「町人の正義」は、「造り酒屋のバイオテクノロジー」の中に生かされ、安政時代から続く老舗の勇心酒造は、現在5代目の徳山孝氏が経営する。
バイオテクノロジーと聞くと「遺伝子操作」による商品開発が浮かぶが、東京大学大学院で酵母を専門に研究した徳山社長のそれは「日本型バイオテクノロジー」と呼ぶそうで、酒造りに使われるいろいろな酵母菌を応用するもので、歴史の中で既に人体実験済みの菌を使っての科学応用による商品開発である。
人間が遺伝子に人工的つくり上げる、ときには背徳的な科学と批判されるものとは異なる。
NHK「知るを楽しむ」の「野村進 長寿企業は、日本にあり」という再放送を見た。番組中に大手入浴剤会社の不義的行為を知ったが、大企業の恥部よりも、老舗のもつ「何ものか」に興味をもつ。
徳山社長が年月を掛け研究開発した入浴剤の製造方法を、大手入浴会社が共同開発しましょうと持ちかけ、そのノウハウを渡したところ徳山さんが知らないうちに新製品を開発し「米からできた入浴剤」として売り出してしまったのである。
40人足らずの小さな会社、大手には勝てるはずもなく裁判費用も続かずいわゆる泣き寝入りせざるをえなくなった。
野村進氏は、
「それからが地獄でした・・・・」という言葉を聞いたとき、私は気の毒でなりませんでした。続いてこみあげてきたのは、大企業の没義道な仕打ちに対する怒りです。
「これ、向こうの会社の実名を出して、書きましょうか」
こういうことを私のほうからもちかけるのは初めてなのですが、思わずそう言いました。すると、徳山さんは、相変わらず小さな声で、
「・・・・品がなくなりますから」
と答えるのです。恥ずかしそうな笑みさえ浮かべています。
私は、そのあまりのお人好しぶりに内心いささか呆れつつも、うれしいような、頼もしいような気がしていました。品がなくなるようなことはしないという発言に、老舗の造り酒屋に息づく、控えめながらも確固とした倫理観を感じたからであります(NHKテキストP45から)。
と語る。
「正義」「不義」「倫理観」という言葉の奥に隠れている、言葉として表明する基盤は、分別智、分節の世界でのことである。
「老舗」に息づく「なにものか」は、家訓などの形に表されることが多い。
「不義にして富まず」これは、勇心酒造の家訓の中のひとつ。
「義理を欠いてまで富むな」という意味であろう。
もの造りの際の「不義」とはどういうことか。
不義とは、人として行うべき道を外れるという意味(辞典)らしいが、単に商取引や人と人の係わりに関する道理にはずれるだけであろうか。
もの造りの老舗の中には、どうしても造りだす者と「もの」との係わり、使う者との係わりを含めた、広い視点と志向性が不可欠のような気がする。
酒造りならば、米や水、酵母菌をも含めそこに息づく「なにものか」を自らに「うつし」得てこそ、もの造りの「もの」は丹精込めた「もの」になる。
集英社文庫「日本語の力」の中で国文学者の中西進は、「やまとことばの思考」で次のように述べている。
哲学者・和辻哲郎が残した多くの業績の中で、もっとも注目すべきものの一つに、やまとことばによる哲学的思考がある。たとえば和辻は日本語と哲学との問題においても、日本語が学的概念の表示として用いられることが少ないのは、理論的方向における発展の可能性をただ可能性としてのみ内蔵していたことを示すにすぎないのだといい、日本語-----本来のやまとことばによる考察を試みた。(『続日本精神史研究』)
そこで大きくとり上げたのは、「こと」と「もの」であり、「こと」は動作や状態がそれとしてあることを示し、「もの」はたとえば「動くもの」といった場合、ものの動作としてものをその中身において増大するととく。
従来は学術語として不適当だされたやまとことばを、積極的にとり上げた和辻の研究は、もちろん本居宣長などの先人をなしとしないが、先駆的なものといわなければならないだろう。ちなみにこの論文は、一九二九年の執筆である。(P42~43から)
「やまとことばの思考」は、「西洋的な哲学的思考」を否定するものであってはならないと思う。
中論講論1月号吉本隆明と中沢新一の対談集は、最後に中沢新一が次のように語り、終わっている。
ヨーロッパの宗教は、巨大な「もののあわれ」をベースにした、何とも名づけようのない人類的なるものの一部でしかない。ヘーゲルのような体系つくり方は、ヨーロッパを土台にしてつくる体系ですが、そうではない別の体系があるんじゃないかというのが、吉本さんのメッセージのような気がする。