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思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

心理学を学ぶ意義とは?

2016年04月21日 | 心理学

 朝の通勤時間帯にラジオで鈴木杏樹さんの“いってらっしゃい”という番組を聴くことがあります。先週(4/11~4/15)のテーマは『心理学』でした。

 5回の放送を全部聞けたわけではありませんが、翌週のはじめには番組のブログにその内容が掲載されていて放送内容を知ることができます。それによると

『心理学を学ぶ意義とは?』

『投影について』

『日常生活で使われている心理学』

について5回に分けて放送されたようで、私が聞いたのは月曜日の一回目『心理学を学ぶ意義とは?』だけで、他は聞くことができませんでしたがこのブログを見ることによってその語られた内容を知ることができ、大変勉強になりました。

この“鈴木杏樹のいってらしゃい”ブログは文立てで鈴木さんの語りの雰囲気がよく出ています。

・・・"心理学を学ぶ意義"ですが、心理学によって"自分"を知ることが出来るそうです。

その結果、人間関係をスムーズにすることにも繋がっていくそうです。

ご家庭や学校、職場、あるいはご近所付き合い・・・

私達が日々、生活していく上で、相手が誰であっても人間関係は欠かすことが出来ませんよネ。

人間関係がスムーズにいっている時は、毎日が楽しく充実しています。

ところが人間関係が上手くいかないと、日々の生活は楽しいどころか苦痛なものになってしまいます。

それが続いてしまうと、あれこれ悩んでストレスがたまって体調を崩してしまうこともあります。

それ位、人は人間関係に左右されやすいそうです。

ところが人間関係というのは、本当に難しいもので、"どうして自分は、上手く人間関係を築けないのだろう・・"とか、"何であの人とは、他の人のように上手く付き合えないのだろう"と悩んでしまいますが、その疑問は"自分"に向けてのものだそうです。

心理学を学ぶことで"自分"を知ることが出来て、その結果、人間関係を築いたり、修復することへの糸口になるヒントを得られるのだそうです。

以上が私の聴いた内容です。

この鈴木さんのお話は、わたし自身がこれまでの学びの中で充分に知り得ていることですがあらためて月曜日の通勤時間帯の車内で語られると、我がこころの内の叫びに聞こえました。日ごろ何を学び何を根付かせてきているのかという問いでもありました。

 昨年の春第二の人生で現在の職場に就職し、職場の老人との人間関係で心の落ち着かない毎日が続いています。

 この心持を是正するにはどうしたらよいものか。

 番組の次の日は、火・水曜日の二日に分け『投影について』について語っています。

・心理学では"人間の行動には、必ず理由がある"と考える。

・心理学を学ぶことで"どうして自分はそんな行動をしたのか?"その理由を推測して、自分のことをより深く知ることができる。

 その方法の1つが『投影』です。

 人間関係の中で"この人とは生理的に合わない"とか、"仲良くなれない"、"苦手"という人は必ずいます。

 その人から"こんなことを言われた!"、"こんな不愉快な思いをさせられた!"というように何かしら原因があれば理解できますが、思い当たるものが、何もないのに、接しているとイライラしてしまったり、自然と距離を保ったりしてしまいます。

これは『投影』という心理によるものが大きいそうです。

まさに私の不愉快な毎日が語られているようです。

 苦手な老人がいる。

 避けることのできない毎日、番組ブログでは、

"苦手"と感じている人の"どんな所"が苦手なのか挙げてみます。

例えば"声や話し方が苦手"とか"仕草が不快に感じる"とか

いろいろあるかと思います。

実は今、挙げた"相手の苦手な所"というのは"自分の嫌な所"で、

"自分の苦手な所・嫌いな所"を、その人に映し出しているそうです。

"そんなことはありません!"と思われるかも知れませんが、

心理学ではそう分析しています。

例えば"あの人の八方美人の所が嫌い"というのは、

実は"自分自身も八方美人だから嫌い"というのと同じだそうです。

"あの人のああいう所って嫌だと思わない?"と人に言ったところ

"あなたもそういう所、あるわよ"って言われた経験ありませんか?

ここまで語られてさらにハッとさせられます。妻にこの苦手な老人の話をしたところ、私に似ている、といわれたのです。

これが、『投影』という人間の心理で、"自分の心を守る働き"の1つです。

自分の嫌な所を、無意識に心の中に抑え込んでいるため、

自分では気づかず、その代わりに相手に"投影"することで、

それが見えてしまい、その人を苦手だと思う、まさにその通りです。


"相手の苦手な所"というのは"自分の嫌な所"で、"自分の苦手な所・嫌いな所"を、その人に映し出している・・

 人は自分の中にある"嫌いな所・許せない部分"を無意識に抑えようとする心の働きがあって、それと同じものを持つ相手を"否定"しようとすることになり、嫌な思いはまさにそこに原因があるということです。

ですから、"自分の嫌な部分"を認めることが、"嫌い"を減らすことになる、というわけです。

「投影」

 妻との接し方に反省の余地ありで、変わる努力を続けています。するとどうでしょう、こころの依処の家庭がある、の大切さをしみじみ感じさせられました。

 職場の嫌な思いは相変わらずですが、時が過ぎれば巣に戻る。それだけでも大いにありがたいことです。

 今年に入りアドラーの心理学を学ぶ機会がありました。アドラーの『人生の意味の心理学』、2月にEテレの100分de名著で取り扱われたもので、哲学者で日本アドラー心理学会認定カウンセラー岸見一郎さんが講師で100分間の番組ですが、たいへん考えさせられました。

 さっそくアドラーの『人生の意味の心理学』(アルテ)を購入しようとしましたが品切れで、入手まで1か月以上もかかりました。その間に岸見一郎著『アドラー心理学入門』(ベスト新書)を購入、読んでみると心にくさびを打ち込まれるようでした。


 第五章「人生の意味を求めて」に、「他人を気にしない」というテーマがありました。

 まさに私の今の心持へのアドバイスです。

「敵がいないということは絶えず人に合わせているということですから、不自由な生き方をしているといわなければなりません。」

 「私たちのことをよく思わない人がいるということは、私たちが自由に生きているということ、自分の生き方を貫いているということ、また、自分の方針に従って生きているということの証拠ですし、自由に生きるために支払わなければならない代償であると考えていいのです。」

と書かれていて岸見さんは、「誰からもよく思われるか、自分のことをよく思わない人がいることのどちらかを選べと言われたら、私ならば後者を選びます。自分のことを嫌う人がいても自由に生きたいのです。」とまで語っています。(同書p149ーp151)

 このアドバイスも、心に効きますねぇ。

 まさに私にとっての敵である職場の老人。

 さんざん、人に「気にしなければいいのに」とか「来年の春には退職してその後は天国」などといわれて「我慢、我慢」でしたが、この「自由」に対する思考視点の転回は、精神的無意識における意味器官に呼応して心持を転回してくれます。

 老人に見る私の投影。

 まさに私は敵を作っていました。私という敵を・・・。

 この岸見さんの著書には、「自分が決める」というテーマも書かれていて、V・E・フランクルの名とともに次のように書かれていました。

  アドラーと一時期一緒に仕事をしていたフランクルは次のように言っています(『宿命を超えて、自分を超えて』春秋社)、環境や教育、また素質でなく自分が自分を決める。人間であるということは、このあり方しかできない、他のあり方ができないということではは決してなく、人間であるということは、いつでもほかのあり方ができるということなのである。と。これはまさにアドラーの言っていることです。(同書p136-p137)

 「自分が自分を作る」というのは私個人がこのブログにこれまで何回も書いていることで、いかに軽薄であるかがわかります。

 わかるまで苦難はおとずれ意味を問う。

 そんなこんなで親鸞さんの『歎異抄』が今月の名著。

 人間だから縁によって常に心は行き来しています。たまたま悪人になれなかっただけでいつ悪人呼ばわりされるかもしれません。

 ときどきの問いの機会に耳を傾ける、それが救いなのかもしれません。

 鈴木杏樹さんの『心理学を学ぶ意義とは?』から始まった話ですが、自分の心を知る、そこに通じるのではないかと思います。


フランクル心理学のエッセンス

2012年09月15日 | 心理学

[思考] ブログ村キーワード

 残暑が続くとの気象予報です。朝のヒンヤリさも陽が高みを増すごとに消え失せ、庭の草取りなのどを始めても熱中症になるのではと心配するほど疲れます。読書の秋と言いますが、確かにコウロギの鳴き声をバックに山麓の静けさの中で耽るのも好いかも知れません。

 いまは『夜と霧』のフランクルといった方がわかりやすいのではないかと思います。そもそもフランクルに熱心になったのは、『夜と霧』を読んだからというよりもNHKの番組で哲学者の山田邦男先生が「~生きる意味を求めて~」というフランクルの思想を中心に自分の人生を重ね合わせながら、フランクルの特に精神的無意識という概念が西田哲学と重なるところが見られるという話に魅かれたからです。

 その後視点を現存在、実存主義、実存を移しながらその他の興味ある分野も並行して思考の世界を巡っているわけです。仕事、野良仕事、絵画鑑賞、自然探索、坂道走り三昧(ランニング)そして読書、これが我が人生の真っ只中に日々の移ろいです。

 100分de名著『夜と霧』はとても印象深いというよりもフランクルの思想におけるスピリチュアリティの問題を提示してくれるものでした。それは番組講師の臨床心理士で明大文学部教授の諸富祥彦先生がその面に非常に言及しているからで興味をさらに増すことになりました。このスピリチュアリティは番組では語られませんでしたが、著書の『フランクル心理学入門 どんな時にも人生には意味がある』『人生に意味はあるのか』などを読んでいるとそのことが見えてきます。いわゆる「魂の癒し」です。私自身は「魂のゆくへ」という課題を民俗学的視点で読み解きながらそのほかの分野と重ね合わる思考を試みていますから、スピリチュアリティな問題に興味がないわけではありません。

霊妙な話し・魂・柳田國男・小林秀雄
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/82965eb357e8f87c4c268d9e835e89fd

魂のゆくえを見つめて~柳田国男 東北をゆく~
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/5f1340f0fc4c77729145690da9f6b104

スタニスラフ・グロフのフランクル批判
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/9a6232fa9c6da971edc5652a1a69d0e9

で書いているように、人一倍興味がある人間です。しかし、自分を離れた現存在としてそのような体験もなく、諸富先生の言葉を借りれば霊能者のような「お手軽スピリチュアリティ」には懐疑的です。本物かニセモノかについて、諸富先生の『人生に意味はあるのか』(講談社現代新書)は面白いですね。第5章「スピリチュアリティの答え」には、僧侶の玄侑宗久さん、文筆家の上田紀行さん、江原啓之さん、『神との対話』のニール・ドナルド・ウォルシュの名が出てきてます。

玄侑宗久さんや上田紀行さんは、スピリチュアリティで私からすれば江原啓之さん、ニール・ドナルド・ウォルシュは完全なる「お手軽スピリチュアリティ」と思っています。

 前にも言ったように「発明された幸福の方程式」を語る人々だと思っています。

「普通に人々が、人生の最大の幸福と最高の喜びとがそれに基づくと考えられているらしい三つのものがある。それは彼らが実際何を求めて行動しているかを見ても想像がつくのであるが、結局それは富と名誉と快楽の三つに帰着するであろう。ではそうしたものは、本当に人生の最高の宝であろうか。それを得れば我々は揺るぎなき幸福を楽しむことができるであろうか。」

と語るのはエチカのスピノザ、彼について語るつもりはありませんが「富と名誉と快楽」を得れば揺るぎなき幸福を楽しむことができるか?

 この問に人間の根源的な欲望に対するものを感じます。

 よく一般的に「人生の目的は、喜びの実現であり、幸福の実現である」だと言われますが果してそうなのだろうか。

 「富と名誉と快楽」を得るとは、財産や名誉を失い絶望のどん底に落とされた「裸の実存」そのものの逆の状態を示しています。

フランクル心理学のエッセンスという体験談を諸富先生は次のように書いています。

<『フランクル心理学入門 どんな時にも人生には意味がある』(コスモスライブラリー)から>

  毎日のルーティン・ワークに疲れ果て、ややこしい人間関係に嫌気がさした仕事の帰り道。ふとため息をついて立ち止まり、星のきらめく夜空を見つめる。
 夜の冷たい空気に触れながらしばらく天を見つめていると、この世界そのもの、宇宙そ
のものに意味と秩序とが満ち満ちているのを感じることができる。
 この無限に広がる空間と時間のただ中で、他のどこでもいつでもない 「この時こしの場」に、他の誰でもない 「この私」が、こうして与え置かれているということにはやはり意味がある。「なすべきこと」が与えられていると思わないではいられない。
 私たちは何をしてもいいし、しなくてもいい存在ではない。ましてや、いてもいなくてもかまわない、そんな存在なんかではない。
 私には、この人生で「なすべきこと」「満たすべき意味」が与えられている。そしてそれを発見し実現することを求められている。そんなことが、確かに実感されてくる。
 するとどうだろう。私は、自分のからだの内側で「いのち」が生き、燃え立つのを確認することができる。意味の「呼びかけ」に呼応するかのようにして、自分のからだの内側で「いのち」が生き働くのを感じることができるのだ。

<以上上記書p323~p324>

「実存の問いとトランスパーソナル」と題した付論の冒頭に書かれているのですが、確かにエッセンスだと思います。「生きる意欲」の心理学は、「人間が生きていく上で最も大切なこと」を語っています。

 明日に命に不安がある病にとっての目覚めの夜明けは掛け替えのないものですし、飢餓にあえぐ者にとっては一粒の米でさえ掛け替えのないものです。そういう目で見ると何気ない日常にこそ幸せがあるというものです。

 幸福は求めるものではなく、気づくものである。

私はそう思います。だからこそ「人生には生きる意味がある」のであって「苦しみの中にこそ、あなたは輝く」のだろうと思います。

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フロー体験・喜びの現象学

2011年02月19日 | 心理学

 今日は土曜日。休日で特に呼び出しもなさそうな雰囲気です。ひと時を楽しむ。何ものにも惑わされることなく自分のペースで好きなことができるそんな自由感が漂います。

 今から始めることは今朝のブログ記事内容をどうするかということになります。365日パソコンがある限り記事を掲出するということは、今や習慣となり身体的な癖までになっています。

 私の場合睡眠という問題は、眠くなったら寝る。何処であろうと、短時間であろうとできるという特技があるので、どんなに遅くに寝ても、午前3・4時にひどい時には2時ごろ覚めるときがありが、起きてしまいます。読みたい本を読み、番組録画したものを見たりゆっくりとコーヒーを見ながら時を過ごします。

 山間地で、時々動物の鳴き声や今時は屋根の雪が落ちる音、そして温度差による家の軋み音、そんな程度で静寂の中に身をおくことができます。

 最近「フロー」という言葉を知りました。フロー体験という表現で語られているようですが、単純明快に言えば「こよなく時を愛する」に集約されるかもしれません。

 書店などにいくと自分の好みのコーナーに向かいひと通り書棚を見まわします。そんな時に「現象学」などという文字があるとつい手が伸びてしまいます。

 『フロー体験 喜びの現象学』(M・チクセントミハイ 今村浩明訳 世界思想社)

出版社を見ておおよそ流れの中に何感を感じるのですが「フロー体験」という言葉がわからない。時の流れに身をおく姿がイメージとして浮上し、そして現象学。我が身は他者にいったり自己に行ったり来たり、時間と場のと思考をフル回転し、書棚から取り出し開いてみました。

 ザット見て、最適経験の理論。感得すれば幸福になれる。こういう視点も編み出したか、新興宗教にも似た感を受けました。

 <一つの活動に深く没入しているので他の何ものも問題とならない状態、その経験それ自体が非常に楽しいので、純粋にそれをするこということのために多くの時間や労力を費やすような状態。>という概念に基づく最適経験の理論(同書p5)。

 これだけでもその意味するところが、既成の枠組みの中の改編であることがわかります。

 改編の思考に非常に魅せられ、購入。初出版が1996年、手元のものは2009年第9刷ですので地道に読まれているようです。

 ウィキペディアフリー百科事典で「フロー」を調べると、

 フロー(英語:Flow )とは、人間がそのときしていることに、完全に浸り、精力的に集中している感覚に特徴づけられ、完全にのめり込んでいて、その過程が活発さにおいて成功しているような活動における、精神的な状態をいう。ZONE、ピークエクスペリエンスとも呼ばれる。心理学者のミハイ・チクセントミハイによって提唱され、その概念は、あらゆる分野に渡って広く論及されている。

となっており「心理学者のミハイ・チクセントミハイ」、ゲシュタルト心理学と現象学のフランスのメルロ=ポンティの心理学者版なのです。

 語りつくせないものをどうにか語りつくしたいと努力したメルロ=ポンティに興味がある私、従って購入は正解でした(私は早とちりなのでよくがっかり本があります)。

 ということで、今朝はその中から次の箇所を紹介したいと思います。「言語」「言葉」好きなものにとっては思考の発想に参考になりました。

<引用>

 言葉の使用を通して我々の生活を高めるのにより実質的で可能性のあるのは、現在では失われた会話の芸術である。過去二世紀余にわたって功利主義的イデオロギーは、話すことの主要目的は有用な情報を伝達することであるということを我々に確信させてきた。かくして現在我々は、実際的な知識を伝える簡潔なコミュニケーションを重視し、それ以外のものをつまらない時間の浪費と考えてしまう。その結果、人々は目前の関心に基づくか特殊な範囲の、狭い話題以外のことを、互いに話すことがほとんどできなくなってしまった。もはや「精妙な会話、それはエデンの園」と書いたイスラム教の教主アリ・ペン・アリの情熱を理解できる者はほとんどいない。
会話の主要な機能は、ものごとを達成することではなく経験の質を高めることなのだから、これは残念なことである。

 著名な現象学的社会学者であるピーター・バーガーとトーマス・ルックマンは、自分の住んでいる世界についての我々の意識は会話によって統合されていると書いている。私が朝出会った知人に「良い天気だね」という時、私はもともと気象学上の情報-----彼も私と同じデータをもっているのだから、いわずもがなのことをいっていることになる-----を伝えているのではなく、きわめて多くの言外の目標を達成している。

たとえば彼に話しかけることで、私は彼の存在を認識し、私の挨拶の意を親しく表わす。次いで私は、天候のことを話すことは人との接触を確立するうえで安全であるという、我々の文化での相互作用の基本的ルールを再確認する。最後に天気が「良い」ということを強調することによって、私は「良いということ」は望ましい特質であるという、共有する価値をほのめかしている。したがって天気についてのこの即席の意見の表明は、私の知人の心にいつもの秩序を保たせるメッセージとなるか「ああ素晴らしいね」という彼の答えは私の心の秩序を保たせる。

このような分かり切ったことのたえざる繰り返しがなければ、人々は直ちに自分の住んでいる世界の現実に疑いをもち始めるだろうとバーガーとルックマンは主張する。我々が互いに交わす分かり切った言葉遣いや、テレビやラジオから流れる取るに足らない話は、すべて世はこともなく、存在はすべて平常状態にあることを我々に再確認させるのである。

 非常に多くの会話がそこで断ち切られてしまうのは残念なことである。しかし言葉がうまく選ばれ、うまく並べられるなら、それは聞き手に喜ばしい体験を生み出すことになる。語彙の豊富さと言葉の流暢さは会社の経営者として成功するための最も重要な資質であるというのは功利主義的理由のみに基づくのではない。巧みに話をすることは、すべての相互作用を豊かなものにし、またそれはだれもが身につけることのできる能力である。

 語彙についての子供の潜在能力を養う方法の一つは、ごく初期のうちに言葉遊びをさせるということである。語呂合わせや二重の意味をもつ言葉の操作は教養ある大人にとっては最も低い段階のユーモアだろうが、子供たちにとっては言葉を統制するのによい訓練の場となる。子供と会話している時に注意を集中しさえすればよく、機会があれば-----つまり無邪気な語や表現が他のものに置き換えられる時は-----直ちにその組立てを切り換え、その単語の異なる意味で理解したようなふりをするのである。

 子供たちが"having Grandma for dinner"という表現は〔haveが〕客として招くという意味でも料理として食べるという意味でも用いられることに最初に気づいた時、彼らは「喉の中の蛙」〔声がかれること〕という表現を聞いた時と同様、いくらかまごつくだろう。事実、言葉の意味についてすでに秩序づけられているものへの期待を壊すことは、最初は軽いショックを与える。しかし子供たちはすぐに意味をつかみ、会話を一捻りすることを学んで応酬するようになる。
このようにして彼らは言葉の統制の楽しみ方を身につけ、成人した後には失われた会話の芸術の再生に貢献するだろう。

 これまでに何度か述べたように、言語を創造的に用いるものの代表は詩歌である。詩は凝縮され変換された形で経験を心に保存させることができるので、意識に形を与えるのに理想的である。毎晩詩集を読むことは体に対するトレーニング器具のように-----心の調子を整えさせる働きをする。それは、少なくとも最初のうちは「偉大な」詩歌である必要はないし、詩の全部を読む必要もない。重要なことは、少なくとも心が歌い始める一行また一節を見つけ出すことである。わずか一語ですら新しい世界への窓を開き、心が内面的な旅を始めるのに十分な場合がある。

 そしてここでも受動的な消費者に留まらねばならない理由はない。わずかな訓練と忍耐でだれもが詩の中に個人の経験を秩序化することができる。ニューヨークの詩人で社会改革者でもあるケネス・コックが示したように、スラムに住む子供や老人ホームのあまり読み書きのできない老婦人ですら、最小限の訓練で美しく躍動する詩歌を書くことができる。

この能力の獲得が彼らの人生の質を変えることは疑問の余地がない。これらの人たちは、その経験を楽しむだけではなく、詩作の過程で自尊心を大きく高めることになる。
 散文を書くことも同様の恩恵をもたらす。散文は韻律や韻によって課せられる明確な秩序をもたないが、書く能力は身につけやすい(しかし偉大な散文を書くことは、偉大な詩歌を書くと同様に困難だろう)。

<以上同書p162~164から>

たいへん分かりやすく、疑問の余地のない内容だと思います。いろいろな若者と話す機会が多いのですが、彼らの語彙の少なさと、気持ちの表現の苦手さには驚かされます。

 楽しいことと楽しくないこと、快と不快という本能的な二元の世界は非常にはっきりするのですが、淡さの感覚の広がりがなく、味覚の単調さにも表れているように思います。

 時代の流れもありますが、それもよいのですが何かが違うのです。

 さらにある一定の教養をもつ若者、ハーバード大学の白熱教室@東京大学における討議に加わった若者にみる文化的な深層がことば表現の中に出てこない事実。

 総じて思うにM・チクセントミハイの言葉に耳を傾けることも必要かもしれません。

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知識の実在感

2010年09月17日 | 心理学

 心理学という学問において人の心を探究しようかとする場合に、人の行動の基盤をどのような視点においていくかが一つの重要な問題です。要は考えの基は何かということですが、その一つに行動心理学という分野があり、行動主義という立場を心理学への接近法の一つとしています。

 ここいう行動主義とはどういう意味なのか、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で「行動主義心理学」という言葉を調べてみますと、その中で

 行動主義 は心理学のアプローチの一つで、内的・心的状態に依拠せずとも科学的に行動を研究できるという主張である。行動主義は、唯物論・機械論の一形態であると考えられ、こころ-mind-の独在を認めていない。 多くの行動主義者に共通する一つの仮説は、“自由意志は錯覚であり、行動は遺伝と環境の両因子の組合せによって決定されていく”というものである。
 
と解説しています。

 この行動心理学においては、「生活体」という言葉が使われます。

 有機的に構成された生命現象を示す物質系。人および動植物の総称。有機体。

という意味ですが、要するに人・動物のことを物質的なニュアンスで表現していることが分かります。

 今朝の引用文の中に日常的に使わないこの「生活体」がいきなり出てきますので、どのような考えの持ち主が使用するのかということも含めて説明しました。
 
 行動主義に出てくる”自由意志は錯覚であり ”は、魅力的な言葉ですが言及しません。

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 私たちは外界にあるものを統合的に認識します。その時の統合とは私たち側から「あれはこうではないか」「あれはこうだ」などと感覚的に感じる細かな逸話で構成し統合していきます。

 感覚的に感じる細かな逸話とは、吟味の視点であり当然自己の経験を超えるものではありません。知識として対象物を感覚的にわかるということは経験に基づきます。

 目の前にある赤いリンゴが「リンゴ」であるためには、そのリンゴをリンゴとして知ら無ければなりません。さもなければ「赤い何ものか」ということになります。

 では外界にあるものが、他人であったならばどうでしょう。目の前にいる人とコミュニケーションをとりなさいと言われた場合、知り合いの仲ならば安心しますが、まったくの知らない人ならば緊張します。すなわち赤の他人の場合は心が落ち着かない不安定なものになるということです。

 それは当然コミュニケーションが取れていないからで、人が安心できるためにはコミュニケーションが取れていないとだめだということです。

 社会生活において対人的な問題で精神の不安定を生じる人が多いのはなぜなのでしょう。そして病が進行すると「自己認識」が薄れ「私が無い」と訴えることになります。

 今朝は精神病の話をしようというものではなく、話題を逆方向から展開しています。

 ここに「自己認識」という言葉が出てきましたが、すなわちこの「自己認識」とは何かということです。ジョージ・ハーバート・ミード (George Herbert Mead、1863年2月27日 - 1931年4月26日) というアメリカの社会心理学者。哲学者、思想史家がいます。その人の有名な言葉に

 「対象としての自我(”Me ”)は、「認識主体としての自我(”I ”)を他人の立場に置き、その他人の立場からながめた自己として発生する」

があります。他者になってみることが、自己認識の根元であるということです。
 したがって自分が自分で無くなれば、他人も自己もあったもんではありません症状になるわけです。

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今朝は次の文章を紹介します。

 もし生活体が実在認識を高めたいならば、どうしても、「視点」そのものの拡大をめざさないわけにはいかない。
 
 このような場合に、ミードが提案するように「他人の立場に立ってみる」ということが重要な役割を演じるであろう。
 
 はじめは、「自分には見えないが、他者には見えること」の存在に気付くであろう。たとえば、類人猿の生活空間でも、見張りザルが「敵」の存在を指摘した場合、たとえ自分には見えなくとも、その「敵」の実在は確実であることを知る。
 
 次に、実際の行為として、「他者の視座」に自らを移動させて、「他者の立場(物理的位置)に自分を置いて」みることによる実在の確信度を高めるであろう。

 さらに、他者の位置に自らを置くことを「イメージ」で行うことにより、実在の確かさを「頭の中で」高めることを知る。

 これが高度に発達すると、最後の認識対象である「見えざる存在=自己」へむかって、はたらきかけてくれる他者の立場に、自らを置いてみて、「自己」の存在を確かめ、自己像を形成するであろう。

 このようにして、高等ザルは、感覚情報に依存しない実在認識の高め方を獲得する。したがって、「鏡の中の自己」の実在性よりは、「鏡の前の自己」の実在性(それは決して見えないにも拘らず)を高め、その見えない自己の「見え方」を「鏡の中の自己像」から抽出するのであろう。

 つまり、「自分にむかってはたらきかける」他者の存在が、自己の存在意識を高める。

 他人の目を通して映る「自己像」が、すべて「統合」できる場合には、たしかに自己の存在感は高まっている。しかし、他人の目に映っているであろう「自己像」が、異なる他人によって、明白に矛盾してくる場合がある。その場合、わたしたちは「自己像」への統合能力を失いはじめ、何とかして「同一性」を確保しようと試みはじめる。自己に対する他人の態度に極端に敏感になり、自己をみる他人の心に、色々とペルソナ化と擬己化の活動を動員する。

 これがさらに昂じると、自己像が分裂しはじめ、実在感が失われる。こうなると、鏡のむこうの自己と鏡のこっち例の自己との実在性が、同時的に失われていく。
 
 分裂病の初期症状として、終日鏡の前にくぎづけになり、独話にふけることが、古くから観察されているが、実在感の失われそうになった自己が、必死で統合化をはかろうとする、空しい試みと解釈できるのではないだろうか。ただ、鏡の中の像は、「別の視点」からの吟味を拒否し、また、その「像」から、自己の存在性を高める「異なった視点」を提供してくれない。
 
 「吟味」はすべて(存在感覚のない)自己からの視点による吟味となり、外界の事物の存在性すら失われ、「他者の立場に立つ」ことが不可能となっていく。
 
 擬人的認識論において、最も重要なことは、単に分身を色々と流通し、活動させるだけでなく、それらをすべて、一つの実在の中に統合化し、ペルソナ化していくことであろう。
 
 今日の学校教育の中で、失われつつある「知識の実在感」の確立は、いくら強調しても足りないことである。

以上佐伯胖(さえき・ゆたか)著『イメージ化による知識と学習』東洋館出版社p129~p131から

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 今朝も相変わらずのわけのわからない文章になってしまいました。「知識の実在感」という非常に重い話ですが、要するに役立つ知識、身になる知識の付与のことと思います。

 鏡を使った実験で、二歳の幼児になると鏡に映る自分が自分であるということが認識できる、という話を最近放映された爆笑問題の「ニッポンの教養」を例にブログに書きました。

 今朝紹介した文章では「分裂症」となっていますがご存じのとおり今は、「統合失調症」という名称になっています。

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「成長と発展」と「悪い子」

2010年03月11日 | 心理学

 アメリカの心理学者のアブラハム・H・マスロー(Abraham Harold Maslow, 1908年4月1日 - 1970年6月8日)の著書に『完全なる人間 魂のめざすもの』(上田吉一訳 誠信書房)の中に「健康な悩み」の章の冒頭に次のように語られています。

健康な悩み
伝統的には、人格の間題を、望ましくない意味でとりあげている。闘争、葛藤、罪悪、やましい心、不安、抑うつ、欲求不満、緊張、養恥、自罰、劣等感、無価値感・・・・・これらはすぺて、精神的苦痛をひきおこし、効果的な動作を妨げる。しかも、御しがたいのである。したがって、当然・病気であり・望ましからざるものとみられ、できるだけ「治そう」とするのである。
 しかし・健康な人びとあるいは健康へ向って成長している人びとにも、またこれらの徴候はすべて認められるのである。もしも読者が罪を感ずべきものであるのに、感じないとしたらどうだろう。もしも、力がうまく安定して、適応しているとしたらどうだろうか、おそらく、適応や安定は、苦痛をなくすのでよいとはいうものの、また高い理想への発達を止めてしまうために、望ましくない、といえないだろうか。

エーリッヒ・フロムは、非常に重要な本(Fromm,E.Man For Himself.Rinehart 1947)のなかで、古典的なフロイトの超自我に関する考えを攻撃した。理由は、この考えがまったく権威主義的で、相対的だからである。すなわり、フロイトは超自我や良心を、本来たまたまその立場におかれた両親の願望、要求、理想の内面化されたものと考えた。だが、両親が犯罪老だったら、その場合はどのような良心をもつだろうか。あるいは、冗談に腹をたてるようた厳格な道徳をもつ父親であったら、それとも性格異常者だったら・どうだろう。なるほど、このよう良心は存在する・・・・・フロイトフは間違ってはいない。われわれの理想はおもに、幼時期にもつ人問像から得られるのであって、後年になって読まされた日曜学校の本によるものでないことは、たしかである。だが、良心にはまた別の要素もある。いま一つの形の良心といってもよいかと思うが、このようなものを、われわれは大なり小なりもっている。そして「本質的た良心」といっている。これは、われわれ自身の本性、運命、能力、使命の無意識的、前意識的自覚にもとづいている。これについては、精神的本性に忠実であるべきで、自己の弱さから、あるいは利害その他の理由でこれを拒んではならない、と強調されるのである。自己の才能をいつわり、天性の画家が靴下を売り、イソテリが愚にもつかない生活をし、真実を見ている人が口をつぐみ、男らしさを捨てて臆病者になる。これらの人びとは、みなひそかに、自分にとって間違ったことをしていると感じとり、自分をさげすむ。この自罰が神経症を生むが、しかしまた同じようにして、その後正しいことをおこなうことにより、更新された勇気、不正に対する義憤、自尊心の向上を生ずることも多い。一言にしていえぱ、成長と発展は、苦悩と葛藤を通じて生れてくるのである。

マスローは「成長と発展は、苦悩と葛藤を通じて生れてくるのである。」ことを前提に「魂のめざすもの」を欲求段階説を主張分析していきます。

 人は人生においていろいろな経験をします。偶然もあれば、必然もあります。その出会と遭遇の中で自己を成長させてゆく、これが本来の人間のあるべき姿なのだと私も思います。

 「なぜ成長しなければならないのか」この問題の方が重要だという主張する人のほうが多いかと思いますが、日ごろ接するなかで当たりまえのこの「なぜ成長しなければならないのか」ということが全く語られていないことがわかります。

 毎日の生活の中で「苦痛」と「葛藤」の材料は多種多様に示され、それに多数の人が蘊蓄を傾けます。講釈をたれる、言うといったほうがよいかもしれません。

 「なぜ成長しなければならないのか」子どもたちの本当の「魂の叫び」はここにあると思います。

 「あのような立派な人におなりなさい。」このようなことが言える親で、そのような立派人がいる世の中であってもらいたいものだと思います。

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 >「よい子」を育てる、の話の中で<

<総理大臣をやっているあの人は、「悪い子」ではなく、ただもう「無能」なのだ、と僕は思っています。>

というコメントをいただきました。
 私もそのように思いますが、この「無能」(鳩山さんには失礼な話ですが)なる者が、一国の総理大臣となることで「悪い子」になるということです。

 鳩山さんも、ある人にとってはとても「よい子」ですが、場を間違えると「悪い子」になるということです。

 これは「フレーム問題」にもどりますが、場を理解できない論議、場を理解できない存在、これが重要な課題になると思います。

 鳩山さんの場合は、いる場所が違う。典型的な例のような気がします。

 場所を間違えた「よい子」は時として「悪い子」となり、立派な人とは呼ばれないようになってしまうということです。

※ 立派は、立派であって定義をしません。折り合いの世界です。

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「制御されるべきは思考」と「ユングのタイプ論」

2010年03月06日 | 心理学

(『ユング心理学概説3「意識」C・A・マイヤー著 河合隼雄監修創元社』(図心理機能の構造)頁xiから)

 今朝あるブログを勉強させてもらっていると、著書中の言葉として掲載されている文中に次の言葉がありました。

 仏教の立場から見ると、「われは思う、ゆえにわれは正しい」という立場自体が、事実に合わないのです。人が間違った思考で犯罪を犯したり、人に迷惑をかけたり、自分自身で不幸におちいったりするならば、制御するべきなのは、思考なのです。

 「制御すべきなのは、思考なのです。」なるほど言葉に尽きるのかと納得する訳です。

 この場合「思考」と言う言葉は、「考え思うこと・考え・思案・思惟」という辞書的な意味のようです。

 確かの考えを変えることで、犯行を事前にやめることもできますし、犯行を自らの意思によって中止し、必要的減軽の恩にあずかることもできます。

 「われ思う、ゆえにわれは正しい」確かに悪しき行為、迷惑な行為は人(他人)のことを顧みず「犯罪の結果を認識し、認容し犯行に及ぶ」のですから「違法性の認識」「結果責任の責任性」さえ正しいと認識しているかもしれません。

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 「思考」とは一体なんでしょう。心理学の立場からみますと「思考」は辞書的には、

 広義には、あらゆる心のはたらきを意味し、狭義には、課題状況に対する精神機能を意味する。

ようです。そして思考には三大機能という概念・判断・推理があり、人の思考の発達面を見ますと、

 幼児期の思考は主観的、自己中心的、具体的、行動的であり、成長とともに、客観的、抽象的、概念的、論理的思考へと発達する。

と考えられています。違うと思われる方もいるかもしれませんが、一般的な辞書にはこのように書かれています。

 今回は『教育心理学小事典 共同出版』を参考にしました。

 「思考」とは人の精神機能ということは誰でも納得するところだと思います(あくまでも折り合いですが)。

 従っていろいろな心理学者が、その精神機能の解明を試みています。私は若いときから、ユング心理学(分析心理学)が好きでしたので今朝は、ユング心理学、ユングの「思考」に係わることを書きたいと思います。書くといっても専門家ではありませんので、いつものように関係書籍から拝借する方法とします。

 ユングには「タイプ論」という人間の意識を内向的、外向的に分け人のタイプを分析する方法があります。

 一般的にも「自分の性格は、内向的か外向的か、どちらだとおもいますか。」という就職試験の面接質問があります。

 ユングは心理機能として四大機能があると考えました。思考・感情・直観・感覚これがその四大機能です。この四つの機能が上記の図のような関係にありそれぞれの関係において内向・外向が対応していると考えました。

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 ユング心理学の入門書は数多くありますが、今朝引用するのは『ユング心理学入門』(C・S・ホール V・J・ノードバイ著 岸田秀訳清水弘文社)を使用します。

 同書「第五章 心理学タイプ」の「Ⅱ」に上記の四大機能の「機能」の解説です。

Ⅱ 機能

ユングの類型学において、態度と同じくらい重要なのは、心理学的機能である。                     、、
思考、感情、感覚、直観の四つの機能がある。思考とは、諸観念を結びつけ、一般概念またに問題解決に達する機能である。つまり、ものごとを理解しようとする知的機能である。
 、、
 感情とは、評価の機能であり、ある観念が快い感情を起こさせるか、不快な感情を起こさせつかによって、その観念を受げ入れたり、はねつけたりする。
 、、
 思考と感情は合理的機能であると言われるが、それは、両機能が判断行為を必要とするからである。思考においては、二つまたはそれ以上の観念のあいだに真のつながりがあるかどうかが判断され、感情においては、ある観念が、快いか不快か、美しいか醜いか、おもしろいか退屈かが判断される。
 、、
 感覚とは、感官知覚であって、感覚器官の刺激によって生み出されるすべての意識的経験----視覚、音、嗅い、味、触覚、ならびに体内感覚----を含んでいる。直観とは、思考や感情の結果生ずるというよりむしろ、直接的に与えられる経験であるという点では、感覚に似ている。判断は必要でない。直感が感覚と異なるのは、直観をもつ当人が、それがどこからきたのか、どうやって生じたのかを知らない点である。直観は、「どこからともなく」現われる。感覚はすべて、刺激の源泉を指摘することによって説明できる。「歯が痛い」とか「鯨が見える」とか。が、何か起こりそうだという直観あるいは虫の知らせがある場合、どうしてわかったかとたずねられても、「何となくそんな気がする」とか「とにかく、そうなのだ」としか答えられない。直観は、第六感または超感覚的知覚とも呼ばれる。
 
 感覚と直観は、理性を必要としないので、非含理的機能であると言われる。この両機能は、個人に作用する刺激の流れから発達する心的状態である。この流れは方向あるいは志向性を欠いており、思考や感情がもっているような目標をもっていない。何を感覚するかは、現在の刺激に左右される。虫の知らせは未知の刺激にもとづいている。ユングの言う「非合理的」とは、理性に反するという意味ではない。感覚と直観は、理性と関係がないだげである。いわば、無理性的、無判断的である。
 
 ユングは四つの機能を次のように簡明に定義した。「この四つの機能的タイプは、意識が経験に対するその方向づけを獲得する四つの手段に対応している。感覚(感官知覚)に何かが存在していることを知らせ、思考はそれが何であかかを知らせ、感情ばそれが快いか不快かを知らせ、直観はそれがどこからきて、どこへゆくかを知らせてくれる」(『人間と象徴』河合隼雄ほか訳、河出書房新杜、一九七二年)。

 それぞれの機能の特徴は、それが外向性と結びつくか、内向性と結びつくかによって違ってくるので、あり得べき八つの組合わせを別々に論ずる必要がある。

 上記に<(『人間と象徴』河合隼雄ほか訳、河出書房新杜、1972年)。>の引用があります。これについては「信濃大門日記別室」に記載しました。

次に「Ⅲ」として上記の八つの組み合わせついて書かれています。

Ⅲ 態度と機能の組合わせ

 外向的思考は、感覚器官の刺激によって脳に提供される情報を利用する。思考過程を活動させる対象は、外界に存在している何ものかである。われわれは、どのようにして種子が発芽し、植物に成長するのか、なぜある温度まで熱すると水は蒸気になるのか、言語はどのようにして学習されるかを説明しようとする。多くの人は、これが思考の可能な唯一のタイプであると思っているが、そうではないと、ユングは言う。主観的に思考する内向的思考というものもある。もっぱら外界から生ずる事柄について思考するのではなく、内的な心的世界について思考するのである。内向的思考考は、観念そのもののゆえに観念に興味をもっていると言い得よう。彼が外界を探求するのは、自分の観念を裏づける事実を見つけるためであろう。科学では、これは演繹的思考と呼ばれる。それと対比されているのが、観念、仮説または概念が事実の情報にもとづいて形成される帰納的思考である。内向的思考は、観念が外界と関係があるかどうかにかかわらず、観念について反芻しつづける。
 
 外向的思考は、より実践的または実際的である。彼は間題解決者である。
 外向的感情は、外的または客観的規準に支配されている。たとえば、あるものを、それが伝統的な既存の美的規準に一致しているか否かによって、美しいとか醜いとか感ずる。そのため、外向的感情は因襲的、保守的になりがちである。内向的思考と同様、内向的感情は、内的または主観的条件----とくに、太古類型から生ずる原始的イメージ----によって惹ぎ起こされる。これらのイメージは思考でもあり、かつ感情でもあるから、思考が優勢であれば内向的思考が生じ、感情が優勢であれぽ内向的感情が生ずる。内向的感情は独創的、非日常的、創造的なものになる傾向がある。一般通念とずれているので、ときには奇異に見える。

 外向的感覚は、個人がどのような客観的現実に直面しているかによって決定される。内向的感覚は、特定の時点におげる主観的現実によって決定される。知覚は、ある場合には、対象を直接表わしており、ある場合には、精神状態にひどく影響され、精神のなかのどこかから現われてきたように見える。

 外向的直観はあらゆる客観的状況の諸可能性を発見しようとしており、外的対象に新しい可能性を絶えず求めつづげている。内向的直観は、心的現象の諸可能性、とくに太古類型から生ずるイメージを探し求めている。外向的直観は対象から対象へと移り、内向的直観はイメージからイメージヘと移る。
 
 さてこれから、態度と機能との組合わせが個人の行動バターソに意識的にどのように表現されるかを考察してみよう。この個人的表現がユソグの類型学を構成しており、それによれば、人間には八つのタイプがある。われわれも、ユングがやったように、さまざまなタイプの極端例を説明するが、もちろん、それぞれのタイプにいろいろな程度の差があることを忘れてはならない。

さらに、解説は極端例を説明していきますが、今朝は「思考」を中心としますので、次の「外向的思考タイプ・内向的思考タイプ」のみを掲載します。

A 外向的思考タイプこのタイプの人は、客観的思考を生涯の支配的情熱の位置に高めている。このタイプの典型は、客観的世界についてできるかぎりたくさん学ぶことに全身全霊を打ちこんでいる科学者である。自然現象の理解、自然法則の発見、理論構成が彼の目的である。外向的思考タイプのもっとも発達した者は、ダーウィンやアィンシュタインのような人である。外向的思考者は、自分の性質の感性的側面を抑圧しがちなので、他の人々には、人間的暖かさに欠げ、冷酷で、傲慢とさえ見えるかもしれない。

 抑圧があまりにもきびし過ぎると、感情は横道にそれざるを得ず、偏った、ときには異常な性格ができあがる。彼は、独裁的で、頑固で、見栄っぱりで、迷信的で、批判を受けつけないかもしれない。感情を欠いているので、彼の思考は、不毛で貧困なものになりがちである。その極端な例は、ときどき精神病質的化物に変身するジギル博士、「狂った科学者」である。

B 内向的思考タイプこのタイブの者の思考は内側へ向いている。自分自身の存在の現実を理解しようとする哲学者や実存心理学者はその典型である。極端な場合には、彼の探究の結果は現実とほとんど関係がないであろう。彼は、ついには現実とのつながりを絶ち、精神分裂病になるかもしれない。彼は外向的思考タイブと同じ性格特性をたくさんもっている。それは同じ理由からである。つまり、無意識のなかへ抑圧した感情から自分自身を守らねばならないからである。彼は、無感動で、よそよそしく見える。人間に価値をおいていないからである。彼は、自分と同じタイプの少数の熱心な信奉者をもっているかもしれないが、自分の考えを人々に認めさせることに別に関心があるわげではない。彼は、かたくなで、強情で、思いやりがなく、傲慢で、意地悪で、冷淡なことが多い。このタイプが強められると、ますます思考は、抑圧された感情機能の突飛で異常な影響にさらされる。

このように「思考」を中心にしたタイプの心理分析がされる訳です。

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 「制御されるべきは思考」という場合に上記を知っていると知らないでは大きな違いがあると思います。

 しかしこれはユング心理学、嫌いな人、考えが異なる人には全く意味をなしません。

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