「放射能が伝染する」という軽薄な知識、この発想はどのような経験から表象する概念を生み出したのであろうか。「思いやり」に欠けた思考があるわけで、人間の関係性の希薄があることが推察される。
【意味】いじめとは、自分より弱い立場の者を、暴力や嫌がらせによって肉体的・精神的に苦しめること。イジメ。
【いじめの語源・由来】
動詞「いじめる(苛める・虐める)」を名詞化した語。
「いじめる」は「いじる」からか、「いじ(意地)」の活用と考えられるが断定は難しい。「囲締(いじめ)」といういみからといった意味という説もあるが、いじめの原義には集団による行為の意味は含まれていない。
特に集団による行為をさすようになったのは1980年代初頭から、陰湿な校内暴力を言うようになってからである。
「いじめにあう」ではなく「いじめられる」としか言わなかったように、社会的問題となるまで名詞の使用例は非常に少ない。
名詞の「いじめ」が成立したのは、陰湿な校内暴力が増えたことと、その問題がクローズアップされたからといえる。
・障がい者
・在日外国人
・エイズ、元ハンセン病患者等の感染病、公害被害者
・ホームレス
・被差別出身者
①占有のしるしをつける。
②土地を占有する。
③食べる。
解説:不特定の存在としてそこに存在する、または、そこにたまたまそこに存在する意。
解説:連用形名詞アレは、神霊の出現、その出現したもの、また、そのよりしろを意味する語。
解説:動詞アルは、「あれたり」と助動詞タリを伴う場合が多く、自然のもつごつごつした、硬く、やわらかさのない状態になることをいい、荒茫・荒涼・荒廃する目の前の状態を映す。原初のような未開の地や文明化されず秩序がない社会、家邸などがすたれるなど、神の守護から見放されているような深刻な気配を感じることに用いる。
解説:物事の自然な時間的経過や、生命の発現などを日本人が把握し表現するために用いる最も基本的な重要な語。他動詞形はナス(為すサ四)。
ナルは、時間が経過するうちに、こちらが手を加えないのに、事態や状態が移り変わり、新しい形が現れ出る意。ことに生物が生まれ出たり変化したりすることをいう。上代から例があり、現在に至るまで盛んに用いられている。具体的には、何もなかったところに、新しく何かが形をとって現れ出る意、ある状態が自然に変わっていって別の状態に至る意、物事が望ましい方向に変化しいき、その結果が完成された形で現れる意を表す。
と書きますが、いつもの言葉足らずの文章ですがご勘弁を。
現在、安曇野では「安曇野スタイル2016」という安曇野各地で芸術作品等を製作人々のアトリエを回遊する模様し物や会場での展示などが11月3日から6日まで開催されています。

①人間らしい感情を持つ。
②下心がある。
③二心がある。へだて心がある。
④心得がある。
⑤道理がわかる。わきまえがある。
⑥情趣がある。情趣をかいする。
①思いやりの心がない。
②思慮がない。不注意である。非常識だ。
③情趣を解さない。
①(気がね・遠慮・心配などがなく)無心である。
②腹蔵がない。隠し立てがなく、なんでも人にあらわにしてしまう。
紅葉も麓に降りてきました。庭先の木々も色鮮やかに変身です。
本論に入りますが、
「理とは何か」というタイトルをつけて思考してみたのですが、「理(り)」とは「ことわり」と音読みされ「こういうことだ」と理屈をこねる、理詰めの思考を展開しているわけです。
心理学というと時間・空間・場所においての人間の現れを理詰めで解釈しようという話で、心を理屈をもって説明しようというわけです。理屈とは法則が伴うもので、データー収集で傾向という話になってゆきます。したがって科学の一種であることは当然で、科学の手法で「心(こころ)」の構造を明らかにしようという「学(がく)」が心理学の説くところということになるわけです。
戦国の世が終わり江戸期になると徳川幕府は儒学で世の中を制度化して行きます。林羅山の朱子学が中心に「親に孝行」「君臣の学」などと「こういうものだ」という決定論で世の中を構造化するわけで、理気説という二元論、情即理などがその発想の源のようです。
そうではないでしょう、世の中は理詰めではなく「情でしょう」というわけで熊沢蕃山は「心法」、荻生徂徠は「心力」そして石田梅岩は「心学」などを説くようになりました。
そもそも「心(こころ)」とは何か?
とその意味を考えはじめると正直わからない話で、一応ネット検索すると、
などの解説が出てきます。心の概念ということになるのですがそれこそ理屈で解釈できるものではなく、「こころなどは錯覚」などと説く人までいます。
「他人の心」というと「痛み」を読み解く話に聞こえ、「見えないけれども見えるんだよ」という代物(しろもの)です。
代(しろ)ですので「かわりのもの」ということで「形のない代役」として「こころ」という声音が、日本語を使う人びとを「形なき概念」が互いを結ぶわけです。
こころの風景
こころの灯
日本人のこころの歴史
物と心
こころの哲学
心という難問
などと言うタイトル本が書棚に見えます。
「こころ」という言葉は古語の時代から国語の現代まで引き継がれる言葉。岩波の古語辞典には次のように書かれています。
こころ【心】《生命・活動の根源的な臓器と思われていた心臓。その鼓動の働きの意が原義。そこから、広く人間が意志的、気分、感情的に、外界に向かって働きかけて行く動きを、すべて包括して指す語。類義語オモヒが、じっと胸に秘め、とどめている気持ちをいうに対し、ココロは基本的には物事に向かう活動的な気持ちを意味する。また状況を知的に判断し意味づける意から、わけ・事情などの意。歌論では、外的な表現の語句や、形式に対して、表現しようとする歌の発想、趣向、内容、情緒などをいう》
思いとの対比で心を説明されるとまた理解が進みます。
哲学者の野矢茂樹東大教授は「相貌(そうぼう)」という言葉で『心の難問』を説きます。「よく知っているのにそれがなんだかわからない」意の相貌という言葉。
江戸期には、世の中は「理」の反対の「情」という心を大切にすべし、という心法、心力、心学が人の心をつかんだが、今の世も非常に似ています。
「相貌」が懐疑を生むのは確かだが、それもまた、あるべき姿かもしれません。