのか。

という話が、冒頭に書いた西田先生の「理性や良心はその声である」という言葉に重なった。

 単純な話、善きに生きたいと思うならば「汝の意志」に従えばよいのであって、軽く言うならば好きなように生きればよいだけの話である。

 殺されるか、生きられるかの緊急の外的なことから起こる選択の苦悩の中で、何がためらいをもたらしているのか。そこには信仰があり、逆らうことは罪とされる。

 踏絵という板を踏めるか否か。

 踏絵を踏むことが汚しになり、不信仰が現れる。

 人間が善を好み、悪を断ち切ろうというする信仰において、生死の選択を持ち出すことを絶対的超越の神はするのだろうか。

 超越の話はさておき、「踏絵」なるものの考案には恐れ入ります。汚すこととなる忌み嫌う精神を奮い立たせ、生死を自分で選ばせる機会を与える。何ともすごい心理作戦である。

ふみゑ【踏絵】近世、キリシタン宗門を厳禁とするため、マリア像・キリストの十字架像などを木板や銅板に刻み、足で踏ませて宗徒でないことを証明させたこと。また、その踏像。絵踏み。

と岩波古語辞典には解説されている。

「宗徒でないことを証明」するために「踏む」行為を用いる。

 汚す行為については、神代の時代からスサノウ自身がアマテラスの宮殿を汚わいしたことに姉は怒り、罰としてスサノウの爪を剥ぎ、天上界からの追放したことは周知の事実だが、忌み嫌いの精神を善良なる人々に試し、究極なる死の選択をもってくるとにトンデモナイ残虐性を感じる。

 ある意味日本人はそこまでしてきた、ともいえ最近はあまり話題にならないがミーム学をあてはめるといじめと自殺に深い関係があるように思える。

 『沈黙』するしかなく、自死しか選択の余地がなくなる。

 社会に現れる現象に、私も延長線上に何かを背負って、抱いて生きているような気がする。

 よくよく(善く善く)考えたいものである。

「とじこもり」と不在の哲学

2016年11月26日 | ことば
 「とじこもり」という言葉が「とじこもる」が変化した言葉であることは異論のない話だと思うが、動詞の連用形で日本人は「閉じこもる状態にある子供たち」を表象するに違いない。

 動詞の連用形で「○○り」とすることで日本人は「職業」を表す。魚売り、薬売り、花売りなどがその例で「おまわりさん」となると警察官に「お」を付けているものの警察官という言葉よりは格が下がる表現である。

 戦乱の世、城にとじこもり死守する、となれば武士の職業として「とじこもり」が重なるかというとそうではなく、存亡に懸ける生きざまが見える。

 城というものがなければ、守るという行為がなければ、武士の存在は宙に浮いてしまう。「自分の部屋にとじこもり」だけだと膝を抱えながらただジッと壁によりかかる子供を想像してしまうかもしれなが「勉強している」となると事態は一変する。目的をもって何かをしている、金魚入りの桶を担いでならば、薬箱をもってならば、花かごをもってならばその目的から「り」付きの職業に変わる。

 「お巡りさん」は街を巡回する意味から親しみを込めて呼称するが、これが「おまわり」となると「御」を付けても心に荷物を持ち、背中にも荷物を背負う粗暴の輩をイメージする。

 「とじこもり」が現象の概念を表象できる言葉で留めおかれるならば、さほど違和感がないのですが、それが職業的な概念の表象までに拡大されると、この世になくてはならない、名詞化された言葉になってしまう。

 「あいつはとじこもりだから」

 戸をノックすれど「不在」を物語る存在の無。

 哲学者の中島義道先生が『不在の哲学』を語っているがこの「不在」という言葉の発想が個性的で大いに学びを受ける。

 一般に、不在という概念は「現在(presence,Anwesenheit)」という概念の対立概念として使用されているが、本書では「実在(reality,Realitat)」という概念と対立的に使用することにする。
と中島先生の「不在の哲学」は始まる(『不在の哲学』ちくま学芸文庫・p011)。

 実在の根底をなす禅的な無を思うが、不在は対立概念とすることから「無」で無いことがわかる。しかしこの不在という言葉は、誰がどのような思考視点を展開させ表現するかで意味深いものがある。

 「とじこもり」「居場所がない」

 私というものが何処にもない。

言葉というものは話し言葉から書き言葉に歴史的な歩みをしてきた。時代ごとに言葉は変化し、また新しく作られる。言葉で社会は作られるともいえ、年末恒例の今年一番流行った言葉が話題に上る時期になったが、まさに作られるのである。

 共認社会という言葉に、ともに認め合う、相手の痛みを共有できる社会を想う。

 「不在」という言葉が大いにかかわる話に思える。

「いじめ」と禁忌について

2016年11月23日 | 思考探究
 学習意欲のない子供には、参考書も窮屈な学習室も必要ない「タブレット学習」が驚きの効果をもたらすと、そのタブレット学習効果を推奨する宣伝部の中に、

「勉強しなさい!」

と子どもたちに言うのは「タブー」らしいという文章を目にした。親が子に言ってはいけない言葉というわけである。忌み嫌う言葉として親子間に成立し、この言葉を発することが子どもの学習意欲を低下させてしまうという話である。

 意欲を削ぐ言葉としてそれを言うことは、親の思いとは逆の結果になるという話である。

 「タブー」とは触れてはならない禁忌として、言ってはならない事、行ってはならない事などがあるが、そもそも「タブー」とは何ものなのだろうかと考えたくなります。

 「タブー」は、原始的民族の心的状態に起因した行為の禁諱であって、これを犯すときは必ず災害をこうむると信ずるが故に、ある行為を忌み避けるにいたったものである。

と穂積陳重著『忌み名の研究』(講談社学術文庫・p186)に書かれており、続いて

 「タブー」は本来「ポリネシヤ」諸島の民族の中において禁諱を表す言葉であった。この習俗は広く世界の各地に存在するものであるが、人類学者はその最初に注意をひいたこの民族の言語をそのままにこの習俗を表す普通語として使用し、強いて訳語や新学術語を造ったりしなかったのである。国語においてはこれに該当するものは「忌み」であろう。 「忌み」は「タブー」・ギリシャ語の「ハギオス」、ラテン語の「サーケル」のように神聖・忌避・禁戒の三つの意味を兼ねるものと思われる。

と書かれている。「タブー」という発音はポリネシヤの言葉で、何げなく「忌み嫌う」という言葉を使いましたが誤りではないことがわかりました。
 子供の話で最近また再燃している「いじめ」の話があります。昨日早朝に福島沖で大きな地震があり津波が発生し東日本大震災の災厄事態を思い出しましたが、その際に福島の原子力発電所が津波の被害を受け、今も放射能の脅威が続いています。この被害を受けて非難した子供が小学校で「放射能が伝染する」というという意味で「いじめ」を受けている事実が大きく取り上げられています。
 
 「放射能が伝染する」という軽薄な知識、この発想はどのような経験から表象する概念を生み出したのであろうか。「思いやり」に欠けた思考があるわけで、人間の関係性の希薄があることが推察される。

 「いじめ」という言葉を誰もがおおよその概念で共有し、発生する事態に使っていますが、そもそも「いじめ」という言葉の語源は何処からくるのだろうかと知りたくなります。

 そこでサイトの語源由来辞典を見ると、

いじる
【意味】いじめとは、自分より弱い立場の者を、暴力や嫌がらせによって肉体的・精神的に苦しめること。イジメ。
【いじめの語源・由来】
動詞「いじめる(苛める・虐める)」を名詞化した語。
「いじめる」は「いじる」からか、「いじ(意地)」の活用と考えられるが断定は難しい。「囲締(いじめ)」といういみからといった意味という説もあるが、いじめの原義には集団による行為の意味は含まれていない。
特に集団による行為をさすようになったのは1980年代初頭から、陰湿な校内暴力を言うようになってからである。
「いじめにあう」ではなく「いじめられる」としか言わなかったように、社会的問題となるまで名詞の使用例は非常に少ない。
名詞の「いじめ」が成立したのは、陰湿な校内暴力が増えたことと、その問題がクローズアップされたからといえる。

とありわかりやすく解説されています。古語の世界が好きな私としては、古語辞典を引くのですが「いじめ」という言葉に関係するような言葉は出てきません。

 今の世は理由の如何を問わず「いじめ」は悪いことで、「放射能の伝染」などは禁忌・禁諱である。「いじめ」をどうしてするのか。他人の苦しむ姿がおもしろい、快を醸成し、相手に不愉快にしている己を見失っている反「道徳的、倫理的行為」がそこに見て取れ人間のおぞましい姿に何とも言い難いものがあります。

 「陰湿」な行為、陰陽の闇と光に「差別相」がありありと浮かび上がってくる。以前ブログにも書きましたが西田幾多郎先生の『善の研究』にこの「差別相」という言葉が三か所に出てきます。

第一編第一章純粋経験の中に二か所
〇経験は自ら差別相を具えた者でなければなぬ。
〇純粋経験はかく自ら差別相を具えたものとすれば、これに加えられる意味あるいは判断というというのは如何なる者であろうか、またこれと純粋経験との関係は如何であろうか。

第四編第二章宗教の本質に一か所
〇スピノーザ哲学においても万物の神は差別相(modes)である。

以上の三か所に出てきます。
 思惟とは意識一般が先天的に有している認識形式に従って対象を構成することであると考えられるならば、「違いがわかる」からこそ世の中を認識できるということになる。
 違いがわからなければ、言葉もなければ音の違いもなく、色の違いもない。この当たり前の事実こそが差別相の業(わざ)であって、人が人であることに苦しみを具えることにもつながる。

 この差別相が織りなす世の中の苦を払しょくするためにお釈迦様は「縁起」なるものを悟りだした。分別心があるからこそ苦しみがあるのであって無分別こそが悟りと御釈迦様は言うのである。これは人間の業(業)であって、唯識では、薫習(くんじゅう)という言葉で、我が身から祓うことのできないものとして、自戒の徹底を語る。

 体に染みついたものは、離れないということである。

「いじめ」という体質とでもいう人間の業の払しょく、抜本的な対策は自戒の徹底であると思うが「自ら戒める」という困難さは誰もが知るところである。
 相手の気持ちになるには同じような体験をしなければどうしようもないとも考えられるが、逆に「する側」になる場合も考えられまことに困難な話である。
 言ってはならない事、してはならない事というタブー、禁忌、禁諱の話を追い求めると、先の

「タブー」は、原始的民族の心的状態に起因した行為の禁諱であって、これを犯すときは必ず災害をこうむると信ずるが故に、ある行為を忌み避けるにいたったものである。

という解説を思い出す。
 「忌み避けたい」とは「忌み嫌う」ということでもある。「意味嫌う」ではなく「忌み嫌う」という言葉で、最近は「マイノリティーに優しい社会」ということばが人権の視点から叫ばれている。少数派に対する差別があるわけで少数派には、

・LGBT、性的少数者
・障がい者
・在日外国人
・エイズ、元ハンセン病患者等の感染病、公害被害者
・ホームレス
・被差別出身者

などの人たちが例としてあげられますが、人間の差別相の業を考えるとその数は計り知れないものがあります。

 「いじめ」の対象(被害)になるわけで、忌み嫌う差別相が、あえてタブーに触れることで世の中を荒れ野化にしている。苦海へ人々を誘うという表現もできよう。

 上代の言葉を考えていると「いじめ」という言葉は、「い」「しめ」の結合語で、「意思・締め」の上記の語源起源事典の解説に近いが「い・しめ」が柔道技の「はだか締め」のようの「し」が濁音の「じ」に転化したのではないかと思う。

「い・しめ」という言葉、この二語を分解し岩波書店の古語辞典で調べると

い【斎】《イミ(斎・忌)と同根》神聖であること。タブーであること。

しめ【占め・標め】《物の所有や土地への立ち入り禁止が、社会的に承認されるように、物に何かを結いつけたり、木の枝をその土地に刺したりする意》
①占有のしるしをつける。
②土地を占有する。
③食べる。

という言葉に行き当たります。「しめ」は「しめ縄」の神領域境界線にも通じるところで、「いじめ」を見ると自己満足的な、集団満足的な破邪的な正道主張にも見えます。

 忌避的な締め出しが「いじめ」の語源ということだ。

 忌み嫌いは罪(つみ)とともに状態の安定を乱す障(さわ)り的なことを言うのでしょう。罪は、記紀の時代からあることばで、『祝詞』に列挙される国津罪、引用するにはあまりにもおぞましい限りで、

 お前たちが乱れた行いをするから、世の中は荒れるのだ。
 乱れた行いをするから障がい者が生まれるのだ。
 病虫害や鳥害も然り。

と、いうようなことが書かれている。
 お前たちが禁忌を犯すから神の力能に触れ、障(さわ)るのだ。だから国あげてのお祓いをするしかないのだ。
という話である。

 触れてはならない事。
 障りある行為はしない事。

そこには道徳的、倫理的な善悪や正義論は先行しない。得体の知れないものに畏怖心が起こる。それが自制心となり納まるところに収まる。納まるところとは今流に言えば秩序ということになろう。

 「タブー」は、原始的民族の心的状態に起因した行為の禁諱であり、広く世界の各地に存在するものでギリシャ語では「ハギオス」というとことを引用したが、じっさくぃにどのようなものがギリシャではタブーとされたのか、ヘシオドスの『仕事と日』(岩波文庫)には、

「陽に向かい、立ったままで放尿してはならぬ。」
「家の中で、婬水に汚れた陰部を炉の傍らで露わにしてはならぬ。」
「神々を祀る華やいだ宴の折には、五つの叉の生木から、枯れたところを、輝く鉄で切り取ってはならぬ。」
「海に注ぐ河の河口でも、水源でも決して小便をしてはならぬ。」

という禁忌が記載されている。
 「川に小便をするな!」という話は個人的には誰に教えられたのかは思い出せませんが、私の禁忌になっている。
 合理的な因果関係があるわけでもないかけ離れた事実が、そこに複雑に絡みながら一片を織りなす。差別相とはかくも世の織りなしの人間の業でありまた願いも生み出す。

 己に対する忌(い)みの締(し)めがあるならばこれほど叶うものはないように思う。

「何を」願い、何を叶えようとするのか?

人間は、苦悩に苦悩し狂わんばかりの事態になることもあるが、思考を忘れることなく悩み続け来ることも扉を開くことにもなると思う。

 私の禁忌、禁諱、タブーを見つけよう。

「私、失敗しないので!」の日本語哲学

2016年11月19日 | 哲学
 「私、失敗しないので!」と言い切るテレビドラマになぜか感動してしまいます。娯楽番組はこの方が痛快で愉快さに満たされます。

 これまで絶対に失敗しなかった外科のアルバイト女医先生、今後も「私、失敗しないので!」をくり返し続けてもらいたいものです。

 しかし、個人的な過去を振り返ると、私にはこのように「私失敗しないので!」と言い切るような気概で事に臨んだことはなく、常に内向きに反省と検証で事の処理にあたってきたように思います。

 他人様に「私失敗しないので!」などとは今後も言うことは決してないだろうと思う。 自己の思う必然性などには、必ずや外的な反証の機会や忠告が伴うもので、不愉快に思うこともありますが、大いに助かることもありました。

 事の種類にもよりますがリスクに伴う事柄については最大限注意を払うように気を配りますが、事務的な仕事において計算表やデーター管理をする場合は、特に検証はあらゆる方向から行うことにし、確実性を高めるようにしています。それでも単純なる誤りを検証の内に発見することができ、愚かさに反省を余儀なくされることがあります。

 太陽、月は東から昇り西に落ちる。

 東の山々の稜線のどの位置から太陽や月が昇るかは、季節の到来を告げるものになり、人は歴を刻むようになったに違いありません。

 ある意味、必然の現象が歴というものを刻むことになったわけで、古代人の経験が集団共有の伝承を生み、歴が刻まれたということになったと思う。

 「成った。」という事、「成る」という事は、動物的感というよりも意識的に自分の翻訳機で事態を解釈しているように思う。そのプロセスが思考であって、この解釈ができない事態に遭遇すると「偶然」という概念を生み出し思考停止を図ることになる。
 しかし思考停止といってもとりあえずの事処理であってここから新たなる思考の転回が開始されます。

「何故そう成り、成ったのか?」

と、自己の翻訳機で事態の解釈を図るわけですが、科学的な法則思考にならされていると「必ず」が優先し、「そうなることもあるさ。」という「たまたま」という偶然性が許されないことになります。

 しかし、「風が吹き桜が散る」よりも「犬が鳴き、桜が散る」の方が句としては評価になるわけで、世界的にも俳句の広がりは啓示的な話でもあります。

 深層心理のユング先生ならば「偶然は偶然ではない!」とその意味を大いに語ることになるわけで「超越」という概念思考は、偶然性が許されない思考にあればあるほど「超越」が自己の翻訳機に備わってくることになりる。

「神は世界の上に在り、世界は人間の外に在り、そして精神(霊)だけが人間自身の中に在る」

と、語りたくなるのも当然、また

 神と世界は、超越的観念論の批判的省察にとって、思惟する生物たるわれわれ自身によって作られた、あるいは弱めらていうならば、「構成された」「思惟の産物」である。

とも言いたくもなる、と思うのも当然でしょう。

「ある」という事実限定、存在という言葉に大いに重なる話ですが、古語の「ある」の声音には、「有る、或る、在る、生る」以外に「荒る、散る、離る」があることに気がつき感心させられました。

 個人的に古語の世界が好きで「ある」となると「あるなり」と一休さんの話に出てきそうな言い方に気づきます。

 日本語には「ある」の他に「なる」があり事実限定には特に強調する時には「あるなり」と生成の重なり表現となります。

 「なる」は今ではパソコンの言語変換には「成る、鳴る、生る、為る」が現れますが、古語の一般的辞書では、「成る」の他は「業る、慣る、馴る」があり、「鳴る神」という表現もあったようです。

 まず最初に「ある」という古語ですが、国語学者の大野晋先生は著『古典基礎語辞典』(角川学芸出版)では、「ある」について「或る、有る、生る、荒る」だけを掲載しています。「なる」については「成る、生る」の他「慣る、馴る」が載せられています。

 どうしてここで大野先生が出てくるかというと解説が大変素晴らしく、翻訳機のバージョンアップを図れるからです。

あ・る【或・有る】
解説:不特定の存在としてそこに存在する、または、そこにたまたまそこに存在する意。
あ・る【生る】
解説:連用形名詞アレは、神霊の出現、その出現したもの、また、そのよりしろを意味する語。
あ・る【荒る】
解説:動詞アルは、「あれたり」と助動詞タリを伴う場合が多く、自然のもつごつごつした、硬く、やわらかさのない状態になることをいい、荒茫・荒涼・荒廃する目の前の状態を映す。原初のような未開の地や文明化されず秩序がない社会、家邸などがすたれるなど、神の守護から見放されているような深刻な気配を感じることに用いる。

などと解説され、「なる」については、

な・る【成る・生る】
解説:物事の自然な時間的経過や、生命の発現などを日本人が把握し表現するために用いる最も基本的な重要な語。他動詞形はナス(為すサ四)。
 ナルは、時間が経過するうちに、こちらが手を加えないのに、事態や状態が移り変わり、新しい形が現れ出る意。ことに生物が生まれ出たり変化したりすることをいう。上代から例があり、現在に至るまで盛んに用いられている。具体的には、何もなかったところに、新しく何かが形をとって現れ出る意、ある状態が自然に変わっていって別の状態に至る意、物事が望ましい方向に変化しいき、その結果が完成された形で現れる意を表す。
 
と解説されています。この「なる」については当然「馴る・慣る」「鳴る」もありますが長くなるので略します。

 小説家で詩人の池澤夏樹さんが自ら編集した『日本語のために』(河出書房・日本文学全集30)のなかで、大野先生のこの「なる」の語義表現にいたく感心したと書いていますが、私もいたく感動しました。

 「先験哲学の最高の対象はむしろ神である。先験哲学は、その補充として、先験神学を必要とする。形而上学の全範囲は、神と世界と、そして世界にあってそれらをその思想の中にそれらをその思索のなかで合一する人間である。」

と、言い、先に書いたような、

 「神は世界の上に在り、世界は人間の外に在り、そして精神(霊)だけが人間自身の中に在る」

と、言葉を続けたらいかに合理的なことであろうか。しかし日本語の「あるなり」は動的述語感覚で語られます。

「私失敗しないので!」

というセリフから動的述語感覚の話になりましたが、世の中の失敗例、批判例をみているとどうも論理的な思考や合理的な生き方に慣らされているように見えます。

「あるなり」の根源的な概念の表象の衰退は荒れ野の様相を呈する、と結論付けたくなります。

「私失敗しないので!」と言い切ったら絶対に失敗しないでほしい。


と書きますが、いつもの言葉足らずの文章ですがご勘弁を。

尺度に弄ばされる

2016年11月12日 | 思考探究
 不便という言葉は、経験の中で得られた体験から得られたまさに不便さ感覚から発せられますが、対比的な感覚は効率的なスムーズな有益感覚です。

 このように効率化ということは損得感覚の益感覚であり、利益優先を選択思考です。前回のNHKの「ニッポンのジレンマ」では現代社会の効率化優先が話題にされていました。

 個人的にこの番組で「京都大学不便益システム研究課の素数モノサシ」が紹介され感動し即購入、実におもしろい「モノ」です。

 普通のモノサシと並べればその不便さはよくわかります。

 6センチの線を引くには?

〇3センチを2回
〇11センチから5センチを引く

等の方法が考えられますが、普通のモノサシならば何の不都合さはないのですが、考えなければ線を引くこと、測ることはできません。

 便利さ、効率化とはどういうことなのか?

 ある基準でモノを測る。共通場、共通世界観そこには共同認識である測る、理解する基準が存在します。

 ヤードもマイルもそれに環境を合わせることができる人ならば、脳裏にその表象をもつことができますが、まったく異なる環境にあれば共通認識をもつことはできません。

 計測器、秦の始皇帝の度量衡や豊臣秀吉の升は有名な話で権力者の支配力を高めるにはその支配圏内の基準的な「モノ」は必要不可欠で、奴属的感覚や支配される側の虐げられ感覚は別にして、一歩その環境圏で生きるとなるならばその「モノサシ」に使わないと不便この上ない事態になってしまいます。

 モノサシばかりではなく、言葉もあれば、色種名もその中に入ります。

 「郷にしたがう」という言葉がありますが、漢字の意味からしても棲む風土にしたがうことが語源で、しきたりなどを意味します。

 団体に属すれば「律」があり、国にあればその国の法に従うのが常。

 常とは常識という話で、「常識」ということを聴くだけでガツンとくる人も当然いるわけです。

 懊悩、煩悶、苦悩

 これが何であるかは、言葉になされなければ他人はそれを知ることはできません。

 過労死

 人は何処までも尺度に追われ、測ることができない、言葉にできない懊悩に怯え命を絶つ。
 誰もがそれを察することができない。

 悉く皆、力能に障(さわ)る尺度に翻弄されています。

ニッポンのジレンマ・効率性

2016年11月08日 | 思考探究
 時々深夜にNHKで「日にのジレンマ」という番組が放送されています。10月30日(日)の番組では「文化と効率性のジレンマ大研究@京大」と題して京大の若き研究者が集い語られました。

 「不便が人の本質」という話の中で「一見効率的ではないようなことが逆に効率的であった事例」として、ある研究者から次の話が紹介されました。

 京都の舞妓さんが踊りを習うときに、現在の効率的な方法によれば「手のひらを右何度に傾け、肘を何度に傾けて」と教示すればロボットでも真似ができますが、あえて「舞い散る雪を拾うように扇子を出してください」という。これは表面的には効率的ではないのですが、伝統を受け継ぐためにはこちらの方が人の解釈によっては新しい伝統を作ってくれたり変わって行ったり、ニュアンスを引き継げることができる。

という話がありました。

 「表面的に効率的ではないものだけれど効率的なのが文化」

と要約されていましたが、なかなか深イイ話です。過去ブログで石牟田道子さんの『苦海浄土』の話の中で、水俣病の被害者緒方正人さんの「私ももう一人のチッソであった」という言葉を書きました。木製の漁船からプラスチックの漁船へ、それは効率性を向上させるもので、誰もがそれをありがたがった。効率性というものを誰も疑うことはなかった。しかし、チッソという会社はこのプラスチック製造には欠かせない会社で、ある意味、誰もがこの会社をありがたがったことにもなります。

 効率性、便利さという言葉が現在の生活を支配しています。効率的な電力発電ということで原発が多数つくられました。ところが突然の自然の力能なる猛威に晒され、事あった時には、これほど恐ろしい存在はないことを国民に自覚させる事態が起き、この脅威はまさに「忘れたころにやって来る」が伝統的継承です。

 番組内で社会学者の方が見田宗介さんの「ロジスティック曲線」の話をされていました。

 生物学でいう「ロジスティック曲線」で社会を見てみようという話で、非常に興味深くいかに現代人が効率性を重視する思考壁に陥っているかがわかります。

 縦軸に種の数、横軸に時間をとり、ある森に適合した生物の変化を見てみる。初めは少し増え、その後、急激に大増殖するが、森の環境容量に----近づくと、種の数は安定する。これを有限な地球に当てはめても、同じ曲線が描けるではないか。

 というのが見田さんの発想の原点です。この話の中で個人的に興味を抱くところは、私たち日本人は「こころの内」に何を継承してきているか、というところです。

 伝統という非効率なもの、効率性という概念を創造するから非効率という話が出てくるわけで、時間の連続性に弁証法的生き方が重なれば「今よりはましな生き方」という人間の本性が現れてきます。

 『善の研究』の第一編第一章純粋経験に「経験は自ら差別相を具えた者でなければならない。」とありますが、「ましな生き方」という言葉の概念化も区分けの線引き、輪郭線を描くなどもその差別相の働きでしょう。さらに拡大して差別相を見るならば後先(あとさき)の時間も現れ、上下、横縦の空間も現れます。

  そのような思考で効率化を見れば差別相の現れであり、生々しい人間の性(さが)を感じます。

 効率性とは限りなき荒れ野の創造でもある。

 それが現代社会の姿かもしれません。

 しかし、現実とはリアルなものですが、私には「あわい」という輪郭線のない水墨画を見るような、こころ和す現れも、まさに現れます。

こころの現れ

2016年11月06日 | ことば
 昨日の秋晴れの天気が一変し、今日は曇り空です。
 現在、安曇野では「安曇野スタイル2016」という安曇野各地で芸術作品等を製作人々のアトリエを回遊する模様し物や会場での展示などが11月3日から6日まで開催されています。
 私も会場を中心に作品展示物を観賞しに出かけています。昨日はお隣の池田町にある北アルプス展望美術館に出かけ、絵画、ガラス・木工工芸作品に接してきました。
 安曇野の風景、こころの風景この美術館は山の斜面に建てられた建物で北アルプス眺望には欠かせない場所で、館前には広い芝生の広場になって多くの描き手が訪れています。
 ちょうど昼頃、芝生に6人の中年女性が横並びに座り、眼前に広がる北アルプスを見ながら賑やかに昼食をしている風景に出会いました。おばさんたちがにぎやかに、アルプスを見ながら食事をする姿、紅葉もきれい、そして秋の日差しが温かく気持ちがよく、騒音もあるはずもなくおばさんたちだけの笑い声が響きます。



 これも風景、ひとつのこころの風景かも知れない。
 ここで「こころ」という言葉を使用したのですが、誰もが「心(こころ)」という言葉を口に出し、または文章に書くことができます。しかし、語っている内容を理解できるのに、心そのものについては形のある存在物ではなくこれがそうだと指さすことはできません。それなのに誰もが共有できるわけでそれはまさに存在しているように思えます。
 ということは、それは「ある」という話で、そうなりますと「ない」という状態もあるわけで、


 心有り
 心無し

という言葉が当然あるわけです。古人(いにしえびと)の時代からそれは使われ、今まさに私も使っています。
この「こころあり・なし」を古語辞典を見ると、
「こころあり」は、「心在り」「心有り」と「あり」に「在・有」が使われ解説されています。


岩波古語辞典には、

こころあ・り【心在り】
①人間らしい感情を持つ。
②下心がある。
③二心がある。へだて心がある。
④心得がある。
⑤道理がわかる。わきまえがある。
⑥情趣がある。情趣をかいする。

ここでわかるように、「こころあり」という言葉には、人間味のある思いやり人間と正反対の裏切ったり浮気をしたりする心ある人間が同居しているわけで、用いる側に状況の把握における快と不快がみえる。
しかし、単独で「こころあり」と言ったところで下心は直ぐには見えてこない。もしもこの二心が人間らしい感情よりも先に思いつくならばそれなりの人生を歩んでいることになります。
次に「こころなし」ですが、

こころな・し【心無し】
①思いやりの心がない。
②思慮がない。不注意である。非常識だ。
③情趣を解さない。

とあり、他の辞書には「風流心がない」「教養がない」「感受性がない」と書かれているものもありました。この「心無し」ですが別に「うらなし」と訓読みされます。同じ漢字表記で読みが異なるだけの話ですが、

うらな・し【心無し】《ウラは人に見えない内情。何の考えもない虚心の状態である意》
①(気がね・遠慮・心配などがなく)無心である。
②腹蔵がない。隠し立てがなく、なんでも人にあらわにしてしまう。

 他の辞書にも出てきますが「無心である」と解説されています。当然辞典ですので現代人が理解できる言葉で解説されて、禅における「無我の境地」にも聞こえます。

 この辺から思考の世界が転回するのですが、「今、私は無心なり」と言葉を聞いたとしてあんたは悟りの境地をさまよっているのかと思いたくなるのですが、古語の世界で「むしん・なり」と「無心」を形容動詞にナリを付けて「無心なり」と語ると、
どういうわけか「分別がない」「考えが薄い」「無風流だ」「情趣を解さない」と、意味が反転します。

 あの人に、「こころ」が在るのか無いのか。

 コマーシャルに「馬鹿が付くほど正直な配送員」があり、

 いろはカルタに「腹に一物、背中に荷物」という札があります。

 相手を見た時に「オットあぶねぇ・・・人」。

 人は他人(ひと)を読む。常に人はそのような存在なのかもしれません。
 言葉を代えれば他人(ひと)ばかりではなく事象、風景を眺望し何かを読み取る。
 そういうときに「こころ」は多様に現れる。他人の中に、事象の中に、風景の中に様々な表現の中に現れ来るように思えます。

相貌と心(こころ)

2016年11月05日 | ことば

 紅葉も麓に降りてきました。庭先の木々も色鮮やかに変身です。


本論に入りますが、

 「理とは何か」というタイトルをつけて思考してみたのですが、「理(り)」とは「ことわり」と音読みされ「こういうことだ」と理屈をこねる、理詰めの思考を展開しているわけです。

 心理学というと時間・空間・場所においての人間の現れを理詰めで解釈しようという話で、心を理屈をもって説明しようというわけです。理屈とは法則が伴うもので、データー収集で傾向という話になってゆきます。したがって科学の一種であることは当然で、科学の手法で「心(こころ)」の構造を明らかにしようという「学(がく)」が心理学の説くところということになるわけです。

 戦国の世が終わり江戸期になると徳川幕府は儒学で世の中を制度化して行きます。林羅山の朱子学が中心に「親に孝行」「君臣の学」などと「こういうものだ」という決定論で世の中を構造化するわけで、理気説という二元論、情即理などがその発想の源のようです。

 そうではないでしょう、世の中は理詰めではなく「情でしょう」というわけで熊沢蕃山は「心法」、荻生徂徠は「心力」そして石田梅岩は「心学」などを説くようになりました。

 そもそも「心(こころ)」とは何か?

とその意味を考えはじめると正直わからない話で、一応ネット検索すると、


などの解説が出てきます。心の概念ということになるのですがそれこそ理屈で解釈できるものではなく、「こころなどは錯覚」などと説く人までいます。

 「他人の心」というと「痛み」を読み解く話に聞こえ、「見えないけれども見えるんだよ」という代物(しろもの)です。

 代(しろ)ですので「かわりのもの」ということで「形のない代役」として「こころ」という声音が、日本語を使う人びとを「形なき概念」が互いを結ぶわけです。

 こころの風景

 こころの灯

 日本人のこころの歴史

 物と心

 こころの哲学

 心という難問

などと言うタイトル本が書棚に見えます。

 「こころ」という言葉は古語の時代から国語の現代まで引き継がれる言葉。岩波の古語辞典には次のように書かれています。

こころ【心】《生命・活動の根源的な臓器と思われていた心臓。その鼓動の働きの意が原義。そこから、広く人間が意志的、気分、感情的に、外界に向かって働きかけて行く動きを、すべて包括して指す語。類義語オモヒが、じっと胸に秘め、とどめている気持ちをいうに対し、ココロは基本的には物事に向かう活動的な気持ちを意味する。また状況を知的に判断し意味づける意から、わけ・事情などの意。歌論では、外的な表現の語句や、形式に対して、表現しようとする歌の発想、趣向、内容、情緒などをいう》

思いとの対比で心を説明されるとまた理解が進みます。

 哲学者の野矢茂樹東大教授は「相貌(そうぼう)」という言葉で『心の難問』を説きます。「よく知っているのにそれがなんだかわからない」意の相貌という言葉。

 江戸期には、世の中は「理」の反対の「情」という心を大切にすべし、という心法、心力、心学が人の心をつかんだが、今の世も非常に似ています。

 「相貌」が懐疑を生むのは確かだが、それもまた、あるべき姿かもしれません。